銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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二「オットフリート・シュタイガー」(新帝国暦十六年冬)

のちに帝国の若い提督たちが、図上演習でその名を冠した課題に頭を抱えることになる。

 

参謀たちはそれを、なかば忌々しげに「シュタイガー問題」と呼んだ。

数で勝る側が、なぜか勝てない、という課題である。

 

その敵将の名は、帝国のどの現役名簿にも載っていなかった。

載っていたのは、四半世紀ちかく前の、軍法会議の判決記録の側である。

罪状、上官への暴行。そして、指揮権の簒奪。

 

記されたことは、一字残らず事実だった。

事実だけで書かれた記録が人ひとりを葬り得ることを、この判決文ほど雄弁に示す文書も少ない。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十六年・冬 辺境某星・港湾穀物倉庫 シュタイガー】

 

オットフリート・シュタイガーは、夜警である。

 

宵の五時に倉庫の鍵を預かり、朝の五時に返す。

その十二時間のあいだに、彼は倉庫街を六度巡回する。

二時間おき、一巡は歩数にして三千二百歩。

雨の夜も、雪の夜も、一歩と違わない。

 

異常なし。

巡回を終えるたび、彼は胸の内でそう唱えた。

報告する相手は、もう二十年以上どこにもいない。

 

倉庫に積まれているのは、麦である。

このごろ倉庫街で扱う荷は、聞いたこともない互助組合の荷札を提げたものがめっきり増えた。

夜警の知ったことではない。彼は積み荷の主ではなく、積み荷の夜を預かる者である。

 

明け方に番小屋へ戻ると、彼は決まって一振りの剣を手入れした。

 

旧帝国式の、士官の儀仗サーベルである。

鞘の金具は錆び、柄の飾り紐は色を失っている。

あつらえだけ見れば、屑鉄屋も値を付けまい。

 

だが鞘を払えば、刃に曇りは一点もない。

 

研ぎ、拭い、油を引き、納める。

売れば当座の飯にはなる代物である。

売らず、錆びさせもしないことに、彼は理由を言わない。問う者も、いない。

 

それが済むと、彼は誰に言うでもなく「今日も異常なし」と唱えて眠った。

軍隊は四半世紀前に彼を捨てたが、彼の一日はまだ軍隊の時間で回っていた。

 

眠りは浅く、夢は決まって、同じ宙域から始まった。

 

 

***

 

 

【宇宙暦七九〇年・帝国暦四八一年 イゼルローン回廊・同盟側出口周辺宙域 オットフリート・シュタイガー大佐】

 

「敵性反応、多数!総数、推定約三万、なおも増勢中!」

 

オペレーターの声が、旗艦の艦橋を凍らせた。

 

「艦影照合……戦艦の艦型、叛乱軍の正規艦隊です!艦種構成から見て、二個艦隊規模の攻勢部隊と推定!」

 

叛乱軍の、大攻勢である。

要塞前面の哨戒任務に就いていた帝国艦隊一万二千は、その進撃路の、ちょうど真正面にいた。

後詰は、背後のイゼルローン要塞を除けば、ない。

 

オットフリート・シュタイガー大佐は、首席参謀の席で、二秒で計算を終えた。

 

名に「フォン」のない、一兵卒からの叩き上げである。

平民出身者が、門閥貴族の後援もなく大佐まで届くこと自体が旧帝国では異例であり、異例のまま、彼は艦隊の頭脳である首席参謀の席にいた。

図上の解は、一つしかなかった。

 

「閣下。回廊内へ戦闘後退を具申いたします」

彼は司令官へ向き直った。

「回廊は隘路、叛乱軍とて数を並べられませぬ。要塞の砲程まで下がれば、敵は必ず退きます。三日、受けに徹すれば、この艦隊は生きて還れます」

 

司令官は、リッテンハイム侯家の縁につらなる門閥貴族の中将だった。

その男の名を、シュタイガーは生涯、一度も口にしたことがない。

故に、ここにも記さない。

 

中将は、後退の二字に、白い頬を痙攣させた。

 

「我に、逃げよと申すか。要塞の砲の陰に隠れよと、申すか」

 

「退くのではありませぬ。勝ちに行くのです。二日後に、全艦を連れて」

 

「黙れ」

 

中将は立ち上がった。演説の声だった。

 

