銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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三「ニコラス・ブルーメンタール」(新帝国暦十八年冬)

なぜ民主共和政の軍人たちが神権国家の旗の下に集まったのか。

 

後世の史家を長く悩ませるこの問いの答えは、半分は帳簿にある。

同盟という国家が消えたとき、その国家が数千万の退役軍人に負っていた恩給も支払い主体ごと消えた。

誰も弾圧していない。ただ支払う国が消えた。

 

だが帳簿は人が「どこから去るか」しか説明しない。

「どこへ行くか」を決めたのはいつの時代も旗を掲げた人間の側である。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十八年・冬 旧同盟領辺境・旧同盟軍第七補給基地跡 ブルーメンタール】

 

かつて同盟軍の補給基地だった廃墟にその冬、人が集まりつつあった。

 

管制塔は傾き、滑走路はひび割れていた。

格納庫に残る同盟軍の紋章は新帝国の接収検査官が一度だけ来て塗り潰しもせずに帰った。

塗り潰す価値もないということである。

 

ニコラス・ブルーメンタールはその塗り潰されなかった紋章の下に机を一つ置いていた。

旧自由惑星同盟軍の統合作戦本部作戦課では作戦主任参謀を務めた男である。

 

来る者は途切れなかった。

恩給の消えた砲術長。廃兵の年金を待ち続けた機関兵。息子の戦死給付を受け取る先の国家ごと失った老軍曹。

十六年、誰にも呼ばれなかった男たちである。

 

ブルーメンタールは一人ずつ立って迎えた。

 

「第十一艦隊か。……ドーリアの生き残りだな。よく生きていてくれた」

 

名簿も見ずに所属と戦歴を言い当てる。

彼は旧同盟軍の編制を階級章の褪せ方一つから読める男だった。

言い当てられた男たちは一様に同じ顔をした。

泣くのを堪える顔である。十六年ぶりに軍歴が経歴として扱われた顔だった。

 

古参の砲術長が照れ隠しに軽口を叩いた。

 

「なに、ここでなら芸のある死に方の一つもできるかと思いましてな」

 

「聞き捨てならんな」

ブルーメンタールは笑わなかった。

「死なせるために集めたのではない」

 

その夜、集まった三百人ほどを前に彼は短い訓示をした。

三百人。最盛期には五千万を数えた自由の国の軍隊の三百人である。

 

演説は得意ではない。得意でないことがかえって声に重さを与えた。

 

「諸君の中に自分を敗残兵だと思っている者がいるなら今夜限りで改めてもらう」

 

彼は一語ずつ置くように言った。

 

「私は——我々は敗者ではない。終わる前に国の方が消えたのだ」

 

拍手は起きなかった。

代わりに三百人が一斉に自由惑星同盟軍式の古い敬礼をした。

十六年間、する相手のなかった敬礼だった。

 

 

***

 

 

ニコラス・ブルーメンタールの経歴は同盟の最後の十年とほぼ重なっている。

 

戦没者の家に生まれた。

父は輸送艦の機関長で息子の顔を三度見て四度目の航海から還らなかった。

百五十年続いた戦争のありふれた家である。

 

少年の進路を決めたのは宇宙暦七八八年——エル・ファシルの報せだった。

 

艦隊が壊走する中、民間人三百万を無傷で脱出させた若い中尉がいる。

軍とは市民を守る道具であり、道具は正しく使えば人を生かす。

少年はそう確信して士官学校の門を叩き首席で出た。

 

首席の彼が卒業したその学校を数年前、居眠りと戦史の講義だけで有名な男が下から数えた方が早い席次で出ていた。

二人の名が同じ書類に並ぶのはもう少し先の話である。

 

配属は統合作戦本部、作戦課。

数字の男だった。艦隊の格好良さより輸送船の隻数と燃料の桁を愛した。

父が輸送艦で死んだ男は戦争が砲火ではなく補給で決まることを教わる前から知っていた。

 

宇宙暦七九六年、彼の名は初めて歴史の欄外に載る。

 

