【キベロン事件(前編)――届かない法(新帝国暦十七年十二月八日)】
帝国の公文書に、「キベロン事件」という名の事件は存在しない。
存在するのは「ロフォーテン方面治安維持行動」である。
事件と呼べば罪が要り、戦闘と呼べば敵が要る。
帝国はそのどちらも認めなかったから、数千の住民の死は「治安維持行動」という単語の中に畳み込まれた。
この死に、事件の名を与えたのは、後世と、辺境の民と——帝国のものではないもう一つの「暦」であった。
経緯そのものは、後の軍法会議が事実を認定したとおりである。
辺境最奥部の孤児院と施療院をめぐる捜査は、書類という城壁に阻まれて動かなかった。
捜査は憲兵の管轄。令状が要るが、その令状は司法と軍務省の間を旅していた。
同じ星域には、憲兵とは別の系統で、ロフォーテン方面の守備隊が駐留している。
暴動と災害に即応するための部隊で、その指揮官には令状の要らない治安維持の緊急権限がある。
守備隊指揮官オイゲン・ドルスト准将は、令状が必要となる捜査権でできないことを、この治安維持権限の名目で強行した。
だが、惑星キベロンに住む者たちには、別の記憶があった。
教師。看護師。遺族会の世話役。市場の商人。配給所で列を整理していた女たち。
彼らの多くは、帝国の統治が始まってから十余年、選挙も、請願も、抗議も、いつしか遠い時代の習慣になっていた。
だが、忘れたのではなかった。
家に踏み込まれ、理由も示されず夫や息子が連れて行かれ、戻ってきた者の顔に殴打の痕を見たとき、長く沈んでいたものが、一斉に浮かび上がった。
自分の家に入るには理由が要る。
人を拘束するなら、なぜかを示せ。
罪を問うなら、証拠を出せ。
怒っていなかった者が怒り、黙っていた者が声を上げた。
鎮圧すべき相手の数は、強権を行使するたびに加速度的に増えた。
最初の投石をしたのは若者ではなく、配給の列を整理していた女たちだったと複数の記録が一致して伝えている。
帝国軍守備隊が、市民との衝突により被る損害は日ごとに厚くなった。
増援要請は、承認手続の中にあった。
そして、新帝国暦十七年の冬のある日、ドルスト准将は、一枚の命令書に署名する。
署名は、新帝国暦十七年十二月八日、正午。
着弾は、同日、午後四時十一分。
署名から着弾まで、四時間十一分。
以下の時刻は、すべてキベロンの地の時に依る。
***
【新帝国暦十七年十二月八日 一二〇〇時 着弾まで四時間十一分 キベロン周回軌道・守備隊旗艦】
命令書は、二枚である。
一枚目に、暴徒鎮圧のための緊急措置、とある。
二枚目に、治安維持権の条文番号が正確に引用されている。
起案は法務士官、確認は副長。決裁欄は一つきりだった。
オイゲン・ドルストの机の上には、
任官の年にオーディンの老舗で
捨てもせず、しまいもせず、置き続けている。
それが何を意味するのかを部下たちは知っていて、誰も口にしなかった。
「本国の令状は、まだ司法と軍務省の間を旅しておるそうだな」
副官は答えなかった。答えを求めた問いではなかった。
「令状、令状、令状。……敗残の民に、法の礼を尽くしてやる必要がどこにある。連中は負けた側だぞ。負けた側の分際で、九か月は書類で、いまは兵の血をもって、帝国を嘲笑っておるのだ」
彼は署名した。
インクが乾くまでの数秒、艦内は静かだった。
規律と、秩序と、帝国の威信。
どの言葉も、彼は正しく信じていた。
信じている言葉が命じる先を、彼はこの朝、初めて自分の手で選んだ。
「装填を始めさせよ」
命令は、適法だった。
【同日 一二四二時 着弾まで三時間二十九分 帝都レーヴェンシュテルン・軍務省】
同じ時刻、帝都は昼だった。
軍務尚書ウルリッヒ・ケスラーの机の上で、九か月目にして初めて、正しさが一ミリ動いていた。
内務省と司法当局へ宛てた、強制捜査の請求文書である。
辺境の孤児院と施療院は民政の管轄であり、軍務尚書の捜査権は一歩も踏み込めない。
帝国軍政の頂点にある男が、この件でできるのは、判を待つ側に回ることだけだった。
証言拒否の記録を積み、書類遅延の日付を並べ、内務と司法の双方の判を通る文面を法務官と七度書き直した。
これは籠城だよ、書類という城壁のな——そう言い続けてきた男の攻城槌が、ようやく門の形になりつつあった。
