【新帝国暦一九年春 帝国軍士官学校・戦史講堂 フェリックス】
入学から半年が過ぎた。
最初の冬は教練で明けて教練で暮れた。
座学、体術、機関、通信。
フェリックスは座学の追試に三度呼ばれ、三度とも実技考査の首位でなんとか総合順位を取り返した。
教官のひとりが答案を返しながら短く言った。戦場が筆記なら貴様は死んでいる。フェリックスは、はいと答えて次の週も追試に呼ばれた。
ハインリヒは相変わらず首席だった。
全科目に隙がない。掲示板の一番上から一度も動かない。
クラインは相変わらずどこにもいなかった。
名簿の真ん中あたりの誰の記憶にも残らない位置に静かにいる。ただ時々、教官が彼の答案の講評に苦慮していることにフェリックスは気づいていた。
***
そしてアレクだった。
区隊の全員が彼をどう扱えばいいのか半年かけてもまだ決めかねていた。
教練で組み手をすれば相手は必ず寸前で力を抜く。
フェリックスだけが本気で投げ、本気で投げ返される。他の三十八人はそうしない。
***
食事の列では誰かが必ず一歩下がってアレクを先に通そうとする。
アレクは毎回それを断り、断られた相手は困った顔をして翌日にはまた同じことをする。
罰もそうだった。区隊の誰かが遅刻すれば四十人全員が走らされる。連帯責任である。だが四十人の中で一人だけ走らされない者がいる。走ることを許されていない者がいる。
一度アレクが週番士官に食い下がったことがあった。自分も走ります、と。士官は困惑して規則の綴りをめくり、そこに書かれていないことを確認してそれでも首を振った。前例がありません、と言った。誰も悪意はなかった。誰も。
アレクはその日、走る三十九人を動かずに見ていた。
そのときの顔をフェリックスはたぶん一生忘れないだろうと思った。
***
「……なあ」
夜、消灯後の寝台でアレクが天井に向かって言ったことがある。
「学生ってなんだと思う」
「は?」
「僕はここに皇帝として来たのか、学生として来たのか。……たぶん両方なんだ。両方だからどっちでもない」
フェリックスは答えを持っていなかった。持っていないまま寝返りを打った。
アレクもそれ以上は言わなかった。
――そんな半年だった。
噂だけがじわじわと大きくなっていった。
戦史再演。入学初日にトビアスが仕入れてきたあの名物課題。上級生の口から断片が漏れてくる。去年の学年は何をやらされた、一昨年はどうだった、誰が何分持ちこたえた。数字だけが尾ひれをつけて廊下を回る。
そして開校以来初回課題に勝った学生は一人もいない、という一行だけがどの噂にも必ずついていた。
春になり、その日は掲示ひとつで来た。
第一学年、戦史講堂へ集合。時刻のほかには何も書かれていない。何をやらされるのかは席に着くまで分からなかった。
***
戦史講堂の照明が落ち、正面の大投影に星図が浮かんだ。
アルテナ星系。
その名を見た瞬間に講堂のあちこちで小さく息を呑む音がした。
「戦史再演。本校の名物課題だ」
壇上の老教官ブーフナーは手元の端末に一度も目を落とさずに言った。
戦史演習を統べて三十年になるという灰色の眉の教官である。
「諸君は明日から実際にあった会戦の記録と戦う。シミュレータは二十一年前の会戦記録を再生する」
機械と戦うのですか、と誰かが問うた。
ブーフナー教官は首を振った。
「二十一年前にその宙域にいた人間だ。諸君が戦うのは記録に残った人間の思考そのものだ。――なめてかかるなよ。記録は学生だからといって手加減をしてくれんぞ」
投影が切り替わり、演習要綱が並んだ。
課題会戦、リップシュタット戦役緒戦・アルテナ星域会戦。
学生は
開始局面は会戦三日目、敵情報の受信直後の状況付与から。
勝利条件はただ一つ、ローエングラム陣営本隊の到着前に敵先遣艦隊を撃破すること。
「時間切れも壊走も等しく敗北だ。艦を残して退がる判断は講評では見るが判定の欄に書かれる文字は変わらん」
