銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第九話 毒杯

【新帝国暦十四年 帝都星レーヴェンシュテルン 獅子の泉・大広間 アレク】

 

 

襟が、きつい。

 

アレクは、そのことを考えないようにしていた。

式典の正装は、幼年学校の制服よりずっと重く、首まわりだけが妙に硬い。

式部官が丁寧に留めた金具は、一度留めてしまえば自分では外せなかった。

皇帝の服とは、そういうものらしい。

 

春の叙勲式である。

 

辺境の警備任務で功のあった二十七名が、この日、大広間の床を踏んだ。

 

昨夜、アレクは叙勲名簿を三度読んだ。

読みながら、右の余白に小さな印を入れていった。

誰にも見せない、アレクの癖だった。

弔うためでも、憶えるためでもない。

 

ただ、名を読み飛ばしたくないだけだ。

名前というものは、目が滑る。

滑らせないためには、視線を止めるための場所が要る。

上着の内側に、母からもらった小さな万年筆がある。

父の遺品は、ひとつも持っていない。

持てば、頼る気がした。

 

玉座の左手に摂政皇太后ヒルダが座し、右手に元帥たちが並んでいる。

宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤーの蜂蜜色のやや癖のある髪と、軍務尚書ケスラーの静かな長身。

少し離れて、ビッテンフェルトが退屈そうに顎を上げていた。

 

三歩うしろに、御学友として陪席を許された二人の少年が控えている。

フェリックス・ミッターマイヤーは、退屈と緊張を半分ずつ顔に浮かべていた。

クライン・ヴァルターは、何も浮かべていなかった。

ただ、広間の柱と扉と人の数を、順に目で撫でていた。

この少年はいつもそうする。

 

 

叙勲は滞りなく進んだ。

アレクは一人ひとりの名を呼び、勲章を渡し、短く言葉をかけた。

二十七人のうち十九人が辺境の出で、三人が旧同盟領の生まれだった。

昨夜、名簿の余白につけた印の位置を、アレクは全部憶えていた。

 

「シュヴァルツ大尉。ヴァンフリート星域の航路は、まだ荒れているか」

 

「は。ようやく落ち着きましてございます、陛下」

大尉は驚いた顔をした。

自分の任地の名を、十一歳の皇帝が口にしたことに驚いたのだ。

アレクはそれに気づき、少し困った。

憶えているのはただの癖だ。

感じ入られるような徳などではない。

 

 

叙勲が終わると、献盃(けんぱい)の儀に移る。

皇帝が杯を受け、口をつけ、勲を受けた者たちがそれに倣う。

 

ただの形式である。

先帝の時代に定められたものでもなく、宮内省の誰かが古い書物から拾ってきた作法だと、アレクは知っていた。

それでも彼は、この儀式が嫌いではなかった。

誰かと何かを分け合うかたちをしているからだ。

 

アレクは、供されたものを残したことがない。

残すのは、供した者に対して失礼だと思っている。

十一歳の皇帝が持つ礼儀のなかで、それは最も素朴で、最も直しにくいものだった。

 

 

ただ、この日、その礼儀は、彼を殺しかけた。

 

献盃の酒は、儀の前に検食官が(あらた)める。

壺から取り分けた酒を、検食官が自ら口に含み、四半刻を待つ。

異状がなければ壺に封をして、盆に載せる。

検めるのは、酒だった。

杯では、なかった。

 

銀の盆が運ばれてきた。

運んできたのは細身の下級官吏で、白い手袋をしていた。

アレクはその男の顔を見なかった。

見るべきは杯であり、見られるべきは皇帝であり、儀式とはそういうふうにできている。

 

男が膝を折る。

盆の上で、杯が微かに鳴った。

 

アレクは手を伸ばした。

 

「陛下」

 

声は、三歩うしろから来た。

低い。よく通る。慌ててはいない。

だが、儀式のあいだ従者が声を発することは、ありえなかった。

広間の空気が、一斉に固まった。

アレクの指は、杯の縁に触れたまま止まっていた。

振り返らなくても分かる。クラインだ。

 

「その杯には、決して口をつけられませんよう」

 

あとで、アレクは何度もこの瞬間を思い返すことになる。

クラインは、なぜと言わなかった。

危ないとも、毒だとも言わなかった。

ただ、してはならぬことを一つだけ名指した。

あの声には、確信だけがあった。

 

そして、下級官吏の手が、動いた。

 

銀の盆が、鳴った。

白い手袋が、盆の下へ滑る。

フェリックスが、跳んだ。

 

