銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十二話 消えた子供たち(後編)

【新帝国暦十六年・秋 惑星グラーツ軌道 練習艦アドラーシュテルン】

 

 

消灯後の居住区で、三人は私服に着替えた。

 

私服といっても、候補生の外出着である。

徽章を外せば、どこの子ともつかない。

アレクは、鏡の前で襟を直した。

直しながら、頭の中でいくつものものが動いている。

 

規律違反。皇帝の身。憲兵中尉の顔。ミッターマイヤー元帥の顔。母の顔。

 

それから、名簿にない名前。

 

選ぶまでに、いつも一拍かかる。

その一拍を、彼は自分で嫌っている。

 

「陛下」

クラインが言った。

「これは、記録に残ります」

 

「どちらが」

 

「行けば、艦の日誌に。行かなければ」

クラインは、そこで止まった。

「いえ。何も残りません」

 

アレクは、クラインの顔を見た。

この男は、いつも正しいことを、いちばん困る形で言う。

 

「行こう」

 

「よし」フェリックスが窓の外を見た。港の灯が滲んでいる。

「言っとくが、俺は最初から行くつもりだったぜ」

 

「知ってるさ」

 

 

***

 

 

夜間の舷門には、当直が立つ。

 

停泊中の警備は港側の憲兵と艦の当直に分かれ、候補生居住区の当直は上級生の持ち回りである。

今夜の当直割を、三人は確認していなかった。

 

舷門の灯りの下に、姿勢のいい影が立っていた。

 

「……最悪だ」

フェリックスが呻いた。

 

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクは、三人を等分に見た。

それから、時計を見た。

 

「二三四〇。消灯後一時間十分。私服。氏名と用件。規則だ」

 

「散歩だよ」

 

「艦外は散歩と言わない」

 

「じゃあ遠足だ」

 

「ミッターマイヤー。貴様の頭の中身は、いつか解剖して確かめたいものだ」

 

「褒めても何も出ねえぞ」

 

ハインリヒは、フェリックスを無視してアレクを見た。

アレクは、嘘をつかなかった。

この相手に嘘は通らない。

それだけは、三年でわかっている。

 

「救護院の子が一人、名簿ごと消えた。港の中継倉庫に、物資の線がある。確かめに行く」

 

「陛下。それは憲兵の管轄にございます。」

 

「憲兵は動かない。子どもたちには親権者も法定代理人もいない。届出を出せる者がいないからだ」

 

「では明朝、艦長経由で」

 

「明朝には、出港している」

 

沈黙があった。

ハインリヒは、記録板を持ち上げた。

三人は身構えた。

 

彼は、何も書かなかった。

 

「無断外出は重大な規律違反。発見した当直には、報告の義務がある」

彼は記録板を小脇に挟んだ。

「ただし、現認なき報告は憶測だ。私は憶測で報告しない」

 

「……つまり?」

 

「現認する。最後まで」

 

彼は舷門の管制盤に当直代理の登録を打ち込み、外套を取った。

フェリックスが、口を半開きにした。

 

「ついてくるのか」

 

「貴様らを現認しに行く。以上」

 

「……それ、屁理屈って言うんだぞ」

 

「運用と言う」

 

 

***

 

 

港湾区の東端に、中継倉庫が並んでいる。

 

夜の倉庫街には、誰もいなかった。

街灯が一つ置きに切れている。

足元の水たまりに、油が浮いていた。

 

クラインが立ち止まった。

 

「三番倉庫です」

 

「なんでわかる」

 

「他の倉庫の搬入記録は、港湾管理局の掲示にあります。三番だけ、ありません」

 

「ヴァルター。合理的だ」

 

クラインが、わずかに驚いた顔をした。

ハインリヒに褒められたのは、食堂の一件以来二度目である。

驚いたのは、そのせいだけではなかったかもしれない。

 

フェリックスが、右手の拳を一度だけ握って、開いた。

無意識の動作である。

 

「拳を握る回数が、増えています」

クラインが言った。

 

「数えてんじゃねえよ」

 

「数えなくても分かります」

 

「うるせえ」

 

「ミッターマイヤー」ハインリヒが前を向いたまま言った。

「緊張なら、するがいい。しない者から死ぬ」

 

「誰が緊張してるって?」

 

「貴様の拳が、四十秒に一度閉じている」

 

「……お前も数えてんのかよ!」

 

 

***

 

 