「対象施設の一覧は、これで確定か」
「はい。ロフォーテン星系はキベロン地方港区の二箇所を含め、計九八箇所であります」
「治安維持権を使えば早い、と言った者が省内にもいる」
ケスラーは、文書に軍務の判を捺しながら言った。
「私は使わん。」
明朝に発送、内務の合議に三日、司法審査に三日。
令状の効力発生は最短で十日後。
十日、と彼は思った。九か月に比べれば、瞬きのような速さだった。
法は、動いていた。ただし、書類の速度で。
このとき彼は、四千光年の彼方で何が装填されつつあるのかを知らない。
【同日 一三一三時 着弾まで二時間五十八分 鎮圧作戦後方・統合兵站部】
数字が、先に知った。
この作戦のため、戦域の補給は臨時の統合兵站に一元化されている。
鎮圧艦隊も、増援も、駐留の守備隊も、弾一発の請求まで、すべてが一つの卓を通る。
その卓に方面軍から差し出されていたのが、アルブレヒト・フォン・ミュッケンベルガー少佐である。
鎮圧作戦の兵站卓で、彼は補給系の即時流通記録に見慣れない一行を見つけた。
弾種の欄である。
「対地質量弾。大質量。軌道投下型。」
暴徒の鎮圧に使い道のあるはずのない弾が、この一時間で方面備蓄の三割も動いていた。
「……この弾薬移送は、何です」
誰にともなく、彼は言った。
気だるげな声のまま、目だけが記録の行を三度往復した。
演習の予定はない。移送の予定もない。
対地質量弾が三割動く用途を、彼は職業柄、一つしか知らなかった。
「守備隊に照会を。ボクの権限で通る回線で、一番速いやつです」
面倒ですねぇ、といつもなら続くはずの言葉は、続かなかった。
【同日 一三四〇時 着弾まで二時間三十一分 同】
照会の回答は、十九分で返ってきた。
作戦行動中につき弾薬移送の詳細は事後報告とする——以上、である。
発信元は守備隊司令部。
規定どおりであることが、回答のすべてだった。
「では、方面司令部に。作戦の中身は聞きません。あの弾種の使用予定の有無だけ確認を」
回線が繋がるまで六分。
繋がった先の当直士官は、丁寧に正確に答えた。
統合兵站部に、作戦事項への照会権限は認められておりません——。
「権限の話はしていません。数字の話をしています」
「規定上、同じことであります」
アルブレヒトは受話器を持ったまま、しばらく黙った。
捜査でできないことを治安の名でやる縫い目が、この星域のどこかで開いている。
そしていま、その同じ縫い目が逆向きに閉じていた。
法の穴を通る者と、法の壁に阻まれる者。
使っている法典は、同じ一冊だった。
【同日 一四一五時 着弾まで一時間五十六分 同】
上位者は、いなかった。
兵站総監は帝都で式典に列席中、次席は査閲で移動中。
方面の後方部長は回線の向こうで会議中だった。
どの不在も、正当だった。
悪意のある不在は一つもなく、だから責めることのできる不在も一つもなかった。
たらい回しの回線の保留音を耳に当てたまま、アルブレヒトは卓上で計算を続けた。
装填所要時間。軌道降下の弾道計算。想定される投下座標。
計算は彼の武器であり、いまはただの拷問だった。
式が解けるたびに、残り時間の答えだけが正確に減っていくのである。
計算を誤ると、人が死にます——それが彼の口癖である。
いま卓の上にあるのは、誤りではなかった。
正確な計算が、正確に人を殺しに行く途中だった。
そして彼の計算だけが、それを追い抜けずにいた。
【新帝国暦十七年十二月八日 一四二〇時 着弾まで一時間五十一分 帝都レーヴェンシュテルン・戦没者慰霊廟】
同じ頃、帝都の慰霊廟では、冬の追悼式が執り行われていた。
壇上で、少年皇帝が戦没者の名簿を読み上げている。
側近が代読を進言したが、少年が退けたことを、列席者は皆知っていた。
一つの名を読むたび、少年はわずかに間を置く。
その癖のぶんだけ、式は予定より長引いていた。
列席の将官の中に、兵站総監の姿もあった。
廟内での通信は、作法として、副官が切っていた。
読み上げられていく名は、すべて、数えられた死者の名である。
数えられる死は、こうして国家に悼まれる。
このとき四千光年の彼方で装填されつつあるものが何を作るのかを、廟の中の誰も知らなかった。
