銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第十九話 戦史再演・アルテナ星域の会戦(前編)(新帝国暦一九年春)

【新帝国暦一九年春 帝国軍士官学校・戦史講堂 フェリックス】

 

 

入学から、半年が過ぎた。

 

最初の冬は、教練で明けて教練で暮れた。

 

座学、体術、機関、通信。

フェリックスは座学の追試に三度呼ばれ、三度とも実技考査の首位で、なんとか総合順位を取り返した。

教官のひとりが、答案を返しながら短く言った。戦場が筆記なら、貴様は死んでいる。フェリックスは、はいと答えて、次の週も追試に呼ばれた。

 

ハインリヒは、相変わらず首席だった。

全科目、隙がない。掲示板の一番上から、一度も動かない。

 

クラインは、相変わらずどこにもいなかった。

名簿の真ん中あたりに、誰の記憶にも残らない位置で、静かにいる。ただ、時々、教官が彼の答案の講評に苦慮していることに、フェリックスは気づいていた。

 

 

***

 

そして、アレクだった。

 

区隊の全員が、彼をどう扱えばいいのか、半年かけてもまだ決めかねていた。

教練で組み手をすれば、相手は必ず、寸前で力を抜く。

フェリックスだけが本気で投げ、本気で投げ返される。他の三十八人は、そうしない。

 

***

 

食事の列で、誰かが必ず一歩下がって、アレクを先に通そうとする。

アレクは毎回それを断り、断られた相手は困った顔をして、翌日にはまた同じことをする。

罰も、そうだった。区隊の誰かが遅刻すれば、四十人全員が走らされる。連帯責任である。だが四十人の中で一人だけ、走らされない者がいる。走ることを、許されていない者がいる。

 

一度、アレクが週番士官に食い下がったことがあった。自分も走ります、と。士官は困惑して、規則の綴りをめくり、そこに書かれていないことを確認して、それでも首を振った。前例がありません、と言った。誰も悪意はなかった。誰も。

 

アレクはその日、走る三十九人を、動かずに見ていた。

そのときの顔を、フェリックスは、たぶん一生忘れないだろうと思った。

 

 

***

 

 

「……なあ」

 

夜、消灯後の寝台で、アレクが天井に向かって言ったことがある。

 

「学生って、なんだと思う」

 

「は?」

 

「僕はここに、皇帝として来たのか、学生として来たのか。……たぶん、両方なんだ。両方だから、どっちでもない」

 

フェリックスは、答えを持っていなかった。持っていないまま、寝返りを打った。

アレクも、それ以上は言わなかった。

 

――そんな半年だった。

 

噂だけが、じわじわと大きくなっていった。

戦史再演。入学初日にトビアスが仕入れてきた、あの名物課題。上級生の口から、断片が漏れてくる。去年の学年は何をやらされた、一昨年はどうだった、誰が何分持ちこたえた。数字だけが、尾ひれをつけて廊下を回る。

 

そして、開校以来、初回課題に勝った学生は一人もいない、という一行だけが、どの噂にも必ずついていた。

 

春になり、その日は、掲示ひとつで来た。

第一学年、戦史講堂へ集合。時刻のほかには、何も書かれていない。何をやらされるのかは、席に着くまで分からなかった。

 

 

***

 

 

戦史講堂の照明が落ち、正面の大投影に星図が浮かんだ。

 

アルテナ星系。

 

その名を見た瞬間、講堂のあちこちで小さく息を呑む音がした。

 

「戦史再演。本校の名物課題だ」

 

壇上の老教官、ブーフナーは、手元の端末に一度も目を落とさずに言った。

戦史演習を統べて三十年になるという、灰色の眉の教官である。

 

「諸君は明日から、実際にあった会戦の記録と戦う。シミュレータは二十一年前の会戦記録を再生する」

 

機械と戦うのですか、と誰かが問うた。

ブーフナー教官は首を振った。

 

「二十一年前にその宙域にいた人間だ。諸君が戦うのは、記録に残った人間の思考そのものだ。――なめてかかるなよ。記録は学生だからといって手加減をしてくれんぞ」

 