三番倉庫の裏手に、貨物艇の発着場があった。

搬入口の扉が半分開き、作業灯の光が漏れていた。

 

四人は、積み上げられた空コンテナの陰に入った。

アレクが、まず見た。

 

 

***

 

 

倉庫の床に、子供が座っていた。

 

数えようとして、数えられなかった。

三十人か、四十人か。

皆、床に膝を抱えて座り、誰も喋っていない。

泣いている子はいなかった。

それが、いちばん怖かった。

 

服は清潔だった。

髪は刈り揃えられていた。

誰も痩せていなかった。

手首に、紙の札が結ばれている。

遠くて字は読めない。

だが、それが名前ではないことは、

わかった。字の形が、短すぎた。

 

「……番号だ」

フェリックスが呟いた。

 

匂いがした。

石鹸と、消毒液。

 

クラインが、止まった。

 

アレクは、隣を見た。

クラインの顔は動いていない。

呼吸も乱れていない。

ただ、外套の裾を握った指が、白かった。

 

「クライン」

 

「……はい」

 

「知っているのか」

 

長い沈黙があった。

倉庫の梁が、どこかで軋んだ。

 

「いえ」

クラインは言った。

「知りません」

 

アレクは、それが嘘だとわかった。

わかったが、追及しなかった。

追及すれば、この男は答えるだろう。

答えたあとで、彼は輪の外に出ていくだろう。

そういう予感が、なぜかした。

 

 

***

 

 

奥の壁際に、一人だけ立っている子供がいた。

 

十二か、十三か。

アレクたちとそう変わらない。

やせて、背が高く、姿勢がよかった。

座っている子供たちを、見張っている。

 

灰色の目をしていた。

 

彼は、動かなかった。誰も殴らず、誰も急かさない。

ただ、見ていた。

 

 

***

 

 

「おい。誰だ」

 

声は、横からした。

 

作業員の男が三人、通路を塞いでいた。手に管制棒。

その後ろから、さらに二人。

 

「餓鬼か」

先頭の男が、拍子抜けした声を出した。

「どこから入った。ここは立入禁止だぞ」

 

「積み荷を見せてもらいたい」

アレクが言った。

 

「……はあ?」

 

「そこにいるのは、救護院の子供たちです。搬出の許可証があるなら、見せてください」

 

男たちは、顔を見合わせた。

それから、笑った。

 

「役人ごっこか。夜遊びは家でやれ」

先頭の男が、管制棒を無造作に振り上げた。

「怪我したくなきゃ」

 

振り下ろされなかった。

 

フェリックスが、懐に入っていた。

 

 

***

 

 

体術の名手であることを、彼はほとんど自慢しない。

自慢しないのは、それが最後の武器だと知っているからだ。

艦を降り、艇を降り、剣を落としてもなお残るもの。

彼にとって、自分の体だけが、誰の血にも属さない持ち物だった。

 

肘。膝。肩。三つの音がして、男が崩れた。

 

「ッ、ガキが!」

 

二人目の棒が横から来る。

フェリックスは受けない。

半歩引いて空を切らせ、伸びた腕を取って、投げた。

男はコンテナに背中から突っ込んだ。

 

三人目と四人目が、同時に来た。

 

三人目の足元へ、クラインが空コンテナを蹴り倒す。

角度は計算されていた。男は箱に足を取られ、顔から落ちた。

 

四人目の正面に、ハインリヒが立った。

 

彼の構えは、教範に載っている構えだった。

左半身、顎を引き、拳は頬の高さ。

挿絵にしてもいいくらい、正確だった。

 

「教本どおりだな!」フェリックスが叫んだ。

 

「そうだ」

 

男の棒が振り下ろされる。

ハインリヒは教本どおりに半身で外し、教本どおりの正拳を、教本どおりの位置に打ち込んだ。

男は、教本どおりに崩れ落ちた。

 

「ほら見ろ。教本は正しい」

 

「今の避け方、俺が演習でやったやつだろ!」

 

「徒手格闘教範第七巻に載っている。貴様が教範どおりに動いただけだ」

 

「載ってねえよ!」

 

「載っている。頁数まで言おうか」

 

言い合いながら、二人は五人目を挟み撃ちにしていた。

男は左右を見て、逃げた。

 

 

***

 

 

アレクは、戦っていなかった。

 

彼は座っている子供たちのほうへ走った。

走りながら、倉庫の奥に目をやった。

事務机。通信機。そして、通信機に手を伸ばしている、六人目の男。

 

