第十七話 点呼(新帝国暦一八年秋)
【新帝国暦一八年・秋 帝都レーヴェンシュテルン・帝国軍士官学校 フェリックス】
受領窓口で渡されたのは紙包みひとつと黒い官給の軍靴だった。
フェリックス・ミッターマイヤーは廊下の長椅子に腰かけて履いてきた靴を脱ぎ新しい軍靴に履き替えた。
踵がまだ硬い。
脱いだ靴は紙に包んで名札の付いた棚に納めた。
四年後に返す決まりだという。
「フェリックス!こっちだ、寮棟は東の四番!」
アレクが書類を振っていた。その後ろでクラインが三人分の割当票を几帳面に読み比べている。
フェリックスは立ち上がった。
新しい靴はまだ足に馴染まない。
馴染まないまま歩き出した。
正門の石柱は古かった。
旧帝都のあったオーディンの旧士官学校の正門から柱だけを運んできた石だという。
その古い石に真新しい銘板が嵌め込まれていた。
家名を問わないという意味のことが硬い言葉で三行刻まれている。
石は古く、言葉は新しい。
「……この石、前の王朝のときの士官学校の門だったのか」
アレクが銘板を見上げて言った。独り言に近い声だった。
「いまは公平な試験で入る。石は同じなのにな」
「石に罪はありませんから」とクライン。
「うまいこと言ったつもりか」とフェリックス。
三人が門をくぐったとき内側から
教練場のひとつを上級生の区隊が行進していく。
四十人の脚が一つの生き物のように揃っている。
歩幅も腕の振りも首の角度も。
三人は思わず足を止めてそれを見送った。
喇叭はその教練場だけのものではなかった。
隣でもその向こうでも同じ音が鳴っている。
フェリックスは顔を上げた。
見える限りの教練場で脚が動き出していた。
どれも四十人。どれも同じ速さ。
「……毎日同じことやってんのか。今日が入校日だからか?」
「入校日じゃなくても同じでしょう」とクライン。
上級生の列が三人の前を通り過ぎていった。
誰もこちらを見なかった。
「……二、三年でああなるのか」
「なるんでしょう。制度上は」
「制度上はって何だよ」
「あなたがあそこまで揃うところがうまく想像できないだけです」
フェリックスは揃った四十人の脚をもう一度見た。
「……揃うだろ、多分。俺だって」
「ええ。きっと」クラインはまったく信じていない声で言った。
***
上級生が二人、モップとバケツを提げてすれ違った。
「東の四番はどっちですか」
「あっち。……シミュレータ棟に近い側だ、気の毒に」
「気の毒?」
「夜中に動くんだよ、あれ。地面が」
フェリックスは訊いた。
「なれますか」
上級生は振り返りもせずに行った。
「慣れなくても、朝は来る」
***
門の内側は街だった。
教練場がいくつも並びその向こうに寮棟が数えるのが馬鹿らしくなる数だけ連なっている。
「一学年三千人だとさ」
アレクが割当票の裏の要覧を読み上げた。
「四学年で一万二千。……士官学校ってこんなに大きかったのか」
「これでも平時の数だそうです」
クラインが言った。誰に聞いたのか、もう調べてある。
「帝国全土の艦隊の将校の補充を一手に賄う学校ですから。ここの卒業生が足りなくなったら艦隊が動かせなくなる」
フェリックスは連なる寮棟の向こうを見た。
一番奥にひときわ大きな建物が黒々と横たわっている。窓が少なく羽根を畳んだ鳥のような形の巨大な棟。
「あれは?」
「シミュレータ棟です。……艦を丸ごと呑む大きさの建物だと聞きました」
艦を丸ごと。
フェリックスはその言葉を口の中で転がした。新しい靴の硬さを少しだけ忘れた。
***
夕食の席は区隊ごとだった。
一個区隊は四十名。
四年間寝起きも教練もこの四十人でやるのだという。
「アレクは甘いの好きだろ。ほらこれやるよ」
向かいの席から菓子皿を滑らせてきたのはトビアス・ブリュックナーだった。
幼年学校からの腐れ縁で同じ区隊に入った。輸送商の家の子だ。
彼は早くも手のひらほどの古びた手帳を開いて何か書きつけていた。
「何を書いてる」
「隣の席のやつ、豆のスープを残した。豆が嫌いなんだな。憶えておく」
「なんでだよ」
「なんでって。四十人で四年だぞ。誰が何を食えて何を食えないか知ってるやつが強い」
トビアスは手帳を仕舞うと身を乗り出して声を落とした。
