銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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重い話が続きましたので、今回は少し時間を戻します。
ハイネセンの、ある晴れた日の話です。


【番外編】ユリアン&カリン
【番外編】六月一日 ユリアンとカリンの結婚式(新帝国暦十六年五月)


【新帝国暦十六年五月 惑星ハイネセン 自治政府庁舎・事務総監室】

 

 

式の十日前、事務総監室の扉に、手書きの紙が貼り出された。

 

「式典準備本部」

 

貼ったのは、バーラト自治政府事務総監のアレックス・キャゼルヌ本人である。

 

事務総監の机は、どこの部署にも属さない紙が、最後に流れ着く場所である。

議長の結婚式は、どこの部署にも属さなかった。だから、ここに来た。

 

「十五年前――」

 

キャゼルヌは、集まった面々を見回して言った。

 

「ヤンの奴の式は、ひどいもんだった。戦時で、何もかも間に合わせだ。式服も、料理も、日取りもだ。当人たちは満足そうにしてたがな。段取りを引き受けたおれは、満足しとらん」

 

彼は卓を、指の関節で叩いた。

 

「今度こそ、まともな式をやる。十五年、待った」

 

拍手をしたのはポプランで、あくびをしたのはアッテンボローだった。

 

 

***

 

 

本部長の権限は、発足から三時間で形骸化した。

 

妻のオルタンス・キャゼルヌが、娘二人を連れて乗り込んできたからである。

 

「あなたは数字と輸送だけ。花と、料理と、席次決めは、わたしがやります」

 

「おれが本部長だぞ」

 

「ええ。ですから、決裁だけなさって」

 

事務総監は決裁した。

判を押さん方が高くつく書類というものが、この世にはある。

二十数年で、いやというほど学んだ。

 

 

***

 

 

第一回準備会議の議題は、一つだけだった。

 

「作戦名『晴天』。目的、六月一日〇八〇〇より一四〇〇にわたり、対象の厨房侵入を阻止する。対象一名。コードネーム――『記録官』」

 

読み上げたのはキャゼルヌである。

二十数年前、艦隊の作戦要域図を前にしたときと、口調は寸分変わらなかった。

ただし状況図の代わりに、卓上にあるのは式場の見取り図であった。

 

「まず、彼我の兵力比を確認したい」

 

「敵、一名」バグダッシュが情勢を報告した。

「味方、この場の全員。……数の上では、圧倒的優位であります」

 

「その優位を、二十年ひっくり返され続けているのだがな」

 

「善意は、令状で止められません。摘発もできません。何しろ、罪状がない」

 

「陽動はどうだ」ポプランが身を乗り出した。

「当日、記録席から離れられない用事を作る。たとえば――」

 

「規則で封じます」

 

ムライが、口を開いた。

「式次第に一条、加えればよい。当日の厨房立入は、衛生講習の修了者に限る、と。講習は昨日で締め切ったことにする」

 

「事後に作った規則で人を縛るのは、いかがなものですかな」

 

「縛るのではない。手続きを、整えるのだ」

 

旧ヤン艦隊の頭脳が結集し、およそ一時間で、銀河史上もっとも下らない作戦計画が完成した。

情報、陽動、手続。

かつて皇帝(カイザー)ラインハルトの大侵攻を相手に渡り合った男たちが、いま一人の女性の料理を止めるために、全力を出していた。

 

 

結論から言えば、計画は、発動されなかった。

 

茶を運んできたオルタンスが、卓上の書類を一瞥して、言ったからである。

「フレデリカさんなら、今朝、うちにいらっしゃいましたよ」

 

室内が凍った。

 

「お料理は、何を持っていけばいいかしら、って。ですから、お願いしたんです。当日は、記録を。あなたにしか頼めないことだから、って」

 

「……それで」

 

「喜んでくださいましたよ。では書式を作ります、って」

 

オルタンスは、茶器を配り終えて、夫の隣に座った。

 

「知っているんですよ、あの人も。ご自分の腕前くらい。……知らないのは、あなたたちが十五年も、知らないふりを続けてきたことのほうです」

 

