皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの所属する第七区隊の名簿が、どのように作られたか。
残りの七十四個区隊が、どう振り分けられたのかを、気にした者はいない。
だが第七区隊だけは、
玉座の隣に、素性を洗っていない者を三十九人並べる国家は、どこにもない。
名簿を作ったのは、士官学校ではなかった。
警備する側である。
基準は、ふたつあった。
ひとつ。身上調書が、揃っていること。
ふたつ。後ろ盾を、持っていないこと。
大貴族の縁者は、載らない。豪商の子も、高級官僚の甥も、載らない。
玉座の隣まで、誰かの利益を運びうる者は、全員、名簿の外に置かれた。
結果として、名簿は奇妙なものになった。
銀河でもっとも力ある人間の隣に、後ろに誰もいない三十九人が、並んだのである。
例外は、二人だけあった。
一人は、先帝の遺言が、対等の友にと定めた者。
一人は、その姓を、警備する側が自分の手で書いた者。
一人は死者の言葉で入り、一人は国家の保証で入った。
どちらも、利益を運ばない。
ずっと後年、公開されたこの名簿を閲覧した一人の歴史家が、余白に書き込みを残している。
「帝国史上もっとも名の知られた友情は、発端において、警備計画であった」
歴史家は、そこで筆を置いていない。
続きが、もう一行ある。
「計画できたのは、名簿までである」
***
【新帝国暦一八年秋 帝都レーヴェンシュテルン・帝国軍士官学校 アレク】
宣誓式は、第一練兵場で行われた。
朝の空気は硬く乾いて、吐く息がわずかに白かった。
三千人の新入生が、区隊ごとの方陣を組んで立っていた。
四十人で一つの区隊。それが幾つも重なって、練兵場を埋めている。
壇上に校長、その左右に教官団、来賓席には軍務省と統帥本部の高官たち。
軍服が、所属と階級のぶんだけ、席の上で微妙に違っていた。
練兵場の三方には、上級生の学年方陣が並んで、新入生の宣誓を見ていた。
どの方陣も、こちらより小さかった。
どの学年も、三千で始まったはずだった。
新帝国軍士官学校は、先の王朝の帝都オーディンからの遷都のさいに、新設された。
旧王朝が建てた学び舎の石壁を、新王朝は接収し、新帝都レーヴェンシュテルンにそのまま移設した。
石壁は古く、軍旗は新しい。
古い石が新しい旗を支えている、その不釣り合いを、アレクは方陣の中から見上げていた。
軍楽隊が国歌を終え、
「宣誓!」
号令で、三千の右手が一斉に挙がった。
アレクも挙げた。
「われら帝国軍士官候補生は——」
三千の声が、一つの声になって唱和した。
皇帝陛下と帝国臣民に忠誠を誓い、身命を賭してその負託に応えることを、ここに宣誓する。
声は練兵場の石壁に反響して、二重にも三重にも重なって聞こえた。
アレクは、自分の声がその唱和の中に混ざって消えるのを聞いた。
三千人が、いま、一人の人間に身命を誓った。
その一人は、方陣の中ほど、第七区隊の二列目に立っている。
誰も、こちらを見なかった。
候補生は正面の軍旗だけを見るよう教えられていたし、実際に見ていた。
けれど、見ないという形で全員がこの一点を意識していることは、肌で分かった。
背中に、三千人分の意識の重さがうっすらと乗っていた。
閲兵で、来賓の列が方陣の前をゆっくり通った。
高官たちは方陣の顔を検分するように歩いていく。
軍務省の男が一人、歩きながら手帳に何か書いた。
統帥本部の男が覗き込んで、頷いた。
書かれた候補生は、気づいていない。
第七区隊の前で、その歩みが、ほんのわずかに緩んだ。
囁きがひとつ、列の頭上を通っていった。
「——先帝陛下の、再来だな」
声の主は分からなかった。
ひとりが言ったのか、誰もが胸のうちで思ったことが一人の口から零れたのか。
アレクは振り向かなかった。
軍旗を見たまま、囁きが風と一緒に通り過ぎるのを待った。
再来。
その言葉を、アレクは生まれる前から負わされている。
