【新帝国暦十六年・晩秋 帝都レーヴェンシュテルン 幼年学校演習場】
幼年学校の公開演習日は、年に一度、帝都の書類を最もよく太らせる日である。
招待状の発送台帳、席次表、警備計画、来賓名簿、駐車割当、答礼要領。
演習そのものの計画書より、演習を見るための計画書の方が厚い、と事務方は毎年言い、そして毎年、厚くなった。
今年の警備計画の付図はついに貴賓席の椅子の間隔までを図示し、答礼要領には附則が三項あって、三項とも、たった一人の生徒のために書かれていた。
当日、来賓の到着は式次第より早く、駐車割当は式次第より早く破綻した。
その書類の山の中で、生徒がひとりだけ、二つの名簿に載っていた。
在校生名簿と、来賓名簿の筆頭である。
皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは幼年学校の一生徒であり、同時に、幼年学校が国家から預かる最上位の賓客だった。
席次表の作成担当官は三晩悩んだ末、皇帝を貴賓席に置いた。
校則は生徒に見学席を与えず、儀典は皇帝に貴賓席以外を許さない。
かくして在校生が、自分の学校の演習を、来賓として見学することになった。
誰も間違ってはいなかった。
ただ、敬礼の回数だけが増えた。
アレクが廊下を十歩進むあいだに、行き会う教官たちは、生徒への答礼が先か、皇帝への敬礼が先かを一瞬ずつ迷い、迷った分だけ動作が増えた。
当のアレクは、増えたひとつずつに律義に応えた。
訓練航海から帝都に戻って、まだ半月と経っていない。
秋は終わりかけで、演習場の砂は乾いて白かった。
式典は午前のうちに済んでいた。
校長は開会前、式辞の草稿を皇帝の上覧に供すべきか、教育者として供さざるべきかで迷い、折衷として、草稿ではなく式次第を供した。
式辞は簡潔という評判に違わず簡潔で、来賓紹介の朗読の方が長かった。
拍手の位置は式次第に印刷されており、父兄たちは印刷どおりの位置で拍手をした。
午後の演習は歩兵操典の対抗形式で、上級生の二個班が旗の争奪で勝敗を決める。
第一班が攻勢、第二班が受け。
第一班は正面に厚く兵を寄せ、力押しで旗まで届かせる構えだった。
手堅く、教範どおりで、見学席の父兄たちにも分かりやすい形ではあった。
号令とともに砂埃が立ち、拍手が、砂埃の量に応じて増えた。
もっとも、貴賓席からは、その形すら見えなかった。
席は式典の要領に従って組まれている。
貴賓席から順によく見えるものを挙げれば、壇、国旗、校長の背中である。
演習場は、その向こうの遠景だった。
開始からしばらくして、アレクは眼下の光景が砂埃と旗の群れにしか見えないことを確かめ、休憩の名目で席を立った。
「休憩は、式次第では十五分後ですが」
「先に取る」
アレクの供には、クラインがひとりだけ付いた。
演習場の南側は、古い塀で仕切られている。
塀の内側の柵沿いは、係員用の通路で、見学者は入らない。
通路は日陰で、場内の放送がすこし遠くなった。
奥から回ってきた係員は、生徒に対する誰何の言葉を、皇帝の顔を認めた瞬間に敬礼へ作り替えた。
作り替えの継ぎ目が、靴音になって鳴った。
係員が下がると、通路には二人だけになり、隊列の動きがようやく見えた。
塀の上に、子供がいた。
最初は目に入らなかった。
それほど動かなかったのである。
古い塀の笠石に膝を抱えて座り、演習場だけを見ている少女がいた。
赤い、というより橙に近い髪だった。
束ねてはあるが、結び目からほとんど崩れて、あとは風の向きに任せてある。
小柄で、痩せていて、年の頃はアレクと同じくらいに見えた。
眉は濃く、薄い茶色の目は大きく、鼻筋が一本、迷いなく通っている。
本来なら人目を引くはずの、はっきりした作りの顔だった。
引かなかったのは、動かなかったからである。
当人にその自覚はなく、視線は演習場に釘付けのままだった。
服は学校のものではなく、町の少女のものだった。