帝国領侵攻計画——三千万を動員する大遠征の原案がフォーク准将の華麗な筆で最高評議会へ上がったとき、作戦課の若い参謀が一人反対意見書を添付した。

華麗な図面に彼は補給線を一本ずつ書き込んで返したのである。

占領地が広がるほど補給所要は幾何級数で増える。焦土戦術を採られれば現地調達は成立しない。遠征軍は会敵の前に飢える——意見書はそこまで書いた。

 

図面が汚れた、と評された。

意見書は握り潰され彼は閲兵式の準備係へ回された。

 

ただ一人、総参謀長のグリーンヒル大将だけが若い参謀を執務室に呼んだ。

 

「君の数字は正しい」

大将は静かに言った。

「正しさだけではこの案は止まらん。……選挙が始まっているのでな」

 

正しい数字が選挙に負ける瞬間を彼はこの日初めて見た。

二度目を見る前に二千万が死んだ。

 

 

***

 

 

灼熱のアムリッツァに彼はいた。

 

統合作戦本部の連絡参謀として第十艦隊に配され自分の意見書がそのまま現実になっていく過程を特等席で見せられたのである。

補給は彼の計算どおりの位置で断たれ遠征軍は彼の計算どおりの日付で飢えた。

 

ウランフ提督が戦死し第十艦隊が砕けた夜、若い連絡参謀のとった手段は常識の逆だった。

 

彼は散った艦を集めなかった。

 

潰走する数百の艦へ彼が配ったのは会合座標ではない。

個別の退避航路と一つの時刻と一つの目標だけである。

再集結はしない。隊形も組まない。ばらばらに逃げ続けろ——ただし指定の一刻だけ全艦が同じ敵を噛む。

 

追撃していた帝国艦隊はその一刻に奇怪なものを見た。

 

四方八方へ壊走していたはずの敗兵どもが時計を合わせたように一斉に反転したのである。

伸びきった追撃隊の側面へ全方位から一撃だけ加えてまた散った。

壊走が擬態に変わった瞬間だった。

 

追撃の足は目に見えて鈍った。

散った敵はもう「潰走する敗兵」ではない。どこで牙を剥くか分からぬ、統制された何かである。

警戒は速度を殺し、殺された速度の分だけ本隊は生きて下がった。

 

艦隊が艦隊の形をしている必要はない。

同じ時刻に同じ敵を噛むなら散っていても艦隊だ——この夜に生まれた思想を彼が再び使う日はずっと先に来る。

 

そうして時間を稼いだ二千余隻を彼は殿軍の傘の下へ送り込んだ。

壊走する遠征軍全体の背中をたった一個艦隊で支えていた殿軍である。

 

その殿軍の司令官が誰であったかを——自分の最良の仕事が誰の張った傘の陰でのみ成立したのかを——彼は生涯一度も口にしなかった。

 

彼の沈黙には部屋が二つある。

 

 

***

 

 

クーデターへの誘いは翌年、グリーンヒル大将その人から来た。

 

腐敗の切除。健全な共和国の再建。アムリッツァの二千万への応答。

数字の男が初めて数字以外のものに賭けた。

最年少の幕僚として彼は革命の中枢にいた。

 

結末は既に記したとおりである。

 

ただ最後の夜のことだけは記しておかねばならない。

包囲された司令部で大将は若い幕僚に退去を命じた。

ブルーメンタールは拒否した。拒否した部下に大将は静かに言った。

 

「若い者を道連れにする権利は私にはない。……ブルーメンタール。我々は間違えたのかもしれん。だが君たちが目指したものまで間違いだったかは——それはここで決まることではない。生きて確かめろ」

 

数時間後、大将は同志の銃で死に若い幕僚は生きて捕らえられた。

 

軍籍剥奪。禁固二十年。

判決の日、彼は軍事法廷で一言だけ発言を許されこう言った。

「アムリッツァで散った二千万の同胞の名簿をこの法廷に提出したい。……却下されるのなら結構。私の陳述は以上だ」

 

却下された。それが同盟という国家と彼との最後の会話になった。

 

間違えたのかもしれん、という前半を彼は十六年かけて少しずつ聞かなくなった。

残ったのは後半だけである。

ここで決まることではない——中断されたということだ。

 

そう読み替えた自分に彼はもう気づいていない。

 

 

***

 

 

