【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域 モーガン】
旧同盟のタナトス星系のさらに外れ。
名もない小惑星帯とガス雲が迷路のように渦を巻く一帯だった。
星図には「ステュクス宙域」とだけある。
航路の要から外れ資源もなく、誰も欲しがらない忘れられた辺境。
だからこそ、そこは巣に向いていた。
モーガンは旗艦の古びた艦橋からその岩の海を見下ろしていた。
かつては同盟軍の少佐だった。
艦隊運用の課程を真面目に修めた男だ。
だが仕えていた国がある日、消えた。
自由惑星同盟という国家が滅んだとき、恩給も年金も遺族扶助も支払う相手ごと消えてなくなった。誰かに奪われたのではない。ただ払う国がこの宇宙のどこにもいなくなっただけだ。
新帝国は旧同盟の軍人を殺しも罰しもしなかった。
武装を解いて放り出した。それを寛容と呼ぶ者もいる。
放り出された側は別の言葉で呼んだ。
食うために彼らはもう一度武器を手に取った。誇りのためでも旗のためでもない。
ただ腹が減っていたからだ。
「巣穴があるかぎり、俺たちは死なん」
それがこの十年でモーガンが手に入れたたった一つの兵法だった。
討伐隊が来れば正面から当たらず岩の迷路へ散る。
追手が根負けして引けば、ほとぼりの冷めた頃また集まる。
殲滅されない。雲のように散ってまた集まる。何度もそうやって生き延びてきた。
だがこの数か月、様子がおかしかった。
辺境の交易路にいつのまにか帝国の小さな補給拠点が据えられていた。
民間航路を「保護」するのだという。掃討でも追撃でもない。ただ、そこにある。
はじめは気にも留めなかった。だが獲物を狩りに出ると狩れなくなっていた。
護衛のつく船が増え、丸腰の交易船がめっきり流れてこない。
蓄えは日ごとに底をつく。
モーガンはその拠点を睨んだ。叩けば早い。
だが拠点に手を出せば帝国が本気で軍を寄越す口実になる。それだけは避けねばならなかった。
籠って飢えるか、出て狩るか。
盤面にはその二つしか手が残っていないように見えた。
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域・帝国討伐艦隊 リヒター】
辺境の海賊はこれまで幾度討伐されても、そのたびに岩の海へ散り、ほとぼりが冷めればまた集結した。
正面から叩く従来の掃討では詰められない。
そこで帝都の統帥本部は毛色の違う三人の若い尉官を、それぞれの持ち場からこの辺境へ呼び集めた。
いずれも士官学校の同期。
次代の帝国軍を担うと目される二十二、三歳の俊英である。
一人はアルブレヒト・フォン・ミュッケンベルガー大尉。
旧帝国軍の宇宙艦隊司令長官で元帥を祖父に持つ武門の名家の生まれである。
士官学校を総代で出ながら花形の参謀職でなく兵站科を選んだ変わり種で、陰では「
だが盤面を読ませれば同期に並ぶ者がなく、その本領は敵を枯らして膝をつかせることにあった。
そもそもこの辺境の交易路の補給線を預かっていたのが彼だった。
海賊が食い扶持を略奪に頼るならそれは兵站の問題だ、と彼は考えた。
ならば略奪の源を断てば海賊はおのずと干上がる。
掃討を「戦」でなく「兵站の詰め」として設計し直した献策が上に容れられた。
絵図を描いた者が、盤を読む。若い大尉が老将の掃討で頭脳の席に着いているのはそういう理由だった。
「番頭」アルブレヒトは姓を持たぬ男のように振る舞う。
軍録に登録された公式の呼称は姓の「ミュッケンベルガー」でなく、名の「アルブレヒト」だけである。任官早々本人が呼称登録の申請を出し、通してしまったのだ。
表向きの理由はいかにも実務的だった。
「ミュッケンベルガー」という四音は戦闘通信には長すぎる、同音の姓が同じ戦域に複数あるときは名で呼び分けてよい、という旧帝国以来の古い称呼登録規定まで彼はちゃんと引いてみせた。
「戦場では、一音が命取りになります」と大真面目な表情で軍にかけあった。
受理する側にとっても悪い話ではなかった。
新帝国軍の名簿に旧帝国の大元帥の家名が燦然と居座るのは、軍にとってどこか居心地が悪いのだ。
