銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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今回は番外編のIFストーリーです。
三人の、少しだけ変な夢の話です。


【番外編】対決!疾風ウォルフ(vs ウォルフガング・ミッターマイヤー)

消灯の号令が消えて、士官候補生フェリックス・ミッターマイヤーは目を閉じた。

次に目を開けたとき、そこは寝台の上ではなかった。

 

艦橋だった。

広い。そして、見慣れていた。

昼間、演習棟のシミュレータで十時間座った、あの艦橋と、つくりがそっくりだった。

半円に並ぶ操作卓。中央の司令官席。正面の、巨大な主モニター。

 

帝国の艦橋は、二十年近く前でも、骨格をほとんど変えていない。

ただ、演習の艦橋になかったものが、ここにはあった。

機関の脈。人の気配。空気の温度。

操作卓は緑の待機灯ではなく、生きた計器の光で埋まり、その前に、合成音声ではない本物の乗員たちが座っている。

 

天井を走る豪奢な意匠の梁だけが、ここが自分の生きる時代ではないと告げていた。

そして彼らは全員、フェリックスの方を向いて、指示を待っていた。

昼間の記録は、最後までこちらを見なかった。ここでは、艦橋じゅうの目が、こちらを向いている。

「……は?」

 

声が出た。

見下ろすと、士官学校の制服ではなく、帝国軍の軍服を着ていた。

襟の階級章は、『大将』。

士官候補生が逆立ちしても届かない、星の数だ。

 

右に若き皇帝アレク。左にクライン。

 

二人とも同じ帝国の軍服で、同じだけ間抜けな顔をして、自分の身なりを見下ろしている。

 

アレクの襟もとには、『少尉』の星がひとつ。

 

クラインの肩には――『元帥』の、大仰な肩章。

金の飾りが幾重にも盛られ、背からは、元帥だけがまとうマントが床すれすれまで垂れている。

 

「……なんで、私が帝国元帥なんですか」

クラインが、マントの裾を指の先でつまんで、心底困った顔をした。

「まだ一日も、勤めていません」

 

アレクは自分の少尉の星を見て、小さく笑った。

「僕はこれで、気楽でいい」

 

夢は、星を配る相手を、あきらかにまちがえていた。

そして誰ひとり、それを正そうとはしなかった。

 

「ここ、どこだ」

アレクが小声で言った。

 

「知るか。……いや」

 

知っていた。三人とも、知っていた。

主モニターに映る星系の配置。

無地の恒星間空間。

そして、その中央に静止する、一万四千五百の艦隊の球形陣。

 

「……アルテナです」クラインが呟いた。

 

そのとき、艦橋の奥から、帝国軍大将の階級章をつけた一人の男が歩み出てきた。

ナイフのように細身で、シャープな印象をあたえる四〇代なかばの中年。

神経質そうに引き結んだ口もとと、それに似合わず得意げな――自分の理屈に満足しきった目。

 

フェリックスは、その顔を知っていた。史実の記録映像で、何度も見た顔だった。

 

「卿ら」

シュターデン提督だった。

彼は三人の前に立つと、芝居がかった仕草で両手を広げた。

 

「理論的に検討した結果である」

 

「は」

 

「硬直した頭脳より、新鮮な若年の頭脳に全指揮権を委ねるほうが、この局面の最適解であると証明された。ゆえに、卿らに移譲する。武運を祈る」

言い終えて、彼は満足そうに頷いた。

 

周囲の士官たちも、当然のことのように頷いた。

誰も、なぜ士官学校の候補生が貴族連合軍の全権を握るのかを、問わなかった。

若すぎる、とも、身分は、とも、誰も言わない。

まるで、それが世界で最も自然なことであるかのように。

 

 

フェリックスは口を半分開けたまま、隣を見た。

アレクも口を開けていた。

 

「……夢だな」フェリックスは言った。

 

「夢だろうな」アレクが言った。

 

「夢です。ですが」

クラインだけが、モニターを見ていた。

 

