第一話 晴れの日
【新帝国暦十三年 帝都レーヴェンシュテルン】
新帝国暦十三年。
のちに数多の異名で語られることになる子供たちは、この年、まだただの子供だった。
帝都レーヴェンシュテルンの春は、穏やかであった。
銀河の過半を統べる大帝国の首府は、戦の匂いから遠く、ただ豊かに、静かに、時を刻んでいた。
かつてこの星は、フェザーンと呼ばれた。
自由都市として、あるいは銀河の中継貿易の要衝として、幾人もの権力者の手を渡り歩いてきた名である。
先帝ラインハルトは、この地を新たな帝都と定めた。
先帝が命じ、遺した宮殿の名にちなみ、星そのものにも新たな名が与えられた。
以来、この星はその名で呼ばれている。
フェザーンという古い呼び名を口にする者は、年々、少なくなっていた。
先帝が銀河を統一してより、十余年。
長きにわたった乱世は、ようやく凪いでいた。
人々は、この平穏が当たり前のものだと思いはじめていた。
それがいつか終わるものだということを、忘れかけるほどに。
朝の宮廷は、無数の人の手で回っている。
配膳の者、灯を替える者、長い廊下を磨く者。
誰もが己の役目を、声もなく果たしていく。
その一人一人に、若き皇帝は名で挨拶を返した。
「おはよう、マルタ。孫の熱は下がったか」
盆を捧げた老いた侍女が、一瞬、言葉に詰まった。
「……はい。おかげさまで、すっかり」
皇帝が下働きの女の、その孫の病まで憶えている。
侍女は何年仕えても、そこには慣れなかった。
深く頭を垂れて去る背を、少年は見送った。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。
ローエングラム朝銀河帝国。通称「新帝国」の第二代皇帝。
この年、十歳になる。
父ラインハルトが銀河に遺した玉座に、彼は物心のつく前から座っていた。
帝王学の講義は、幼い頃から始まっていた。
軍学、修辞学、法学、星系地理。統べる者に要ると定められた科目が、日々、机に積まれる。
軍学では先帝の戦を教材とし、法学では新帝国の基本律法を学び、修辞学では人を言葉で動かす術を学んだ。
そのどれもを、アレクは真面目に修めたが、成績はいつも中ほどだった。
かわりに、彼は人の名をよく憶えた。
庭師の孫の名も、厩番の名も、一度聞けば忘れない。
才能というより、癖に近かった。
人を役目でなく、名で見る癖。
侍従はそれを稀有な美徳と褒めたが、アレク自身には、ただそうせずにはいられないだけのことだった。
修辞学が教える、人を動かす百の言葉より、たった一つの名の方が、よほど彼の頭に残った。
名を持つ者を、名で呼ぶ。
それだけのことだ。
陛下は先帝によう似ておられます、と、臣下たちはよく口にする。
髪の色も、瞳の色も、なるほど瓜二つだった。
だがアレクは、どこか釈然としなかった。
同じ黄金、同じ蒼氷。
それでも、鏡に映る自分の顔は、父の肖像とは違う何かをしている。
彫られたような冷たい完成が、自分にはない。
頬の線も、目もとも、どこか柔らかい。
似ている、と言われるたびに、似ていない部分だけが、アレク自身にははっきりと意識された。
***
その日の午後、アレクは中庭に呼び出された。
「アレク。剣の稽古の時間だぜ」
木剣を二本抱えて立っていたのは、日に灼けた顔の少年である。
フェリックス・ミッターマイヤー。
宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥の子で、アレクより一つ年上になる。
二人は物心つく頃からの友人だった。
片や皇帝、片や新帝国の元老の子。
だが中庭の日ざしの下では、ただの少年が二人いるだけだった。
木剣の稽古は、武門の家に伝わる古い作法だった。
