【新帝国暦十八年 ロフォーテン星系 惑星キベロン・旧港地区】
朝の水は、六時に配られる。
列は、四時には出来ていた。
ラルスは娘を背負い、空の桶を提げて並んだ。
背中の娘は熱く、桶は軽かった。
列は長く、誰も喋らない。
初めの頃は、列のどこかで必ず誰かが泣いていた。
二十日を過ぎた今は、泣き声のほうが珍しかった。
明け方の空に白い筋が一本でも立つと、列がわずかに縮んだ。
誰も上を見ないまま、体だけが寄り合う。
筋が消えると、列は元の間隔に戻った。
彼の家は、港から二筋入った通りにあった。
通りごと、もうない。
妻は着弾の朝、港の市場に出ていた。
探しに行くための場所そのものが、残らなかった。
娘のイーダは七つで、右の脚に鉄の欠片が入っている。
熱は、三日前から下がらない。
医者は町に二人いたが、一人は死に、一人は薬ごと診療所を失った。
順番、と言われて並ぶ以外のことを、ラルスはもう思いつけずにいた。
娘は初めの頃、日に何度も母を訊いた。
熱が出てからは、訊かなくなった。
憎むことにも、力が要った。
港のあった方角へは、行かないことにしている。
そこには黒い衝突孔と、めくれた岸壁があるだけだった。
見ても、何も戻らない。
見ないでいることにも、力が要った。
物は、物と替えられた。
缶詰一つが毛布と替わり、靴は片方ずつでも値がついた。
銭は、ほとんど意味を失っている。
値打ちの順が変わった世界で、人々は静かに商いを続けた。
夜、娘の熱が上がると、濡らした布を額に替え続けた。
隣の天幕の老人が、黙って自分の水を半分置いていったことがある。
礼を言うと、老人は手を振って戻っていった。
言葉は、この頃どこでも量り売りのように少なかった。
***
高台に、帝国の机が出たのは十日目からだった。
机は一つで、官吏は二人である。
一人が双眼鏡で天幕の群れを数え、一人が用紙に数字を写す。
戸数、人数、概算。
夕方には机ごと引き上げ、翌朝また出た。
列の男が一人、机に近づいて訊いた。
名簿は作らないのか。
死んだ者の名を、届け出たいのだと言った。
官吏は若く、丁寧だった。
「本官の任務は戸数の推計であります。名簿の件は、しかるべき窓口へ」
しかるべき窓口は、焼けた役場の中にあった。
それは官吏の責任ではない。
男は机を離れ、官吏は次の区画を数え始めた。
どちらも、間違ったことはしていなかった。
机の官吏らは、悪い者たちには見えなかった。
昼には持参の湯を分け合い、夕方には机を丁寧に拭いて帰る。
それがかえって、見ている側の力を抜いた。
十五日目に、高台の脇へ紙が貼り出された。
被害の推計値である。
倒壊戸数、罹災者数、そして死者の欄には、推計、数千、とあった。
数千、の二文字の前に、人だかりは長く続かなかった。
自分の妻がその二文字のどこにいるのか、ラルスには分からなかった。
賠償の話は、噂でだけ流れてきた。
申請には死亡の証明が要るらしい、と。
証明を出す役場が焼けた町で、その噂は冗談の顔をして歩いた。
笑う者は、いなかった。
ラルスは、机とのやり取りを列の中から見ていた。
妻の名を届け出たいと、彼が思っていたわけではない。
思うより先に、届け出る先がないことを、この町の誰もが知っていた。
***
船は、三十日目に降りた。
三隻で、軍艦ではなかった。
旧式の輸送船で、腹にどこの紋章もない。
土埃の平原に白い
白っぽい労働着の男女で、最初に降ろされたのは麦袋だった。
誰かが、あんたらはどこの者だと訊いた。
「同胞の互助です」
それきりだった。
誰が訊いても、答えは同じ言葉に戻った。
麦袋の次に、薬箱が降りた。
その次に天幕の束と、
降ろす順番を、白い者たちは初めから知っているように動いた。
人々は、半日それを遠巻きに見ていた。
降ろされた物は区画を作って積まれ、番人は立たなかった。
盗る者が出るかどうかを、白い者たちは試しもしなかった。
夕方、麦袋の山の前に、老婆がひとり長いこと立っていた。
代価の話は、出なかった。
それが、かえって人々を船から遠ざけた。
ただより高いものの話なら、この港の誰もが知っている。
最初の三日、白い医療天幕は空いたままだった。
四日目に、火傷の男が担ぎ込まれた。
待てなくなった者から、順に運ばれた。
イーダが白い天幕に入ったのは、六日目である。
鉄の欠片は、その日のうちに抜かれた。
