のちに帝国の若い提督たちが図上演習でその名を冠した課題に頭を抱えることになる。
参謀たちはそれをなかば忌々しげに「シュタイガー問題」と呼んだ。
数で勝る側がなぜか勝てないという課題である。
その敵将の名は帝国のどの現役名簿にも載っていなかった。
載っていたのは四半世紀ちかく前の軍法会議の判決記録の側である。
罪状、上官への暴行。そして指揮権の簒奪。
記されたことは一字残らず事実だった。
事実だけで書かれた記録が人ひとりを葬り得ることをこの判決文ほど雄弁に示す文書も少ない。
***
【新帝国暦十六年・冬 辺境某星・港湾穀物倉庫 シュタイガー】
オットフリート・シュタイガーは夜警である。
宵の五時に倉庫の鍵を預かり朝の五時に返す。
その十二時間のあいだに彼は倉庫街を六度巡回する。
二時間おき、一巡は歩数にして三千二百歩。
雨の夜も雪の夜も一歩と違わない。
異常なし。
巡回を終えるたび彼は胸の内でそう唱えた。
報告する相手はもう二十年以上どこにもいない。
倉庫に積まれているのは麦である。
このごろ倉庫街で扱う荷は聞いたこともない互助組合の荷札を提げたものがめっきり増えた。
夜警の知ったことではない。彼は積み荷の主ではなく積み荷の夜を預かる者である。
明け方に番小屋へ戻ると彼は決まって一振りの剣を手入れした。
旧帝国式の士官の儀仗サーベルである。
鞘の金具は錆び、柄の飾り紐は色を失っている。
あつらえだけ見れば屑鉄屋も値を付けまい。
だが鞘を払えば刃に曇りは一点もない。
研ぎ、拭い、油を引き、納める。
売れば当座の飯にはなる代物である。
売らず錆びさせもしないことに彼は理由を言わない。問う者もいない。
それが済むと彼は誰に言うでもなく「今日も異常なし」と唱えて眠った。
軍隊は四半世紀前に彼を捨てたが彼の一日はまだ軍隊の時間で回っていた。
眠りは浅く夢は決まって同じ宙域から始まった。
***
【宇宙暦七九〇年・帝国暦四八一年 イゼルローン回廊・同盟側出口周辺宙域 オットフリート・シュタイガー大佐】
「敵性反応多数!総数推定約三万、なおも増勢中!」
オペレーターの声が旗艦の艦橋を凍らせた。
「艦影照合……戦艦の艦型、叛乱軍の正規艦隊です!艦種構成から見て二個艦隊規模の攻勢部隊と推定!」
叛乱軍の大攻勢である。
要塞前面の哨戒任務に就いていた帝国艦隊一万二千はその進撃路のちょうど真正面にいた。
後詰は背後のイゼルローン要塞を除けばない。
オットフリート・シュタイガー大佐は首席参謀の席で二秒で計算を終えた。
名に「フォン」のない一兵卒からの叩き上げである。
平民出身者が門閥貴族の後援もなく大佐まで届くこと自体が旧帝国では異例であり、異例のまま彼は艦隊の頭脳である首席参謀の席にいた。
図上の解は一つしかなかった。
「閣下。回廊内へ戦闘後退を具申いたします」
彼は司令官へ向き直った。
「回廊は隘路、叛乱軍とて数を並べられませぬ。要塞の砲程まで下がれば敵は必ず退きます。三日受けに徹すればこの艦隊は生きて還れます」
司令官はリッテンハイム侯家の縁につらなる門閥貴族の中将だった。
その男の名をシュタイガーは生涯一度も口にしたことがない。
故にここにも記さない。
中将は後退の二字に白い頬を痙攣させた。
「我に逃げよと申すか。要塞の砲の陰に隠れよと申すか」
「退くのではありませぬ。勝ちに行くのです。二日後に全艦を連れて」
「黙れ」
中将は立ち上がった。演説の声だった。
「叛徒どもに背を見せるは武門の恥辱である。我は武人の本懐を遂げる。全艦、突撃隊形。——散華の後はヴァルハラより皇帝陛下にお詫び申し上げればよい」
艦橋が静まり返った。