中央の球形陣。動かない一万四千五百隻。

だがフェリックスも、見ているうちに気づいた。

記録の中のそれと、一つだけ違う。

うっすらと、陣形が、呼吸していた。

 

 

***

 

 

「状況を整理します」

クラインが計器盤に指を走らせながら言った。

三人は主モニターの前に額を寄せている。

周りの士官たちは、命令があるまで石像のように待っていた。

 

「敵は生きています。記録の再生ではありません。私たちが動けば、向こうも動く。……現実の演習と、そこが根本的に違います」

 

「欺瞞は?」アレクが言った。

 

「向こうが生きてるなら、騙せる。偽の潰走情報を撒いて誘い出して、開けた宙域で数を活かす」

 

「やってみます」

クラインが左翼の一隊に指示を送った。

統制を保ったまま、崩れたふりをして後退せよ、と。

 

十分後、その一隊は本当に崩れかけた。

演技の後退が、そのまま本物の潰乱になりかけている。

 

クラインは慌てて隊列を引き戻した。

艦橋が、しんとした。

「……いま、本当に崩れましたよね」

 

クラインが、珍しく素の声を出した。

 

「崩れた」フェリックスが頷いた。

「……思いっきり、崩れた」

 

「私は、崩れた『ふり』をしろと、送ったつもりです」

 

「伝わってたよ。最初の十分はな」

 

「その十分しか、もちませんでした」

 

「……まじかよ」

フェリックスは天井を仰いだ。

 

嘘の潰走が、十分で本物の潰走に化ける艦隊が、この世にあるとは思っていなかった。

「アレク。お前の案だぞ、これ」

 

「いい案だったろ」アレクが遠い目をした。

 

「まともな軍ならな」

 

「崩れたふりは、精鋭の芸です。統制を保ったまま崩れてみせるには、崩れない腕がいる。この軍の練度でやると――ご覧のとおり、ふりが、そのまま本物になります」

クラインが、いつもの声に戻って言った。

 

命令には、従う。だが、従うだけだ。上手くは、ならない。

フェリックスは奥歯を噛んだ。

 

「……なら、退くのはどうだ」

アレクが言った。

 

「ここでは戦わない。艦を温存して、ローエングラム軍の本隊が来る前に離脱する。そうすれば、少なくとも一万六千隻は残る。兵も死なない」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

それは、局地戦だけを見れば、合理的な選択だった。

 

だが三人とも、この戦役の結末まで知っている。

 

いま、貴族連合軍は一万六千隻。対するミッターマイヤー艦隊は一万四千五百隻。

 

アルテナは、ローエングラム陣営の一軍を、数の優位を持って叩ける、数少ない機会のひとつだった。

 

ここで退けば、艦は残る。

 

だが、ローエングラム軍の本隊が合流したあと、この形はもう作れない。

 

以後、貴族連合軍は分断され、各個撃破で、削られていく。

いくつかの会戦を経て、ガイエスブルクの落城へ向かう。

 

アレクは、自分で言った言葉を引き取った。

 

「……退けば、今日の兵は助かる」

 

三人は艦橋を見回した。

全指揮権を委ねられ、従順に命令を待つ、一万六千隻の軍。

この夢は、勝たせてくれ、と言っている。

フェリックスは、低く息を吐いた。

 

「……理性で、全部考えたよ」

 

ほとんど独り言だった。

 

「後知恵で、結末まで知ってる。それでも、出るしかない。この一戦は、捨てられない」

彼は主モニターの向こう、一万四千五百隻の球形陣を見た。

 

「結局、あの我慢できずに飛び出した門閥貴族の坊ちゃんたちと、同じ場所に着く」

 

誰も、何も言わなかった。

ただし、一つだけ違う。

出撃が、間違いだったのではない。

間違いは、出撃すれば勝てると思ったことだった。

 

「……一つ、残ってます」

クラインが、乾いた声で沈黙を破った。

「演習と違うのは、応手する敵だけじゃありません。時間です。演習は、三日目から始まりました。でも、いまは」

彼は時計を指した。

 