投影が切り替わり、演習要綱が並んだ。

 

課題会戦、リップシュタット戦役緒戦・アルテナ星域会戦。

学生は貴族連合軍側の指揮官(シュターデン)として着任する。

開始局面は会戦三日目、敵情報の受信直後の状況付与から。

 

勝利条件はただ一つ、ローエングラム陣営本隊の到着前に、敵先遣艦隊を撃破すること。

 

「時間切れも、壊走も、等しく敗北だ。艦を残して退がる判断は講評では見るが、判定の欄に書かれる文字は変わらん」

 

「本課題は、第一学年全員の共通課題とする。この学期のあいだに、三千人の全員が、同じ椅子に座ってもらう」

 

「記録は、全学年の実施が終わるまで封をする。他人の戦いぶりは見られん。

 座る前に他人の答えを見れば、それは再演ではない。写経だ」

 

「ただし、第一号のみ、実施を公開とする。

 第一学年の全員が、同時刻に、実時間で、これを見る。

 諸君は各自の実施の前に、他人の戦いぶりを一件だけ持つことになる。

 全員が、同じ一件を持つ。ゆえに公平だ」

 

ブーフナー教官は、そこで一度だけ言葉を切った。

 

「もっとも、それで勝てるほど、やわな課題にはしておらん」

 

そこで一度だけ言葉を切った。

 

「実施の順は、実技考査の序列に従う。――最初の一人を呼ぶ」

 

講堂の空気が、わずかに張った。

 

「貴族連合軍司令官役、第一号――フェリックス・ミッターマイヤー」

 

講堂が、静かになった。

 

振り返る者はいなかった。振り返らないという形で、全員がこちらを見ていた。

ただ、一人だけ。

斜め前の席で、ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクが、まっすぐにこちらを振り向いた。

目が合うと、硬い所作で一度だけ頷いて、すぐに前へ向き直る。

実技序列、第二号の男である。

 

フェリックスは立ち上がり、にっと笑ってみせた。

 

「拝命します」

 

声はよく通った。我ながら上出来だと思った。

着席するまでの数秒間、大投影の隅にある対戦相手の欄を、見ないでいることにだけ集中した。

 

敵ローエングラム陣営の艦隊司令官は、見なくても知っている。

 

二十一年前、アルテナ星系に近い恒星間空間で、貴族連合軍一万六千隻を三日で潰走させた先遣艦隊指揮官。当時、三十歳にも満たない若い提督。

のちに疾風ウォルフ(ウォルフ・デア・シュトルム)の異名を帝国全土に知られることになる男。

 

「言っておくが」

ブーフナー教官の声が、ざわめきかけた講堂を抑えた。

 

「この演習で勝ちを認められた学生は、開校以来一人もいない」

それから、老教官は初めて名簿から顔を上げた。

 

「ミッターマイヤー。記録をよく予習することだ。

 同級生であれば、誰に相談しても構わんぞ。何人でも、何時間でもいい」

 

「……上級生は」

 

「駄目だ。あれはカンニングになる」

 

「記録は、公開なんですよね」

 

「公開だ。だから記録を読むのは、カンニングにならん」

老教官は、そこで言葉を切らなかった。

 

「上級生が持っているのは、記録ではない。あれは一度、その椅子に座っている。

 訊けば、教えるだろう。教わったものを、貴様は持って座ることになる。

 ――それは、貴様の負けではない」

 

講堂は、静かだった。

 

「相談しろ。三千人いる」

 

言い終えて、老教官は名簿に視線を戻した。

 

 

***

 

 

【同年 帝国軍士官学校・資料閲覧室 クライン】

 

消灯時限まで、あと四時間。

 

資料閲覧室の最奥、三人掛けの卓に端末を三台並べて、クライン・ヴァルターは会戦記録の読み込みを終えた。

 

戦闘データは全学生に公開されている。

隠された情報は何もない。艦隊の運動記録、通信記録、砲戦記録、損害記録。二十一年前の三日間が、秒単位でそこにあった。

 

