銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十話 兄の背(新帝国暦十六年春)

【新帝国暦十六年・春 帝都星レーヴェンシュテルン 帝国軍幼年学校】

 

 

春の校庭に新入生の列が並んでいた。

真新しい制服はどれも少しずつ大きく、余った袖が風に揺れている。

三年前の自分たちもああして立っていたのだろうか。

アレクは列の端から端まで顔をゆっくりと追った。名簿は昨夜のうちに読んである。

百七十二人。半分ほどの顔と名はもう繋がっていた。

 

「陛下、もう憶えてるの?」

隣でトビアス・ブリュックナーが実家から届いた菓子の包みを開けながら言った。

中規模輸送商の子はこういう小包を月に一度、律儀に輪へ配る。

 

「ああ、なんとなくね」

 

「それがアレクだよ」フェリックスが横から手を伸ばして菓子を一つ攫った。

 

列の中ほどで一人の新入生が背筋を伸ばしすぎて隣の子とぶつかった。慌てて姿勢を戻す。頬が赤い。

アレクはその顔に見覚えがあった。正確にはその顔によく似た別の顔に。

 

「あれ、アイゼンベルクの弟だってさ」

トビアスが菓子を頬張りながら言った。この男は場の温度を測るのが早い。噂を拾うのも早い。

 

「三つ下。エルンストってのが名前らしい」

 

式が終わり、列が崩れた。

新入生たちが親や身元保証人のもとへ散っていく中を上級生の一団が横切っていく。

その先頭を歩いていたのがハインリヒ・フォン・アイゼンベルクだった。

幼年学校の首席。歩き方まで教範に載っていそうな男だとフェリックスは常々思っている。

 

「兄上っ」

列を離れてエルンストが駆け寄った。

ハインリヒは立ち止まった。弟を見下ろす。校庭にはまだ人が多い。

 

「列を乱すな」

声は低く短かった。

「持ち場に戻れ。以上だ」

 

エルンストはそれでも目を輝かせたまま勢いよく踵を鳴らした。

「はい、兄上!」

 

ハインリヒは何も言わずに歩き去った。振り返りもしない。

 

フェリックスが鼻から息を吐いた。

「弟にもああなのか……いい兄貴だな」

皮肉を込めて言い捨てた。

 

「フェリックス」アレクが小さく窘めた。

 

クラインは何も言わなかった。

ただ去っていく背をひとつ、目で追っただけだった。

 

トビアスが包みの底から丸めた新聞紙を引き出して広げた。菓子の緩衝材である。

「そういや、ヴァルテンブルク家が潰れたらしいぜ。投機に失敗したとか」

 

「知らない家だな」

 

「そりゃそうだろ、俺も知らない。……ああ、あと慈善団体の理事が一人、行方知れずだと。金でも持ち逃げしたかね」

 

誰もそれ以上は聞かなかった。

紙は菓子の屑と一緒にその日のうちに捨てられた。

 

 

***

 

 

隊内演習は二週間後に組まれた。

模擬艦隊指揮。二個小隊による遭遇戦。

上級生は交互に指揮官席へ座り、教官がその采配を採点する。

 

待機室でハインリヒが一人の生徒を呼び止めた。

「席次三十二番。昨日の課題、提出が遅れている」

呼ばれた生徒が縮こまる。ハインリヒはそれ以上何も言わず記録板に何かを書き込んだだけだった。

 

その背にフェリックスの声が届いた。

「……教本どおりにしか動けない男が偉そうに」

 

室内が静かになった。

ハインリヒは振り返らなかった。記録板を持つ手が一瞬だけ止まった。それだけだった。

「配置につけ。時間だ」

 

演習はハインリヒの独壇場から始まった。

中央に火力を集中し、両翼を後退させて弾性を持たせる。

新帝国軍軍事教範第四巻の定石そのものだった。

定石そのものであるがゆえに隙がなかった。

フェリックスの小隊は最初の三分で押し込まれ、陣形が痩せた。

 

「フェリックスのやつ、出るぞ」

観戦席でアレクが呟いた。

 

「え?」トビアスが顔を上げる。

 

「……こういうときあいつは自陣を捨てる」

 

次の瞬間、フェリックスの全戦力が右翼へ流れた。

自陣は空になった。中央の突破口をそのまま明け渡した形になる。

教官が眉を上げた。誰の目にも自殺行為だった。

だがハインリヒの中央突破は突破した先に何もない空間へ滑り込んだ。

振り返ったときにはフェリックスの指揮する艦隊の塊が側背に食らいついていた。

 

決着までそこから八分。

 

「損害比、四対一」

演習終了の合図が鳴るなりハインリヒは立ち上がった。教官へ向き直り姿勢を正す。

 

「所要八分。完敗であります」

言い訳も遅延もなかった。

数字を読み上げるように自分の敗北を読み上げた。

 

教官はしばらく彼を見てから講評を始めた。

 

 

***

 

 