塀の外は、もう学校の敷地ではない。
「そこからだと、見えるの?」
アレクが訊くと、子供は演習場から目を離さずに答えた。
「見えないから」
下からでは見えないから登った、という意味に取れた。
確かめる前に、続きが来た。
続けた、というより、見えているものがそのまま口からこぼれた。
「あの人たち、前しか見てない。左が空いてる」
それきりだった。
命令でも、忠告でも、勝敗の予測でもなかった。
結論も締めくくりもなく、言うべきことを言い終えたので口が閉じた、というだけの終わり方だった。
アレクは続きを待った。
待っても、来なかった。
アレクは演習場を見た。
第一班の攻勢は続いている。
厚い正面はよく押しており、見学席の方角から、また拍手が聞こえた。
左翼は、言われてみれば、正面の厚みを作った分だけ薄い。
言われてみれば、である。
言われるまで、アレクにも見えていなかった。
三十秒後、第二班の別動が第一班の左翼へ回り込んだ。
厚みの外側を、抵抗らしい抵抗もないまま巻かれて、左翼の一個小隊が判定全滅になった。
攻勢は止まり、旗は遠のいた。
見学席が、すこし静かになった。
式次第に、拍手の位置が書かれていない展開だったからである。
場内に講評の放送が始まった。
講評は所定の様式に従って読み上げられた。
彼我の兵力、地形の評価、第一班の企図、企図の破綻、破綻の原因。
正確で、丁寧で、長かった。
塀の上の一言が言い当てたことを、その何十倍かの言葉が、後から順々に追認していった。
講評は複写三部で作成され、一部は校長室に、一部は教務課に、一部は軍務省に送られて保存される。
塀の上の一言は、どこにも保存されない。
講評のあいだ、子供は動かなかった。
長い言葉には、興味がないらしかった。
やがて次の対抗の隊列が入場してくる方角へ、膝ごと身体の向きを変えた。
そのわずかな動きで、上着の胸元に留めた小さな章が見えた。
元帥府が発行する、軍関係施設への保安通行章である。
元帥の家族携行用の等級だった。
アレクはその意匠と等級を知っていた。
知っている、というだけのことだった。
クラインは三十秒、黙っていた。
それから口を開いた。
「――第一班は、旗を守る形に寄り過ぎていました。指揮官の位置と隊列の間隔から、左翼の支えが薄いことは導けます。教範の言う、厚みと幅の背反です」
再構成は筋が通っていた。
美しくさえあった。
クラインは塀の上を見上げた。
「概ね、そういうことでしょう。無意識に、計算した筈です」
「してない」
「では、どうやって分かるのですか」
「見てれば分かる」
見えているのは、彼女だけだった。
クラインはもう一度、演習場を見た。
砂と、旗と、整列し直す隊列があった。
それだけが、あった。
警護の士官が、遅れて通路に現れた。
皇帝が予定表にない場所にいることについて、誰を責めるべきかを探す顔をしていた。
警備計画の付図に、柵沿いの通路は描かれていない。
描かれていない場所での作法を、警護の様式は持たなかった。
士官は結局、敬礼だけをして下がった。
第二次対抗の隊列が定位置に就いた。
入れ替わった二個班が向かい合い、講評の続きがまだ場内に流れている。
塀の上から、声が落ちた。
「次、右」
それだけだった。
誰に言ったのでもないらしかった。
第二次対抗は、開始から数分は教範どおりに推移した。
攻勢側が正面に圧力をかけ、守勢側が受け、旗の周りで押し合いが続いた。
見学席では、二度目の見せ場に律義な拍手が続いた。
やがて守勢の班が正面の圧力に釣られて中央へ寄り、右翼の端の、隊と隊の結び目が緩んだ。
攻勢側の一隊が、押すのではなく、通る形でそこへ入った。
右翼が抜かれ、旗までの道が通り、判定が下りた。
講評の放送が、二度目の様式を読み上げ始めた。
同じ様式で、同じ長さだった。
様式は、崩れたのが左でも右でも、長さを変えない。