薬が塗られ、清潔な布が巻かれた。
白い女が帳面を開き、娘の名を訊く。
「イーダ」
と、娘が自分で答えた。
女は一度繰り返して、書いた。
ラルスは支払いの段になって、幾らかと訊いた。
「いただいておりません」
女は帳面を閉じ、次を呼んだ。
彼は銭の缶を握ったまま、しばらく天幕の出口が分からなかった。
***
パンの匂いがしたのは、いつ以来だったか。
竈は五つ築かれ、朝と夕に焼いた。
配るのは白い者たちで、列の並ばせ方がうまい。
老人と子供の列を、別に短く作る。
それを不公平と言う者は、いなかった。
白い者たちは、よく働き、あまり喋らない。
名を訊く時と、順番を告げる時だけ口を開いた。
どこから来たのかを訊く者は多かったが、答えは初日の言葉から動かなかった。
そのうち、誰も訊かなくなった。
訊かないことと引き換えのように、人々は彼らを白い人ら、と呼び始めた。
炊き出しの初日は、スープだった。
器を持たない者が多く、白い者たちは器ごと配った。
先に並んだのは子供らで、次が老人だった。
大人たちは、湯気を見ているだけで何かを思い出す顔をした。
屋根材が配られ、天幕は少しずつ家の形に近づいた。
水は濾され、消毒の味が薄くなった。
子供らの髪が、洗われるようになった。
洗った髪を編んでやる母親の手つきで、朝の広場の温度が変わった。
夜には、竈の残り火が五つ、平原に灯った。
着弾からこちら、夜の火を好む者はこの土地にいない。
それでも竈の火だけは、初日から誰にも厭われなかった。
そして白い者たちは、墓を掘った。
場所は衝突孔から離れた、丘の斜面である。
埋めるものの残っている死者は、実のところ多くない。
それでも穴は、一人分ずつ掘られた。
埋めるもののない穴には、名を書いた板が立てられた。
穴の場所は、遺族が選んだ。
海の見える側、朝日の当たる側、と望みは分かれた。
白い者たちは黙って聞き、望まれたところに掘った。
望みを尋ねられること自体が、この数十日で初めての者もいた。
白い者たちは埋めるたび、短く頭を垂れた。
言葉は、何も唱えなかった。
丘の下に、長机が一つ出た。
帳面と、老いた書き手がひとり。
弔いの帳、と白い者たちは呼んだ。
死んだ者の名を、残った者が言う。
言えば、書かれる。
それだけの机である。
証明は、求められなかった。
戸籍も、死亡の書付も、写真も要らない。
名と、月日と、言う者の続柄だけ。
帝国の高台の机とこの長机とは、歩いて二百歩と離れていなかった。
順番の来た老人が、六つの名を続けて言った。
書き手は六度繰り返し、六行を書いた。
老人は書かれた六行を長いこと見て、それから帽子を取った。
若い女が、口ごもりながら言った。
「
「呼び名で、書けます」
女の言った呼び名は、そのまま一行になった。
子供がひとりで来ることも、あった。
父と母の名を順に言い、続柄を訊かれて、むすこ、と答えた。
書き手は二行を書き、それから子供の名も訊いた。
それは弔いの帳ではなく、別の頁に書かれた。
ラルスが列に並んだのは、机が出て三日目である。
順番が来て、彼は言った。
「ヘルガ。……妻だ」
書き手は繰り返し、月日を訊き、書いた。
書き終えた頁を、彼のほうへ向けて見せた。
彼の字ではない誰かの字で、妻の名がそこにあった。
紙一枚である。
それは分かっていた。
分かっていて、帳面から目を離すのに時間が掛かった。
列の後ろで、誰かが洟をすすった。
その帰り、彼は白い者に頭を下げている自分に気づいた。
深くではない。
すれ違いざまの、会釈である。
いつから下げるようになったのかを、彼は思い出せなかった。
壊れずに残った学校の屋根の下で、白い者たちは字の稽古を始めた。
石板と、白墨。
教えるのは白い若い者らで、通うかどうかは親が決めた。
初日は九人だった。
十日で、六十を超えた。
イーダも、通った。
最初に習ったのは、自分の名の綴りである。
人々の言葉の中で、日付が変わり始めていた。
役場の暦は焼け、帝国の暦を口にする用事もない。
あれは船の来る前だった、船の後だった、と人々は言うようになった。
着弾の日を口にしたくない者ほど、船の日から数えた。
高台の帝国の机は、いつからか出なくなっていた。
数え終えたのだろう、と人々は言った。
誰も、それ以上は言わなかった。
***
白い外套の少女が来たのは、次の船だった。
