【新帝国暦一九年春 帝国軍士官学校・統合演習棟 フェリックス】
統合演習棟の第一艦橋は本物より静かだった。
造りは帝国軍の戦艦そのものだった。
暗色の装甲材に囲まれた広い艦橋。
階段状に沈む操作区画。
前方を占める巨大な戦術表示盤。
その中央奥に一段高く据えられた司令官席まで寸法も配置も現役艦の第一艦橋と変わらない。
士官学校の演習設備というより一隻の戦艦から艦橋だけを切り取って巨大な建物の奥深くへ埋め込んだようだった。
だが本物の艦橋なら機関の脈があり、人の気配があり、空気の温度がある。
ここにはそれがない。
あるのは操作卓の待機灯とこれから始まる十時間の輪郭だけだった。
司令官席が一つ。
半円に並ぶ操作卓はそのすべてが無人のまま緑の待機灯を点している。
一万六千隻の艦隊がこの一室に畳み込まれていた。
「候補生フェリックス・ミッターマイヤー。貴族連合軍司令官、単独指揮。確認」
天井から判定装置の合成音声が降ってくる。
抑揚のない誰のものでもない声。
「確認」
背後でハッチが閉じた。
観覧区画の灯りが落ちて遮音硝子の向こうに他の候補生たちの輪郭だけが残る。
ここからはどちらの声も届かない。単独指揮とはそういう意味だった。
一晩かけて研究した。
読める記録はすべて読み、打てる手はすべて盤に載せて、最後には捨てるべき手を捨てた。
だが指揮席に座れるのはフェリックスだけだ。
「状況を付与する」
主モニターに星図が展開した。
アルテナ星系に近い無地の恒星間空間。天然障害物なし。
その中央に球形陣。一万四千五百隻が六百万個の機雷からなる機雷原を盾に静止している。
こちらは一万六千。数の上では僅かに勝っている。数の上では。
演習の想定は会戦三日目の朝から始まる。
一日目と二日目――対峙、我慢、静止――は前提として与えられていた。
相手が記録である以上、機雷原も球形陣もこちらが何をしたところであの三日間のとおりに組み上がってしまう。
動かしようのない過去として盤はもう完成していた。
問われているのはその出来上がった盤の前でどう指揮するかだけだった。
「会戦三日目、一七三〇。敵性情報を受信。ローエングラム軍本隊、当宙域へ接近中。敵ミッターマイヤー艦隊は決戦を回避しつつ時間を確保し合流後に全面攻勢へ移行する企図。受信した情報の真偽、不明」
二十一年前この報せひとつが
「本演習はこの時点より貴官の采配を開始する。勝利条件、本隊到着前における敵先遣艦隊の撃破。制限時間、十時間」
主モニターの隅に時計が生まれた。
九時間五十九分。
五十八分。
出るか出ないか。そこから選べということだった。
出なければ時計がすべてを終わらせる。本隊が着けば兵力差の優位はもうない。
右手が勝手に握られてまた開いた。一度だけ。
出撃の前の癖だった。自分では気づかない。
「全艦隊、抜錨」
フェリックスは言った。誰もいない艦橋に声はよく通った。
「左翼、正面で敵を拘束。本隊は右翼、機雷原の外周を回って後背を取る」
選択肢をすべて消して最後に残った手。
両翼分進。「理屈だおれ」と嗤われた老将が授けたのと骨子は同様。
だが敵艦隊への接敵タイミングや距離を精緻化し離脱線も明確に引いた。
接近と離脱を繰り返し敵艦隊を殲滅する。
復唱が艦橋に満ちた。人間の声ではない。記録から合成された音声。
一万六千隻が動き始めた。
加速は揃っていた。
重心の低い唸りが模擬の艦橋にまで再現されて床を微かに震わせている。
開戦前の艦隊とはこんなにも静かなものかと思った。
「……なあ」
フェリックスはモニター中央の球形陣へ小さく声をかけた。
「あんたが本物じゃないことくらい分かってる。分かってて、だ。一手くらいは届かせてもらうぞ。若いほうの、父上」
球形陣は答えない。動きもしない。
それでいいと思うことにした。怖くないと言えば嘘になる。
だから軽口で蓋をする。いつもの、手順だった。
