銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十三話 ハイネセンの天気予報(新帝国暦十六年秋)

【新帝国暦十六年・秋 旧同盟・バーラト自治政府領 ハイネセンポリス郊外 第三運動公園】

 

 

 

週末の朝、バーラト自治政府領の首府ハイネセンポリスの郊外にある運動公園に、四千人ばかりの男女が集まっていた。

 

服装はばらばらである。運動着の者、作業着の者、なぜか釣りの装備の者。

 

年齢もばらばらだった。二十代から六十代まで。共通しているのは、全員がバーラト星系市民安全互助隊、通称「傘の会」の隊員証を持っていることだけである。

 

 

正式な招集通知は、三日前に各自の端末へ届いていた。

文面は毎回同じである。

 

「今週末、雨の予報」

 

雨など降らない。ハイネセンの気象制御は完璧である。

だが隊員たちは荷物をまとめ、家族に「天気が崩れるらしい」と言い残して、集まってくる。

 

家族も分かっている。分かっていて「傘、忘れないでね」と送り出す。

十億の人口を抱えるこの星系で、五百万人が、週末のこの遊びに参加していた。

 

 

***

 

 

【同日朝 保安局公用車】

 

 

公用車は、郊外へ向かう幹線を走っていた。

助手席の男は五十絡み。地味な背広。膝の上に手帳。

バーラト自治政府保安局次長、バグダッシュである。

運転しているのは、先月着任したばかりの若い局員だった。

 

信号で車が停まると、若者は懐から自分の手帳を取り出し、何かを書き足した。

 

「何を書いている」

 

「自治政府の組織図です。着任してから伺った話を、整理しておこうと」

 

「見せてみろ」

 

若者は手帳を渡した。

 

自治政府評議会。議長。事務総監。内務局。保安局。

線で結び、四角で囲ってある。新任者らしい、几帳面な図だった。

 

バグダッシュは、それを一瞥した。

「消せ」

 

「……は」

 

「正確に描けば、バーラトの和約に触れる。不正確に描けば、役に立たん」

 

手帳が返された。

「どのみち、持つだけ損だ」

 

若者は、しばらく黙って運転した。

 

「保安局長は、なぜ空席なんですか。なぜバグダッシュ次長は、『次長』なんですか」

 

「『保安』の語が、和約に触れかねんからだ。責任者を置かねば、組織は曖昧なままでいられる」

 

「……我々は、監査する側では」

 

「そうだ」

 

「自治政府議長は、どのような方ですか」

 

「……会えば、挨拶をする」

 

「実務は」

 

「事務総監だ。長はキャゼルヌ総監。行政、財政、通商、徴税。それに、庁舎の雨漏り」

 

「雨漏り」

 

「どこの部署にも属さん紙が、最後に流れ着く机がある。あそこがそうだ」

 

車は、運動公園の駐車場へ入った。

窓の外に、群れが見えてきた。運動着。作業着。釣りの装備。

 

「……次長。あれは」

 

「傘の会だ」

 

「五百万人の」

 

「登記簿には、民間団体とある」

 

若者は窓の外を見た。

運動着の男が、隣の男に受け身の取り方を教えていた。

 

「……昨夜、傘の会の隊員名簿を予習しました。『ユリアン・ミンツ』という名を、どこにも見つけられませんでした」

 

「見つからんだろうな」

 

「あの方は、この会の、何なんですか」

 

「何も。……書類の上ではな」

 

「最後にもう一つだけ。『国防』はどこの部署が」

 

車が停まった。

バグダッシュは手帳を仕舞い、帽子をかぶった。

「そんな部署はない」

 

若者は、少し考えた。

それから、言わなければよかった、という顔で言った。

 

「……『内務局』と、『傘の会』と、『保安局』の三つを足すと」

 

バグダッシュは、初めて若者のほうを見た。

「続けろ」

 

「いえ。旧自由惑星同盟の『国防委員会』の組織図を見たことがあります。警察と、予備役と、防諜。三つの機能を、国防委員会が束ねる図です」

 