人が引けた演習室で二人だけが残った。

フェリックスが機材を片付けていると背後で声がした。

 

「ミッターマイヤー」

 

振り返る。ハインリヒが立っていた。

「あの機動に根拠はあったのか」

 

「……別に。行けると思った」

 

「教範のどこにも載っていない」

 

「知らねえよ」

 

沈黙があった。

ハインリヒの唇がわずかに動いた。声になるまでに長い時間がかかった。

 

「……やはり、血か」

 

フェリックスは動けなかった。

 

ハインリヒはそれ以上何も言わなかった。

姿勢を正し、機材の残りを几帳面に棚へ戻し、演習室を出ていった。

足音が遠ざかってもフェリックスはしばらくそこに立っていた。

 

この二人が互いの顔の形が変わるまで殴り合い、その痛みのなかで双方の誤解に気づき、そして和解するのはあと数年待たなくてはならない。

 

 

***

 

 

その夜、アレクは当直だった。

新入生の書類が事務室に山積みになっている。

手が空いたので名簿を繰った。

名を憶えるのは癖のようなものだ。

字面と、式で見た顔を頭の中で結んでいく。

 

エルンスト・フォン・アイゼンベルクの入学書類は束の中ほどにあった。

保護者の欄にハインリヒ・フォン・アイゼンベルクと書いてあった。

 

アレクはその一行をしばらく見ていた。

それから書類をそっと元の位置に戻した。

 

事務室を出て渡り廊下を歩いていくと、練兵場に灯りがついていた。

消し忘れではなかった。

 

「踏み込みが浅い。そこで足を止めるな」

 

柱の陰から見た。木剣を構えたエルンストが何度も同じ動作を繰り返している。

その前にハインリヒが立っていた。

 

「もう一度」

 

「はい!」

 

「もう一度」

 

「はい……!」

 

エルンストの息が上がってきた。腕が下がる。それでも構え直す。

やがてハインリヒが手を上げた。

 

「そこまでだ」

 

弟が膝に手をついて息を吸った。

ハインリヒは屈み込み、乱れた襟を直してやった。

それから驚くほど普通の声で言った。

 

「よくやった。今日は、昨日より速かった」

 

アレクは息を呑んだ。

この男が言葉を途中で切らずに喋るのを初めて聞いた。

 

「兄上」息を切らしながらエルンストが顔を上げた。

「僕、兄上みたいになれるでしょうか」

 

「なれる」

 

迷いはなかった。

 

「努力すればいい。それだけのことだ」

 

弟の顔が灯りの下でくしゃりと崩れた。嬉しさで崩れる顔だった。

「はい、兄上!」

 

アレクはそれ以上見ていられずに静かにその場を離れた。

自室に戻るまでずっと考えていた。

 

僕は、あいつの名前を知っている。

名前だけは。

 

 

***

 

 

【同時期 旧同盟領・ハイネセン バーラト自治政府庁舎 キャゼルヌ】

 

おれの机の上には今日も紙が積んである。

 

電子化されているはずのものがなぜか紙で届く。

辺境の役所はいまだに紙のほうが信用できると思っているらしい。

気持ちはわかる。電子記録は消えるときに音を立てない。

 

いちばん上の一枚を取った。

行方不明者照会。

 

差出人はある辺境星系の農婦だった。

息子が同盟軍の輸送科にいた。

イゼルローン回廊の、あの年から連絡がない。

生死を知りたい。それだけの文面が震える字で三行。

 

おれはこの手の照会に答えるための台帳を持っていない。

同盟軍の名簿は焼けたか、帝国にあるか、どこにもない。

 

三つのうちどれかだが、どれかを確かめる権限をおれたちは持っていない。持たされていない。

 

書類のプロと呼ばれたことが私にも一度くらいはある。

だが無い台帳から名前は出てこない。

いくらプロでもそこは無理だ。

 

返信の書き出しを打った。

 

「貴殿の照会につきまして、当政府は現在」

 

そこで手が止まった。

現在、なんだ。調査中か。調査していない。善処するか。しない。できない。

 

おれは文面を消した。

紙を束の脇に寄せて次の一枚を取った。

 

行方不明者照会。差出人は別の星系の、別の誰かだった。

 

……年を取ると腹が減るのが早い。

今夜は帰って女房の作った旨い飯でも食おう。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十六年・春 帝国軍幼年学校 食堂】

 

「アイゼンベルク、ちょっと来てくれ!」

食堂の隅でトビアスが手を振っていた。

 

列を離れた首席が迷惑そうに近づいてくる。

 

トビアスは椅子を引き、菓子の包みを卓の中央へ押し出した。

「座れよ。実家から届いた。全員に配ってる。全員だ、例外なし」

 

「……不要だ」

 

「配給だと思え。受け取らないと帳簿が合わない」

 

商家の子の理屈である。ハインリヒは数秒沈黙し、それから座った。

 

輪が半歩、広がった。

 

