銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二話 古い軍人

【新帝国暦十三年 辺境宙域】

 

辺境の、名もなき暗礁宙域である。

朽ちた宇宙港の残骸を隠れ家として、一隻の古い戦艦が、息を潜めていた。

 

その艦橋の片隅で、一人の男が、三つのものを机に並べていた。

 

一枚は、帝国の官報の写しである。

若き皇帝、十歳にして初陣。栄えある門出を、銀河へ高らかに告げる記事。

 

一枚は、古い戦友からの短い私信。

数行の、他愛もない近況。だがその行間にはこの男だけに読める符牒があった。

 

そして最後の一枚は、星図。

この宙域を貫く、ただ一本の回廊を描いた古びた海図である。

 

男は、三つを長いこと見比べた。

やがて、星図の一点に、節くれだった指を置いた。

 

「……ここだ」

 

「確かな筋からでしょうか?」傍らの部下が、低く問うた。

 

「確かさ、というものを、私は、あまり信じていない」男は、指を離さなかった。

 

「だが、私の読みとは符合している」

 

それが、答えだった。

 

男は、それ以上、何も言わなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・総旗艦人狼(ベイオウルフ) アレク】

 

航路上の日々は、静かに過ぎた。

総旗艦人狼(ベイオウルフ)の艦橋は、僕にとって、宮廷とはまるで違う世界だった。

無数の光点が流れる、星図の海。低く響く、機関の音。

 

誰もが持ち場で、声もなく、己の役目を果たしている。

 

「陛下」

 

ミッターマイヤー元帥が、僕を艦橋の中央へ招いた。

宮廷を家族で訪れ、フェリックスや奥方のエヴァンゼリンさんと一緒に食卓を囲むときの、くだけた顔ではない。

背筋の伸びた、職業軍人の顔だった。

 

「用兵とは、どのようなものとお考えですか」

 

僕は、少し考えてから答えた。

 

「幼年学校では、敵の戦力を、最も効率よく撃滅することだと学んだ」

 

「よう学んでおられます」ミッターマイヤー元帥は頷いた。

「教科書では、満点にございます」

 

だが、と元帥は続けた。

 

「教科書に書かれていることは、すべて正しい。ですが、教科書は、勝ち方しか教えてくれませぬ。戦で本当に難しいのは、勝つことではなく、味方をいかに多く生きて還すか。そこから先は、どの教科書にも、書いてないのです」

 

僕は息を呑んだ。

 

「では、用兵とは何なのだ」

 

「できるだけ多くの兵を生きて還すことにございます」元帥は、僕の目を見た。

 

「敵を何隻沈めたかではなく、味方を何人、生きて還したか。最も少ない犠牲で、目的を果たす。勝つだけなら、できる。安く勝つことこそ、難しいのです」

 

僕は頷いた。

父ラインハルトは、常勝の英雄だったと聞く。

だがこの歴戦の将の言葉には、勝利の栄光とは違う、もっと重たいものがあった。

 

傍らで、フェリックスが黙って聞いていた。

いつも軽口ばかりの幼馴染が、その時だけは口を結んでいた。

家では気安い養父が、艦橋では一人の元帥として、数千の命を背負って立っている。

その背中を、フェリックスは、初めて見る目で見ていた。

 

「守るとは、何をすることか」

 

僕がそう問うたのは、ミュラー元帥にである。

皇帝の守りを任された、「鉄壁」と呼ばれる将。

 

ミュラー元帥は、少しの間を置いてから、口を開いた。

 

「盾になることです」ミュラーは短く答えた。

「一歩も退かねば、後ろの者は、死なずにすむ。それだけのことにございます」

 

それだけだった。

飾りも、講釈もない。

だがその一言は、どんな長い教えよりも僕の胸に残った。

 

クラインは、そのやり取りの間、少し離れた席でただ星図を眺めていた。

何を思っているのか、その横顔からは何も読めなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・総旗艦人狼(ベイオウルフ) ミッターマイヤー】

 

回廊の入り口が近づいた、その前夜。

総旗艦の艦橋で、二人の元帥が、最後の敵情を確かめていた。

 