「本課題は第一学年全員の共通課題とする。この学期のあいだに三千人の全員が同じ椅子に座ってもらう」
「記録は全学年の実施が終わるまで封をする。他人の戦いぶりは見られん。
座る前に他人の答えを見ればそれは再演ではない。写経だ」
「ただし第一号のみ実施を公開とする。
第一学年の全員が同時刻に実時間でこれを見る。
諸君は各自の実施の前に他人の戦いぶりを一件だけ持つことになる。
全員が同じ一件を持つ。ゆえに公平だ」
ブーフナー教官はそこで一度だけ言葉を切った。
「もっともそれで勝てるほどやわな課題にはしておらん」
そこで一度だけ言葉を切った。
「実施の順は実技考査の序列に従う。――最初の一人を呼ぶ」
講堂の空気がわずかに張った。
「貴族連合軍司令官役、第一号――フェリックス・ミッターマイヤー」
講堂が静かになった。
振り返る者はいなかった。振り返らないという形で全員がこちらを見ていた。
ただ一人だけ。
斜め前の席でハインリヒ・フォン・アイゼンベルクがまっすぐにこちらを振り向いた。
目が合うと硬い所作で一度だけ頷いてすぐに前へ向き直る。
実技序列第二号の男である。
フェリックスは立ち上がってにっと笑ってみせた。
「拝命します」
声はよく通った。我ながら上出来だと思った。
着席するまでの数秒間、大投影の隅にある対戦相手の欄を見ないでいることにだけ集中した。
敵ローエングラム陣営の艦隊司令官は見なくても知っている。
二十一年前にアルテナ星系に近い恒星間空間で貴族連合軍一万六千隻を三日で潰走させた先遣艦隊指揮官。当時三十歳にも満たない若い提督。
のちに
「言っておくが」
ブーフナー教官の声がざわめきかけた講堂を抑えた。
「この演習で勝ちを認められた学生は開校以来一人もいない」
それから老教官は初めて名簿から顔を上げた。
「ミッターマイヤー。記録をよく予習することだ。
同級生であれば誰に相談しても構わんぞ。何人でも何時間でもいい」
「……上級生は」
「駄目だ。あれはカンニングになる」
「記録は公開なんですよね」
「公開だ。だから記録を読むのはカンニングにならん」
老教官はそこで言葉を切らなかった。
「上級生が持っているのは記録ではない。あれは一度その椅子に座っている。
訊けば教えるだろう。教わったものを貴様は持って座ることになる。
――それは貴様の負けではない」
講堂は静かだった。
「相談しろ。三千人いる」
言い終えて老教官は名簿に視線を戻した。
***
【同年 帝国軍士官学校・資料閲覧室 クライン】
消灯時限まであと四時間。
資料閲覧室の最奥、三人掛けの卓に端末を三台並べてクライン・ヴァルターは会戦記録の読み込みを終えた。
戦闘データは全学生に公開されている。
隠された情報は何もない。艦隊の運動記録、通信記録、砲戦記録、損害記録。二十一年前の三日間が秒単位でそこにあった。
卓の前を同級生が通っていく。
「ミッターマイヤー、がんばれよ」
「参考にさせてもらうぜ、明日」
「負けっぷりに期待してるからな」
フェリックスはそのたびに片手を挙げて応えた。
悪意のある声はひとつもなかった。
「……人気だな」
アレクが言った。
「全員、明日タダで一件もらえるからな」
フェリックスは端末に目を戻した。
「まず全体を通します」
クラインが言うと正面のフェリックスが頷き、隣のアレクが椅子を引き寄せた。
再生を始める。
クラインが言うと正面のフェリックスが頷き、隣のアレクが椅子を引き寄せた。
再生を始める。
帝国暦四八八年四月十九日。
ガイエスブルク要塞を出撃したシュターデン提督の指揮する貴族連合軍一万六千隻は、アルテナ星系に近い恒星間空間でローエングラム陣営のミッターマイヤー提督が指揮する先遣艦隊一万四千五百隻と相対した。
障害物のないまっさらな宙域である。
疾風ウォルフの先遣艦隊は自軍の前方に核融合機雷六百万個を敷設し、艦隊を球形陣に編成して――そのまま動かなくなった。
一日目。動かない。
二日目。動かない。
三日目の夜、貴族連合軍の通信部が敵側から漏れた通信を拾う。
