銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十一話 消えた子供たち(前編)

【新帝国暦十六年・秋 ヴィレンシュタイン星系 練習艦アドラーシュテルン】

 

 

幼年学校の訓練航海は、皇帝の初陣とは何の関係もない。

制度としても、意味としても別のものである。

初陣が十歳の一度きりの儀式であるのに対し、訓練航海は在学中に何度も行われる、ただの授業だった。

戦うことはない。撃つこともない。

艦の中で寝起きし、当直に立ち、航海日誌を書く。

それだけの二十日間である。

 

「つまり、退屈だ」

フェリックスが、寝台の上で天井を蹴った。

 

「三日目で言うことじゃないな」

アレクは航海日誌を閉じた。

十三歳になっている。

背が急に伸びて、制服の袖が短くなった。

 

同室のクラインは、いつものように何も言わない。

寝台の下に押し込まれた彼の私物は、驚くほど少なかった。

着替えと洗面具。それに、本が一冊。

アレクが去年貸したものだった。

返せと言ったことはなく、返ってきたこともない。

 

「ブリュックナーはどこだ」

 

「厨房。乗員の好物を聞いて回ってる」

フェリックスが鼻を鳴らした。

「あいつ、そういうやつだよな」

 

アレクは笑った。

自分は名前を憶える。

トビアス・ブリュックナーは好物を憶える。

似ているようで、たぶん違う。

 

 

***

 

 

航海日誌の当直は、班ごとの持ち回りである。

 

第三班の日誌は、いつも同じ筆跡だった。

誰も代われないからではない。誰も代わりたくないからだ。

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクの日誌は、罫線を一度もはみ出さない。

 

「アイゼンベルク。交代の時間だ」

 

「あと三分ある」

 

「……律儀だな」

 

「三分は三分だ」

彼はペンを置かなかった。

「時刻の記録が三分ずれれば、事故のときに三分ぶんの位置がずれる。以上」

 

フェリックスは何か言いかけて、やめた。

反論できる部分が、どこにもなかったからである。

 

 

***

 

 

惑星グラーツは、地味な星だった。

 

ヴィレンシュタイン星系。

かつて領主家が治めていたが、内乱の年に一族もろとも潰えた。

以後は帝室直轄領である。

潰えた家の領民は、そのまま帝国の臣民になった。

書類の上では、それだけのことだ。

書類に書かれないことは、書類には残らない。

 

港から街へ向かう道の両側に、閉じた工場が並んでいた。

壁の煉瓦は崩れていない。窓も割れていない。

ただ、煙が出ていない。

 

「潰れてるのか、これ」

トビアスが窓に張りついた。

商家の子は、こういうものを見る目を持っている。

 

「領主家の直営だったんだろう」

アレクが言った。

「主が消えると、雇い主も消える」

 

「じゃあ、働いてた連中は」

 

誰も答えなかった。

 

 

***

 

 

訓練航海の寄港には、慣例として親善行事がつく。

今回は救護院の慰問だった。

要するに、士官候補生たちが子供に菓子を配り、教官が地元紙に写真を撮らせる行事である。

 

「皇帝陛下の御来訪など、もったいないことでございます」

出迎えた院長は、五十がらみの女だった。

声は柔らかく、両手を前で組んでいた。

 

建物は清潔だった。

床は磨かれ、窓には曇り一つない。

廊下には子供の絵が貼ってある。

食堂を通ると、湯気の立つ大鍋があった。

匂いは悪くなかった。

 

「四十七人、お預かりしております」

 

「みんな、ここで暮らしているのですか」

 

「はい。三年前に建て替えました。本部が資材を回してくださって」

 

「本部」

 

「わたくしどもの、上の組織でございます」

 

院長は微笑んだ。

それ以上のことは言わなかったし、アレクも聞かなかった。

 

 

***

 

 

アレクには、癖がある。

 

名簿を渡されると、余白に小さな印をつける。

読んだ名の横に、点を一つ。

理由を説明したことはない。

弔うためでもなければ、憶えるためでもない。

ただ、読み飛ばしたくないだけだった。

 

その日、彼は子供たちの名簿を借りて、一人ずつ名を呼んだ。

 

「ヨーゼフ」

「はい」

 

「マルガレーテ」

「……はい」

 