「それより聞いたか。三年の先輩から仕入れたんだけどな」
「もう先輩と口きいてるのか、お前」
「配膳の列で前にいたんだよ。——この学校、名物の課題があるんだとさ。『戦史再演』っていうやつだ」
戦史再演。
フェリックスはフォークを止めた。
「実際にあった会戦の記録をシミュレータで丸ごと再生するんだと。学生は片方の側の指揮官になって艦隊を一個任される。一万隻とかそういう単位を丸ごとだ」
「……勝てるのか、それ」
「そこだよ」
トビアスは楽しくてたまらないという顔をした。
「相手は歴史に残った名将たちだ。勝てなくて当たり前だって先輩は笑ってた。——で、その先輩が言うには俺たちにも年が明けて春頃には初回課題が当てられるらしい」
「どの会戦をやらされるんだ」
「さあな。年によって違うらしい。アムリッツァだのランテマリオだの」
「アムリッツァか」向かいの席の区隊員が口を挟んだ。
「どうせ同盟側だろ。地獄だな」
「バーミリオンだったらどうする」別の一人が言った。
「帝国側であのヤン・ウェンリーとやるんだぞ」
「死ぬな」
「死ぬ」
「それとな。シミュレータの中で声がするんだと」
「声?」
「敵の声だよ。戦闘記録から音声を起こしてるからそのまんま喋るんだと。……死んでるやつのも」
誰もしばらく何も言わなかった。
「盛りすぎだろ」と誰かが言った。
トビアスは肩をすくめた。
「先輩はそう言ってたぞ」
食卓のあちこちで勝手な推測が飛び交い始めた。
誰も見たことのない課題の話で食堂の一角が沸いている。
「あ、それとな」
トビアスが思い出したように言った。
「初回だけひとつ決まってるらしいぞ。一番手」
「一番手?」
「最初にやらされるやつ。実技首位がやるんだと」
「……実技って格闘と射撃のか」
「ほかにあるか」
「艦隊動かすんだろ。殴り合いが強いと何かいいことあんのか」
「ないだろ」
「じゃあなんでだよ」
「知るかよ」トビアスは笑った。
「先輩もそう訊いたんだと。そしたら先輩の先輩に『昔からだ』って言われたんだと。前の王朝での士官学校の伝統だったらしいぞ。決闘が強い貴族が偉かったんだと」
「本当かよ」
「よくわかんねえな」
フェリックスはその輪の中で一人、口を開きかけて閉じた。
——あの人の、若い頃の戦場もあるのだろうか
訊きかけた言葉はスープと一緒に呑み込んだ。
フェリックスは窓の外のあの黒い棟を見た。艦を丸ごと呑む建物。あの中で歴史の名将たちが次の相手を待っている。
「……早く来ないかな、それ」
言ってから自分の声が思ったより弾んでいたことに気づいてフェリックスは咳払いをした。
***
食堂を出た正面の掲示板に人だかりができていた。
入学序列。
三千人分の名が細かい活字でびっしりと貼り出されている。
首位の名は探すまでもなかった。一番上に一番大きく載っている。
——ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。
当人は掲示板の真ん前に立って腕を組み自分の名を見ていた。
誇るでもなく確かめるように。
幼年学校の五年間ずっと首席だった男はここでも首席で入ってきた。
全科目まんべんなく隙がない。
フェリックスは自分の名を探した。
ずいぶん下まで指でたどって真ん中より少し下で見つけた。
隣にアレクの名がある——のではない。
アレクの名はずっと上だ。
上位の一角
ただし最上段には届かない、悪くもなく突出もしない場所にあった。
クラインの名は探すのに苦労した。
目立たない数字の位置に目立たない顔でおさまっている。
本人は掲示板を一瞥しただけでもう興味をなくしていた。
「おい」
フェリックスが自分の順位に顔をしかめていると横から声がかかった。ハインリヒだった。
彼は掲示板の端の別の一覧を顎で示した。
実技考査。首位——フェリックス・ミッターマイヤー。
「実技首位。貴様か」
「悪いか」
「悪くない。座学は目も当てられんがな。総合、真ん中より下。実技だけで食える時代ではない」
「うるせえな」
「事実。以上」
言い切ってハインリヒは踵を返した。数歩行って止まり振り向かずに言った。
「……次の実技で抜く。憶えておけ」
去っていく背中を見送ってトビアスがフェリックスの肩を叩いた。