艦隊を指揮する者も、まず身一つで立つ術を知らねばならぬ、という教えである。
実戦で剣を抜く日など、もう来ないだろう。
それでも、この鍛錬だけは、廃れずに続いていた。
「今日こそ、一本くらい取ってみろよ」
「言っておくが、僕は剣が下手だ」
「知ってるよ。だから稽古すんだろ」
放られた木剣を、アレクは危うく取り落としかけた。
フェリックスはもう構えている。
身のこなしに、無駄がない。父ゆずりだ、と宮廷の者は言う。
打ち合いは、一方的だった。フェリックスの踏み込みは速く、アレクの木剣はことごとく弾かれる。
数合で、アレクは尻もちをついた。
「よわっちいなあ、相変わらず」フェリックスは笑った。
悪気はない。ただ正直なだけだった。
この幼馴染といるとき、アレクはつかのま、皇帝であることを忘れられた。
玉座も、父の影も。
それが、何よりの休息だった。
「休憩だ。少し散歩しようぜ」フェリックスは木剣を肩に担いだ。
二人は並んで泉のほとりへ歩いた。
泉のほとりで、フェリックスがふと足を止めた。
水面に、自分の顔が映っている。日に灼けた頬。
そして、深く澄んだ青い瞳。
両の目とも、青かった。
彼はそれを、見なかった。
ほんの一瞬、視線を逸らし、また歩き出す。
癖なのか、意味があるのか、本人も語らない。
アレクも問わなかった。
水面はすぐに、風で崩れた。
***
その年の九月、アレクは幼年学校に入った。
皇帝が、平民の子らとも机を並べる。
旧き帝国では、あり得ぬことだった。
血で人を分けぬ、それもまた、父ラインハルトの遺した理である。
入学は試験で決まり、門は身分でなく才に開かれていた。
アレクも、等しく同じ試験を受けた。
最終合格者の名が読み上げられる日、帝国幼年学校の大講堂に、一人の少年の名が最初に響いた。
「首席。ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク」
背筋を伸ばして立ったのは、痩せた、目つきの鋭い子供だった。
ゴールデンバウム朝以来の門閥貴族が、血と領地によって高位を約束されていたのに対し、
爵位はある。
だが、領も、歴史も、後ろ盾もない。
有能さを証明し続けなければ、明日にもただの平民に戻る。
あるいはその張り詰めた背筋は、不安の裏返しだっただろうか。
名を呼ばれても、その子は笑わなかった。
ただ当然の結果を受け取るように、深く一礼する。
周りの子らが、遠巻きにその子を見た。
昨日まで平民だった家の子が、皇帝より上の順位に立っている。
アレクの名が読み上げられたのは、ずっとあとだった。
それを、彼は恥じなかった。
実力がそうであるなら、それが正しい。
父の遺した学び舎とは、そういう場所だった。
その学級に、もう一人、目を引く子供がいた。
クライン・ヴァルター。
特例で入学を許された子である。
だが、その子の名は、席次には現れなかった。
初級軍学も、幾何学も、星系地理も、入学の試験は範囲の定まった学科である。
ハインリヒは、その範囲を誰よりも深く、誰よりも広く潰してきた。
だがクラインの頭は、そもそも試験の枠に収まる類のものではなかった。
辺境で戦災孤児として保護され、異様な知性を見出されて、特例で入学を許された子だという。
父の代の戦が生んだ孤児は、珍しくもない。
珍しかったのは、その頭のほうだった。
クラインを推挙したのは、軍務尚書ケスラーであったという。
ある日の講義でのことである。
教師が銀河の星系図を一度だけ示し、すぐに巻き取った。
誰の記憶に何が残るかを試す、いつもの遊びだった。
学友たちが口ごもる中、クラインは
主要な星系の名を、位置を、航路の結び目までを、淀みなく。
まるで、まだそこに図が広げられているかのように。
