【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】
最終学年の春は、紙の匂いがした。
士官学校への推薦の内規が掲示され、志望調査の用紙が配られ、最終試験の日程が食堂の話題を占めた。
推薦は、おおよそ九割に出る。
推薦者の名は、家名とともに公示される。
残る一割にも、一般試験の道は残されている。
ただしその願書には、進路指導の所見が添えられる。
軍に適性を認めがたく、他の道を勧める――要するに、肩たたきである。
九割が渡る橋からこぼれることは、落第よりも雄弁に、下の一割だと公示されることだった。
幼年学校の五年間は、この一年で決算される。
誰もが自分の帳尻を合わせ始めていた。
帳尻の合わない者から、口数が減っていった。
ローデリヒ・フォン・グルックスブルクの周りは、目に見えて人が減った。
成績は中位から下へ滑り、九割の線を、とうとう割った。
制度は平等になっても、旧い家々の世間は、いまも公示のあの一枚を読み続けている。
寄親はその名簿で、グルックスブルクがまだ人を出せる家かどうかを量り、後ろ盾の続きを決めるのだという。
家格は、願書のどの欄にも記入する場所がなかった。
かつて彼を囲んでいた取り巻きは、いまは別の卓で、別の有力な誰かの近くにいる。
去った者たちを、ローデリヒは引き止めなかった。
引き止める言葉を、持っていなかったのだと思う。
彼はただ、遠くからこちらの卓を見ていることが増えた。
フェリックスは気にも留めていなかった。
「見られて減るもんでもなし」
それきりだった。
クラインだけが、時おり、視線の主のほうへ目をやった。
値踏みをするような、静かな目だった。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 ローデリヒ】
夜、窓辺で、ローデリヒは爪を噛んでいた。
噛める爪が、もうほとんど残っていなかった。
最終学年になってから、彼の一日は掲示板から始まった。
模擬試験の席次が貼り出される朝、彼は誰よりも早くそこへ行く。
自分の名を探すためではない。
自分の名の位置は、見なくても分かっている。
彼が探すのは、下がった名だった。
誰かが落ちていますように。
掲示を追う指が、いつからそう祈るようになったのか、彼はもう思い出せなかった。
最初は、自分が上がることを祈っていたはずだった。
上がるための努力なら、した。
人に言えば嗤われるほど、した。
定期試験の前に三週間、消灯後の洗面所でほぼ徹夜で勉強をしたこともあった。
席次は、二つ下がった。
戦史だけは、良かった。
それも、勝った側の講評ではない。
敗けた側がどこから崩れたかを言い当てる設問だけは、学年の誰よりも早く、正確に解けた。
教官が、評を書いたことがある。
「グルックスブルクは、人の崩れる場所を見つける目がある」、と。
もっとも、その設問は、総合の席次を一つも押し上げなかった。
旧王朝なら、彼は何もしなくても士官学校の門をくぐれただろう。
新王朝は、門の前で全員を並ばせ、平等に機会を与え、測る。
「機会の平等」ほど、残酷な物差しはない。
測られた結果が、自分の全部だということにされるからだ。
決定的だったのは、雨の日の渡り廊下だった。
かつて彼の鞄を持って歩いた下級生と、すれ違った。
ローデリヒは、鷹揚に顎を引いてみせた。
挨拶は、返ってこなかった。
無視ではない。
気づかれてすら、いなかった。
家からは、月に一度、手紙が来る。
父の字は昔から変わらない。
家の再興は汝の双肩に在り。
双肩、と彼は思う。
量られているのは肩ではなく、席次であるのに。
近ごろは、文面に寄親の名が増えた。
返事には、順調です、とだけ書いた。
嘘を書く手は、もう慣れて、震えなかった。
食堂の遠くには、いつも、あの卓があった。
皇帝と、元帥の子と、出自の知れぬ天才が、同じ皿のものを食って笑っている。
血でも席次でもない何かで結ばれた輪。
見なければいいのに、目は毎日そこへ行った。
人は、欲しくてたまらないものから、目を逸らすことができない。
上がる道を、彼は諦めたのではない。
計算したのだ。
残りの一年で自分が三人に届く見込みと、三人のほうが地に落ちる見込みと。
前者は限りなく無に近く、後者は、やりようによっては動かせるかもしれない。