「初日です。まだ、三日、あります」

 

アレクが顔を上げた。フェリックスも。

「演習でできなかったことを、やろう」

 

 

***

 

 

「掃海だ」

フェリックスは決めた。三日あれば、机上では、桁が届く。

六百万個の機雷原に、艦隊一つ分の安全な回廊を通せる。

演習では不可能だった手が、初日から始められるなら、話は変わる。

 

「掃海隊、前進。両翼、圧力をかけて敵の注意を分ける」

 

命令は、遅滞もなく実行された。従順な軍。掃海艇の列が、機雷原へ向けて散開していく。

クラインが啓開の進捗を数字で読み上げていく。回廊の幅、掃海の速度、残りの時計。最初の一時間は数字が順調に伸びた。艦橋の空気が、わずかに緩んだ。

 

だが、二時間目に入ったところで、その数字が鈍り始めた。

「掃海隊、損耗します」クラインの声が跳ねた。

「火力圏の、外から——狙撃されています」

 

主モニターの中で、掃海艇が一隻、また一隻と光になって消えていく。

撃っているのは球形陣ではない。

 

その外周に、いつのまにか展開した敵遊撃の分隊だった。

掃海艇だけを、正確に、遠くから、一隻ずつ。

護衛の艦は狙わない。機雷を掃く艇だけを、選んで潰していく。

 

「護衛を厚くしろ」フェリックスが命じた。

「掃海艇の周りに、盾を作れ」

 

盾は作られた。

従順な軍は、命令どおり掃海艇の周囲を固めた。

だが盾を厚くすれば掃海の列は細くなる。

啓開の速度は、さらに落ちた。

撃たれるか、遅くなるか。どちらを選んでも、時計だけが減っていく。

 

「陛下」クラインの声が、低くなった。

「啓開した区画に、機雷が——戻っています」

 

「戻る?」

 

「敷設艇です。こちらが掃いた端から、敵が敷き直しています。私たちが一区画を空けるのにかかる時間より、向こうが埋め直す時間のほうが、短い。……この機雷原は」

クラインの声が、少しかすれた。

「完成品ではない。生き物です。掃いても、掃いても、元通りになる」

 

フェリックスは主モニターを睨んだ。

彼は、演習で見た記録の初日を思い出した。

 

動かない球形陣。

 

あのとき、なぜ動かないのかが分からなかった。

いま、その艦橋に立ってみて、分かった。

動く必要が、本当に、何ひとつなかったのだ。

 

敵は、ただ、そこに在るだけでいい。

 

こちらが掃海に出れば、掃海艇を狙い撃ちし、埋め戻せばいい。

掃いても掃いても元に戻る機雷原の前で、じりじりと減っていくのは、こちらの艇の数だけだった。

 

 

***

 

 

その初日の夜だった。

「通信解析、入りました」クラインが計器を見た。

「敵の内部通信が入電……ローエングラム侯の本隊が、接近中との情報。史実どおりです。ただ」

彼は顔を上げた。

「史実では、この情報が流れるのは三日目でした。……二日、早い」

 

 

***

 

 

同じ頃、球形陣の中心。

敵旗艦の艦橋で、ひきしまって均整のとれた体つきに、おさまりの悪い蜂蜜色の髪と、活力に富んだグレーの瞳をした若い提督が、掃海隊の動きを眺めていた。

 

「ほう」

彼は幕僚に言った。面白がる声だった。

 

「貴族の馬鹿息子どもにも、少しはやるやつがいるみたいだな。初日から機雷を掃きに来る度胸と、頭はあるようだ」

 

「いかがなさいますか」

 

「決まってる」

彼は、指を一本立てた。

 

「例の報せを、流しておけ。馬鹿が相手なら、三日目でいい。三日待たせて、痺れを切らして飛び込んでくるのを待てばいい。……だが、賢い相手なら」

 

その指を、下ろした。

 