「情報部の見積もりは」ミッターマイヤーが尋ねた。

 

「賊徒の数、百五十。多く見積もっても、三百」ミュラーが答えた。

「危ういものでは、ございませぬ」

 

「……確かなのだろうな」

 

ミッターマイヤーの問いに、ミュラーは頷いた。

 

「三つの筋が、揃って同じことを申しております。帝国通商公社の通商記録、辺境哨戒部隊の巡察報告、そして投降した賊の供述。第一、第二、第三、いずれも独立した情報源が、別々の根拠をもって同じ数字を示しております。これだけ揃えば、まず、間違いはございますまい」

 

「ならば、よい」

 

疾風は頷いた。

だが、その胸の奥には、名づけようのない小さな翳りが残った。

長い戦場が、その男に教えていた。

三つの筋が、あまりに綺麗に揃うときは……。

だが、その先を、彼は言葉にしなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・総旗艦人狼(ベイオウルフ) アレク】

 

その同じ夜、ミッターマイヤー元帥が、僕たち三人を呼んだ。

 

「これより先は、旧同盟時代の廃棄宙域に入ります。海賊の類が潜むには、格好の巣にございます」

 

「万一を思い、陛下には御一行ともども、別の艦へお移りいただきたい」

 

「なぜだ」僕は尋ねた。

 

「総旗艦は、どうしても目立ちます」元帥は言った。

 

「あの出立の前夜、ブリュンヒルトを使わぬと申し上げたのと、同じ理屈にございます。狙う者は、まず一番大きな艦を狙う。陛下には、目立たぬ一隻に身を潜めていただくのが、上策かと」

 

理屈は通っていた。

僕は頷きフェリックスとクラインを連れて、麾下の一隻へ移った。

 

護衛艦の一つ。ありふれた中型艦である。

艦長は、僕たちを丁重に、だが気負いなく迎えた。

皇帝が乗っている、という緊張を努めて表に出すまいとしているのが分かった。

 

「ご案内いたします」

 

案内された区画は、艦の奥の静かな一角だった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 辺境宙域 エイジ・クルス】

 

その古い提督の隠れ家は、いつも薄暗かった。

節電のためである。

旧自由惑星同盟軍からかき集めた六千五百隻を養う燃料も、修理部品も、食料も、なにもかも彼らに潤沢なものはなかった。

撃たれた艦から使える物を剥ぎ、別の艦を生かす。

一隻の骸から、二隻を蘇らせることもあった。

 

兵員が誰か死ねば、補充はなかなか来ないため、他の者が仕事を覚えて複数人分働く。

 

そうやって、この艦隊は生き延びてきた。

 

それでも、艦内の規律は、奇妙なほど保たれていた。

甲板は磨かれ、当直は交代を守り、兵は上官に敬礼を返す。

配給の粗末な糧食を、兵たちは黙って分け合い、器の底まで舐めるように平らげた。

飢えを知る者の食い方だった。

 

自由惑星同盟。そう呼ばれていた国が滅びて、もう十余年になる。

彼らの国は、とうに地図から消えていた。

議会も、憲章も、選挙も、何もかもが、灰になった。

 

だが、部下たちは今も、この男を「提督」と呼んだ。

まるで、そう呼び続けることだけが、失った国と自分たちを繋ぐ、最後の糸であるかのように。

 

エイジ・クルス。

 

旧自由惑星同盟軍の、最後の提督の一人である。

かつて、アムリッツァ会戦では、第十艦隊、ウランフ提督の麾下にあった。

味方を逃がすために、殿を務めて散った、あの提督である。

あの日、クルスは生き延びた。

それ以来、幾つもの戦場で、生き延び続けた。

 

齢は、六十を越えていた。

若い頃に、名将と呼ばれたことも、あったという。

だが今は、地図にない国の、地図にない艦隊を率いる、ただの老いた海賊にすぎなかった。

 

