銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二十話 戦史再演・アルテナ星域の会戦(後編)(新帝国暦一九年春)

【新帝国暦一九年春 帝国軍士官学校・統合演習棟 フェリックス】

 

 

統合演習棟の第一艦橋は、本物より静かだった。

 

造りは、帝国軍の戦艦そのものだった。

 

暗色の装甲材に囲まれた広い艦橋。

階段状に沈む操作区画。

前方を占める巨大な戦術表示盤。

その中央奥、一段高く据えられた司令官席まで、寸法も配置も、現役艦の第一艦橋と変わらない。

 

士官学校の演習設備というより、一隻の戦艦から艦橋だけを切り取り、巨大な建物の奥深くへ埋め込んだようだった。

 

だが、本物の艦橋なら、機関の脈があり、人の気配があり、空気の温度がある。

 

ここには、それがない。

 

あるのは操作卓の待機灯と、これから始まる十時間の輪郭だけだった。

 

司令官席が一つ。

半円に並ぶ操作卓は、そのすべてが無人のまま、緑の待機灯を点している。

一万六千隻の艦隊が、この一室に畳み込まれていた。

 

「候補生フェリックス・ミッターマイヤー。貴族連合軍司令官、単独指揮。確認」

 

天井から、判定装置の合成音声が降ってくる。

抑揚のない、誰のものでもない声。

 

「確認」

 

背後で、ハッチが閉じた。

 

観覧区画の灯りが落ちて、遮音硝子の向こうに、他の候補生たちの輪郭だけが残る。

ここからは、どちらの声も届かない。単独指揮とは、そういう意味だった。

 

一晩かけて、研究した。

読める記録はすべて読み、打てる手はすべて盤に載せて、最後には捨てるべき手を捨てた。

 

だが指揮席に座れるのは、フェリックスだけだ。

 

「状況を付与する」

 

主モニターに、星図が展開した。

 

アルテナ星系に近い、無地の恒星間空間。天然障害物、なし。

その中央に、球形陣。一万四千五百隻が、六百万個の機雷からなる機雷原を盾に、静止している。

 

こちらは一万六千。数の上では僅かに勝っている。数の上では。

 

演習の想定は、会戦三日目の朝から始まる。

 

一日目と二日目――対峙、我慢、静止――は、前提として与えられていた。

相手が記録である以上、機雷原も球形陣も、こちらが何をしたところで、あの三日間のとおりに組み上がってしまう。

動かしようのない過去として、盤はもう完成していた。

問われているのは、その出来上がった盤の前で、どう指揮するかだけだった。

 

「会戦三日目、一七三〇。敵性情報を受信。ローエングラム軍本隊、当宙域へ接近中。敵ミッターマイヤー艦隊は決戦を回避しつつ時間を確保、合流後に全面攻勢へ移行する企図。受信した情報の真偽、不明」

 

 

読み上げられる状況も、すべて知っていた。

 

欺瞞は見破れる。真実は見破れない。

二十一年前、この報せひとつが、一人の理論家(シュターデン)の推論を丸ごと止めた。

 

「本演習は、この時点より貴官の采配を開始する。勝利条件、本隊到着前における敵先遣艦隊の撃破。制限時間、十時間」

 

主モニターの隅に、時計が生まれた。

 

九時間五十九分。

五十八分。

 

出るか、出ないか。そこから選べ、ということだった。

 

出なければ、時計がすべてを終わらせる。本隊が着けば、兵力差の優位はもうない。

 

右手が勝手に握られて、また開いた。一度だけ。

出撃の前の癖だった。自分では気づかない。

 

「全艦隊、抜錨」

 

フェリックスは言った。誰もいない艦橋に、声はよく通った。

 

「左翼、正面で敵を拘束。本隊は右翼、機雷原の外周を回って、後背を取る」

 

選択肢をすべて消して、最後に残った手。

両翼分進。「理屈だおれ」と嗤われた老将が授けたのと、骨子は同様。

だが、敵艦隊への接敵タイミングや距離を精緻化し、離脱線も明確に引いた。

接近と離脱を繰り返し、敵艦隊を殲滅する。

 

復唱が艦橋に満ちた。人間の声ではない。記録から合成された音声。

一万六千隻が、動き始めた。

 