一万二千隻に乗り組む数え切れぬ将兵の命がたった一人の詫びの言葉の道連れに数えられた音だった。
「恐れながら。それは誤りにございます」
シュタイガーは一歩進み出た。
「お詫びは生きて還ってからでも申せます。兵は閣下がヴァルハラへ携える手土産ではありませぬ」
「……平民の分際で」
中将の手が腰のブラスターにかかった。
「衛兵。この者を拘束——」
言葉は最後まで続かなかった。
シュタイガーの拳が一度だけ動き、中将は音もなく崩れ落ちた。
艦橋の誰も動かなかった。動かないことが艦橋の総意だった。
「軍医官」
シュタイガーは静かに言った。
「閣下はご負傷なされた。医務室へお運びし記録されよ」
年かさの軍医官は倒れた中将と大佐の顔を一度ずつ見た。
「……指揮官負傷と記録します」
シュタイガーは指揮官席に着かず参謀席に立ったまま全艦へ告げた。
「先任参謀が指揮を執る。本隊はこれより回廊へ向け戦闘後退を行う。復唱は要らん。誰も死に急ぐな」
***
「全艦隊を二つに割る」
シュタイガーの声は演説ではなかった。工程表を読み上げる現場監督の声だった。
「第一陣七千、現宙域で受けに立つ。第二陣五千は十光秒後方へ下がり次の防御線を敷け。受けて下がってまた受ける。この繰り返しで要塞の砲程まで戻る。——右舷に暗礁帯を背負え。壁は味方だ」
回廊の入口へ向けて帝国艦隊はゆっくりと形を変えはじめた。
広げた翼を畳み縦に厚く横に狭く。
巨大な貝が殻を閉じていくのに似ていた。
「砲戦距離、最大。各艦、狙いは問わん。面で撃て」
「有効打は望めません」
「望んでおらん」
シュタイガーはモニターの敵影から目を離さなかった。
「あれは光の壁だ。壁の役目は敵を殺すことではない。敵にまっすぐ来させんことよ」
無数のビームが真空に薄い光の幕を張った。
殺すためではなく急がせないための砲火である。
突っ込めば当たる、緩めれば当たらない。
その呼吸を彼は敵に覚え込ませていった。
***
同盟軍・先鋒部隊の旗艦艦橋で第七艦隊所属エドガー・カーライル少将は眉を寄せていた。
堅実だけが取り柄の戦歴にも過失にも乏しい指揮官である。
「敵は後退中。追撃すれば捕捉可能です」
「両翼、展開。回り込んで包め」
定石だった。二倍半の数があれば包めば終わる。それが同盟軍統合参謀本部が策定した教範の教えである。
だが回り込むたびに敵は一段だけ下がった。
下がった先では回廊の暗礁帯が戦場の幅を削っていた。
展開した両翼は行き場を失い、押さえられた頭から順に中央へ折り重なっていく。
三万の大軍が幅二千隻分の戦場しか買えなかった。
残りの二万数千隻は戦場の後ろでただ順番を待つ縦の列と化した。
「……敵の指揮官は誰だ」
カーライルの問いに答えられる者はいなかった。
観測できるのは敵陣の中央後方で微動だにしない旗艦級の艦影だけである。
交戦開始から二日、その艦影は同じ深度に座り続けていた。
***
二日目の夜——時刻の上での夜に陣の入れ替えが山を越えた。
受け続けた第一陣が下がり、休ませた第二陣が壁になる。
交代の瞬間、陣形には必ず継ぎ目が生まれる。三万近い敵前で殻を開け閉めする三日間で最も危険な数分間である。
シュタイガーはその数分を敵の呼吸に合わせて選んだ。
敵の先鋒が突撃隊形を組み直しエネルギー充填で足を止める——その死んだ時間にだけ殻を開けた。
入れ替えは三度行われ三度とも敵は指をくわえて見ていた。
いや敵は三度目まで気づかなかった。
一度だけ若い駆逐戦隊司令が功を焦り、下がる敵先鋒へ追撃をかけようとした。
「戻れ」
シュタイガーの声は雷ではなかった。それがかえって艦橋を静かにさせた。
「貴官の勇気は預かっておく。……使いどころは私が決める」
