銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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幕間 集う者たち(一)
一「ジェイク・カザリス」(新帝国暦十四年秋)


後世の歴史家は、新帝国暦十四年の辺境海賊掃討戦を、若い王朝による辺境統治の成功例として記録している。

艦隊は精妙に運用され、犠牲は最小に抑えられ、無法者の巣は一つずつ、丁寧に潰されていった。

航路は安全になり、保険料率は下がり、帝都の官報は簡潔にその成果を讃えた。

 

記録は正しい。

ただ、同じ年を、まったく別の帳簿から眺めていた男がいたことを、官報は知らない。

 

その男の名を、後世の一部の史家は「教国の黒狐」と呼ぶ。

かつてフェザーンに、同じ渾名で呼ばれた男がいたことを覚えている者は、もう少ない。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十四年・秋 辺境某星域・自由貿易港 カザリス】

 

ジェイク・カザリスは、三日かけて帳簿を殺していた。

 

殺す、というのは彼の言い方である。

回収不能の債権に線を引き、二度と戻らぬ取引先の名を消し、頁ごと破り捨てる。

それを彼は、殺すと呼んだ。

 

死んだのは向こうが勝手に死んだのであり、俺は帳簿の上で、それを追認してやってるだけだ。

それが彼の理屈だった。

 

「ドルンの兄弟、死亡。ガルシアの船団、拿捕。『鉄鎚』の親父は、投降か。あの強欲爺が」

読み上げる副長ダンカンの声も、三日目ともなると事務的だった。

傷だらけの顔に、感傷の色はない。

 

フェザーンの場末で積荷をかすめていた頃からの仲である。

人の死に方より、金の死に方を数える方が、身についていた。

 

「締めて、売掛の三割が焦げつき。得意先の――まあ、半分が消えました」

「半分で済んだか」

 

カザリスは手酌で杯を満たすと、気のない手つきで、それを軽く持ち上げた。

「景気のいい話だな、おい」

 

万歳(ホーホ)、と乾いた声が続いた。

戴冠式で群衆が皇帝に捧げる、あの荘重な祝いの一語である。

 

それを彼は、場末の酒場で勘定を投げるような調子で、宙に放った。

信じてもいない国の名を、乾杯の肴にする気軽さだった。

 

「帝国に、乾杯といこうや」

 

皮肉ではあったが、八つ当たりではなかった。

彼は帝国を恨んでいなかった。憎むには、相手の仕事が正確すぎた。

 

兵站を断ち、囮で釣り出し、退路を塞いで詰ませる。

掃討戦の指揮官が誰かは知らないが、やり口は商売人のそれだった。

無駄を売らず、損を買わない。

 

ああいう軍隊が相手では、海賊などという雑な稼業は成り立たない。

成り立たなくして見せたのだから、文句の筋が違う。

 

「潰される側が悪い。間抜けは死ぬ。フェザーンじゃ、見習いのうちに叩き込まれることだ」

 

「うちも間抜けの側では」

 

「馬鹿を言え」カザリスは酒をあおった。

「うちは荷を運んでただけだ。荷主が誰かなんてのは、税関が考えることさ」

 

もっとも、その理屈で税関が納得するなら、苦労はない。

 

海賊が消えるということは、海賊に売る者、海賊から買う者、海賊を避けて高い運賃を払う者――その全員が消えるということだった。

灰色の水域で生きてきたカザリス商会にとって、辺境の治安回復とは、市場の死の別名である。

正しい政治ほど、儲からないものはない。

 

「で、どうします。頭」

 

「決まってる」カザリスは帳簿を閉じた。

「客を探す。でかくて、急いでて、金払いのいい客だ」

 

「そんな上客が、都合よく」

 

「いるさ」

 

彼は窓の外の、係留された自前の船団を顎で示した。

掃討戦を無傷で生き延びた、辺境で唯一まともに動く民間の輸送網である。

 

「この状況で船が余ってるのは、俺と帝国だけだ。――帝国は、俺に頼まねえだろうがな」

 

客の方から来たのは、その七日後だった。

 

 

***

 

 

ジェイク・カザリスの経歴は、フェザーンの没落の歴史と、ほぼ重なっている。

 

生まれは自治領時代のフェザーン、育ちは港湾区の場末である。

最初の職は倉庫の検数の下働きで、十四の歳には、数える側の人間こそ荷を掠めるのに最も都合がよい、という真理を独学で修めていた。

 