その名がひっそり「アルブレヒト」の文字に収まってくれるなら、むしろ願ったり。
書類はあっさり通ったという。
もっとも本当の理由は別にあった。
「ミュッケンベルガー」と呼ばれるたび周りが一斉に祖父のグレゴールのほうを思い浮かべ、ギョッとする。あの空気が面倒なのだ。
捨てたわけではない。問われればけろりと答える。
「戸籍は、そのままですよ」。名を捨てもせず、名に縛られもせず、ただ自分の名で立つ。
この気だるげな男のたった一つの譲れぬ流儀だった。
二人目はチェンイー・シェパード大尉。
同盟風の氏名からもわかるとおり、旧自由惑星同盟の星系出身の混成移民の子である。
同盟が滅んだとき、まだ物心もつかぬ子供だった。
帝国の軍服を着てなお同盟風の名を一度も改めていない。
誰にも改めろと言われなかったからだ。
陽気でよく笑い、よく礼を言う。損傷艦を「うちの子たち」と呼ぶ。
その職分は崩れた戦線を拾い、味方を一人残らず連れて退く、
士官学校では旧同盟公用語で「羊飼い」を意味するその苗字から、帝国語風に「
今回呼ばれたのはこの作戦の詰めが「敵を釣り出す」一手を要したからだった。
三人目はレオンハルト・リヒター大尉。
帝国本土の代々の下級軍人の家の出である。
名門でも成り上がりでもなく、勤勉と規律だけを頼りに立つ男だった。
生真面目で融通が利かず、軽口を叩くアルブレヒトとシェパードの二人に「貴官ら、しっかりせんか」と青筋を立てて怒鳴ってはいなされる。
士官学校でついたあだ名は
その職分は寸分の隙もない陣を組んで敵を封じること。逃げ場を、幾何学で塞ぐ。
枯らす者、釣る者、封じる者。
三つの職能が揃わねばこの詰めは成らない。
三人がこの一戦で初めて轡を並べたのはそういう理由からだった。
三人を隷下に束ねるのは掃討部隊を預かる分艦隊司令、フォクツ少将。
アルブレヒトの描いた絵図を容れ、若い三人に存分に腕を振るわせる度量のある堅実な将だった。
そしてその一段上、この辺境方面の平定を統べる指揮官として、一人の猛将が控えていた。
ただし詰めの最後に突撃の一撃が要るとなれば、話は、別だった。
***
討伐隊旗艦の作戦室で、「鉄面」リヒターは腕を組んでいた。
その隣で、「番頭」アルブレヒトが盤面を睨みながら盛大なあくびをかみ殺す。
「あの連中の蓄えはあと十日で尽きます。確率、八割五分。飢えれば籠るか出るかの二択に追い込まれる。籠ればそのまま干上がる。出れば、一網打尽です」
「算盤の計算だけで戦が済むか」
鉄面のリヒターの声は硬い。
「敵は数百隻。散って、集まるのが奴らの手だ。出てきたところで、散り散りになってまたどこかへ逃げ込まれれば元の木阿弥だぞ」
「だから、そのためにバラバラに逃がさない役目の人がちゃんと来ているでしょう」
アルブレヒトが顎をしゃくった。
その先で、「羊飼い」シェパードが損傷艦のリストをめくってはうんうんと頷いていた。
「大丈夫、大丈夫。うちの子たちはまだまだ働けます」シェパードは屈託なく笑った。「釣り出しは俺に任せてくれよ。追いたくなる背中の見せ方ならそこそこ自信がある」
三人のやり取りを分艦隊司令フォクツ少将は口を挟まず眺めていた。アルブレヒトの絵図に乗ると決めた以上、あとは若い三人に存分に振るわせる。それがこの堅実な将の流儀だった。
――と、その作戦室の扉が前触れもなく荒々しく開いた。
「ここに噂の脚立があると聞いてな!」
飛び込んできた巨躯にフォクツ少将がはじかれたように立ち上がり、三人の大尉も慌てて姿勢を正す。
この辺境方面の平定を統べる司令長官、ビッテンフェルト元帥その人だった。
実務は将官に任せ、ふだんは旗艦
「そのまま、そのまま」少将の敬礼を鼻で流し、元帥は三人を無遠慮に見下ろした。
「三分の一人前が三人寄って、ようやく一人前。三本まとめて一つの脚立、
突撃あるのみの猛将にとって、枯らして待つだの退き際がどうだのという理屈はじれったくてかなわない。だがじれったいものほどこの目で確かめたくなるのが、この男だった。
「
「華はありませんが、三脚がなければ大砲も測量機も立ちませんからねぇ」
「ふん。減らず口だけは大したものだ。さすが、ミュッケンベルガーの――」