「早いほうがいい。初日だ。考える時間を、たっぷりくれてやれ。賢いやつほど、考えすぎて動けなくなる」

 

 

***

 

 

ミッターマイヤーがわざと流したその報せは、貴族連合軍の艦橋にも届いていた。

 

「――欺瞞だ。欺瞞に決まっておる」

シュターデンが、通信文を睨んで唸っていた。

 

「本隊接近など、こちらを焦らせて誘い出す罠よ。乗ってはならん。……いや、待て。あえて真実を流し、それを我らが欺瞞と読むところまで計算に入れて――ならば、これは真実か。だとすれば急がねば。……いや、そう読ませるのが罠やもしれぬ」

 

額に汗を浮かべ、彼は同じ場所をぐるぐると回り続けた。真か、偽か。偽と読ませる真か、真と読ませる偽か。出口のない円を、律儀に何周もしていた。

 

三人は、少し離れて、それを見ていた。

 

「……あれ」フェリックスが小声で言った。

「答え、俺たち知ってるよな」

 

「知ってます」クラインが頷いた。

「本隊接近は、真実です。史実で、そうでしたから」

 

「じゃあ、あの人だけが、ずっと迷ってるのか」

 

「そういうことに、なります」

 

フェリックスは、ぐるぐると回り続けるシュターデンを、しばらく眺めた。

「……俺たちも、答えを知らなきゃ、ああなってたんだろうな」

 

誰も、笑わなかった。

真か偽かを、自力で見極めねばならなかったら。

三日を、あの円の中で溶かしていたのは、自分たちのほうだったかもしれない。

 

敵は、たった一通の通信で、こちらの指揮系統を撃ち抜いてきた。

その罠に、自分たちが嵌まらずに済んでいるのは、頭がいいからではない。

ただ、答えを盗み見ていたからだった。

 

 

***

 

 

 

「掃海は、捨てます」

二日目の朝、クラインが言った。

 

目の下に、夢の中だというのに、隈があった。

 

「掃いても戻る。時間だけが減る。これ以上は、時間を敵に贈るだけです」

 

「じゃあ、残ったのは」

フェリックスは分かっていた。分かっていて、口に出した。

 

「分進だ。左翼で正面を拘束、右翼で外を回る。艦隊の規律を保って、金床の口を最小にして、届くところまで削る。ローエングラム侯の本隊が来る前に離脱線を引いて、そこまで全力でやる」

 

「……それ、演習でやった手です」

 

「ああ」

 

フェリックスは、低く笑った。笑うしかなかった。

 

「記録に負けたんじゃなかったんだな。俺たちは。……盤面に、負けてたんだ」

 

結論は、同じ場所にあった。

 

先回りは、死んだ敵にしか効かない。欺瞞は、崩れない腕がなければ成立しない。掃海は、埋め戻される。退けば、戦争全体の勝ち筋が消える。

 

生きた敵を相手に、消去法で一つずつ潰していって、

最後に残ったのは――演習で負けたのと、同じ両翼分進だった。

 

クラインが、離脱線の管理を宣言した。

本隊到着の予測時刻から逆算した、退き際の一線。

ただし、離脱線を越えたら、速やかに退く。

数的優位を活かし、できるだけ多くの敵艦を削る。

 

「配置」フェリックスは立ち上がった。

 

「アレク、総指揮と左翼の拘束を頼む。右翼は俺が見る」

 

「少尉が総指揮って、軍法会議ものだけどな」

アレクが自分の襟を指で弾いた。

 

「元帥に任せるよりましだろ」

フェリックスは、参謀席で元帥のマントを持て余しているクラインを顎で示した。

「階級章を配る相手を、夢が間違えた。文句は夢に言え」

 

「右翼は」

アレクが言った。

「史実で、ヒルデスハイム伯が死んだ場所だ」

 

「だから俺が受け持つ」

 

フェリックスは、それ以上説明しなかった。

一番危ない翼を、他人に預ける気はなかった。

 

 

***

 

 