その六千五百隻は、本来、存在しないはずの艦隊だった。

バーラトの和約のとき、旧同盟の艦の多くは、処分されることに決まった。

爆破し、記録から消す。

それが、勝者と敗者の間で交わされた約束だった。

 

だが、書類の上で「処分済み」となった艦の幾つかは、実際には爆破されなかった。

辺境の暗礁に隠され、横流しされ、帳簿の闇に沈んだ。

クルスたちは、その闇の中から、艦を拾い集めてきた。

存在しないはずの艦で、存在しないはずの艦隊を組んだ。

 

その数、六千五百。

 

宇宙海賊の類が持つ兵力ではない。

旧同盟の半個艦隊に相当する、堂々たる正規軍の数である。

 

だが帝国は、それを知らない。

帳簿の上で処分されたはずの艦が、どこにどれだけ生きているのか。

散り散りだった同盟の残党が、いつのまにか一つの拳に握り直されていたことを、帝国の諜報はついに掴めなかった。

 

存在しない艦隊は、記録に残らない。

記録に残らないものは、数えようがない。

クルスたちは、十余年をかけて、その死角の中で、静かに牙を研いできた。

帝国が「せいぜい数百の賊徒」と侮っているまさにその賊徒は、その二十倍を優に超える艦を暗礁の陰に潜めていた。

 

「提督」若い士官が、ふと言った。

「小官たちは、いったい何なのでしょう。軍隊なのか、海賊なのか」

 

クルスは、少し考えてから答えた。

 

「呼び名の問題だな」

 

若い士官が、顔を上げた。

 

「国に雇われて人を殺せば、軍人。雇われずに殺せば、海賊。違いは、後ろ盾があるかどうか。それだけのことだ。我々の国は、もう無い。ならば、海賊と呼ばれても仕方あるまい。民主共和政の魂を売って帝国の飼い犬になる連中よりは、よほど、ましだろう」

 

それは諦めではなかった。

滅びた国の軍人が、最後に守ったたった一つの意地だった。

 

その若い士官は、まだ二十歳そこそこだった。

自由惑星同盟が滅びたとき、彼はほんの子供である。

議会も、投票も、自由の演説も、この若者は一度も見たことがない。

旧同盟領の星系に、ひそかに伝わる、禁じられた反帝国教育の教科書。その中の言葉としてのみ、辛うじて知っているにすぎなかった。

 

それでも、彼はここにいた。

見たこともない国の、聞いたこともない理想のために、飢えながら、この暗礁で戦っている。

クルスは、時折、その若さを、痛ましく思うことがあった。

我々は、いったい、この子らに何を残すのだろう、と。

 

「提督」別の若い士官が、艦橋に駆け込んできた。

「帝国艦隊、回廊に進入します」

 

クルスは、椅子から動かなかった。

星図の一点を、ただ見ていた。

 

「規模は」

 

「本隊、約三千。中枢が、さらに数百。艦影照合。……間違いありません。人狼(ベイオウルフ)にパーツィバル。ミッターマイヤーとミュラー。元帥が、二人」

 

艦橋が、ざわめいた。

海賊まがいの残党狩りに、元帥が二人。

 

「二人、か」クルスは、目を細めた。

「となると、別動で艦影が確認されたワーレンとアイゼナッハを加えて、旧同盟の残党狩りに、帝国元帥の四人がかり。ずいぶんと丁重な扱いだ」

 

なぜ、たかが辺境の海賊風情に、これほどの大物を差し向けてきたのか。

理由は明白だ。

戦陣に幼い皇帝がいる。

初陣だという。

十歳の子供の、晴れの舞台。

 

その箔をつけるために、帝国は、これ見よがしの大盤振る舞いをしてみせた。

安全でそこそこ見栄えのする獲物を選び、元帥四人を露払いに立てて。

 

「舐められたもんだ」誰かが、吐き捨てた。

 

「そのとおりだ」クルスは、静かに言った。

「あちらの狙いは、幼い皇帝に初陣の勲を持たせることだ。我々は『敵』ですらない。単なる『獲物』だよ。祝典の、引き立て役。締めのデザートというわけだな」

 