やがて自前の船を持ち、船が徒党を組み、徒党が武装した。

フェザーンの交易船団を海賊から守る、武装商船団の頭目——それが彼の、最初の「艦隊司令」の経歴である。

 

守る、の中身はこうである。

 

カザリスの船団に所定の護衛料を納めた船団は、不思議と海賊に襲われない。

納めなかった船団は、不思議と襲われる。

そして襲った海賊が何者だったのかは、星の海のどこを探しても、ついに知れない。

名目は護衛料、実態は「みかじめ料」であり、払いの悪い客の積荷は、しばしば「海賊の被害」として帳簿から消えた。

 

自治領の当局は彼らを「武装商船団」と呼び、帝国軍と同盟軍は「海賊」と呼んだ。

 

フェザーン当局が黙認したのには、理由がある。

彼の縄張りでは、荷の損耗率が読めたのである。

行政当局や保険屋は無法を嫌うが、それ以上に、読めない損耗を嫌う。

野良の海賊が野放しで跋扈するより、料金表のある海賊が一匹いる方が、フェザーンの帳簿は静かだった。

 

 

帝国と同盟が殺し合っていた時代、フェザーンの船乗りにとって、戦争とは荷主が両側にいる唯一の商売である。

彼は封鎖線の穴を運賃に換え、航路を荒らす同業を沈め、双方の軍票を双方に嫌がられない相場で両替した。

 

当時のフェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーに、一度だけ召されたことがある。

 

表に出せない荷が、自治領政府にもあった。

その手の御用を幾度か済ませたあとの、値踏みの謁見だった。

 

「黒狐」と呼ばれた男は、報酬の一部を金でなく情報で払う、と言った。

カザリスは断った。

情報は腐る、金は腐らない、というのが彼の言い分だった。

フェザーンの支配者に向かって、フェザーンの通貨を突き返したわけである。

 

ルビンスキーは怒らなかった。面白がりもしなかった。

ただ、帰り際に一言だけ寄越した——お前は大成せんな。欲が、小さすぎる。

 

後年、カザリスはこの評を、勲章のように語っている。

「欲が身の丈より大きい奴から、死んでいく。おれの欲は、身の丈の寸法しか知らねえ。……大成しそこねたおかげで、まだ生きてるよ」

 

黒狐は新王朝からの逃亡中に病み衰えて死に、死んでなお、仕掛けた火で街を一つ焼いた。

 

欲の小さい男は、その火のずっと手前で、船ごと消えていた。

 

裏御用の実務の窓口は、たいてい、あの若い補佐官だった。

ルパート・ケッセルリンク。丁重な物言いの底に、商人への侮蔑を隠しもしない青年だった。

 

カザリスは人を欲で測る男である。

金か、女か、地位か。

見れば、たいてい分かる。

 

だがあの青年の欲しがっていたものには、値札がつかなかった。

金で買えない欲を持つ人間は、金で買える人間より、はるかに高くつく。

 

だから三度目の依頼を、彼は断るつもりでいた。

断る前に、青年の方が死んだ。

 

ただ、ケッセルリンクが生前に回してきた客筋のいくつかを、カザリスはその後も使い続けた。

紹介者は死んだが、客筋は死ななかったのである。

それが後年どういう勘定になって返ってくるかは、まだ、誰の帳簿にも載っていない。

 

その繁盛の終わりは、一夜で来た。

のちに「ラグナロック」の名で史書に載る、帝国軍の大親征である。

同盟領へ攻め込む通り道として、中立であるはずのフェザーンは、宣戦の布告もないまま占領された。

抵抗は、なかった。

フェザーンは軍隊を持たない。金があれば軍隊は要らない、というのが自治領の信仰であり、その信仰は、本物の軍隊の前では一晩と保たなかった。

多くの商人が資産ごと接収された中で、カザリスの船団だけは、一隻残らず港から消えていた。

 

港湾使用料の未納分だけは、几帳面に納めてあった。

逃げるにしても、勘定は済ませる。

踏み倒した相手の港には、二度と着けられないからである。

 

占領軍の入港予定を、彼は入港する側より三日早く知っていた。

速い船だったからではない。

早い耳と、早い決断があっただけである。

 

以来十余年、彼は辺境で生きてきた。

帝国の統計が「無法地帯」と呼び、彼が「市場」と呼ぶ宙域で、である。

 

守る相手は交易船から自分の荷に変わった。

沈める相手は、崩れた旧同盟軍の軍艦を乗り回す、始末の悪い正規軍くずれの海賊に変わった。

 

