銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

28 / 67
幕間 集う者たち(二)
四「あなたが要る」(新帝国暦十七年十二月)


【新帝国暦十七年〜十八年 リオ・ヴェルデ星系 惑星カッシナ・ある港町】

 

倉庫の夜は長い。

ダグラス・ホートンは巡回の足を止めた。

積み荷の固定索を指の背で弾いた。

 

張りが甘い。

二番と五番。

誰に命じられたのでもなく彼はそれを締め直した。

手が勝手に動く。

手が勝手に仕事を終える。

確かめてから彼は思い出したように息を吐いた。

 

ここは軍艦ではない。

辺境の港町の穀物倉庫である。

締め直した索を検分しに来る上官はどこにもいなかった。

 

夜の倉庫にも音はある。

換気扇の低い唸り、袋の中で麦の締まる音、桁の軋み。

艦の機関区に比べれば無音に等しい。

その無音の中で彼の耳には今も異音を拾う癖が残っていた。

 

旧自由惑星同盟軍一等整備曹長ダグラス・ホートン。

五十二歳。

軍歴は十九年。だがその軍歴を彼はもう十七年使っていない。

 

彼が生まれたとき戦争はすでに百年を超えていた。

物心のつく頃には近所の兄たちが順に徴られていった。

戦争は天候のようなものだった。

始まりを覚えている者は港のどこにもいなかった。

 

十六で徴募に応じ輸送艦の機関区から始めた。

最初の十年は華のない船を渡り歩いた。

機関は正直だった。

手をかけた分だけ応える。

抜いた分だけ止まる。

人よりも分かりやすかった。

 

戦争は彼にとって光ではなかった。

機関区に窓はない。

敵艦も味方の陣形も英雄の旗艦も一度も見たことがない。

彼の戦争は計器の針と過負荷の警報と機関の唸りでできていた。

 

アムリッツァのとき彼は三十二だった。

戦闘のあいだ機関区の人間は艦の腹の底でただ出力を保つ。

上で何が起きているかは艦の揺れ方で察するしかない。

あの日の揺れ方はそれまでのどの戦とも違った。

 

退艦命令は隔壁の向こうから来た。

彼は部下を先に通し最後に艙口(そうこう)をくぐった。

救命艇の小窓から見た自分の艦はもう艦の形をしていなかった。

機関は最後まで動いていた。

それだけが彼の誇りだった。

 

救命艇は満員で暖房が落ちていた。

凍えながら彼は頭の中で自分の機関を止める手順を繰り返していた。

もう存在しない機関の正しい止め方を。

 

その後は前線に戻らなかった。

後方の工廠に回され整備学校で教官を務めた。

十六から二十歳の子供たちに機関の扱いを教えた。

教えた顔は覚えないようにしていた。

覚えても卒業すれば艦に乗り、艦は沈むからだ。

 

教えることは決まっていた。

機関は嘘をつかないこと。

計器が読めなくなったときは計器ではなく配管を疑うこと。

慌てた手は慌てた分だけ人を殺すこと。

 

それでも覚えてしまった。

ランテマリオの戦報が届いたとき彼は沈没艦の一覧を指で辿り、教えた子供の乗った艦の名を探した。

マル・アデッタの後には沈んだ艦を探すより残った艦を数えるほうが早かった。

 

締めた索を拳で二度叩いて確かめる癖の子がいた。

癖ごと艦と沈んだ。

以来ホートンの手は締めた索を二度叩いてから離れる。

 

終戦は工廠で迎えた。

 

接収の日、帝国の技術士官が工廠の検分に来た。

若い士官は機関をひとつずつ回り計器を読み配管に手を這わせた。

長い検分だった。

終わると士官は書類に短く何かを記した。

片言の同盟公用語で、良い、とだけ言った。

 

武装解除の日、彼は預かっていた機関をひとつずつ止めて回った。

止め方にも正しい手順がある。

最後の一基が冷えるまで立ち会った。

それから手袋を行李に納めた。

 

機関は翌月艦ごと解体場へ曳かれて行った。

良い、と言われた機関の行き先がそれだった。

彼はそれを恨まなかった。

負けるとはそういうことだった。

 

除隊のとき恩給の証書を渡された。

支払い主体である国家が消えたのはその半年後である。

証書には終身、と刷ってある。

二つ折りの癖がついたまま紙は抽斗の中で古びた。

最初の支給日が来たときには問い合わせる先はもう無かった。

支払う国と一緒に訊ねる相手も消えていた。

 