アレクの視界の端を、黒い影が横切った。

 

それは彼の学友であり、十二歳の子供である。

およそ大人の男を止められる体格ではなかった。

 

だがフェリックスは、男を止めようとしたのではなかった。

腕を止めたのだ。

 

盆の下から出てきた、

細い刃を握った、その手首だけを。

 

二人が床に落ちた。

銀の盆が跳ね、杯が転がり、酒が大理石の目地を黒く濡らした。

 

男が身をよじる。

刃がフェリックスの左の掌を滑り、血が白い袖口を汚した。

フェリックスは離さなかった。

 

近衛(このえ)兵が三人がかりで男を押さえつけたのは、それから二呼吸のあとだった。

 

この広間に、刃はないはずだった。

皇帝の御前で武器を帯びることを許されるのは、近衛だけである。

元帥の腰にも、宮内省の高官の腰にも、何もない。

それがこの城の作法だった。

 

作法は、破られていた。

悲鳴も、どよめきもなかった。

 

あるのは、二十七人の勲功者と、三人の元帥と、一人の摂政が、息を止めている音だけだった。

 

 

「ゴールデンバウムの血に、栄えあれ!」

押さえつけられた男が、床に頬をつけたまま叫んだ。

 

「フォン・ヴァルトハイム家の名において、簒奪者の子に、報いを――」

近衛が男の口を塞ぐ。声はそこで途切れた。

 

「おのれ曲者め!」

ビッテンフェルトの声だった。

 

一歩前へ出て、床に押さえつけられた男を見下ろす。

腰に佩くものは何もない。彼はただ拳を握った。それだけで、十分に凶器に見えた。

 

「陛下。その者を憲兵隊へ。半刻もいただければ、洗いざらい喋らせてご覧に入れましょう。誰に飼われ、どの家の銭で動いたのか。……鼠は一匹では巣を作りませぬ。巣ごと燻し出すものにございます」

 

誰かが同意の声を上げた。

 

宮内省の高官が、旧門閥に連なる家々の洗い出しを、と早口で言った。

誰かが名簿という言葉を口にした。

 

摂政ヒルダは、何も言わなかった。

座したまま、肘掛けに置いた手だけが白くなっていた。

彼女は息子を見ていた。答えを代わりに出そうとはしなかった。

 

アレクは、床の男を見ていた。

押さえつけられ、頬を大理石に押しつけられて、それでも男は目を開いていた。

憎しみの目ではなかった。

恐れの目でもなかった。

 

何かをやり終えた者の目だった。

 

その顔を見ながら、アレクは思っていた。

 

この人は、なぜ。

 

訊きたかった。訊いてはならないと分かっていた。

皇帝が、自分を殺そうとした男に理由を訊けば、裁きの前に情を挟むことになる。

分かっていて、なお、彼は口を開きかけた。

 

――一呼吸。

その一呼吸を、アレクは自分で恥じた。

父上なら、と思いかけて、すぐに口から出かけた問いを打ち消した。

 

「生かしておけ」

声は、思ったよりも平らに出た。

「傷つけてはならない」

 

「陛下」

 

 

アレクは答えなかった。

いや、答えられなかった、というほうが近い。

この者を傷つけてはならないと思った理由を、彼はまだ言葉にできない。

ただ、大理石に押しつけられた頬が痛そうだと思っただけだ。

皇帝が思うことではなかった。

 

 

「審理を尽くせ」

アレクは床の男から目を離さずに言った。

「この者が誰で、誰に雇われ、何を欲したのか。すべて調べよ。名乗った家に、本当にこの者が仕えていたのかも調べよ。拙速に裁く前に、証拠の調べを尽くせ。……証拠と、裁きは、違う」

 

誰も、すぐには動かなかった。

ビッテンフェルトが太い息を吐いた。

「甘うございますな」とだけ言い、握った拳を開いて半歩下がった。

それは同意ではなく、命令への服従だった。

この将は、そのけじめだけは間違えない。

 

「――仰せのままに」

ケスラーが進み出て、頭を下げた。

必要より、少し深く下げた。

この宮廷の警備の網を最後に張ったのが誰であるかを、この場の全員が知っていた。

 

式典は、そこで終わりになった。

人々が退がってゆく大広間の隅で、ミッターマイヤーが息子の傍らに立った。

医官が左の掌に布を巻いている。元帥は何も言わなかった。

手を伸ばし、フェリックスの頭に一度だけ置いて、それから離した。

フェリックスは、耳を赤くして、そっぽを向いた。

 