父が全軍に向けて誓った言葉のなかに、まだ胎内にいた自分の名が書き込まれていたのだと、後に知った。
自分が何者になるかを、自分が生まれる前に、父が公開の場で保証してしまっていた。
閲兵の列は、緩めた歩みをまた元に戻して、次の区隊へ移っていった。
一般入試に通った『外部組』の方陣は、幼年学校からの『内部進学組』の隣にあった。
声が、揃っていた。
唱和のあいだ、こちらの方陣より、ずっと。
昨日まで軍服を着たことのない者たちのほうが、揃っている。
五年ぶん先に制服を着ていたのは、こちらのはずだった。
その二列目に、赤橙色の毛がひとつ風に揺れているのが視界の端に見えた。
それだけだった。
アレクは、それ以上そちらを見なかった。
唱和は終わり、三千の右手は降りていた。
降ろした右手の内側で、アレクは考えていた。
三千の誓いの宛先は、はっきりしている。
壇上の校長ではない。来賓の高官でもない。
玉座だ。至高の玉座に座る人間だ。
その人間は、いま候補生の制服を着て、方陣の二列目に立っている。
誓いを受け取るはずの者が、差し出す者の中に混ざっている。
三千人は、誓う相手を持っている。
一人だけ、持っていない。
アレクは宣誓文を、最初から最後まで、正しく唱和した。
言い終えてから、口の中だけで、誰にも聞こえない一文を足した。
——誓われた者は、誓った者の立つ場所に、立つ。
誰に要求されたのでもない。
式次第のどこにも、そんな一文はなかった。
それは宛先を持たない一人の少年が、その朝、自分のために発明した一行の誓約だった。
***
入学から十日で、最初の論述課題が返ってきた。
戦史概論——灰色の眉の老教官の講義である。
入学考査の答案返却の窓口にいた、ブーフナー教官だった。
課題は、リップシュタット戦役の一会戦を題材に、敗者の作戦目的の妥当性を論ぜよ——というものだった。
アレクは三晩をかけて書いた。
勝敗の決した戦を敗者の側から検証する作業は、思っていたより難しかった。
負けた側にも、その時点では合理だったはずの判断がある。
それを、結果を知っている人間がどこまで公正に採点できるのか。
三晩目の深夜、メモをとる手が疲れていた。
疲れると、字が、宮廷に遺る父の直筆に似てくる。
似せた憶えはない。疲れた手が、勝手にその形を選ぶ。
アレクはペンを持ち直して、自分の字に戻した。
似ているのが嫌なのではない。
自分の形でないものを手が選ぶのが、少しだけ嫌だった。
課題返却の前夜、アレクは掲示板の前で自分の入学序列をもう一度見た。
上位の一角。最上段には届かない、悪くもない場所。
あの数字を、アレクはまだ一度も、信じたことがなかった。
採点者の誰が、皇帝の答案にためらいなく赤を引けるだろう。
引かれなかった赤の分だけ、数字は膨らんでいる。
確かめる方法は、どこにもなかった。
自分の実力の、本当の縁がどこにあるのかを、自分で測ることができない。
数字だけが、公示されていた。
課題返却と成績発表は、名簿の順に名を呼ぶ形で行われた。
「アイゼンベルク」——A(アー)。優
「ブリュックナー」——C(ツェー)。可
「ミッターマイヤー」——F(エフ)。不可
名と評点が、淡々と読み上げられていく。
教壇の老教官は、名簿から一度も顔を上げない。
「ローエングラム」
アレクは教壇に進み出て、答案を受け取った。
受け取る手の中で、頁の端の評点が見えた。
F(エフ)。不可
「設問一、論拠は足りている。設問二、論拠の飛躍。引用した戦例の補給条件が、設問の前提と合っていない。設問三、可。設問四、結論が前提を検証していない。総合、不可。以上」
老教官は名簿から顔を上げずに、採点基準を読み上げた。
声には非難も遠慮も、何もなかった。
直前の候補生に評点を告げたのと、等分の速さ、等分の温度だった。
皇帝の名も、名簿の一行として、前後の名と同じ速さで処理された。
アレクは一礼して、席に戻った。
