銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十八話 宣誓(新帝国暦一八年秋)

皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの所属する第七区隊の名簿がどのように作られたか。

 

残りの七十四個区隊がどう振り分けられたのかを気にした者はいない。

だが第七区隊だけは(くじ)ではなかった。

 

玉座の隣に素性を洗っていない者を三十九人並べる国家はどこにもない。

 

名簿を作ったのは士官学校ではなかった。

警備する側である。

基準はふたつあった。

 

ひとつ。身上調書が揃っていること。

 

ふたつ。後ろ盾を持っていないこと。

大貴族の縁者は載らない。豪商の子も高級官僚の甥も載らない。

玉座の隣まで誰かの利益を運びうる者は全員、名簿の外に置かれた。

 

結果として名簿は奇妙なものになった。

銀河でもっとも力ある人間の隣に、後ろに誰もいない三十九人が並んだのである。

 

例外は二人だけあった。

一人は先帝の遺言が対等の友にと定めた者。

一人はその姓を警備する側が自分の手で書いた者。

一人は死者の言葉で入り、一人は国家の保証で入った。

どちらも利益を運ばない。

 

ずっと後年、公開されたこの名簿を閲覧した一人の歴史家が余白に書き込みを残している。

 

「帝国史上もっとも名の知られた友情は発端において警備計画であった」

 

歴史家はそこで筆を置いていない。

続きがもう一行ある。

 

「計画できたのは名簿までである」

 

 

***

 

 

【新帝国暦一八年秋 帝都レーヴェンシュテルン・帝国軍士官学校 アレク】

 

宣誓式は第一練兵場で行われた。

朝の空気は硬く乾いて吐く息がわずかに白かった。

 

三千人の新入生が区隊ごとの方陣を組んで立っていた。

四十人で一つの区隊。それが幾つも重なって練兵場を埋めている。

壇上に校長、その左右に教官団、来賓席には軍務省と統帥本部の高官たち。

軍服が所属と階級のぶんだけ席の上で微妙に違っていた。

 

練兵場の三方には上級生の学年方陣が並んで新入生の宣誓を見ていた。

どの方陣もこちらより小さかった。

どの学年も三千で始まったはずだった。

 

新帝国軍士官学校は先の王朝の帝都オーディンからの遷都のさいに新設された。

旧王朝が建てた学び舎の石壁を新王朝は接収し、新帝都レーヴェンシュテルンにそのまま移設した。

石壁は古く、軍旗は新しい。

古い石が新しい旗を支えている、その不釣り合いをアレクは方陣の中から見上げていた。

 

軍楽隊が国歌を終え、喇叭(らっぱ)が一度鳴って練兵場は静まり返った。

 

「宣誓!」

 

号令で三千の右手が一斉に挙がった。

アレクも挙げた。

 

「われら帝国軍士官候補生は——」

 

三千の声が一つの声になって唱和した。

皇帝陛下と帝国臣民に忠誠を誓い、身命を賭してその負託に応えることを、ここに宣誓する。

 

 

声は練兵場の石壁に反響して二重にも三重にも重なって聞こえた。

 

アレクは自分の声がその唱和の中に混ざって消えるのを聞いた。

 

三千人がいま一人の人間に身命を誓った。

その一人は方陣の中ほど、第七区隊の二列目に立っている。

 

誰もこちらを見なかった。

候補生は正面の軍旗だけを見るよう教えられていたし、実際に見ていた。

けれど見ないという形で全員がこの一点を意識していることは肌で分かった。

背中に三千人分の意識の重さがうっすらと乗っていた。

 

閲兵で来賓の列が方陣の前をゆっくり通った。

高官たちは方陣の顔を検分するように歩いていく。

軍務省の男が一人、歩きながら手帳に何か書いた。

統帥本部の男が覗き込んで頷いた。

書かれた候補生は気づいていない。

 

第七区隊の前でその歩みがほんのわずかに緩んだ。

 

囁きがひとつ、列の頭上を通っていった。

 

「——先帝陛下の、再来だな」

 

声の主は分からなかった。

ひとりが言ったのか、誰もが胸のうちで思ったことが一人の口から零れたのか。

アレクは振り向かなかった。

軍旗を見たまま囁きが風と一緒に通り過ぎるのを待った。

 

 

