【新帝国暦十六年・秋 惑星グラーツ軌道 練習艦アドラーシュテルン】
消灯後の居住区で三人は私服に着替えた。
私服といっても候補生の外出着である。
徽章を外せばどこの子ともつかない。
アレクは鏡の前で襟を直した。
直しながら頭の中でいくつものものが動いている。
規律違反。皇帝の身。憲兵中尉の顔。ミッターマイヤー元帥の顔。母の顔。
それから、名簿にない名前。
選ぶまでにいつも一拍かかる。
その一拍を彼は自分で嫌っている。
「陛下」
クラインが言った。
「これは記録に残ります」
「どちらが」
「行けば、艦の日誌に。行かなければ」
クラインはそこで止まった。
「いえ。何も残りません」
アレクはクラインの顔を見た。
「行く」
「よし」
フェリックスが窓の外を見た。港の灯が滲んでいる。
「言っとくが俺は最初から行くつもりだったぜ」
「知ってるさ」
***
夜間の舷門には当直が立つ。
停泊中の警備は港側の憲兵と艦の当直に分かれ、候補生居住区の当直は候補生持ち回りである。
今夜の当直割を三人は確認していなかった。
舷門の灯りの下に姿勢のいい影が立っていた。
「……最悪だ」
フェリックスが呻いた。
ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクは三人を等分に見た。
それから時計を見た。
「二三四〇。消灯後一時間十分。私服。氏名と用件。規則だ」
「散歩だよ」
「艦外は散歩と言わない」
「じゃあ遠足だ」
「ミッターマイヤー。貴様の頭の中身はいつか解剖して確かめたいものだ」
「褒めても何も出ねえぞ」
ハインリヒはフェリックスを無視してアレクを見た。
「救護院の子が一人、名簿ごと消えた。港の中継倉庫に物資の線がある。確かめに行く」
「陛下。それは憲兵の管轄にございます。」
「憲兵は動かない。子どもたちには親権者も法定代理人もいない。届出を出せる者がいないからだ」
「では明朝、艦長経由で」
「明朝には出港している」
沈黙があった。
ハインリヒは記録板を持ち上げた。
三人は身構えた。
彼は、何も書かなかった。
「無断外出は重大な規律違反。発見した当直には報告の義務がある」
彼は記録板を小脇に挟んだ。
「ただし、現認なき報告は憶測だ。私は憶測で報告しない」
「……つまり?」
「現認する。最後まで」
彼は舷門の管制盤に当直代理の登録を打ち込み、外套を取った。
フェリックスが口を半開きにした。
「ついてくるのか」
「貴様らを現認しに行く。以上」
***
港湾区の東端に中継倉庫が並んでいる。
夜の倉庫街には誰もいなかった。
街灯が一つ置きに切れている。
足元の水たまりに油が浮いていた。
クラインが立ち止まった。
「三番倉庫です」
「なんでわかる」
「他の倉庫の搬入記録は港湾管理局の掲示にあります。三番だけ、ありません」
「ヴァルター。合理的だ」
クラインがわずかに驚いた顔をした。
ハインリヒに褒められたのは二度目である。
フェリックスが右手の拳を一度だけ握って、開いた。
無意識の動作である。
「拳を握る回数が増えています」
クラインが言った。
「数えてんじゃねえよ」
「数えなくても分かります」
「うるせえ」
「ミッターマイヤー」
ハインリヒが前を向いたまま言った。
「緊張はしても体が動けばいい」
「誰が緊張してるって?」
「貴様の拳が四十秒に一度閉じている」
「……お前も数えてんのかよ!」
***
三番倉庫の裏手に貨物艇の発着場があった。
搬入口の扉が半分開き、作業灯の光が漏れていた。
四人は積み上げられた空コンテナの陰に入った。
アレクがまず見た。
***
倉庫の床に、子供が座っていた。
数えようとして、数えられなかった。
三十人か、四十人か。
皆、床に膝を抱えて座り、誰も喋っていない。
泣いている子は誰もいなかった。
服は清潔だった。
髪は刈り揃えられていた。
誰も痩せていなかった。
手首に紙の札が結ばれている。
「……番号だ」
フェリックスが呟いた。
匂いがした。
石鹸と消毒液。
クラインが、止まった。
アレクは隣を見た。
クラインの顔は動いていない。
呼吸も乱れていない。
ただ、握った指が、白かった。
「クライン」
「……はい」