作戦「晴天」は、発動前に終戦を迎えた。

 

 

***

 

 

第二の問題は、誰も持ち込まないうちに、向こうからやってきた。

 

受付名簿の「新婦側・名代」の欄に、二百四個の丸がついて戻ってきたのである。

 

薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊、最後の戦闘における生存者、二百四名。

全員が、亡き連隊長の名代として花嫁と入場する権利を主張した。

 

「全員で歩けるか。通路の幅を考えろ」

 

キャゼルヌの正論は、二百四人の白兵屋には通じなかった。

廊下の幅などというものを考えて生きてきた連中なら、そもそも薔薇の騎士になっていない。

 

決着をつけたのは、花嫁本人だった。伝令に、一言だけ持たせた。

 

「全員でいい。ただし、あたしの後ろを一列でついてくること。隊列を乱した者は、あたしが直々に『説得』する」

 

二百四人は、十数年ぶりに、連隊長の号令に従うときの顔をした。

 

 

 

――そのころ、事務総監室の隅では、薔薇の騎士(ローゼンリッター)の元連隊長リンツと、ポプランが、十三年越しの三次元チェスを再開していた。

その勝敗を種に、アッテンボローが賭場を開いた。三日目にムライが摘発した。

 

没収帳簿の三十七行目の賭け主名義には、「ム」とだけ記されていた。

 

 

***

 

 

最後の議題は、婚姻届の手続だった。

 

自治政府の婚姻届は、評議会議長の名で受理・公証され、発効する。

もっとも、今回の届出人は、評議会議長ユリアン・ミンツ、その人である。

 

「自分で自分に婚姻届を出して公証した議長、として歴史に残る気か」

キャゼルヌの問いに、新郎は困った顔で笑うだけだった。

この男は、こういうときに限って役に立たない。

 

解決したのは、記録官だった。

 

「自治政府基本法第286条。議長が当事者となる事務については、自治政府評議会議員の過半数の同意を得て、記録官が議長の職務を代行できます」

 

フレデリカは、手元の端末から顔も上げずに言った。

 

「まずは臨時評議会を招集して、過半数の同意を得ましょう。

議題は、『議長の婚姻届の受理と公証』です。」

 

 

***

 

 

【新帝国暦十六年六月一日・早朝 ハイネセンポリス港湾管制区】

 

 

その朝、ハイネセンの空は、気象制御の予定表どおりに晴れていた。

 

式は八時からである。カリンは、六時半までの航空救難待機を、自分から外さなかった。

結婚するのは八時から、六時半までは仕事でしょ、というのが本人の言い分であった。

 

待機明けにそのまま式場へ向かえるよう、同僚たちが管制区の更衣室を、勝手に花嫁控室に仕立てていた。

 

六時十二分、沿岸海域から遭難信号。民間の釣り艇、親子二名、機関停止。船体浸水、漂流中。

潮流は沖向き。最寄りの救難艇、到着まで一時間四十分。

 

当直表の最寄り待機者は、一名。

カーテローゼ・フォン・クロイツェル。

 

あと十八分で、待機が明けるはずだった。

 

管制官が受話器を持ったまま固まっていると、背後で更衣室の扉が開いた。ドレスの上から飛行装具を着けた花嫁が、髪を留めながら歩いてくる。

 

「あら、聞こえてたわよ。座標ちょうだい」

 

「い、いえ、しかし、本日は」

 

「親子二人が浮いてるんでしょ。式は逃げないけど、潮は逃げるの」

 

彼女は管制卓から座標を引ったくり、走りながら言った。

 

「議長には伝えといて。――少し遅れるって。慣れてるでしょ、あの人、待つのは」

 

カリンが格納庫へ走り去ったあと、待合室の長椅子から、一人の男が立ち上がった。

 

オリビエ・ポプラン。

本来は、待機明けの花嫁を式場まで送り届けるために来ていた男である。

 

「……まったく。十三年前から、探しに行く役は俺かよ」

 

救難当直ではない。だが、救難飛行の資格も、腕も、まだ失ってはいなかった。

 