卓の前を、同級生が通っていく。

 

「ミッターマイヤー、がんばれよ」

 

「参考にさせてもらうぜ、明日」

 

「負けっぷりに期待してるからな」

 

フェリックスは、そのたびに片手を挙げて応えた。

悪意のある声は、ひとつもなかった。

 

「……人気だな」

アレクが言った。

 

「全員、明日タダで一件もらえるからな」

フェリックスは、端末に目を戻した。

 

「まず全体を通します」

クラインが言うと、正面のフェリックスが頷き、隣のアレクが椅子を引き寄せた。

 

再生を始める。

 

クラインが言うと、正面のフェリックスが頷き、隣のアレクが椅子を引き寄せた。

再生を始める。

 

帝国暦四八八年四月十九日。

ガイエスブルク要塞を出撃した、シュターデン提督の指揮する貴族連合軍一万六千隻は、アルテナ星系に近い恒星間空間で、ローエングラム陣営のミッターマイヤー提督が指揮する先遣艦隊一万四千五百隻と相対した。

障害物のない、まっさらな宙域である。

 

疾風ウォルフの先遣艦隊は、自軍の前方に核融合機雷六百万個を敷設し、艦隊を球形陣に編成して――そのまま、動かなくなった。

 

一日目。動かない。

二日目。動かない。

三日目の夜、貴族連合軍の通信部が、敵側から漏れた通信を拾う。

ローエングラム侯の本隊が接近しつつあり、先遣艦隊は戦わずに時間を稼ぎ、合流ののち圧倒的多数をもって全面攻勢に出るつもりである。

 

そこから先は、半日で終わっていた。

 

再生が止まると、フェリックスが最初に口を開いた。

「……おかしいだろ」

 

「どこがですか」

 

「動いてない。三日間。あの、疾風ウォルフが、だ」

 

フェリックスは画面の中の球形陣を睨んでいた。

帝国軍人で、あの異名の由来を知らない者はいない。

 

艦隊運動の速さで戦史に名を刻んだ男が、この会戦では、決着までのほとんどの時間を静止に費やしている。

 

「動く必要が、なかったんでしょう」

クラインは言った。

 

事実としてはそのとおりのはずだった。

だがフェリックスは納得しない顔のまま、記録の冒頭をもう一度呼び出した。

この違和感は保留にするしかない。

クラインは損害記録の欄を開いた。

 

隣で、アレクの手が止まっているのに気づいた。

 

視線の先は、貴族連合軍右翼――ヒルデスハイム艦隊八〇〇〇の損害欄だった。

撃沈された艦の数の下に、戦死者数の概算が載っている。桁の多い数字だ。

 

「二十年以上前に死んだ人の数字だぞ」

 

フェリックスが横から言った。

アレクは目を離さずに答えた。

 

「数字じゃないよ」

それから短く息を吐いて、顔を上げた。

「――ごめん。続けよう」

 

 

***

 

 

攻め手の検討は、フェリックスの提案から始まった。

 

「正面はどうだ。機雷原を強行突破して、球形陣に斬り込む」

 

「計算します」

 

クラインは損耗の見積もりを走らせた。

 

未啓開の機雷原六百万個。

横断だけで、自艦隊の三割前後が消える。

残る自軍一万一千で、球形陣を組み待ち構えていた(疾風ウォルフ)の一万四千五百に突入する。

 

結果、当方全滅、ローエングラム側残存艦艇一万~一万二千。

史実より悪い負け方だ。

結果を画面に出すと、フェリックスは十秒黙って、それから言った。

「次だ」

 

「掃海はどうかな」とアレク。

「機雷原の位置は最初から公開されてる。見えている罠なら、除ける」

 

「掃海艇の処理能力から計算します」

 

計算するまでもなかったが、数字で潰すのがクラインの役目だった。

連合軍の掃海戦力で安全な回廊を啓開する時間は、どれほど楽観しても丸一日以上。

持ち時間が足りない。

敵が一切掃海を妨害しないで傍観してくれる、新たな機雷も撒かない、という演習ならではの条件であってもだ。

 