磨かれた大理石の上に、こぼれた酒が残っていた。

黒く、細く、目地に沿って伸びていた。

アレクはそれを、しばらく見ていた。

 

 

【新帝国暦十四年 獅子の泉・北回廊 クライン】

 

 

人が捌けたあとの回廊は、天井が高いぶんだけ寒い。

クラインは柱の陰に立ち、自分の手のひらを見ていた。

汗はかいていなかった。脈も乱れていない。

それが正しいことなのか、彼には判断がつかなかった。

 

彼は、あの下級官吏を三日前から見ていた。

理由はない。彼はいつも、部屋に入れば柱と扉と人を数える。

 

その日、儀の下稽古に立ち会った者は十四人で、盆を運ぶ役の者は二人いた。

当日、盆を運んできたのは、その二人のどちらでもなかった。

 

それだけなら、宮中ではよくあることだ。人は病むし、代わりは立つ。

クラインが目を離せなくなったのは、男の手が震えていなかったからだった。

 

皇帝の前に膝を折るとき、たいていの人間の手は震える。

恐れではない。畏れですらない。

ただ、生きているものは、大きな場所に出ると身体が勝手に反応する。

 

震えない人間がいるとすれば、それは二種類しかいない。

何も感じない者か。

もう、決めてしまった者か。

 

クラインは、「決めてしまった人間の顔」はよく知っていた。

なぜ知っているのかは、今は考えないことにした。

 

アレクの三歩うしろで、彼は迷った。

声を上げれば、人が自分を見る。

見られれば、問われる。

「なぜ気づいたのか」、と。

 

答えられる言葉を、彼は持っていなかった。

その計算に、半呼吸を使った。

 

半呼吸だ。

 

結果としては、間に合った。

杯は、皇帝の唇に届かなかった。

アレクは死ななかった。

 

それでもクラインは、その半呼吸のことを、生涯忘れない。

彼は、間に合ったことではなく、迷ったことを記憶に収めた。

彼の記憶とは、そういうふうにできている。

 

回廊の向こうで、フェリックスが医官に掌を見せていた。

布を巻き終えると、彼は右手を軽く握り、開いた。

また握り、開いた。

 

クラインは数えた。四度。

右手を軽く握り、開く動作。

いつもは一度きりだ。

出撃の前に、一度だけ。

フェリックス本人は、自分がそうしていることを知らない。

 

背後で足音がした。振り返ると、軍務尚書が立っていた。

ケスラー元帥は、少年を見下ろした。

何かを測るような目ではなかった。もう測り終えた者の目だった。

 

「よく見ていたな」

 

「……はい」

 

「どこを見た」

 

クラインは口を開き、そして閉じた。

手が震えていなかった、と言えば、なぜ震えない人間を知っているのかを訊かれる。

分からないとき、彼は分かりませんと言う。

だがいま黙ったのは、分からないからではなかった。

 

ケスラーは、待たなかった。

「よい。皇帝陛下は生きておられる」

 

そう言って、彼は歩き去った。

クラインは、その背を見送った。

訊かれなかった、ということを、彼は正確に理解した。

この元帥は、見抜けなかったのではない。

正確に見抜いた上で、問わなかったのだ。

 

礼を言うべきかもしれなかった。

言えば、それは借りになる。

返せない借りを、彼は一つ増やしたことになる。

 

クラインは何も言わず、寒い回廊に立っていた。

 

 

【新帝国暦十四年 獅子の泉・皇帝執務室 アレク】

 

 

五日後の朝、ケスラーが報告に来た。

アレクは机に着いていた。左に摂政ヒルダが座り、扉のそばにフェリックスとクラインが控えている。

フェリックスの左手には、まだ布が巻かれていた。

 

「昨夜、獄中にて死亡いたしました」

ケスラーの声は平坦だった。

 

感情を消しているのではない。事実に感情が付いていないだけの声だった。

 

「死因は毒。我々が与えたものではございません。飲食物からは検出されず、看守は誰一人として房を離れておりません。……いつ、どのようにして体内に入ったものか、判明しておりません。――方法が、分かりません」

 

「余は」

アレクは言った。

「審理を尽くせと言った」

 

「はい」

 

「審理は尽くされたか」

 

「――尽くされておりません」

ケスラーは頭を下げた。

 

「酒は、検めておりました」

さらにケスラーは言った。

「ただ、杯までは、検めておりませんでした。いずれも責は、臣にございます」

 

アレクは何も言わなかった。

責任の所在なら、この場の全員が知っている。

この元帥は誰よりも先にそれを口にした。

 

アレクが分からないのは、もっと手前のことだった。

 