彼も格納庫へ向かった。

 

 

***

 

 

式場には、七時前に連絡が入っていた。

 

新婦、海難救助のため出動。帰着時刻、未定。

 

開式予定時刻の十分前になっても、まだ帰投の報告はなかった。

 

四百人の来賓を前に、進行表は白紙となった。

 

延期するか。

来賓を帰すか。

 

周囲が相談を始めるより先に、ユリアンが言った。

 

「式は、彼女が戻ってから始めます」

 

「しかし議長、帰着の時刻が」

 

「待ちます」

 

即答だった。

 

それ以上、誰も異論を言わなかった。

 

司会者は壇に上がった。

 

「新婦の到着まで、しばしご歓談ください」

 

それが、まずかった。

 

四百人の来賓の多くは、かつて軍人だった。

非常時におとなしく歓談する訓練を、誰も受けていない。

 

三十秒後、結婚式場は作戦司令室になりつつあった。

 

通信畑の者が端末を取り出し、港湾管制の公開情報を拾い始めた。

航空隊出身者が壁面表示に沿岸図を呼び出した。

会場係が止めようとしたときには、もう救難地点に赤い印がついていた。

 

別の誰かが風向と潮流から漂流位置を計算し始めた。

元軍医は遭難者の収容先を確認し、補給屋は頼まれてもいないのに救難機の航続時間を計算した。

 

 

「誰が指揮を執ってる」

キャゼルヌが訊いた。

 

「誰も」

アッテンボローが答えた。

 

「全員、座らせろ」

キャゼルヌが言った。

 

「どうやって」

 

数秒の沈黙があった。

 

最初にアッテンボローがムライを見た。

最後には、本人以外のほぼ全員が見ていた。

 

ムライは、ため息もつかなかった。

壇に上がり、咳払いを一つした。

 

「まず申し上げます。新婦の行動に、規律上の瑕疵はありません」

 

四百人が静かになった。

 

「救難義務とは、予定された私事に優先するものです。そもそも規律とは、予定どおりに行動することではありません。何を優先すべきかを誤らぬためにあります。そこで、規律について三点」

 

来賓席のアッテンボローが呻いた。

 

「三点で済むもんか。おれは知ってるぞ」

 

 

***

 

 

高度六百。ポプランの機は、弟子の機の右後方についていた。

 

教官の随伴は、規程にない。規程にないことをやるのは、この男の教程の第一章である。

 

「見えたぞ、十一時方向。……ほう、ちゃんと発煙筒を焚いてる。感心な親子だ」

 

「回収はあたしがやる。教官は上で見てて」

 

「へいへい。――おい、カリン」

 

「なに」

 

「言っとくがな、遅刻の言い訳は俺が考えてやる。十三年前、お前を探し回った男が、今日は式場で待ってるんだ。今度は、すぐ見つかる場所に降りろ」

 

短い沈黙が、回線に流れた。

 

「……見つかる場所で待ってなさい、って言っといて」

 

「自分で言え。もうすぐ亭主だ」

 

収容作業は、十一分で完了した。釣り艇の親子は、救助者が花嫁衣装であることに気づいて、遭難よりも恐縮した。

 

「よし。――花嫁殿、帰投針路へ」

 

「言われなくても」

 

二機は翼を翻した。ハイネセンの朝日が、白いドレスの肩の飛行章に、短く反射した。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十六年六月一日 惑星ハイネセン 自治政府庁舎・大広間】

 

 

壇上では、ムライが話し続けていた。

 

港湾管制の公開情報は、いつの間にか会場の壁面に転送されている。

 

 遭難艇発見。

 接近。

 収容開始。

 一名収容。

 

報告が更新されるたびに、ムライは話を止めた。

四百人が壁面を見上げ、拍手をし、また静かになる。

すると彼は、寸分違わぬ調子で続きを始めた。

 

四十分が過ぎたころ、最後の表示が切り替わった。

 

 遭難者二名、収容。救難機二機、損傷なし。帰投中。

 

四百人の参列者が、一斉に立ち上がった。

 