ローエングラム侯の本隊が接近しつつあり、先遣艦隊は戦わずに時間を稼ぎ、合流ののち圧倒的多数をもって全面攻勢に出るつもりである。
そこから先は半日で終わっていた。
再生が止まるとフェリックスが最初に口を開いた。
「……おかしいだろ」
「どこがですか」
「動いてない。三日間。あの疾風ウォルフが、だ」
フェリックスは画面の中の球形陣を睨んでいた。
帝国軍人であの異名の由来を知らない者はいない。
艦隊運動の速さで戦史に名を刻んだ男がこの会戦では決着までのほとんどの時間を静止に費やしている。
「動く必要がなかったんでしょう」
クラインは言った。
事実としてはそのとおりのはずだった。
だがフェリックスは納得しない顔のまま記録の冒頭をもう一度呼び出した。
この違和感は保留にするしかない。
クラインは損害記録の欄を開いた。
隣でアレクの手が止まっているのに気づいた。
視線の先は貴族連合軍右翼――ヒルデスハイム艦隊八〇〇〇の損害欄だった。
撃沈された艦の数の下に戦死者数の概算が載っている。桁の多い数字だ。
「二十年以上前に死んだ人の数字だぞ」
フェリックスが横から言った。
アレクは目を離さずに答えた。
「数字じゃないよ」
それから短く息を吐いて顔を上げた。
「――ごめん。続けよう」
***
攻め手の検討はフェリックスの提案から始まった。
「正面はどうだ。機雷原を強行突破して球形陣に斬り込む」
「計算します」
クラインは損耗の見積もりを走らせた。
未啓開の機雷原六百万個。
横断だけで自艦隊の三割前後が消える。
残る自軍一万一千で球形陣を組み待ち構えていた
結果、当方全滅、ローエングラム側残存艦艇一万~一万二千。
史実より悪い負け方だ。
結果を画面に出すとフェリックスは十秒黙って、それから言った。
「次だ」
「掃海はどうかな」とアレク。
「機雷原の位置は最初から公開されてる。見えている罠なら除ける」
「掃海艇の処理能力から計算します」
計算するまでもなかったが数字で潰すのがクラインの役目だった。
連合軍の掃海戦力で安全な回廊を啓開する時間はどれほど楽観しても丸一日以上。
持ち時間が足りない。
敵が一切掃海を妨害しないで傍観してくれる、新たな機雷も撒かない、という演習ならではの条件であってもだ。
「桁が二つ足りません。機雷の掃除が終わる頃にはローエングラム軍本隊が到着し、戦争が終わっています」
「なら大回りだ。機雷原ごと迂回して向こう側から殴る」
「向こうの艦隊の方が速いです。回り込む前にローエングラム陣営本隊が到着して敗北です」
「……本隊が来なけりゃいいのにな」
フェリックスがぼやいた。
そこでアレクが記録の三日目を呼び出した。
「そこなんだけど。この通信、変だと思わないか」
敵側から漏れた本隊接近の報。
シュターデン提督はこれを欺瞞と疑い、しかし正しい情報を故意に流した可能性もあると考えて判断を保留し警戒の厳重化を命じている。
その夜、抑えを失った青年貴族たちが出撃を強要して会戦が始まった。
「欺瞞ならまだよかったんだ」
アレクは画面を見たまま言った。
「嘘なら見破ればいい。分析して矛盾を突けばいつかは剥がれる。でもこの報せは――本物だった。本隊は実際に接近していて、会戦が終わった直後に到着してる」
「本当のことを流して何が悪い」
「本当のことを武器として流したのです」
クラインの声は静かだった。
「シュターデン提督は理論の人です。敵の行動には合理がある、という前提で読む人です。その人に向かって真実か欺瞞か判定できない情報を撃ち込んだのです。」
「真偽の判定ができないから合理に基づく推論そのものが止まる。推論が停止した司令部の下で我慢の限界に来ていた貴族たちが暴発する。
……
沈黙が落ちた。
クラインは自分の指先が冷えているのに気づいた。
「一番怖いのは嘘をつく敵じゃないんだな」
フェリックスが呟いた。
誰もその先を続けなかった。
***
「機動記録を再生します。今度は座標系を変えて」