命じた。命令は正しく伝わった。

誰も背かなかった。それなのに、命じたとおりのことは、起こらなかった。

 

――なぜ、命じたことが、届かないのか。

その問いに名前をつけるすべを、十一歳の彼はまだ持っていなかった。

 

「男の身元は」

 

「フォン・ヴァルトハイム家に、そのような家士はおりませんでした。当主にも家令にも面識なし。血縁の縁者にも当たりましたが、一人も心当たりがございません」

 

「では、名は」

 

ケスラーは、一拍だけ黙った。

「――ございません、陛下」

 

「何と言った」

 

「名が、ございません。生まれた記録が、どこにもないのです。帝都にも、地方にも、旧同盟領にも。指紋も、虹彩も、どの帳簿にも載っておりません。……あの男は、生まれた形跡のないまま、この城で死にました」

 

部屋が静かになった。

窓の下で、獅子の泉が水を吐いている。

遠くで衛兵が交代する足音がする。

扉のそばで、クラインは、一度も身じろぎをしなかった。

 

ヒルダが口を開いた。

「内務省が、名簿を作っております」

 

「名簿」

 

「旧門閥に連なる家、その家士、その縁者。四百二十一名。取調べの対象として」

 

「ケスラー元帥。賊の言葉以外の証拠は」

 

「――ございません」

 

アレクは、しばらく机の木目を見ていた。

 

あの男は名乗った。ゴールデンバウムの血に栄えあれ、と叫んだ。

叫ばれた側の四百二十一人が、いま、名簿になっている。

名乗りは、名指しだった。

 

「では、何のための名簿だ」

 

「……疑わしき者を、漏らさぬためにございます」

ケスラーは答えなかった。

 

「まずは証拠集めが先、本格的な取調べは後だ……順番を、間違えるな」

 

「はい」ケスラーが答えた。

彼はもう一度、必要より深く頭を下げた。

退出の際、彼は扉の前で足を止めた。

何かを言おうとしたように見えた。

 

摂政が顔を上げる。

だが元帥は、結局、何も言わずに扉を閉めた。

生まれた記録を、帝都と地方と旧同盟領のすべてから消せる者がいる。

それが何を意味するかを、この部屋で最初に理解したのは、たぶん彼だった。

二番目に理解したのは、扉のそばに立っていた少年だった。

 

どちらも、口には出さなかった。

 

 

【新帝国暦十四年 帝都星レーヴェンシュテルン 幼年学校・食堂 アレク】

 

 

輪の空気は、その週いっぱい、張り詰めていた。

 

誰もあの日のことを話さなかった。

話さないことが、いちばん大きな話題だった。

 

廊下でローデリヒ・フォン・グルックスブルクとすれ違ったとき、アレクは目を疑った。

あの少年は、フェリックスを見なかった。

棘のある言葉も、含みのある咳払いもなかった。

ただ壁際に寄って、道を空けた。

顔が紙のように白かった。

 

旧貴族の家の子供たちが、一人ずつ、事情を訊かれている。

それだけのことだ。

誰も罰せられてはいない。

誰も罪を問われてはいない。

それでも彼らは、名を呼ばれるたびに、自分の家の名の重さを量られていることを知っていた。

 

アレクは、順番を間違えるな、と言った。

その言葉には、値段がついていた。値段を払っているのは、彼ではなかった。

 

その日の午後、卓に小さな包みが置かれた。

 

「はい、これ。実家から届いたやつ」

トビアス・ブリュックナーが、丸顔をほころばせて包みを開けた。焼き菓子が並んでいる。

彼は迷いもせず、一つずつ配りはじめた。

 

「ミッターマイヤーは、これ。塩気の強いやつな。甘いのは苦手だろ」

 

「よく憶えてんな」

 

「憶えてるだけじゃないぜ。ちゃんと書いてある」

 

トビアスは上着から小さな手帳を出して、ひらひらと振った。

誰の好物が何か。それだけが並んでいるらしい。

フェリックスが呆れた顔をした。

 

 

トビアスは食堂の湯沸かしから茶を運んできて、四つの器に注いで回った。

最後の一杯を、両手で持って差し出した。

 

「はい、陛下。菓子だけじゃ喉に詰まるでしょ」

 

フェリックスの右手が、止まっていた。

握りかけた拳が、開かれないまま宙にある。

 

クラインは、茶ではなく、それを差し出している手のほうを見ていた。

 

トビアスは、たっぷり二呼吸かけて、自分が、どういう事件の五日後に、誰に、何を差し出しているのか、ようやく理解した。

 