「叛徒どもに背を見せるは、武門の恥辱である。我は武人の本懐を遂げる。全艦、突撃隊形。——散華の後は、ヴァルハラより皇帝陛下にお詫び申し上げればよい」

 

艦橋が、静まり返った。

一万二千隻に乗り組む、数え切れぬ将兵の命が、たった一人の詫びの言葉の道連れに数えられた音だった。

 

「恐れながら。それは、誤りにございます」

 

シュタイガーは、一歩、進み出た。

 

「お詫びは、生きて還ってからでも申せます。兵は、閣下がヴァルハラへ携える手土産では、ありませぬ」

 

「……平民の、分際で」

中将の手が、腰のブラスターにかかった。

「衛兵。この者を拘束——」

 

言葉は、最後まで続かなかった。

 

シュタイガーの拳が一度だけ動き、中将は音もなく崩れ落ちた。

艦橋の誰も、動かなかった。動かないことが、艦橋の総意だった。

 

「軍医官」

シュタイガーは、静かに言った。

「閣下は、ご負傷なされた。医務室へお運びし、記録されよ」

 

年かさの軍医官は、倒れた中将と、大佐の顔を一度ずつ見た。

「……指揮官負傷、と記録します」

 

シュタイガーは指揮官席に着かず、参謀席に立ったまま、全艦へ告げた。

 

「先任参謀が指揮を執る。本隊はこれより、回廊へ向け戦闘後退を行う。復唱は要らん。誰も、死に急ぐな」

 

 

***

 

 

「全艦隊を、二つに割る」

 

シュタイガーの声は、演説ではなかった。工程表を読み上げる、現場監督の声だった。

 

「第一陣七千、現宙域で受けに立つ。第二陣五千は、十光秒後方へ下がり、次の防御線を敷け。受けて、下がって、また受ける。この繰り返しで要塞の砲程まで戻る。——右舷に暗礁帯を背負え。壁は、味方だ」

 

回廊の入口へ向けて、帝国艦隊はゆっくりと形を変えはじめた。

広げた翼を畳み、縦に厚く、横に狭く。

巨大な貝が、殻を閉じていくのに似ていた。

 

「砲戦距離、最大。各艦、狙いは問わん。面で撃て」

 

「有効打は望めません」

 

「望んでおらん」

シュタイガーは、モニターの敵影から目を離さなかった。

「あれは光の壁だ。壁の役目は、敵を殺すことではない。敵に、まっすぐ来させんことよ」

 

無数のビームが、真空に薄い光の幕を張った。

殺すためではなく、急がせないための砲火である。

突っ込めば当たる、緩めれば当たらない。

 

その呼吸を、彼は敵に覚え込ませていった。

 

 

***

 

 

同盟軍・先鋒部隊の旗艦艦橋で、第七艦隊所属エドガー・カーライル少将は眉を寄せていた。

 

堅実だけが取り柄の、戦歴にも過失にも乏しい指揮官である。

 

「敵は後退中。追撃すれば捕捉可能です」

 

「両翼、展開。回り込んで包め」

定石だった。二倍半の数があれば、包めば終わる。それが同盟軍統合参謀本部が策定した教範の教えである。

 

だが、回り込むたびに、敵は一段だけ下がった。

下がった先では、回廊の暗礁帯が戦場の幅を削っていた。

 

展開した両翼は行き場を失い、押さえられた頭から順に、中央へ折り重なっていく。

三万の大軍が、幅二千隻分の戦場しか買えなかった。

残りの二万数千隻は、戦場の後ろで、ただ順番を待つ縦の列と化した。

 

「……敵の指揮官は、誰だ」

カーライルの問いに、答えられる者はいなかった。

 

観測できるのは、敵陣の中央後方で微動だにしない旗艦級の艦影だけである。

交戦開始から二日、その艦影は同じ深度に座り続けていた。

 

 

***

 

 

二日目の夜——時刻の上での夜に、陣の入れ替えが山を越えた。

 

受け続けた第一陣が下がり、休ませた第二陣が壁になる。

交代の瞬間、陣形には必ず継ぎ目が生まれる。三万近い敵前で殻を開け閉めする、三日間で最も危険な数分間である。

 

シュタイガーは、その数分を敵の呼吸に合わせて選んだ。

 

敵の先鋒が突撃隊形を組み直し、エネルギー充填で足を止める——その死んだ時間にだけ、殻を開けた。

入れ替えは三度行われ、三度とも、敵は指をくわえて見ていた。

いや、敵は三度目まで気づかなかった。

 