再来。

その言葉をアレクは生まれる前から負わされている。

父が全軍に向けて誓った言葉のなかにまだ胎内にいた自分の名が書き込まれていたのだと、後に知った。

自分が何者になるかを自分が生まれる前に父が公開の場で保証してしまっていた。

 

閲兵の列は緩めた歩みをまた元に戻して次の区隊へ移っていった。

 

一般入試に通った『外部組』の方陣は幼年学校からの『内部進学組』の隣にあった。

 

声が揃っていた。

唱和のあいだ、こちらの方陣よりずっと。

昨日まで軍服を着たことのない者たちのほうが揃っている。

 

五年ぶん先に制服を着ていたのはこちらのはずだった。

 

その二列目に赤橙色の毛がひとつ風に揺れているのが視界の端に見えた。

 

それだけだった。

アレクはそれ以上そちらを見なかった。

 

唱和は終わり、三千の右手は降りていた。

降ろした右手の内側でアレクは考えていた。

 

三千の誓いの宛先ははっきりしている。

壇上の校長ではない。来賓の高官でもない。

玉座だ。至高の玉座に座る人間だ。

その人間はいま候補生の制服を着て方陣の二列目に立っている。

 

 

誓いを受け取るはずの者が差し出す者の中に混ざっている。

 

 

三千人は誓う相手を持っている。

一人だけ持っていない。

 

アレクは宣誓文を最初から最後まで正しく唱和した。

言い終えてから口の中だけで誰にも聞こえない一文を足した。

 

——誓われた者は、誓った者の立つ場所に立つ。

 

誰に要求されたのでもない。

式次第のどこにもそんな一文はなかった。

それは宛先を持たない一人の少年がその朝、自分のために発明した一行の誓約だった。

 

 

***

 

 

入学から十日で最初の論述課題が返ってきた。

 

戦史概論——灰色の眉の老教官の講義である。

入学考査の答案返却の窓口にいたブーフナー教官だった。

 

 

 

課題はリップシュタット戦役の一会戦を題材に敗者の作戦目的の妥当性を論ぜよ——というものだった。

 

アレクは三晩をかけて書いた。

勝敗の決した戦を敗者の側から検証する作業は思っていたより難しかった。

負けた側にもその時点では合理だったはずの判断がある。

それを、結果を知っている人間がどこまで公正に採点できるのか。

 

三晩目の深夜、メモをとる手が疲れていた。

疲れると字が宮廷に遺る父の直筆に似てくる。

似せた憶えはない。疲れた手が勝手にその形を選ぶ。

 

アレクはペンを持ち直して自分の字に戻した。

似ているのが嫌なのではない。

自分の形でないものを手が選ぶのが少しだけ嫌だった。

 

課題返却の前夜、アレクは掲示板の前で自分の入学序列をもう一度見た。

上位の一角。最上段には届かない、悪くもない場所。

 

あの数字をアレクはまだ一度も信じたことがなかった。

 

採点者の誰が皇帝の答案にためらいなく赤を引けるだろう。

引かれなかった赤の分だけ数字は膨らんでいる。

確かめる方法はどこにもなかった。

自分の実力の本当の縁がどこにあるのかを自分で測ることができない。

数字だけが公示されていた。

 

課題返却と成績発表は名簿の順に名を呼ぶ形で行われた。

 

「アイゼンベルク」——A(アー)。優

「ブリュックナー」——C(ツェー)。可

「ミッターマイヤー」——F(エフ)。不可

 

名と評点が淡々と読み上げられていく。

教壇の老教官は名簿から一度も顔を上げない。

 

「ローエングラム」

 

アレクは教壇に進み出て答案を受け取った。

受け取る手の中で頁の端の評点が見えた。

 

F(エフ)。不可

 

「設問一、論拠は足りている。設問二、論拠の飛躍。引用した戦例の補給条件が設問の前提と合っていない。設問三、可。設問四、結論が前提を検証していない。総合、不可。以上」

 

老教官は名簿から顔を上げずに採点基準を読み上げた。

声には非難も遠慮も何もなかった。

直前の候補生に評点を告げたのと等分の速さ、等分の温度だった。

皇帝の名も名簿の一行として前後の名と同じ速さで処理された。

 

アレクは一礼して席に戻った。

 