加速は、揃っていた。

重心の低い唸りが模擬の艦橋にまで再現されて、床を微かに震わせている。

開戦前の艦隊とは、こんなにも静かなものかと思った。

 

「……なあ」

 

フェリックスは、モニター中央の球形陣へ、小さく声をかけた。

 

「あんたが本物じゃないことくらい、分かってる。分かってて、だ。一手くらいは、届かせてもらうぞ。若いほうの、父上」

 

球形陣は答えない。動きもしない。

 

それでいい、と思うことにした。怖くないと言えば、嘘になる。

だから軽口で蓋をする。いつもの、手順だった。

 

 

***

 

 

右翼一万隻は、機雷原の南縁に沿って、大きく弧を描いていく。

 

図上演習なら、何度も艦隊を動かしてきた。だが一万という数を預かるのは、初めてだった。

 

数は、重さだった。

命令の一語が艦列の端まで届く遅れ。回頭の号令から、翼の全体が実際に向きを変え終えるまでの時差。

卓上の図演では点と線だったものが、ここではすべて、重さを持っていた。

 

そして、驚くほど、静かな行軍だった。

 

命令は一度で通る。復唱は正確で、隊列は乱れない。

功を焦って突出する提督がいない。抜け駆けを競う紋章旗がない。

「わが家門こそ先陣に」と怒鳴り込んでくる門閥貴族が、この艦隊には一人もいない。

 

二十一年前の貴族連合軍を殺した内圧が、ここには存在しなかった。

 

フェリックスは、操作卓の時刻表に指を置いて、記録と現在を重ねながら進んだ。

 

「二〇四〇、通過」

 

フェリックスは、手元の時刻表を読み上げた。声に出す必要はない。出したかっただけだ。

 

二〇四〇。史実で、右翼の貴族艦列が崩れ始めた時刻。

功名を争う若い貴族たちが我先に前へ出て、翼が縦に伸び、艦隊が艦隊であることをやめて、ただの群れに変わり始めた時刻。

 

その時刻を、いま、無傷で通過した。

 

時刻表と並んで歩いているようだった。

記録のなかの破局をひとつずつ追い越しながら、破局だけを置き去りにしていく。

 

隊列を保ち、敵の後背へ向かって回り込んでいく。

史実のシュターデンがついに持てなかったもの、命令に従う軍を、この手は持っていた。

 

「……いけるぞ、これは」

 

つぶやきが漏れた。

 

老将の授けた作戦は、健全だった。

それを殺したのは、実行する軍の統制だった。

ならばいま、同じ作戦は健全なまま実行されるはずだった。

 

接近と離脱。

理屈は通っている。前提も揃えた。

 

主モニターのなかで、球形陣が、ゆっくりと視界の脇へ流れていく。

 

二一二〇、左翼が予定線に達し、敵艦隊への拘束射撃を開始した。

 

応射は、正確で、最小限だった。

球形陣は火力圏の入口だけを閉ざして、一歩も出てこない。

誘いには乗らず、深追いもせず、こちらの左翼が「そこにいる」という事実だけを、淡々と処理していく。

 

回り込みは、順調だった。

 

順調すぎて、一度だけ、妙な寒気がした。

欲しかったものが、全部、手の中にある。規律も、時刻表も、健全な作戦も。それでも敵は、必要最小限の応射を返すだけで、一歩も動かずにいる。

こちらの持ち物が増えるほど、あの静止は、大きくなっていく気がした。

 

寒気の正体を確かめる前に、時計が次の時刻を告げた。

 

 

***

 

 

二一五〇。敵、なお静止。

 

動かない、ということが、これほどの圧力だとは知らなかった。

 

艦橋は静かだった。合成の復唱は、命じたときにしか鳴らない。

本物の艦隊なら、この沈黙のどこかに、誰かの咳や誰かの祈りがあるはずだった。

 

盤面の上では、こちらが動き、敵が止まっている。主導権はこちらにあるはずだった。

それなのに、時計が減るたびに、締めつけられていくのはこちらだった。動かない敵と、動き続ける時計。挟まれているのは、最初から、こちらのほうだった。

 

二二一〇。

 

フェリックスは、その時刻を暗記していた。

 