教師は絶句した。
首席のハインリヒが、ノートから顔を上げ、その横顔を見た。
ハインリヒは、誰よりも勉め、誰よりも書き、誰よりも
その努力の一切を、クラインは易々と超えてみせた。
ハインリヒは何も言わなかった。
ただ、握った
幼年学校の同じ教室に、三人の子供がいた。
歴史に残る英雄の血を引く子。
何も持たぬのに、天から才を授かった子。
そして、努力で首席をもぎ取った子。
子供たちは、まだ誰も、その違いの意味を知らない。
クラインは、褒められても顔色一つ変えなかった。
むしろ、称える者が近づくと、わずかに身を硬くした。
称賛にも、叱責にも、同じ警戒で応じる。
***
「
皇帝の私的な学び相手として、摂政皇太后と宮廷が選んだ。
フェリックスは幼馴染として、クラインはケスラーの推挙で、そこに加えられた。
幼年学校で首席のハインリヒには、ついに声がかからなかった。
選ぶのは、摂政皇太后のヒルダである。
ヒルダの考えは、はっきりしていた。
息子は、いずれ必ず軍人になる。
初陣の制度がそう定めている以上、軍務の友なら、この先いくらでもできよう。
ならば幼いいまは、軍とは違う目を持つ者を傍に置きたい。
文官の子、書を能くする子、絵筆を執る子、そういう学友とし、息子の視野を耕したかった。
それでもクラインが「御学友」に加えられたのは、ケスラーが強く推したからである。
あの慎重な元憲兵総監が、珍しく引かなかった。
あれほどの才を、辺境の孤児という理由だけで埋もれさせるのは、新帝国の理に
表向きの理由は、それだった。
いずれにせよ、ハインリヒは、選ばれなかった。
武門の子を「御学友」から遠ざけたのはヒルダの一貫した方針である。
ただ一人、建国の元老の一人であるケスラーが推したクラインだけが、例外だったにすぎない。
――だが、ハインリヒは、そうは思わなかった。
御学友の輪にあってなお、クラインは決して溶けなかった。
いつも一人、少し離れて座っている。
声をかけられれば、礼儀正しく答える。
だがそれ以上は、決して踏み込ませない。
感情の読めぬ端正な顔で、彼はただ周りを見ていた。
人がどう動くか、誰と誰がどう繋がっているかを、値踏みするように。
まるで、いつでもここを立ち去れるように、荷物を一つも増やすまいとしているかのように。
一度、アレクは声をかけたことがある。
「クライン。こちらへ来て、皆と一緒に食べないか」
クラインは、わずかに間を置いてから答えた。
「……お気遣い、痛み入ります。ですが、私はここで結構です」
拒絶ではなかった。
ただ丁重に、扉を閉じられた。
アレクは、それ以上は言わなかった。
「変な奴だよな」フェリックスは率直だった。
「頭はいいんだろうけど、何考えてるかさっぱりだ」
「そうだな」
アレクは、クラインの何が気にかかるのかを、うまく言葉にできなかった。
頭がいいから、ではない。
いつもそこにいるのに、どこにもいないような。
同じ部屋で、同じ卓を囲んでいても、心だけがずっと遠くにある。
そんな子だった。
クライン自身は、アレクとフェリックスの二人を、いつも遠くから見ていた。
皇帝と、元帥の子。
生まれた時から互いを知り、何の疑いもなく笑い合う二人。
あの輪の中へ入ることを、当時のクラインは望まなかった。
***
その報せが宮廷に下りたのは、秋も深まった頃である。
皇帝の初陣。
皇帝が十歳になれば、何らかの形で軍務に従事すべし。
それが、この王朝の定めであった。
定めたのは、ほかならぬ先帝ラインハルトである。
皇帝は玉座で守られる者ではなく、自ら剣を執る者であれ。
天才が己の生き方をそのまま王朝の骨に刻んだ制度である。
もっとも、軍務に就くと言っても、幼年学校に入学すれば足りる。