拍手が起こり、口笛が鳴り、誰かが「よし」と卓を叩いた。

 

救難地点までの距離を計算していた者が端末を閉じた。

潮流図を出していた者が表示を消した。

いつの間にか作られていた帰投予想時刻の一覧にも、「収容完了」の文字が入った。

 

ムライは、全員が席に戻るのを待った。

 

それから、何事もなかったように続けた。

 

「――以上が規律の第一の意義でありますが、本題はこれからです」

 

来賓席のアッテンボローが、深く息を吐いた。

 

「ほら見ろ。四十分かけて、まだ第一点じゃないか」

 

会場に笑いが起こった。

 

だが、誰もムライを止めなかった。

 

彼が話しているかぎり、四百人は、少なくとも席には座っている。

 

 

***

 

 

花嫁は、開式予定を九十五分過ぎて到着した。

 

純白のドレスの肩に、飛行章がついたままだった。

本人はそれに気づき、一度は外しかけた。それから考え直して、つけ直した。

 

「上等じゃない。遅刻の理由としては、悪くないわ」

 

扉の前で、キャゼルヌが腕を差し出した。ポプランも差し出した。リンツも差し出した。

 

三次元チェスの勝敗は、二勝二敗一引き分けのまま、今朝の騒ぎで中断されていた。

 

カリンは三本の腕を順番に見て、それから言った。

 

「あたしは一人で歩ける」

 

三人の男は、驚かなかった。二十九年間、この娘はそうやって歩いてきたのである。

 

だが彼女は扉に向き直る前に、記録席から立ってきた女性の前で足を止めた。

 

「――フレデリカさん。お願いしても、いい?」

 

フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、一瞬だけ目を見開いた。

 

それから、何も言わずに腕を貸した。

 

義理の縁も、血の縁もない。あるのは、父を喪った娘と、夫を喪った女が、同じ艦隊の人々の思い出を分け合ってきた十三年だけである。

 

二人は、それで足りた。

 

二人の後ろには、二百四人の男たちが、一列になって続いた。

 

今日ばかりは、誰一人、隊列を乱さなかった。

 

 

***

 

 

広間には、薔薇が二百四本、飾られていた。

 

花屋の請求書は存在しない。今朝、受付に一人ずつ現れた男たちが、一本ずつ置いていったからである。

 

薔薇の騎士連隊、最後の戦闘における生存者、二百四名。全員が負傷し、全員が生き延びた。

 

その全員が、今日、この広間にいた。

 

連隊長の娘の式に、案内状は二百四通、出されていた。

差出人はキャゼルヌ事務総監。

宛名書きはフレデリカ記録官。

二百四の名前を、彼女は台帳も見ずに書き上げたという。

 

最前列に、席が二つ、空けてある。

 

席次表には、こう刷ってあった。

 

  ヤン・ウェンリー

  ワルター・フォン・シェーンコップ

 

一方の席には、古い黒ベレーと、湯気の立つ紅茶。

 

もう一方の席には、薔薇が一輪と、封を切ったばかりの強い酒。

 

受付には、もう一つ、届き物があった。

 

帝国の定期便で帝都から運ばれてきた、白い花の一箱である。

差出人の名は、どこにもなかった。

 

バグダッシュが調べ、手帳に何かを書き、書いた頁を自分で閉じた。

 

フレデリカは花を一目見て、式壇の脇に飾るよう、黙って頷いた。

 

誰も、何も聞かなかった。

 

 

***

 

 

開式の辞は、司式者が述べた。

 

司式者は、記録官である。

 

この国には、議長より上の官職はない。

だから自治政府基本法は、議長自身が当事者となる事務について、評議会議員の過半数の同意を得て、記録官がその職務を代行できると定めていた。

 

臨時評議会の採決は、バーラト自治政府の開設後初めての、全会一致だった。

 

婚姻届の受理と公証を代行するフレデリカに、二人はそのまま、式の進行も頼んだ。

異存のある者は、どこにもいなかった。

 

 

「本日の日取りを聞いたとき、考え直すようにと言った方も、おいでです」

 