正規軍の軍艦と撃ち合ってなお、荷を届ける民間の船乗りなど、銀河のどこにもいない。

彼の船団を除いては。

 

 

海賊になったのか、と後年問われた彼は、乾いた顔で答えている。

 

——昔から、そう呼ばれてたんでね。肩書きが、実態に追いついただけだ。

 

一時期、帝国の若い駆逐艦乗りたちが、取り逃がすたびの忌々しさ半分に、彼を「疾風ジェイク(ジェイク・デア・シュトルム)」と呼んだことがある。

言うまでもなく、銀河でその二つ名を戴いてよいのは、あの帝国元帥ただ一人と決まっており、上官に見つかって早々に禁じられた。

 

当のカザリスは、噂を聞いて顔をしかめたという。

「縁起でもねえ。『疾風』ってのは、追っかける側の名前だ。うちは逃げる側だよ。——それに、名の売れた船は、保険料が上がる」

 

彼の船は、一度も速かったことがない。

いつも、ただ、早かっただけである。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十四年・秋 同・カザリス商会 カザリス】

 

使者は、堅気の顔をしていた。

 

仕立てのいい、しかし目立たぬ服。

物腰は商社の外交員のそれで、差し出された名刺には辺境のどこかの互助組合の名があった。

聞いたことのない組合だったが、辺境に聞いたことのない組合は五百ほどある。

 

ただ一つ、匂いだけが違った。

衣服に焚き染めた、微かな香の匂いである。

 

カザリスはそれを、線香臭え、と胸の内で分類した。

分類はしたが、顔には出さなかった。

金の匂いと線香の匂いは、両立する。

むしろ、よく一緒にいる。

 

「御社の輸送網を、包括で契約したい」

挨拶を三行で終えると、使者はそう言った。

「品目は食糧、医薬品、建材、農機。行き先は追ってお渡しします。数量は――こちらを」

 

示された数字を見て、カザリスは瞬きを一つした。

彼の船団の可動全部に、さらに傭船を足しても届くかどうかという量だった。

 

「……戦争でも始める気か」

 

「救援です」使者は微笑んだ。

 

「掃討戦で、辺境の流通は傷みました。困窮する同胞を、見過ごせません」

 

「殊勝なこった。それで、代金は」

 

「即金で。前払いを半金、着荷確認で残額。以後の便も同条件です」

 

カザリスは、しばらく黙って使者を見た。

 

商談で沈黙を降ろすとき、それは大抵、値段への不満を演じる芝居である。

だがこのときの沈黙だけは、芝居ではなかった。

彼は探していたのだ。この話のどこに、罠が仕掛けてあるのかを。

 

前払い。即金。合法品。相場の二割増しの運賃。

罠が見当たらないことが、罠だった。

 

「――一つ聞かせろ」カザリスは指を組んだ。

「なんで、うちだ。堅気の荷なら、堅気の海運が山ほどある。帝国の息のかかった、でかいのがな。わざわざ、うちみたいな評判の悪い船に――」

 

「速いからです」

使者は即答した。

 

「貴方の船は、帝国の統計より速い。どの港で誰に幾ら握らせれば荷が三日早く出るか、どの航路が検問を嫌うか、どの倉庫の帳簿が寛容か。それをすべてご存じだ。我々が買いたいのは船腹ではありません。貴方の頭の中にある、地図です」

 

「……口説き文句だけは、一流だな」

 

「事実を申し上げたまでです」

 

契約書は、その場で交わされた。

組合の代表者の署名は達筆で、読めなかった。

名は、と問うと、必要ですか、と返された。

 

必要ではなかった。金は本物だったからである。

 

使者が辞去したあと、ダンカンが酒を持ってきた。

探るような顔をしていた。

 

「……いいんですかい。あの手の、線香臭え連中と」

 

「何がだ」

 

「何がって。得体が知れねえでしょう、どう見ても。何を信じてる連中だか」

 

「知らねえよ」

 

カザリスは、注がれた酒を眺めた。

 

「何を信じてるかは、知らん。――どの船が時間通りに来るかなら、知ってる。商売にゃ、そっちで十分だ」

彼は一息にあおって、笑った。

 

「神サマの帳簿は、坊主が付けりゃいい。俺は俺の帳簿を付ける。……前金の入った方のな」

 

 

***

 

 

新帝国暦十五年の辺境交易統計には、奇妙な数字が残っている。

 

掃討戦の翌年、治安の回復にもかかわらず、大手海運の辺境航路はどこも赤字だった。

荷が、ないのである。

恩給を失った退役兵たちの購買力は底を打ち、辺境経済は静かに痩せていた。

 