「知っているのか」
長い沈黙があった。
「いえ」
クラインは言った。
「知りません」
アレクはそれが嘘だとわかった。
わかったが追及しなかった。
追及すれば、この男は答える。
答えたあとで彼は輪の外に出ていくだろう。
そういう予感がした。
***
奥の壁際に一人だけ立っている子供がいた。
十二か、十三か。
アレクたちとそう変わらない。
やせて、背が高く、姿勢がよかった。
座っている子供たちを、見張っている。
灰色の目をしていた。
彼は動かなかった。
ただ、見ていた。
***
「おい。誰だ」
声は横からした。
作業員の男が三人、通路を塞いでいた。手に管制棒。
その後ろからさらに二人。
「ガキか」
先頭の男が拍子抜けした声を出した。
「どこから入った。ここは立入禁止だぞ」
「積み荷を見せてもらいたい」
アレクが言った。
「……はあ?」
「そこにいるのは救護院の子供たちです。搬出の許可証があるなら見せてください」
男たちは顔を見合わせた。
それから、笑った。
「役人ごっこか。夜遊びは家でやれ」
先頭の男が管制棒を無造作に振り上げた。
「怪我したくなきゃ」
振り下ろされなかった。
フェリックスが、懐に入っていた。
肘。膝。肩。三つの音がして、男が崩れた。
「ッ、ガキが!」
二人目の棒が横から来る。
フェリックスは受けない。
半歩引いて空を切らせ、伸びた腕を取って投げた。
男はコンテナに背中から突っ込んだ。
三人目と四人目が同時に来た。
三人目の足元へクラインが空コンテナを蹴り倒す。
角度は計算されていた。男は箱に足を取られ、顔から落ちた。
四人目の正面にハインリヒが立った。
彼の構えは教範に載っている構えだった。
左半身、顎を引き、拳は頬の高さ。
挿絵にしてもいいくらい、正確だった。
「教本どおりだな!」フェリックスが叫んだ。
「そうだ」
男の棒が振り下ろされる。
ハインリヒは教本どおりに半身で外し、教本どおりの正拳を、教本どおりの位置に打ち込んだ。
男は、教本どおりに崩れ落ちた。
「ほら見ろ。教本は正しい」
「今の避け方、俺が演習でやったやつだろ!」
「徒手格闘教範第七巻に載っている。貴様が教範どおりに動いただけだ」
「載ってねえよ!」
「載っている。頁数まで言おうか」
言い合いながら、二人は五人目を挟み撃ちにしていた。
男は左右を見て、逃げた。
アレクは戦っていなかった。
彼は座っている子供たちのほうへ走った。
走りながら倉庫の奥に目をやった。
事務机。通信機。
そして、通信機に手を伸ばしている六人目の男がいた。
「フェリックス!」
フェリックスが振り向く。遠い。間に合わない。
そのときアレクの横を、何かが飛んだ。
ハインリヒの投げた管制棒が回転しながら通信機に当たり、卓上の機器ごと床に薙ぎ払った。
***
「――そこまでです」
新しい声だった。
搬入口の奥から男が一人、歩いてきた。
四十がらみ。作業着。手には何も持っていない。
倒れている部下たちを一瞥もしなかった。
「お強い。驚きました」
男は言った。声は柔らかった。
「ですが坊ちゃん方、これは誘拐ではありませんよ」
「なぜ今夜なんです」
アレクが言った。
「皇帝がこの星にいる。あなた方もそれを知っているはずだ」
男は少し不思議そうな顔をした。
質問の意味が本当に分からないという顔だった。
「予定日でしたので」
「……予定日」
「月の第二週の、後の艇です」
男は言った。
「いつもと同じです。変える理由がございません」
アレクは返す言葉を持たなかった。
「坊ちゃん。この子らを、誰が探しましたか」
男の声は恨みも憎しみも帯びていなかった。
事実を確認する声だった。
「工場が閉じ、親が死に、領主が絶えた。この星の子です。憲兵は調べません。捜査の端緒となる書類が出ないからです。役所は数えません。予算がないからです。帝国はこの子らが生まれたことを、そもそも記録していない」
背後で貨物艇の機関が始動した。
低い震動が床から靴の裏へ上がってきた。
「私どもは、拾っただけです」
男は言った。
「さあ、お帰りなさい。親御さんが心配して――」
「陛下」
ハインリヒの声だった。
彼は負傷の有無を確認するために言ったのである。上官の安否確認。呼称。