戦隊は列に戻った。
戦死者の名簿はその夜も薄いままだった。
***
三日目。
同盟軍・カーライルの旗艦の作戦室で補給参謀が数字を読み上げた。
「推進剤、残量四割を切りました。ミサイル類の残弾三割。補給船団は回廊外に待機中。ここからでは六時間かかります」
「戦果は」
「……帝国艦の撃沈数、確認できたのは五百あまり。あの狭さではまともに射線が通りません」
「当方の喪失は」
「千ほど。……大きくはありません。ただ三日かけてこちらばかりが少しずつ減っております」
カーライルは正面のスクリーンを見た。
帝国艦隊の向こう、回廊の最奥にイゼルローン要塞の砲程圏が口を開けていた。
あと半日押せばあの流体金属の巨塊が開く砲火の顎に自分から頭を差し入れることになる。
伸びきった補給線。積み上がる一方の損害比。前進した先で待つ要塞主砲。
どの数字も同じ答えを指していた。
「……後退を具申する」
カーライルはそれだけ言った。
後方の攻勢司令部はあっさりとそれを容れた。彼我の損害比と伸びきった補給線を突き合わせれば答えは一つだったからである。
敗けたとは誰も言わなかった。
事実、会戦としては敗けてもいない。
ただ、続ける理由がどこにも残っていなかっただけである。
二万九千の艦影が来たときと同じ回廊の闇へゆっくりと吸い込まれていった。
背後のイゼルローン要塞の駐留艦隊は三日間ついに一隻も動かなかった。
管轄が違うというのが理由である。理由の下に面子が埋まっていることは誰もが知っていて誰も言わなかった。
帝国艦隊は追わなかった。
「殿軍を収容。……全艦、そのまま。見送れ」
それがこの三日間の最後の命令だった。
帝国艦隊一万二千のうち一万一千余が還った。
***
後世の戦術教程がこの三日間を採録していれば遅滞戦の古典として学生を悩ませたはずである。
六年後、帝国軍は同じ算術を桁違いの規模で用いることになる。
同盟軍の大遠征軍を焦土と後退で誘い込み伸びきった補給線を断ち、飢えたところを刈り取る。
戦史がアムリッツァの名で記録するあの戦役である。
名もなき回廊の三日間は規模こそ違え奇しくも同じ算術に六年早くたどり着いていた。
だが教程は三日間を採録しなかった。
理由は戦術ではなく判決文の側にあった。
「シュタイガー問題」が帝国の図上演習に現れるのはこれより三十年ちかくのち。
出題者が敵として回廊の向こうから還ってきてからである。
この三日から兵たちは彼を陰で「亀」と呼んだ。
彼の陣は崩れず彼の下では兵が還ってくるからである。
悪態の形をした兵からの勲章だった。
***
オーディンで彼を待っていたのは感状ではなく法廷だった。
顎の骨を接いだ中将はリッテンハイム侯家の名において告発した。
リッテンハイム侯家が望んだのは叛乱罪であったという。
だが艦隊は一隻も帝国に弓を引かず還った兵は一万一千を数えた。
叛乱として裁けばその一万一千をどこに置くかという問いが立つ。
罪状は暴行と簒奪に留まった。留めた側はそれを温情と呼んだ。
弁護人は初日に交代し二日目からはほとんど発言しなかった。
彼が連れて還った一万一千の中に法廷で彼のために立てた者は一人もいなかった。
判決の言い渡しの前に裁判長は言った。
貴様には死すらぬるいと。
辺境惑星での無期徒刑である。
連座は法廷の外で執行された。
妻と娘、弟の一家がそれぞれ別の辺境惑星へ「移住」させられた。
移住という言葉が公文書の用語であることを彼は独房で知った。
***
釈放は十七年のちに恩赦として来た。
ゴールデンバウム王朝は滅び、金髪の若い皇帝が銀河を統べその皇帝ももう亡いと釈放の日に聞かされた。