「四人の元帥が揃うのは、この先だ」クルスは、星図に目を戻した。

「ワーレンとアイゼナッハは、まだ戦域に達していない。いまこの回廊にあるのは、皇帝の護衛のみ。叩くならば、合流の前。この一時、この一点を措いて、他に機会はない」

 

「艦隊戦で勝とうとは思っていない」クルスは、部下たちを見回した。

「六千五百隻を一度動かせば、もう隠れてはいられん。帝国は、我々の存在を知る。今日を境に、我々は、狩り立てられて滅びる。成否にかかわらず、だ」

 

兵たちが、息を呑んだ。

 

「それでも、やる価値がある。ただ一つ、ある」クルスは、星図の中央、帝国艦隊の隊列を、指で示した。

「あの隊列のどこかに、十歳の皇帝がいる。あれを、討つ」

「皇帝を……?」

「聞けば、なかなかの子だそうだよ。人の名を憶え、下々を慈しむ。名君の芽、というわけだ」クルスは、静かに言った。「だからこそ、討たねばならん」

 

兵たちが、怪訝な顔をした。暴君ならばともかく、なぜ、善き皇帝を。

 

「暴君なら、放っておけばいい。いずれ民が倒す。だが、善き皇帝は違う」クルスの声は、低かった。

「善政は、専制を、民に愛させる。人が、自ら進んで鎖を受け入れるようになる。悪しき専制より、善き専制の方が、よほどたちが悪い」

 

それは、民主共和政に殉じた男の、最後の信念だったはずだ。

「今のうちに摘む。あの子供が、真の名君に育ちきる前に。それが、我々が最後にできる、最後の仕事だ」

 

そして、古い提督は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「総員、配置につけ。網は、もう張ってある」

 

号令一つで、艦隊が動いた。

飢えた艦も、継ぎ接ぎの艦も、六千五百のことごとくが、音もなく残骸の陰へ滑り込んでいく。

長い歳月をかけて磨かれた、狩人の動きだった。

やがて、艦隊は、朽ちた骸の中に溶けて、消えた。

あとはただ、獲物が、網の真ん中まで来るのを待つだけである。

 

クルスは、椅子に戻り、静かに目を閉じた。

そして、誰にともなく、低く、鼻歌を口ずさみはじめた。

 

もう、どこにも存在しない国の、国歌であった。

 

 

***

 

 

回廊は、狭かった。

かつて旧同盟が築いた、宙域構造物の残骸群(トリュンマー)

朽ちた人工天体の骸が幾重にも折り重なり、艦隊の隊形を、否応なく細く長く引き伸ばす。

 

そこは、待ち伏せる者には、これ以上ない地形だった。

残骸の一つ一つが、艦を隠す衝立になる。

入り組んだ骸の影は、電探の目をくらませ、伏せた艦の数を直前まで悟らせない。

そして一度中へ入った大軍は身をよじることもできず、ただ細い一本道をのろのろと進むほかない。

 

先帝の御世には、栄えていた航路だったという。

いまはただ、朽ちた鉄と忘れられた骸の墓場である。

 

その隊列の後方中央に、総旗艦は在った。

疾風ミッターマイヤーは、あえて先頭に立たなかった。

皇帝を抱えた艦隊の総指揮は、全体を見渡せる後ろに置く。

それが定石だった。

 

異変は、右翼後方から始まった。

残骸の陰から、無数の光点が湧き出した。

帝国の哨戒網がそれを捉えたときには、もう遅かった。

 

「敵艦隊!右翼、二時方向!数、多数!続いて、左翼、十時!後方、六時方向にも敵影!」

 

三方だった。

残骸群の陰に伏せていた敵が、隊列の腹へ同時に食らいついてきた。

 

帝国艦隊が、初めて浮き足立った。

狭い回廊で、隊列は自在に動けない。

前へ出ようにも残骸が阻み、退こうにも後ろが詰まっている。

 

砲火が交錯し、被弾した艦が炎の花を咲かせては、闇に散った。

通信は、悲鳴と命令とでめちゃくちゃに乱れていた。

 

