銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十五話 野良犬の罠(前編)(新帝国暦十七年春)

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】

 

最終学年の春は紙の匂いがした。

士官学校への推薦の内規が掲示され、志望調査の用紙が配られ、最終試験の日程が食堂の話題を占めた。

推薦はおおよそ九割に出る。

推薦者の名は家名とともに公示される。

 

残る一割にも一般試験の道は残されている。

ただしその願書には進路指導の所見が添えられる。

軍に適性を認めがたく他の道を勧める――要するに肩たたきである。

九割が渡る橋からこぼれることは落第よりも雄弁に、下の一割だと公示されることだった。

 

幼年学校の五年間はこの一年で決算される。

 

ローデリヒ・フォン・グルックスブルクの周りは目に見えて人が減った。

成績は中位から下へ滑り、九割の線をとうとう割った。

制度は平等になっても、旧い家々の世間はいまも公示のあの一枚を読み続けている。

寄親はその名簿でグルックスブルクがまだ人を出せる家かどうかを量り、後ろ盾の続きを決めるのだという。

家格は願書のどの欄にも記入する場所がなかった。

 

かつて彼を囲んでいた取り巻きはいまは別の卓で別の有力な誰かの近くにいる。

去った者たちをローデリヒは引き止めなかった。

引き止める言葉を持っていなかったのだと思う。

彼はただ遠くからこちらの卓を見ていることが増えた。

 

フェリックスは気にも留めていなかった。

「見られて減るもんでもなし」

それきりだった。

クラインだけが時おり視線の主のほうへ目をやった。

値踏みをするような静かな目だった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 ローデリヒ】

 

夜、窓辺でローデリヒは爪を噛んでいた。

噛める爪がもうほとんど残っていなかった。

 

最終学年になってから彼の一日は掲示板から始まった。

模擬試験の席次が貼り出される朝、彼は誰よりも早くそこへ行く。

自分の名を探すためではない。

自分の名の位置は見なくても分かっている。

彼が探すのは下がった名だった。

 

誰かが落ちていますように。

掲示を追う指がいつからそう祈るようになったのか、彼はもう思い出せなかった。

最初は自分が上がることを祈っていたはずだった。

 

上がるための努力なら、した。

人に言えば嗤われるほど、した。

定期試験の前に三週間、消灯後の洗面所でほぼ徹夜で勉強をしたこともあった。

席次は二つ下がった。

 

戦史だけは良かった。

それも勝った側の講評ではない。

敗けた側がどこから崩れたかを言い当てる設問だけは学年の誰よりも早く正確に解けた。

 

教官が評を書いたことがある。

「グルックスブルクは人の崩れる場所を見つける目がある」と。

もっともその設問は総合の席次を一つも押し上げなかった。

 

旧王朝なら彼は何もしなくても士官学校の門をくぐれただろう。

新王朝は門の前で全員を並ばせ、平等に機会を与え、測る。

「機会の平等」ほど残酷な物差しはない。

測られた結果が自分の全部だということにされるからだ。

 

決定的だったのは雨の日の渡り廊下だった。

かつて彼の鞄を持って歩いた下級生とすれ違った。

ローデリヒは鷹揚に顎を引いてみせた。

挨拶は返ってこなかった。

無視ではない。

気づかれてすらいなかった。

 

家からは月に一度手紙が来る。

父の字は昔から変わらない。

家の再興は汝の双肩に在り。

双肩、と彼は思う。

量られているのは肩ではなく席次であるのに。

 

近ごろは文面に寄親の名が増えた。

返事には順調です、とだけ書いた。

嘘を書く手はもう慣れて震えなかった。

 

食堂の遠くにはいつもあの卓があった。

皇帝と、元帥の子と、出自の知れぬ天才が同じ皿のものを食って笑っている。

血でも席次でもない何かで結ばれた輪。

見なければいいのに目は毎日そこへ行った。

人は欲しくてたまらないものから目を逸らすことができない。

 

上がる道を彼は諦めたのではない。

計算したのだ。

残りの一年で自分が三人に届く見込みと、三人のほうが地に落ちる見込みと。

前者は限りなく無に近く、後者はやりようによっては動かせるかもしれない。

気づいてしまえばそれは啓示のように単純だった。

 

自分が上がれないのなら、他人を引きずり下ろせばいい。

 