会戦が始まった。

両翼が分かれ、機雷原を挟んで左右へ展開していく。

フェリックスの右翼は、史実の貴族連合軍とは比べものにならないほど、隊列を保っていた。

功を焦る者はいない。命令に、全員が従う。

 

「右翼、規律を維持。……いい。史実で崩れた時刻を、無傷で通過するぞ」

 

艦橋に、小さな歓声。フェリックスも、一瞬、手応えを感じた。これなら、あるいは。

 

「フェリックス」

 

クラインの声だけが、平らだった。

 

「向こうが、旋回半径を変えました」

 

 

***

 

 

押していける、と思った局面は、長く続かなかった。

 

敵は、機雷原の縁のすぐ外を回っている。

こちらの右翼は、機雷に触れないよう、安全距離のさらに外を回るしかない。

 

同じ円を、内と外で回る。

そして、内側の弧は、いつでも外側より短い。

 

同じ角度だけ回り込むにも、こちらは敵より長い距離を走らなければならない。

 

フェリックスが進路を変える。

だが、そこへ着いたときには、敵はもう次の位置にいる。

 

 

フェリックスは、正しく機動していた。

旗艦の位置も、火力の集中も、教本のどの一行にも反していない。

 

それなのに、回り込もうとするたびに、敵が「もう、そこにいない」。

 

最初は、偶然だと思った。

 

二度目は、こちらの動きが読まれたのだと思った。

 

三度目で、フェリックスは理解した。

 

読まれているのではない。追いつけないのだ。物理的に。

 

こちらが一の弧を進むあいだに、敵は内側の短い弧で一と半分を進んでいる。

 

角度を詰めようと速度を上げれば、敵も同じだけ速く、内側を滑っていく。差は、決して、縮まらない。

 

「回り込め! もっと外へ膨らんで、大きく回り込め!」

命令は、正しく実行された。右翼艦隊は、大きく外周へ膨らんだ。

 

だが外へ膨らむほど、弧は長くなる。長い弧を速い足で回っても、敵の短い弧には追いつかない。

追いつくには、こちらも内側へ——機雷原の縁へ、敵の砲火の圏内へ、こちらから踏み込むしかない。

 

史実ではヒルデスハイム伯が、撃たれた場所へ。

 

「……くそっ」

 

それでも、一瞬、窓が開きかけた。

フェリックスの右翼の突進と、アレクの左翼の拘束のずらしが、噛み合った。

 

幼い日からずっと一緒に育ってきた二人の呼吸が、敵の読みの、半歩上を行った。

主モニターの中で、疾風ウォルフの艦隊が、初めて――ほんの一瞬、たわんだように見えた。

 

艦橋が、息を呑んだ。

いける。今なら。

 

 

***

 

 

「ここで回り込む気か」

 

敵旗艦で、若い提督が呟いた。

感心したような声だった。

 

「やはり、頭は悪くない。連携も、悪くない。……だが、遅すぎる」

疾風ウォルフは、すでに次の位置への指示を終えていた。

 

ひとつの命令が、彼の艦隊の艦列を伝わり終わるより早く、彼自身はもう次の座標への命令を考えていた。

 

彼は、敵の右翼が思いのほか粘っているのを見て、金床を閉じる手を、わざと遅らせていた。

誘われて深く踏み込んできた貴族連合軍の右翼艦隊を、まとめて呑み込む。

いける、と思い踏み込んできた敵を、機雷原と砲撃で挟み、すり潰す。

 

演習の記録は、決められたとおりに動くだけだった。

だが、この敵は違う。

 

 

***

 

 

開きかけた窓に手が届いたと思った、その一拍で、金床の口が閉じた。

深く伸びきった右翼の先鋒が、退路を断たれて、機雷原の縁と敵の火線のあいだに畳み込まれていく。

 

開きかけた窓に手が届いたと思った、その一拍で、金床の口が奥から閉じた。

深く伸びきった右翼の先鋒が、退路を断たれて、機雷原の縁と敵砲撃の火線のあいだに畳み込まれていく。

 