「桁が二つ足りません。機雷の掃除が終わる頃には、ローエングラム軍本隊が到着し、戦争が終わっています」

 

「なら大回りだ。機雷原ごと迂回して、向こう側から殴る」

 

「向こうの艦隊の方が速いです。回り込む前にローエングラム陣営本隊が到着して敗北です」

 

「……本隊が来なけりゃいいのにな」

 

フェリックスがぼやいた。

そこでアレクが、記録の三日目を呼び出した。

「そこなんだけど。この通信、変だと思わないか」

 

敵側から漏れた、本隊接近の報。

シュターデン提督はこれを欺瞞と疑い、しかし正しい情報を故意に流した可能性もあると考え、判断を保留して警戒の厳重化を命じている。

その夜、抑えを失った青年貴族たちが出撃を強要し、会戦が始まった。

 

「欺瞞なら、まだよかったんだ」

 

アレクは画面を見たまま言った。

「嘘なら、見破ればいい。分析して、矛盾を突けば、いつかは剥がれる。でもこの報せは――本物だった。本隊は実際に接近していて、会戦が終わった直後に到着してる」

 

「本当のことを流して、何が悪い」

 

「本当のことを、武器として流したのです」

クラインの声は静かだった。

 

「シュターデン提督は理論の人です。敵の行動には合理がある、という前提で読む人です。その人に向かって、真実か欺瞞か判定できない情報を撃ち込んだのです。」

「真偽の判定ができないから、合理に基づく推論そのものが止まる。推論が停止した司令部の下で、我慢の限界に来ていた貴族たちが暴発する。

 ……この提督(疾風ウォルフ)は、敵艦隊を砲撃する前から、敵の指揮系統を『情報』で撃ち抜いていたのです」

 

沈黙が落ちた。

クラインは、自分の指先が冷えているのに気づいた。

 

「一番怖いのは、嘘をつく敵じゃないんだな」

フェリックスが呟いた。

誰も、その先を続けなかった。

 

 

***

 

 

「機動記録を再生します。今度は座標系を変えて」

クラインは三日目以降の敵艦隊の運動を呼び出し、基準点を敵旗艦から切り離して、機雷原の中心に置き直した。

これは癖のようなものだった。

ものを見るとき、相手の目線と、相手が見ているものの目線と、両方から見る。

 

再生した瞬間、分かった。

 

「……ああ」

 

「どうした」

 

「ミッターマイヤー提督が見ているのは、敵だけではありません」

 

二人が同時にこちらを向いた。

 

クラインは画面を回して見せた。

 

機雷原中心の座標系で再生すると、敵艦隊の全機動が、恐ろしく単純な図形になる。

 

円弧。円弧。円弧。

 

すべての運動が、機雷原を軸にした旋回で描かれていた。

 

「連合軍がどこへ動いても、この人の機動は変わらないんです。参照しているのは敵の位置より、むしろ自分が敷いた機雷原との距離と角度です。自分の構築した地形を、見ています」

 

「地形って、お前。何もない宙域だぞ」

 

「だから作ったんです」

 

クラインは新しい図を描いた。

中央に円。機雷原。

その縁のすぐ外側に小さな弧を一本、ずっと外側に大きな弧を一本。

 

「会戦後半、ミッターマイヤー艦隊は、機雷原のすぐ外側を回っています。自分たちが撒いた機雷ですから、機雷の座標は詳細に把握している。一方、貴族連合軍の方は、万一にも見落とした機雷に触れないよう、安全距離をとって回るしかない。同じ円の中心を、内と外で回るんです。校庭のトラックで、内側のレーンと外側のレーンで競走をしたら、どちらが勝ちますか」

 

「そりゃ内側――」

 

言いかけて、フェリックスの顔色が変わった。

 

「回り込めないのか。永遠に」

 

「はい。挟撃も包囲も、敵に対して角度を稼ぐ運動です。この盤面では、両軍とも機雷原の周りを回ることしかできません。そして内側の弧は、外側の弧より、かならず短い」

 

「速度で上回れば」

 