クラインは三日目以降の敵艦隊の運動を呼び出し、基準点を敵旗艦から切り離して機雷原の中心に置き直した。
これは癖のようなものだった。
ものを見るときは相手の目線と、相手が見ているものの目線と、両方から見る。
再生した瞬間に分かった。
「……ああ」
「どうした」
「ミッターマイヤー提督が見ているのは敵だけではありません」
二人が同時にこちらを向いた。
クラインは画面を回して見せた。
機雷原中心の座標系で再生すると敵艦隊の全機動が恐ろしく単純な図形になる。
円弧。円弧。円弧。
すべての運動が機雷原を軸にした旋回で描かれていた。
「連合軍がどこへ動いてもこの人の機動は変わらないんです。参照しているのは敵の位置よりむしろ自分が敷いた機雷原との距離と角度です。自分の構築した地形を見ています」
「地形って、お前。何もない宙域だぞ」
「だから作ったんです」
クラインは新しい図を描いた。
中央に円。機雷原。
その縁のすぐ外側に小さな弧を一本、ずっと外側に大きな弧を一本。
「会戦後半、ミッターマイヤー艦隊は機雷原のすぐ外側を回っています。自分たちが撒いた機雷ですから機雷の座標は詳細に把握している。一方の貴族連合軍は万一にも見落とした機雷に触れないよう安全距離をとって回るしかない。同じ円の中心を内と外で回るんです。校庭のトラックで内側のレーンと外側のレーンで競走をしたらどちらが勝ちますか」
「そりゃ内側――」
言いかけてフェリックスの顔色が変わった。
「回り込めないのか。永遠に」
「はい。挟撃も包囲も敵に対して角度を稼ぐ運動です。この盤面では両軍とも機雷原の周りを回ることしかできません。そして内側の弧は外側の弧よりかならず短い」
「速度で上回れば」
「計算します。外周から角度で追いつくには敵の三割増しの艦速が要ります。貴族連合軍の練度ではとても」
「無理だ」フェリックスが自分で言った。
「なら内側に踏み込む。同じ半径で回れば条件は同じだろう」
「内側の弧は機雷原の縁です。それから敵の砲火の圏内です」
クラインは損害記録のあの桁の多い欄を指した。
「――史実でヒルデスハイム艦隊が消えた場所です」
長い沈黙があった。
フェリックスは卓に肘をつき、両手で口元を覆って図を見つめていた。
アレクは背もたれに身を預けて天井を見ていた。先に口を開いたのはアレクだった。
「整理しよう。この人は何もない宙域に自分で地形を作った。その地形は正面からの攻めを封じる盾で、敵に分進か迂回かどちらかを強制的に選択させた。で、いざ会戦が始まれば機雷原は艦隊からの砲撃と挟む形で敵をすり潰す『金床』になる。三つの機能を機雷六百万個で同時に買ってる」
「時間も買ってるぞ」とフェリックス。
「本隊到着までの時計は最初から向こうの味方だ。待ってるだけで勝ちが転がり込む盤面を開戦前に作り終えてた」
「そして仕上げに三日目に『真実』の情報を一発だけ撃ち込んで敵の指揮系統を内側から崩壊させた」
アレクは天井を見たままゆっくりとまとめた。
「……接触の前に勝敗が決まってたんだ。会戦の三日間は決まっていた勝敗を盤面の上に清書しただけで」
疾風、とフェリックスが小さく言った。
「艦隊運動が速いから『疾風』なんだとずっと思ってた」
その先は言わなかった。
言えるほどにはまだ掴めていない――そういう顔だった。
クラインにもその正体はまだ見えない。
三日間の静止の奥に何があるのか。
機能の説明ならできる。
待てば勝つ盤面だから待った。
合理的だ。だがフェリックスの引っかかっているものはたぶんそれではない。
保留の欄にクラインはその違和感を書き入れた。
***
それを口にするかどうかクラインは三十秒迷った。
発見してしまったのだ。
座標系を変えて機動を眺めていたとき、時刻表と一緒に。
黙っていることもできた。
だが三人で卓を囲んでいる以上、見つけたものを出さないのは計算を間違えるのと同じ種類の不正直だった。
「……一つだけ勝てる手があります」