彼は作法を、一度も間違えない。
その正しさが、この夜は、最悪の場所に落ちた。
男の顔から笑みが消えた。
男はアレクを見た。
初めて、まともに顔を見た。
肖像画と目の前の少年が、男の中で重なっていく。それが見て取れた。
「……なんということだ」
男は一歩下がった。
そして、倉庫の奥に向かって短く二度、手を叩いた。
積込みの動きが一斉に止まった。
「撤収」
「頭、しかし荷が――」
「置いていく。全部だ」
男の声はもう柔らかくなかった。
「艇を上げろ」
作業員たちが蜘蛛の子を散らすように動いた。
倒れていた男たちさえ引きずられて艇に運ばれていく。
子供たちは床に座らされたまま、置き去りにされ始めた。
「待て!」
フェリックスが叫んだ。
「逃げるのか!」
男はハッチの前で一度だけ振り返った。
「坊ちゃん。……いえ」
彼は深く、正確に頭を下げた。
「陛下。御身に傷ひとつでも付けば、私どもの網は明日までに帝国軍に焼かれます。二十年かけた網です。あなた一人と、引き換えにはできません」
「網……?」
「ご健勝で」
だが、全員は退けなかった。
座っている子供たちのいちばん奥、壁際の一列はすでに手首の札を鎖で連結されていた。
最後の作業員がその鎖の端を掴んで引き立たせようとしていた。十人ばかりの子供が立ち上がる。
その先頭に、リーゼがいた。
「リーゼ!」
アレクは走った。
考えるより先に、体が出ていた。
鎖を引く男が振り向き、空いた手の棒がアレクに向かって薙がれた。
アレクには届かなかった。
フェリックスが横から男の腕ごと止め、二人はもつれて倒れた。
棒が床を転がった。
男は体重でフェリックスを組み敷き、拳を振り上げた。
その拳は、落ちてこなかった。
ハインリヒが背後から男の腕を教本どおりに極めて、教本どおりの角度で床に沈めたからである。
「……助かった」
フェリックスが肘をついて起き上がった。
「礼は不要」
「言ってねえよ。まだ」
「では早く言え」
鎖に繋がれた子供たちが立ち尽くしていた。
逃げていいのか、どうかもわからない顔だった。
アレクは、その先頭の小さな影の前に膝をついた。
「リーゼ」
前歯の抜けた顔が彼を見上げた。
二日ぶりだった。二日で、その顔は表情の作り方を半分忘れていた。
「……印の、ひと?」
「そうだよ」
リーゼの顔が、ゆっくりと、くしゃりと崩れた。
泣き方は、忘れていなかった。
***
貨物艇は上がった。
四十人近い子供と、鎖の一列だけを残して。
噴射の光が発着場を白く焼き、光が消えたとき、空には何も残っていなかった。
奥の壁際に灰色の目の少年が、まだ立っていた。
彼は乗り遅れたのではなかった。
「撤収」の声のとき、彼は動ける位置にいた。
理由はわからないが動かなかったのである。
男たちの手助けもしなかった。
彼は残された子供たちを見た。鎖を、見た。
それから、アレクを見て、フェリックスを見て。
最後に、クラインで、止まった。
値踏みするのでも、恐れるのでもなかった。
ちょうど教官が候補生の演習を採点するときの目に似ていた。
長い、長い数秒だった。
やがて彼は壁際の非常口をゆっくりと押し開けた。
外套の襟がそのときわずかに開いた。
「おい」
フェリックスが一歩踏み出したときには、扉は閉じていた。
追う音はしなかった。
最初から、そこにいなかったかのようだった。
***
「クライン」
フェリックスが言った。声が乾いていた。
「あの艇、何人乗ってた」
「……」
「おい」
「数えていません」
クラインは言った。
***
憲兵が来たのは二十分後だった。
通報したのはハインリヒである。
彼は現認を終えたので、報告した。
それだけのことだった。
事件は翌日には片づかなかった。
保護された児童、四十一名。
貨物艇の航跡は追えなかった。発着記録はそもそも提出されていなかった。
救護院の院長は事情聴取に穏やかに応じた。
本部の名を挙げ、書式を提出し、帳簿を差し出した。
何も出てこなかった。
四十一名の子供は帝室直轄領の行政府が引き取った。
名前のわかる子が、三十八名。
残りの三名は自分の名を言わなかった。
言えないのか、言わないのかもわからなかった。
