銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十六話 野良犬の罠(後編)(新帝国暦十七年春)

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校・大会議室 アレク】

 

弁明手続の朝、大会議室には長い卓が据えられていた。

 

上座の査問官席には統帥本部から派遣された二人の元帥が座った。

エルネスト・メックリンガーとフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトである。

当事者の親であるウォルフガング・ミッターマイヤーは審査のいっさいから外れていた。

 

学校側から校長と風紀担当教官が列し、卓の端にはグルックスブルク家の家宰が代理人として着いた。

フェリックスは卓から離れた被審査人の席に一人で座っていた。

まっすぐ座っていた。

 

手続は陳述書の読み上げから始まった。

家宰のもの、下級生二人のもの。

挑発はなかった、口論すらなかった、ミッターマイヤーの子息が突如殴りかかった――三通はそう述べていた。

 

読み上げが終わったときメックリンガーが初めて口を開いた。

「もう一度。今度は書面を見ずにご自身の言葉で」

 

家宰が語り、下級生が語った。

三人の語りは書面と同じだった。

言い回しまで同じだった。

「突如」「何の前触れもなく」「一方的に」。

三つの口から同じ順序で同じ言葉が出た。

 

メックリンガーは筆記の手を止めてしばらく紙面を見ていた。

「……証人の証言というものは同じ状況を見ても完全に一致することはまずありません。同じものを見、同じ言葉を聞いたとしても、何を記憶しそれをどう表現し叙述するかは人によって違う――口裏合わせでもされましたかな」

 

家宰が色をなした。

「証言が正確で何の不都合がございましょう」

「正確、とは言っていません。一致している、と言ったのです」

 

卓の空気がわずかに変わった。

だがそれだけだった。

違和感は違和感に過ぎず、供述の信用性を覆す力までは持たない。

家宰は厳しい処分を重ねて求めた。

 

アレクは立った。

 

立ってから声が出るまでに一拍かかった。

査問官の許しを得て、皇帝としてではなく在校生として学友として述べます、と前置きした。

前置きのあいだ膝が震えているのが自分でわかった。

 

「ミッターマイヤー生徒が理由もなく人を殴ることはありません」

 

それから息を吸って続けた。

「物心ついた頃から隣にいました。彼が挑発を受け流すところを私は何度も見ています。……調べてください。あの日、あの中庭で何が組まれていたのかを」

 

「組まれていた、と言われるか」家宰の声に嘲りが混じった。

「証拠がおありか」

 

「状況証拠であれば複数ございます」

静かに立ったのはクラインだった。

 

「第一に。グルックスブルク生徒は声をかける直前、懐中時計を取り出して見ておりました。第二に。進路説明の呼び出しは十五時、事前の掲示のとおりでございます。声がかけられたのはそのちょうど三分前。呼び出しで中庭の人垣が動き、被審査人の周囲から人が引くのを私はこの目で見ております。第三に。人垣が引いたあと、声の届く距離に残ったのはグルックスブルク生徒側が証人申請した三名のみ。目の届く距離には来賓の全員がおりました」

 

クラインはそこで一度口を閉じた。

「言葉は三名にしか聞こえず、拳は全員に見えた。グルックスブルク生徒は直前に時間を確認していた。……これらの事実がそれぞれ独立して同時に発生すると考えるのはいささか偶然の要素がすぎるように思われます。もっとも――以上は状況証拠に留まり、共謀の証明には届きません」

 

「根拠のない憶測にすぎん」家宰が切って捨てた。

「時計を見ることも、進路説明の呼び出しにいあわせることも罪ではあるまい」

 

その通りだった。

違和は積み上がったが、決め手がない。

卓の上で処分裁定の紙が引き寄せられるのが見えた。

 

「……あの、証言を、いいでしょうか」

 

声は後方の傍聴席から上がった。

トビアス・ブリュックナーが立っていた。

顔から血の気が引いて、丸い輪郭が別人のように強張っていた。

それでも立っていた。

 

「君は」

「同学年のトビアス・ブリュックナーです。……あの日、あの場所にいました」

 

家宰が眉を上げた。

「陳述書も出ておらん。証人申請もされておらんが」

 

「はい。僕は誰の予定にも入っていなかったので」

 