その痩せた土地で、ただ一つ、カザリス商会の船だけが、満載で走り続けていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十五年・春 ロフォーテン星系・惑星キベロン カザリス】

 

キベロンは、何もない星だった。

 

地方港が一つ。倉庫が三棟。

役場の出張所と、あとは畑と、掃討戦で働き口を失った男たちの、長い午後があるだけの星である。

 

帝国の復興計画では再来年度の予算審議に載る予定の土地に、カザリス商会の船は、もう十一度目の着陸をしていた。

降ろすのは麦だった。薬だった。学校の屋根を葺く資材だった。

 

荷札には、あの読めない署名の互助組合の名がある。

受け取りに来る顔ぶれは、毎回増えた。

 

最初は役場の小役人が一人、書類を疑いながら立っていただけだった。

それが今では荷降ろしを手伝う男衆が二十人、配給の列の整理をする女たちがいて、船影が見えると子供らが桟橋を走った。

 

「頭ぁ、また増えてますぜ、見物」

 

「客じゃねえ。金は組合から出てる」

 

「わかっちゃいますがね」

 

ダンカンは、桟橋の端を顎で示した。

老婆が一人、降りてくる麦袋に向かって、手を合わせていた。

船にでもなく、荷主にでもなく、袋そのものを拝んでいた。

 

「……ああいうの、どうも尻の据わりが悪くて」

 

「拝む分には、銭は取られねえよ」

カザリスはそう言ったが、視線は老婆から、少し長く離れなかった。

 

彼は帳尻の合わない取引が嫌いだった。

そして、この商売は帳尻が合っていた。

運賃は満額、支払いは即日、荷は合法。

完璧に合っていた。

 

合っていないのは、帳簿の外だった。

 

麦を受け取った者たちは、代金を払っていない。

払っていないのに、何かを支払っている顔をしていた。

 

カザリスにはそれが見えた。

フェザーンの場末で三十年、人が財布を開く瞬間だけを見て生きてきた男である。

金の動かない場所で何かが支払われていれば、嫌でも目につく。

 

恩、というやつだった。

 

 

 

あの読めない署名の客は、麦の代金と運賃を払い、引き換えに、この星の恩を買っていた。

 

 

 

相場も知れなければ、転売の市場もない。

カザリスの帳簿には載せようのない品である。

 

載せようのない品が、彼の船で、彼の運賃で、毎便、運ばれていた。

 

「――割のいい商売、してやがる」

誰にともなく、彼は呟いた。

 

褒め言葉のつもりだった。少なくとも、そのときは。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十五年・春 同・キベロン港湾区 カザリス】

 

人も、集まってきた。

 

船腹が足りなくなり、傭船が足りなくなり、最後は人手が足りなくなった。

カザリスは雇い入れの基準を一つしか設けなかった。

動く船を持っているか、船を動かせる腕があるか。それだけである。

 

集まったのは、掃討戦の生き残りだった。

船を失った海賊崩れ。

武装解除された元同盟兵。

恩給の代わりに擦り切れた配給手帳だけを持たされた、辺境の食い詰め者たち。

 

十年前なら彼の船を襲った側の男たちが、今は彼の桟橋で、日当と引き換えに麦袋を担いでいた。

 

「前歴は聞かねえ。積み下ろしの速さと、酒癖だけ見ろ」

と、彼は現場の頭たちに言い渡した。

 

「あと――祈りだしたら、報せろ。祈る暇のある奴は、手が空いてる」

 

日当は組合の金から出ていた。

つまり、あの客の金から出ていた。

 

カザリスはあるとき、帳簿を(あらた)めていて、妙なことに気づいた。

荷役の日当が、相場より一割高い。

彼が抜いているのではない。

組合の指定額が、最初から高いのである。

 

問い合わせると、例の使者は事もなげに答えた。

「働き口は、荷と同じです。届くべき所へ、届くべき値で」

 

儲け話の顔をして、儲けの外にある話だった。

カザリスは受話器を置いてから、しばらくその言葉を頭の中で転がし、それから、転がすのをやめた。

客の道楽に口を出す運送屋は、二流である。

 

その春、キベロンの港で小さな事件があった。

 

帝国の徴税吏が定期の検分に来た日、港は静まり返った。

荷は倉庫の奥へ引っ込み、男衆は散り、桟橋には潮の匂いだけが残った。

書類はすべて整っており、吏員は判を捺して、何も見ずに帰っていった。

 