気づいてしまえば、それは啓示のように単純だった。
自分が上がれないのなら、他人を引きずり下ろせばいい。
口に出したことは、一度もない。
だが胸の中でその一文を初めて最後まで言い切った夜、彼は自分でも思いがけないほど、深く眠れた。
努力は何度も彼を裏切ったが、悪意はまだ一度も彼を裏切っていない。
それは彼の人生で初めて、確実に手の中にある力だった。
その力を、彼は試してみることにした。
最初は、小さな罠だった。
相手は、雨の渡り廊下で彼に気づかなかった、あの下級生である。
二週間かけて、ローデリヒはその少年の一日を憶えた。
消灯点呼のあと、厨房に忍び込んで夜食を取る癖があること。
決まって週の半ば、決まって同じ経路であること。
彼は少年を密告しなかった。
代わりに、その夜、厨房の近くで備品の紛失を届け出た。
紛失物を探す舎監の見回りが、経路と交差した。
少年は級友たちの信を失い、罰当番の列に加わった。
ローデリヒは階段の踊り場から、それを見ていた。
少年が俯いて廊下を磨くのを見たとき、世界の輪郭が、一瞬だけ鮮明になった。
生まれて初めて、世界が自分の描いたとおりに動いたのだった。
二度目は、時間をかけた。
前年、推薦基準の線の少し上にいるはずの上級生が、消灯後の物置で、カードの賭場を開いていた。
胴元は几帳面な男で、貸し借りを小さな帳面につけていた。
生徒の噂というものは、釣り銭と一緒に、購買部の売り台へ集まってくる。
その情報と帳面の在処を、ローデリヒは売り子の少年から、金で買った。
帳面が舎監の手に渡る筋道は、賭場に借りの嵩んだ別の生徒に、それと知らせず作らせた。
発覚は、推薦名簿の確定のちょうど一週間前。
賭博の咎と、名を連ねた帳面の重みは、学科の成績の貯金では埋まらなかった。
線の上にいた男は、線の下へ落ちて、静かに消えた。
上級生の推薦者発表の朝、ローデリヒはわざわざ発表掲示板の付近に隠れ、その上級生が現れるのを待った。
悲嘆にくれるその顔を見るためだけに。
三度目があり、四度目があった。
的は小さく、仕込みは速く、手数は少なくなっていった。
落ちた者はいずれも、身から出た錆に見えた。
学校は、何も気づかなかった。
腕が上がっている、ということだった。
自分の手は、一度も汚さない。
密告もしない。
規則が正しく執行されるように、状況を並べるだけだ。
潰すのは自分ではない。
この学校の、この王朝の、あの自慢の公正さである。
小遣いの大半は、人を陥れる情報の代金とその後の仕込みのために消えた。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 ローデリヒ】
数週間ののち、同じ窓辺で、ローデリヒは爪を噛むのをやめていた。
人はよほどのことがない限り、他人を憎み続けることには飽きる。
憎しみにも、体力が要るからだ。
フェリックスを観察し続け、彼は飽きなかった。
あの
それは本人のものではなかった。
本人への礫は、何度投げても嗤っていなされる。
それはもう、思い知っている。
だが、人の急所は、その人の内側にあるとは限らない。
ただし、急所を知ることと、急所に届かせることとは、別の技術である。
それを彼は、この一年の礫で学んでいた。
無駄に投げた礫は、一つもなかったのだ。
何を言えば、あの男が何秒で笑うか。
どの話題なら、笑いが速くなるか。
屈辱に赤らんだ日々すら、測定としては成功だった。
あの男は、痛い場所ほど、早く笑う。
明るさで何かを隠す人間は、隠す速さで、痛みの在処を教えてしまう。
自分のことは、遅く、余裕をもって笑う。
養家の話は、速く流す。
そして皇帝を混ぜた絡みを試したとき、あの男は、足を止めた。
止めて、耐えた。
耐えるあいだ、あの男は、その場から動けない。
だから、順序を組んだ。
一の矢は、古い侮辱。
またか、と思わせ、防御反応を過去の型に固定する。
返り討ちの恥は、織り込みである。
嗤われた男を、誰も警戒しない。
二の矢は、皇帝。
足を止めさせ、耐えさせ、圧を上げる。
耐えている人間は、次の一言から逃げられない。
そして三の矢は――声を落とす。
大声で言えば、周りが先に騒ぎ、殴られる前に場が割れてしまう。
あの男一人に届く声で言えば、言葉は消え、拳だけが残る。