席に着いてからもう一度評点の字を見た。

『F(不可)』の文字は癖のある古い書体で力の加減もなく書かれていた。

容赦がない、というのとも違う。

情がない、ということですらない。

ただ答案だけが見られていた。

書いた人間が誰であるかは、この評点に一片も混ざっていない。

 

胸の底で何かがほどけた。

それは屈辱ではなかった。

屈辱のちょうど裏側にあるものだった。

 

——この国はまだ健康だ。

 

皇帝の答案に不可を引ける教官が一人でもいるうちは。

公示された数字を恐怖で水増しせずに読める人間が一人でもいるうちは。

 

アレクは自分の答案を鞄の一番深いところに仕舞った。

捨てずに取っておこうと思った。

初めて信じられた一枚の数字だった。

 

四十人の評点が読み終わったとき、後ろの席で誰かが小声で言った。

優が三つ、不可が二十。

老教官の講義は初回からそういう相場なのだと、後で上級生から聞いた。

 

隣の席でフェリックスが自分の答案を睨んでいた。

「……何が駄目なんだ、これ」

 

「補給が届かない前提の戦例を届く前提の設問に貼ったんですよ、あなたは」とクライン。

 

「難しいこと言うな」

 

「難しくないです。腹が減った軍隊は動かない、それだけの話です」

 

アレクはその遣り取りを聞きながら鞄の底の一枚をそっと押さえた。

 

 

***

 

 

【同・秋 第三教練場 フェリックス】

 

 

白兵訓練は入学十日目から始まっていた。

 

二年生からは新帝国軍の装甲擲弾兵が使用する炭素クリスタル製の戦斧(トマホーク)を使用した訓練が行われる。

 

だが新入生は模擬銃剣に防具。二人一組の対抗訓練だった。

組み合わせは名簿の順に回っていき、三巡目でフェリックスはそれを見た。

 

アレクと組んだ候補生の突きが当たる寸前で失速したのだ。

肩口へ入るはずだった一撃は勢いを失って防具の表面を撫でた。

 

教官が笛を吹いた。

「打ち込め!訓練にならん!」

 

候補生は打ち込んだ。

また寸前で緩んだ。

 

次の組でも、その次の組でも同じことが起きた。

別の候補生、別の緩み方。

本人に自覚があるのかどうかも怪しかった。

手が勝手に最後の一寸で止まるのだ。

 

理屈は単純だった。

相手は皇帝だ。

皇帝を打った、という記憶を誰も自分の手に残したくない。

たとえ模擬の銃剣でも。

だから数十本の腕が申し合わせたわけでもないのに同じ一寸を残す。

 

 

「抜きます」

ハインリヒは防具の紐を締めながら前を見たまま言った。

「相手が陛下だからではありません。誰が相手でも抜きます。ミッターマイヤーは全速で出した突きを一寸で止めます。だから全速で出せる。ですが私にはその精度がありません。当てれば御怪我をさせます。ゆえに抜きます」

嘘ではなかった。

その日の組み手でハインリヒの手は教範どおりの位置で止まった。

三十七人の手と同じ位置だった。

 

「勘弁してくれよ」

トビアスは投げられて起き上がりながらまだ笑っていた。

「俺は商家の生まれだよ。損得しか勘定できない。アレクに一本入れて何が入る。入らないどころか俺は一生、皇帝陛下を投げた男と言われるよ」

 

教官の顔は笛を吹くたびに赤くなった。

「相手は候補生だ!候補生を打てん者が、敵を打てるか!」

 

正論だった。

正論で手が動くなら誰も苦労はしない。

 

アレク本人は防具の中で仏頂面をしていた。

打たれ損ならまだいい。

打たれ損にすらなっていないのだ。

訓練で汗をかいているのに汗をかいた実感だけが手に入らない。

 

 

場の隅に安全指導の上級生が二人、立っていた。

同じ顔をしていた。

片方が笑っていた。

片方は笑っていなかった。

ホーエンリート家の双子兄弟である。

アンゼルム・フォン・ホーエンリートと、ゼヴェリン・フォン・ホーエンリート。

 