一度だけ、若い駆逐戦隊司令が功を焦り、下がる敵先鋒へ追撃をかけようとした。

 

「戻れ」

シュタイガーの声は、雷ではなかった。それがかえって、艦橋を静かにさせた。

「貴官の勇気は預かっておく。……使いどころは、私が決める」

 

戦隊は、列に戻った。

戦死者の名簿は、その夜も薄いままだった。

 

 

***

 

 

三日目。

同盟軍・カーライルの旗艦の作戦室で、補給参謀が数字を読み上げた。

 

「推進剤、残量四割を切りました。ミサイル類の残弾三割。補給船団は回廊外に待機中。ここからでは、六時間かかります」

 

「戦果は」

 

「……帝国艦の撃沈数、確認できたのは五百あまり。あの狭さでは、まともに射線が通りません」

 

「当方の喪失は」

 

「千ほど。……大きくはありません。ただ、三日かけて、こちらばかりが少しずつ減っております」

 

カーライルは、正面のスクリーンを見た。

帝国艦隊の向こう、回廊の最奥に、イゼルローン要塞の砲程圏が口を開けていた。

あと半日押せば、あの流体金属の巨塊が開く砲火の顎に、自分から頭を差し入れることになる。

 

伸びきった補給線。積み上がる一方の損害比。前進した先で待つ、要塞主砲。

どの数字も、同じ答えを指していた。

 

「……後退を、具申する」

カーライルは、それだけ言った。

後方の攻勢司令部は、あっさりとそれを容れた。彼我の損害比と、伸びきった補給線を突き合わせれば、答えは一つだったからである。

 

敗けた、とは、誰も言わなかった。

事実、会戦としては敗けてもいない。

ただ、続ける理由が、どこにも残っていなかっただけである。

 

二万九千の艦影が、来たときと同じ回廊の闇へ、ゆっくりと吸い込まれていった。

 

背後のイゼルローン要塞の駐留艦隊は、三日間、ついに一隻も動かなかった。

管轄が違う、というのが理由である。理由の下に面子が埋まっていることは、誰もが知っていて、誰も言わなかった。

 

帝国艦隊は、追わなかった。

「殿軍を収容。……全艦、そのまま。見送れ」

それが、この三日間の、最後の命令だった。

 

帝国艦隊一万二千のうち、一万一千余が還った。

 

 

***

 

 

後世の戦術教程がこの三日間を採録していれば、遅滞戦の古典として学生を悩ませたはずである。

 

六年後、帝国軍は同じ算術を、桁違いの規模で用いることになる。

同盟軍の大遠征軍を焦土と後退で誘い込み、伸びきった補給線を断ち、飢えたところを刈り取る。

戦史がアムリッツァの名で記録する、あの戦役である。

名もなき回廊の三日間は、規模こそ違え、奇しくも同じ算術に、六年早くたどり着いていた。

 

だが、教程は三日間を採録しなかった。

理由は戦術ではなく、判決文の側にあった。

 

「シュタイガー問題」が帝国の図上演習に現れるのは、これより三十年ちかくのち。

出題者が、敵として回廊の向こうから還ってきてからである。

 

この三日から、兵たちは彼を、陰で「亀」と呼んだ。

彼の陣は崩れず、彼の下では、兵が還ってくるからである。

悪態の形をした、兵からの勲章だった。

 

 

***

 

 

オーディンで彼を待っていたのは、感状ではなく、法廷だった。

 

顎の骨を接いだ中将は、リッテンハイム侯家の名において告発した。

 

リッテンハイム侯家が望んだのは、叛乱罪であったという。

だが艦隊は一隻も帝国に弓を引かず、還った兵は一万一千を数えた。

叛乱として裁けば、その一万一千をどこに置くかという問いが立つ。

罪状は、暴行と簒奪に留まった。留めた側は、それを温情と呼んだ。

 

弁護人は初日に交代し、二日目からは、ほとんど発言しなかった。

 

彼が連れて還った一万一千の中に、法廷で彼のために立てた者は、一人もいなかった。

 

判決の言い渡しの前に、裁判長は言った。

貴様には、死すらぬるい、と。

辺境惑星での、無期徒刑である。

 

連座は、法廷の外で執行された。

妻と娘、弟の一家が、それぞれ別の辺境惑星へ「移住」させられた。

移住、という言葉が公文書の用語であることを、彼は独房で知った。

 