来賓の面前での、理由の見えない暴力。
それでもまだ、絵は完成ではなかった。
最後の一片は、殴られた後の、あの男自身である。
あの男は、理由を言わない。いや、言えない。
言えば、庇いたいものを自分の口で衆目に晒すことになるからだ。
誇りが、口を塞ぐ。
弁明のない被告ほど、裁きやすいものはない。
つまりこの罠は、あの男の誇りを、部品として使う。
彼はその設計に、我ながら見惚れた。
参観の午後を選ぶ。
家令を呼んでおく。
弱みを握っている下級生を二人、声の届くところに立たせる。
それより外の、目だけが届く距離に、大勢がいる。
進路説明の呼び出しは十五時、と次第の掲示にあった。
声をかけるのは、そのちょうど三分前。
人垣は、刻限どおりに動いてくれる。
言葉は、聞かせたい者にだけ聞こえればいい。
拳は、全員に見えればいい。
あとは、殴らせるだけだ。
暴力は校則の最も重いところに触れる。
退学。
そして疾風ウォルフの家名に、拭えない泥が付く。
彼は窓の外の帝都の光を見た。
あの輪の内側に、自分の席は最初からなかった。
ないのなら、輪のほうを壊すだけだ。
図面を胸の中で三度なぞってから、彼は明かりを消した。
その夜も、よく眠れた。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】
参観の午後、中庭は人で埋まっていた。
在校生の家族、家令や家人、進路の相談に来た紹介者たち。
最終学年の参観日は、半分は縁談と推薦状の市場である、と誰かが言っていた。
アレクとクラインは、渡り廊下の柱の際にいた。
フェリックスは中庭の先、噴水の縁で、実家から届いた包みを受け取っている。
便はブリュックナー商会のものらしく、配達人の後ろにトビアスが立って、伝票の板を抱えていた。
自分の家の便だから付き添ってきた、というだけのことのようだった。
そこへ、ローデリヒが歩み寄っていくのが見えた。
歩み寄る前に、彼は一度、懐の時計を確かめた。
時間を気にする用があるようには、見えなかった。
「これはこれは、ミッターマイヤーの貰われっ子どの」
声は、よく通った。
何度目かの、同じ台詞だった。
フェリックスは包みの結び目を解く手も止めなかった。
「五回目だぞ、それは。もっと勉強しなきゃ部分点もやれんぞ」
近くで小さな笑いが起きた。
笑ったのはローデリヒの連れの下級生ではなく、通りがかりの別の下級生たちだった。
一年前の廊下では、これで耳まで赤くなった男だった。
だが、今日のローデリヒは、笑われた形のまま、少しも赤くならなかった。
ただ、次の言葉へ進んだ。
「では、話題を変えよう。お前の主君のことだ」
声が、一段張られた。
初陣の武勲は飾りものだ、と彼は言った。
数を偽った戦で、飾られた勝ち星の上に座る玉座の子と、その靴を磨く学友たち、と。
アレクは自分の頬が硬くなるのを感じた。
隣でクラインが、わずかに身じろぎした。
フェリックスの右手が、包みの上で一度、握られた。
そして、開かれた。
「……アレクの席次は俺より上だ。靴を磨く暇はねえよ」
フェリックスの声は、まだ平坦だった。
そのとき、参観の人波が動いた。
講堂の扉が開いて、進路説明の呼び出しが掛かり、中庭の人の流れが一斉に噴水のほうへ寄ったのである。
アレクとクラインは、人垣の後ろへ押し出された。
声が、届かなくなった。
見えてはいた。
噴水の縁のフェリックスと、その正面のローデリヒと、いつのまにか声の届く輪の内側に立っている家令と、下級生が二人。
ローデリヒが、何かを言った。
今度は声を張らなかった。
フェリックス一人に届けばいい声だった。
それが誰のことであり、何に触れる言葉だったのか、人垣の外のアレクには聞こえなかった。
ただ、輪の内側の空気が変わるのは見えた。
下級生の一人が、笑いかけた口の形のまま、笑うのをやめた。
家令ですら、目を伏せた。
口にした当人の仕込みでさえ、笑えない種類の下劣な言葉だった。
フェリックスが、ゆっくりと顔を上げた。
その右手が握られるのが見えた。
アレクは、開かれるのを待った。
一年前の廊下でも、さっきの噴水の縁でも、あの手は握られて、開かれた。
だから今度も開かれる。
開かれなかった。
一撃だった。
ローデリヒの体が石畳に倒れ、参観の中庭が、一拍遅れて悲鳴と人垣に変わった。
