【新帝国暦二十一年〜二十二年 タナトス星系 惑星エコニア・大伽藍】
白い
夜のうちに着き夜のうちに奥へ通された。
迎えの列はなく鐘も鳴らなかった。
着いたことを知る者がそもそも堂内に幾人もいなかった。
運んできた者たちは堂の者ではなかった。
少女を降ろすとその夜のうちに発っていった。
名乗りはなかった。
少女の荷は小さな行李が一つである。
靴だけがよく履き古されていた。
幾つもの星の埃を吸った靴だということを堂の者は誰も知らない。
ヨーリクが扉の前に立てられたのはその翌朝からである。
護衛の中で彼は最も若かった。
扉の向こうは控えの間で、その奥が少女の居室になる。
誰に対して立つのかは教えられなかった。
外から来る者のためか内から出る者のためか。
彼は問わずに立った。
少女の扉の前に立つのは初めてではない。
星が変わるたび扉が変わっただけである。
埃の平原の天幕にも扉と呼べるものはあった。
彼はどの扉の前でも同じ場所に立ってきた。
堂に勤める者は胸か袖のどこかに樹の徽章を付けている。
若い護衛の外套には何も付いていなかった。
付けよと言う者もいなかった。
立哨は交代制である。
だが彼は自分の番でない刻限にも回廊の端にいることが多かった。
命じられたのではない。
咎める者もいなかった。
扉は左手で開ける。
右手で物を持ったところを堂の者は誰も見たことがない。
何のために空けているのかを尋ねる者もいなかった。
堂は古く見えるように建てられていた。
回廊の石には切り出しの匂いがまだ残っている。
勤めている者たちだけが本当に古かった。
***
少女の一日は稽古で埋められていた。
朝の二刻は典礼の文言、昼は歩き方と座り方、それに手の置き方。
夜は系譜の暗誦である。
覚えは早かった。
一度教えられた所作を少女は二度と間違えなかった。
問い返すことも聞き直すこともなかった。
教える側の老人たちが時折顔を見合わせた。
出来の悪さにではなく出来の良さにである。
食事は居室に運ばれた。
膳はいつも空になって戻った。
多い日も少ない日も同じだった。
下げる下女が一度だけ首を傾げた。
居室の灯は毎夜同じ刻限に消えた。
遅れたことも早まったこともない。
ヨーリクはそれを数えるともなく数えていた。
歩き方の次に教えられたのは見られ方である。
壇の上の椅子に一刻座る。
それだけの稽古だった。
見上げる役として下男が三人、堂の隅に立たされた。
少女は瞬きの数まで直された。
直されたものは二度と戻らなかった。
冬のあいだ少女には日に一度だけ内庭を歩くことが許されていた。
回廊を決められた道筋で四半刻回る。
歩幅は変わらず道筋も変わらなかった。
雪の日も少女は止まらなかった。
雪の歩きのあと濡れた靴は廊下に出される。
ヨーリクはそれを火の間へ運び乾いてから戻した。
頼まれたのではなかった。
歩くことを許される時間は日ごとに削られていった。
稽古の刻限がそれを食ったのである。
春の声を聞く前に内庭の歩きはなくなった。
稽古の声は扉越しにも届く。
「――
「失われし王朝の血、ヴィルヘルミーネ」
「――何を負う者か」
「罪を」
問いは老いた声で、答えは高い声でなされる。
文言は定型でこの堂のどの石よりも古いのだという。
その古い言葉が声変わり前の声で読み上げられる。
稽古がその段に入るとヨーリクは扉から半歩離れて立った。
理由は彼自身も持たなかった。
***
書院では系譜の浄書が進んでいた。
書役は指の曲がった老人で同じ書体を五十年書いてきたのだという。
羊皮紙は新しかった。
字だけが古かった。
写しの元になった帳面は水に傷んでいた。
読める行と読めない行がある。
写しの上ではどの行も読めるようになった。
末尾の行に少女の名が足される。
少女の名から引かれた線は読めなかった行の一つへ結ばれた。
写しの上でだけ読めるようになった行である。
線を引く手は迷わなかった。
その線の傍らに二十年ほど前で途切れた行があった。
途切れた行に没年は書かれていない。
少女の名とその行とを結ぶ線は引かれなかった。
引かずに置くことも書役の仕事のうちらしかった。
翌日には証人だという老女が連れられてきた。
乳母を務めたのだと引き合わせた男が言った。
書面が読み聞かされると老女は一度だけ頷いて爪印を捺した。
墨の乾くのを待つあいだ書院では誰も口をきかなかった。