フレデリカは、手元の書式から顔を上げた。

 

「わたくしも、一晩、考えました。……考えて、思い出しました。主人は、宴席を欠席するような人では、ありませんでした。あの方も、です」

 

視線が、最前列の二つの席へ向いた。四百人の視線が、それに続いた。

 

「今日は、あの人たちの席がある日です。――開式いたします」

 

 

***

 

 

誓約の場面で、進行が一度、止まった。

 

「誓いますか」と司式者が問う、その前に、花嫁が新郎に向き直ったからである。

 

「言っておくけど。黙ってうなずいたりしないで、はっきりおっしゃい」

 

会場の古参たちが、いっせいに吹き出した。十三年前、格納庫でこの命令を受けた男は、あのときと同じ顔で、あのときより大きな声で答えた。

 

「誓います」

 

「あたしも」

 

それから花嫁は、四百人に聞こえる声で、しみじみと言った。

 

「――民主主義って、すてきね。市民が、議長に命令できるんだもの」

 

拍手と笑いが収まるより先に、司式者が「では」と言い終わるより先に、花嫁が新郎の襟を引き寄せた。

 

万雷の拍手の中で、アッテンボローが立ち上がって叫んだ。

 

「ちゃんと儀式をすませたか!」

 

「すませました!」

 

新郎が叫び返し、会場が沸騰した。議長の耳は、首まで赤かった。

 

 

***

 

 

ケーキ入刀には、樹脂の鞘をかぶせた戦斧(トマホーク)が使われた。

 

二百四人の白兵屋が、新婦の構えに、遠慮のない採点を飛ばした。腰が高い。左が甘い。誰に習った。

 

「あんたたちにでしょうが」

 

切り口は、定規で引いたようにまっすぐだった。

 

空の飛び方は、父の友に習った。

 

斧の振り方は、父の部下たちに、一人一手ずつ習った。

 

父からは、何ひとつ習っていない。――それでも今日、この広間で彼女の両手にあるものは、すべてあの男から来たものだった。

 

バグダッシュが手帳に記載した。祝宴用資機材の取扱訓練、実施。

 

来賓席の隅では、ボリス・コーネフが、今日こそ情報代の請求を切り出そうと三度、席を立ち、三度、乾杯に巻き込まれて果たせずにいた。

 

リンツは、隅の席でスケッチブックを開いていた。誰も中身を覗かなかった。

 

 

***

 

 

「新婦の、父親の話をする」

 

祝宴の半ば、ポプランが壇に立った。手には、酒でなく、一枚の紙があった。

 

「あの不良中年はな、遺言ってやつを、ちゃんと用意してやがった。気取り屋だからな。――ただし、聞き取ったのは俺たちじゃない。敵さんだ」

 

会場が、静かになった。

 

「最後の白兵戦のあと、帝国軍の従軍記録に残ってた。講和のあとで、こっちに渡された。……あいつらしいだろう。遺言まで、敵に書き取らせやがった」

 

ポプランは紙を広げた。だが、最初の一行を読んだあとは、紙を見なかった。

 

読み上げる声の向く先には、最前列の空席があった。薔薇と、強い酒の置かれた席である。

 

「ワルター・フォン・シェーンコップ、三七歳、死に臨んで言い残せり――わが墓碑に銘は要らじ、ただ美女の涙のみ、わが魂を安らげん、と」(*)

 

読み終えても、彼はしばらく、空席から目を離さなかった。

 

それから初めて、花嫁を見た。

 

「……注文の品だ。よく見とけ」

 

カリンの頬を、涙が伝った。

 

二百四人の男たちが、音を立てずに、一斉に起立した。

 

誰も慰めなかった。誰もハンカチを差し出さなかった。

 

それが墓碑銘の成就であることを、この広間の全員が、知っていたからである。

 

沈黙を破ったのは、アッテンボローだった。

 

「本人は生前、修辞が決まらん、おれに代筆させたほうがましだった、とぼやいていたそうだがな」

 

彼はグラスを掲げた。

 

「言っておくが、代筆はせんぞ。――あれで完成品だ」

 