身分の垣根ごと軍の人事を焼き払った新しい時代を彼は独房の壁の向こうで丸ごと見送っていたのである。
私物の返還は目録の一行で済んだ。
儀仗サーベル、一振り。
任官の日に拝受し判決の日に階級章とともに取り上げられたものが埃をかぶって戻ってきた。
軍が彼から取り上げたすべてのうち返ってきたのはそれだけだった。
家族を捜した。
移送の記録は管区の統廃合で散逸し辿れた先も多くはなかった。
弟の一家には死亡の記録が見つかった。流行り病の集団埋葬の名簿の三行である。
死の記録が見つかった者はまだましな方だった。
妻と娘の行方はどの惑星の名簿にもついに見つからなかった。
新帝国軍への任官を彼は一度だけ願い出ている。
書類は正しく受理され、正しく審査され、正しく拒絶された。
理由も正しかった。
上官を殴打し指揮権を奪った前科者を大乱の記憶も生々しい軍が現役に戻す道はどの規則にも先例にもなかったのである。
実力で人を測る時代は確かに来ていた。
軍規が最も許せぬ型の罪を彼は十七年前に犯していた。
しばらくは辺境の無頼どもの「参謀」で食った。
海賊の頭目に雇われ商船に毛の生えた護衛船団を軍教本どおりの手口で蹴散らす仕事である。
三度目の仕事の帰り、燃える護衛艦を眺めながら彼は静かに悟った。
あれは戦ではない。
以後彼は軍人の真似事を一切やめた。
荷役、炭鉱、道路工夫。体ひとつのその日限りの仕事を転々として倉庫の夜警に流れ着いた。
サーベルの手入れだけが軍人時代から続いている唯一の日課だった。
***
【新帝国暦十六年・冬 同・番小屋 シュタイガー】
その男は雪の夜に来た。
仕立てのいい外套の慇懃な使者である。どこかの家宰かその手の男だった。
主人の名と招聘の口上を述べ恭しく書状を差し出した。
「儂は倉庫の番人よ」
シュタイガーは書状を受け取らなかった。
「艦隊の番は若い者がやればよい」
使者は粘らなかった。
その代わり革の筒に入った図面の束を卓に残していった。
「ではお目通しだけでも。……主が申しますにはこれを読める方は銀河に幾人もおられぬそうで」
燃やすつもりだった。
番小屋の暖炉はちょうど薪を欲しがっていた。
火にくべる前に、と広げたのがいけなかった。
艦隊の編成案と机上演習の想定図である。
素人の作ではない。金と船だけは潤沢な、しかし戦を書類でしか知らぬ者の手だった。
そして間違っていた。それも兵が死ぬ側にばかり間違っていた。
この隊形では崩れたときに収容へ来る輸送艦から沈む。
この進出速度では補給線が丸二日裸で晒される。
この予備隊の位置では間に合った例が戦史をひもといても一度もない。
気がつくと夜が明けていた。
図面の余白は彼の朱で埋まっていた。
彼の朱筆は勝ち筋を書き足したのではない。
死なずに済むはずの兵の数を拾って回っただけである。
直しは攻めを削り受けを固くする方へばかり倒れた。
図面は一晩で派手さと引き換えに死なない図面になった。
朱だらけの図面を筒に戻し彼はしばらく暖炉の火を見ていた。
燃やすにはもう直しすぎていた。
間違いだらけの図面を間違いのまま人手に渡すは武人の恥である。
出向くための理屈としてはそれで十分だった。
理屈が言い訳であることを彼ほどの男が知らぬはずもなかった。
知っていて彼は外套を取った。
***
【新帝国暦十七年・春 辺境某星・グレーフェンベルク侯の別邸 シュタイガー】
屋敷は辺境に不似合いなほど豪奢だった。
控えの間には微かに香が焚かれていた。
貴族の屋敷にしては線の細い祈りの匂いである。
シュタイガーは眉ひとつ動かさずそれを記憶の棚に置いた。
エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯は恰幅のいい声の柔らかい男だった。
指という指に嵌めた指輪。趣味の悪い金の刺繍。よく笑う脂の乗った顔。
要するに絵に描いたような門閥の俗物である。
誰もがそう見るだろうしシュタイガーも最初の五分はそう見た。
侯は商談を始める前に客を廊下へ連れ出した。
壁一面に歴代当主の肖像画が掛かっていた。
「グレーフェンベルク家五百年でな」
侯は上機嫌に額の一つひとつを扇子で示した。
「この曾祖父は先々帝の勘気に触れる前日に領地へ引き籠もりこの大伯父はカストロプ家との縁談を式の三月前に破談にした。ああ、この絵はなオーディンのさる家の蔵にあったものよ。内乱で蔵ごと焼けたがの。焼ける前の年にわしが買うておいた」
自慢話であった。
間違いなくただの自慢話の顔をしていた。
「朱筆、拝見した」
侯は卓の上の図面を指の背で叩いた。
「と言うてもわしに戦は分からん。分からんゆえ分かる者を高い銭で飼うておる。その飼うておる幕僚どもがな、卿。夜通しで卿の朱を検分して朝には揃って黙りおったわ」
侯は脂の乗った顔で笑った。
「わしは図面は読めん。だが人の顔色なら五百年分読める。あれは届かぬものを見た者の顔よ」
「もったいないお言葉にございます」
シュタイガーは深く腰を折った。
慇懃な、非の打ちどころのない叩き上げの敬語である。
侯の語る計画は大きかった。
辺境に集う船と人。整えられつつある艦隊。それを率いる将の空いたままの席。
金の出所も船の出所も侯は語らなかった。シュタイガーも問わなかった。
問わずとも控えの間の香の匂いが半分は答えていた。
「卿の直しのとおり幕僚どもに組み直させよう」
侯は鷹揚に頷いてから付け加えた。
「もっとも緒戦は派手にゆきたい。旗揚げには華がいるでな」
「恐れながら。それは誤りにございます」
間を置かぬ返答に脇に控えた家宰の顔色が変わった。
侯は一瞬黙りそれから愉快そうに喉を鳴らした。
「……ほう。わしに誤りと申すか」
「華は勝った後からいくらでも飾れまする。緒戦で買うべきは華ではなく兵の信でございます。兵は飾られるために死ぬのではありませぬゆえ」
四半世紀、この一言で全てを失ってきた男が四半世紀ぶりに同じ一言を言った。
礼はどこまでも尽くす。判断は一寸も曲げない。
曲げ方をこの男は生涯覚えなかったのである。
「時に」
シュタイガーは慇懃のまま静かに切り込んだ。
「侯におかれましてはリップシュタットの折はガイエスブルクに御在城とうかがっておりましたが」
侯の柔らかい声は揺るがなかった。
「わしが逃げたと申したいのであろう。人聞きの悪い。損切りと申せ」侯は脂の乗った顔で笑った。
「卿、わしの家はな。五百年で一度も破産しておらん。皇帝陛下の勘気を賜ったこともただの一度もない。……この二つを五百年続けた家が銀河にいくつあると思う?」侯の声からふと笑いが引いた。
「秘訣は一つよ。沈む船には義理立てして残らぬこと。ブラウンシュヴァイク公は義理に殉じて沈まれた。ご立派なことだ。だが死人には再興の芽は蒔けまい?」
侯は両手を軽く広げ屋敷とその向こうの艦隊とをまとめて示した。
結果が半分、彼の詭弁を裏書きしていた。
「……そこがあなた様とブラウンシュヴァイク公の違いにございますな」
「であろう」
侯は満足げに頷いた。
「……ではなぜ」
シュタイガーは慇懃のまま問うた。
「あの折ローエングラム公にお下りにならなかったので」
侯は扇子を止めた。
「下った家がどうなったか。卿も見たであろう。……所領を削られ当主は飾り物よ。あれはな、卿。沈まぬ代わりに二度と港を出られん船だ」
それから侯は何でもないことのように付け加えた。