イリヤ・ラザレフが彼のもとへ回されてきたのはその冬の終わりである。

 

暗礁を漂流していたところを拾われた、旧同盟軍中将のエイジ・クルス提督の率いた艦隊の生き残り——書類にはそうあった。

帳簿の上ではとうに死んだことになっている男である。

まだ若い。同盟が滅んだときほんの子供だった世代だった。

 

イリヤは実直に働き、実直に学び、そして夜になると実直に質問をした。

 

「司令。……議会とはどういうものでしたか」

 

ブルーメンタールは書類の手を止めた。

 

「うるさい場所だ」

少し考えてから彼は言い直した。

「三百人が三百通りのことを喚いて何一つ決まらん。決まった頃には元の案の原形がない。……途方もなく非効率で腹の立つ場所だった」

 

「それは……悪いものだったのですか」

 

「いいや」

ブルーメンタールの声は自分でも意外なほど静かになった。

「あれは三百人分の否が言える場所だった。否を言っても誰も連行されん。……見なければ分からんよ、あの馬鹿馬鹿しさの尊さは」

 

イリヤは頷かなかった。

頷く代わりに聞いたことを胸の内で復唱している目をしていた。

 

議会も選挙もこの若者は見たことがない。

体験ではなく伝聞。記憶ではなく経典。

ブルーメンタールの語る同盟はイリヤの中で一言ずつ聖句に変わっていった。

 

「では」イリヤは問うた。「いつか私も選挙を見られますか」

 

「見せる」

ブルーメンタールは即答した。

「私が必ず」

 

約束の文法がいつから祈りの文法に変わったのか。

言った本人も聞いた側も気づかなかった。

 

 

***

 

 

「魔術師ヤンは」と、あるときイリヤが言った。「英雄だったと聞いています」

 

ブルーメンタールの手が止まった。

 

「誰に聞いた」

 

「引き上げられた船の年配の方々に。同盟最後の最高の頭脳だったと」

 

長い沈黙があった。

やがてブルーメンタールは書類を置き若者にまっすぐ向き直った。

逃げも韜晦もしない。それがこの男の唯一の話法である。

 

「ヤン・ウェンリーは私が生涯で見た最高の才能だった。それは認める。認めた上で言う」

 

声は荒れなかった。荒れないことがかえって底の温度を伝えた。

 

「あの男は守っているものが腐っていると誰よりもよく知っていた。知っていて守った。あのヨブ・トリューニヒトの政府を。選挙を買い、戦争で票を稼ぎ、兵の命を選挙対策に使う連中を——民主主義の原則、という名分でだ」

 

「我々はそれを壊そうとした。腐敗を切除し健全な民主共和政を建て直すために立った。……あの男はその我々を潰した。最高の才能が最悪の政府の盾になった」

 

声が一段低くなった。

 

「グリーンヒル大将は敵の銃では死ななかった。同志のはずの男の銃で死んだ。敗色を悟って大将の首を降伏の手土産にした男の銃でだ。……ではその引き金を引かせたのは誰の鎮圧だ」

 

イリヤは答えを持たなかった。

 

「志のあった者は根こそぎ処断され、守られた政府は二年ももたずに国ごと滅んだ」

 

ブルーメンタールはそこで一度、目を閉じた。

 

「我々は『壊すだけ壊して責任を取らなかった』そうだ。……結構。その定義をそのまま使わせてもらう。ならばヤン・ウェンリーは何だ。腐敗を延命させ、革命を潰し、国が滅ぶのを見届けて自分は歴史に美名だけ残して死んだ。……あれを英雄と呼ぶなら呼べばいい。私は『共犯』と呼ぶ」

 

イリヤは何も言えなかった。

 

反論の材料を彼は持っていない。

議会も選挙もヨブ・トリューニヒトもこの若者にとっては等しく伝聞であり、目の前の男の傷だけが実物だった。

 

この独白に頷いた者が三百人いた。

頷かなかった者が銀河のどこかにいる。

 

そして公平のために歴史はいくつかの事実を書き添える権利を持つ。

 