「見たか」「殴ったぞ」「グルックスブルクの子を」
声はもう、要らないほど揃っていた。
言葉を聞いた者は輪の内側の三人だけで、拳を見た者は、中庭の全員だった。
騒ぎの中心で、フェリックスは抵抗しなかった。
駆けつけた教官に両腕を取られながら、倒れたローデリヒを見下ろしている。
その目が何を見ていたのか、アレクの位置からは分からなかった。
ただ、引き立てられていく背中は、まっすぐだった。
石畳の上で、ローデリヒが口の端の血を拭った。
拭いながら、その口元が、笑っていた。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 フェリックス】
聴取室は、白い部屋だった。
机が一つ、椅子が二つ、壁に校訓の額が一つ。
教官が、調書の用紙を挟んだ板を立てて、正面に座っていた。
「経緯を、話しなさい」
「殴りました」
「それは皆が見ている。なぜ殴ったのかを訊いている」
「頭に来たからやった。罰したいならどうぞ」
教官は、しばらく黙ってフェリックスを見た。
挑発の有無を問うた。
フェリックスは答えなかった。
相手が何を言ったのかを問うた。
フェリックスは答えなかった。
「君は、自分の立場が分かっているのか。相手はグルックスブルク家の子だ。すでに家から、正式の抗議が入っている。理由を言わなければ、一方的な暴行として扱うほかない」
「どうぞ」
教官は溜息をつき、調書に何かを書き付けた。
書き終わるまでの沈黙のあいだ、フェリックスは窓のほうを見ていた。
夕方の窓に、自分の顔が薄く映っていた。
両の目とも、青かった。
彼はそこから、目を逸らした。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校・面会室 フェリックス】
面会室には、母が先に来ていた。
エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは、椅子にも掛けず、持参した籠から包みを出して机に並べた。
温かいうちに、とだけ言った。
何があったのかは、訊かなかった。
なぜ言わないのかも、訊かなかった。
フェリックスは黙って食べた。
うまかった。
うまい、と言うと、母は頷いた。
それだけの面会だった。
父は、来なかった。
来られないのだ、と家の使いが小さく言い添えた。
当事者の親は、審査に関わることも、口を利くことも、慎まねばならない。
宇宙艦隊司令長官ともあろう人が、息子のことでは、廊下の外に立つことしかできない。
帰りぎわ、母は一度だけ振り返った。
「あなたが決めたのなら、それでいいの」
何を、とは言わなかった。
フェリックスも、何も、とは訊かなかった。
***
【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】
僕のところへ届くのは、伝聞ばかりだった。
グルックスブルク家の抗議は、寄親の有力貴族の名を連ねて、宮廷まで達したという。
抗議には、医師の診断書が添えられていた。
処分のための弁明手続の期日が決まった。
罪状を並べれば、重かった。
公開参観の日、来賓の面前での、故意の暴行。
相手には負傷があり、診断書が出ている。
幼年学校の懲戒規程で、故意の暴行はもとより重大処分事由に当たる。
そして本人は、挑発の有無さえ、否定も説明もしない。
将来、士官たらんとする者に、まず求められるのは自制である。
自制を欠いた者に、士官学校への推薦は出せない。
覆す材料は、どこにもなかった。
退学が妥当だろう、という声が、廊下のあちこちで、したり顔に交わされていた。
母上も、動けない。
皇帝の学友だから庇う、という形になれば、審査そのものの公平が疑われる。
それはフェリックスのためにも、ならない。
夜、寮の窓から帝都の光を見た。
あの中庭で、僕は見たのだ。
握られて、開かれなかった右手を。
フェリックスが五年間、一度も開き損ねたことのなかった、あの右手を。
理由もなく、あの手が閉じるはずがない。
賢さと、正しさが、別のものを指している。
そういう夜が、人生にはあるらしかった。
僕は窓の光を見ながら、審査の日の朝に自分が何をするべきか、ずっと考えていた。
考えは、朝までに終わらなかった。
終わらないまま、朝が来た。