「その名は、およしください」アルブレヒトがめずらしく言葉をかぶせた。あくびの余韻はもう消えている。
「祖父の名で呼ばれると、勘定が合わなくなります。……あれは祖父の負債で、ボクの資産ではありませんので」
ビッテンフェルトが意外そうに片眉を上げた。それから愉快そうに喉を鳴らす。
「面白い若造だ」
言い捨てて、来たとき同様風のように出ていった。
詰めの最後の一撃はおれが自分の目で見て、自分の手で打ち込む。そう言い残して。
扉が閉まると、「鉄面」リヒターの青筋がこらえかねたように一本増えた。
「貴官ら、少しは緊張感を持たんか!あろうことか、元帥閣下に減らず口を叩きおって……。いいか、我々のような凡人が次の時代の帝国を支えねばならんのだ。なのに、なぜそう笑っていられる」
その声には小言の体裁を借りた本物の焦りがあった。
英雄なき時代をこの三人の中で彼が一番恐れていた。
だから彼は笑う代わりに規律という仮面を必死に被っていた。
「まあまあ、リヒター」シェパードがへらりと笑ってその肩を叩く。
「怖いから笑うんだよ、俺は。殿を任された指揮官が暗い顔をすりゃ、艦隊が総崩れになる。だから笑う。お前とは仮面の色が違うだけさ」
リヒターは何か言い返そうとして口をつぐんだ。
盤面ではちょうど飢えた海賊の巣が身じろぎを始めたところだった。
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域・帝国討伐艦隊 シェパード】
痛んだ輸送船団が護衛も薄く、ステュクス宙域の縁をのろのろと横切っていく。
いかにも狩ってくださいと言わんばかりのうまそうな獲物だった。
「餌が上等すぎやしないか」旗艦の艦橋でシェパードは自分の仕込んだ囮を眺めて少し笑った。
「あんまり露骨だと、勘のいい奴には見抜かれる。あのモーガンとかいう頭目、元は同盟の士官だそうだ。馬鹿じゃない」
だが飢えは勘に勝る。
モーガン一人ならこの餌は見送っただろう。露骨すぎる、と。
だが彼の艦には三日後の糧食を持たぬ者たちがいた。指揮官は己の勘だけで部下を飢えさせておくわけにはいかない。
蓄えの尽きかけた海賊の主力が巣穴からじわりと這い出してきた。用心深く、しかし確実に囮の船団へと寄っていく。
「よし、来た」シェパードの目がふっと据わった。軽い声のまま、その底だけが鋭く沈む。
「――さあ、ここからが本番だ」
囮の船団が慌てたように逃げ出す。海賊が追う。
シェパードの部隊がそれを助けるふりをしてじりじりと後退する。
追いたくなる、絶妙な退き方だった。
だが囮は芝居ではない。逃げる船には生きた乗員が乗っている。
海賊の照準がその一隻へ、予定より深く食い込んだ。
一瞬、シェパードの顔からあの軽い笑みが消えた。
退き際を半秒でも誤れば、うちの子が本当に沈む。
……だが彼はすぐにまた笑った。
殿を預かる者が暗い顔をするわけにはいかない。
海賊は乗ってきた。だが、まだ足りない。
巣穴から充分に離れた致命的な距離まで――あと一歩、深く。
そのときシェパードは通信士に妙な命令を出した。
「全周波数、開けてくれ。味方にも敵にも、まるごと聞こえるように」
「は?」
「いいから」
シェパードは大きく息を吸った。
そして艦隊全体に向かって高らかに叫んだ。
「全艦、逃げろ!」
一瞬、艦橋がしんと静まり返った。
味方の通信士官たちが一斉に椅子からずり落ちそうになった。
逃げろ、とは。この押しているさなかに。
『貴様ァーーッ!誰が逃げるかァ!この黒色槍騎兵に向かって、逃げろだと!』
別回線でビッテンフェルトの怒声が鼓膜を破らんばかりに轟いた。
『……シェパード。貴官、ついに気がふれたか』心底呆れ返ったリヒターの声が続く。
そんな中でただ一人。
『――ああ、なるほど』
アルブレヒトの気だるげな声が面白がるように弾んだ。
『敵が勝手に勘違いしてくれましたね。帝国の指揮官が恐慌して逃げ腰になった、と。……これで詰みですよ』
盤面では海賊の群れが獲物を前に逃げ腰になった帝国艦隊、という光景に目の色を変えていた。
好機だ。逃がすな。追え。
飢えた狼たちは我を忘れて囮を追い、逃げる帝国艦隊を追い、そして巣穴から取り返しのつかない距離まで一気に突出した。