***
リーゼは戻るのを拒んだ。
正確には救護院の門の前で足が止まり、動かなくなった。
理由を彼女は言えなかった。
七歳にあの建物の何が怖いのかを言語化することはできない。
「陛下。この子の処遇でありますが」
憲兵中尉は書類を前に困惑していた。
「保護児童は原施設へ返還いたします。それが定めであります。親権者も、法定代理人も、身元保証人もございません。……この子について法は、何も定めておりません」
「あの建物に、返すんですか」
「……はい」
「あの建物から、消えた子です」
中尉は答えなかった。
答えるべき条文を、彼は持っていなかったのである。
「では、返さないでいただきたい」
「……その手続が、ございません」
沈黙が落ちた。
「帝都に、連れて帰ります」
アレクが言った。
「宮廷には子供を預かった先例がある。伯母上に、僕からお願いする」
「陛下。それは、規定に――」
中尉はそこで言葉を切った。
彼は書類の束を繰った。
一枚、二枚。
繰る手が途中で止まらなかった。
彼は最初から、探す書類を決めていたのである。
三枚目を、彼は机に置いた。
「戦災孤児用の身元保証届であります」
中尉は言った。
「…この子は、戦災孤児ではありませんが」
「使えるんですか」
「使えぬ、とは、法のどこにも書かれておりません」
保証人の欄が、空白だった。
アレクがペンを取った。
その手を、遮った者がいた。
***
「私が書きます」
クラインだった。
アレクは手を止めた。
フェリックスも、ハインリヒも、中尉も、クラインを見た。
「陛下の署名は、政治になります」
クラインは言った。
声はいつもどおり平坦だった。
「一人の孤児に皇帝が保証人として立てば、先例になる。先例は、利用されます」
理屈は、完璧だった。
完璧すぎた。
アレクはペンを差し出した。
何も言わなかった。
クラインは書類を引き寄せた。
保証人の欄に、自分の名を書いた。
彼の字は機械のように整っている。
だがその一行だけ、最後の一画がほんのわずかに乱れた。
書き終えて、彼はしばらく自分の書いた名を見ていた。
拾われた子供が、拾う側の欄に、名前を書いた。
この欄に誰かが名前を書いたから、自分は今ここにいる。
そのことを彼はこの夜、初めて外側から見た。
彼は書類を中尉に返した。
礼を言うべきなのか、言われるべきなのか、わからないという顔をしていた。
***
リーゼは机によじ登るようにして、書かれたばかりの署名を覗き込んだ。
「クライン・ヴァルター」
一字ずつ、声に出して読んだ。読めたことが嬉しそうだった。
それから自分の書類の氏名欄を見た。
「
五文字だけの欄を。
「……名前、ふたつも、あるんだ」
羨む声だった。
クラインは何も言わなかった。
一つは借り物です、と言いかけて、七歳に通じる説明を持っていなかったのである。
説明を持っていないことに、彼自身、この時はじめて気がついた。
***
【同時期 帝都レーヴェンシュテルン 軍務尚書執務室】
ウルリッヒ・ケスラーの机には辺境から上がってくる書類が積まれている。
そのほとんどは、読む価値がない。
彼は三枚を横に並べた。
一枚目。惑星グラーツ、児童救護院、集団移送の未遂。保護児童四十一名、うち三名は氏名不詳。押収帳簿に番号と「適性」の記載。
二枚目。半年前、ダルムシュタット星域の孤児院、失踪十一名。処理は家出。
三枚目。二年前、リューゲン、施療院の閉鎖。収容児童七十名の行き先、記録なし。
いずれも辺境である。
いずれも身寄りのない子供である。
いずれも、誰も探していない。
ケスラーは椅子の背に体重を預けた。
若い頃、彼は数えきれないほどの犯罪を扱った。
犯罪には目的がある。金か、権力か、憎悪か。
これには金の匂いがしない。
売り払うなら、健康な子を選ぶ。
「適性」という欄は要らない。
そして、グラーツの報告書の一行が彼の目に刺さっていた。
「容疑者は撤収に際し、貨物および人員を全て遺棄して離脱」
金が目的なら、荷を捨てて逃げる密輸業者はいない。
彼らが守ったのは、荷ではない。
組織そのものである。
「選別している」
声に出して、彼はそう言った。
誰もいない部屋だった。
――誰かが、辺境の孤児を組織的に集めている。