「それに——あの金髪の坊やの船もな、わしの目にはずいぶんと喫水が深く見えたのよ。……実際早う沈んだであろうが」
シュタイガーは答えなかった。
金髪の皇帝の死を「沈んだ」と言ってのける不敬よりそれを予見していたという言葉の方を彼は信じかけている自分に気づいた。
五百年の嗅覚はあるいは本当にあの若い帝国の短さまで嗅いでいたのかもしれなかった。
シュタイガーはそれ以上何も言わなかった。
言わぬまま職業柄の癖で目の前の男の帳尻を検算していた。
ガイエスブルクが陥ちる前に資産を移した。
王朝の接収が届く前にもう一度移した。
蔵が焼ける前の年に絵を買った。
曾祖父は勘気の前日に引き大伯父は縁談を三月前に切った。
あの廊下の壁は自慢話の並びだけではない。
退き際が的中した記録が五百年分、額に入って掛かっているのだ。
戦場の言葉で言うならこの家は五百年、退却の時機を一度も誤っていない。
それは臆病ではない。技術である。
ゴールデンバウム王朝の五百年、粛清と獄死は門閥の家業の一部だった。
その五百年でこの家の当主は一人も刑死していない。
宮廷という淘汰圧が五世紀かけて選び抜いた生き残ることにだけ純血の家系。
貴族という社会が煮詰まった鍋の底にはこういうものが残る。
無能な貴族ならシュタイガーは四半世紀分見飽きている。
目の前に座っているのは別の何かだった。
ヴァルハラで陛下に詫びるとあの中将は言った。
この男は生涯それを言うまい。
ヴァルハラにこの男の席はない。
予約する気が本人にないからである。
窓の外を若い士官の一団が通った。
亡命貴族の子弟たちである。真新しい軍服と覚えたての敬礼と戦場を知らぬ明るい声。
見覚えのある種類の顔だった。四半世紀前に彼の昇進の列へ椅子を並べていた顔と同じ種類の。
儂の上に功なき者が座る。
見慣れた景色よ。
「して望みを聞こうか」
侯が言った。「地位か。金か。それとも帝国への意趣返しかな」
シュタイガーは間を置かなかった。
「戦場を一つ」
それだけ言って彼はもう一度深く腰を折った。
「……それで足りまする」
侯は声を上げて笑い、安い買い物だと言った。
安いかどうかは侯の帳簿が決めることである。
シュタイガーの帳簿は四半世紀前から貸方も借方も白いままだった。
***
【新帝国暦十七年・春 辺境某星・番小屋 シュタイガー】
最後の夜勤を終えて彼は荷造りをした。
荷は行李ひとつに収まった。四半世紀が行李ひとつである。
倉庫の鍵を返すとき雇い主は不思議そうな顔をした。
どこへ行くのかと問われ奉公先が変わるだけよと答えた。
嘘は言っていない。
番小屋の卓で彼は最後の手入れをした。
鞘を払う。
刃に曇りは一点もない。
——判決の日のことをふと思い出した。
すべてを取り上げられて法廷を出たあの日、廊下の突き当たりで橙色の髪の若い士官が一人仁王立ちに待っていた。
かつての部下である。
懐に辞表をねじ込んで上の連中に叩きつけに行くのだと廊下じゅうに響く声で言った。
儂が止めた。貴様は残れと言った。
軍は貴様のような莫迦をあと二十年は必要とするのだと。
莫迦は残り、風の噂では元帥になったそうである。
橙色の髪の誰よりも声の大きい帝国元帥に。
帝国と戦うということはつまり——。
彼はその先を考えるのを途中でやめた。
砥石を出し、水を打ち、刃を当てる。
夜明けの番小屋に剣を研ぐ音だけが長く規則正しく続いた。
***
教国の記録はのちに彼へ聖将の位といくつもの武勲を書き加えることになる。
だが彼が何のために剣を研いだのかはどの記録も残していない。
ただ研がれた刃だけが歴史に残った。
――キベロン事件まで、あと一話。