二人が動きを止めた。
「敵は記録です。人間ではありません。そして全機動の時刻表はここに公開されています。三日目の何時何分にどの座標で
クラインは図の上の一点を指した。
金床。
史実でヒルデスハイム艦隊が消えた座標。
「囮の小部隊に右翼の役を演じさせて本隊をこの座標に先回りさせます。敵は記録どおりこの時刻にここへ来ます。来た敵を、待ち構えた本隊と囮と敵自身の機雷原で三方から塞ぐ。……成立します。数字の上では開校以来の初勝利です」
沈黙はさっきまでのどの沈黙とも違っていた。
フェリックスの目に一瞬、火が入るのが見えた。
勝てる。
あの教官の「一人もいない」を覆せる。
誰よりもあの人の記録を相手に。
その火を見ながらアレクが静かに訊いた。
「クライン。その手で勝ったとして――誰に勝ったことになる?」
クラインは答えを持っていた。
発見した瞬間から答えだけは分かっていた。
「……『記録』に、です」
「そうだよね」
アレクは頷いた。責める調子はどこにもなかった。
「二十一年前のミッターマイヤー提督は見えたものに応じて動いた人間だ。何も見ず敵の待ち伏せ先に突っ込んでいく提督はシミュレーション記録の中にしかいない。この手は疾風を倒す手じゃない。
それから少しだけ間を置いて言い足した。
「この演習で僕たちが借りてるのはあの日そこで戦った人たちの背中だと思う。背中を借りておいて背中を撃つのは――どうなのかな」
「……はい」
クラインは意外なほどすんなりとその言葉を呑めた。
発見の誇りは残った。棄てる判断の正しさも同じだけ残った。両方持っていていいのだとアレクの言い方は思わせた。
「そうだよなぁ」
フェリックスが天井を仰いで大げさに言った。目の中の火はもう普段の温度に戻っていた。
「まあ、あれだ。そんな勝ち方したって父上は――」
言いかけて止まった。
一拍おいて言い直した。
「――敵は痛くも痒くもないもんな」
誰もそこには触れなかった。
クラインは端末に向き直り、いま捨てた作戦の計算書を削除せずに別の階層へ移した。
「では保管します」
「使わないのに?」とフェリックス。
「使わない、と決めた記録ごと保管します」
アレクが小さく笑った。
そして冗談とも本気ともつかない調子でクラインは付け加えた。
「……生きた敵が記録のように動いてくれるなら話は別なんですが」
「そんな軍隊がどこにあるんだよ」
「いたら怖いだろ」
アレクとフェリックスの声が重なって三人とも少し笑った。
***
扉が軽く二度叩かれた。
返事を待たずに開いてトビアス・ブリュックナーが顔を出す。
黒パンに肉を挟んだものと湯気の立つコーヒーカップを三つ載せた盆を両手で抱えていた。
「精が出るな。差し入れだ。食堂からくすねてきた」
そう言いながら卓に広げた星図と三人の顔とをひととおり見渡す。
何を話していたのかは訊かなかった。訊かずに疲れの色だけを読んだようだった。
一つずつ卓の隅に置いていく。
陶器のカップが三つ。縁が一つ欠けている。
支給品だから三つとも同じ形をしていた。
中身だけが三つとも違った。
アレクの前に甘いのを、フェリックスの前に濃いのを、クラインの前に薄いのを。
いつもは胸ポケットの手帳をめくってから配る男が今日はめくらなかった。
「トビアスも混ざれよ。名案が一個も出てねえんだ」
フェリックスが椅子の背にもたれて言った。
トビアスは笑って盆を抱え直す。
「混ざらねえよ。おれが入ると話が三倍長くなるだけだ」
盆を小脇に戸口へ戻った。
振り返ってフェリックスを見る。
「明日の朝飯は抜くなよ」
それだけ言って出ていった。
扉が閉まる。
フェリックスが濃いコーヒーを一口すすって笑った。
アレクも手を伸ばしてひとつ息をつく。二人とも当たり前のように置かれたものを受け取っていた。
クラインは自分の前のカップを見ていた。
頭が先に勘定を始めた。
これは何の借りか。
夜食の一杯にいつどう釣り合うものを返せばいいのか。