「計算します。外周から角度で追いつくには、敵の三割増しの艦速が要ります。貴族連合軍の練度ではとても」

 

「無理だ」フェリックスが自分で言った。

「なら内側に踏み込む。同じ半径で回れば、条件は同じだろう」

 

「内側の弧は、機雷原の縁です。それから、敵の砲火の圏内です」

 

クラインは損害記録の、あの桁の多い欄を指した。

「――史実で、ヒルデスハイム艦隊が消えた場所です」

 

長い沈黙があった。

 

フェリックスは卓に肘をつき、両手で口元を覆って、図を見つめていた。

アレクは背もたれに身を預け、天井を見ていた。先に口を開いたのはアレクだった。

 

「整理しよう。この人は、何もない宙域に自分で地形を作った。その地形は、正面からの攻めを封じる盾で、敵に分進か迂回か、どちらかを強制的に選択させた。で、いざ会戦が始まれば、機雷原は、艦隊からの砲撃と挟む形で、敵をすり潰す『金床』になる。三つの機能を、機雷六百万個で同時に買ってる」

 

「時間も買ってるぞ」とフェリックス。

「本隊到着までの時計は、最初から向こうの味方だ。待ってるだけで勝ちが転がり込む盤面を、開戦前に作り終えてた」

 

「そして仕上げに、三日目に『真実』の情報を一発だけ撃ち込んで、敵の指揮系統を内側から崩壊させた」

 

アレクは天井を見たまま、ゆっくりとまとめた。

「……接触の前に、勝敗が決まってたんだ。会戦の三日間は、決まっていた勝敗を、盤面の上に清書しただけで」

 

疾風、とフェリックスが小さく言った。

「艦隊運動が速いから『疾風』なんだと、ずっと思ってた」

 

その先は言わなかった。

言えるほどには、まだ掴めていない――そういう顔だった。

 

クラインにも、その正体はまだ見えない。

三日間の静止の奥に何があるのか。

機能の説明ならできる。

待てば勝つ盤面だから待った。

合理的だ。だが、フェリックスの引っかかっているものは、たぶんそれではない。

 

保留の欄に、クラインはその違和感を書き入れた。

 

 

***

 

 

それを口にするかどうか、クラインは三十秒迷った。

 

発見してしまったのだ。

 

座標系を変えて機動を眺めていたとき、時刻表と一緒に。

黙っていることもできた。

だが三人で卓を囲んでいる以上、見つけたものを出さないのは、計算を間違えるのと同じ種類の不正直だった。

 

「……一つだけ、勝てる手があります」

 

二人が動きを止めた。

 

「敵は記録です。人間ではありません。そして全機動の時刻表は、ここに公開されています。三日目の何時何分に、どの座標で、貴族連合軍右翼(ヒルデスハイム艦隊)を機雷原の縁に押し付け、艦砲で潰すか――全部、分かっています」

 

クラインは図の上の一点を指した。

金床。

史実でヒルデスハイム艦隊が消えた座標。

 

「囮の小部隊に右翼の役を演じさせて、本隊をこの座標に先回りさせます。敵は記録どおり、この時刻にここへ来ます。来た敵を、待ち構えた本隊と、囮と、敵自身の機雷原で三方から塞ぐ。……成立します。数字の上では、開校以来の初勝利です」

 

沈黙は、さっきまでのどの沈黙とも違っていた。

 

フェリックスの目に、一瞬、火が入るのが見えた。

 

勝てる。

あの教官の「一人もいない」を覆せる。

誰よりも、あの人の記録を相手に。

 

その火を見ながら、アレクが静かに訊いた。

 

「クライン。その手で勝ったとして――誰に勝ったことになる?」

 

クラインは答えを持っていた。

発見した瞬間から、答えだけは分かっていた。

 

「……『記録』に、です」

 

「そうだよね」

アレクは頷いた。責める調子は、どこにもなかった。

 

「二十一年前のミッターマイヤー提督は、見えたものに応じて動いた人間だ。何も見ず敵の待ち伏せ先に突っ込んでいく提督は、シミュレーション記録の中にしかいない。この手は、疾風を倒す手じゃない。演習(ゲーム)の穴を突く手だ」