「フェリックス!」

 

フェリックスが振り向く。遠い。間に合わない。

 

そのときアレクの横を、何かが飛んだ。

ハインリヒの投げた管制棒が、回転しながら通信機に当たり、卓上の機器ごと床に薙ぎ払った。

 

「通信は現認の妨げになる」

 

「便利だな、その理屈!」

 

 

***

 

 

「――そこまでです」

 

新しい声だった。

 

搬入口の奥から、男が一人、歩いてきた。

四十がらみ。作業着。手には何も持っていない。

倒れている部下たちを一瞥もしなかった。

 

「お強い。驚きました」

男は言った。声は柔らかく、両手は前で組まれていた。

院長と同じ組み方だった。

「ですが坊ちゃん方、これは誘拐ではありませんよ」

 

「なぜ、今夜なんです」

アレクが言った。

「皇帝が、この星にいる。あなた方も、それを知っているはずだ」

 

男は、少し不思議そうな顔をした。

質問の意味が、本当に分からないという顔だった。

 

「予定日でしたので」

 

「……予定日」

 

「月の第二週の、後の艇です。二年、変えておりません」

男は言った。

「変える理由が、ございません」

 

アレクは、返す言葉を持たなかった。

 

「坊ちゃん。この子らを、誰が探しましたか」

男の声は、恨みも憎しみも帯びていなかった。

事実を確認する声だった。

「工場が閉じ、親が死に、領主が絶えた。この星の子です。憲兵は調べません。捜査の端緒となる書類が出ないからです。役所は数えません。予算がないからです。帝国は、この子らが生まれたことを、そもそも記録していない」

 

「……記録は」

 

「ございません」

男は言った。

「一行も」

 

背後で、貨物艇の機関が始動した。

低い震動が、床から靴の裏へ上がってきた。

 

「私どもは、拾っただけです」

男は言った。

「さあ、お帰りなさい。親御さんが心配して――」

 

「陛下」

 

ハインリヒの声だった。

 

彼は負傷の有無を確認するために言ったのである。上官の安否確認。軍隊の作法。

彼は作法を、一度も間違えない。

その正しさが、この夜だけ、最悪の場所に落ちた。

 

男の顔から、笑みが消えた。

 

 

***

 

 

男は、アレクを見た。

初めて、まともに顔を見た。

 

肖像画と、目の前の少年が、男の中で重なっていく。それが見て取れた。

 

「……なんということだ」

 

男は一歩下がった。

そして、倉庫の奥に向かって、短く二度、手を叩いた。

 

積込みの動きが、一斉に止まった。

 

「撤収」

 

「頭、しかし荷が――」

 

「置いていく。全部だ」

男の声は、もう柔らかくなかった。「艇を上げろ。三十秒」

 

 

***

 

 

作業員たちが、蜘蛛の子を散らすように動いた。

倒れていた男たちさえ、引きずられて艇に運ばれていく。

子供たちは、床に座らされたまま、置き去りにされ始めた。

 

「待て!」フェリックスが叫んだ。

「逃げるのか!」

 

男は、ハッチの前で一度だけ振り返った。

 

「坊ちゃん。……いえ」

彼は、深く、正確に頭を下げた。

「陛下。御身に傷ひとつでも付けば、私どもの網は、明日までに帝国軍に焼かれます。二十年かけた網です。あなた一人と、引き換えにはできません」

 

「網……?」

 

「ご健勝で」

 

 

***

 

 

だが、全員は退けなかった。

 

座っている子供たちのいちばん奥、壁際の一列は、すでに手首の札を鎖で連結されていた。

最後の作業員が、その鎖の端を掴んで引き立たせようとしていた。十人ばかりの子供が、立ち上がる。

 

その先頭に、リーゼがいた。

 

「リーゼ!」

 

アレクは走った。

考えるより先に、体が出ていた。彼はいつも一拍遅い。この時だけは、遅れなかった。

 

鎖を引く男が振り向き、空いた手の棒がアレクに向かって薙がれた。

 

それはアレクに届かなかった。

フェリックスが横から男の腕ごと止め、二人はもつれて倒れた。棒が床を転がった。

 

男は体重でフェリックスを組み敷き、拳を振り上げた。

 

その拳は、落ちてこなかった。

ハインリヒが背後から男の腕を教本どおりに極めて、教本どおりの角度で床に沈めたからである。

 