 

***

 

 

釈放は、十七年のちに、恩赦として来た。

 

ゴールデンバウム王朝は滅び、金髪の若い皇帝が銀河を統べ、その皇帝ももう亡い、と釈放の日に聞かされた。

身分の垣根ごと軍の人事を焼き払った新しい時代を、彼は独房の壁の向こうで、丸ごと見送っていたのである。

 

私物の返還は、目録の一行で済んだ。

儀仗サーベル、一振り。

任官の日に拝受し、判決の日に階級章とともに取り上げられたものが、埃をかぶって戻ってきた。

軍が彼から取り上げたすべてのうち、返ってきたのは、それだけだった。

 

家族を、捜した。

 

移送の記録は管区の統廃合で散逸し、辿れた先も多くはなかった。

弟の一家には、死亡の記録が見つかった。流行り病の集団埋葬の、名簿の三行である。

死の記録が見つかった者は、まだ、ましな方だった。

妻と娘の行方は、どの惑星の名簿にも、ついに見つからなかった。

 

新帝国軍への任官を、彼は一度だけ願い出ている。

 

書類は正しく受理され、正しく審査され、正しく、拒絶された。

理由も、正しかった。

上官を殴打し指揮権を奪った前科者を、大乱の記憶も生々しい軍が現役に戻す道は、どの規則にも先例にもなかったのである。

 

実力で人を測る時代は、確かに来ていた。

軍規が最も許せぬ型の罪を、彼は十七年前に、犯していた。

 

しばらくは、辺境の無頼どもの「参謀」で食った。

海賊の頭目に雇われ、商船に毛の生えた護衛船団を、軍教本どおりの手口で蹴散らす仕事である。

三度目の仕事の帰り、燃える護衛艦を眺めながら、彼は静かに悟った。

 

あれは、戦ではない。

 

以後、彼は軍人の真似事を一切やめた。

荷役、炭鉱、道路工夫。体ひとつの、その日限りの仕事を転々として、倉庫の夜警に流れ着いた。

サーベルの手入れだけが、軍人時代から続いている、唯一の日課だった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十六年・冬 同・番小屋 シュタイガー】

 

その男は、雪の夜に来た。

 

仕立てのいい外套の、慇懃な使者である。どこかの家宰か、その手の男だった。

主人の名と招聘の口上を述べ、恭しく書状を差し出した。

 

「儂は倉庫の番人よ」

シュタイガーは書状を受け取らなかった。

「艦隊の番は、若い者がやればよい」

 

使者は粘らなかった。

その代わり、革の筒に入った図面の束を卓に残していった。

「では、お目通しだけでも。……主が申しますには、これを読める方は銀河に幾人もおられぬそうで」

 

燃やすつもりだった。

番小屋の暖炉は、ちょうど薪を欲しがっていた。

 

火にくべる前に、と広げたのがいけなかった。

 

艦隊の編成案と、机上演習の想定図である。

素人の作ではない。金と船だけは潤沢な、しかし戦を書類でしか知らぬ者の手だった。

そして、間違っていた。それも、兵が死ぬ側にばかり間違っていた。

 

この隊形では、崩れたときに収容へ来る輸送艦から沈む。

この進出速度では、補給線が丸二日裸で晒される。

この予備隊の位置では、間に合った例が、戦史をひもといても一度もない。

 

気がつくと、夜が明けていた。

図面の余白は、彼の朱で埋まっていた。

 

彼の朱筆は、勝ち筋を書き足したのではない。

死なずに済むはずの兵の数を、拾って回っただけである。

 

直しは、攻めを削り、受けを固くする方へばかり倒れた。

図面は一晩で、派手さと引き換えに、死なない図面になった。

 

朱だらけの図面を筒に戻し、彼はしばらく暖炉の火を見ていた。

 

燃やすには、もう直しすぎていた。

 

間違いだらけの図面を間違いのまま人手に渡すは、武人の恥である。

出向くための理屈としては、それで十分だった。

 

理屈が言い訳であることを、彼ほどの男が知らぬはずもなかった。

知っていて、彼は外套を取った。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 辺境某星・グレーフェンベルク侯の別邸 シュタイガー】

 

屋敷は、辺境に不似合いなほど豪奢だった。

 