翌日、組合の検数員が来ると、港は動いた。

例の、線香の匂いのする、物腰の柔らかい男が、一人で来ただけである。

それだけで、倉庫が開き、男衆が戻り、荷が流れ、子供らが走った。

 

検数員は帳面も持たずに、荷の列の間を歩いた。

そして、働く男たちの「名」を、一人ずつ呼んで労った。

名を、である。

「番号」でも、「おい、そこ」でもなく。

 

カザリスは船橋からそれを眺めていた。

どちらが役人で、どちらが客か。

書類の上では明白だった。桟橋の上では、逆だった。

 

「……頭。ありゃあ、なんですかね」

 

「客だよ」

カザリスは短く言って、双眼鏡を置いた。

 

「上客ってのは、ああいうのを言うのさ。――金離れがよくて、名前を覚える」

 

言ってから、自分の言葉が妙に喉に残った。

彼は名前を覚えない男だった。覚えるのは、金額と期日である。

それで三十年、不自由したことはなかった。

 

不自由は、していない。今も。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十五年・夏 辺境某星域・自由貿易港 カザリス】

 

違和感が形になったのは、契約更改の席だった。

 

例の使者は、更改の条件に一項を加えてきた。

復路の船腹の買い取りである。

 

「帰り荷、ってことか。何を積む」

 

「いえ」使者は、変わらぬ微笑で言った。

「空のままで結構です。復路の船腹を、我々が押さえておきたいだけですので。運賃は往路と同額をお支払いします」

 

「……空船に、満額?」

 

「はい。使うか使わないかは、我々が決めます。使わない月の方が多いでしょう。――枠、とお考えください」

 

ダンカンが、隣で小さく咳をした。

やめておけ、の合図である。

フェザーンの流儀では、中身を言わない荷ほど高くつく。

 

カザリスは、卓の上の数字を見た。

何も運ばずに、満額。

断る理由は、堅気の理屈でなら三つ書ける。

受ける理由は、一つしかない。

 

金である。

 

「――いいだろう」

彼は署名した。

署名しながら、頭の隅で、別の計算が勝手に走るのを止められなかった。

 

荷ではなく、航路を買う客。

名を売らない荷主。空の船腹に金を払う組合。

 

一つひとつは、辺境ではよくある話だ。

よくある話が、こう幾つも、同じ客に揃うことだけが、よくなかった。

 

こいつらは、荷を運びたいんじゃない。

網を張りたいんだ。

 

そこまで考えて、カザリスは考えるのをやめた。

網の使い道は網元が考えることであり、彼は網を編む職人に過ぎない。

そして職人の手間賃は、耳を揃えて払われている。

 

「毎度あり」

と、彼は言った。

それが彼の、信仰告白のすべてだった。

 

 

***

 

 

その夜、珍しく酔ったダンカンが、蒸し返した。

 

「頭。……あの連中、そのうち、ろくでもねえもんを運べって言い出しますぜ。賭けてもいい」

 

「だろうな」

 

「他人事みてえに」

 

「他人事だからな」カザリスは天井を見ていた。

「言い出したら、値段の話をする。値段が折り合やあ運ぶし、折り合わなきゃ断る。それだけの話だ」

 

「断れりゃあ、いいですがね」

 

ダンカンは、酒精の回った目で、それでも真顔になった。

「網はね、頭。……最後は、張った奴のものになる。編んだ職人のものにゃ、ならねえ。――俺たちゃ今、他人の網を、せっせと編んでるんじゃねえですか」

 

カザリスは答えず、笑って酒を注いでやった。

答えなかったことを、彼が思い出すのは、ずっと後のことである。

 

 

***

 

 

新帝国暦十五年の末までに、カザリス商会の定期航路は、辺境二十七の港を結んだ。

その寄港地の一覧は、帝国のどの官庁にも提出されなかった。

提出義務のある書式が、存在しなかったからである。

 

帝国は艦隊で辺境を平定し、平定の勲章を数えていた。

 

 

その足元で、一隻の軍艦も見せぬまま、何者かが、金で買えるものはすべて金で買った。

麦と、薬と、屋根と、航路。

 

そして、金で買えぬはずのものも、辺境の隅々から、静かに集め終えようとしていた。

 

その取り立ての実務を、荷ごと一手に運んだ男は、生涯、これを商売としか呼ばなかった。

 

彼の名誉のために付け加えるなら——それを商売と呼べた最後の日々が、この二年間だったのである。




――キベロン事件まで、あと二話。
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