席に着いてから、もう一度、評点の字を見た。
『F(不可)』の文字は、癖のある古い書体で、力の加減もなく書かれていた。
容赦がない、というのとも違う。
情がない、ということですらない。
ただ、答案だけが見られていた。
書いた人間が誰であるかは、この評点に、一片も混ざっていない。
胸の底で、何かがほどけた。
それは屈辱ではなかった。
屈辱の、ちょうど裏側にあるものだった。
——この国は、まだ、健康だ。
皇帝の答案に不可を引ける教官が一人でもいるうちは。
公示された数字を、恐怖で水増しせずに読める人間が、一人でもいるうちは。
アレクは自分の答案を、鞄の一番深いところに仕舞った。
捨てずに、取っておこうと思った。
初めて信じられた一枚の数字だった。
四十人の評点が読み終わったとき、後ろの席で誰かが小声で言った。
優が三つ、不可が二十。
老教官の講義は、初回からそういう相場なのだと、後で上級生から聞いた。
隣の席で、フェリックスが自分の答案を睨んでいた。
「……何が駄目なんだ、これ」
「補給が届かない前提の戦例を、届く前提の設問に貼ったんですよ、あなたは」と、クライン。
「難しいこと言うな」
「難しくないです。腹が減った軍隊は動かない、それだけの話です」
アレクはその遣り取りを聞きながら、鞄の底の一枚をそっと押さえた。
***
【同・秋 第三教練場 フェリックス】
白兵訓練は、入学十日目から始まっていた。
二年生からは、新帝国軍の装甲擲弾兵が使用する炭素クリスタル製の
だが、新入生は、模擬銃剣に防具。二人一組の対抗訓練だった。
組み合わせは名簿の順に回っていき、三巡目でフェリックスはそれを見た。
アレクと組んだ候補生の突きが、当たる寸前で失速したのだ。
肩口へ入るはずだった一撃は、勢いを失って防具の表面を撫でた。
教官が笛を吹いた。
「打ち込め!訓練にならん!」
候補生は打ち込んだ。
また、寸前で緩んだ。
次の組でも、その次の組でも、同じことが起きた。
別の候補生、別の緩み方。
本人に自覚があるのかどうかも、怪しかった。
手が勝手に、最後の一寸で止まるのだ。
理屈は、単純だった。
相手は皇帝だ。
皇帝を打った、という記憶を、誰も自分の手に残したくない。
たとえ模擬の銃剣でも。
だから数十本の腕が、申し合わせたわけでもないのに、同じ一寸を残す。
「抜きます」
ハインリヒは防具の紐を締めながら、前を見たまま言った。
「相手が陛下だからではありません。誰が相手でも抜きます。
ミッターマイヤーは、全速で出した突きを一寸で止めます。だから全速で出せる。
ですが、私にはその精度がありません。当てれば、御怪我をさせます。ゆえに抜きます」
嘘ではなかった。
その日の組み手で、ハインリヒの手は、教範どおりの位置で止まった。
三十七人の手と、同じ位置だった。
「勘弁してくれよ」
トビアスは、投げられて起き上がりながら、まだ笑っていた。
「俺は商家の生まれだよ。損得しか勘定できない。
アレクに一本入れて、何が入る。
入らないどころか、俺は一生、皇帝陛下を投げた男と言われるよ」
教官の顔は、笛を吹くたびに赤くなった。
「相手は候補生だ!候補生を打てん者が、敵を打てるか!」
正論だった。
正論で手が動くなら、誰も苦労はしない。
アレク本人は、防具の中で仏頂面をしていた。
打たれ損なら、まだいい。
打たれ損にすら、なっていないのだ。
訓練で汗をかいているのに、汗をかいた実感だけが手に入らない。
場の隅に、安全指導の上級生が二人、立っていた。
同じ顔をしていた。
片方が、笑っていた。
片方は、笑っていなかった。
ホーエンリート家の双子兄弟である。
アンゼルム・フォン・ホーエンリートと、ゼヴェリン・フォン・ホーエンリート。
二学年上で、白兵の教練には、怪我人を出さないための世話係として毎回顔を出す。
父親は軍人ではない。
先帝の時代に、大規模な民間人の避難と、軍需工廠の再編を仕切った行政官である。