二学年上で、白兵の教練には怪我人を出さないための世話係として毎回顔を出す。

父親は軍人ではない。

先帝の時代に大規模な民間人の避難と軍需工廠の再編を仕切った行政官である。

家はそのときに新貴族として叙爵された。

門閥の記憶を持たない家だった。

数百年ぶんの誇りも、成り上がりの気負いも二人は持っていない。

貴族であることを天気のように受け入れている。

 

見分けはつく。

顔ではない。

片方はよく笑い、片方はまったく笑わないからである。

 

「——次の彼も止まるだろうな」

ゼヴェリンが言った。

「皇帝を打って得るものは何もない。外しても失うものはない。単純な損得の話だ。計算するまでもない」

 

「止まると思うよ」

アンゼルムが答えた。

「あの人、まだ子供じゃないか。痛いのはかわいそうだろう?薄情じゃないか」

 

「かわいそうかどうかは関係がない」

ゼヴェリンは教練場を見たままだった。

「アンゼルム。誰もかわいそうだから止まるのではない。損だから止まる」

 

「ゼヴェリン。僕はそうは思わないけれど」

アンゼルムは微笑んでいた。

「……でも止まると思うよ」

 

二人はそれきり黙った。

理由が正反対だった。

一人は『損得』で語り、もう一人は『情』で語る。

だがいつも辿り着く結論は同じだった。

 

教官の笛がまた鳴った。

四巡目でフェリックスの番が来た。

 

一瞬、フェリックスも迷わなかったといえば嘘になる。

けれど迷いは防具越しにアレクの目を見た瞬間に消えた。

打て、という目だった。

頼むからまともに一本くれ、という目だった。

 

思いきり打ち込んだ。

受けを弾き、返しの突きで胴を取り、三本目で足を払ってアレクを地面に転がした。

 

防具の奥でアレクが笑ったのが分かった。

起き上がりながら防具越しに「助かった」と言った気がした。

教官は初めて笛を吹かなかった。

 

その日からアレクの相手はなるべくフェリックスが引き受けるようになった。

本気で打てる相手が一人いる。それだけのことがこの学校では贅沢だった。

 

 

***

 

 

「——外れたな、アンゼルム」

ゼヴェリンが防具を積みながら言った。

 

「外れたよ、ゼヴェリン」

アンゼルムがその上に一つ載せた。

 

「なぜ、あれは打てた」

 

「打ってほしそうな顔をしていたからじゃないか?」

 

「防具の中だぞ。顔は見えん」

 

「見えたと思うよ。ミッターマイヤーには」

 

ゼヴェリンは手を止めなかった。

「……ならば陛下は得をしたな。本気で打てる相手が一人。数十人ぶんの価値はある」

 

「違うよ、ゼヴェリン。……得たんじゃ、ないと思うよ」

 

「では何だ。アンゼルム」

 

アンゼルムは少し考えた。

「もともと、あったんじゃないかな」

 

ゼヴェリンは答えなかった。

積み終えた防具の山を二人で見上げた。

「灯、落としてくる」

 

「うん」

教練場の明かりが一つずつ消えていった。

 

 

のちにこの二人、アンゼルムとゼヴェリンのホーエンリート兄弟は皇帝の秤(カイザーヴァーゲ)と呼ばれる。

誰が最初にそう呼んだのかは分かっていない。

 

数々の戦場で二人は艦隊を並べて率いた。

兄が情から敵を読み、弟が損得から敵を読む。

二枚の報告がいつも同じ結論で司令部に届いた。

 

情の皿と損得の皿。

どちらに載せても目盛りはたいてい同じところで止まった。

 

後年、二人の評伝を書いた歴史家はその章に「二度、同じことを言う兄弟」と題した。

褒めているのか呆れているのか、文面からは判じがたい。

 

もっとも、この夜の二人は防具を積んで灯を落としただけである。

 

 

***

 

 

月末に最初の実技考査があった。

分隊単位の機動演習である。

仮設の市街で二個分隊が攻守に分かれ、旗を取り合う。

 

フェリックスの分隊の相手はハインリヒの分隊だった。

 

考査の前夜、掲示板の前でハインリヒが組み合わせ表を見ていた。

フェリックスが通りかかると彼は表から目を離さずに言った。

「明日は貴様か」

 

「そうだな」

 

「教範どおりに来い。教範どおりに私が勝つ」

 

「善処するよ」

 

「善処、という語を貴様は勝つ側の意味で使っているな」

 