「……助かった」

フェリックスが、肘をついて起き上がった。

 

「礼は不要」

 

「言ってねえよ。まだ」

 

「では早く言え」

 

 

***

 

 

鎖に繋がれた子供たちが、立ち尽くしていた。

 

逃げていいのか、どうかも、わからない顔だった。

アレクは、その先頭の小さな影の前に、膝をついた。

 

「リーゼ」

 

前歯の抜けた顔が、彼を見上げた。

二日ぶりだった。二日で、その顔は表情の作り方を半分忘れていた。

 

「……印の、ひと?」

 

「そうだよ」

 

リーゼの顔が、ゆっくりと、くしゃりと崩れた。

泣き方は、忘れていなかった。

 

 

***

 

 

貨物艇は上がった。

 

四十人近い子供と、鎖の一列だけを残して。

噴射の光が発着場を白く焼き、光が消えたとき、空には何も残っていなかった。

 

奥の壁際に、灰色の目の少年が、まだ立っていた。

 

彼は乗り遅れたのではなかった。

「撤収」の声のとき、彼は動ける位置にいた。動かなかったのである。

 

彼は、残された子供たちを見た。鎖を、見た。

それから、アレクを見て、フェリックスを見て。

最後に、クラインで、止まった。

 

値踏みするのでも、恐れるのでもなかった。

ちょうど、教官が候補生の演習を採点するときの目に似ていた。

 

長い、長い数秒だった。

 

やがて彼は、壁際の非常口をゆっくりと押し開けた。

外套の襟が、そのときわずかに開いた。

 

首に、細い鎖が下がっていた。

飾りには見えなかった。金属は鈍く、留め具が首の後ろではなく、前についていた。

自分では外せない位置である。

 

「おい」

 

フェリックスが一歩踏み出したときには、扉は閉じていた。

追う音はしなかった。最初から、そこにいなかったかのようだった。

 

 

***

 

 

「クライン」

フェリックスが言った。声が乾いていた。

「あの艇、何人乗ってた」

 

「……」

 

「おい」

 

「数えていません」

クラインは言った。

 

彼が数えなかったことなど、フェリックスが知る限り一度もなかった。

 

 

***

 

 

憲兵が来たのは、二十分後だった。

通報したのはハインリヒである。

彼は現認を終えたので、報告した。

それだけのことだった。

 

事件は、翌日には片づかなかった。

 

保護された児童、四十一名。

逮捕者、一名。鎖を引いていた男である。

他は艇で離脱した。

男は雇われの港湾労働者で、雇い主の名を知らなかった。

日当は現金で、指示は紙で来た。紙は残っていなかった。

 

貨物艇の航跡は追えなかった。発着記録は、そもそも提出されていなかった。

 

救護院の院長は、事情聴取に穏やかに応じた。

本部の名を挙げ、書式を提出し、帳簿を差し出した。

何も出てこなかった。

彼女は、本当に何も知らなかった。

 

四十一名の子供は、帝室直轄領の行政府が引き取った。

名前のわかる子が、三十八名。

残りの三名は、自分の名を言わなかった。

言えないのか、言わないのかも、わからなかった。

 

 

***

 

 

リーゼは、戻るのを拒んだ。

 

正確には、救護院の門の前で足が止まり、動かなくなった。

理由を、彼女は言えなかった。

七歳に、あの建物の何が怖いのかを言語化することはできない。

 

「陛下。この子の処遇でありますが」

憲兵中尉は、書類を前に困惑していた。

「保護児童は、原施設へ返還いたします。それが定めであります。親権者も、法定代理人も、身元保証人もございません。……この子について、法は、何も定めておりません」

 

「あの建物に、返すんですか」

 

「……はい」

 

「あの建物から、消えた子です」

 

中尉は、答えなかった。

答えるべき条文を、彼は持っていなかったのである。

 

「では、返さないでいただきたい」

 

「……その手続が、ございません」

 

沈黙が落ちた。

 

「帝都に、連れて帰ります」

アレクが言った。

「宮廷には、子供を預かった先例がある。伯母上に、僕からお願いする」

 

「陛下。それは、規定に――」

 

中尉は、そこで言葉を切った。

彼は書類の束を繰った。

一枚、二枚。

繰る手が、途中で止まらなかった。

彼は最初から、探す書類を決めていたのである。

 

三枚目を、彼は机に置いた。

 