まだ戦場に出る年ではない。
先帝ラインハルトの初陣も十五歳である。
急ぐ必要は、どこにもないはずだった。
急がせたのは、大人たちの事情である。
先帝ラインハルトの輝きは、あまりにまばゆかった。
二十歳で銀河を統べた常勝の英雄。
その子が、いつまでも母の背に隠れた学び子のままでは、新しい御世の威が立たない。
幼くとも、皇帝には皇帝の武勲がいる。
一日も早く、先帝の子はただの子ではないと、銀河に示さねばならない。
そう焦る声が、宮廷にはあった。
そこへ、辺境に手頃な討伐任務が出た。
旧自由惑星同盟の残党くずれ、宇宙海賊まがいの一団。
規模はほどほどで、初陣の武勲として喧伝するには十分。
それでいて、新帝国の宿将たちが対応すれば危うくない。
幼き皇帝の初陣に、これほど誂え向きの相手はいなかった。
――少なくとも、宮廷は、そう考えたのである。
***
先帝ラインハルトがついに使うことが無かった宮殿、
その一室で、母は長く沈黙していた。
ヒルデガルド・フォン・ローエングラム。
ラインハルトの后にして、幼き皇帝の母。
この国の摂政として、統帥権を代行する女である。
聡明で、政に明るく、夫亡きあとの大帝国を、その細い肩で支えてきた。
「……時が、来たということですね」
ようやく開いた声は、静かだった。
傍らに控えるのは、軍務尚書ケスラーである。
「討伐そのものは、憂うるほどのものではございません」ケスラーは事実だけを述べた。
「辺境に燻る、旧同盟の残党。海賊まがいの、烏合の徒にすぎませぬ。討伐の主力はワーレン、アイゼナッハの両元帥が別動で当たり、陛下の御一行は、その合流を待って戦域の後方に臨まれるのみ。危うきには、近づけませぬ」
「わかっています」
ヒルダは窓の外を見た。
晴れた空だった。
息子が生まれた日も、こんな空だったと、ふと思う。
皇帝が、いつか戦場を知らねばならぬこと。
それに、異論はなかった。
夫の遺した理は正しい。
人の上に立つ者が、人の死ぬ場所を知らずにいてよいはずがない。
気に入らないのは、その時期だった。
まだ十歳である。
急ぐ必要のない初陣を、ただ幼帝の箔のために早める。
そのことに、母として、頷ききれないものがあった。
だが摂政としての彼女は、その不満を口には出さない。
理念が正しく、任務の安全が軍から上申されている以上、時期の是非を言い立てる理は、彼女の側にはなかった。
「一つ、案じておることがございます」ヒルダは声を落とした。
「陛下の御守りに、また、あの方々ですか」
ケスラーは、答えるまでにわずかな間を置いた。
「総指揮は、ミッターマイヤー元帥に。御身の守りは、ミュラー元帥が」
「……先帝の御世から、いつもあの方々です」
咎めではなかった。
ただの、母の呟きに近かった。
だがケスラーは、その一言の重さを正しく受け取った。
新帝国の柱を支えているのは、いまだ先帝の時代の宿将たちである。
疾風も、鉄壁も、もう若くはない。
あの英雄たちが一人また一人と倒れたとき、その席を埋める次の世代を、この国はまだ持っていなかった。
先帝の光があまりに強すぎ、その影で、次の世代が育ちきっていない。
「……気の早いことを申しました」ヒルダは薄く笑い、話を収めた。
「息子を、頼みます」
「命に代えましても」
軍務尚書は、深く頭を垂れた。
ケスラーが退がったあと、ヒルダは一人、壁の星図の前に立った。
夫ラインハルトが数年で築いた、広大な版図。
この平穏は、あの英雄が遺した貯えの上に、辛うじて成り立っている。
光は、いつか消える。残された者が、その先を歩かねばならない。
その夜、ヒルダは息子の部屋を訪ねた。
アレクは、まだ起きていた。窓辺で、遠い星を見ている。
「母上」