「ほら、来た」シェパードがぽつりと言った。
それから決まり悪そうに頭をかいた。
「すみません、皆さん。旧同盟軍には逃げることを一つの芸術にまで昇華してしまった、とんでもない人がいたそうで。俺も一度真似してみたかったんですよ」
半分は狙いどおり。もう半分は、ただ言ってみたかっただけ。
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域・帝国討伐艦隊 ビッテンフェルト】
待たされた分だけ猛将の突撃は凄まじかった。
「今度こそ、おれの番だなァ!」
ビッテンフェルトの黒色槍騎兵が突出した海賊主力の無防備な横腹へ、槍のごとく突き入った。
橙色の弾幕が岩の海を焼く。海賊の陣形がたちまち引き裂かれ、めくれ上がる。
「逃げろ、だと?ふん!おれの黒色槍騎兵から逃げられるのは、地獄への一本道だけよ!」
怒声の大きさだけは昔と変わらなかった。
ただその一喝を放ったあと、ビッテンフェルトはほんの一度だけ誰にも見せぬよう息を整えた。
若い三人には聞かせぬ息だった。
痛烈な一撃を食らって、海賊たちは反転した。
もはや囮どころではない。
命からがらいつもの巣穴へ、散って集まるためのあの岩の迷路へ逃げ込もうとする。
そこまではモーガンの読みの内だった。
叩かれたら巣へ帰る。そうやっていつも生き延びてきた。
ビッテンフェルトの派手な猛攻に敵味方の目がことごとく吸い寄せられている。
――その隙に。
海賊たちが我先にと逃げ帰った巣穴の入口は既に閉じていた。
いつのまに、と誰かが思う暇もなかった。ビッテンフェルトが正面で暴れ回っている間に、リヒターの封鎖隊が音もなく小惑星帯の裏側へ回り込み、出口という出口に寸分の隙もない封鎖の陣を敷き終えていたのだ。
冷たく、完璧な鉄の壁だった。
前は猛攻。後ろは鉄壁。
そして蓄えはとうに尽きている。
封鎖線の一角で若い艦長が、目の前でひしめく海賊船に思わず砲門を開きかけた。
「撃つな!」リヒターの声がそれを刺した。
「一発でも撃てば、詰みが崩れる。無血で獲れる盤を、貴官の指一本で血の海に変える気か」
若い艦長は蒼白になって指を止めた。息が詰まるほどの冷たい統制だった。
「逃がさん」
封鎖陣の中央でリヒターは低く言った。
青筋の生真面目な男の顔に、このときばかりはかすかな会心の色があった。
「凡人でも、これくらいはできる」
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域 モーガン】
モーガンは閉じた出口を呆然と見つめていた。
盤面に、手がなかった。
前へ出れば黒色槍騎兵の突撃に磨り潰される。後ろへ引けば鉄の封鎖陣に串刺しにされる。籠ろうにも巣穴はもう塞がれ、蓄えは一粒も残っていない。
指せる手が、一つもない。
彼はこの数か月を順を追って思い返した。
補給拠点が獲物を枯らした。飢えたから出た。出たら恐慌したふりの艦隊に釣られて深く突出した。突出したから猛攻を食らって、巣へ逃げた。逃げ帰ったら、扉が閉じていた。
一つ一つの判断はどれも正しかったはずだ。
少佐まで務めた男として、盤面を見て最も損の少ない手をその都度選んできた。
なのにその正しい手を順に指していくと、いつのまにか逃げ場のないこの一点へと追い込まれていた。
はじめの、あの地味な補給拠点。あれが最初の一手だったのだ。
あそこから全部が「逃がさない」という、たった一本の道だった。
自分は愚かだったのではない。ただ盤面で、負けたのだ。
モーガンは長いあいだ目を閉じていた。それから掠れた声で通信士に命じた。
「……全艦に伝えろ。武装を捨てよ、と」
「頭目!降伏など、できるか!」通信の向こうで若い海賊が叫んだ。
モーガンは静かに答えた。
「もう、国のために死ぬ時代ではない。俺たちは十分に戦った。……もう、腹が満ちる道を選べ。それが、生き残った者のせめてもの筋だ」
これ以上、部下を犬死にさせたくはなかった。
一発の無駄な砲火もなく、海賊たちは盤の上で静かに詰んだ。