***
右翼一万隻は機雷原の南縁に沿って大きく弧を描いていく。
図上演習なら何度も艦隊を動かしてきた。だが一万という数を預かるのは初めてだった。
数は重さだった。
命令の一語が艦列の端まで届く遅れ。回頭の号令から翼の全体が実際に向きを変え終えるまでの時差。
卓上の図演では点と線だったものがここではすべて重さを持っていた。
そして驚くほど静かな行軍だった。
命令は一度で通る。復唱は正確で隊列は乱れない。
「わが家門こそ先陣に」と怒鳴り込んでくる門閥貴族がこの艦隊には一人もいない。
「二〇四〇、通過」
フェリックスは手元の時刻表を読み上げた。
二〇四〇。史実で右翼の貴族艦列が崩れ始めた時刻。
その時刻をいま無傷で通過した。
史実のシュターデンがついに持てなかったもの、命令に従う軍をこの手は持っていた。
「……いけるぞ、これは」
つぶやきが漏れた。
老将の授けた作戦は健全だった。
それを殺したのは実行する軍の統制だった。
ならばいま同じ作戦は健全なまま実行されるはずだった。
接近と離脱。
理屈は通っている。前提も揃えた。
主モニターのなかで球形陣がゆっくりと視界の脇へ流れていく。
二一二〇、左翼が予定線に達し敵艦隊への拘束射撃を開始した。
応射は正確で最小限だった。
回り込みは順調だった。
***
二一五〇。敵、なお静止。
動かないということがこれほどの圧力だとは知らなかった。
艦橋は静かだった。合成の復唱は命じたときにしか鳴らない。
本物の艦隊ならこの沈黙のどこかに誰かの咳や誰かの祈りがあるはずだった。
盤面の上ではこちらが動き敵が止まっている。主導権はこちらにあるはずだった。
それなのに時計が減るたびに締めつけられていくのはこちらだった。動かない敵と動き続ける時計。挟まれているのは最初からこちらのほうだった。
二二一〇。
フェリックスはその時刻を暗記していた。
記録のなかでミッターマイヤー艦隊が初期位置を捨てていたことがのちに判明する時刻。
正確には移動が「もう終わっていた」ことが判明する時刻。
主モニターの敵影がその時刻どおりにいなくなった。
「敵艦隊、機雷原西縁へ移動」
自分の声が妙に平坦に聞こえた。
「右翼、増速。針路修正、敵の新位置へ回頭」
命令は正確に実行された。一万隻が従順に針路を曲げる。
届かなかった。
敵は機雷原の縁のすぐ外を滑るように回っている。こちらは機雷の危険距離のさらに外を回るしかない。
同じ円を内と外で回っていた。
資料閲覧室の夜、クラインが言った言葉がそのまま盤面になっていた。
この機雷原は盾じゃない。円の中心だ。
中心を持っている側の弧はいつでも短い。
頭では知っていた。
数字でも知っていた。旋回半径の比も必要な増速の限界値も昨晩に計算し終えていた。
いま初めて艦隊の重さで実感した。
一万隻は曲がらない。
曲がれと命じてから翼の全体が新しい弧に乗り終えるまで何分もかかる。その何分かのあいだに内側の敵は短い弧を先へ進んでいる。
翼の先端と根元では進む距離がまるで違う。
外側の艦は限界まで噴かし内側の艦は速度を殺して、それでようやく翼は翼のかたちを保つ。かたちを保つこと自体が速度を食っていた。
増速を命じる。差の数字を睨む。
縮まらない。
向こうは何も変えていない。記録の速度のまま短い弧を回っているだけだ。
こちらの弧は長く向こうの弧は短い。こちらが何をしても何をしなくても縮まらない設計の円だった。
一手ぶんいつも先にいる。
こちらが今いる時刻に向こうはもういない。その先へ先へと抜けていく拍にフェリックスは覚えがあった。
屋敷の廊下の向こうから近づいてくる足音。
いつのまにかもうそこにいる。
子どもの頃から足音だけで養父の帰りが分かった。
「回り込め。もっと外へ膨らんで大回りで頭を押さえろ」
外へ膨らめば弧はさらに長くなる。
分かっていてほかに言葉がなかった。
いや。追いつく方法なら一つだけあった。