トビアスは伝票の写しを差し出した。

実家の商会の配達便。

フェリックスの家からの荷。

配達に付き添い、受領の印をもらうまで噴水の縁を離れられなかったこと。

人垣が動いたとき、伝票一枚のためにその場に残っていたこと。

 

「だから聞こえました。全部」

 

会議室が静まった。

 

「最初は去年と同じ、出自の悪口でした。ミッターマイヤー生徒は相手にしませんでした。次は陛下のことでした。ミッターマイヤー生徒は耐えていました。……それから、グルックスブルク生徒は急に声を低くしました」

 

「その内容は」メックリンガーが静かに問うた。

 

トビアスは長いあいだ黙った。

握った両手が白くなるのがアレクの席からも見えた。

 

「……口にできる種類のものではありませんでした」

 

「証言として必要であっても、か」

 

「必要でも、です。……あれは誰にも聞かせたくない言葉です。ここで僕が繰り返したら、あいつが黙っている意味がなくなります」

 

フェリックスが初めて顔を上げた。

被審査人の席から傍聴席の丸顔をまじまじと見た。

 

「平民の子の、なんの裏付けもない一人語りだ」

家宰の声がそれを踏み潰しにかかった。

「商人の小倅の口ひとつで、家々の陳述を――」

 

「……ブリュックナー、と言ったか」

声から嵩が消えていた。低く、なめらかになっていた。

 

「辺境航路のあの商会の倅か。当家も多く金を落としている。帝都の貴族の御家々にもずいぶんと出入りがあると聞いた。……結構なことだ。商いは信用で成り立つ」

彼は卓の上でゆっくりと指を組んだ。

 

「だが信用とは崩れるときは早いものでな。当家を含め取引先の御家々がそろって門を閉ざせば、一代で築いた身代も一夜で消える。――なに、ここは学校の内輪の審査だ。子供の記憶違いの一つや二つ、誰も咎めはせん。今なら、まだな。……貴様、わかっておろうな」

 

トビアスの顔から残っていた血の気が引いた。

商会は彼の家そのものだった。

膝の上の拳がまた白くなった。

 

それでも――彼は座らなかった。

「……記憶違いではありません」

声は震えていた。震えたまま彼は言い直した。

「僕が聞いたことは変わりません」

 

家宰の目が細くなった。

「小僧、後悔を――」

 

「黙れ!」

 

ビッテンフェルトだった。

椅子も卓も声だけで揺れた気がした。

 

「証言の重さを身分で量るのか。戦場では平民の弾も貴族の弾も同じ速さで飛ぶのだ。この子は大家の権勢を百も承知で口を開いた。貴様の側は権勢で口を閉じさせようとしている。どちらの言葉が重いか、量りに掛けるまでもなかろうよ!」

 

家宰が絶句した。

 

メックリンガーが筆を置いた。

「整理します。挑発には順序がありました。古い侮辱、陛下への侮辱、そして声を落とした最後の言葉。」

「前二者については過去にも同様の挑発があったものの、ミッターマイヤー生徒は手を出さなかったことが確認されています。」

「では最後の言葉はなんだったのか。最後に声を落とす、というのはなるべく周囲には聞かせないという意図がありましょう。とても人には聞かせられないような言葉と考えるのが自然だ。」

「……時間、人垣、配置、一致しすぎる証言、そして挑発の順序。これだけの符合を私は寡聞にして、偶然と呼ぶ言葉を知りません」

 

彼は最後に被審査人の席を見た。

 

「そして、彼です。彼は一度も理由を言わない。言えば自分が有利になると分かっていて、言わない。……彼の沈黙こそが何より雄弁に彼の誇りを証明している。私はそう考えます」

 

裁定はその日のうちに下りた。

フェリックスには暴力の事実に対して七日の謹慎。

グルックスブルク側の証言は信を失い、事件は「設計された挑発」として調書に記された。

調書のどこにも最後の言葉の中身は書かれなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】

 

数日のうちに、別の報せが学内を走った。

 

寄親の有力貴族がグルックスブルク家との縁を切った、というのである。

理由は仕込みが露見したことではないらしかった。

宮廷で恥をかかされた――それだけだった。

潰えた企ての中身より、潰え方の体裁があの世間では罪になる。

 