「よかったな。気に入られてるぞ、あれは」
「どこがだよ」
人だかりが崩れて掲示板の前が空いた。
トビアスが行こうぜと言ったがフェリックスは動かなかった。
アレクがまだそこにいた。
さっきと同じ場所に立って掲示板を見上げている。
自分の名のあたりではない。一番上でもない。
指が上から下へゆっくり降りていた。
一行ずつ。
指はときどき止まりまた降りた。
「何やってんだ、あいつ」
「数えてんだよ」トビアスは手帳も開かなかった。
指はまだ降りていた。
三千行の半分にも届いていない。
「アレク」
呼ぶと指が止まった。
アレクは振り返って笑った。
「ああ。今行く」
手が掲示板から離れた。
離れるとき指は途中の行を押さえたままだった。
一度だけその行を確かめるように押してそれから降ろした。
***
【同・秋 帝国軍士官学校・本館前庭 クライン】
『外部組』の受付の列は幼年学校からの『内部進学組』とは別に作られていた。
クライン・ヴァルターは書類の控えを事務棟へ届けに行く途中でその列の脇を通った。
一般入試で入ってきた者たち。
歳は同じでも幼年学校の五年間を共有していない顔ぶれ。
列の空気がこちら側とは少し違う。硬くて静かだ。
その列の中ほどに赤橙の毛が見えた。
束ねても崩れるあの赤橙の毛だった。
隣を歩いていたアレクの足が半歩乱れた。
クラインは何も言わずにアレクの視線の先を確かめた。
確かめるまでもなかった。
二年前の秋、幼年学校の塀の上。
少女は受付の事務官に書類を突き出していた。
「これで全部」
短い常体の声。
事務官が何か言い、少女は面倒そうに一枚を書き直した。
名乗る声はここまでは届かなかった。
アレクとクラインは目を見交わした。
どちらも何も言わないまま歩調だけを元に戻した。
***
事務棟の廊下でクラインは入学考査の論述の返却を受け取った。
窓口にいたのは灰色の眉の老教官だった。
机の脇に答案の綴りが背丈ほど積んである。
名簿と照合し渡す。それだけの事務のはずだった。
だが老教官はクラインの答案を渡す手を一瞬だけ止めた。
「ヴァルター候補生」
「はい」
「間違え方が下手だな」
クラインは答案の綴りを受け取った。指先が少しだけ冷えた。
老教官は、それ以上何も言わなかった。名簿に視線を戻し次の者の名を呼んだ。
クラインは一礼して窓口を離れた。廊下を半分ほど歩いてから自分の歩幅がいつもより広いことに気づいて直した。
窓口を離れ際に老教官の名札を見た。
『ブーフナー』とだけ書いてある。階級は書いていない。
机の脇の綴りは三千枚あるはずだった。
廊下の突き当たりの壁に区隊の名簿が貼り出されていた。
氏名の隣に出身星系の欄がある。
クラインは届け物のついでのような顔をしてその欄を上から下まで見た。
帝都圏。帝都圏。帝都圏。オーディン。帝都圏。
指を止めずに数えて四十人のうち辺境の星系の名はひとつだけだった。
それから旧同盟の星系の名もひとつだけあった。
すれ違った教官たちの立ち話が耳の端に残っている。
「——今年も辺境からはほとんど来ておらんそうだ」
「数は埋まる。倍率も落ちてはおらん。埋まるがな……」
続きは廊下の角の向こうに消えた。
クラインは名簿から目を離した。数は埋まる。埋まるが。
その先を教官たちは言わなかったしクラインも考えないことにした。届け物がまだ手の中にあった。
事務棟の玄関で一人の学生とすれ違った。
外部組の腕章。
手にした帝国語の書類を立ち止まって三度読み直している。
名簿にあった旧同盟の星系の名をクラインはなんとなく思い出した。
かつては旧同盟にも大規模な士官学校があったという。
一学年五千人の。
いまはもうない。
学生は書類を畳んで玄関を入っていった。
クラインはそれを見送っただけだった。
***
消灯前の一時間、寮棟の廊下は騒がしかった。
荷解きの続き。故郷への手紙。早くも始まった賭け札。どこかの部屋で靴磨きの当番を押し付け合う声。
談話室の隅ではハインリヒが一人、明日の教練要綱を読み込んでいた。
初日の夜からである。賭け札の輪から「アイゼンベルクも来いよ」と声がかかり彼は顔も上げずに答えた。
「行かん。金の増減に席次は付かん」