「戦災孤児用の身元保証届であります」

中尉は言った。

「…この子は、戦災孤児ではありませんが」

 

「使えるんですか」

 

「使えぬ、とは、法のどこにも書かれておりません」

 

保証人の欄が、空白だった。

 

アレクがペンを取った。

その手を、遮った者がいた。

 

 

***

 

 

「私が書きます」

クラインだった。

 

アレクは、手を止めた。

フェリックスも、ハインリヒも、中尉も、クラインを見た。

 

「陛下の署名は、政治になります」

クラインは言った。

声は、いつもどおり平坦だった。

「一人の孤児に皇帝が保証人として立てば、先例になる。先例は、利用されます」

 

理屈は、完璧だった。

完璧すぎた。

 

アレクは、ペンを差し出した。

何も言わなかった。

 

クラインは、書類を引き寄せた。

 

保証人の欄に、自分の名を書いた。

彼の字は、機械のように整っている。

だがその一行だけ、最後の一画が、ほんのわずかに乱れた。

 

書き終えて、彼はしばらく、自分の書いた名を見ていた。

 

拾われた子供が、拾う側の欄に、名前を書いた。

十三年前、この欄に誰かが名前を書いたから、自分は今ここにいる。

そのことを、彼はこの夜、初めて外側から見た。

 

彼は書類を中尉に返した。

礼を言うべきなのか、言われるべきなのか、わからないという顔をしていた。

 

 

***

 

 

リーゼは、机によじ登るようにして、書かれたばかりの署名を覗き込んだ。

 

「クライン・ヴァルター」

 

一字ずつ、声に出して読んだ。読めたことが嬉しそうだった。

それから、自分の書類の氏名欄を見た。

 

Liese(リーゼ)

 

五文字だけの欄を。

 

「……名前、ふたつも、あるんだ」

 

羨む声だった。

 

クラインは、何も言わなかった。

一つは借り物です、と言いかけて、七歳に通じる説明を持っていなかったのである。

説明を持っていないことに、彼自身、この時はじめて気がついた。

 

 

***

 

 

【同時期 帝都レーヴェンシュテルン 軍務尚書執務室】

 

 

ウルリッヒ・ケスラーの机には、辺境から上がってくる書類が積まれている。

そのほとんどは、読む価値がない。

 

彼は、三枚を横に並べた。

 

一枚目。惑星グラーツ、児童救護院、集団移送の未遂。保護児童四十一名、うち三名は氏名不詳。押収帳簿に番号と「適性」の記載。

二枚目。半年前、ダルムシュタット星域の孤児院、失踪十一名。処理は家出。

三枚目。二年前、リューゲン、施療院の閉鎖。収容児童七十名の行き先、記録なし。

 

いずれも辺境である。

いずれも身寄りのない子供である。

いずれも、誰も探していない。

 

ケスラーは、椅子の背に体重を預けた。

若い頃、彼は数えきれないほどの犯罪を扱った。

犯罪には目的がある。金か、権力か、憎悪か。

 

これには、金の匂いがしない。

売り払うなら、健康な子を選ぶ。

「適性」という欄は要らない。

 

そして、グラーツの報告書の一行が、彼の目に刺さっていた。

 

「容疑者は撤収に際し、貨物および人員を全て遺棄して離脱」

 

金が目的なら、荷を捨てて逃げる密輸業者はいない。

彼らが守ったのは、荷ではない。

組織そのものである。

 

「選別している」

 

声に出して、彼はそう言った。

誰もいない部屋だった。

 

――誰かが、辺境の孤児を、組織的に集めている。

――網は大きく、古い。

 

「大尉」

 

副官が入ってきた。

 

「憲兵隊に下命する。辺境の孤児院と施療院、全部だ。過去十年、いや二十年分、収容と転出の記録を洗え」

 

副官は、しばらく黙っていた。

 

「……閣下。辺境の施設は、幾つあるのかも把握されておりません。万を下ることはないかと」

 

「だろうな」

 

「収容の記録は、各星系の行政府にございます。旧貴族領の一部は、領主家が絶えており、書庫の所在も不明であります」

 

「だろうな」

 

「閣下。……捜査で、ありますか」

 

「そう言えるものなら、そう言いたい」

ケスラーは言った。

「孤児院は、内務省の庭だ」

 

「では」

 

「記録を借りるだけだ。断られたら、断られたと書け」

 

副官は、記録板を下ろした。

 

