銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

30 / 33
六「聖王ヴィルヘルミーネ」(新帝国暦二十一年〜二十二年)

【新帝国暦二十一年〜二十二年 タナトス星系 惑星エコニア・大伽藍】

 

 

白い外套(がいとう)の少女が大伽藍(だいがらん)へ移されたのは、新帝国暦二十一年の冬である。

夜のうちに着き、夜のうちに奥へ通された。

迎えの列はなく、鐘も鳴らなかった。

着いたことを知る者が、そもそも堂内に幾人もいなかった。

 

運んできた者たちは、堂の者ではなかった。

少女を降ろすと、その夜のうちに発っていった。

名乗りは、なかった。

 

少女の荷は、小さな行李が一つである。

靴だけが、よく履き古されていた。

幾つもの星の埃を吸った靴だということを、堂の者は誰も知らない。

 

 

ヨーリクが扉の前に立てられたのは、その翌朝からである。

護衛の中で、彼は最も若かった。

扉の向こうは控えの間で、その奥が少女の居室になる。

誰に対して立つのかは、教えられなかった。

外から来る者のためか、内から出る者のためか。

彼は問わずに、立った。

 

 

少女の扉の前に立つのは、初めてではない。

星が変わるたび、扉が変わっただけである。

埃の平原の天幕にも、扉と呼べるものはあった。

彼はどの扉の前でも、同じ場所に立ってきた。

 

 

堂に勤める者は、胸か袖のどこかに樹の徽章を付けている。

若い護衛の外套には、何も付いていなかった。

付けよと言う者も、いなかった。

 

立哨は交代制である。

だが彼は、自分の番でない刻限にも回廊の端にいることが多かった。

命じられたのではない。

咎める者も、いなかった。

 

扉は、左手で開ける。

右手で物を持ったところを、堂の者は誰も見たことがない。

何のために空けているのかを、尋ねる者もいなかった。

 

堂は、古く見えるように建てられていた。

回廊の石には、切り出しの匂いがまだ残っている。

勤めている者たちだけが、本当に古かった。

 

 

***

 

 

少女の一日は、稽古で埋められていた。

 

朝の二刻は典礼の文言、昼は歩き方と座り方、それに手の置き方。

夜は、系譜の暗誦である。

 

覚えは、早かった。

一度教えられた所作を、少女は二度と間違えなかった。

問い返すことも、聞き直すこともなかった。

教える側の老人たちが、時折、顔を見合わせた。

出来の悪さにではなく、出来の良さにである。

 

 

食事は、居室に運ばれた。

膳は、いつも空になって戻った。

多い日も、少ない日も同じだった。

下げる下女が、一度だけ首を傾げた。

 

 

居室の灯は毎夜、同じ刻限に消えた。

遅れたことも、早まったこともない。

ヨーリクは、それを数えるともなく数えていた。

 

 

歩き方の次に教えられたのは、見られ方である。

壇の上の椅子に一刻、座る。

それだけの稽古だった。

 

見上げる役として下男が三人、堂の隅に立たされた。

少女は、瞬きの数まで直された。

直されたものは、二度と戻らなかった。

 

 

冬の間、少女には日に一度だけ内庭を歩くことが許されていた。

回廊を四半刻、決められた道筋で回る。

歩幅は変わらず、道筋も変わらなかった。

雪の日も、少女は止まらなかった。

 

 

雪の歩きのあと、濡れた靴は廊下に出される。

ヨーリクはそれを火の間へ運び、乾いてから戻した。

頼まれたのでは、なかった。

 

 

歩くことを許される時間は、日ごとに削られていった。

稽古の刻限が、それを食ったのである。

春の声を聞く前に、内庭の歩きはなくなった。

 

 

 

稽古の声は、扉越しにも届く。

 

「――(なんじ)は何者か」

 

「失われし王朝の血、ヴィルヘルミーネ」

 

「――何を負う者か」

 

「罪を」

 

問いは老いた声で、答えは高い声でなされる。

文言は定型で、この堂のどの石よりも古いのだという。

その古い言葉が、声変わり前の声で読み上げられる。

稽古がその段に入ると、ヨーリクは扉から半歩離れて立った。

理由は、彼自身も持たなかった。

 

 

***

 

 

書院では、系譜の浄書が進んでいた。

書役は指の曲がった老人で、同じ書体を五十年書いてきたのだという。

羊皮紙は、新しかった。

字だけが、古かった。

 

 

写しの元になった帳面は、水に傷んでいた。

読める行と、読めない行がある。

写しの上では、どの行も読めるようになった。

 

 

末尾の行に、少女の名が足される。

少女の名から引かれた線は、読めなかった行の一つへ結ばれた。

写しの上でだけ、読めるようになった行である。

線を引く手は、迷わなかった。

 

 

その線の傍らに、二十年ほど前で途切れた行があった。

途切れた行に、没年は書かれていない。

少女の名とその行とを結ぶ線は、引かれなかった。

引かずに置くことも、書役の仕事のうちらしかった。

 

 

翌日には、証人だという老女が連れられてきた。

乳母を務めたのだと、引き合わせた男が言った。

書面が読み聞かされると、老女は一度だけ頷いて爪印を捺した。

 