四十七人。

皆、はきはきと返事をした。

教育が行き届いている、とハインリヒなら言うだろう。

 

最後の一人が、名簿の中ほどにいた。

 

「リーゼ」

 

小さな女の子が手を挙げた。

七つか、八つか。

前歯が一本抜けていた。

アレクが名簿に点を打つのを、その子は覗き込んでいた。

 

「なにを書いてるの」

 

「印だよ。読んだ、っていう印」

 

「わたしも書きたい!」

 

アレクは、名簿の隅を指で示した。

リーゼは、そこに小さな丸を一つ描いた。

丸というより、歪んだ楕円だった。

 

「へたくそだな」

フェリックスが後ろから覗き込んで笑った。

 

「うるさい」

 

「リーゼ、好きな食べ物は」

トビアスが手帳を開いて、真顔で聞いた。

この男は、相手が誰でも聞く。皇帝にも、七歳にも。

 

「……甘いの」

 

「範囲が広すぎる」

 

子供たちが笑い、アレクたちも笑った。

 

 

***

 

 

点呼が終わると、リーゼが勝手にアレクの袖を掴んで、案内役を買って出た。

食堂、教室、絵の貼ってある廊下。彼女は得意げに全部を説明した。半分は間違っていた。

 

東側の廊下に折れようとしたとき、リーゼの足が止まった。

 

「こっちは、だめ」

 

「だめ?」

 

「くすりのにおいが、するから」

彼女はアレクの袖を引いて、来た道を戻った。

「きらい」

 

それだけだった。

七歳の好き嫌いである。

誰も、気に留めなかった。

 

 

***

 

 

クラインが足を止めたのは、東側の廊下だった。

 

洗濯室の前である。扉は開いていた。

石鹸の匂いがした。それに、消毒液の匂い。

 

彼はそこで、一秒ほど止まった。

それだけだった。すぐに歩き出した。

 

「どうした」

振り返ったフェリックスが言った。

 

「いえ」

 

「腹でも痛いか」

 

「いえ」

 

クラインは前を向いて歩いた。歩調は変わらなかった。

フェリックスは肩をすくめて、それ以上は聞かなかった。

 

 

***

 

 

食堂で、候補生たちは子供たちと同じものを食べた。

麦の粥と、塩漬けの肉が少し。粗末だが、量はあった。

 

アレクは全部食べた。器を返すとき、配膳の女がひどく嬉しそうな顔をした。

どこの子か知らないが、残す子供が多いのだろう、とアレクは思った。

 

「陛下」

 

クラインが、隣で低く言った。

 

「なんだ」

 

「この子たちは、私物を持っていません」

 

アレクは顔を上げた。

四十七人の子供が、同じ服を着て、同じ器で食べている。

そう言われるまで、何も思わなかった。

 

「持ち物が、一つもない。玩具も、飾りも」

 

「新しい建物だからじゃないのか」

クラインは、答えなかった。

 

クラインは、それきり黙った。

彼は、いつものように、決まった順番で食べていた。粥、肉、汁。

順番は一度も変わらない。

 

 

***

 

 

帳簿を見ていたのは、ハインリヒだった。

 

慰問行事に興味のない男が、なぜか事務室で書類を繰っている。

院長が困った顔で立っていた。

 

「この欄は何だ」

 

「はい?」

 

「『適性』と書いてある」

ハインリヒは、帳簿の一列を指した。子供の名の横に、数字が並んでいる。

「何の適性だ」

 

「……本部から下りてきた書式でして。わたくしどもは、言われたとおりに記入しております」

 

「基準は」

 

「基準、と申しますと」

 

「評価基準だ」

ハインリヒは、頁を繰った。数字の列は、月ごとに区切られている。区切りの行に、赤い罫が引かれていた。

「この赤線は」

 

「今月の……ええと、目安と申しますか」

 

「目安」

 

「本部が、毎月お決めになります」

 

ハインリヒは、赤線の上に並んだ数字と、下に並んだ数字を、しばらく見比べた。

上には八つ。下には三十九。

 

彼は帳簿を閉じた。

「何を測ったのか、誰が測ったのか、どの尺度で採点したのかが書かれていない。数字だけが並び、線だけが引かれている」

 

院長は、ただ困っていた。

 