「それで」

 

「……よく、似ています」

 

バグダッシュは、しばらく黙っていた。

「その委員会はもう無くなった。国ごとな」

 

「……仮定の話です。もし、もう一度委員会ができることがあれば。その時の、国防委員長は」

 

「そんな委員会はない」

 

「ですが、もし」

バグダッシュは、もう答えなかった。

 

 

***

 

 

「よし、第七章だ」

 

操艇教練場の壇上で、教官が教本を掲げた。

五十がらみの、日焼けした男である。元は同盟軍の輸送艇乗りだったという。

教え子は、傘の会の操艇課程の受講生たちである。

 

「教程第七章、『非常時操艇要領』。いいか、諸君の乗る連絡艇が、万が一、隕石群だの宇宙海賊だのに遭遇した場合の――」

 

「教官」

 

生徒の一人が手を挙げた。

 

「先週まで、この章の名前、『回避機動』じゃありませんでした?」

 

「変わったんだ」

 

「なんで変わったんですか」

 

教官は、教本の欄外を指で叩いた。

 

「前の持ち主が、ここに書いてる。――『名前は変わる。中身は変わらん。大人の事情だ』」

 

「大人の事情って、何ですか」

 

「その下にもある。『俺に言うな。書類に言え』」

 

生徒たちが笑った。

この教本の前の持ち主が誰なのか、生徒たちは知らない。

表紙の裏には、大きな字で一行だけ書いてある。

 

「ここで教えるのは逃げ方だけだ。文句は生きて帰ってから言え」

 

教練場の隅には、旧式のシミュレータが十二基並んでいる。

民間の操縦訓練用として登録された機材である。

設定を三箇所いじると単座式戦闘艇スパルタニアンの操縦特性を完全に再現することは、登録書類のどこにも書かれていない。

 

「じゃ、始めるぞ。今日の課題は三対一で囲まれた場合の――『複数脅威対象環境下における離脱』だ」

 

「長いですよ教官」

 

「俺に言うな」

 

教官は、欄外を叩いた。

 

「――と、ここに書いてある」

 

「主任教官は、今日は来ないんですか」

 

「体育館だ。白兵の日でな。……あの人は、体が二つ要る」

 

 

***

 

 

隣の体育館では、警察予備課程の逮捕術教練が行われていた。

 

「はい、もう一回」

 

カーテローゼ・フォン・クロイツェル・ミンツは、受け身を取り損ねた大男を見下ろして言った。

三十歳。傘の会の白兵技術主任教官である。

亡きワルター・フォン・シェーンコップの娘であり、『傘の会』会長のユリアン・ミンツの妻である。

 

どちらの肩書きも、彼女はこの体育館に持ち込まない。

ただ、彼女が持ち込まなくても、受講生は全員知っていた。

非武装を国是とする自治政府の、非武装の互助隊に、白兵技術の主任教官が置かれている。

 

その職名を不思議に思う者は、この星に一人もいなかった。

 

「あのですね、教官」

 

大男が床から起き上がった。元は自由惑星同盟軍の陸戦隊にいた男である。

 

「今の技、自分は軍で習った記憶がありますが」

 

「気のせいよ」

 

薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)の制圧術と、そっくりそのままで」

 

「これは『説得的接触』。警察予備課程、教程第四章」

 

カリンは涼しい顔で構え直した。

 

「相手を説得するの。体でね」

 

「説得って言うんですか、これ」

 

「言うの。書類ではね。――はい、次。四人がかりで来て」

 

四人の受講生が顔を見合わせ、意を決して同時にかかった。

八秒後、四人は床の上にいた。

 

「……教官。四人がかりで制圧する状況って、警察業務のどの局面を想定してるんですか」

 

「酔っ払いの保護」

 

「四人がかりで来る酔っ払いですか」

 

「ハイネセンの酒は強いのよ」

 

 

***

 

 