――網は大きく、古い。
「大尉」
副官が入ってきた。
「憲兵隊に下命する。辺境の孤児院と施療院、全部だ。過去十年、いや二十年分、収容と転出の記録を洗え」
副官はしばらく黙っていた。
「……閣下。辺境の施設は、幾つあるのかも把握されておりません。万を下ることはないかと」
「だろうな」
「収容の記録は各星系の行政府にございます。旧貴族領の一部は、領主家が絶えており、書庫の所在も不明であります」
「だろうな」
「閣下。……捜査で、ありますか」
「そう言えるものなら、そう言いたい」
ケスラーは言った。
「孤児院は、内務省の庭だ」
「では」
「記録を借りるだけだ。断られたら、断られたと書け」
副官は記録板を下ろした。
「……閣下。憲兵隊の治安維持権を発動すれば、令状は要りませぬ」
ケスラーは副官を見た。
若い男である。悪意はない。近道を見つけて、報告しただけだ。
「使わん」
「は」
「あれは、理由の後付けを前提とする権限だ」
ケスラーは三枚の紙を重ねた。
「私は、先に理由の書ける仕事しかせん」
「……一年程度あれば、終わりましょうか」
「終わらん」
副官は敬礼して去った。
副官が出ていったあと、ケスラーは長いこと三枚の紙を見ていた。
自分の仮説が正しいことを彼はほぼ確信していた。
そして、確信は証拠にならないことも三十年の職務で知り抜いていた。
だが今は、紙を集めるほかにできることがない。
***
練習艦アドラーシュテルンは帝都へ向かっていた。
臨時の同乗者が一人いる。
リーゼは初日で艦を征服した。
厨房でトビアスの隣に座り、乗員の好物の聞き取りを手伝い、というより邪魔をし、機関区画以外の全部に出没した。
「クラインさま!」
通路の向こうから駆けてくる。
クラインは立ち止まった。
逃げなかったのは、逃げる理由を思いつかなかったからである。
「ちがう、えっと、ほしょうにん、だから……」
リーゼは憲兵中尉から仕入れた知識を、たどたどしく繰った。
「おにいさま?」
「……クラインで、結構です」
「おにいさま!」
「クラインです」
「クラインおにいさま!」
「折衷案は、求めておりません」
「クライン・ヴァルターおにいさま!」
「長くなっただけです」
リーゼは満足そうだった。
議論に勝ったと思っている顔だった。
「おにいさま、ごはんまだ?」
会話が成立していなかった。
クラインは助けを求めるように周囲を見た。
周囲には笑いを噛み殺しているフェリックスしかいなかった。
「妹ができたな」
「保証人です」
「同じことだろ」
「法的に、全く違います」
「へえ。どう違う」
「保証人は、書類上の責任者です。妹は」
クラインはそこで止まった。
「妹は?」
「……定義が、ございません」
フェリックスは廊下に響く声で笑った。
リーゼがクラインの袖を掴んだ。
クラインの体が一瞬こわばった。彼は人に袖を掴まれたことがない。
振り払う理由を探して、見つからず、そのままにした。
そのままにしたのである。
フェリックスはそれを見ていた。
見て、何も言わなかった。言わない優しさを、彼はトビアスから習い始めていた。
「おにいさま。髪、はねてる。ずっと」
「機能には影響しません」
「へんなの」
「機能には影響しません」
「二回いった」
クラインは口を閉じた。
反論なら、あった。
整髪は本務でなく、艦内規定は清潔のみを求め、跳ねの有無は規定の枠外である。
そこまで組み立てて、やめた。
七歳を論破しようとしている自分に気づいたからである。
リーゼは背伸びをして、彼の後頭部を手のひらで押さえた。
押さえている間だけ、髪は寝ていた。
手を離すと、元に戻った。
「……ほらね」
何が「ほら」なのか、クラインには分からなかった。
分からないまま、彼は何も言わなかった。
フェリックスが壁に頭をぶつけて笑った。
クラインは黙って、手のひらで髪を押さえた。
直らなかった。
***
厨房ではトビアスの聞き取りが再開されていた。
リーゼは助手の席に納まり、隣で手帳を覗き込んでいる。
「おにいさま、好きな食べ物は」
不意打ちだった。
「……特に」
「ないの?」
「ありません」
トビアスが手帳を開いたまま顔を上げた。