口に出したことは一度もない。

だが胸の中でその一文を初めて最後まで言い切った夜、彼は自分でも思いがけないほど深く眠れた。

努力は何度も彼を裏切ったが、悪意はまだ一度も彼を裏切っていない。

それは彼の人生で初めて確実に手の中にある力だった。

 

その力を彼は試してみることにした。

 

最初は小さな罠だった。

相手は雨の渡り廊下で彼に気づかなかったあの下級生である。

二週間かけてローデリヒはその少年の一日を憶えた。

消灯点呼のあと厨房に忍び込んで夜食を取る癖があること。

決まって週の半ば、決まって同じ経路であること。

 

彼は少年を密告しなかった。

代わりにその夜、厨房の近くで備品の紛失を届け出た。

紛失物を探す舎監の見回りが経路と交差した。

少年は級友たちの信を失い、罰当番の列に加わった。

ローデリヒは階段の踊り場からそれを見ていた。

少年が俯いて廊下を磨くのを見たとき、世界の輪郭が一瞬だけ鮮明になった。

 

生まれて初めて世界が自分の描いたとおりに動いたのだった。

 

二度目は時間をかけた。

前年、推薦基準の線の少し上にいるはずの上級生が消灯後の物置でカードの賭場を開いていた。

胴元は几帳面な男で、貸し借りを小さな帳面につけていた。

生徒の噂というものは釣り銭と一緒に購買部の売り台へ集まってくる。

その情報と帳面の在処をローデリヒは売り子の少年から金で買った。

 

帳面が舎監の手に渡る筋道は賭場に借りの嵩んだ別の生徒に、それと知らせず作らせた。

発覚は推薦名簿の確定のちょうど一週間前。

賭博の咎と名を連ねた帳面の重みは、学科の成績の貯金では埋まらなかった。

線の上にいた男は線の下へ落ちて静かに消えた。

 

上級生の推薦者発表の朝、ローデリヒはわざわざ発表掲示板の付近に隠れ、その上級生が現れるのを待った。

悲嘆にくれるその顔を見るためだけに。

 

三度目があり、四度目があった。

的は小さく、仕込みは速く、手数は少なくなっていった。

落ちた者はいずれも身から出た錆に見えた。

学校は何も気づかなかった。

腕が上がっている、ということだった。

 

自分の手は一度も汚さない。

密告もしない。

規則が正しく執行されるように状況を並べるだけだ。

潰すのは自分ではない。

この学校の、この王朝の、あの自慢の公正さである。

 

小遣いの大半は人を陥れる情報の代金とその後の仕込みのために消えた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 ローデリヒ】

 

数週間ののち、同じ窓辺でローデリヒは爪を噛むのをやめていた。

 

人はよほどのことがない限り他人を憎み続けることには飽きる。

憎しみにも体力が要るからだ。

 

フェリックスを観察し続け、彼は飽きなかった。

 

あの倅奴(せがれめ)の胸の奥にあるもっとも傷つきやすい場所。

それは本人のものではなかった。

本人への礫は何度投げても嗤っていなされる。

それはもう思い知っている。

 

だが人の急所はその人の内側にあるとは限らない。

ただし急所を知ることと、急所に届かせることとは別の技術である。

 

それを彼はこの一年の礫で学んでいた。

無駄に投げた礫は一つもなかったのだ。

何を言えばあの男が何秒で笑うか。

どの話題なら笑いが速くなるか。

屈辱に赤らんだ日々すら測定としては成功だった。

 

あの男は痛い場所ほど早く笑う。

 

明るさで何かを隠す人間は隠す速さで痛みの在処を教えてしまう。

自分のことは遅く、余裕をもって笑う。

養家の話は速く流す。

そして皇帝を混ぜた絡みを試したとき、あの男は足を止めた。

止めて耐えた。

耐えるあいだ、あの男はその場から動けない。

 

だから順序を組んだ。

 

一の矢は古い侮辱。

またか、と思わせ防御反応を過去の型に固定する。

返り討ちの恥は織り込みである。

嗤われた男を誰も警戒しない。

 

二の矢は皇帝。

足を止めさせ、耐えさせ、圧を上げる。

耐えている人間は次の一言から逃げられない。

 

そして三の矢は――声を落とす。

 