「眠れませんか」
「……少し」アレクは正直に言った。
「初めての戦です。怖くない、と言えば、嘘になります」
「ですが、行かねばならないのでしょう」アレクは母を振り返った。
その目に、怯えはなかった。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
「父上が、そう定められた。皇帝は、戦場を知らねばならない。玉座の上だけで、人の生き死にを決める者になってはならない。……僕も、そう思います」
十歳の子の言葉ではなかった。ヒルダは、胸を突かれた。
この子は、逃げることを、はじめから考えていない。
母が呑み込もうとしているものを、この子はもう、自分で呑み込んでいた。
ヒルダは、息子の隣に立った。伝えたい言葉は、いくつもあった。
行かなくてよい、とは言えない。摂政の口が、それを許さない。だが母として、せめて一言。
「アレク」ヒルダは、息子の名を呼んだ。
「戦場では、たくさんの人が、あなたを守ります。その人たちの名を、憶えておあげなさい」
アレクは、母を見上げた。
「はい、母上」
母は、息子の髪に一度だけ触れ、部屋を出た。廊下は暗く、長かった。
***
随行の学友が選ばれたのは、その数日後である。
皇帝の初陣には、同じ年頃の学友が若干名、御学友として随うのが習わしであった。
名を連ねたのは、フェリックスとクラインであった。
「あいつが?」フェリックスは意外そうだった。
「戦場に、あの変な奴を連れてくのか」
「ケスラー元帥の推挙だそうだ」
アレクは、選抜の名簿を見たとき、少しだけ考え込んだ。
危うきに近づけぬ後方とはいえ、戦場は戦場である。
そこへ、あの遠い目をした子を連れていく。
守るべき者が、また一人増える。
その報せを、クライン自身はどう聞いたか。
アレクが庭で見かけたとき、その少年は、いつもと同じ顔で本を読んでいた。
喜びも、怯えもない。
ただ報せを受け取り、受け入れた。
まるで、自分の身に何が起ころうと、それはとうに決まっていたことだとでも言うように。
「クライン」
声をかけると、静かな瞳がこちらを向いた。
「はい、陛下」
「行くのか。戦場だぞ」
クラインは、少しだけ間を置いた。
「……命じられれば、参ります」
忠義でも、勇気でもなかった。
もっと乾いた、諦めに似た何かだった。
アレクは、その答えの奥にあるものを掴みかね、それ以上は問わなかった。
出陣を数日後に控え、随行の三人が、初めて一室に集められた。
皇帝と、その御学友が二人。名目は、船上での作法の打ち合わせであった。
フェリックスは、退屈そうに椅子にもたれていた。
クラインは部屋の隅で背を伸ばし、手元の書きつけに目を落としている。
二人の間に、アレクが座っていた。
「なあ」沈黙に耐えかねたのは、フェリックスだった。
「クライン、だったよな。お前、なんでこんなとこに来たんだ」
問いというより、値踏みだった。
クラインは顔を上げた。
「ケスラー閣下の、御推挙です」
「そういうことじゃなくてさ」フェリックスは身を乗り出した。
「戦場だぞ。怖くないのか」
クラインは、しばらくフェリックスを見つめ、それから静かに言った。
「怖い、という感覚が、私にはよく分かりません」
「……は?」
「命じられたことを、果たす。それだけです。その先に何があるのかを、考えたことがない」
淡々とした声だった。強がりでも、諦めでもない。
ただ、そういうふうにしか生きたことがない。そんな響きだった。
フェリックスは、毒気を抜かれたように口をつぐんだ。
アレクは、その乾いた言葉の底に、触れてはいけない何かがある気がして、話を変えた。
「……作法の打ち合わせを、始めよう」