恩給で何をするかは決めてあった。

入り江の見える星で小さな修理屋を開き弟子をひとり取る。

図面まで頭の中にあった。

図面は今も頭の中にしかない。

 

同じ紙を持つ者は港に大勢いて酒場で見せ合う者も竈にくべた者もいた。

ホートンはどちらもしなかった。

誰かが取り上げたのではない。

支払う国がなくなっただけだ。

 

帝国は彼を裁かなかった。

軍歴を罪に問う者も来なかった。

将官だった者は登録され動静まで記録されたと聞く。

曹長の名を控えに来る役人はついにひとりも来なかった。

 

一度だけ恩給を取り戻せると触れ回る男が来たことはある。

手数料を先に取りそれきり戻らなかった。

騙された者は多かったが届けを出す者は少なかった。

 

軍以外の職歴がなくとも除隊証明一枚だけで雇ってくれる仕事を渡り歩いた。

造船所の日雇い、氷倉の番、荷揚げ。

五十を過ぎて夜の穀物倉庫に落ち着いた。

落ち着いた、という言い方を彼は自分では使わなかった。

 

彼は怒らなかった。

怒っている者なら港にいくらでもいた。

彼らの怒りは五年で酒になり十年で沈黙になった。

ホートンの中には最初から怒りの置き場がなかった。

あったのは朝起きるたびに、今日も誰にも必要とされないと知っている一日である。

 

声を出さずに終わる日が月に幾日かある。

いつからか数えていた自分に気づいて数えるのをやめた。

 

市場では顔見知りの店で買う。

値切らず話さず釣りを受け取って帰る。

店の女が一度だけ旦那は何をしていた人かと訊いた。

船に乗っていた、とだけ答えた。

嘘ではなかった。

 

倉庫の若い主任はホートンの索の締め方を几帳面だと言って笑う。

几帳面なのではない。

緩んだ索は加速の途中で荷を暴れさせ、暴れた荷は隔壁を破り人を潰す。

そう教わりそう教えてきた手順が重力の底の穀物倉庫でまだ動いているだけだ。

だがそれを知る者はこの港にいない。

 

帳場には去年の暦が掛かったままになっている。

誰も掛け替えないのは日付を気にする者がいないからだ。

ホートンも気にしなかった。

 

若い主任はたまに夜食を分けてくれる。

悪い男ではない。

戦争の話を一度だけ訊かれ覚えていないと答えた。

それきり訊かれない。

 

夜が明ければ勤めを終え市場で安いものを買い昼に眠る。

夕方に起きてまた倉庫へ歩く。

その繰り返しを彼は数えるのをやめて久しかった。

 

***

 

港の酒場には決まった席で飲む一団がある。

 

終戦の年には卓を叩いて政府と帝国を罵っていた男たちだ。

五年目には罵る相手が互いになった。

十年目には黙って飲むようになった。

今は席だけがある。

 

議論には型があった。

帝国の統治は前の政府よりましだと言う者と、ましなことが一番腹に据えかねると言う者に分かれた。

決着は一度もつかなかった。

ホートンはどちらにも頷けた。

どちらにも頷ける者に発言の席はなかった。

 

いなくなる者もいた。

砲雷屋だった男はある年、船ごと消えた。

数年して帝国の艦隊が辺境の海賊を巣ごと潰したと報が回った。

それきり名前を聞かない。

旗を降ろさなかった連中の艦隊が壊滅したのはその少し前だ。

報の届いた夜、酒場は一晩だけ誰も何も言わなかった。

 

帝国の軍服を着られた者もいないではない。

教え子のひとりが三度目の審査でようやく通ったと風の便りに聞いた。

喜ばしいことだった。

喜ばしいことはそれ一件だった。

 

ホートンはどの席にも着かなかった。

罵る言葉も降ろさない旗も着る軍服も彼にはなかった。

夜に倉庫へ行き朝に帰る。

索の張りを確かめる手だけが昔のままだった。

 

数年前から港には見慣れない船が増えていた。

安い麦を運んでくる船、金を取らない診療の船、人手の要る職場を教えてくれる周旋屋。

どれも名乗らずどれも説教をしなかった。

消えた恩給の代わりに誰かが食と職を配っていると気づいた者は気づいたまま黙って受け取った。

ホートンもその一人だった。

 

周旋屋から回ってきた仕事はどれも彼の手に合った。

合いすぎることを彼は考えないようにした。

いま勤めている倉庫の夜番も元をたどれば周旋屋の口だった。

 

***

 