舷梯を、白い一団が降りてくる。
大人たちの真ん中に、子供がひとり混じっていた。
十かそこらの少女である。
土埃の平原に、そこだけ雪が残ったように見えた。
少女は、配給の列に沿って歩いた。
急がず、子供の前で止まる。
屈んで、目の高さを合わせる。
名を訊き、訊いた名を一度だけ繰り返す。
それだけのことを、少女は飽きずに繰り返した。
初日、子供らは遠巻きだった。
二日目に、いちばん小さいのが列を離れて近づいた。
少女は屈み、名を訊き、繰り返した。
三日目には、少女の歩く先へ子供らが先回りするようになった。
配られる物は、何もない。
それでも列は、少女の通る側だけ形が崩れた。
少女の声は、高くも低くもなかった。
騒がしい広場でその声だけが通るのは、皆が静かになるからである。
静けさは、命じられたものではなかった。
少女が名を訊くのは、子供だけだった。
大人には、頭を下げるだけである。
訊かれない側の大人たちが、いつからか自分から名乗るようになった。
三歩後ろを、若い男がついて歩く。
黒っぽい外套で、得物は見えない。
男は誰も見ていないようで、すべてを見ていた。
群衆も、男を見なかった。
見ないまま、男の周りにだけ人の薄い輪ができた。
誰が命じたのでもない。
体が勝手に、そこを空けるのである。
翌日も、少女は歩いた。
昨日名を訊いた子の前で止まり、名で呼んだ。
呼ばれた子より、傍らの親のほうが動かなくなった。
一度しか、言っていない名である。
夕方の水汲み場で、女たちが低い声で話していた。
昨日の名を、覚えておいでだった。
うちの子のも。
うちのも。
声は低いままで、誰も先を続けなかった。
***
それは、少女が来て四日目の昼だった。
配給列の脇を少女が歩いていたとき、列が割れた。
女がひとり、飛び出したのである。
髪を振り乱し、まっすぐ少女へ向かった。
「マルタ! マルタ、マルタ……!」
刃物は、なかった。
あったのは、名前だけだった。
若い男が動くところを、ラルスは見ていない。
気づいたときには女の腕が取られ、女は膝から土埃の上に落ちていた。
音は、しなかった。
少女が、片手を上げた。
男の手が、離れる。
少女は屈んで、土埃の上の女と目の高さを合わせた。
「マルタ」
と、少女は言った。
女が叫んだきりの名を、そのまま、正確に。
「マルタの、お母さま」
女の顔が、崩れた。
叫びが、初めて泣き声になった。
少女は、逃げなかった。
白い外套が女の手に掴まれて土埃に汚れるのを、されるままにした。
長机が、運ばれてきた。
帳面が開かれ、老いた書き手が座る。
女はまだ言葉にならないままで、それでも名は、もう告げられていた。
マルタ、と書かれるのを、群衆は黙って見ていた。
女は、工場地区の者だと後で聞いた。
着弾の日、子を隣家に預けて夜勤に出ていたのだという。
預けた側の家も、預かった側の家も、同じ朝に消えた。
それ以上のことを、誰も訊かなかった。
ラルスが少女を間近に見たのは、その一度だけである。
白い外套の裾は土埃で汚れ、顔は幼かった。
幼いのに、目だけが疲れを知らないように澄んでいた。
きれいなものを見た、とだけ彼は思った。
それが何なのかは、考えなかった。
考えない者が、広場には何千人もいた。
その日の夕方、弔いの帳の列は、配給の列より長くなった。
列は翌日も、翌々日も伸びた。
名を言うだけの列に、人は水の列より長く並んだ。
言えば書かれる机に、人はこの星の五十年分の名を持ってきた。
丘の斜面には、人が通うようになった。
板の前にしゃがんで、しばらくいて、帰る。
夕方の丘には、いつも幾つかの背中があった。
雨の季節の前に、白い者たちは丘の板を一枚ずつ見て回った。
字の薄れた板は、その場で書き直された。
書き直す字は、机の帳と突き合わされる。
帳の名と丘の名は、常にひとつに揃えられていた。
誰に頼まれた仕事でも、なかった。
***
イーダの脚は、ふた月かからずに癒えた。
熱が引き、杖が要らなくなり、土埃の道を走って転んで叱られた。
配給の列で白い少女がその前に止まったのは、癒えて間もない頃である。
少女は屈んで、目を合わせ、言った。
「イーダ」
娘はきょとんとして、それから笑った。
名乗った覚えは、娘にはない。
ラルスにもなかった。
天幕の帳面のことを、彼はこのとき思い出さなかった。
呼ばれたのが嬉しくて、娘はその晩、自分の名を何度も口にした。