 

それから少しだけ間を置いて、言い足した。

 

「この演習で僕たちが借りてるのは、あの日そこで戦った人たちの背中だと思う。背中を借りておいて、背中を撃つのは――どうなのかな」

 

「……はい」

 

クラインは、意外なほどすんなりと、その言葉を呑めた。

発見の誇りは残った。棄てる判断の正しさも、同じだけ残った。両方持っていていいのだと、アレクの言い方は思わせた。

 

「そうだよなぁ」

フェリックスが天井を仰いで、大げさに言った。目の中の火は、もう普段の温度に戻っていた。

「まあ、あれだ。そんな勝ち方したって、父上は――」

 

言いかけて、止まった。

一拍おいて、言い直した。

 

「――敵は、痛くも痒くもないもんな」

 

誰もそこには触れなかった。

クラインは端末に向き直り、いま捨てた作戦の計算書を、削除せずに別の階層へ移した。

 

「では、保管します」

 

「使わないのに?」とフェリックス。

 

「使わない、と決めた記録ごと保管します」

 

アレクが小さく笑った。

そして、冗談とも本気ともつかない調子で、クラインは付け加えた。

 

「……生きた敵が、記録のように動いてくれるなら、話は別なんですが」

 

「そんな軍隊が、どこにあるんだよ」

 

「いたら怖いだろ」

 

アレクとフェリックスの声が重なって、三人とも少し笑った。

 

 

***

 

 

扉が、軽く二度叩かれた。

返事を待たずに開いて、トビアス・ブリュックナーが顔を出す。

黒パンに肉を挟んだものと、湯気の立つコーヒーカップを三つ載せた盆を、両手で抱えていた。

 

「精が出るな。差し入れだ。食堂からくすねてきた」

 

そう言いながら、卓に広げた星図と、三人の顔とを、ひととおり見渡す。

何を話していたのかは訊かなかった。訊かずに、疲れの色だけを読んだようだった。

 

一つずつ、卓の隅に置いていく。

陶器のカップが三つ。縁が一つ、欠けている。

支給品だから、三つとも同じ形をしていた。

中身だけが、三つとも違った。

アレクの前に甘いのを、フェリックスの前に濃いのを、クラインの前に薄いのを。

いつもは胸ポケットの手帳をめくってから配る男が、今日はめくらなかった。

 

「トビアスも混ざれよ。名案が一個も出てねえんだ」

フェリックスが椅子の背にもたれて言った。

トビアスは笑って、盆を抱え直す。

「混ざらねえよ。おれが入ると、話が三倍長くなるだけだ」

 

盆を小脇に、戸口へ戻った。

振り返って、フェリックスを見る。

「明日の朝飯は抜くなよ」

それだけ言って、出ていった。

 

扉が閉まる。

 

フェリックスが濃いコーヒーを一口すすって、笑った。

アレクも手を伸ばし、ひとつ息をつく。二人とも、当たり前のように、置かれたものを受け取っていた。

 

クラインは、自分の前のカップを見ていた。

頭が、先に勘定を始めた。

これは何の借りか。

夜食の一杯に、いつ、どう釣り合うものを返せばいいのか。

親切には、いつも値札がついているはずだった。

 

だが、値札はどこにもなかった。

手帳も見ずに置かれた薄い一杯は、見返りを当てにして差し出されたものではない。

ただ憶えていた、というだけの――勘定の立たない種類の親切だった。

 

礼を言おうとした。

言葉が、一拍だけ遅れた。

その一拍の間に、扉はもう閉まっていた。

 

「……いただきます」

 

誰にともなく、クラインは呟いた。

聞く相手は、もういない。

言い損ねた、と胸の内に書きとめて、彼はカップに口をつけた。薄いコーヒーは、まだ温かかった。

 

 

***

 

 

最後に残った手は、一つだった。

 

「両翼分進だ」

フェリックスが言った。

 