言い当てられてフェリックスは笑った。

ハインリヒは笑わなかった。

ただ表の自分の名の位置を指の背でひとつ叩いて去っていった。

 

翌朝、演習が始まった。

 

ハインリヒの防御は教範の見本のようだった。

斥候の配置、火線の重ね方、予備隊の置き所——

どこを切っても教範の頁がそのまま出てくる。

 

教官が採点表を持って満足そうに頷いているのが遠目に見えた。

まともに攻めればまともに負ける。

 

だからまともには攻めなかった。

 

演習地の外周に古い排水溝があった。

先の王朝の時代の排水路で、いまは使われていない。

教範が「通行不能」に分類する幅の溝である。

分隊の半数を入れるには装具を外し、匍匐で這わせるしかない。

 

フェリックスはそうした。

 

半個分隊が溝の底の泥を這っているあいだ、残る半個分隊は正面から堂々と教範どおりの攻撃前進を見せた。

ハインリヒの防御線はその教範どおりの動きに教範どおりに応じた。

 

予備隊が正面へ吸い寄せられた。

その予備隊が抜けた背後の空白へ泥まみれの半個分隊が溝から這い出した。

 

旗の奪取を審判が宣したとき、ハインリヒの引いた防御線は機能しなかった。

撃つべき敵が教範のどこにも「いてはならない場所」から現れたからだ。

 

講評のあいだ、フェリックスは勝った側の列に立って負けた側の列の先頭を見ないようにしていた。

教官はフェリックスの機動を「独創的だが、実戦なら溝で全滅もあり得た」と評した。

それから間を置いて「だが勝ちは勝ちだ」と付け足した。

 

見ないでいられたのはその講評が終わるまでだった。

 

整列が解けたとき、ハインリヒがこちらを見ていた。

 

怒りではなかった。

悔しさとも違った。

物差しを当てたのに寸法が合わない、とでもいうような——測りかねる目。

 

世界を読むための物差しの、目盛りと目盛りのあいだに落ちているもの。

それを見てしまったときの据わりの悪い目。

 

数年前にも、見た目だった。

 

 

***

 

 

器材の返納は分隊ごとに倉庫へ運ぶ決まりだった。

 

運び終えて外へ出ると、倉庫の裏手にハインリヒが立っていた。

待ち伏せていたわけではないらしい。

彼の分隊の返納先が隣の倉庫だっただけだ。

 

目が合った。

まだあの目をしていた。

 

気づくと右の拳を握っていた。

握って、開こうとして、開かなかった。

掌に爪の痕が残った。

 

言うつもりのなかった言葉が口から出た。

「またその目か」

 

ハインリヒの眉が動いた。

 

「……言えよ。『どうせ血だ』って今度こそはっきり言え」

 

「何の話だ」

 

「とぼけるな。幼年学校の演習からずっとだ。俺が教範の外で勝つたびにお前はその目をする。腕じゃない、血だって言いたいんだろう。あの男の息子だから勝てるんだって。なら言え。聞き流してやる」

 

聞き流すどころの声でないことは言いながら自分でも分かった。

 

数年ぶん寝かせたぶんだけ言葉は勝手に増えた。

誰に言われてもどうということはない話のはずだった。

実際そう言う奴は今までいくらでもいて、全部聞き流してきた。

 

 

ただ、この男にだけは。

 

 

ハインリヒは本当に分からない、という顔で立っていた。

それから彼なりに何かを組み立て終えたらしく、声が一段低くなった。

「……つまり貴様はこう言いたいのか。教範を修めた程度の私の努力など自らの血の前では笑い話だと」

 

「誰がそんな話をした」

 

「貴様がしている。いくら積んでも貴様には届かん努力を嗤いに来たか」

 

「話をすり替えるな」

 

「すり替えたのは貴様だ」

 

 

嚙み合っていない。

そのことだけが嚙み合っていた。

 

 

最初の一撃がどちらのものだったか、後になっても二人とも思い出せなかった。

気がつくと口の中が切れていて、ハインリヒの襟が歪んでいた。

 

二人は一度だけ離れた。

ハインリヒは上着を脱ぎ、几帳面に畳んで器材箱の上に置いた。

皺が寄らないよう袖を合わせ、二つに折り、角を揃えた。

畳み終えるまでフェリックスは待った。

 