新帝国暦十七年の暮れ、港に難民船が入った。

 

ロフォーテン星系から来たという。

埠頭に降ろされる者たちは煤の匂いをさせていた。

歩ける者が歩けない者を担いだ。

名を呼ぶ声と呼ばれない名があった。

 

倉庫のひとつが避難所に変わった。

麻袋を積み直して壁を作り通路を切った。

ホートンは言われる前に動いた。

どこに何を置けば人が流れるか身体が知っていた。

知っていることを久しぶりに使った。

 

列の中に立ち方の揃った男が何人かいた。

背嚢の負い方と休めの姿勢で分かる。

自分と同じ側の人間だと分かることが何の役にも立たなかった。

 

難民の中に爪の間に油の染みた若い男がいた。

機関員の爪である。

艦はどうしたと訊きかけてやめた。

乗る艦のない機関員ならこの港にもう一人いる。

 

降りてきた老婆が埠頭の縁で立ち止まり振り返って空を見た。

空には何もなかった。

何もない空を老婆は長いこと見ていた。

 

刷り物が回ってきた。

一行目に死者、数千、とあった。

軌道からの爆撃だった、と二行目にあった。

 

刷り物はその惑星をキベロンと呼んでいた。

帝国の官報は方面と作戦の名で呼んだ。

同じ出来事に二つの呼び名があった。

港で通じるのは地名のほうだけだった。

 

数千、という数を彼は数として読めなかった。

沈没艦の一覧なら艦の名から顔が立ち上がる。

地名一つには立ち上がる顔がなかった。

 

ホートンは刷り物を二度読み畳んで隣の男に返した。

胸の奥を探ってみたが燃えるものは見つからなかった。

帝国への憎しみが立つはずの場所にただ広い空き地があった。

立ったのは問いだけだった。

――自分の十七年は何だったのか。

 

港の男たちは怒った。

やはりそうだったのだ、と何度も言い合う声をホートンは倉庫の壁越しに聞いた。

長い答え合わせが済んだような奇妙に晴れた声だった。

 

答える者のいない問いを彼は畳んだ刷り物と一緒に手放した。

翌日も倉庫へ行き索の張りを確かめた。

 

避難所には仕事が尽きなかった。

発電機が止まれば呼ばれ揚水の弁が渋れば呼ばれた。

手を貸すうち若い者が後ろに立って見るようになった。

訊かれれば教え訊かれなければ黙って直した。

教えるとき自分の声が昔の声になるのが分かった。

 

夜番のホートンには避難所の夜が聞こえた。

子供の泣く声はじきに止む。

止まないのは大人が声を殺す音のほうだった。

彼は聞こえない振りを覚え湯を沸かして黙って置いて回った。

 

湯を沸かすのは機関区の癖である。

交代の前に次直の者へ湯を残す。

誰に教わったかはもう覚えていない。

 

***

 

難民には配給が要る。

町の備蓄は三日で底をついた。

 

四日目の朝、名を掲げない船が着いた。

麦袋に荷主の印はなく降ろす男たちは所属を言わなかった。

男たちは埠頭に野営し火を焚き当番を立てて眠った。

天幕の張り方が揃っていた。

揃え方を教える者はどこにも見当たらなかった。

訊ねた助役に年嵩(としかさ)の男が短く答えた。

 

「同胞の互助です」

 

それだけだった。

説教はなく旗はなく募金箱も置かれなかった。

船は荷を降ろすだけ降ろして受取人の名簿も取らずに離れた。

 

ホートンは荷役に雇われた。

降ろす順序に見覚えがあった。

重量物と生鮮品を分け医薬品の箱だけを別にまとめる。

荷の流れに一度も交差がない。

艦隊の補給科と同じ手際だった。

 

誰も号令をかけないのに列は乱れなかった。

助役に答えた年嵩の男が一度だけホートンの手元を見た。

 

ホートンはそれを不思議だとは思わなかった。

懐かしいと思った。

 

配給の列は長かった。

ホートンは袋を渡す側に立ち渡す手が数を数えていることに途中で気づいた。

数えるなと言っても手が数える。

 

彼は日当を受け取り帰りに麦を一袋持たされた。

断る理由を探したが見つからなかった。

その晩の麦の粥はうまかった。

軍の麦粥はまずかった。

まずいと言い合う相手がいくらでもいた。

今の粥はうまく部屋には彼のほかに誰もいなかった。

 

***

 

年が明けてから港の顔ぶれが減りはじめた。

 