「……閣下。憲兵隊の治安維持権を発動すれば、令状は要りませぬ」

 

ケスラーは、副官を見た。

若い男である。悪意はない。近道を見つけて、報告しただけだ。

 

「使わん」

 

「は」

 

「あれは、理由の後付けを前提とする権限だ」

ケスラーは、三枚の紙を重ねた。

「私は、先に理由の書ける仕事しかせん」

 

「……一年程度あれば、終わりましょうか」

 

「終わらん」

 

副官は、敬礼して去った。

 

 

副官が出ていったあと、ケスラーは長いこと、三枚の紙を見ていた。

 

自分の仮説が正しいことを、彼はほぼ確信していた。

そして、確信は証拠にならないことも、三十年の職務で知り抜いていた。

 

だが今は、紙を集めるほかにできることがない。

 

 

***

 

 

練習艦アドラーシュテルンは、帝都へ向かっていた。

 

臨時の同乗者が一人いる。

リーゼは、初日で艦を征服した。

厨房でトビアスの隣に座り、乗員の好物の聞き取りを手伝い、というより邪魔をし、機関区画以外の全部に出没した。

 

「クラインさま!」

 

通路の向こうから、駆けてくる。

クラインは、立ち止まった。

逃げなかったのは、逃げる理由を思いつかなかったからである。

 

「ちがう、えっと、ほしょうにん、だから……」

リーゼは、憲兵中尉から仕入れた知識を、たどたどしく繰った。

 

「おにいさま?」

 

「……クラインで、結構です」

 

「おにいさま!」

 

「クラインです」

 

「クラインおにいさま!」

 

「折衷案は、求めておりません」

 

「クライン・ヴァルターおにいさま!」

 

「長くなっただけです」

 

リーゼは満足そうだった。

議論に勝ったと思っている顔だった。

 

「おにいさま、ごはんまだ?」

 

会話が成立していなかった。

クラインは、助けを求めるように周囲を見た。

周囲には、笑いを噛み殺しているフェリックスしかいなかった。

 

「妹ができたな」

 

「保証人です」

 

「同じことだろ」

 

「法的に、全く違います」

 

「へえ。どう違う」

 

「保証人は、書類上の責任者です。妹は」

 

クラインは、そこで止まった。

 

「妹は?」

 

「……定義が、ございません」

 

フェリックスは、廊下に響く声で笑った。

 

リーゼが、クラインの袖を掴んだ。

クラインの体が、一瞬こわばった。彼は、人に袖を掴まれたことがない。

振り払う理由を探して、見つからず、そのままにした。

 

そのままにしたのである。

 

フェリックスは、それを見ていた。

見て、何も言わなかった。言わない優しさを、彼はトビアスから習い始めていた。

 

 

***

 

 

「おにいさま。髪、はねてる。ずっと」

 

「機能には影響しません」

 

「へんなの」

 

「機能には影響しません」

 

「二回いった」

 

クラインは、口を閉じた。

 

反論なら、あった。

整髪は本務でなく、艦内規定は清潔のみを求め、跳ねの有無は規定の枠外である。

そこまで組み立てて、やめた。

七歳を論破しようとしている自分に、気づいたからである。

 

リーゼは背伸びをして、彼の後頭部を手のひらで押さえた。

押さえている間だけ、髪は寝ていた。

手を離すと、元に戻った。

 

「……ほらね」

 

何が「ほら」なのか、クラインには分からなかった。

分からないまま、彼は何も言わなかった。

 

フェリックスが、壁に頭をぶつけて笑った。

 

クラインは黙って、手のひらで髪を押さえた。

直らなかった。

 

 

***

 

 

厨房では、トビアスの聞き取りが再開されていた。

リーゼは助手の席に納まり、隣で手帳を覗き込んでいる。

 

「おにいさま、好きな食べ物は」

 

不意打ちだった。

 

「……特に」

 

「ないの?」

 

「ありません」

 

トビアスが、手帳を開いたまま顔を上げた。

 

「……お前、一個も?」

 

「一個も」

 

「甘いのも? しょっぱいのも? 温かいのと冷たいのなら?」

 

「栄養価に差がなければ、同じです」

 

トビアスは、しばらくクラインを見ていた。

それから何か言いかけて、やめて、頁をめくった。

 

その頁は、白紙のままになった。

 

 

***

 

 

リーゼは艦のどこにでも現れたが、一箇所だけ、決して近づかなかった。

 

医務室である。

 