「先鋒、後退!戻れ!」

フェリックスの命令は、正しく届いた。

 

だが、右翼艦隊は、誘われた懐に深く入りすぎていた。

後退の号令が艦列の端まで伝わり終える前に、敵の火線は、もう退路の上で待っていた。

 

主モニターの中で、右翼の先端が、光の粒になって消えていく。

フェリックスが押し込んだぶんだけ、深く。

上手く戦ったぶんだけ、多く。

 

さっき「これなら」と思った距離が、そのまま、屍の量になった。

 

「速すぎるし、早すぎる」

フェリックスは、右手を握った。開こうとして、開けなかった。

 

 

***

 

 

「離脱線です」

クラインの声は、感情を消していた。

 

窓は閉じた。戦果はある。

史実のミッターマイヤー艦隊が受けた損害よりも、大きな出血を、敵に強いている。

 

だが撃破には、遠い。遥かに遠い。

 

そして時計は、離脱の一線を越えた。

 

「……全軍」

アレクが、命じた。

過剰なほど人を思いやる男が、ここでは一秒も迷わなかった。

迷えば、逃げる者が死ぬ。

 

「計画的に、離脱する」

だが——速度でも練度でも劣る貴族連合軍の艦隊は、疾風に背を向けて、離れることはできない。

 

殿軍(しんがり)が、要る。

 

そのとき、シュターデンが、感極まった顔で三人に歩み寄ってきた。

彼は、アレクとフェリックスとクラインの手を、順に握った。

目には、うっすらと涙さえ浮かべて。

 

「おお。卿らが、殿軍をつとめてくれるか」

 

「「「え?」」」

 

「武人の鑑よ。感服のほかない。かならずや、ヴァルハラでは優遇されようぞ……!」

 

三人は、顔を見合わせた。

誰も、殿軍を志願した覚えはなかった。

だが夢の理屈で、それはもう、決まってしまっていた。

 

「……なあ」フェリックスが言った。

「これ、断れると思うか?」

 

「無理だろう」アレクが言った。

 

「では、行きましょうか」クラインが言った。

「ヴァルハラで、優遇されるそうですから」

 

「うむ。頼んだぞ」

シュターデンは、三人の手をもう一度ぎゅっと握ると、実に晴れやかな顔で、くるりと背を向けた。

「実に、残念だ。卿らと最期まで(くつわ)を並べたいのは、やまやまなのだが……」

言いながら、その足は、もう艦橋の奥へ向いていた。

待機していた連絡艇のほうへ、迷いのない足取りで歩いていく。

 

「……あの」クラインが呼び止めた。

「提督は、どちらへ」

 

「後方の指揮艦だ」シュターデンは振り返りもしなかった。

「私は、大局を見届けねばならぬ」

 

「さっき、全指揮権を、僕たちに移譲しましたよね」

「したとも。ゆえに、卿らが殿軍だ。理屈は、通っておろう」

 

連絡艇のハッチが、小気味よく閉まった。

フェリックスは、遠ざかっていくその艇を、しばらく見送った。

「……なあ。あの人、たぶん、史実でも生き延びてるよな」

 

「生き延びてます」クラインが即答した。

「負傷したようですが、捕虜になって、恩赦されて、天寿を全うします」

 

「なんで俺たちが」

誰も、答えなかった。

 

答えは、夢が握っていて、夢は、何も言わなかった。

 

 

***

 

 

殿の戦いが始まった。

三人を乗せた旗艦が、最後尾に残った。

 

前方では、逃がすべき本隊が離脱線の向こうへ少しずつ抜けていく。

その背中を守るために、殿は、追ってくる疾風の前に立ち塞がり続けなければならない。

退いては撃ち、撃っては退く。

味方を一隻でも多く生かすために、自分たちは一秒でも長く、ここに残る。

 

史実の貴族連合軍は、この戦場で、統制を失って潰走した。

逃げ惑い、同士討ちし、機雷原に自ら突っ込んで、消えていった。

 