クラインは、今度は最初から計算で追っていた。
指揮官の癖、隊列の癖、圧力のかかる向き。
追いつくことは、追いついた。
ただし彼が答えに着いたのは、右翼が緩み始めてからだった。
塀の上の声は、隊列が定位置に就いた時点で、もう言い終えていた。
正しさの差ではなかった。
速度の差だった。
アレクはクラインを見た。
クラインは演習場を見たまま、しばらく答えなかった。
即答しないクラインは、めずらしかった。
それから、言った。
「……分かりません」
何が分からないのかは、分かっている声だった。
塀の上の子供は、勝ち誇らなかった。
二度目の的中を、確かめようともしなかった。
もう、退場していく班の足の運びを見ていた。
「きみ、どの元帥の子?」
アレクが訊いた。
「関係ある?」
あると思った。
しかし、あると言うための理屈が、すぐには見つからなかった。
アレクは名乗ろうかと考え、やめた。
訊かれてもいないのに名乗るのは、答えを買うための取引のようで、気が進まなかった。
皇帝が理屈を探しているあいだに、子供の興味は次へ移っていた。
アレクは問いを変えた。
「編入試験を受ければいいのに。ここの生徒になれる」
「幼年学校には、女子の部屋はないって」
声に、恨みの色はなかった。
雨の日に、雨だと言うのと同じ声だった。
それから、付け足すというのでもなく、続きが落ちた。
「二年したら、士官学校に行く。あっちは、試験に通ればいい」
そこで、身体が動いた。
塀の笠石から降りる動作と、地面を蹴って走り出す動作のあいだに、継ぎ目がなかった。
息を継ぐ一拍が、どこにもなかった。
走り方に助走がなく、最初の一歩が、もう全速だった。
アレクが柵に手をかけた時には、赤橙の髪は資材倉庫の角を曲がって、もう見えなくなっていた。
アレクは係員を呼び、本日の見学者名簿を確認させた。
誰を探しているのかは、言わなかった。
係員は皇帝の下問に恐縮し、名簿を三度確かめ、該当なしの報告に、詫びの言葉を三通りに変えて添えた。
詫びられる筋合いの者は、そこにはいなかった。
近隣住民の立ち入り記録は様式が三種あり、三種とも空欄だった。
在校生名簿は、確かめるまでもなかった。
アレクは、打つべき印の場所を、どこにも持たなかった。
塀の外の砂の上に、足跡が二つ、残っていた。
塀のこちら側には、一歩も入っていなかった。
二人は貴賓席へ戻った。
式次第は何事もなく進み、閉会の辞と、印刷どおりの位置の拍手があった。
答礼要領の附則三項は、終日、正しく運用された。
書類の上では、何ごともない一日だった。
その日のことを、アレクは誰にも話さなかった。
クラインも、話さなかった。
二人のあいだでも、話さなかった。
後年、帝国軍の最精鋭と謳われる突撃部隊が、ひとつ現れる。
鬨の声を持たない部隊である。
歴史家たちは、その指揮官について語ろうとして、まず記録の少なさに苦しむことになる。
帝国は、記録の国である。
皇帝の幼少期から元帥たちの食事の好みまで、書いて残す国である。
その帝国の文書庫に、彼女の少女時代は、ほとんど存在しない。
どこで学んだのか。
誰に師事したのか。
何ひとつ、出てこない。
軍学者たちは戦闘詳報から彼女の方法を再構成しようと試み、そのたびに、同じ場所で立ち止まった。
詳報が、短すぎるのである。
発令は一語か二語。
訓示は、ない。
突撃を受けた側の記録は、多くが文の途中で切れていた。
正しさなら、後から組み立てられた者もいる。
速さだけは、誰にも組み立てられなかった。
それらはすべて、遠い後年のことである。
この日、その赤橙毛の少女は、まだどの名簿にも載っていない。
***
【新帝国暦十六年・冬 帝都郊外 グリューネワルト伯爵夫人邸】
数日ののち、外出日が来た。
幼年学校の外出届は様式第七号で、行き先、同行者、帰校予定時刻のほか、外出の目的を記す欄がある。