図の上に、左右へ分かれる二本の矢印を引く。

 

「左翼で敵正面を拘束して、右翼で外から回る。史実と同じ形だ。ただし史実と違って、右翼を貴族の功名心には預けない。艦隊の規律を保って、『金床の口』、つまり機雷原と敵艦隊の間をできるだけ小さくして、届くところまで行く。時間が尽きる前に、削れるだけ削る」

 

「敵艦隊と機雷原の間の空間がどうやっても閉じられないのは、変わりませんよ」

 

「分かってる。あちらが機雷を敷いて待っている以上、こちらが回り込めないのも、時間が向こうの味方なのも、分かってる。それでも、番狂わせが起きるとしたら、両翼分進しかない。」

「それにな。一つだけ、こっちがシュターデン提督より恵まれてる点がある」

 

フェリックスは端末の演習要綱を叩いた。

「演習の艦隊は、俺たちの命令にちゃんと従う。出撃を強要する貴族も、功名に逸る指揮官もいない。史実であの人の盤面を完成させた最後の駒――貴族連合軍の内輪揉めが、この演習には存在しないんだ」

 

「指示に従うだけだよ」

アレクが静かに言った。

 

「従順になるだけで、上手くはならない。練度は記録のままだ。……それに、気づいてるか。史実の敗因を一つ取り除いてもらった条件で戦って、それでも負けたら」

 

その先を、アレクは言わなかった。

言わなくても分かった。それはもう、言い訳の利かない、本物の完敗だということだ。

 

「――望むところだ。負けるにしても、言い訳の残らない負け方がいい。

話を戻すぞ。史実の右翼は、指揮官(ヒルデスハイム伯爵)が功を焦って隊列が崩れたところを食われた。崩れなければ、少なくとも食われる時刻は遅らせられる。遅らせた先に何があるかは――行ってみないと分からない」

 

クラインは、その作戦案を演習提出の書式に清書しながら、記録の中のある文書と照合した。

照合は、癖でやった。結果は予想していなかった。

 

「……これは」

 

「なんだよ」

 

「この作戦、シュターデン提督が出撃時に貴族達へ授けた作戦案と、ほぼ同じです」

 

手が、止まった。

 

 

三人とも、しばらく黙っていた。

公開された全記録を使って、一晩かけて辿り着いた結論が、二十一年前に「理屈だおれ」と嗤われた男の授けた案と、ほぼ同じだった。

 

さらにクラインは、もう一つの点に気づいていた。

 

記録の三日目、シュターデンは、疾風から流された情報による一撃を、正しく読んでいた。

欺瞞を疑い、そのうえで「真実を故意に流された可能性」にまで、手を伸ばしている。

 

三人が全記録を一晩かけて辿り着いた地点に、あの提督は、渦中で、独りで立ち、命令を下した。

「理屈だおれ」と嗤われた男が、健全な策を授けて、それでも記録の中で負けている。

 

「……だろうな」

フェリックスは、やがて低く言った。

 

「見れば見るほど、シュターデンの作戦は、『あの戦場』での理屈としては間違ってなかった。となれば、間違ってたのは作戦じゃない」

 

じゃあ何が、とは、誰も言わなかった。

その答えを言葉にできる者は、この卓にはまだいなかった。

三日後の演習場で、フェリックスがこれから、艦隊一万六千隻分の身体で確かめてくることだった。

 

アレクが端末を閉じ、伸びをした。

 

「三人でかかって、一晩使って、勝てない相手の勝てなさの正体が半分見えたか」

 

「負ける前から収穫って言うな」

 

フェリックスは笑って立ち上がった。

閲覧室の窓の外は、もう深夜の色だった。消灯時限まで、あと十数分。

 

戸口で、フェリックスが一度立ち止まった。

 

右手が、握られて、開かれた。

一度だけ。本人も気づいていない仕草だった。

 

クラインはそれを見て、何も言わずに、明かりを消した。

 




次回、7月19日(日)20時更新予定。
――止まっていることが、いちばん速い。次回、「戦史再演・アルテナ星域の会戦(後編)」
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