控えの間には、微かに香が焚かれていた。

貴族の屋敷にしては線の細い、祈りの匂いである。

シュタイガーは眉ひとつ動かさず、それを記憶の棚に置いた。

 

エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯は、恰幅のいい声の柔らかい男だった。

 

指という指に嵌めた指輪。趣味の悪い金の刺繍。よく笑う、脂の乗った顔。

 

 

要するに、絵に描いたような門閥の俗物である。

 

 

誰もがそう見るだろうし、シュタイガーも最初の五分は、そう見た。

 

侯は商談を始める前に、客を廊下へ連れ出した。

壁一面に、歴代当主の肖像画が掛かっていた。

 

「グレーフェンベルク家五百年でな」

侯は上機嫌に、額の一つひとつを扇子で示した。

「この曾祖父は先々帝の勘気に触れる前日に領地へ引き籠もり、この大伯父はカストロプ家との縁談を式の三月前に破談にした。ああ、この絵はな、オーディンのさる家の蔵にあったものよ。内乱で蔵ごと焼けたがの。焼ける前の年に、わしが買うておいた」

 

自慢話であった。

間違いなく、ただの自慢話の顔をしていた。

 

「朱筆、拝見した」

侯は卓の上の図面を指の背で叩いた。

「と言うても、わしに戦は分からん。分からんゆえ、分かる者を高い銭で飼うておる。その飼うておる幕僚どもがな、卿。夜通しで卿の朱を検分して、朝には揃って黙りおったわ」

 

侯は、脂の乗った顔で笑った。

「わしは図面は読めん。だが人の顔色なら、五百年分読める。あれは、届かぬものを見た者の、顔よ」

 

「もったいないお言葉にございます」

シュタイガーは深く腰を折った。

慇懃な、非の打ちどころのない叩き上げの敬語である。

 

侯の語る計画は、大きかった。

辺境に集う船と人。整えられつつある艦隊。それを率いる将の、空いたままの席。

 

金の出所も船の出所も、侯は語らなかった。シュタイガーも、問わなかった。

問わずとも、控えの間の香の匂いが半分は答えていた。

 

「卿の直しのとおり、幕僚どもに組み直させよう」

侯は鷹揚に頷いてから、付け加えた。

「もっとも、緒戦は派手にゆきたい。旗揚げには、華がいるでな」

 

「恐れながら。それは、誤りにございます」

 

間を置かぬ返答に、脇に控えた家宰の顔色が変わった。

侯は一瞬黙り、それから、愉快そうに喉を鳴らした。

 

「……ほう。わしに、誤りと申すか」

「華は、勝った後からいくらでも飾れまする。緒戦で買うべきは華ではなく、兵の信でございます。兵は、飾られるために死ぬのではありませぬゆえ」

 

四半世紀、この一言で全てを失ってきた男が、四半世紀ぶりに、同じ一言を言った。

礼はどこまでも尽くす。判断は、一寸も曲げない。

曲げ方を、この男は生涯、覚えなかったのである。

 

「時に」

シュタイガーは、慇懃のまま静かに切り込んだ。

「侯におかれましては、リップシュタットの折はガイエスブルクに御在城とうかがっておりましたが」

 

侯の柔らかい声は、揺るがなかった。

 

「わしが逃げた、と申したいのであろう。人聞きの悪い。損切り、と申せ」侯は、脂の乗った顔で笑った。

「卿、わしの家はな。五百年で、一度も破産しておらん。皇帝陛下の勘気を賜ったことも、ただの一度もない。……この二つを五百年続けた家が、銀河にいくつあると思う?」侯の声から、ふと笑いが引いた。

「秘訣は、一つよ。沈む船には、義理立てして残らぬこと。ブラウンシュヴァイク公は、義理に殉じて沈まれた。ご立派なことだ。だが、死人には、再興の芽は蒔けまい?」

 

侯は両手を軽く広げ、屋敷とその向こうの艦隊とをまとめて示した。

結果が半分、彼の詭弁を裏書きしていた。

 

「……そこが、あなた様とブラウンシュヴァイク公の違いにございますな」

 

「であろう」

侯は満足げに頷いた。

 

「……では、なぜ」

シュタイガーは、慇懃のまま問うた。

 

「あの折、ローエングラム公に、お下りにならなかったので」

侯は、扇子を止めた。

 