クラインはそこに「保証人としての定期的な確認」と書いた。
受け付けた事務官は目的欄を二度読み、しばらく考えてから、私事、と朱書きで分類した。
分類に異議はなかった。
ただ、私事という語の座りの悪さだけが、すこし残った。
門まで、フェリックスとトビアスが付いてきた。
「妹のところか」
「保証人です」
「同じことだろ」
「法的に、全く違います」
フェリックスは肩をすくめた。
法的に違うものが、どうして毎回の外出日に律義に確認されるのかについては、追及しなかった。
追及するまでもない、という顔だった。
トビアスが包みを押し付けてきた。
実家から届いた焼き菓子である。
「持っていけ。子供のいる家に手ぶらで行く奴があるか」
「訪問の趣旨は確認であって……」
「趣旨と土産は両立する」
理屈で負けた、とクラインは思った。
負けた理屈は、存外きれいだった。
包みを受け取ると、トビアスは満足そうに、次の外出日の分も実家に注文しておく、と言った。
注文の根拠を、誰も訊かなかった。
伯爵夫人の本邸は、帝都から船を乗り継いで半日あまり、辺境の田園の中にある。
リーゼを預かるにあたり、夫人は帝都近郊の離宮のひとつへ、居を移していた。
離宮は帝都の外れ、丘のふもとにある。
冬の帝都は空が高く、市電はよく空いていた。
車内でクラインは、訪問時の議題を三件、頭の中で用意した。
三件とも、到着までに先方の議題へ押し流されることは分かっていた。
分かっていて、用意した。
市電を降りてからの並木道は、葉を落として明るかった。
門衛はすでに顔を覚えていて、誰何の代わりに扉を開けた。
玄関で家人が来客の帳面を開き、本日の来客の欄に、クラインの名が一行、書き入れられる。
書き終わるより先に、廊下の奥から足音が来た。
足音は廊下を曲がるたびに速くなり、家人の「お走りになりません」を後ろへ置き去りにして、玄関に到着した。
「おにいさま」
「クラインで結構です」
「おにいさま。きょうは、ていきてんけんの日です」
定期的な確認、という言い回しを、いつかの会話から拾ったらしい。
拾われた言葉は、七歳の口の中で、点検に育っていた。
クラインは訂正すべき要点を三つまで整理し、三つとも言わなかった。
言っても通らないことは、過去の事例が証明している。
点検は、まず手荷物から始まった。
「それは、なに」
「差し入れです。ブリュックナー商会の焼き菓子です」
「あずかります」
包みは正当な手続きを経て接収された。
続いて襟に移った。
「えりが、まがってます」
「実用上の支障はありません」
「まがってます」
直された。
次は靴だった。
「くつ。……よし」
一項目だけ合格が出た。
髪に移り、寝癖の疑いについて追及があった。
疑いは事実だった。
クラインは、身だしなみは思考の妨げにならない範囲で足りる、という主張の論拠を四点まで組み立て、四点目の途中で、自分が七歳を相手に論陣を張ろうとしていることに気づいて、黙った。
黙ると、直された。
廊下の端で、家人のひとりが笑いを噛み殺していた。
リーゼは、離宮で侍女見習いということになっている。
なっている、というだけで、実態は家人たちにもよく分かっていない。
行動範囲が広すぎるのである。
朝は厨房を手伝い、昼は庭師の後をつけ、午後は洗濯場で歌い、夕方には門衛の詰所で茶を飲んでいる。
仕事を覚えるというより、離宮を覚えている、と家人の長は評した。
評した当人が、洗濯場の歌の二番を口ずさんでいるのを、別の家人が目撃している。
茶の前に、巡回があった。
「じゅんかい、します」
巡回という語は、門衛の詰所から拾ってきたものらしい。
案内は本人の管轄順に行われた。
まず厨房。
磨かれた大鍋が据えてあり、覗くと顔が伸びた。
伸びたクラインの顔を検分して、リーゼは満足した。
次に洗濯場。
歌に三番があることが実演で証明され、洗濯係がふたり、途中から唱和した。