ヤン・ウェンリーは独裁者になる機会を少なくとも二度与えられ二度とも断った男である。

バーミリオンの砲火の只中で腐敗した政府の停戦命令に従ったのは腐敗した政府が惜しかったからではない。

軍人が銃で政府を選び始めた瞬間に民主主義は死ぬ——救国軍事会議そのものが証明してみせたその一点を守るためだった。

 

そして少年ブルーメンタールを軍人にした「エル・ファシルの英雄」と、壮年ブルーメンタールが罪と呼ぶ男は同じ一人の人間である。

 

彼は肖像を半分に切り半分だけを焼いた。

焼かれなかった半分がその胸のどこに仕舞われているのかは誰も知らない。

 

 

***

 

 

一つだけ独白に含まれなかったことがある。

 

ドワイト・グリーンヒル大将には娘が一人いた。

娘は父の革命の側に立たなかった。

そしてのちにあの男の姓を名乗った。

 

ブルーメンタールがその名を口にしたことは一度もない。

憎むためにすら、ない。

 

 

***

 

 

別の夜、イリヤはもう一つの問いを持ってきた。

 

「引き上げられた船の方々はもう一つ言っていました。……スタジアムの話を。集会にいた反戦派の女性議員が死んだと」

 

ブルーメンタールは、今度はすぐに答えなかった。

 

「……現場の部隊が命令を越えてやったことだ」

ようやく出た声はいつもの硬質を保っていた。保っていることが分かる硬さだった。

「革命はあれを望まなかった」

 

「望まなかったものが起きたのですね」

 

イリヤに他意はなかった。

経典を読む者が頁の順に問うただけである。

他意のない問いにだけ答えられない種類の問いがある。

 

「……もう遅い。休め」

 

その夜、司令官の部屋の灯りは遅くまで消えなかった。

何をしていたのかは誰も知らない。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十九年・春 同基地跡 ブルーメンタール】

 

船は来た。金も来た。

 

連絡艇で軌道の係留列を検分した日のことは記しておく価値がある。

 

同じ艦影が並んでいた。

同じ、というのは修辞ではない。

艦首の反りも砲塔の配置も推進部の癖も寸分違わぬ同型艦が視界の尽きるまで並んでいた。

 

二十まで数えてブルーメンタールは数えるのをやめた。

 

新造艦である。中古の寄せ集めではない。

塗装は飾り気のない灰色で船体番号のほかには艦首に小さな金の樹章があるだけだった。

 

名がなかった。

どの艦にも名がなかった。

 

同盟の軍艦は名を持っていた。

歴戦の幸運艦も便所の水漏れひとつで艦隊中の笑い話になった艦も名で呼ばれ、名で愛され、沈むときは名で悼まれた。

名のない艦の群れで戦う戦争を彼はまだうまく想像できない。

 

誰が、どこで、これだけの新造艦を——

問いはいつもの場所で止まった。問わない、と決めた場所である。

 

寄贈者の代理人と名乗る男は丁重で口数が少なく外套の襟に小さな金の樹の徽章を着けていた。

ブルーメンタールは出所を問わなかった。

問わない者がこの辺境には彼のほかにも幾人かいることを、彼はまだ知らない。

 

代理人が帰ったあと、古くからの副官が堪えかねたように言った。

 

「司令。……あれは坊主どもの船です。我々は民主主義の軍隊だ。皇帝も神様も御免だから我々の父祖は長征一万光年を逃げ抜いたんじゃないんですか。その末裔が今度は神様の船に乗るんですか」

 

「乗る」

ブルーメンタールは即答した。

「船には乗る。神には乗らん。同じ旗の下にも立たん。だが共通の敵を撃つことはできる」

彼は地図の上の帝国領を示した。

「まず壊す。建てるのはそのあとだ。……帝国という不正義が立っている限りその足元でどんな正義を建てても絵空事にしかならん。壊す段階では手は選べん。選ばん」

 

副官はそれ以上言わなかった。

言わなかったことをこの誠実な司令官は納得と受け取った。

 

 

***

 

 

軍服も届いた。木箱に三百着。

 

樹皮を思わせる灰褐色の生地に金糸の黄金樹が一樹、胸に枝を広げている。

高い詰襟に足首まで届く長い裾——艦内用だけが膝で裁たれていた。

華美ではない。聖将の位を示す金は胸の一樹と袖に伸びる枝のほかにない。

前立ての釦は布に隠され外からは一本の縫い目にしか見えない。

 