最初に消えたのは酒場の若い連中だった。

仕事が決まったと言い行き先は言わず船に乗った。

決まった席の一団からもひとり欠けふたり欠けた。

残った者は欠けた席のことを話さなかった。

 

誰も引き留めなかった。

引き留める言葉に使える暮らしがこの港にはなかった。

 

消えた者から便りは来なかった。

悪い便りも来なかった。

食えているのだろう、と残った者は言いそれ以上は言わなかった。

食えている、がこの港で口にできる最上の消息だった。

 

***

 

春になって港に帝国の出張所が開いた。

 

倉庫街の外れの空き家に帝国の旗が立った。

机がふたつ運び込まれ賠償請求の窓口が置かれた。

開いた朝にはもう列ができていた。

 

爆撃の生き残りと遺族が朝から列を作った。

列は静かで長かった。

並ぶのは年寄りと女が多く若い者はこの冬のうちに減っていた。

掲示の紙が壁に貼られ読める者が読めない者に小声で伝えていた。

 

列の前のほうで時折声が高くなった。

高くなった声は長くは続かず紙をめくる音に戻った。

 

ホートンが付き添ったのは埠頭で長いこと空を見ていたあの老婆である。

倉庫の避難所で湯を置いて回った相手のひとりだった。

書式の字が細かくて読めないからと頼まれた。

断る理由は今度も見つからなかった。

 

避難所には遺影を持つ者が多かった。

持って出られたものがそれだけだった者たちである。

老婆の孫はキベロンの工場に出ていたという。

遺影はその孫のものだった。

 

朝は冷えた。

老婆は一張羅の外套を着て風呂敷を胸に抱えて歩いた。

書式より先に遺影を持って出る支度をしていた。

 

窓口の係官は若く丁寧だった。

書式を三枚渡し書き方を教え老婆の耳に合わせて同じことを二度言った。

悪い役人ではなかった。

 

ホートンが代筆した。

生年の欄、住所の欄、続柄の欄。

孫の名を三枚に三度書かされた。

書くたびに老婆はその手元を覗き込んだ。

三度書いた名を手が覚えてしまった。

 

老婆は答えられる問いには早口で答えた。

生まれた年、住んでいた町、家族の数。

答えられない問いの前では黙ってホートンの袖を握った。

 

死亡年月日の欄まで来て係官の手が止まった。

証明の書類が要る、と係官は言った。

規則である。

証明を出せる役場はキベロンで焼けていた。

役場を焼いたのは証明を求めている側の軍だった。

 

再発行はできないのか、とホートンは訊いた。

発行元の役場が現存しない場合の手続きは追って告示される、と係官は紙を読み上げた。

読み上げる紙の端が指の汗で波打っていた。

 

老婆は風呂敷を解き遺影を出した。

孫の顔ならここにある、と言った。

 

遺影の中の孫は若く写真館の椅子に浅く腰掛けていた。

出稼ぎに出る前に一枚だけ撮ったのだという。

 

係官は遺影を見て目を伏せた。

写真は証明にはならないんです、と言った。

規則ですので、と言った。

それ以上のことを言う権限はこの若者にはなかった。

 

書式には証明書類の番号を写す欄があった。

その欄だけが埋まらないまま残った。

係官は書式の控えに受付の印を捺した。

続きはいつでも、と言った。

いつが来るかは言えなかった。

 

老婆は遺影を包み直し書式を畳み礼を言って列を出た。

怒らなかった。

順番を待つ人々の邪魔にならないよう壁際を選んで歩いた。

窓口ではもう次の番号が呼ばれていた。

 

***

 

帰り道に麦の配所がある。

 

互助の男たちはいまも港の一角で炊き出しを続けていた。

列はこちらにもあったが進みは速かった。

配る側の顔ぶれはあの冬から少しずつ入れ替わっていた。

年嵩の男だけが変わらずにいた。

 

炊き出しの椀は熱かった。

老婆は椀を置く場所を探し卓の端に風呂敷を先に置いた。

結び目が緩んで遺影の角が覗いた。

老婆は椀を両手で抱え湯気の中で長く息をついた。

 

配所の年嵩の男がそれに気づいた。

 

男は何も訊かなかった。

名前も続柄も書類のことも。

少し借ります、とだけ言って遺影を受け取り卓の端で裏を上にした。

 

書き終えるまで長くはかからなかった。

筆跡は丁寧で迷いがなかった。

同じ月日を幾度も書いてきた手だった。

 

返された遺影の裏には月日がひとつ手書きで記されていた。

爆撃の日だった。

年号は書かれていなかった。

 