記録のなかで、ミッターマイヤー艦隊が初期位置を捨てていたことが、のちに判明する時刻。

正確には、移動が「もう終わっていた」ことが、判明する時刻。

 

主モニターの敵影が、その時刻どおりに、いなくなった。

 

「敵艦隊、機雷原西縁へ移動」

 

自分の声が、妙に平坦に聞こえた。

 

「右翼、増速。針路修正、敵の新位置へ回頭」

 

命令は正確に実行された。一万隻が、従順に、針路を曲げる。

 

届かなかった。

 

敵は機雷原の縁のすぐ外を、滑るように回っている。こちらは機雷の危険距離の、さらに外を回るしかない。

同じ円を、内と外で回っていた。

 

資料閲覧室の夜、クラインが言った言葉が、そのまま盤面になっていた。

 

この機雷原は、盾じゃない。円の中心だ。

中心を持っている側の弧は、いつでも短い。

 

頭では、知っていた。

数字でも、知っていた。旋回半径の比も、必要な増速の限界値も、昨晩に計算し終えていた。

 

いま、初めて、艦隊の重さで実感した。

 

一万隻は、曲がらない。

曲がれと命じてから、翼の全体が新しい弧に乗り終えるまで、何分もかかる。その何分かのあいだに、内側の敵は、短い弧を先へ進んでいる。

 

翼の先端と根元では、進む距離がまるで違う。

外側の艦は限界まで噴かし、内側の艦は速度を殺して、それでようやく、翼は翼のかたちを保つ。かたちを保つこと自体が速度を食っていた。

 

増速を命じる。差の数字を睨む。

縮まらない。

 

向こうは、何も変えていない。記録の速度のまま、短い弧を回っているだけだ。

こちらの弧は長く、向こうの弧は短い。こちらが何をしても、何をしなくても、縮まらない設計の円だった。

 

一手ぶん、いつも先にいる。

こちらが今いる時刻に、向こうはもういない。その先へ先へと抜けていく拍に、フェリックスは覚えがあった。

 

屋敷の廊下の向こうから近づいてくる足音。

速くはない。それなのに、いつのまにかもうそこにいる。

子どもの頃から、足音だけで養父の帰りが分かった。あの、律動。

 

戦い方まで、同じ拍なのかと思った。

記録のなかの若い疾風は、いまも、あの足音の速さで歩いていた。

 

「回り込め。もっと外へ膨らんで、大回りで頭を押さえろ」

 

外へ膨らめば、弧はさらに長くなる。

分かっていて、ほかに言葉がなかった。

 

いや。追いつく方法なら、一つだけ、あった。

 

内側へ寄ることだ。機雷の危険距離を割り、敵の火力圏に肩を入れて、短い弧をこちらも取る。

 

二十一年前、その内側へ入っていった艦隊があった。

座標も、時刻も、結末も、フェリックスは暗記していた。

 

三十秒だけ、計算した。

損害予測の答えが出るより先に、自分のなかで答えが出た。

不用意に内側に入った者から、順に消える。

 

「針路、維持」

 

口に出して、自分に命じた。

 

そのとき、フェリックスは、もう一つのことに気づいた。

 

敵の艦列が、一度も、こちらへ艦首を向けていない。

 

回っているだけだった。機雷原を軸に、自分の作った円だけを見て、決められた弧を、決められた速度で。

こちらの右翼がどれほど食い下がっても、敵の針路は一度も揺れない。応じない。

 

当たり前だった。記録なのだ。

分かっていたはずのことが、艦隊を預かった身体には、まるで違う重さで刺さった。

 

見てほしかったのだと、気づいてしまった。

たった一手でいい。

本物ではないと知っている記録上の指揮官(疾風ウォルフ)に、こちらを見て、応じてほしかった。

 

その願いに気づいて、腹が立った。

子どもかよ、と胸のうちで吐き捨てる。

 

 

試しに、ひとつ餌を撒いた。

 

右翼の一隊に、偽の混乱を命じる。

隊列を乱し、崩れかけたと見せる機動で、敵の食いつきを誘う。

生きた敵なら、食うか、疑うか、少なくとも見る。

 

敵の針路は、髪の毛一筋も揺れなかった。

 