その様子を、見学席から眺めている男が一人いた。

五十絡み。地味な背広。膝の上に手帳。

 

「精が出ますな」

 

教練の切れ目に、バグダッシュはカリンへ声をかけた。

 

「あら次長。査察?」

 

「監査であります。バーラト和約適合性の、定期の」

 

バグダッシュは手帳を開いた。

 

「昨年度の指摘事項、教程名称の改定状況の確認に」

 

「誰に指摘されたの」

 

「……昨年、帝国の高等弁務官府から、照会が一通」

 

「一通」

 

「『貴自治領の互助隊における『突撃』なる教程は、いかなる災害を想定したものか』と」

 

「なんて答えたの」

 

「『用語の不適切な使用でありました』と」

 

カリンは、鼻から息を吐いた。

 

「ときに教官殿、先ほどの『説得的接触』ですが」

 

「問題あった?」

 

「いえ、技術的には何も。ただ、最後の一人の腕の極め方は、説得というより尋問の域でありましたな」

 

「あれは特別サービス」

 

「なるほど」

 

バグダッシュは手帳に何か書いた。

 

「『受講生の要望により応用技術を実演』と。……こう書いておけば、監査は通ります」

 

「書類って便利ね」

 

「便利ですとも」

 

バグダッシュは真顔で言った。

 

「私は書類に食わせてもらって三十年以上になります」

 

「はい、次。得物あり」

 

体育館の壁際から、受講生たちが得物を取ってきた。

柄の長い、片刃の斧である。

刃には樹脂の鞘がかぶせてあった。鞘の下は、炭素クリスタル製の戦斧(トマホーク)である。

見学席のバグダッシュが、手帳から顔を上げた。

 

「教官殿」

 

「なあに」

 

「その、失礼ながら、教程のどの章でありましょうか」

 

「第四章の三。『携行工具を用いた説得的接触』」

 

「工具」

 

「工具よ」

 

カリンは一本を取って、片手で回した。回し方に、迷いがなかった。

 

「災害救助に使うでしょう。倒木を切ったり、扉をこじ開けたり」

 

「なるほど。それで、その工具を持って、四人が同時にかかってくると」

 

「そういう状況もあるかもしれないじゃない」

 

「……どういう状況でありましょうか」

 

「酔っ払いの保護」

 

バグダッシュは、しばらく黙っていた。

それから、丁寧に聞いた。

 

「最近の酔っ払いは、戦斧(トマホーク)で襲いかかってくるのでありますか」

 

「ハイネセンの酒は強いのよ」

 

「強いにも程がありましょう」

 

体育館が沸いた。

受講生たちが遠慮なく笑っている。

バグダッシュは笑わなかった。

手帳に何か書き込んで、また顔を上げた。

 

「『災害救助資機材の取扱訓練』と記載しておきます。刃は、鞘のままで願います」

 

「そのつもり」

 

「礼には及びません。ただ――」

 

彼は手帳を閉じた。

 

「その『取扱』を、私は五分ほど拝見しましたが。木を切る手つきではありませんでしたな」

 

カリンの手が、止まった。

 

「……次長。あなた、父を知ってるの」

 

「もちろん存じております」

 

バグダッシュは、あっさりと言った。

 

「同じ要塞に、何年か」

 

「そういうことじゃなくて」

 

彼は、少し首を傾げた。

それから、分かった、という顔をした。

 

「……あの手つきを、こちらへ向けられたことは、一度だけであります」

 

「……」

 

「十七年前、あの方には、コーヒーを注いでいただきました」

 

「それだけ?」

 

「それだけであります」

 

 ――少なくとも、彼の中では、そういうことになっていた。

 

彼は帽子をかぶり、椅子から立ち上がった。

 

「午後は、庁舎で会議であります。……『非常時操艇要領』とやらの、名称の件で」

 

扉が閉まった。

カリンは、しばらくそこを見ていた。

それから戦斧を肩に担いだ。担ぎ方に、迷いがなかった。

 