最後に門衛の詰所。
犬がいた。
「もんばんの犬です」
「首輪に、隣家の名がありますが」
「もんばんの、犬です」
犬の所属について、詰所の誰も異議を唱えなかった。
事実がどうであれ、詰所の中では、犬は門番の犬だった。
庭は、巡回に含まれなかった。
「にわは、じゅんかいしない。アンネローゼさまの、ばらだから」
管轄には、管轄外があった。
客間で茶になった。
茶菓は焼き立てで、奥から届いたものだという。
「アンネローゼさまが、やいたの。あたしも、まぜた」
混ぜたのが生地なのか、リーゼ自身が作業に混ざったのか、構文からは判別できなかった。
クラインは判別を放棄して食べた。
接収された包みも開封され、比較検討の対象になった。
検討は公平に行われ、結論は「どっちも、たべる」だった。
茶のあいだ、この半月の報告があった。
報告は時系列に沿わず、重要度にも沿わず、思い出した順に沿った。
庭師の靴が、左右で違った日があったこと。
洗濯場の歌は、二番までしか歌ってはいけない日があること。
屋根裏で夜に音がすること(給仕の家人が横から「鳥です」と註を付けた)。
アンネローゼ様のお部屋の近くは、静かに歩く決まりであること。
クラインは相槌の係になった。
相槌には正確さが求められ、聞き流しは即座に摘発された。
「きいてます?」
「聞いています。犬は、門番の犬です」
「ごうかく」
合格に続いて、対等の原則が主張された。
「そっちの、ほうこくは」
「特にありません」
「みじかい」
再提出が命じられた。
クラインは半月を思い返した。
訓練航海から戻ったこと。
課業が平常に復したこと。
友人の実家から、菓子が定期的に届くこと。
報告は三件で尽き、三件とも合格した。
演習日のことは、報告に含めなかった。
半月分の報告が終わる頃には、茶が二度差し替えられていた。
報告の最後に、リーゼは紙を持ってきた。
名がひとつ、大きく書いてある。
リーゼ。
画の太さは不揃いだが、形は整い始めていた。
「じょうずでしょう」
「整っています」
名の後ろは、紙の白のままだった。
クラインはその白について何も言わず、リーゼも何も言わなかった。
紙は本人の手で、客間のいちばん見える場所に飾られた。
位置の選定に、家人の助言は求められなかった。
窓の外の庭には、手入れの行き届いた薔薇の一角がある。
冬に入って花はないが、剪定の切り口が新しく並んでいた。
家人がその方角へ目礼して通るので、庭のどこかに主がいるらしかった。
姿は、最後まで見えなかった。
辞去の間際、家人の長が言付けを伝えた。
次はお菓子を焼くところから、ご一緒に、とのことだった。
言付けの主語は、言われなかった。
帰り際、家政の者が書類を持ってきた。
リーゼの教育に関する届で、身元の確認のため、保証人の署名欄がある。
届の様式には続柄の欄があり、父、母、祖父母、後見人、と印刷の選択肢が並んでいた。
該当する語がなく、余白に手書きで、「保証人」、と書き添えることになった。
様式は手書きを想定しておらず、欄は狭かった。
狭い欄に、正確に収まった。
クラインは内容を読み、日付を確かめ、署名した。
最後の一画まで、乱れなかった。
玄関で、点検が出発前の最終段階に入った。
襟、釦、髪、忘れ物の有無。
「つぎのてんけんは、いつ」
「次の外出日です。四週間後になります」
「よんしゅうかん」
リーゼは指を四本立てて、覚えた。
「わすれたら、むかえにいきます」
「幼年学校は、部外者の立ち入りが……」
言いかけて、やめた。
この娘が門で止められている図が、うまく思い浮かばなかった。
馬車が並木道を出るまで、リーゼは手を振っていた。
振り終わると、くるりと背を向けて、駆け戻っていった。
玄関の奥で「お走りになりません」が、また聞こえた。
離宮の帳面に、退出の刻限が書き足された。
本日の来客、一名。
それで、頁は閉じた。