騙せなかったのでは、ない。

騙す、という行為が、はじめから成立していなかった。

嘘は、受け取る相手がいて、初めて嘘になる。

 

時計が容赦なく残りを削っていく。

騙せない。追いつけない。近寄れば死ぬ。

消去法が、盤の上の選択肢を、一つずつ黒く塗り潰していった。

 

こちらは全力で回している。

翼の規律を張りつめ、増速の限界に貼りついて、教本のどの一行にも反しない機動を続けている。

その全部が、相手の視界に、入ってすらいない。

 

的を外しているのでは、なかった。

的が、掛かっていなかった。

 

気づくと、右手をまた握っていた。

今度は、開かなかった。開こうとして、指がすぐには言うことをきかない。

 

体術の名手だと言われてきた。

己の身体こそ最後の武器だと、どこかで信じてきた。

追い詰められても、最後は拳ひとつで局面をこじ開けられる、と。

 

この戦場に、殴る相手はいなかった。

拳の届く距離に、敵は一度も来ない。来る必要が、ないからだ。

握りしめた手のなかには、いつも、何もなかった。

 

 

***

 

 

〇一四〇。金床が、口を開けた。

 

追いつけない、という結論が固まるより早く、盤面のほうが次の頁をめくった。

敵艦隊が旋回の向きを変え、こちらの右翼先鋒と機雷原とのあいだへ、楔のように滑り込んでくる。

 

決めてあった離脱の手順を、出す。

出している最中に、削られている。手順は正しい。正しい手順だが、艦隊の速度が相手に追いつかない。

 

「先鋒、後退。翼を畳め、機雷原から距離を取れ」

 

命令は、届いた。実行も、された。

 

それでも、遅かった。

命令が艦列の端まで伝わり終わるより早く、敵の楔は打撃の位置に着いている。

早い。

こちらが一手を伝えるあいだに、向こうは一手を終えている。

 

先鋒三千隻が、槌と金床のあいだで、削られ始めた。

敵の射線に頭を抑えられ、離脱もできない。

 

逃げ場は二つしかない。敵の火線のなかか、機雷原のなかか。

記録準拠の練度は、記録準拠の答えを出した。

三千隻は押し合いながら危険距離を割り、自分たちの盾だったはずの機雷原へ、押し出されていく。

 

主モニターの右翼が、光の粒になって、欠けていく。

 

〇一五〇、先鋒の旗艦が沈んだ。

代将を立てる。三分後、その代将の艦も光になった。

指揮系統を張り替える手が、失われていく速度に、追いつかない。

 

「左翼、拘束を強めろ。敵の旋回を釘づけに」

 

言いながら、分かっていた。

 

健全な作戦だった。

だが、健全なまま実行され、健全なまま、砕かれていた。

 

〇二三〇。右翼が、消えた。

 

艦列が解け、応答が乱れ、同士討ちの誤射が始まり、退路を失った艦が、開いてもいない機雷原へ、みずから突っ込んでいく。

 

機雷原に触れた艦は、爆ぜて、消える。

記録のとおりだった。

 

フェリックスの命令は、まだ通っている。

通った命令が、崩壊の速度に、追いつかないだけだった。

 

まだ立て直せる、と言いたがる自分がいた。

左翼は健在で、時間には残りがあり、再編反撃の手順も、準備している。理屈上は。

その声は切り捨てた。

 

「……全軍。撤退の線まで、後退」

 

時計は、残り二時間を切っていた。

クラインと引いた、撤退の一線。

それを越えて粘れば、潰走が全滅に変わる。

敵艦隊の撃滅はあきらめ、損害をできるだけ抑えて撤退する。

 

だが、後退の号令とともに、自軍の崩壊は雪崩になった。

 

先を争う艦が、味方の射線を横切る。

回避が回避を呼び、隊列だったものが、渦に変わる。

 

フェリックスは退却の管制を出し続けた。順序を割り、退路を割り、割った先から、通信の窓に悲鳴が積み上がっていく。

声は、届いている。届いた先から、ほどけていく。

 

二十一年前の貴族連合軍は、こうやって撃たれていったのか、と、頭の隅の冷えた部分が言った。

誰かが無能だったからではない。

崩れ始めた軍というものは、崩れ終わるまで止まらないだけだ。

 