フェリックスは黙って食べている。

クラインはいつものように必要な分だけ喋る。

トビアスが天気の話と教官の噂話と菓子の産地の話を順番に卓へ転がしていく。

 

「なあ、ハインリヒ」

 

「アイゼンベルクだ」

 

トビアスの手が止まった。

訂正の声には怒気も皮肉もなかった。事実を述べただけだった。

 

「……はい、アイゼンベルクさん」

 

「敬称は不要だ」

 

アレクが小さく笑った。

笑ってからこの男を誰かがハインリヒと呼んだのは今が初めてだったことに気づいた。

 

卓に据わりの悪い沈黙が落ちた。トビアスが次の話題を探している。

 

その沈黙をハインリヒが唐突に破った。

 

「ところで、ヴァルターといったか」

 

姓を呼ばれたクラインがスプーンを止めた。

 

「……はい」

 

「貴様の記憶力、なかなかのものだ」

 

トビアスの手から菓子が落ちた。

この男が誰かを褒めるのを卓の全員が初めて聞いた。

 

「入学して間もない頃だ。星系地理の導入講義。教官が銀河図を一度だけ示し、すぐに巻き取った。貴様は諳んじた。主要星系の名。位置。航路の結節点まで」

 

「……よく、憶えておいでですね」

 

「私が憶えているのは貴様のことではない」

 

ハインリヒは水を一口飲んだ。

 

「あのとき私は答えられなかった。導入授業であの形式の設問が投げられることは、授業前に想定しておくべきだった。想定しなかった。痛恨事だった」

 

クラインの眉がわずかに動いた。

 

「あの図の情報量なら六時間で記憶できる。前日の筋力鍛錬を三時間省略し、睡眠を三時間削れば、時間は捻出できた。可能だった。やらなかった。着意の欠如。すなわち、私の懈怠(けたい)による準備不足だった」

 

言い切ってから彼は付け加えた。

「認めよう。あれは、私の落ち度だ」

 

沈黙が落ちた。

 

フェリックスがフォークを持ったまま固まっている。

「……えぇ」

 

トビアスは口を半開きにしたままだった。

 

そしていつもは眉一つ動かさない少年がほんのわずかに、椅子を引いた。

「あの、アイゼンベルクさん」クラインが言った。

 

「二度言わせるな。敬称は不要だ」

 

「……アイゼンベルク。睡眠は、削らないほうが」

 

「二時間も寝れば足りる」

 

「足りません」

即答だった。

この慎重な男が誰かの言葉をこれほど速く遮るのをアレクは初めて見た。

ハインリヒは心底不可解そうにクラインを見返した。

トビアスが堪えきれずに吹き出し慌てて水を含んだ。

 

「何がおかしい」

 

「いや、なんでも。……なんでもないです、はい」

 

卓の温度がほんの少しだけ上がった。

輪が半歩、広がっていた。

 

「席次三十二番だが」

唐突にハインリヒが言った。

「今月の提出遅延が四件。怠慢だ」

 

「ケラーだよ」アレクが言った。「彼、いま母上が病気で」

 

「言い訳は聞かん」

ハインリヒは水を置いた。

 

「親が病気なら、戦場で敵が手加減してくれるのか」

卓が静かになった。

 

トビアスが微妙な顔で菓子をもう一つ勧めた。

ハインリヒは受け取らなかった。

立ち上がり、姿勢を正し、アレクへ向き直って完璧な敬礼をした。

 

「陛下。失礼いたします」

 

背が遠ざかっていく。

フェリックスがフォークを置いた。

 

「あいつ、俺たちを妬んでるんだ」

 

「フェリックス」

 

「見ただろ。三年も前の授業をいまだに一言一句憶えてる。根に持ってなきゃ、あんなもん憶えてるか」

フェリックスは水を飲み干した。

 

御学友(ゲシュピーレ)に選ばれなかったことだって、同じだ。首席なのに声もかからなかったんだからな。そりゃそうだろ」

 

トビアスが菓子の包みを畳みながら首を傾げた。

「そうかなあ」

 

クラインは何も言わなかった。

彼はただハインリヒが出ていった扉のほうを、一度だけ見た。

アレクも何も言わなかった。

 

 

***

 

 

消灯後の演習室に灯りがひとつ残っていた。

模擬盤の上で八分前の陣形が再生されている。

中央に火力を集中し、両翼を後退させ、弾性を持たせる。教範第四巻の定石。

 

ハインリヒは同じ局面をもう十七度引き直していた。

十七度とも右翼への奔流に食い破られた。

 

彼は盤の縁に両手を置いた。

照明の下でその顔には「嫉妬」も「憎悪」もなかった。

あるのはただ一種類の感情だけだった。

それは机を挟んだ向こう側ではなく、この手のすぐ内側に向けられていた。

 

「……足りん」

 

盤を消し、彼は最初からやり直した。

その夜も幼年学校の演習室の灯が最後まで消えなかった。

 

彼は御学友(ゲシュピーレ)の選から漏れた理由を、ついに誰にも尋ねなかった。

 

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