老婆はそれを長いこと見ていた。

それからたしかに孫の命日はこの日だと誰にともなく言った。

男はもう炊き出しの持ち場に戻っていた。

 

***

 

帰りの坂道で老婆は何度か立ち止まった。

 

立ち止まるたびに風呂敷を少し開け裏の月日を確かめた。

消えていないかを確かめるように。

畳んだ書式のほうは一度も開かなかった。

 

坂の途中で振り返ると庁舎の列と配所に並ぶ人々、その上に立つ煙が同じ視界に入った。

どちらの列にもまだ人が並んでいた。

 

ホートンは荷を持ち黙って歩調を合わせた。

 

***

 

男が戸口に立ったのは老婆を送った日から幾日も経たぬころである。

 

中年の事務員のような男だった。

経典も徽章(きしょう)も持っていなかった。

男は頭を下げ書類の綴りを数枚繰って顔を上げた。

 

「ダグラス・ホートン一等整備曹長ですね」

 

十七年ぶりに階級で呼ばれた。

 

役所がついに控えに来なかった名前がその書類には載っていた。

 

書類の綴じ方に見覚えがあった。

上綴じで角を落とし頁の隅に通し番号を振る。

同盟軍の報告書の様式である。

男はそれを当たり前のもののように扱っていた。

荷役の日、年嵩の男が一度だけ自分の手元を見たことをホートンはそのとき思い出した。

 

男の質問は事務的だった。

扱った機関の型式をいくつか、整備資格の等級、教練を受け持った経験の有無。

答えは淀みなく出た。

十七年口にしたことのない型番が順序も違えずに出てくることにホートンは自分で驚いた。

男は頷きながら書き取りその空白をどう過ごしたかは一度も訊かなかった。

 

教練の経験を訊かれたとき指で辿った沈没艦の一覧が束の間だけ戻ってきた。

「あります」とだけ彼は答えた。

年数も人数も言わなかった。

男もそれ以上は訊かなかった。

 

質問は細部に及んだ。

減圧下での作業歴、規格の合わない部品で代用した経験、限られた工具での機関の応急修理。

役所の調べなら決して訊かない種類のことだった。

 

三つ目の機関の型式を訊かれたときホートンは少しだけ目を上げた。

旧同盟軍でも扱える者の少なかった機関である。

 

「まだ動いているのか」

 

男は答えなかった。

その沈黙だけで充分だった。

教範だけで扱える機関ではない。

それだけは十七年経っても変わらない。

 

神の話は一度も出なかった。

ホートンも訊かなかった。

 

行き先の方角を男が告げたときホートンは頭の中で残りの道を数えた。

帝国の軍に五十二の整備曹長の席はない。

あちらは自前の子を毎年育てて出す。

ハイネセンは遠い。

あそこも人を拾えるほど豊かな国ではないと聞く。

数え終えるのに時間はかからなかった。

 

男は書類を閉じまっすぐにホートンを見て言った。

 

「あなたが要る」

 

ホートンはすぐには返事をしなかった。

返事の代わりに湯を沸かした。

湯呑をふたつ出すのに棚の奥を探した。

客というものが長く来ていなかった。

 

男は急がなかった。

湯が沸くまで二人は黙って座っていた。

 

やがてホートンは茶を淹れた。

男は出された茶を両手で持って飲んだ。

うまいともまずいとも言わなかった。

 

帰り際、男は戸口で一度だけ振り返った。

 

「返事は急ぎません、曹長」

 

十七年ぶりの階級は一度きりではなかった。

 

男は紙片を一枚残していった。

港の外れの周旋屋の住所が書いてあるだけだった。

期日は書いていなかった。

 

***

 

部屋は静かに戻った。

卓の上に湯呑がふたつ残っていた。

ふたつ並んだ湯呑をこの部屋は久しく見ていなかった。

 

男が帰ったあとホートンは押し入れへ向かった。

途中、机の前を通った。

抽斗の中には支払われなかった恩給の証書がある。

彼は開けなかった。

 

押し入れの一番奥に軍装の行李はあった。

蓋の埃を払うと畳んだ制服の肩に階級章がついたままになっていた。

外せと言われた覚えはなく外す理由もなかった。

制服の上から手袋を取り出す。

十七年触っていなかった。

 

右手を入れ左手を入れた。

 

手袋はまだ手に馴染んだ。




――焼け跡に、名を書きにくる者たちがいる。次回、幕間『白い外套(がいとう)の少女』
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。