家は、そのときに新貴族として叙爵された。
門閥の記憶を持たない家だった。
数百年ぶんの誇りも、成り上がりの気負いも、二人は持っていない。
貴族であることを、天気のように受け入れている。
見分けは、つく。
顔ではない。
片方はよく笑い、片方はまったく笑わないからである。
「——次の彼も、止まるだろうな」
ゼヴェリンが言った。
「皇帝を打って、得るものは何もない。外しても、失うものはない。単純な損得の話だ。計算するまでもない」
「止まると思うよ」
アンゼルムが答えた。
「あの人、まだ子供じゃないか。痛いのは、かわいそうだろう?薄情じゃないか」
「かわいそうかどうかは、関係がない」
ゼヴェリンは、教練場を見たままだった。
「アンゼルム。誰も、かわいそうだから止まるのではない。損だから止まる」
「ゼヴェリン。僕は、そうは思わないけれど」
アンゼルムは、微笑んでいた。
「……でも、止まると思うよ」
二人は、それきり黙った。
理由が、正反対だった。
一人は『損得』で語り、もう一人は『情』で語る。
だが、いつも辿り着く結論は、同じだった。
教官の笛が、また鳴った。
四巡目で、フェリックスの番が来た。
一瞬、フェリックスも迷わなかったといえば、嘘になる。
けれど迷いは、防具越しにアレクの目を見た瞬間に消えた。
打て、という目だった。
頼むから、まともに一本くれ、という目だった。
思いきり、打ち込んだ。
受けを弾き、返しの突きで胴を取り、三本目で足を払ってアレクを地面に転がした。
防具の奥で、アレクが笑ったのが分かった。
起き上がりながら、防具越しに「助かった」と言った気がした。
教官は、初めて笛を吹かなかった。
その日から、アレクの相手はなるべくフェリックスが引き受けるようになった。
本気で打てる相手が一人いる。それだけのことが、この学校では贅沢だった。
***
「——外れたな、アンゼルム」
ゼヴェリンが、防具を積みながら言った。
「外れたよ、ゼヴェリン」
アンゼルムが、その上に一つ載せた。
「なぜ、あれは打てた」
「打ってほしそうな顔をしていたからじゃないか?」
「防具の中だぞ。顔は見えん」
「見えたと思うよ。ミッターマイヤーには」
ゼヴェリンは、手を止めなかった。
「……ならば、陛下は得をしたな。本気で打てる相手が一人。数十人ぶんの価値はある」
「違うよ、ゼヴェリン。……得たんじゃ、ないと思うよ」
「では、何だ。アンゼルム」
アンゼルムは、少し考えた。
「もともと、あったんじゃないかな」
ゼヴェリンは、答えなかった。
積み終えた防具の山を、二人で見上げた。
「灯、落としてくる」
「うん」
教練場の明かりが、一つずつ消えていった。
のちにこの二人、アンゼルムとゼヴェリンのホーエンリート兄弟は、
誰が最初にそう呼んだのかは、分かっていない。
数々の戦場で、二人は艦隊を並べて率いた。
兄が情から敵を読み、弟が損得から敵を読む。
二枚の報告が、いつも同じ結論で司令部に届いた。
情の皿と、損得の皿。
どちらに載せても、目盛りはたいてい同じところで止まった。
後年、二人の評伝を書いた歴史家は、その章に「二度、同じことを言う兄弟」と題した。
褒めているのか呆れているのか、文面からは判じがたい。
もっとも、この夜の二人は、防具を積んで、灯を落としただけである。
***
月末に、最初の実技考査があった。
分隊単位の機動演習である。
仮設の市街で二個分隊が攻守に分かれ、旗を取り合う。
フェリックスの分隊の相手は、ハインリヒの分隊だった。
考査の前夜、掲示板の前で、ハインリヒが組み合わせ表を見ていた。
フェリックスが通りかかると、彼は表から目を離さずに言った。
「明日は貴様か」
「そうだな」
「教範どおりに来い。教範どおりに、私が勝つ」
「善処するよ」
「善処、という語を、貴様は勝つ側の意味で使っているな」
言い当てられて、フェリックスは笑った。