ブルーメンタールは職業柄の癖で隠れた釦を数えた。

十一、あった。

 

軍服の釦の数はどこの軍でも実用が決める。

十一は実用の数ではない。

彼はその意味を知らない。意味を知らされていない数字がこの男は何より嫌いだった。

 

着心地は悔しいことに良かった。

 

古参の砲術長が袖を通し鏡のない基地でひと回りしてみせた。

「なんだか坊さんの服みたいですなあ」

笑いが起きた。

起きた笑いの寿命は三日だった。

 

三日後、その「坊さん」が本物として現れたのである。

 

ノックは丁寧だった。

入ってきたのは黒い長衣の男である。

裾は足首まであり腰にはあざやかな緋色の帯を締めていた。年齢の読めない物腰の柔らかい男だった。

 

「御隊付きの艦隊司祭を拝命いたしました。以後お見知りおきを」

 

「……要請した覚えはない」

 

「任命は私どもの側の務めですので」

 

ブルーメンタールは男を見据えた。

「指揮系統を確認する。貴官は私の命令に服するのか」

 

「務めの許すかぎり、喜んで」

 

「務めが許さない場合は」

 

「そのような日が来ないことを祈っております」

 

ブルーメンタールは質問の角度を変えた。

「貴官の階級は」

 

「持ちません」

 

「……階級のない者が軍艦に乗るのか」

 

「軍のお仕事は皆様のもの。私どもの務めは皆様の魂の側にございますので」

 

役回りを問うと男は指を折って数えてみせた。

出撃の前には聖別を。望む者には聴聞を。戦没者には祈りを。

「あとは——ただ見ております」

 

「見てどうする」

 

「見ることが務めにございます」

 

ブルーメンタールはそれ以上その線を追わなかった。

追っても微笑しか出てこないことがもう分かっていた。

代わりに彼は姿勢を正した。

「ではこちらからも通告しておく」

 

「この部隊の敬礼は同盟軍式を用いる。号令も操典も戦死者を送る作法も自由惑星同盟軍の流儀で行う。……服は着よう。名も預かろう。だが中身は我々のやり方で通させてもらう」

 

「ご随意に」

 

即答だった。

抵抗のないことがこの日の問答でいちばん腑に落ちなかった。

 

男は微笑んで部屋の隅の空いた机を当然のように自分のものにした。

彼は何も要求しなかった。

要求しないものは拒否のしようがない。

 

扉が閉まってからブルーメンタールは気づいた。

 

艦隊司祭の長衣と支給された軍服は同じ裁ちだった。

軍服が僧服に似ているのではない。

僧服が軍服に仕立て直されているのだ。

 

その夜のうちに彼は抗議文を書いた。

規定の書式で論旨明快に三枚。

宛先の欄でペンが止まった。

 

抗議を受け付けるべき組織の名を彼はまだ知らされていなかった。

 

 

***

 

 

艦隊司祭が持ってきたものがある。

彼は一枚の書状を恭しく卓に置いた。

 

「艦隊の編制名をお預かりして参りました。三個艦隊、総数三万隻——乗り組む人員は目下辺境の各星系より集結中とのことにございます」

 

三万隻。

ブルーメンタールは書状より先に数字を検算した。

 

一隻あたりの乗員を低く見積もっても総員は一千万を超える。

同盟軍の最盛期が十二個艦隊で五千万だった。

三百人から始めた男の名簿の外から、かつての祖国の最盛期の軍隊の五分の一に相当する人間がやって来ようとしている。

 

どこから、と問いかけて彼は答えを半分知っていることに気づいた。

恩給を消された男たち。呼ばれなかった男たち。

この基地の門を叩いた三百人の後ろに同じ顔が一千万、並んでいるのである。

 

ただし、と彼は職業柄の但し書きも付けた。

 

一千万は今日の頭数ではない。編制表の上の完成時の数字である。

三百人が三千人になり三千人が三万人になる——その倍々の階段をこの計画は何年もかけて上るつもりでいる。

 

何年もかけるつもりの計画、という事実が彼にはいちばん薄気味悪かった。

 