「教官。次の組、入ります」

 

「――ええ、来て」

 

 

***

 

 

正午すこし前。

体育館の入り口の前を、盆を持った男が横切った。

受け身の音が、一つ止まり、二つ止まった。

男が通り過ぎると、音は戻った。

それだけのことが、毎週、起きる。

 

 

***

 

 

昼、教練場の食堂で、カリンは遅い昼食についた。

そこへ、盆を持った男が現れた。

ユリアン・ミンツ。三十二歳。

肩書きは、ない。カリンの夫である。

 

護衛も秘書もなく、列に並んで定食を買っていた。だいたいいつもそうである。

 

「隣、いいですか」

 

「どうぞ、ミンツさん」

 

カリンは、澄まして言った。

 

ユリアンはカリンの隣に座った。

 

「弁当を忘れまして」

 

「知ってる。玄関に置きっぱなしだったもの」

 

「カリンが持ってきてくれたのかと」

 

「あなたが自分で持つって言ったんでしょ」

 

「言ったっけ」

 

「言った」

 

「……言いました」

 

ユリアンは黙ってスープを飲んだ。耳が、少し赤かった。

 

 

***

 

 

午後、自治政府庁舎。第七会議室。

 

議題は一つだった。「傘の会・教程名称の一部改定について(保安局監査対応)」。

 

「――以上、十四の教程につきまして、別紙のとおり名称を改定いたします」

 

バグダッシュが読み上げた一覧が、卓上の画面に映っていた。

 

  回避機動    → 非常時操艇要領

 

  制圧      → 説得的接触

 

  突撃      → 前進

 

  陣地構築    → 野外施設設営

 

  夜間浸透    → 夜間歩行訓練

 

「夜間歩行訓練」

 

カリンが読み上げた。

 

「夜の散歩ね」

 

「散歩であります。書類の上では」

 

「呼び方を変えれば、あれは戦争の訓練じゃなくなるの?」

 

「なります」

 

バグダッシュは、こともなげに言った。

 

「書類の上では」

 

会議室が静かになった。

カリンは、椅子の背に体重を預けた。

それから、天井を見上げて言った。

 

「便利な国ね」

 

「便利であります」

 

議長が、採決を求めた。

そのとき、会議室の隅から声がした。

 

「一点、よろしいでしょうか」

 

記録席のフレデリカ・グリーンヒル・ヤンだった。

自治政府記録官。評決権はない。発言は、議事に関わる確認事項に限られる。

 

「旧称も、記載いたします」

 

バグダッシュが振り向いた。

 

「……は?」

 

「附録に。改定の日付と、旧称と、改定の理由を」

 

「記録官殿。それでは、その、意味が」

 

「意味は変わりません」

 

フレデリカは、手元から顔を上げなかった。

 

「この教程を使うのは、五百万人です。今日この部屋にいるのは、十四人です」

 

会議室が静かになった。

 

「『回避機動』が『非常時操艇要領』になった。それは、いつ、誰が、なぜ決めたのか。

 

 五百万人が、あとで確かめられるようにしておきます」

 

「……確かめて、どうなるので」

 

「文句を言えます」

 

フレデリカは、そこで初めて顔を上げた。

 

「文句を言えない決定を積み重ねた国が、どうなったかは、この部屋の全員が知っております」

 

バグダッシュは、三秒黙った。

それから手帳を開いて、何か書いた。

 

「……『記録官の要請により、改定履歴を附録として保存』と。こう書いておけば、監査は通ります」

 

「ありがとうございます」

 

「いやなに」

 

彼は手帳を閉じた。

 

「削ったものは、あとで説明せねばならん。書き足したものは、放っておけばよろしい」

 

「……そういう理由ですか」

 

「そういう理由であります」

 

採決は、全会一致だった。

議長が署名した。

カリンだけが、まだ少し腹を立てた顔をしていた。

 

 

***

 

 

廊下の先で、バグダッシュは記録官室の前に立っていた。

扉は開いていた。フレデリカは、今日の議事録を清書していた。

 