「杜撰だ」

ハインリヒは言った。心底、不快そうだった。

「線を引く者が基準を示さぬのは、怠慢だ。こんなものを何年も付け続けて、誰も疑問に思わなかったのか」

 

「はあ……」

 

「以上だ」

 

彼は事務室を出ていった。

足音は規則正しく、廊下の奥へ遠ざかった。

 

 

***

 

 

その晩、港湾区の食堂で、トビアスが噂を拾ってきた。

 

「この星、子供がよく消えるらしいぜ」

 

「消える?」

 

「家出だろ、って皆言ってる」

トビアスは麦酒の代わりに出された乳を啜った。

「景気が悪いからな。売られてんじゃねえかって話も聞いた」

 

「憲兵は」

 

「調べてるってさ。でも辺境だし、元が孤児だし、身寄りもないし」

 

言葉が途切れた。

 

「クライン、こういうの、どのくらいあるんだ」

フェリックスが聞いた。

「他の星でもあるのか」

 

「分かりません」

 

「便利な言葉だな、それ」

 

「便利ではありません。分からないのです」

 

「……いなくなっても、誰も探さないってことか」

フェリックスが、低い声で言った。

珍しく軽口が出なかった。

 

アレクは、卓の上で指を動かした。

名簿の余白に印を打つときの、あの動きだった。

自分では気づいていなかった。

 

 

***

 

 

【同時期 旧同盟領・ハイネセン バーラト自治政府庁舎 キャゼルヌ】

 

 

私の机の上には、今日も紙が積んである。

 

行方不明者照会。これで四百通を超えた。数えたのは私ではない。

数えたのは私の部下で、数えろと言ったのが私だ。

恨まれる筋合いはあるが、恨まれるのが行政官の仕事である。

 

十通ばかり読んで、私は手を止めた。

 

一通目。息子が同盟軍の輸送科にいた。あの年から連絡がない。

二通目。夫が第九艦隊の機関科にいた。同じ。

三通目。兄が――同じ。

 

四通目で、字が変わった。

 

  「娘が、施療院から帰ってきません」

 

私は、鼻の付け根を揉んだ。

それから、束を全部引き寄せて、最初から繰り直した。

 

軍人ではない照会が、十七通あった。

全部、子供だった。

全部、この二年のものだった。

 

 

***

 

 

【同時期 旧同盟領・ハイネセン バーラト自治政府評議会議長室】

 

 

議長室の扉は、いつも開いている。

本人が「閉めると偉そうに見える」と言うからだが、実際は考えごとをするとき閉め忘れるだけである。

 

「ユリアン」

 

「キャゼルヌさん」

三十を過ぎた男が顔を上げた。

かつて紅茶を淹れるのが上手かった少年である。

淹れるのは今でも上手い。

 

私は十七通を机に置いた。

ユリアンは一通ずつ読んだ。

全部読み終えるまで、何も言わなかった。

 

「施療院は、どこの」

 

「三つは自治政府の。あとの十四は、民間の慈善団体だ」

 

「団体名は」

 

「バラバラだ。だが資金の出所を辿ると、途中で切れる」

私は椅子に腰を下ろした。

「辿るなと言ってるんじゃない。辿れないんだ」

 

ユリアンは窓の外を見た。ハイネセンの空は、今日も晴れていた。

 

「調べたいのですが」

 

「どうやって」

 

「……警察が」

 

「警察は十分にはおらん。和約で軍を捨てたときに、憲兵も一緒に捨てた」

私は言った。

「私たちは、武器を捨てたつもりでいた。だが、探す力も捨てていたんだ」

 

沈黙が落ちた。

 

「自治領の外でも、同じことが起きているとしたら」

 

「起きてるだろうな」

 

「では、帝都に問い合わせて」

 

「何を問い合わせる」

私は笑った。笑うしかなかった。

「うちの国境の内側で子供が消えている、そちらさんはどうか、と聞くのか。あの連中がそれを聞いてどう思う。自治もろくにできん連中だ、と思うだけだ」

 

ユリアンは黙った。

 

この男は、黙るときは逃げない。

逃げたいと思っているのに、結局、逃げない。

ヤン・ウェンリーと同じ癖だ。

そこは似ずともよかろうに。

 

「キャゼルヌさん」

 

「なんだ」

 

「この十七人の名前を、記録に残してください。台帳がないなら、作ってください」

 