この男が何を脱いだのかをフェリックスは考えなかった。

ただ待った。

それから続きを始めた。

 

寸止めはなかった。

防具も審判も教範もなかった。

 

拳は顔面に入り、入り返された。

一発、二発、三発。

一発ごとに視界が白く弾けて、また戻った。

倉庫の陰で誰かが声を上げ、誰かが呼びに走り、走った先から人が増えた。

増えた人垣は遠巻きのまま、誰ひとり間に入ってこなかった。

 

殴りながらハインリヒが言った。

「貴様——それなりにやるな」

 

「るせえ」

 

「血と言ったことは撤回し、謝罪する」

 

「……こっちこそ」

 

何がこっちこそなのか、言った本人にも分からなかった。

分からないまま次の一撃を出した。

相手も出した。

 

両方、当たった。

 

倒れたのは同時だった、という。

人垣の証言は後にそう揃った。

 

器材箱の上の上着だけが畳まれたまま、皺ひとつなく残っていた。

運ばれていく二人を人垣が道を開けて通した。

誰かが上着を取って追いかけた。

 

 

***

 

 

医務室の寝台は隣同士だった。

 

軍医は二つの顔を等分に消毒し、等分に呆れた。

それから報告書の用紙を出して上から順に書き始めた。

何も訊かなかった。

 

「……転んだんだ」

フェリックスが言った。

 

「知ってる」

軍医は手を止めなかった。

 

書き終えると用紙を持って出ていった。

消毒液のにおいだけが部屋に残った。

窓の外はもう暗い。

 

天井を見たままフェリックスは言った。

「……俺はてっきりお前は俺たちを妬んでるんだと思ってた」

 

「何をだ」

 

「幼年学校のときに御学友(ゲシュピーレ)に選ばれなかったこととか。いろいろだ」

 

沈黙があった。

包帯の下でハインリヒが本気で困惑しているのが気配で分かった。

 

「……意味がわからん」

 

「わかれよ、そこは」

 

「選ばれなかったのは私の完成度が足りなかったからだ。なぜそこに貴様らが関係する」

 

ハインリヒは天井に向かって続けた。

「貴様らを引きずり下ろして私の何が上がる。一段も上がらん。時間の無駄だ。……理解できん感情だな、嫉妬というのは。人の順位を下げることに労力を割く。その労力を自分に使えば自分の順位が上がる。なぜ皆そうしない」

 

フェリックスは笑おうとして、切れた唇が痛んでやめた。

この男は本気で言っている。

妬みという感情の存在を頭では知っていても、身体では一度も通ったことがないのだ。

 

「……あのときさ」

 

言葉は勝手に出た。

 

「幼年学校の演習のあと。『やはり、血か』って言ってお前は行ったよな。俺はずっと——」

 

「憶えている」

 

ハインリヒはこちらを見なかった。

 

「あれは問いだった。侮蔑などではない」

 

それきり黙った。

フェリックスも続きを言わなかった。

数年ぶんの続きはもう要らなくなっていた。

 

しばらくしてハインリヒが言った。

 

「三十までは数えた」

 

「……何がだよ」

 

「貴様が立ったまま受けた数だ。三十まで数えてやめた。倒れる気配がなかったからだ。殴りながら数を数えるのをやめたのは初めてだ」

 

数えてたのかよ、と言いかけてやめた。

この男は数えるのだ。

席次も、点数も、殴った回数も。

誰にも見せない日誌に積み上げた努力の頁数も。

世界をそうやって読んできた男なのだ。

 

そして今日、その数が途中で意味を失った。

教範のどこにも殴られてなお立ち続ける項目はない。

血統の項もない。

拳の速さも、痛みへの耐性も、倒れない意志も彼の物差しには載っていない。

 

それでもそれはそこに在った。

努力でも血でもない、何かとして。

 

「教範に立ち続け方の項はない」

 

謝罪の続きのはずだったが、その声は謝罪にしては妙に晴れていた。

 

フェリックスは天井を見た。

消毒液のにおいの中で悪くない夜だと思った。

 

 

***

 

 

【同・秋 第七区隊 アレク】

 

 

翌朝の点呼に二つの顔が並んだ。

 