「記録官殿」

 

「はい」

 

「……十七年前のことも、憶えておいでですか」

 

フレデリカの手は、止まらなかった。

 

「ええ」

 

「父君の書斎で、私が何を申し上げたかも」

 

「ええ」

 

バグダッシュは、帽子をかぶり直した。

 

「……でありましょうな」

 

彼は敬礼もせずに出て行った。

フレデリカは、いつもどおり、議事録の末尾に一行書いた。

 

  保安局次長 退室。一四時二〇分。

 

それだけだった。

 

***

 

庁舎の玄関で、ユリアンは妻を待っていた。

先に出てきたのは、バグダッシュだった。

 

「バグダッシュさん」

 

「これは。……お迎えでありますか」

 

「ええ。ついでに一つだけ、伺いたくて」

 

ユリアンは並んで歩いた。

 

「なぜ、まだこの席にいるんです」

 

「投資ですよ」

 

バグダッシュは即答した。

 

「この国が化ければ、大化けだ。安い株を長く持つのが、投資の基本でありましてな」

 

「保安局次長の椅子は、十年以上、昇給がありませんが」

 

「利回りの計算は、私の自由でありましょう」

 

ユリアンは、頷いた。

それから、ふと思い出したように言った。

 

「昔、フェザーンへ発つ日に、教わりました。

 

 情報には、必ずベクトルがかかっている。発信者の利益をはかる方向が、付いている。それを差し引けば、本当の事実関係に近いものが見えてくる、と」

 

バグダッシュは、玄関の手前で足を止めた。

 

「……よく憶えておいでで」

 

「ですから、『投資』というあなたの言葉も、差し引いて聞くことにします」

 

バグダッシュは、一秒だけ黙った。

 

「……差し引き方は、ミンツ殿の自由であります」

 

彼は帽子の縁に指を当てて、玄関を出て行った。

その足取りは、いつもと寸分変わらなかった。

 

 

***

 

 

【同日夕刻 ハイネセン市街 第九区】

 

夕刊の校了を終えて、ダスティ・アッテンボローは編集部の階段を降りた。

四十五歳。『ハイネセン・ジャーナル』論説委員。

祖父と父の約束で軍人にさせられた男が、四半世紀かけて、ようやく父と同じ職業に戻っていた。

約束を破ったことについて、文句を言う相手はもう誰もいない。国ごと消えたからである。

階段の下に、カリンが立っていた。

 

「ちょうどよかった」

 

「……嫌な予感しかしないな」

 

「明日の午前、模擬空戦の判定員が一人足りないの。元・分艦隊司令官の目で――」

 

「勘弁してくれ」

 

アッテンボローは階段を降り切った。

 

「おれは退役した身だ。今はしがない物書きだよ」

 

「しがない物書きが、先週の論説で自治政府の予算案を木っ端微塵にしてたけど」

 

「あれは公共の利益のためだ」

 

「傘の会も公共の利益よ」

 

「おれは書く側だ」

 

アッテンボローは肩を竦めた。

 

「書く側の人間が、書かれる側に回ったら、誰が見張るんだ」

 

「ご立派なこと」

 

「だろ」

 

カリンは、それ以上は誘わなかった。

この男が、思想のために飛んだことは一度もない。

飛ぶ理由になる人間が、かつて、一人だけいた。

代わりに、にやりと笑った。

 

「で、例の原稿は書き上がったの」

 

「……もう三年、序章を書き直している」

 

「ヤン・ウェンリーの伝記でしょ。どうせ最初の一行はこう。『その男は、紅茶を淹れるのが下手だった』」

 

アッテンボローは、足を止めた。

 

「……なぜ知ってる」

 

「酔うたびに言ってるもの。うちの食卓でも三回は聞いた」

 

「もう聞かせん」

 

「次を楽しみにしてる」

 

二人は別々の方向へ歩き出した。

どちらも振り返らなかったが、どちらも笑っていた。

 