「台帳を作っても、子供は帰ってこんぞ」

 

「わかっています」

ユリアンは十七通を揃えて、両手で持った。

「でも、名前がなければ、帰ってきたときに、誰も気づけない」

 

私は、しばらくこの男の顔を見ていた。

 

それから立ち上がって、部屋を出た。

廊下で、少し咳をした。

埃のせいである。他に理由はない。

 

 

***

 

 

【同時期 惑星グラーツ 児童救護院】

 

 

二日後、候補生たちは救護院を再訪した。

出港前の、形式的な挨拶である。

 

子供たちが並んだ。

アレクは、また名簿を借りた。癖である。

 

「ヨーゼフ」

「はい」

 

「マルガレーテ」

「はい」

 

順に呼んだ。

呼んで、指が止まった。

 

名簿の中ほどに、あるはずの名がない。

 

彼は最初から繰り直した。

四十六人。二日前は四十七人だった。

 

「院長」

 

「はい、陛下」

 

「リーゼは」

 

院長は、穏やかな顔のまま、少しだけ首を傾げた。

 

「……どちらの子でしょうか」

 

「一昨日、ここにいた。七歳くらいの、前歯の抜けた」

 

「申し訳ございません。そういう子は、おりません」

 

嘘をついている顔ではなかった。

本当に、心当たりがないという顔だった。

 

「四十六人。……二日前、あなたは四十七人と言った」

 

「わたくしが、でございますか」

 

院長は、心底不思議そうな顔をした。

自分が何を言ったかを、彼女は憶えていない。

憶えている必要が、なかったからである。

 

「名簿を見せてください」

 

院長は、素直に差し出した。

帳簿は、几帳面に整っていた。四十六人。

訂正も、抹消線も、書き足しもない。

最初から、四十六人だったかのように。

 

そして最後の頁に、物資の受払欄があった。

昨日の日付で、搬入と搬出が、同じ行に記されている。

 

「昨日の夜、艇が来ましたね」

 

「はい。月に二度、本部から」

 

「何を積んで帰るんですか」

 

「……さあ。空で帰るのでしょう」

 

院長は、何も疑っていなかった。

彼女は、物が届く日を憶えている。

物が届く日と、子供が減る日が同じであることを、並べて考えたことがない。

 

並べて考える者がいれば、とうに気づいていた。

この建物には、そういう者がいなかった。

 

 

アレクは自分の手帳を開いた。

二日前、そこに写した名前の列がある。四十七行。

全部に、点が打ってある。

 

そして名簿の隅に、歪んだ楕円が一つ。

 

「陛下」

背後で、クラインが言った。声が、いつもより半音低かった。

 

「はい」

 

「その帳簿は、書き直されたものではありません」

 

アレクは振り返った。

 

「紙が、新しい」

クラインは、それだけ言った。

そして、それ以上は何も言わなかった。

 

 

***

 

 

港へ戻る車の中で、フェリックスが小声で聞いた。

 

「なんて言うんだ」

 

「わからない。……でも、僕が言わなきゃ、誰も言わない」

 

アレクは帝都から警護に付き添っている憲兵中尉に言った。

「調べてもらえませんか」

 

「は」

 

「救護院の名簿。二日前の名簿と違っています。子供が一人、記録ごと消えているんです」

 

中尉は、困った顔をした。

悪い男ではない。

むしろ誠実な男だった。

だが、誠実な男ほど、手続や書式のことを先に考える。

 

「……陛下。恐れながら、親権者や法定代理人からの届出がございませんと」

 

「余が言うておる」

 

フェリックスが、隣で顔を上げた。

その一人称を、彼が私的な(サークル)の中で聞いたことは、一度もない。

 

「恐れながら。陛下は、親権者でも法定代理人でもございませぬ」

 

車が揺れた。

アレクは窓の外を見た。口を、少し嫌そうに閉じていた。

 

車が揺れた。

誰も何も言わなかった。

 

「明朝、出港であります」

中尉は前を向いたまま言った。

「本官の職掌は、陛下の警護であります」

 

 

***

 

 

窓の外を、閉じた工場が流れていく。

壁の煉瓦は崩れていない。窓も割れていない。ただ、煙が出ていない。

 

清潔で、静かで、腹を空かせていない、四十六人の子供たちが、そのうしろで手を振っていた。

 

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