親切にはいつも値札がついているはずだった。
だが値札はどこにもなかった。
手帳も見ずに置かれた薄い一杯は見返りを当てにして差し出されたものではない。
ただ憶えていた、というだけの――勘定の立たない種類の親切だった。
礼を言おうとした。
言葉が一拍だけ遅れた。
その一拍の間に扉はもう閉まっていた。
「……いただきます」
誰にともなくクラインは呟いた。
聞く相手はもういない。
言い損ねた、と胸の内に書きとめて彼はカップに口をつけた。薄いコーヒーはまだ温かかった。
***
最後に残った手は一つだった。
「両翼分進だ」
フェリックスが言った。
図の上に左右へ分かれる二本の矢印を引く。
「左翼で敵正面を拘束して右翼で外から回る。史実と同じ形だ。ただし史実と違って右翼を貴族の功名心には預けない。艦隊の規律を保って『金床の口』、つまり機雷原と敵艦隊の間をできるだけ小さくして届くところまで行く。時間が尽きる前に削れるだけ削る」
「敵艦隊と機雷原の間の空間がどうやっても閉じられないのは変わりませんよ」
「分かってる。あちらが機雷を敷いて待っている以上、こちらが回り込めないのも時間が向こうの味方なのも分かってる。それでも番狂わせが起きるとしたら両翼分進しかない。」
「それにな。一つだけこっちがシュターデン提督より恵まれてる点がある」
フェリックスは端末の演習要綱を叩いた。
「演習の艦隊は俺たちの命令にちゃんと従う。出撃を強要する貴族も功名に逸る指揮官もいない。史実であの人の盤面を完成させた最後の駒――貴族連合軍の内輪揉めがこの演習には存在しないんだ」
「指示に従うだけだよ」
アレクが静かに言った。
「従順になるだけで上手くはならない。練度は記録のままだ。……それに気づいてるか。史実の敗因を一つ取り除いてもらった条件で戦って、それでも負けたら」
その先をアレクは言わなかった。
言わなくても分かった。それはもう言い訳の利かない本物の完敗だということだ。
「――望むところだ。負けるにしても言い訳の残らない負け方がいい。
話を戻すぞ。史実の右翼は
クラインはその作戦案を演習提出の書式に清書しながら記録の中のある文書と照合した。
照合は癖でやった。結果は予想していなかった。
「……これは」
「なんだよ」
「この作戦、シュターデン提督が出撃時に貴族達へ授けた作戦案とほぼ同じです」
手が止まった。
三人ともしばらく黙っていた。
公開された全記録を使って一晩かけて辿り着いた結論が、二十一年前に「理屈だおれ」と嗤われた男の授けた案とほぼ同じだった。
さらにクラインはもう一つの点に気づいていた。
記録の三日目、シュターデンは疾風から流された情報による一撃を正しく読んでいた。
欺瞞を疑い、そのうえで「真実を故意に流された可能性」にまで手を伸ばしている。
三人が全記録を一晩かけて辿り着いた地点にあの提督は渦中で独りで立ち、命令を下した。
「理屈だおれ」と嗤われた男が健全な策を授けて、それでも記録の中で負けている。
「……だろうな」
フェリックスはやがて低く言った。
「見れば見るほどシュターデンの作戦は『あの戦場』での理屈としては間違ってなかった。となれば間違ってたのは作戦じゃない」
じゃあ何が、とは誰も言わなかった。
その答えを言葉にできる者はこの卓にはまだいなかった。
三日後の演習場でフェリックスがこれから艦隊一万六千隻分の身体で確かめてくることだった。
アレクが端末を閉じて伸びをした。
「三人でかかって一晩使って勝てない相手の勝てなさの正体が半分見えたか」
「負ける前から収穫って言うな」
フェリックスは笑って立ち上がった。
閲覧室の窓の外はもう深夜の色だった。消灯時限まであと十数分。
戸口でフェリックスが一度立ち止まった。
右手が握られて開かれた。
一度だけ。本人も気づいていない仕草だった。
クラインはそれを見て何も言わずに明かりを消した。
――止まっていることが、いちばん速い。次回、「戦史再演・アルテナ星域の会戦(後編)」