 

墨の乾くのを待つ間、書院では誰も口をきかなかった。

少女がどこから来たのかを、口にする者はこの堂に一人もいない。

問う者がいないのか、問うてはならないのか。

それも、誰も言わなかった。

 

 

***

 

 

聖衣の仮縫いは、三度行われた。

白い衣は大人の寸法で裁たれ、少女に合わせて詰められていく。

袖を上げ、裾を上げ、肩を落とす。

仕立ての女は待ち針を口に咥えたまま、少女の周りを回った。

 

 

少女は、両腕を水平に上げた姿勢のまま長く立っていた。

下ろせと言われるまで、下ろさなかった。

針が肌に触れても、動かなかった。

「お疲れではありませんか」と女が問い、「いいえ」と少女は答えた。

 

 

(くつ)(あつら)えるため、足形が紙に取られた。

輪郭を、筆がゆっくりと回っていく。

少女は、くすぐったがらなかった。

足の寸法はこの冬のうちにも変わるはずだと、仕立ての女は言った。

式は、その前に来る。

 

 

着付けの間に、年寄りの下女が小さく言った。

よく、お泣きにならぬこと。

誰も、応えなかった。

 

 

冠は、新しく打たれたものである。

ただし図面が古く、寸法を変えることは許されていなかった。

内側に布を巻き、少女の頭に合わせる。

布を巻く老人の手は、わずかに震えていた。

少女の頭は、動かなかった。

 

 

式の次第書が、回廊にも回ってきた。

表には、赦冠式(しゃかんしき)、と記されている。

次第書には、聖王、という字が幾度も現れた。

少女の名は、最初の一箇所にしか出てこなかった。

 

 

***

 

 

春が近づくと、堂の内に子供が増えた。

 

白い衣の子らである。

幾つもの星の訛りを連れて来て、訛りはすぐに直された。

式で唱和を務めるのだと、典礼の者は言った。

子らの稽古の声は、七日で揃った。

並んだ子らの瞬きも、揃っていた。

 

 

坂の下の町は、春にかけて人で膨れていった。

船が着くたび、伽藍への道に列ができる。

旧同盟の訛りがあり、帝国本土の訛りがあり、どちらでもない訛りがあった。

揃っているのは、遠くから来たという一点だけである。

 

 

新帝国暦二十二年の春、大伽藍に人が満ちた。

入りきらない者たちは、外の石段に立った。

子供を肩に載せる者があり、載せられた子供は少女と同じ年頃だった。

祭壇の脇には、竿に巻かれたままの旗が立てかけてある。

一度も、風に広げられたことのない旗だった。

 

 

式の始まる前、ヨーリクは廊の陰から堂を一度だけ見渡した。

数えたのは、人数ではない。

声の起きる場所と、人の流れの折れる場所である。

それが幾つあるかを、彼は覚えた。

 

 

 

 

式の朝、ヨーリクは控えの間の火鉢に炭を足した。

石の床は、春でもまだ冷たい。

新しい沓の置き場所を、窓の日の当たる側へ少し寄せた。

 

 

控えの間へ、少女は一人で入った。

着替えは、すでに済んでいる。

この部屋で行うのは、履き替えだけである。

聖衣に合わせた白い沓が、床に用意されていた。

 

ヨーリクは、扉の内側に立っていた。

この日に限り、内側に立つことが許されている。

少女は椅子に掛け、自分の靴を脱いだ。

右、左。

埃の色の染みた古い靴を両手で揃え、椅子の脇に置いた。

 

 

沓に履き替えると、少女は立ち上がった。

一度も振り返らずに、扉へ歩く。

歩幅は、教えられた通りだった。

 

 

扉が閉じて、まず鐘が鳴った。

少女が着いた夜に、鳴らなかった鐘である。

やがて向こうで、問いの声がした。

 

「――汝は何者か」

 

答える声は、稽古の時と寸分違わなかった。

 

長い唱和が続いた。

子らの声は、揃っていた。

 

 

それから、どよめきが堂を満たした。

旗が遂に広げられたのだと、音で分かった。

歓呼は石の壁を越えて、控えの間まで届いた。

届いたが、この部屋の何も動かさなかった。

 

椅子の脇に、子供の靴が残っていた。

脱いだ時に揃えられた形の、ままである。

 

片付けよ、と典礼官が戸口から告げて去った。

ヨーリクは屈んで、右の手で靴を取り上げた。

片手に、収まった。

 

 

彼はそれを、外套の内に納めた。




【次回予告】

焼け跡には、名が。

灰の上には、旗が。

喪には、弔いを。

空洞には、居場所を。

配り終えて、船は名を告げずに去った。

集い終えた者たちが、灯を隠して待つあいだ。

陽の当たる帝都では、幼き獅子たちが十五になろうとしていた。

幼年学校の門を出て、新たな門に入る。

学び舎を移り、階級章の重みを知る期間が始まる。

肩を並べて学ぶ、最後の穏やかな日々になる。

その果ての年に――若き皇帝は、不倶戴天の敵と出会う。

長い戦いの、始まりである。


次回、『銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~』第一部・終章。

「士官学校編」。

――銀河の歴史が、また1ページ。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。