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域・帝国討伐艦隊 シェパード】
投降した海賊の数ははじめの見積もりを大きく上回った。
殺すつもりで臨めば、半分は死んでいたはずの数だ。
だがアルブレヒトのはじく算盤ははじめから殺す盤ではなかった。
逃がさず、飢えさせ、退路を塞ぎ、指せる手をなくして投降させる。
死者は両軍あわせて驚くほど少なかった。
「計算を誤ると、人が死にますからねぇ」アルブレヒトはあくびをかみ殺しながらそう言っただけだった。
問題はそのあとに残った。
巣穴の周りの辺境の集落。
そこの民が海賊に食糧や燃料を融通していたことが調べで分かった。
規則どおりなら、敵への協力者として罰せられる立場である。
「罰しちゃ駄目だ」真っ先にシェパードが言った。
「あいつら、断れば殺されたんだよ。銃を突きつけられて、有り金と食い物を出しただけの被害者だ。それを今度は帝国が罰するのか?」
「損得で言っても、罰するのは下策ですねぇ」アルブレヒトがそろばんを弾くように続けた。「あの辺境を敵に回して警備兵を張り付けるより、味方につけて『次に海賊が来たら通報しろ』と言うほうがずっと安く上がります」
二人の視線が自然とリヒターへ向いた。
規律の男が、何と言うか。
リヒターはしばらく黙っていた。
「……情も損得も分かる。だが、それだけでは理屈は通らん」
リヒターは書類の束を卓の上に、とん、と揃えた。
「強要下での協力は、法に定める敵性協力には当たらない。そう訓令に書く。次に来る指揮官が別の気分で村を焼かぬようにな」
鉄面は続けた。
「単なる情けは、気まぐれにすぎん。遍く適用される法にはならん」
シェパードがにっと笑った。
「やっぱりお前がいないと、締まらないな」
「当然だ」
リヒターはふん、とそっぽを向いた。
だがその口の端がほんの少しだけゆるんでいた。
投降兵の武装解除と所持品の検分が淡々と進められていた。
その一つをシェパードは何気なく手に取った。
海賊の一人が後生大事に懐へ入れていた、擦り切れた一冊。
旧同盟の市民配給手帳だった。
もう存在しない国の、もう意味をなさない配給の記録。
頁の隅にはたどたどしい字で子供の名らしきものがいくつか書き添えてある。
孤児院の名札の切れ端も挟まっていた。
シェパードはそれをしばらく見ていた。
旗のために戦った男たちではない。
国が消えて、食うために堕ちた者たちだ。
同じ国が消えた日に、片や海賊となり、片や帝国の軍服を着た。
その分かれ道がどこにあったのかを彼は言葉にできなかった。
何も言わず、シェパードはその手帳をそっと元の懐へ戻した。
***
【新帝国暦十四年 辺境ステュクス宙域・帝国討伐艦隊 リヒター】
掃討はほぼ無血で終わった。
帝都へ送られた報告書には地味な四手が並んだだけだった。
兵站封鎖、囮による誘引、突撃、封鎖。派手な会戦の華々しさはどこにもない。
帝都の軍務省で報告を受け取った書記官はそれが戦史に残る詰め手であったことなど知る由もなかった。ただ整理簿に「辺境海賊討伐、完了」とだけ記し、次の書類へ手を伸ばした。
後世の戦史家が後に幾頁も研究に費やした「帝国軍の三脚架」による初の共同作戦は、その日、軍務省の整理簿では一行半で済まされた。
だがその地味な四手が一つの見事な詰めであったことを、後になっていくつかの目が見抜いた。
黒色槍騎兵の司令官は次の大作戦の前、周囲にこう怒鳴ったという。
「またあの三本をおれのところへ寄越せ!……脚立がなくては、黒色槍騎兵の穂先とて、床に置けんからな!」
「帝国軍の
その蔑称はこの一戦を境に、少しずつ意味を変えていった。
三本揃って一つの脚立、という揶揄から、「番頭」「鉄面」「羊飼い」の三本が揃えば、決して倒れぬ柱となる、という畏れへと。
英雄たちの時代は確かに終わったのだ。
だが天才が一人で銀河を薙ぎ払う代わりに、凡人が三人、脚を寄せ合って立つやり方もこの宇宙にはあるらしかった。
なお、この掃討を遠い辺境のどこかでひそかに喜んだ者がいたことを。
商売敵の海賊が消えて、辺境の物流がまた一つ己の手の内へ転がり込んだと嗤った者がいたことを。
帝国軍が知るすべもなかった。