顔の右半分が濡れた布を詰め込んだように膨れ上がったフェリックスと、左目が腫れた瞼の奥に消えたハインリヒが名簿の順の位置に何事もなかったように立っていた。

週番士官は名簿から顔を上げ、二人を見てもう一度名簿を見た。

 

「……ミッターマイヤー候補生。その顔はどうした」

 

「転びました」

 

「アイゼンベルク候補生」

 

「転びました」

 

廊下の四十人がまっすぐ前を見ていた。

誰も笑わなかった。

笑わないために全員が奥歯を嚙んでいた。

 

週番士官は二つの顔を等分に見比べた。

 

同じ夜に二人が揃ってあれほど派手に転ぶ廊下が、この寮のどこにあるのか。

問い詰めればいくらでも崩せる嘘だった。

崩せば私闘として処罰が要る。

私闘での処罰は記録に残る。

 

士官は名簿に短く何かを書き込んだ。

——転倒二名。

 

 

記録が事実の代わりに静かに嘘を選んだ。

 

朝食の席でトビアスが動いた。

 

盆を持って当然のような顔でフェリックスとハインリヒの間に割り込んだのだ。

「ほら」とフェリックスの盆に軟らかいパンを置く。

「口の中が切れてるやつは堅パンを(かじ)るな。しみるぞ」

 

それからハインリヒの盆にも同じ軟らかいパンを置いた。

 

「……要らん」

 

「そうか。じゃそこに置いとくから」

 

トビアスは手帳を開いて何か短く書きつけた。

アイゼンベルクの頁がこの朝、一行ぶん増えた。

 

要らんと言われたパンは置かれたまま、食事の終わりには消えていた。

 

アレクは少し離れた席からそれを見ていた。

フェリックスが何か言い、トビアスが転がすように笑う。

ハインリヒが「ミッターマイヤー、咀嚼(そしゃく)してから喋れ」と切って捨てる。

 

三人、というより二人と一人が同じ卓で同じ軟らかいパンを食っていた。

 

昨夜までその卓にハインリヒの席はなかった。

誰が招いたのでもない。

トビアスが盆ひとつで二人のあいだに割り込んでそこに席を一つ作った。

 

講義棟へ渡る廊下でアレクはフェリックスと並んだ。

「派手に転んだな」

 

「ああ。廊下が滑る」

 

「医務室の廊下か」

 

「そう、それ」

 

フェリックスは腫れていない側の口の端でにっと笑った。

向かいからハインリヒが歩いてきて、すれ違いざまフェリックスと目が合った。

 

どちらも何も言わなかった。

言わない口の端が両方、同じ角度で持ち上がっていた。

 

アレクはその二つの口の端を少しうらやましく思った。

自分にはあんなふうに殴り合える相手がこれからも現れない。

皇帝の顔を本気で殴れる者はいない。

三千の誓いはそういう距離のことでもあった。

 

羨望をアレクは仕舞った。

 

 

***

 

 

【同・秋 某辺境惑星】

 

 

その文書に表題はなかった。

番号を振られた項目が罫の上に並んでいるだけだった。

 

「七。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。

公示される席次を信じるな。この者の席次と能力は採点する側の恐怖を差し引いて読む必要がある。本人が誰より先に自己を疑っている。自分の数字を疑い続ける皇帝。崩すには疑いの天秤に重しをそっと足すとよい。」

 

「八。フェリックス・ミッターマイヤー。

自己への挑発には強い。ただし出自に触れられるとこの者は動けなくなる。主君と友の侮辱に動揺する。育ての父母への侮辱には激発する。押すならそこだ。幼年学校で検証済みである。」

 

 

 

頁をめくる音が規則正しく続いていた。

「八」の項でその音が止まった。

 

人が崩れる場所の一覧だった。

戦力でも、配置でも、兵站でもない。

 

どこを押せば誰がどんなふうに折れるか。

それだけを几帳面に書き留めた一冊。

 

ただ、精度と悪意の前で読み手が沈黙する一拍だけがあった。

 

内側で一人の少年が宛先のない誓いを立てた同じ日に、外側では皇帝やその級友数十人の崩し方が高い値をつけて売られていた。

 

長い沈黙のあと。

また、頁をめくる音がした。




――疾風は、三日、動かなかった。次回、『戦史再演・アルテナ星域の会戦(前編)』
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