だが三人の殿は、崩れなかった。

フェリックスが退き際の火線を差配し、アレクが逃がす順序を組み立て、クラインが敵の追撃の呼吸を読んで、退くべき瞬間を告げる。

 

三人の連携が、潰走を、整然とした撤退に変えていた。

史実よりも、遥かに多くの艦が、生きて戦場を離れていく。

有能に、やり直した敗北。勝ちには、一度も、近づかないまま。

 

その乱戦のなかで、フェリックスは、ふと気づいた。

指示を出していないのに、完璧な位置で、味方である貴族連合軍の側面を支え続けている一隊がある。

 

隊列が、最後まで解けない。

退却する僚艦の楯になりながら、一歩も引かず、しかし無駄には死なない。

撃たれるべき場所に、撃たれるべきでない味方を決して置かない。

演習の記録の中で見た、あの「崩れない部隊」。

 

敗軍の記録の中で、たった一つだけ、最後まで形を保っていた部隊。

夢は、その一隊まで、正確に覚えていた。

 

フェリックスは、一瞬、その部隊符号を目に留めた。

名を調べようとして——できなかった。それどころではなくなったからだ。

 

追撃の火線が、こちらへ、集まってきていた。

 

演習の敵は——記録は——こちらを、見ていなかった。

ただ機雷原だけを見て、自分の作った円だけを見て、動いていた。

だから、あの完敗は、どこか空虚だった。全力を尽くして戦った相手が、こちらを一度も見ていない。

壁を殴っているような、手応えのなさ。

 

いまは、違った。

火線が、明らかに三人の旗艦を追ってきている。

逃げる方向を、先回りしている。こちらが次にどう退くかを読んで、そこへ撃ってくる。

 

見られている。

生きた疾風に、敵として、見られている。

 

フェリックスは、その火線の集まり方で、それを悟った。

見られることは、狩られることだ。

 

手が届かない、雲の上の英雄だと思っていたあの人に。

 

嬉しい、と思ってしまった。

 

狩られているのに。あの人に、見てもらえている、と。

 

 

***

 

 

敵旗艦で、若い提督は、逃げる敵の背中を追っていた。

その背中が、崩れなかった。殿の指揮の、無駄のない退き際。

彼は、武人としての、素直な敬意を覚えた。

 

「見事な殿軍だ」

 

彼は、静かに言った。

 

「顔を、見てみたかったな」

 

言い終える前に、砲撃の指示は、もう出ていた。

彼にとって、賞賛は、撃たない理由には、ならなかった。

 

 

***

 

 

殿の旗艦が、被弾した。

艦橋が、白く満ちていく。その光のなかで、フェリックスは一拍だけ、撃ってきた艦の名を想った。

人狼(ベイオウルフ)。幼い日に、憧れた艦。

 

爆散した。

 

 

***

 

 

目を開けた。

寝台の天井。

士官学校の、自分の部屋。消灯後の、青い闇。

 

三人は、それぞれのベッドの上、同時に目を開けていた。互いに、それを知らないまま。

 

 

フェリックスは、天井を見上げた。

父上に撃沈される夢を見た、と、誰かに言えるか。

演習で負けて、夢のなかでまで、負けた、と。言えるか。

……言えるわけがない。

彼は寝返りを打って、目を閉じた。

 

 

 

別のベッドで、アレクは、シュターデンの涙目を思い出していた。

全指揮権を譲られたなどと、口にした時点で、次の戦史の講義で笑いものだ。

彼は薄く笑って、それきり考えるのをやめた。

 

 

 

また別のベッドで、クラインは、天井を見ていた。

あの人は、記録より三割、怖かった。

記録しておくべきか、と、一瞬考えた。

それから、やめておくことにした。誰に対しての記録なのか、自分でも、よく分からなかったから。

 

 

三つのベッドで、三人はやがて、また眠りに落ちた。

 

夢は、まだ、あと二つ残っている。

 

 







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