大声で言えば周りが先に騒ぎ、殴られる前に場が割れてしまう。

あの男一人に届く声で言えば言葉は消え、拳だけが残る。

来賓の面前での理由の見えない暴力。

 

それでもまだ絵は完成ではなかった。

最後の一片は殴られた後のあの男自身である。

あの男は理由を言わない。いや、言えない。

言えば庇いたいものを自分の口で衆目に晒すことになるからだ。

誇りが口を塞ぐ。

弁明のない被告ほど裁きやすいものはない。

 

つまりこの罠はあの男の誇りを部品として使う。

彼はその設計に我ながら見惚れた。

 

参観の午後を選ぶ。

家令を呼んでおく。

弱みを握っている下級生を二人、声の届くところに立たせる。

それより外の、目だけが届く距離に大勢がいる。

 

進路説明の呼び出しは十五時、と次第の掲示にあった。

声をかけるのはそのちょうど三分前。

人垣は刻限どおりに動いてくれる。

 

言葉は聞かせたい者にだけ聞こえればいい。

拳は全員に見えればいい。

 

あとは殴らせるだけだ。

暴力は校則の最も重いところに触れる。

退学。

そして疾風ウォルフの家名に拭えない泥が付く。

 

彼は窓の外の帝都の光を見た。

あの輪の内側に自分の席は最初からなかった。

ないのなら輪のほうを壊すだけだ。

 

図面を胸の中で三度なぞってから彼は明かりを消した。

その夜もよく眠れた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】

 

参観の午後、中庭は人で埋まっていた。

在校生の家族、家令や家人、進路の相談に来た紹介者たち。

最終学年の参観日は半分は縁談と推薦状の市場である、と誰かが言っていた。

 

アレクとクラインは渡り廊下の柱の際にいた。

フェリックスは中庭の先、噴水の縁で実家から届いた包みを受け取っている。

便はブリュックナー商会のものらしく、配達人の後ろにトビアスが立って伝票の板を抱えていた。

自分の家の便だから付き添ってきた、というだけのことのようだった。

 

そこへローデリヒが歩み寄っていくのが見えた。

歩み寄る前に彼は一度懐の時計を確かめた。

時間を気にする用があるようには見えなかった。

 

「これはこれは、ミッターマイヤーの貰われっ子どの」

 

声はよく通った。

何度目かの同じ台詞だった。

フェリックスは包みの結び目を解く手も止めなかった。

「五回目だぞ、それは。もっと勉強しなきゃ部分点もやれんぞ」

 

近くで小さな笑いが起きた。

笑ったのはローデリヒの連れの下級生ではなく、通りがかりの別の下級生たちだった。

一年前の廊下ではこれで耳まで赤くなった男だった。

だが今日のローデリヒは笑われた形のまま少しも赤くならなかった。

ただ次の言葉へ進んだ。

 

「では話題を変えよう。お前の主君のことだ」

声が一段張られた。

初陣の武勲は飾りものだ、と彼は言った。

数を偽った戦で飾られた勝ち星の上に座る玉座の子と、その靴を磨く学友たち、と。

 

アレクは自分の頬が硬くなるのを感じた。

隣でクラインがわずかに身じろぎした。

フェリックスの右手が包みの上で一度握られた。

そして開かれた。

 

「……アレクの席次は俺より上だ。靴を磨く暇はねえよ」

フェリックスの声はまだ平坦だった。

そのとき参観の人波が動いた。

講堂の扉が開いて進路説明の呼び出しが掛かり、中庭の人の流れが一斉に噴水のほうへ寄ったのである。

 

アレクとクラインは人垣の後ろへ押し出された。

声が届かなくなった。

見えてはいた。

噴水の縁のフェリックスと、その正面のローデリヒと、いつのまにか声の届く輪の内側に立っている家令と下級生が二人。

 

ローデリヒが何かを言った。

 

今度は声を張らなかった。

フェリックス一人に届けばいい声だった。

それが誰のことであり、何に触れる言葉だったのか、人垣の外のアレクには聞こえなかった。

ただ輪の内側の空気が変わるのは見えた。

 

下級生の一人が笑いかけた口の形のまま笑うのをやめた。

家令ですら目を伏せた。

口にした当人の仕込みでさえ笑えない種類の下劣な言葉だった。

 

フェリックスがゆっくりと顔を上げた。

 