分からないのは頭数ではない。仕組みの方だった。

 

「一つ、聞かせてもらう」

彼は書状を卓に置いた。

 

「一千万もの軍人の集結には星系政府の協力が要る。徴募の告知、名簿の照会、港湾、輸送——どれ一つ民間の互助組合ごときの手に負える仕事ではない。ついこの間まで民主共和政を戴いていた辺境の政府がなぜ貴様らのような胡散臭い坊主どもに協力する。施しを多少ばら撒いた程度で兵力を差し出すほど民主共和政の担い手は愚かではないぞ」

 

無礼を絵に描いたような質問だった。

彼は外交を知らない。知らないことを恥じてもいない。

 

司祭は「民主共和政の担い手」が既に消滅していることを丁重に無視した。

気を悪くした様子もなく静かに首を振る。

 

「施しはしておりません」

 

「では何をした」

 

「いろいろと」

 

それだけ言って司祭はどこか懐かしむような目をした。

 

「……皆様たいへんお喜びでご協力くださっております。複数の星系政府の方々も住民の方々も。それはもうこちらが恐縮いたしますほどに」

 

嘘をついている顔ではなかった。

人の顔を読むことにかけてブルーメンタールは名簿の次に自信がある。

 

嘘でないことの方が嘘であることより始末に悪い場合が世の中にはある。

それを彼はこの日覚えた。

 

「三個艦隊の艦隊名を順に——『ディス』『フリアエ』『レムレス』」

 

聞き慣れない音だった。

 

「旧い地球の言葉です」

司祭は教理を(そら)んじる声で言った。

「ディスは冥府を統べる神。フリアエは復讐を司る女神がた。レムレスは——鎮められぬままこの世を彷徨う死者たちにございます」

 

ブルーメンタールは書状から目を上げた。

 

「……冥府と復讐と死者か」

 

 

「なお——」

去り際に司祭は思い出したように付け加えた。

「御隊は編制の上では『第四聖団』と称されることになります」

 

「……第四?」

ブルーメンタールはその数字も聞き逃さなかった。

「第四があるということは第一から第三までが既にあるということだな。どこに。誰の下に」

 

司祭は微笑んだ。

この日いちばん、何も答えていない微笑だった。

 

命名を彼は拒否できなかった。

拒否する手続きがどこにも存在しなかったからである。

名のなかった灰色の艦列にその日から旧い地球の神々の名が三つ、旗のように立った。

 

 

***

 

 

命名の書状が届いた夜、ブルーメンタールは一人で針を持っていた。

 

机の上にはあの灰褐色の軍服があった。

どこの国のものでもない——まだ何者のものでもない、と彼が思うことに決めている軍服である。

左胸には徽章を留めるための空白だけが縫い残されていた。

 

卓の隅には書状に添えられていた袖章が一対、袋に入ったまま置いてある。

金糸で枝が刺繍してあった。

位階は袖の枝の数で示すのだと司祭は言った。星ではなく枝で。

 

星で階級を数えてきた男の袖にいずれ枝が生える。

今夜つけるのはそれではない。

 

その空白のちょうど裏側に彼は色褪せた布片を縫い付けていた。

十六年前に消えた国の同盟軍の徽章である。

 

針の運びは不器用で生真面目で一針ずつ確かめるようだった。

表からは何も見えない。

ただ心臓の上にだけ滅んだ国の旗が当たる。

 

縫い終えると彼は軍服を着て姿勢を正した。

鏡はこの基地のどこにもなかった。

 

 

***

 

 

後世の史家がこの結集について書くとき、答えはたいてい同じ一文に落ち着く。

 

民主主義の軍人たちは神権国家に集まったのではない。

一人の誠実な男の周りに集まりその男ごと運ばれたのである。

 

その男はかつてイゼルローンの遺児たちが選んだ共存の道を、ぬるい、と言い捨てて出た。

ぬるさを拒んだ誠実が十六年かけてどこへ流れ着いたか——それはもう記した。

 

彼の革命が今度は何を壊すことになるのか。

それを知る者はこのときまだ銀河のどこにもいない。

彼自身を、含めて。

 




次回、キベロン事件、勃発。

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