少女がどこから来たのかを口にする者はこの堂に一人もいない。
問う者がいないのか問うてはならないのか。
それも誰も言わなかった。
***
聖衣の仮縫いは三度行われた。
白い衣は大人の寸法で裁たれ少女に合わせて詰められていく。
袖を上げ裾を上げ肩を落とす。
仕立ての女は待ち針を口に咥えたまま少女の周りを回った。
少女は両腕を水平に上げた姿勢のまま長く立っていた。
下ろせと言われるまで下ろさなかった。
針が肌に触れても動かなかった。
「お疲れではありませんか」と女が問い「いいえ」と少女は答えた。
輪郭を筆がゆっくりと回っていく。
少女はくすぐったがらなかった。
足の寸法はこの冬のうちにも変わるはずだと仕立ての女は言った。
式はその前に来る。
着付けの間に年寄りの下女が小さく言った。
よく、お泣きにならぬこと。
誰も応えなかった。
冠は新しく打たれたものである。
ただし図面が古く寸法を変えることは許されていなかった。
内側に布を巻き少女の頭に合わせる。
布を巻く老人の手はわずかに震えていた。
少女の頭は動かなかった。
式の次第書が回廊にも回ってきた。
表には
次第書には聖王という字が幾度も現れた。
少女の名は最初の一箇所にしか出てこなかった。
***
春が近づくと堂の内に子供が増えた。
白い衣の子らである。
幾つもの星の訛りを連れて来て訛りはすぐに直された。
式で唱和を務めるのだと典礼の者は言った。
子らの稽古の声は七日で揃った。
並んだ子らの瞬きも揃っていた。
坂の下の町は春にかけて人で膨れていった。
船が着くたび伽藍への道に列ができる。
旧同盟の訛りがあり帝国本土の訛りがありどちらでもない訛りがあった。
揃っているのは遠くから来たという一点だけである。
新帝国暦二十二年の春、大伽藍に人が満ちた。
入りきらない者たちは外の石段に立った。
子供を肩に載せる者があり載せられた子供は少女と同じ年頃だった。
祭壇の脇には竿に巻かれたままの旗が立てかけてある。
一度も風に広げられたことのない旗だった。
式の始まる前ヨーリクは廊の陰から堂を一度だけ見渡した。
数えたのは人数ではない。
声の起きる場所と人の流れの折れる場所である。
それが幾つあるかを彼は覚えた。
式の朝ヨーリクは控えの間の火鉢に炭を足した。
石の床は春でもまだ冷たい。
新しい沓の置き場所を窓の日の当たる側へ少し寄せた。
控えの間へ少女は一人で入った。
着替えはすでに済んでいる。
この部屋で行うのは履き替えだけである。
聖衣に合わせた白い沓が床に用意されていた。
ヨーリクは扉の内側に立っていた。
この日に限り内側に立つことが許されている。
少女は椅子に掛け自分の靴を脱いだ。
右、左。
埃の色の染みた古い靴を両手で揃え椅子の脇に置いた。
沓に履き替えると少女は立ち上がった。
一度も振り返らずに扉へ歩く。
歩幅は教えられた通りだった。
扉が閉じてまず鐘が鳴った。
少女が着いた夜に鳴らなかった鐘である。
やがて向こうで問いの声がした。
「――汝は何者か」
答える声は稽古の時と寸分違わなかった。
長い唱和が続いた。
子らの声は揃っていた。
それからどよめきが堂を満たした。
旗が遂に広げられたのだと音で分かった。
歓呼は石の壁を越えて控えの間まで届いた。
届いたがこの部屋の何も動かさなかった。
椅子の脇に子供の靴が残っていた。
脱いだ時に揃えられた形のままである。
片付けよ、と典礼官が戸口から告げて去った。
ヨーリクは屈んで右の手で靴を取り上げた。
片手に収まった。
彼はそれを外套の内に納めた。
【次回予告】
焼け跡には、名が。
灰の上には、旗が。
喪には、弔いを。
空洞には、居場所を。
配り終えて、船は名を告げずに去った。
集い終えた者たちが、灯を隠して待つあいだ。
陽の当たる帝都では、幼き獅子たちが十五になろうとしていた。
幼年学校の門を出て、新たな門に入る。
学び舎を移り、階級章の重みを知る期間が始まる。
肩を並べて学ぶ、最後の穏やかな日々になる。
その果ての年に――若き皇帝は、不倶戴天の敵と出会う。
長い戦いの、始まりである。
次回、『銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~』第一部・終章。
「士官学校編」。
――銀河の歴史が、また1ページ。