ラルスは黙って
妻が付けた名である。
書かれて、呼ばれて、名はまだこの世で生きている。
彼が思ったのは、それだけだった。
日暮れに、彼は娘を連れて丘へ上がった。
「ヘルガ」、と書かれた板の前で、娘が母の名を声に出して読んだ。
読める字が、また一つ増えたのである。
ラルスは何も言わず、娘の頭に手を置いた。
丘の下では、白い天幕が夕日の色に染まっていた。
その夜の広場では、方々の天幕から子供の名を呼ぶ声がした。
夕餉に呼ぶ、ただの声である。
着弾からしばらく、絶えていた種類の声だった。
***
同じ夜、平原の外れの天幕で、昼がもう一度始まった。
映像卓の上で、白い少女が歩いている。
巻き戻され、止められ、また歩く。
卓を囲むのは年寄りが三人と、
書記は末席で、帳面の写しを取っていた。
年寄りたちは、互いを名で呼ばない。
『典礼の』、『聖録の』、『聖育の』、と役の名で呼び合う。
書記は三人の顔と役を知っているが、名は知らなかった。
知らないことになっている、のかもしれなかった。
「間合いが、前回より良い」
と、『典礼』の老人が言った。
映像の中で、少女が屈み、土埃の女と目を合わせている。
「名の繰り返しは、教えたのか」
『聖録』の老人が訊き、育ての女が答えた。
「いいえ。ああなさるのです、あの方は」
老人たちは、しばらく黙って映像を見た。
褒める者はいなかった。
確かめる者だけが、いた。
「列の数字を」
書記が読み上げた。
初日、配給の列は四百。
七日目、六百。
弔いの帳の列は、机を出した日から数えて二千を超えていた。
数字の間、誰も口を挟まなかった。
麦の残りが読み上げられ、次の搬入の日取りが決まった。
施療の消耗が読み上げられ、増やされた。
費えを惜しむ声は、一度も出なかった。
出納の帳は、書記の預かりの外にある。
隣の星系の民情も、短く読み上げられた。
爆撃の風下にあたる二つの町で、帝国の徴税が再開されたという。
老人たちは、顔を見合わせもしなかった。
良い報せと悪い報せの区別を、この卓は初めから持たないようだった。
「護衛が映っている」
と、『聖録』の老人が言った。
「四秒。長い」
「切りなさい。『白』だけを残す」
『典礼』の老人が言い、映像係が頷いた。
映像が先へ送られる。
土埃の上の女。上がる片手。名。
そこで、止められた。
「ここは」
と、『聖育』の老人が言った。
「編まずに、そのまま流す」
異を唱える者は、いなかった。
映像が終わると、育ての女が立って報告した。
本日も定刻に就寝、食事は残さず、と。
報告の形式は、薬の在庫の報告と同じだった。
老人たちは頷き、次の議題へ移った。
***
書記の仕事は、帳の写しである。
昼に丘の下で書かれた弔いの帳が、夜ごと天幕へ運ばれてくる。
一名ずつ、写す。
名、月日、続柄。
写しながら数を数えずにいることは、できなかった。
写しは、二冊に分けて綴じる。
亡くなった者の帳と、生きている子の帳である。
生きている子の帳には、医療天幕と配給の記録から、名と歳が写される。
イーダ、七歳、右脚。完治。
写した行の脇に、時折、印を置くよう言われていた。
印を置く行は、『聖育』の老人が夕方までに紙で寄越す。
なぜその行なのかは、書かれていない。
印の行には、行き先の欄が加わる。
行き先の欄に書く字は、いつも同じだった。
『聖育院』
イーダ、の行にも、紙は印を求めていた。
書記は印を置き、行き先を書いた。
教わっていないことは、問わないことになっている。
筆は、迷う理由を持たなかった。
***
散会の前に、次の巡回の割り振りが読み上げられた。
隣接二星系への施療班、船の増便、竈の石の追加。
読み上げが終わると、『典礼』の老人が、帳面から顔を上げずに言った。
「次は、船だ」
書記は増便の話だと思い、そのまま写した。
誰も、訂正しなかった。
立ち上がりながら、『聖録』の老人が映像係に言った。
「本日の分は、纏めて、
言葉は最後まで言われず、それで足りた。
係は深く頷き、卓の灯を落とした。
天幕には、頁をめくる音だけが残った。
書記はその夜のうちに、二冊の写しを終えた。
厚いほうが、弔いの帳である。
薄いほうに、印が並んだ。
船へ運ばれたのは、薄いほうが先だった。
次回、本日23時更新。
――灰の上に、白い旗が立つ。次回、幕間『聖王ヴィルヘルミーネ』