そのなかで。

 

一つだけ、自軍の中に崩れない光の塊があった。

 

自軍右翼後方の一隊。番号だけの、名も知らない部隊符号。

潰走の奔流のなかで、その一隊だけが隊形を保ったまま、退いていく僚艦たちの背後に回り、追撃の火線を受け止めている。

 

誰の命令でもない。フェリックスは、そんな指示を出していない。

 

崩れた軍のなかで、崩れない部隊が、退却を支えていた。

記録は、それも再生していた。

二十一年前、実際に、そういう部隊がそこにいた、ということだった。

 

あとで記録を見返そうと、頭の隅に書き付けるのが精一杯だった。

 

見届ける余裕は、なかった。

 

「判定」

 

天井の声が言った。

 

「制限時間内の撃破条件、不成立。自軍損耗、離脱線超過。敗北」

 

主モニターの光が、一斉に止まった。

 

耳鳴りがするほどの静けさだった。

十時間、命令のたびに艦橋を満たした合成の復唱が、もうどこからも返らなかった。

 

崩れた自軍の光点と、ほぼ無傷の球形陣が、静止画になって浮かんでいる。

時計だけが律儀に残り時間を刻み続けて、やがて、それも止まった。

 

 

***

 

 

ハッチが開いて、二人が入ってきた。

 

アレクは、何も言わなかった。

言葉を探して、探して、置き場がないと分かって、やめた。そういう沈黙の仕方だった。

隣まで来て、静止画の盤面を、ただ一緒に見上げた。

 

「……離脱線は」

 

クラインが、それだけ言った。

 

「正しく、引けていました。史実よりも被った損害は少なく、与えた損害は大きい」

 

「ああ」

 

先に休んでいてくれ、と言うと、二人は素直に頷いた。

 

二人が出ていって、フェリックスは一人、指揮席に残った。

 

判定記録を呼び出す。講評は明日、講堂で下る。

数字だけは、もう出ていた。

 

撃破判定、不成立。

敵の残存、九割。

自軍、離脱線超過。

 

損耗率は、史実の貴族連合軍を下回っている。

 

潰走の管理だけは、史実よりましだった。

それだけだった。

 

敗北、の二文字は、誰が読んでも同じ形をしていた。

 

ロイエンタールの血も、ミッターマイヤーの姓も、判定装置の入力には存在しない。

 

その公平さだけが、この夜、唯一まともに手応えのあるものだった。

 

フェリックスは、記録の冒頭を呼び出した。

 

会戦一日目。障害物のない宙域。敷き終えたばかりの機雷原の奥で、球形陣が、静止している。

それだけの映像を、最後まで、黙って見た。

 

もう一度、再生した。

 

観覧区画は、もう暗かった。棟内に残っているのは、判定装置と、自分だけだった。

 

もう一度、再生した。

 

三度目の静止のなかに、フェリックスは、自分が追いかけ続けたものの正体を見ていた気がした。

言葉にはしなかった。言葉にできる気も、しなかった。

 

ただ、三度見て、それから映像を閉じた。

 

戦った、という手応えのない完敗だった。

こちらは全力で撃ち、追い、罠まで仕掛けた。向こうは最後まで、こちらが仕掛けた勝負に一度も乗らなかった。

 

悔しさの置き場がなかった。

名勝負のすえの敗北でも、力尽きた敗北でもない。

一万六千隻を預かって、何もさせてもらえなかった。

 

構わない、と思うことにした。

恥なら、引き受ける。

引き受けて、次の盤面まで担いでいく。

それしか、この夜の使い道を思いつけなかった。

 

右手は、まだ半分、握られていた。

開くと、手のひらに爪の跡が四つ残っていた。それを見ている者は、この夜、どこにもいなかった。

 

指揮席を立つ。明かりを落とすと、静止画の球形陣が闇のなかに一拍だけ、残像で残った。

残像は、やはり動かなかった。

 

消灯まで、少しあった。

 

戦史再演は、まだあと二度、ある。

 




次回、【番外編】として、親子対決のIFストーリーを投稿する予定です。
少し不思議な夢の話です。

――記録の中の疾風は、こちらを見なかった。
では、もし相手が生きていて、こちらを見返したなら。




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