少年が名を惜しむぶんだけ式は長引き、兵站総監へ繋ごうとする声は、結局繋がらないままとなった。
【同日 一四四七時 着弾まで一時間二十四分 ロフォーテン隣接宙域・シェパード艦隊旗艦】
チェンイー・シェパード中佐は、この八日間、一発も撃っていなかった。
三つの港が、一発の砲声もなく武装を解いていた。
砲声の代わりに費やされたのは、延べ二百時間の通信と、数百の名前である。
呼びかける名を聞き、投降路を開き、武器を置いた者は罪に問わないと階級章を賭けて確約する。
回線の初日、返ってきたのは凄み声だった。
「帝国は、同盟人の顔を看板に借りる気か」
「貸していません。この顔は、高いので」
回線の空気が割れて、そこから先は人と人の話になった。
八日目のいま、彼は四つ目の港の老いた声と話している。
その途中で、若い幕僚が航跡図を差し出した。
隣宙域——ロフォーテン方面の守備隊艦艇が、二時間前から高軌道へ上がっているという一枚である。
鎮圧艦艇が暴徒から離れる方向へ動く理由を、幕僚は測りかねていた。
シェパードは図を一瞥した。
警戒配置の変更か、輸送の護衛か、単なる演習か。
断片は断片のままで、意味の形をしていなかった。
「後で見る」
と、彼は言った。
交渉は大詰めで、老いた声はいままさに梯子を降りかけていた。
後は、なかった。
【同日 一五〇九時 着弾まで一時間二分 鎮圧作戦後方・統合兵站部】
二報目の数字が、届いた。
残りの七割が、動いていた。
アルブレヒトは受話器を置いた。
置いて、もう一度取り、守備隊司令部の回線をじかに叩いた。
出たのは、朝と同じ当直士官だった。
規定の文言が、朝と同じ抑揚で繰り返され始めた。
「規定は知っています。管轄も、知っています」
声から、気だるさが消えていた。
「いま、こちらの流通記録をそちらに送りました。あの弾種に、鎮圧の用途はない。存在しないんです、そんな用途は。いいから——」
規定の文言が、三度目を始めた。
「——読めよ。数字を。人が死ぬんだぞ」
回線の向こうが、初めて沈黙した。
沈黙は四秒あり、それから上官に確認します、という声がして切れた。
アルブレヒトは受話器を握ったまま、自分の手を見た。
確認は、間に合わない。
それはもう、計算するまでもなかった。
彼に残された回線は、あと一本だけだった。
権限の壁の上を飛び越して帝都へ直接届く最急信——使えば軍歴に疵のつく種類の、最後の一本である。
彼は、それを取った。
【同日 一五二四時 着弾まで四十七分 帝都レーヴェンシュテルン・軍務省通信課】
最急信は四千光年の通信網を跳び越え、帝都の通信課に着いた。
受信時刻は、機械が印字した。
着弾の、四十七分前である。
分類は規定どおりに行われた。
発信者は兵站科の少佐であり、内容は作戦事項に関わり、したがって然るべき決裁権者の判断を待つ——通信文は封筒に納められ、決裁待ちの箱の上から三番目に置かれた。
箱は、廊下の突き当たりの決裁室の前にある。
決裁権者は会議中だった。
会議は、辺境の治安予算に関するものだった。
警報は、届いていた。
帝都は、知り得た。
封筒は、箱の中で静かに順番を待った。
誰も封を切らなかったことに、悪意は一片もない。
そのことが、この四十七分を、帝国史のどの悪意よりも重くしている。
【同日 一五四二時 着弾まで二十九分 増援艦隊・回廊航行中】
レオンハルト・リヒター中佐は、増援要請の文面を、三度読み返していた。
数字が、合わないのである。
要請は増援の急派を求めながら、同時に、増援の到着を待たず事態収束の見込みと書いている。
到着前に収束する事態に、なぜ増援が要るのか。
そして収束の見込みという語の隣に、鎮圧人員の不足を示す数字が正直に並んでいる。
足りない人員で、どうやって、到着前に収束させるのか。
リヒターは規律の男である。
文書の疑義は到着後に指揮官へ直接質すのが、規律の命じる手順だった。
彼は文面を畳み、手順に従い、疑念を到着まで保留した。
合わない、という以上のことは、何も言えなかった。
言えないことと、考えずにいられることとは別だった。
回廊の残り航程を示す数字を、彼はこの日、必要のない回数だけ見た。