通路の分岐で医務区画の標示が見えると、彼女は理由も言わずに反対側を選んだ。

軍医が健診に呼んだときは、廊下の端で足が止まり、動かなくなった。

結局、健診は士官室を借りて行われた。

 

消毒液が嫌いなのだろう、と皆は思った。

子供は、そういうものである。

 

クラインだけが、何も思わなかった。

思わないように、していた。

 

 

***

 

 

深夜、フェリックスは寝台の上で目を覚ました。

 

向かいの寝台で、クラインが起き上がっていた。

背を丸め、両手で顔を覆っている。肩が、細かく震えていた。

 

「おい」

 

「……」

 

「悪い夢か」

 

長い間があった。

 

「……見ていました」

 

「なに」

 

クラインは顔を上げた。

暗がりの中で、その目は開いていた。眠っている者の目ではなかった。

 

「見て、いました」

 

それだけだった。

彼は寝台に横になり、壁のほうを向いた。

 

フェリックスは、しばらく天井を見ていた。

何を聞けばいいのか、わからなかった。聞けば、この男が壊れる気がした。

 

彼は、右手の拳を一度だけ握って、開いた。

 

 

***

 

 

翌朝、クラインの寝台の脇に、菓子がひとつ置いてあった。

 

配給の甘味を、誰かが食べずに取っておいたものである。

包み紙に、鉛筆で歪んだ楕円が描いてあった。

 

クラインはそれを、しばらく見ていた。

食べなかった。捨てもしなかった。

 

私物の、本の隣に置いた。

 

 

***

 

 

「休暇の届出だ。全員、帰省先を書け」

 

教官が用紙を配って出ていくと、士官次室は途端に騒がしくなった。

帝都に着けば、短い休暇がある。

 

フェリックスは、迷いなく書いた。

ミッターマイヤー元帥官邸。

 

トビアスも書いた。

ブリュックナー商会。

 

クラインは、その欄をしばらく見ていた。

 

「クライン。お前、毎年そこ空欄だろ」

フェリックスが覗き込んだ。

「今年も帰るとこないのか」

 

「……」

クラインは、ペンを置かなかった。

置かないまま、しばらく動かなかった。

 

「ヴァルター」

向かいの席で、ハインリヒが顔も上げずに言った。

 

「貴様は、あの子の身元保証人だ。保証人は、被保証人と連絡の取れる場所にいる義務がある」

 

「……存じております」

 

「では、書ける」

 

ハインリヒは、それきり自分の用紙に戻った。

親切をしたつもりは、彼にはなかった。規定を述べただけである。

 

クラインは、書いた。

書いてから、自分が何を書いたのかを、もう一度読んだ。

 

  グリューネワルト伯爵夫人離宮

 

彼の帰省先である。

 

 

***

 

 

帝都星が、舷窓に大きくなった。

 

「おにいさま、リーゼね、おおきなおうちにいくの」

 

「聞いております」

 

「まどが、いっぱいあるんだって」

 

「……そうですか」

 

「くるでしょ」

 

疑問文ではなかった。

 

クラインは、休暇届の写しを内ポケットに入れていた。

そこには、彼の帰省先が書いてある。

 

 

***

 

 

艦が帝都に着く前の晩、アレクは自室で手帳を開いた。

 

四十七行の名前がある。全部に、点が打ってある。

 

保護された四十一名の名を、彼は新しい頁に写した。

三名分は、写せなかった。名を言わない子の欄には、憲兵の付けた仮の番号しかない。

 

彼は、その三行に、番号を写さなかった。

空白のまま、点だけを打った。

 

いつか名前がわかったら書く、というつもりだった。

書けるとは、限らなかった。

 

 

***

 

 

そして、乗って行った子供たち。

 

貨物艇に、何人いたのか。

憲兵の報告書には、推定の数字しかない。

 

初陣のとき、彼は一万二千の名を数えられなかった。

今度は、数も残らなかった。

 

 

***

 

 

手帳の隅に、歪んだ楕円が一つある。

 

丸というより、楕円だった。

それを描いた子は、いま隣の区画で眠っている。

 

明日、艦は帝都に着く。

その子は宮廷には上がらず、皇帝の伯母の離宮へ行く。

名は、離宮の家人の帳面に、一行だけ書き足される。

 

宮廷の記録には、何も残らない。

 

手帳には、四十七行の名前がある。

そのうち一行だけが、明日、どこかに書き写される。

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