 

***

 

 

楽団が、次の曲の前奏を弾き始めた。

 

古い、素朴な旋律だった。式の定番曲ではない。この星の流行歌でもない。

 

カリンが、弾かれたように顔を上げた。

 

彼女はこの歌を、母の口からしか聞いたことがない。

母がかつて、若い日のワルター・フォン・シェーンコップに聞かせ、別れてからも、一人でうたい続けた歌である。

 

選曲者を探して、彼女は視線を巡らせた。

 

ずっと昔、酔ったワルター・フォン・シェーンコップが、一度だけ、この歌を口ずさんだことがある。

 

隣で聞いていた男は、いま、そ知らぬ表情で酒を飲んでいた。

 

カリンは追及しなかった。

 

代わりに、涙の痕をそのままに立ち上がり、楽団に片手を上げて、前奏をもう一度、と合図した。

 

泣かされたまま終わるのは、この花嫁の流儀ではないのである。

 

四百人の前で、彼女は歌った。

 

 

「いとしい者よ、あなたは私を愛するか

 

 ええ、わたしは愛します

 

 生命の終わりまで

 

 冬の女王が鈴を鳴らすと

 

 樹も草も枯れはてて

 

 太陽さえも眠りに落ちた

 

 それでも春になれば鳥たちは帰ってくる

 

 それでも春になれば鳥たちは帰ってくる」(**)

 

 

歌い終えたとき、広間は、拍手を忘れていた。

 

母が、父に聞かせた歌である。それを(おぼ)えていた男が、娘のために選んだ歌である。

 

四百人が聞いたのは、三人分の歌だった。

 

 

***

 

 

乾杯の音頭は、キャゼルヌが取った。

 

杯の中身は、酒ではなく、紅茶だった。

 

茶葉を選び、湯温を決め、最初の一杯を新郎が自分で淹れた。

あとは厨房の者たちが、その通りに四百人分を用意した。

花婿が厨房に立つ結婚式があるか、と事務総監は三度怒鳴り、最初の一杯については、負けた。

 

「諸君、長い演説は、もうムライさんが済ませてくれた」

 

笑いが起こり、ムライが眉一つ動かさずに頷いた。

 

「だから、おれは一言だ。――杯を持て。全員だ」

 

キャゼルヌは、最前列の二つの席を見た。

 

黒ベレーの前の紅茶には、新しい湯気が立っていた。誰が淹れ直したのか、誰も訊かなかった。

 

「出席者全員で。……新郎新婦に」

 

四百と二の席の上で、杯が上がった。

 

 

***

 

 

【同日夜 自治政府庁舎・記録官室】

 

 

祝宴は、日付が変わる前に散会した。

 

記録官室の灯りは、まだついていた。フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、今日の記録を清書していた。

式次第、発言者、祝辞の要旨。ムライの祝辞は、要旨だけで一頁を要した。

 

扉が、控えめに叩かれた。

 

新郎が、盆を持って立っていた。礼服のままである。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「議事録に、私語は残せませんよ」

 

フレデリカは微笑して、盆を受け取った。

 

紅茶が一杯。

今日ふるまわれた四百の杯は、新郎の指図で淹れられた。

 

この一杯だけは、本人の手で――そして、この一杯だけ、ブランデーが濃かった。

 

新郎が去った廊下から、話し声が遠ざかっていく。ポプランと、アッテンボローの声である。

 

「――今日の騒ぎは、当分の酒の肴だな」

 

「当分どころか。あの二人は一生、言われ続けるさ」

 

フレデリカは、ペンを取り直した。

 

窓の外に、気象制御の作った星空がある。

今日の空は、予定表どおりに晴れ、予定表にないことばかりが起こった。

 

彼女は、記録の末尾に、一行を書いた。

 

  本日、晴天。欠席者、なし。

 

インクが乾くのを待って、彼女は台帳を閉じた。

 

 

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(*)引用:田中芳樹『銀河英雄伝説〈10〉落日篇』268頁(2008年、東京創元社)

(**)引用:前掲284頁

 

 

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