【同日 一六〇〇時 着弾まで十一分 帝都レーヴェンシュテルン・軍務省】
ケスラーは、請求文書の最終葉に目を通し終えた。
対象施設一覧、十一箇所。
その三行目に、キベロン地方港区の住所が活字で並んでいる。
九か月かけて、法はようやくその住所に届く形を得た。
彼は満足せず、安堵もせず、ただ明朝の発送函の位置を確かめて文書を文箱に納めた。
インクは、もう乾いていた。
法が十日後に訪ねるはずのその住所に、残されていた時間は十一分だった。
【同日 一六〇四時 着弾まで七分 鎮圧作戦後方・統合兵站部】
兵站卓の傍らに、古参の曹長が一人、立っていた。
弾種と、総質量と、投下軌道。
その数字が何を意味するのかを知り、なお二十数年前のあの光を思い出せる年齢の男が、部屋に一人だけいた。
全銀河に流れた、あの光の映像である。
曹長は、絶句したまま、一語だけ落とした。
「……ヴェスターラント」
誰も、答えなかった。
アルブレヒトは受話器を耳に当てたまま、保留音を聞いていた。
部屋にあるのは保留音と、減っていく数字と、老兵の沈黙だけだった。
***
【同日 一六一一時 着弾】
キベロンには、地方港が一つあった。
倉庫が三棟あった。
役場の出張所と、畑と、新しい屋根の学校があった。
港を追われ、家を追われた人々が、この数週で最奥部の各地から流れ込んでいた。
屋根の下なら、と誰もが思った。
爆撃の前夜、この小さな港町には、数千の人間が眠っていた。
麦袋に手を合わせる老婆がいて、船影が見えると桟橋を走る子供らがいた。
最初に、空に白い筋が一本走った。
誰かが指さすより早く、二本目が現れた。
三本目も。
光が、先に来た。
最初の一発が地表へ届いた瞬間、港の一角で大地が上へ噴き上がった。
土と、鋼材と、石と、何であったかもう分からないものが、白熱した塊となって空へ昇った。
音は、その後から来た。
窓が砕けた。
地面が揺れた。
誰かが叫んだ。
その声が終わるより早く、次が落ちた。
七秒後、二発目。
さらに十一秒を置いて、三発目。
その後も、空から白い筋は消えなかった。
最後の一発が落ちたとき、最初の轟音はまだ遠い山肌を転がっていた。
爆撃は、四十秒で終わった。
港のあった場所には、黒い衝突孔と、めくれ上がった岸壁が残った。
倉庫のあった場所には、倉庫はなかった。
役場の出張所には、戸籍簿が保管されていた。
紙だけが燃えたのではない。
棚も、床も、基礎も、それらが置かれていた地面も、元の形では残らなかった。
死者の数は、数千――としか、どの記録にも書けていない。
数えるための名簿を収めた場所そのものが、失われたからである。
名を数えることすら許されない死が、この銀河には、ある。
***
警報が指揮系統を昇る速度は、質量弾が落ちる速度に、及ばなかった。
後世の歴史家は、この四時間十一分を、四半世紀前のヴェスターラントと並べて論じる。
ヴェスターラントには、阻止すべきではないと進言した者がいた。
それを黙認した者がいた。
つまりあの惨劇の周りには、阻止という選択肢を目の前に置かれ、それを退けた人間の意思が確かに存在した。
意思が存在したから、後世は罪を問うことができた。
四半世紀前、実行の前日に知らされた若き覇者は、黙認を選んだ。(*)
この日、その息子は、何も選ばなかった。
いや、選ばせて、もらえなかったのである。
父は選択を誤ったのかもしれない。
子には、誤るべき選択肢さえ、与えられなかった。
キベロンには、進言した者がいない。
黙認した者もいない。
署名した男は適法を信じ、警告した男は権限を持たなかった。
権限を持つ者たちは、会議に、式典に、あるいは移動の途上にいた。
警報が箱を出るより先に、キベロンが光った。
実行を選ぶ権限は、一人の手にあった。
だが、それを止めるために必要な権限と時間が、一人の手に揃うことは最後までなかった。
阻止という選択肢は、誰の目の前にも、一度も完全な形では置かれなかった。
止めようとした者には、止める権限がなかった。
権限を持つ者には、止めるべき事実が届かなかった。
手続きだけが、警告も、疑念も、必死の声も追い越して、最後まで走った。
ヴェスターラントを焼いたのは、悪意だった。
キベロンを焼いたのは、手続きだった。