「下った家が、どうなったか。卿も見たであろう。……所領を削られ、当主は飾り物よ。あれはな、卿。沈まぬ代わりに、二度と港を出られん船だ」

それから侯は、何でもないことのように付け加えた。

「それに——あの金髪の坊やの船もな、わしの目には、ずいぶんと喫水が深く見えたのよ。……実際、早う沈んだであろうが」

シュタイガーは、答えなかった。

 

金髪の皇帝の死を「沈んだ」と言ってのける不敬より、それを予見していたという言葉の方を、彼は信じかけている自分に気づいた。

 

五百年の嗅覚は、あるいは本当に、あの若い帝国の短さまで嗅いでいたのかもしれなかった。

 

シュタイガーは、それ以上何も言わなかった。

言わぬまま、職業柄の癖で、目の前の男の帳尻を検算していた。

 

ガイエスブルクが陥ちる前に、資産を移した。

王朝の接収が届く前に、もう一度移した。

蔵が焼ける前の年に、絵を買った。

曾祖父は勘気の前日に引き、大伯父は縁談を三月前に切った。

 

あの廊下の壁は、自慢話の並びだけではない。

 

退き際が的中した記録が、五百年分、額に入って掛かっているのだ。

 

戦場の言葉で言うなら、この家は五百年、退却の時機を一度も誤っていない。

それは臆病ではない。技術である。

 

ゴールデンバウム王朝の五百年、粛清と獄死は門閥の家業の一部だった。

その五百年で、この家の当主は一人も刑死していない。

宮廷という淘汰圧が五世紀かけて選び抜いた、生き残ることにだけ純血の家系。

 

貴族という社会が煮詰まった鍋の底には、こういうものが残る。

 

無能な貴族なら、シュタイガーは四半世紀分、見飽きている。

目の前に座っているのは、別の何かだった。

 

ヴァルハラで陛下に詫びる、とあの中将は言った。

この男は、生涯それを言うまい。

ヴァルハラに、この男の席はない。

予約する気が、本人にないからである。

 

窓の外を、若い士官の一団が通った。

亡命貴族の子弟たちである。真新しい軍服と、覚えたての敬礼と、戦場を知らぬ明るい声。

見覚えのある種類の顔だった。四半世紀前に彼の昇進の列へ椅子を並べていた顔と、同じ種類の。

 

儂の上に、功なき者が座る。

見慣れた景色よ。

 

「して、望みを聞こうか」

侯が言った。「地位か。金か。それとも、帝国への、意趣返しかな」

 

シュタイガーは間を置かなかった。

 

「戦場を、一つ」

それだけ言って、彼はもう一度深く腰を折った。

「……それで、足りまする」

 

侯は声を上げて笑い、安い買い物だと言った。

安いかどうかは、侯の帳簿が決めることである。

シュタイガーの帳簿は、四半世紀前から貸方も借方も白いままだった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十七年・春 辺境某星・番小屋 シュタイガー】

 

最後の夜勤を終えて、彼は荷造りをした。

荷は、行李ひとつに収まった。四半世紀が、行李ひとつである。

 

倉庫の鍵を返すとき、雇い主は不思議そうな顔をした。

どこへ行くのかと問われ、奉公先が変わるだけよと答えた。

嘘は、言っていない。

 

番小屋の卓で、彼は最後の手入れをした。

 

鞘を払う。

刃に、曇りは一点もない。

 

——判決の日のことを、ふと思い出した。

 

すべてを取り上げられて法廷を出たあの日、廊下の突き当たりで橙色の髪の若い士官が一人、仁王立ちに待っていた。

かつての部下である。

懐に辞表をねじ込んで、上の連中に叩きつけに行くのだと廊下じゅうに響く声で言った。

 

儂が止めた。貴様は残れ、と言った。

軍は貴様のような莫迦を、あと二十年は必要とするのだ、と。

 

莫迦は残り、風の噂では元帥になったそうである。

橙色の髪の、誰よりも声の大きい帝国元帥に。

 

帝国と戦うということは、つまり——。

 

彼は、その先を考えるのを途中でやめた。

 

砥石を出し、水を打ち、刃を当てる。

夜明けの番小屋に、剣を研ぐ音だけが長く、規則正しく続いた。

 

 

***

 

 

教国の記録は、のちに彼へ聖将の位といくつもの武勲を書き加えることになる。

 

だが、彼が何のために剣を研いだのかはどの記録も残していない。

ただ、研がれた刃だけが歴史に残った。

 




――キベロン事件まで、あと一話。
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