その右手が握られるのが見えた。

アレクは開かれるのを待った。

一年前の廊下でもさっきの噴水の縁でも、あの手は握られて開かれた。

だから今度も開かれる。

 

開かれなかった。

 

一撃だった。

ローデリヒの体が石畳に倒れ、参観の中庭が一拍遅れて悲鳴と人垣に変わった。

「見たか」「殴ったぞ」「グルックスブルクの子を」

声はもう要らないほど揃っていた。

言葉を聞いた者は輪の内側の三人だけで、拳を見た者は中庭の全員だった。

 

騒ぎの中心でフェリックスは抵抗しなかった。

駆けつけた教官に両腕を取られながら、倒れたローデリヒを見下ろしている。

その目が何を見ていたのか、アレクの位置からは分からなかった。

ただ引き立てられていく背中はまっすぐだった。

 

石畳の上でローデリヒが口の端の血を拭った。

拭いながらその口元が笑っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 フェリックス】

 

聴取室は白い部屋だった。

机が一つ、椅子が二つ、壁に校訓の額が一つ。

教官が調書の用紙を挟んだ板を立てて正面に座っていた。

 

「経緯を話しなさい」

「殴りました」

「それは皆が見ている。なぜ殴ったのかを訊いている」

「頭に来たからやった。罰したいならどうぞ」

 

教官はしばらく黙ってフェリックスを見た。

挑発の有無を問うた。

フェリックスは答えなかった。

相手が何を言ったのかを問うた。

フェリックスは答えなかった。

 

「君は自分の立場が分かっているのか。相手はグルックスブルク家の子だ。すでに家から正式の抗議が入っている。理由を言わなければ一方的な暴行として扱うほかない」

「どうぞ」

 

教官は溜息をつき、調書に何かを書き付けた。

書き終わるまでの沈黙のあいだ、フェリックスは窓のほうを見ていた。

夕方の窓に自分の顔が薄く映っていた。

両の目とも、青かった。

彼はそこから目を逸らした。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校・面会室 フェリックス】

 

面会室には母が先に来ていた。

 

エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは椅子にも掛けず、持参した籠から包みを出して机に並べた。

温かいうちに、とだけ言った。

何があったのかは訊かなかった。

なぜ言わないのかも訊かなかった。

 

フェリックスは黙って食べた。

うまかった。

うまい、と言うと母は頷いた。

それだけの面会だった。

 

父は来なかった。

来られないのだ、と家の使いが小さく言い添えた。

当事者の親は審査に関わることも、口を利くことも慎まねばならない。

宇宙艦隊司令長官ともあろう人が、息子のことでは廊下の外に立つことしかできない。

 

帰りぎわ、母は一度だけ振り返った。

「あなたが決めたのなら、それでいいの」

何を、とは言わなかった。

フェリックスも何も、とは訊かなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】

 

僕のところへ届くのは伝聞ばかりだった。

 

グルックスブルク家の抗議は寄親の有力貴族の名を連ねて宮廷まで達したという。

抗議には医師の診断書が添えられていた。

処分のための弁明手続の期日が決まった。

 

罪状を並べれば重かった。

公開参観の日、来賓の面前での故意の暴行。

相手には負傷があり、診断書が出ている。

幼年学校の懲戒規程で故意の暴行はもとより重大処分事由に当たる。

そして本人は挑発の有無さえ否定も説明もしない。

将来士官たらんとする者にまず求められるのは自制である。

自制を欠いた者に士官学校への推薦は出せない。

覆す材料はどこにもなかった。

 

退学が妥当だろう、という声が廊下のあちこちでしたり顔に交わされていた。

 

母上も動けない。

皇帝の学友だから庇う、という形になれば審査そのものの公平が疑われる。

それはフェリックスのためにもならない。

 

夜、寮の窓から帝都の光を見た。

 

あの中庭で僕は見たのだ。

握られて、開かれなかった右手を。

フェリックスが五年間一度も開き損ねたことのなかった、あの右手を。

 

理由もなくあの手が閉じるはずがない。

 

賢さと正しさが別のものを指している。

そういう夜が人生にはあるらしかった。

僕は窓の光を見ながら、審査の日の朝に自分が何をするべきかずっと考えていた。

 

考えは朝までに終わらなかった。

終わらないまま朝が来た。

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