 

***

 

 

夜。

カリンは、自宅の通信端末の前にいた。

超光速通信の向こうは、帝都である。

 

オリビエ・ポプラン。四十三歳。

旧同盟軍の撃墜王にして、カリンの操艇の師である。

同盟が消えたあと、彼はハイネセンへは戻らなかった。

 

新帝国の首都で、民間の貨物艇を飛ばしている。届け先は選ぶが、職は選ばない。

どこの組織にも、属していない。

画面の向こうは昼で、男はちょうど、何かの缶を開けたところだった。

 

「よう。どうした、改まって」

 

「報告。教本、名前が変わったわよ」

 

「あん?」

 

「『回避機動』は『非常時操艇要領』。『制圧』は『説得的接触』」

 

ポプランは、缶に口をつけて、鼻で笑った。

 

「相変わらず、器用な国だな」

 

「ねえ。回避機動が『非常時操艇要領』で、白兵戦が『説得』よ。父さんが聞いたら、なんて言うかしら」

 

ポプランは、缶を置いた。

 

「あの不良中年なら、こう言うぜ。――名前なんぞ何でもいい。飯が旨けりゃな」

 

カリンは、画面の中の男の顔を見た。

ワルター・フォン・シェーンコップが、そんな殊勝なことを言うはずがなかった。

あの男なら、名称改定の一覧を肴に一時間は毒を吐いただろう。

それから、ろくでもない冗談を一つ言って、娘の顔色を窺いもしなかっただろう。

ポプランは、それを知っている。ずっと隣で聞いていたのだから。

もう十三年、聞いていない。

知っていて、別の台詞を貸した。

 

「……そうね」

 

カリンは笑った。

 

「飯が旨けりゃね」

 

通信は、それで切れた。

 

 

***

 

 

その夜、アッテンボローは家に帰らなかった。

第九区の裏通りに、古いゲームセンターがある。

軒先の看板は半分消えかけていて、『遊技場』としか読めない。

奥の一角に、大型の筐体が八基、輪になって並んでいる。

 

旧同盟軍の艦隊戦術シミュレータの民生転用品である。

武装データは削除済み、と登録書類にはある。

削除されたデータと寸分違わぬものが起動時に読み込まれる仕組みについては、書類は何も語っていない。

 

週末の夜、そこにはいい年をした大人たちが集まる。

工場の主任。学校教師。年金暮らしの男。仕事帰りの女。

彼らは缶ビール片手に席に着き、二時間、艦隊を運用する。

壁のランキング表には、二つの部門がある。

 

一つは「撃沈数」。

若い連中が毎週入れ替わり立ち替わり、派手な戦果を競っている。

 

もう一つは「帰還率」。

出撃させた艦のうち、何隻を母港に戻したかの累積値である。

地味すぎて、誰も見ない。

 

その部門の一位は、店に筐体が入った日から、変わっていなかった。

 

  一位 TRIGLAV(トリグラフ) 帰還率 九六・二%

 

かつて存在した艦の名前である。

隠す気があるとは、到底思えなかった。

アッテンボローは、いつもの席に座り、いつもの操作でログインした。

 

今夜の課題は、劣勢からの離脱戦である。彼はこの筐体で、勝ったことがほとんどない。

勝つ必要がないからである。

 

一隻でも多く帰す。それだけを、彼は続けていた。

誰に頼まれたのでもない。伊達と酔狂である。

 

隣の筐体では、工場主任が唸っていた。

 

「くそ、また左翼が崩れた」

 

「崩れたら、崩れたなりに退がりゃいい」

 

アッテンボローは画面から目を離さずに言った。

 

「全滅しなけりゃ、負けじゃないんだ」

 

「あんた、いつもそれだな」

 

「宇宙で一番強い台詞を教えてやろうか」

 

「なんだい」

 

「『それがどうした』だ」

 