ハインリヒは笑わなかった。
ただ、表の自分の名の位置を、指の背でひとつ叩いて、去っていった。
翌朝、演習が始まった。
ハインリヒの防御は、教範の見本のようだった。
斥候の配置、火線の重ね方、予備隊の置き所——
どこを切っても、教範の頁がそのまま出てくる。
教官が採点表を持って、満足そうに頷いているのが遠目に見えた。
まともに攻めれば、まともに負ける。
だから、まともには攻めなかった。
演習地の外周に古い排水溝があった。
先の王朝の時代の排水路で、いまは使われていない。
教範が「通行不能」に分類する幅の溝である。
分隊の半数を入れるには、装具を外し、匍匐で這わせるしかない。
フェリックスは、そうした。
半個分隊が溝の底の泥を這っているあいだ、残る半個分隊は正面から堂々と、教範どおりの攻撃前進を見せた。
ハインリヒの防御線は、その教範どおりの動きに、教範どおりに応じた。
予備隊が正面へ吸い寄せられた。
その予備隊が抜けた背後の空白へ、泥まみれの半個分隊が、溝から這い出した。
旗の奪取を審判が宣したとき、ハインリヒの引いた防御線は、機能しなかった。
撃つべき敵が、教範のどこにも「いてはならない場所」から現れたからだ。
講評のあいだ、フェリックスは勝った側の列に立って、負けた側の列の先頭を見ないようにしていた。
教官は、フェリックスの機動を「独創的だが、実戦なら溝で全滅もあり得た」と評した。
それから間を置いて、「だが、勝ちは勝ちだ」と付け足した。
見ないでいられたのは、その講評が終わるまでだった。
整列が解けたとき、ハインリヒがこちらを見ていた。
怒りでは、なかった。
悔しさとも、違った。
物差しを当てたのに寸法が合わない、とでもいうような——測りかねる目。
世界を読むための物差しの、目盛りと目盛りのあいだに落ちているもの。
それを見てしまったときの、据わりの悪い目。
数年前にも、見た目だった。
***
器材の返納は、分隊ごとに倉庫へ運ぶ決まりだった。
運び終えて外へ出ると、倉庫の裏手にハインリヒが立っていた。
待ち伏せていたわけではないらしい。
彼の分隊の返納先が、隣の倉庫だっただけだ。
目が、合った。
まだ、あの目をしていた。
気づくと、右の拳を握っていた。
握って、開こうとして、開かなかった。
掌に、爪の痕が残った。
言うつもりのなかった言葉が、口から出た。
「またその目か」
ハインリヒの眉が、動いた。
「……言えよ。『どうせ血だ』って、今度こそはっきり言え」
「何の話だ」
「とぼけるな。幼年学校の演習からずっとだ。俺が教範の外で勝つたびに、お前はその目をする。腕じゃない、血だって言いたいんだろう。あの男の息子だから勝てるんだって。なら言え。聞き流してやる」
聞き流すどころの声でないことは、言いながら自分でも分かった。
数年ぶん寝かせたぶんだけ、言葉は勝手に増えた。
誰に言われても、どうということはない話のはずだった。
実際、そう言う奴は今までいくらでもいて、全部聞き流してきた。
ただ、この男にだけは。
ハインリヒは、本当に分からない、という顔で立っていた。
それから彼なりに何かを組み立て終えたらしく、声が一段低くなった。
「……つまり貴様は、こう言いたいのか。教範を修めた程度の私の努力など、自らの血の前では笑い話だと」
「誰がそんな話をした」
「貴様がしている。いくら積んでも貴様には届かん努力を、嗤いに来たか」
「話をすり替えるな」
「すり替えたのは貴様だ」
嚙み合っていない。
そのことだけが、嚙み合っていた。
最初の一撃がどちらのものだったか、後になっても、二人とも思い出せなかった。
気がつくと口の中が切れていて、ハインリヒの襟が歪んでいた。
二人は、一度だけ離れた。
ハインリヒは上着を脱ぎ、几帳面に畳んで、器材箱の上に置いた。
皺が寄らないよう袖を合わせ、二つに折り、角を揃えた。
畳み終えるまで、フェリックスは待った。
この男が何を脱いだのかを、フェリックスは考えなかった。