悪意の要らない惨劇を進歩と呼べるのかどうかを、歴史家たちはいまも論じている。
***
シェパードの回線は、光のあと、しばらく沈黙していた。
「……中佐さん。今の光は、何だ」
老いた声が、訊いた。
シェパードは、答えを知っていた。
航跡図の一枚が、いまになって完全な意味の形をしていた。
知っていたから、言えなかった。
証明は、いつも、遅い。
彼のやり方なら防げたことが、隣の宙域で、いま、証明され終わっていた。
彼はこの日から先も軍服を脱がなかったが、なぜ脱がないのかという問いだけは生涯、脱げなかった。
***
リヒターの増援艦隊が到着したとき、すべては終わっていた。
眼下の惑星の、茶色い大地に、黒い染みがあった。
その中心には、昨日まで地図になかった黒い窪みが、いくつも口を開けていた。
染みの縁は、まだ薄く燻っていた。
出迎えたドルスト准将は、疲れてはいたが、恥じてはいなかった。
「治安維持権に基づく、適法な措置である。命令書の写しは、そちらに」
リヒターは、写しを受け取った。
読んだ。二度、読んだ。
規律。秩序。軍務の必要。帝国の威信。
彼が士官学校の教壇で信じ、部下に説き、自分の背骨にしてきた言葉が、一語も違わず、そこに並んでいた。
並んだ言葉の先に、黒い染みがあった。
「……何か、意見があるかね。中佐」
リヒターが答えずにいると、ドルストは、聞かれてもいない弁明を一つだけ足した。
「ヴェスターラントの下手人どもと同類と思うてくれるなよ。あれは、私怨に駆られた門閥貴族による虐殺だ。これは、法に基づく治安の回復である。……似ても似つかん」
リヒターは、長く沈黙した。
書類のどこにも、穴はなかった。
条文の引用は正確で、手続きは要件を満たし、権限は規定の内側にあった。
反駁すべき誤りが、一つも、なかった。
「——ありません」
自分の声が、他人の声に聞こえた。
問われて答えないことを、彼の規律は許さない。
規律は正しさを担保する——そう信じて生きてきた男は、規律の命じるままに、正しい答えを返した。
言うべきだったことは、一つも言えないままだった。
***
報せは、辺境を走った。
戦禍の前年、三人の若い士官に海賊から守られた集落がある。
餓えず、略奪されず、帝国というものを初めて信じかけた人々である。
爆撃の報を聞いた集落の長老は、長く黙り、それから一言だけ言った。
「……あの時の連中とは、別の帝国だ」
同じ帝国である。
同じ軍服、同じ法、同じ皇帝の同じ軍隊である。
それが同じに見えない、ということの中に、この事件のすべてが入っていた。
***
帝都が事態を知ったのは、公式の記録上、すべてが終わった後だった。
記録は、正しい。
決裁の箱が開かれ、あの最急信の封が切られたのは着弾から三時間後である。
封筒の上の受信時刻の印字だけが、情報は届いていたと無言で証言していた。
読んだ決裁権者が何を思ったかは、記録に残っていない。
残っているのは受信時刻と、開封時刻と、その間の四時間足らずの空白だけである。
摂政府は戦慄し、軍務省は凍りつき、謝罪と賠償と軍法会議が矢継ぎ早に決定された。
帝国は、事件を隠さなかった。それだけは、旧王朝と違った。
第一報を読み終えたケスラーは、しばらく、動かなかった。
彼の机の文箱には、明朝の発送を待つ令状請求書がそのまま眠っていた。
対象施設一覧の三行目の住所は、もう存在しなかった。
だが、辺境の茶色い大地の黒い染みは謝罪の速度では消えない。
そして帝都の誰一人、まだ気づいていない。
焼け跡へ最初に届いた救援の船が、帝国のものではなかったことに。
少年皇帝が、裁きの席の末席に座るのは、この数週ののちである。
次回、7月14日(火)20時更新予定。
――数えられぬ死は、数えられる罪になるのか。事件はなお続く。
そして、帝国が救わなかった人々のもとへ、名も告げずに手を差し伸べる者たちがいた。
(*)【原作出典について】
本話のヴェスターラント事件への言及は、原作小説第二巻『野望篇』に基づきます。
原作では、ラインハルトは攻撃前日に通報を受け、オーベルシュタインの進言を容れて黙認した、と描かれます。アニメ版とは経緯が一部異なりますが、本作では小説版を典拠としました。