内側へ寄ることだ。機雷の危険距離を割り敵の火力圏に肩を入れて短い弧をこちらも取る。
二十一年前その内側へ入っていった艦隊があった。
三十秒だけ計算した。
損害予測の答えが出るより先に自分のなかで答えが出た。
不用意に内側に入った者から順に消える。
「針路、維持」
口に出して自分に命じた。
そのときフェリックスはもう一つのことに気づいた。
敵の艦列が一度もこちらへ艦首を向けていない。
回っているだけだった。機雷原を軸に自分の作った円だけを見て、決められた弧を決められた速度で。
こちらの右翼がどれほど食い下がっても敵の針路は一度も揺れない。応じない。
当たり前だった。記録なのだ。
分かっていたはずのことが艦隊を預かった身体にはまるで違う重さで刺さった。
見てほしかったのだと気づいてしまった。
たった一手でいい。
本物ではないと知っている
その願いに気づいて腹が立った。
子どもかよと胸のうちで吐き捨てる。
試しにひとつ餌を撒いた。
右翼の一隊に偽の混乱を命じる。
隊列を乱し崩れかけたと見せる機動で敵の食いつきを誘う。
生きた敵なら食うか疑うか、少なくとも見る。
敵の針路は髪の毛一筋も揺れなかった。
騙せなかったのでは、ない。
騙すという行為がはじめから成立していなかった。
嘘は受け取る相手がいて初めて嘘になる。
時計が容赦なく残りを削っていく。
騙せない。追いつけない。近寄れば死ぬ。
消去法が盤の上の選択肢を一つずつ黒く塗り潰していった。
こちらは全力で回している。
翼の規律を張りつめ増速の限界に貼りついて、教本のどの一行にも反しない機動を続けている。
その全部が相手の視界に入ってすらいない。
気づくと右手をまた握っていた。
今度は開かなかった。開こうとして指がすぐには言うことをきかない。
体術の名手だと言われてきた。
己の身体こそ最後の武器だとどこかで信じてきた。
追い詰められても最後は拳ひとつで局面をこじ開けられる、と。
だが、この戦場に殴る相手はいなかった。
***
〇一四〇。金床が口を開けた。
敵艦隊が旋回の向きを変え、こちらの右翼先鋒と機雷原とのあいだへ楔のように滑り込んでくる。
決めてあった離脱の手順を出す。
出している最中に削られている。手順は正しい。正しい手順だが艦隊の速度が相手に追いつかない。
「先鋒、後退。翼を畳め、機雷原から距離を取れ」
命令は届いた。実行もされた。
それでも遅かった。
命令が艦列の端まで伝わり終わるより早く敵の楔は打撃の位置に着いている。
早い。
こちらが一手を伝えるあいだに向こうは一手を終えている。
先鋒三千隻が槌と金床のあいだで削られ始めた。
敵の射線に頭を抑えられ離脱もできない。
逃げ場は二つしかない。敵の火線のなかか機雷原のなかか。
記録準拠の練度は記録準拠の答えを出した。
三千隻は押し合いながら危険距離を割り、自分たちの盾だったはずの機雷原へ押し出されていく。
主モニターの右翼が光の粒になって欠けていく。
〇一五〇、先鋒の旗艦が沈んだ。
代将を立てる。三分後その代将の艦も光になった。
指揮系統を張り替える手が失われていく速度に追いつかない。
「左翼、拘束を強めろ。敵の旋回を釘づけに」
言いながら分かっていた。
健全な作戦だった。
だが健全なまま実行され、健全なまま砕かれていた。
〇二三〇。右翼が消えた。
艦列が解け、応答が乱れ、同士討ちの誤射が始まり、退路を失った艦が開いてもいない機雷原へみずから突っ込んでいく。
機雷原に触れた艦は爆ぜて消える。
記録のとおりだった。
フェリックスの命令はまだ通っている。
通った命令が崩壊の速度に追いつかないだけだった。
まだ立て直せると言いたがる自分がいた。
左翼は健在で時間には残りがあり、再編反撃の手順も準備している。理屈上は。
その声は切り捨てた。
「……全軍。撤退の線まで後退」
時計は残り二時間を切っていた。
クラインと引いた撤退の一線。