ただ、待った。
それから、続きを始めた。
寸止めは、なかった。
防具も審判も、教範もなかった。
拳は顔面に入り、入り返された。
一発、二発、三発。
一発ごとに、視界が白く弾けて、また戻った。
倉庫の陰で誰かが声を上げ、誰かが呼びに走り、走った先から人が増えた。
増えた人垣は遠巻きのまま、誰ひとり、間に入ってこなかった。
殴りながら、ハインリヒが言った。
「貴様——それなりに、やるな」
「るせえ」
「血と言ったことは、撤回し、謝罪する」
「……こっちこそ」
何がこっちこそなのか、言った本人にも分からなかった。
分からないまま、次の一撃を出した。
相手も出した。
両方、当たった。
倒れたのは同時だった、という。
人垣の証言は、後にそう揃った。
器材箱の上の上着だけが、畳まれたまま、皺ひとつなく残っていた。
運ばれていく二人を、人垣が道を開けて通した。
誰かが上着を取って、追いかけた。
***
医務室の寝台は、隣同士だった。
軍医は二つの顔を等分に消毒し、等分に呆れた。
それから報告書の用紙を出して、上から順に書き始めた。
何も訊かなかった。
「……転んだんだ」
フェリックスが言った。
「知ってる」
軍医は手を止めなかった。
書き終えると、用紙を持って出ていった。
消毒液のにおいだけが、部屋に残った。
窓の外は、もう暗い。
天井を見たまま、フェリックスは言った。
「……俺はてっきり、お前は俺たちを妬んでるんだと思ってた」
「何をだ」
「幼年学校のときに、
沈黙があった。
包帯の下で、ハインリヒが本気で困惑しているのが、気配で分かった。
「……意味がわからん」
「わかれよ、そこは」
「選ばれなかったのは、私の完成度が足りなかったからだ。なぜそこに、貴様らが関係する」
ハインリヒは、天井に向かって続けた。
「貴様らを引きずり下ろして、私の何が上がる。一段も上がらん。時間の無駄だ。……理解できん感情だな、嫉妬というのは。人の順位を下げることに、労力を割く。その労力を自分に使えば、自分の順位が上がる。なぜ皆、そうしない」
フェリックスは笑おうとして、切れた唇が痛んで、やめた。
この男は、本気で言っている。
妬みという感情の存在を、頭では知っていても、身体では一度も通ったことがないのだ。
「……あのときさ」
言葉は、勝手に出た。
「幼年学校の演習のあと。『やはり、血か』って言って、お前は行ったよな。俺はずっと——」
「憶えている」
ハインリヒは、こちらを見なかった。
「あれは、問いだった。侮蔑などではない」
それきり、黙った。
フェリックスも、続きを言わなかった。
数年ぶんの続きは、もう要らなくなっていた。
しばらくして、ハインリヒが言った。
「三十までは数えた」
「……何がだよ」
「貴様が立ったまま受けた数だ。三十まで数えて、やめた。倒れる気配がなかったからだ。殴りながら数を数えるのをやめたのは、初めてだ」
数えてたのかよ、と言いかけて、やめた。
この男は、数えるのだ。
席次も、点数も、殴った回数も。
誰にも見せない日誌に積み上げた、努力の頁数も。
世界を、そうやって読んできた男なのだ。
そして今日、その数が、途中で意味を失った。
教範のどこにも、殴られてなお立ち続ける項目はない。
血統の項もない。
拳の速さも、痛みへの耐性も、倒れない意志も、彼の物差しには載っていない。
それでも、それは、そこに在った。
努力でも、血でもない、何かとして。
「教範に、立ち続け方の項はない」
謝罪の続きのはずだったが、その声は、謝罪にしては妙に晴れていた。
フェリックスは天井を見た。
消毒液のにおいの中で、悪くない夜だと思った。
***
【同・秋 第七区隊 アレク】
翌朝の点呼に、二つの顔が並んだ。
顔の右半分が濡れた布を詰め込んだように膨れ上がったフェリックスと、左目が腫れた瞼の奥に消えたハインリヒが、名簿の順の位置に何事もなかったように立っていた。