「……お前、一個も?」
「一個も」
「甘いのも?しょっぱいのも?温かいのと冷たいのなら?」
「栄養価に差がなければ、同じです」
トビアスはしばらくクラインを見ていた。
それから何か言いかけて、やめて、頁をめくった。
その頁は、白紙のままになった。
***
リーゼは艦のどこにでも現れたが、一箇所だけ、決して近づかなかった。
医務室である。
通路の分岐で医務区画の標示が見えると、彼女は理由も言わずに反対側を選んだ。
軍医が健診に呼んだときは、廊下の端で足が止まり、動かなくなった。
結局、健診は士官室を借りて行われた。
消毒液が嫌いなのだろう、と皆は思った。
子供は、そういうものである。
クラインだけが、何も思わなかった。
思わないように、していた。
***
深夜、フェリックスは寝台の上で目を覚ました。
向かいの寝台で、クラインが起き上がっていた。
背を丸め、両手で顔を覆っている。肩が細かく震えていた。
「おい」
「……」
「悪い夢か」
長い間があった。
「……見ていました」
「なに」
クラインは顔を上げた。
暗がりの中で、その目は開いていた。眠っている者の目ではなかった。
「見て、いました」
それだけだった。
彼は寝台に横になり、壁のほうを向いた。
フェリックスはしばらく天井を見ていた。
何を聞けばいいのか、わからなかった。聞けば、この男が壊れる気がした。
彼は右手の拳を一度だけ握って、開いた。
***
翌朝、クラインの寝台の脇に菓子がひとつ置いてあった。
配給の甘味を誰かが食べずに取っておいたものである。
包み紙に鉛筆で歪んだ楕円が描いてあった。
クラインはそれをしばらく見ていた。
食べなかった。捨てもしなかった。
私物の、本の隣に置いた。
***
「休暇の届出だ。全員、帰省先を書け」
教官が用紙を配って出ていくと、士官次室は途端に騒がしくなった。
帝都に着けば、短い休暇がある。
フェリックスは迷いなく書いた。
ミッターマイヤー元帥官邸。
トビアスも書いた。
ブリュックナー商会。
クラインはその欄をしばらく見ていた。
「クライン。お前、毎年そこ空欄だろ」
フェリックスが覗き込んだ。
「今年も帰るとこないのか」
「……」
クラインはペンを置かなかった。
置かないまま、しばらく動かなかった。
「ヴァルター」
向かいの席で、ハインリヒが顔も上げずに言った。
「貴様はあの子の身元保証人だ。保証人は、被保証人と連絡の取れる場所にいる義務がある」
「……存じております」
「では、書ける」
ハインリヒはそれきり自分の用紙に戻った。
親切をしたつもりは、彼にはなかった。規定を述べただけである。
クラインは、書いた。
書いてから、自分が何を書いたのかをもう一度読んだ。
グリューネワルト伯爵夫人離宮
彼の帰省先である。
***
帝都が舷窓に大きくなった。
「おにいさま、リーゼね、おおきなおうちにいくの」
「聞いております」
「まどが、いっぱいあるんだって」
「……そうですか」
「くるでしょ」
疑問文ではなかった。
クラインは休暇届の写しを内ポケットに入れていた。
そこには、彼の帰省先が書いてある。
***
艦が帝都に着く前の晩、アレクは自室で手帳を開いた。
四十七行の名前がある。全部に、点が打ってある。
保護された四十一名の名を彼は新しい頁に写した。
三名分は、写せなかった。名を言わない子の欄には憲兵の付けた仮の番号しかない。
彼はその三行に、番号を写さなかった。
空白のまま、点だけを打った。
いつか名前がわかったら書く、というつもりだった。
書けるとは、限らなかった。
そして、乗って行った子供たち。
貨物艇に、何人いたのか。
憲兵の報告書には推定の数字しかない。
初陣のとき、彼は一万二千の名を数えられなかった。
今度は、数も残らなかった。
手帳の隅に歪んだ楕円が一つある。
丸というより、楕円だった。
それを描いた子は、いま隣の区画で眠っている。
明日、艦は帝都に着く。
その子は宮廷には上がらず、皇帝の伯母の離宮へ行く。
名は離宮の家人の帳面に、一行だけ書き足される。
宮廷の記録には、何も残らない。
手帳には四十七行の名前がある。
そのうち一行だけが、明日、どこかに書き写される。