クルスの狙いは、ただ一つ。

皇帝であった。

だが、その乗る艦がどれかは掴めなかった。

銀河を統べた白い旗艦は、姿を見せていない。

皇帝は、どこにでもいる、名もなき一隻に身を潜めている。

ならばやり方は一つ。

皇帝がいるであろう一帯を、艦もろとも根こそぎ焼き尽くす。

指揮の結節と、護衛の層を面で叩き潰し、そのどこかにいる幼帝を隊列ごと葬る。

それが狙いだった。

 

初撃は正確だった。

まず、レーザー水爆ミサイルが、護衛の層のただ中で炸裂する。

生まれた無数の火球へ、続けざまに中性子ビームの雨が降り注いだ。

隊列の腹がめくれ上がるように裂けた。

 

「狼狽えるな」

 

低い声が通信に響いた。

鉄壁ミュラーである。

 

「隊列を乱すな。慌てて動けば、それこそ敵の思う壺だ。守りを固く。一歩も退くな」

 

不思議なことに、その低い一声が渡ると、乱れかけた帝国艦隊は落ち着きを取り戻した。

浮き足立った艦が踏みとどまる。

裂けかけた隊列が辛うじて形を保つ。

 

一人の将の揺らがぬ声。

それが、全艦に伝わっていく。

「鉄壁」と呼ばれる所以をその場の誰もが肌で知った。

 

後方中央の総旗艦で、ミッターマイヤーは、盤面を見ていた。

三方からの鮮やかな包囲。

疾風の目はしかし少しも慌てていなかった。

 

「囲まれたな」

呟きは、静かだった。

「情報部の見積もりでは、百五十から三百、だったか。桁が一つ違っていたな」

責める口調ではなかった。

その数字を鵜呑みにした己への自嘲だった。

 

だが、疾風ウォルフの采配が振るわれるより先に、裂けた隊列の腹の中で一隻の護衛艦が炎に呑まれようとしていた。

 

三人の少年が、乗った艦であった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】

 

 

最初は遠い雷鳴のようだった。

 

僕たちのいる区画にもその揺れは届いた。

床が跳ね、灯りが明滅する。

遠くで金属の軋む音がした。

 

「始まったな」フェリックスが、立ち上がった。「戦だ」

 

クラインは、動かなかった。

ただ天井の一点を見上げ、耳を澄ましている。

何かを聞き分けようとするように。

 

次の瞬間、世界が白く弾けた。

 

轟音。衝撃。

体が宙に浮き、床に叩きつけられた。

 

耳が、鳴っている。何も聞こえない。

口の中に、血の味がした。

どこかを切ったのか、痛みはまだ遠かった。

 

灯りが落ちた。

 

非常灯の赤い光だけが点滅している。

 

その明滅の中で、僕は辺りを見回した。

倒れた椅子。床に散らばった備品。天井から火花がぱちぱちと降っている。

けたたましい警報。

 

そして、ずしり、と重い音を立てて区画の隔壁(ショット)が、閉じた。

 

前後の通路が、鉄の壁で塞がれた。

外の音が、遠ざかっていく。

助けを呼ぼうにも、通信の端末は、火花を上げて死んでいた。

 

僕たちは、閉じ込められた。

 

やがて、赤い非常灯も力尽きた。

あとには、完全な暗闇だけが、残った。

 

その暗闇は、これまで僕が知っていた、どんな夜よりも深かった。

宮廷の夜には、いつも灯りがあった。

星の光さえない、この鉄の箱の底には、それが何一つなかった。

 

心臓が、痛いほど速く打っている。

怖い、と思った。

だが、ここで僕が取り乱せば皆はもっと怖がる。

 

そう思うと、不思議と声だけは震えなかった。

僕は口を開いた。

 

「フェリックス。クライン。無事か」

 

暗闇の中で、二つの、微かな返事があった。

生きている。

三人とも、まだ生きている。

 

だが、外で何が起きているのか、僕たちには何も分からなかった。

 

光を失った鉄の箱の中。

僕の初陣は、この暗闇の戦場で始まった。

 

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