ローデリヒは審査のあと教室に戻らなかった。

推薦の名簿が貼り出される前に、在校生の名簿から名がひとつ消えた。

 

門を出ていく姿をアレクは遠くから一度だけ見た。

荷は少なく、見送りはいなかった。

彼は一度も振り返らなかった。

声をかけるべきだったのかどうか、アレクにはとうとう分からなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 アレク】

 

謹慎の明けた昼、食堂のいつもの卓にフェリックスが戻ってきた。

 

戻ってくるなり彼はまっすぐトビアスの前へ行き、立ち止まり、しばらく黙った。

「……助かった」

それだけ言った。

 

「気にすんな。配達のついでだ」

トビアスはへらりと笑った。

「ああでも、今度からうちの便を使うときは指名料をもらうかもしれない」

 

「怖くなかったのか」

フェリックスが訊いた。

トビアスは少し考えてから答えた。

 

「怖かったさ。今も夜中に思い出すと腹が痛い。……けど、弱虫でも間違ってると言うくらいはできる」

 

フェリックスは何か言いかけて、やめて、結局トビアスの椅子を蹴るように引いて、隣に座らせた。

それが彼の礼の作法のすべてだった。

 

その日から、卓は四人になった。

トビアスの菓子が回ってくると、クラインが今度は言われる前に手を伸ばした。

誰も何も言わなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝都・丘下の公園 クライン】

 

次の外出日、丘下の公園のベンチに小さな先客がいた。

 

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクとその弟である。

兄弟の外出らしく、弟のほうは膝の上に画帳を広げていた。

リーゼが駆け寄るなとの言いつけを守って、早歩きの限界の速度で近づいていった。

 

「おにいさま、あのこ、だれ」

「同学年の生徒の弟君です」

 

答え終わったときにはもう、リーゼはベンチの隣に座り込んでいた。

持たされた焼き菓子の包みが開かれ、外交が始まった。

菓子はブリュックナー商会の便で届いたものである。

 

「はい、兄上!お菓子をいただきました!」

弟が律義に着席のまま報告した。

「……いただきなさい」

 

血統も家名も持たない子と、家名しか残っていない家の子がベンチに並んで同じ菓子を食べた。

二人の兄は少し離れて立っていた。

二人とも何も言わなかった。

言わないまま、どちらも立ち去らなかった。

 

子供たちの笑い声だけが春の公園に転がっていった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 帝国幼年学校 ローデリヒ】

 

 

最後の夜、荷造りの済んだ部屋の窓辺にローデリヒは立っていた。

 

爪を噛もうとして、噛む爪が残っていないことに気づいた。

窓の外には帝都の光があった。

四年前のあの夜と同じ窓、同じ光だった。

 

敗因の分析だけは得意だった。

自分の敗因も余すところなく分析できた。

時刻は正確だった。

配置は完全だった。

証言は――完璧すぎた。

そして図面の外に、伝票を一枚持った子供が一人。

 

どこで崩れたのかは全部わかった。

わかることが何の慰めにもならないことまで、正確にわかった。

 

あの男を心の中でずっと野良犬と呼んでいた。

血統のない、拾われた犬、と。

だが帰る家のある犬を野良犬とは呼ばない。

明日、この門を出て、帰る場所も進む先も持たないのは自分のほうだった。

 

その夜、彼は眠れなかった。

悪意はまだ、手の中にあった。

ただ、それを使う場所がもう、この学校のどこにもなかった。

 

人を堕とすその才を、高く買う者たちが銀河にはいるということを――少年はもうすぐ知ることになる。




【次回予告】

誇りは、沈黙が守った。

正しさは、弱虫が語った。

食堂の卓は、四人になり。

学び舎の門を、一人が出た。

陽の当たる場所で、若獅子たちが肩を並べて歩きはじめるとき。

かつて静かに集いはじめていた者たちは――もう、集い終えていた。

商人には、上客を。

老将には、戦場を。

敗れし者には、居場所を。

忘れられし者には、名を。

そして、少女には――冠を。

次回、『銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~』幕間。


「集う者たち」。

キベロン事件まで、あと三話。

――銀河の歴史が、また1ページ。
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