「付いたら来るのかよ」
「考える」
輪がどっと沸いた。冗談なのか本気なのか誰にも分からなかった。
トビアスはその賭け札の輪に初日からちゃっかり混ざっていた。負けている。負けながら相手の癖を手帳に書いている気配があった。
アレクは窓際で故郷、というには近すぎる帝都の宮廷への義務的な手紙を書き三行で諦めてフェリックスの荷解きを手伝い始めた。クラインは自分の荷を来たときと同じ形にすぐ戻せる並びで棚に収めていた。
この四年のあいだに彼らは学生と名のつく生き物がやることをひととおり全部やることになる。
アレクが生涯で一度だけ賭け事に手を出し、そして皇帝の権威をもってしても取り返せない額を失ったこと。
フェリックスがなぜか一学年下の生徒たちから『先生』と呼ばれて慕われていた理由。本人がそれを最後まで嫌がっていたこと。
クラインが一度も外泊届を出さなかったのになぜか外泊の常習犯として記録に残っていること。
トビアスの手帳が一度だけ盗まれたこと。そして三日後に中身を書き写した写本のほうが出回ったこと。
ハインリヒが規則違反で処罰された回数、生涯でただ一度。その理由がいまだに本人以外の誰にも分からないこと。
名も知れぬまま入学式を過ぎた赤橙の毛の少女が入学初日から数えてただの一度も食堂の列に並ばず、それでいて一度も食いはぐれなかったこと。
だがそれらはまた別の話である。
窓の外はもう暗い。
遠くにシミュレータ棟の黒い影が街の灯りを背にして横たわっていた。眠っている艦隊のように。
その年の秋は長かった。長く穏やかだった。
洗面所で顔を洗っていると鏡の中にハインリヒが映った。
隣の洗面台に立ち几帳面に袖をまくり上げている。掲示板の前で「次の実技で抜く」と言い捨てた男はこんなところでも姿勢がよかった。
「明日から教練だな」
フェリックスはなんとなく声をかけた。
初日の高揚のような他愛のない一言のつもりだった。
「そうだな」
ハインリヒは前を向いたまま答えた。それきり何も言わない。
沈黙が少しだけ長くなった。フェリックスはその横顔を鏡越しに見た。
見ているうちになぜか幼年学校の演習室のことを思い出した。
教範に載っていない機動で勝ったあの日のこと。あのときこの男が最後に言った一言のこと。
――やはり、血か。
言われたときは意味が分からなかった。
分からないまま数年が過ぎた。
そして今ふと思う。あれはたぶんそういう意味だったんだろうと。
俺の腕は努力じゃない、生まれのおかげだと。
ハインリヒからもそう見下されたんだろうと。
誰に言われてもどうということはない。
あぁそうかい、で済む話だ。実際そう言う奴は今までいくらでもいた。聞き流してきた。
ただ。
よりによってこの男にだけは。
教範を隅から隅まで叩き込んでその正しさで勝ちにくるこの男にだけは。
そう思われるのはなぜだか少しだけこたえた。
「……何だ」
視線に気づいたハインリヒが鏡の中でこちらを見た。
「別に」
フェリックスは蛇口を締めた。言いかけた何かを水と一緒に流した。今日は入学の日だ。こんな日に蒸し返すことでもない。
ハインリヒもそれ以上は問わなかった。袖を戻し几帳面に洗面台を拭いて出ていった。
鏡にはフェリックス一人が残った。
***
「総員、点呼!」
週番士官の声が廊下に響いて四十人が部屋から吐き出され廊下に二列で整列した。
名簿の順に名が読まれていく。
「アイゼンベルク」
「はい」
「ブリュックナー」
「はい」
名と返事。名と返事。
途中に旧同盟ふうの姓がひとつあった。返事の母音にわずかな訛りが残っていた。読み上げる声は他の名と同じ速さで次へ進んだ。
「ローエングラム」
「はい」
皇帝の名は名簿の順番の位置にただあった。前の名と同じ速さで読まれ次の名と同じ速さで過ぎた。
「ミッターマイヤー」
「はい」
「ヴァルター」
「はい」
クラインは自分の声が廊下の空気に混ざって消えるのを聞いた。
名簿の最後の一人まで名が読まれ返事が返った。四十の名。四十の返事。
「番号、異状なし。——消灯五分前」
週番士官が名簿を閉じた。
五分後、寮棟の灯りが端から順に落ちていった。
――誓いを受け取る者が、誓いを差し出す列に、混じっている。次回、『宣誓』