それを越えて粘れば潰走が全滅に変わる。
敵艦隊の撃滅はあきらめ損害をできるだけ抑えて撤退する。
だが後退の号令とともに自軍の崩壊は雪崩になった。
先を争う艦が味方の射線を横切る。
回避が回避を呼び隊列だったものが渦に変わる。
フェリックスは退却の管制を出し続けた。順序を割り退路を割り、割った先から通信の窓に悲鳴が積み上がっていく。
声は届いている。届いた先からほどけていく。
二十一年前の貴族連合軍はこうやって撃たれていったのかと頭の隅の冷えた部分が言った。
誰かが無能だったからではない。
崩れ始めた軍というものは崩れ終わるまで止まらないだけだ。
そのなかで。
一つだけ自軍の中に崩れない光の塊があった。
自軍右翼後方の一隊。番号だけの名も知らない部隊符号。
潰走の奔流のなかでその一隊だけが隊形を保ったまま、退いていく僚艦たちの背後に回り追撃の火線を受け止めている。
誰の命令でもない。フェリックスはそんな指示を出していない。
崩れた軍のなかで崩れない部隊が退却を支えていた。
記録はそれも再生していた。
二十一年前、実際にそういう部隊がそこにいたということだった。
あとで記録を見返そうと頭の隅に書き付けるのが精一杯だった。
見届ける余裕はなかった。
「判定」
天井の声が言った。
「制限時間内の撃破条件、不成立。自軍損耗、離脱線超過。敗北」
主モニターの光が一斉に止まった。
耳鳴りがするほどの静けさだった。
十時間、命令のたびに艦橋を満たした合成の復唱がもうどこからも返らなかった。
崩れた自軍の光点とほぼ無傷の球形陣が静止画になって浮かんでいる。
時計だけが律儀に残り時間を刻み続けて、やがてそれも止まった。
***
ハッチが開いて二人が入ってきた。
アレクは何も言わなかった。
言葉を探して、探して、置き場がないと分かってやめた。そういう沈黙の仕方だった。
隣まで来て静止画の盤面をただ一緒に見上げた。
「……離脱線は」
クラインがそれだけ言った。
「正しく引けていました。史実よりも被った損害は少なく、与えた損害は大きい」
「ああ」
先に休んでいてくれと言うと二人は素直に頷いた。
二人が出ていってフェリックスは一人指揮席に残った。
判定記録を呼び出す。講評は明日、講堂で下る。
数字だけはもう出ていた。
撃破判定、不成立。
敵の残存、九割。
自軍、離脱線超過。
損耗率は史実の貴族連合軍を下回っている。
潰走の管理だけは史実よりましだった。
それだけだった。
敗北、の二文字は誰が読んでも同じ形をしていた。
ロイエンタールの血もミッターマイヤーの姓も判定装置の入力には存在しない。
その公平さだけがこの夜唯一まともに手応えのあるものだった。
フェリックスは記録の冒頭を呼び出した。
会戦一日目。障害物のない宙域。敷き終えたばかりの機雷原の奥で球形陣が静止している。
それだけの映像を最後まで黙って見た。
もう一度再生した。
観覧区画はもう暗かった。棟内に残っているのは判定装置と自分だけだった。
もう一度再生した。
三度目の静止のなかにフェリックスは自分が追いかけ続けたものの正体を見ていた気がした。
言葉にはしなかった。言葉にできる気もしなかった。
ただ三度見てそれから映像を閉じた。
戦ったという手応えのない完敗だった。
こちらは全力で撃ち、追い、罠まで仕掛けた。向こうは最後までこちらが仕掛けた勝負に一度も乗らなかった。
悔しさの置き場がなかった。
名勝負のすえの敗北でも力尽きた敗北でもない。
一万六千隻を預かって何もさせてもらえなかった。
構わないと思うことにした。
恥なら引き受ける。
引き受けて次の盤面まで担いでいく。
それしかこの夜の使い道を思いつけなかった。
右手はまだ半分握られていた。
開くと手のひらに爪の跡が四つ残っていた。
――記録の中の疾風は、こちらを見なかった。
では、もし相手が生きていて、こちらを見返したなら。