丸い顔から、血の気が引いていく。

引っ込めることも、卓に置くこともできず、彼はただ、器を持っていた。

「……あの、俺」

 

「ありがとう」

アレクは、その器を受け取った。

 

両手で受け取り、口をつけた。

ぬるく、渋い。食堂の安い茶だ。彼はそれを、底まで飲んだ。

供されたものを、残さない。それが彼の礼儀だった。

 

器を置いて、アレクは言った。

「ブリュックナー。ありがとう」

 

「……いえ」

 

「菓子は、甘すぎなかった。よく憶えていてくれた」

 

トビアスは何か言おうとして、やめた。

手帳を開き、書くこともないのに、書くふりをして真っ青な顔を伏せた。

 

沈黙を破ったのはフェリックスだった。

自分の器を一息にあおって、盛大にむせる。

「――熱っ」

 

「一気に飲むからだ」

 

「うるせえ」

フェリックスは布の巻かれた左手を庇うようにして、右手で口を拭った。

それから右の拳を軽く握り、開いた。もう一度、握って、開いた。

 

「……回数が」

クラインが言いかけて、口を閉じた。

 

「あ?」

 

「いえ。何でもありません」

 

トビアスが「クラインが自分から喋った、珍しい」と大げさに驚いてみせ、フェリックスが笑い、輪の温度が、少しだけ戻った。

 

「……菓子、湿気るぞ。早く食え」

それが、この日のトビアスの、精一杯だった。

 

 

***

 

 

その日の帰り、アレクはクラインを呼び止めた。

 

「クライン。何か褒美を」

 

「無用にございます。務めです」

 

「務めではない。儀式の作法を破ってくれなければ、僕は死んでいた」

 

クラインは何も言わなかった。

困っているのだと、アレクにはようやく分かるようになってきた。

この少年は、褒美という言葉の意味が分からないのではない。

受け取り方が分からないのだ。

 

「望みを言ってくれ。何でもいい」

 

「――ございません」

 

「ひとつもないのか」

 

「ひとつも、ございません」

嘘ではなかった。嘘がつけないとき、この少年は「分かりません」と言う。

いま彼は、そう言わなかった。

 

アレクは少し考えて、鞄から一冊の本を出した。

 

古い航海記だった。

 

表紙は擦り切れていて、頁の端が茶色くなっている。

アレクは幼い頃、この本を何度も読んだ。

アレクはそれを、両手で差し出した。

 

「では、これを貸す」

 

クラインが顔を上げた。

 

「褒美ではない。貸すだけだ。……返さなくていいとは、言っていない」

 

少年は、しばらく本を見ていた。

それから、両手で受け取った。とても丁寧に、壊れやすいものを扱うように受け取った。

「……お預かりします」

 

「読み終わったら返せよ」

 

「はい」

クラインは本を胸に抱いて、寮へ戻っていった。

 

褒美は受け取れない。

厚意も、受け取り方が分からない。

 

だが借りなら、受け取れた。

返すべきものがあるということは、彼にとって、そこにいてよい理由がひとつ増えるということだった。

 

アレクは、そこまでは考えなかった。

ただ、あの背中が少し軽く見えた気がして、それでよかった。

 

クラインは、結局、その本を返さなかった。

 

 

【新帝国暦十四年 獅子の泉・皇帝の私室 アレク】

 

 

夜になって、憲兵隊の報告書が届いた。

厚くはない。

調べるべきことがなくなったからだ。

 

最後の一枚に、被疑者の一覧があった。

行はひとつしかない。

 

氏名の欄に、こう記されていた。

――氏名不詳。

 

アレクは、上着の内側から万年筆を出した。

母がくれたものだ。軸が細くて、子供の手にちょうどいい。

右の余白に、彼はいつもの小さな印を入れようとした。

入れる場所を、探した。

 

印は、忘れないためのものだ。

読み飛ばさないための目印であって、それ以上の意味はない。

目印は、名の隣に打つ。

 

 

――名がなければ、目印は打てない。

 

 

ペン先が、紙の上で止まった。

 

なぜ、と訊きたかったのだと、あの日から彼はずっと思っていた。

 

違った。

 

いま分かった。

あの大理石の上で、押さえつけられた男の目を見ながら、自分が本当に訊きたかったのは、そんなことではなかった。

 

 

――お前の名は、何という。

 

 

それだけを、訊きたかった。

 

アレクは、ペンを置いた。

その頁は白いまま、静かに閉じられた。窓の外で、獅子の泉の水が、夜の底で鳴っていた。

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