三人は、それぞれの距離を保ったまま卓についた。まだ、何も始まってはいなかった。
出陣の前夜、ミッターマイヤー元帥が、じきじきにアレクへ編制を説いた。
総指揮は自ら。
皇帝の身辺を守るのは、「鉄壁」ミュラー元帥の三千隻。
ミッターマイヤーの直率する中枢が、そのさらに数百隻。
討伐の主力たるワーレン、アイゼナッハの両艦隊は、別の航路をとり、戦域で合流する手筈であった。
疾風と謳われた名将は、いまや壮年である。
その声には、数多の戦場を駆け抜けてきた重みがあった。
「陛下。一つだけ、覚えておいていただきたい」ミッターマイヤーは言った。
「此度、ブリュンヒルトは使いませぬ」
父の白い旗艦。銀河を統べた、あの船。
「なぜだ」アレクは尋ねた。
「あの船は、あまりに目立ちます」ミッターマイヤーは淡々と言った。
「白亜の艦は、遠目にも皇帝の所在を容易に教えてしまう。陛下の御身を、的にするわけには参りませぬ」
「……父上は、いつもあの船で、先頭に立っておられた」
「はい。あの方は、そういう戦をなさいました」ミッターマイヤーの目が、遠くを見た。
「ですが陛下。同じ戦をなさる必要は、ございませぬ。陛下には、陛下の戦がございます」
それが、この名将の精一杯の励ましだった。天才のようであれ、とは言わなかった。天才でなくてよい、とこの男は言ったのだ。
出陣の日は、よく晴れた。
帝都の宙港には、旗が翻り、楽の音が満ちた。
若き皇帝の初陣を、民は晴れの日として祝った。
沿道は人で埋まり、歓呼の声が空を震わせた。
誰もが、これを吉き門出と信じて疑わなかった。
宙港には、白髪の混じった宿将たちの姿があった。
総指揮を執るミッターマイヤー元帥。
皇帝の守りを担う、鉄壁ミュラー元帥。
いずれも、父ラインハルトの時代を戦い抜いた英雄たちである。
十歳の子の初陣に、帝国はまた、その古き柱を差し向けていた。
その熱狂の隅で、クライン・ヴァルターだけが、静かに立っていた。
祝いの声も、翻る旗も、彼の目にはどこか遠い異国の景色のように映っている。
喜ぶでもなく、羨むでもなく、ただ見ていた。
アレクは、母の前で膝を折った。
「行って参ります、母上」
ヒルダは、息子の肩に手を置いた。
臣下の居並ぶ前で、母は母であることを許されない。
「……ご武運を、陛下」
そう告げるのが、精一杯だった。
アレクは頷き、立ち上がった。
その傍らに、快活なフェリックスが並び、少し離れて、静かなクラインが続く。
三人の少年が、歓呼の中を歩いていく。
まだ、何一つ分かち合ってはいない三人が。
歓呼する群衆の中に、あの首席の少年がいた。
ハインリヒは、幼い弟の手を引いて立っていた。
兄弟のほかに身寄りはない、と聞く。
選ばれて発つ三人を、彼はただ見ていた。
学級では誰より上に立つその子が、皇帝の傍にはいない。
血の子と、才の子が、歓呼の中を歩いていく。
繋いだ弟の手を、ハインリヒは少しだけ強く握った。
アレクは、その視線に気づかなかった。
歓呼はあまりに大きく、旗はあまりに多かった。
ヒルダは、その背を見送った。
楽の音が高く鳴り、群衆が沸いた。
旗が揺れ、花びらが舞った。
空は、どこまでも晴れていた。
晴れやかな一日だった。
誰にとっても。ただ一人、母だけを除いて。
やがて艦隊は、宙へ上がった。
無数の光の点となって、遠い辺境へと消えていく。
ヒルダは、それが見えなくなるまで宙港に立っていた。
手を振ることは、しなかった。
穏やかな日だった。
まだ、何も起きてはいない。
だがその頃、遠い辺境の闇の中で、一人の古い軍人が、静かに網を張り終えようとしていた。
若き皇帝が、初めての戦場で、最初に知ることになるもの。
それは、勝利の栄光ではなく、自分を守って死んでいく者たちの、名前であった。