工場主任は笑って、ゲームを再開した。

彼は知らない。隣の男が誰なのかを。

店の常連は、皆知っている。

だが、誰も言い出すことはなかった。

 

 

***

 

 

閉店間際、店に背広の男が入ってきた。

バグダッシュは、遊ばなかった。

壁のランキング表の前に立ち、しばらくそれを眺め、それから写真を一枚撮った。

 

「これは、和約に抵触しますか」

 

いつの間にか、ユリアンが隣に立っていた。

帰宅途中に、灯りを見て寄ったのだという。

この人は、本当にふらふらと一人で歩く。

 

「娯楽であります」

 

バグダッシュは手帳を閉じた。

 

「……趣味の悪い、娯楽でありますがな」

 

「報告書には」

 

「書きません。書けば、誰かが止めねばならなくなる」

 

二人は、並んでランキング表を見上げた。

帰還率部門。十年以上、不動の一位。

その下に、二位から二十位まで、聞いたこともないハンドルネームが並んでいる。

教師や、工員や、失業した元軍人たちの名前である。

 

「ミンツ殿。一つ、申し上げておきますが」

 

「はい」

 

「いつか、この自治政府に艦隊が要る日が来たら」

 

バグダッシュは、表の一点を顎で示した。

 

「人事にお困りにはなりますまい。……ここに、十年以上ぶんの適性検査の結果が貼ってあります」

 

ユリアンは、しばらく黙っていた。

 

「――それも、書類には書かないんですか」

 

「書きません」

 

バグダッシュは帽子をかぶった。

 

「私が憶えておきます。それが一番、安全な保管場所でありますからな」

 

 

***

 

 

【翌週 自治政府庁舎・事務総監室 キャゼルヌ】

 

 

おれの机の上には、今日も紙が積んである。

事務総監というのは、要するに、他の誰もやりたがらない仕事の総称である。

行政、財政、通商、徴税。それに、庁舎の屋根の雨漏り。

 

どこの部署にも属さない紙が、最後に流れ着く場所が、この机だ。

行方不明者照会、四百十二通。先週より九通増えた。

数えたのはおれの部下で、数えろと言ったのはおれである。

 

廊下でバグダッシュを捕まえたのは、昼前だった。

 

「次長。ついでと言ってはなんだが、これも監査してくれんか」

 

おれは束を突き出した。

バグダッシュは、束を見て、それからおれを見た。

 

「……キャゼルヌ事務総監。これは、監査の対象では」

 

「探す部署が、うちには無くてな」

 

「保安局にも、ございません」

 

バグダッシュは受け取らなかった。

 

「捜索は警察の職掌。警察は自治政府の内務部門。私の管轄は、和約適合性と防諜のみであります」

 

「知ってる。だから『ついで』と言った」

 

「……申し訳ない」

 

彼は本当にすまなそうな顔をした。この男がすまなそうな顔をするのは、演技のときと、本当にすまないときの二通りある。

十七年付き合って、おれにもまだ見分けがつかない。

そのとき、横から手が伸びた。

 

「お預かりします」

 

フレデリカだった。

 

彼女は四百十二通の束を、両手で受け取った。

 

「台帳は、どちらに」

 

「ない」おれは言った。

 

「作るとこからだ」

 

「では、書式から始めます」

 

彼女はそれだけ言って、記録官室へ戻っていった。

四百十二通のうち、十七通は子供のものである。

彼女はまだそれを知らない。今夜、一通ずつ読んで、知ることになる。

 

バグダッシュは、その背中を見送っていた。

それから彼は、何事もなかったように帽子をかぶり直し、玄関へ向かった。

すれ違いざま、彼が部下の若い局員に何か言うのが聞こえた。

 

「……ときに君。行方不明者の届の様式は、うちにもあったかね」

 

「は?保安局にですか?いえ、無いと思いますが」

 

「そうか」

 

「作りますか?」

 

「いや」

 

バグダッシュは、玄関の外の空を見た。よく晴れていた。

 

「……雨が降ったときのために、聞いただけだ」

 

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