週番士官は名簿から顔を上げ、二人を見て、もう一度名簿を見た。
「……ミッターマイヤー候補生。その顔はどうした」
「転びました」
「アイゼンベルク候補生」
「転びました」
廊下の四十人が、まっすぐ前を見ていた。
誰も、笑わなかった。
笑わないために、全員が奥歯を嚙んでいた。
週番士官は、二つの顔を等分に見比べた。
同じ夜に、二人が揃ってあれほど派手に転ぶ廊下が、この寮のどこにあるのか。
問い詰めれば、いくらでも崩せる嘘だった。
崩せば、私闘として、処罰が要る。
私闘での処罰は、記録に残る。
士官は、名簿に短く何かを書き込んだ。
——転倒二名。
記録が、事実の代わりに、静かに嘘を選んだ。
朝食の席で、トビアスが動いた。
盆を持って、当然のような顔で、フェリックスとハインリヒの間に割り込んだのだ。
「ほら」と、フェリックスの盆に軟らかいパンを置く。
「口の中が切れてるやつは、堅パンを
それから、ハインリヒの盆にも、同じ軟らかいパンを置いた。
「……要らん」
「そうか。じゃ、そこに置いとくから」
トビアスは手帳を開いて、何か短く書きつけた。
アイゼンベルクの頁が、この朝、一行ぶん増えた。
要らんと言われたパンは、置かれたまま、食事の終わりには消えていた。
アレクは少し離れた席から、それを見ていた。
フェリックスが何か言い、トビアスが転がすように笑う。
ハインリヒが「ミッターマイヤー、
三人、というより二人と一人が、同じ卓で同じ軟らかいパンを食っていた。
昨夜まで、その卓に、ハインリヒの席はなかった。
誰が招いたのでもない。
トビアスが盆ひとつで二人のあいだに割り込んで、そこに席を一つ作った。
講義棟へ渡る廊下で、アレクはフェリックスと並んだ。
「派手に転んだな」
「ああ。廊下が滑る」
「医務室の廊下か」
「そう、それ」
フェリックスは、腫れていない側の口の端で、にっと笑った。
向かいからハインリヒが歩いてきて、すれ違いざま、フェリックスと目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
言わない口の端が、両方、同じ角度で持ち上がっていた。
アレクは、その二つの口の端を、少しうらやましく思った。
自分には、あんなふうに殴り合える相手が、これからも現れない。
皇帝の顔を、本気で殴れる者はいない。
三千の誓いは、そういう距離のことでもあった。
羨望を、アレクは仕舞った。
仕舞うのは、得意だった。
***
【同・秋 某辺境惑星】
その文書に、表題はなかった。
番号を振られた項目が、罫の上に並んでいるだけだった。
「七。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。
公示される席次を信じるな。この者の席次と能力は、採点する側の恐怖を差し引いて読む必要がある。本人が、誰より先に自己を疑っている。自分の数字を疑い続ける皇帝。崩すには、疑いの天秤に重しをそっと足すとよい。」
「八。フェリックス・ミッターマイヤー。
自己への挑発には強い。ただし、出自に触れられると、この者は動けなくなる。主君と友の侮辱に、動揺する。育ての父母への侮辱には、激発する。押すなら、そこだ。幼年学校で検証済みである。」
頁をめくる音が、規則正しく続いていた。
「八」の項で、その音が、止まった。
人が崩れる場所の一覧だった。
戦力でも、配置でも、兵站でもない。
どこを押せば、誰が、どんなふうに折れるか。
それだけを几帳面に書き留めた、一冊。
ただ、精度と悪意の前で、読み手が沈黙する一拍だけがあった。
内側で、一人の少年が宛先のない誓いを立てた同じ日に、外側では、皇帝やその級友数十人の崩し方が、高い値をつけて売られていた。
長い沈黙のあと。
また、頁をめくる音が、した。
次回、本日22時更新予定。
――疾風は、三日、動かなかった。次回、『戦史再演・アルテナ星域の会戦(前編)』