銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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今回は番外編のIFストーリーです。
三人の、少しだけ変な夢の話です。


【番外編】対決!疾風ウォルフ(vs ウォルフガング・ミッターマイヤー)

消灯の号令が消えて士官候補生フェリックス・ミッターマイヤーは目を閉じた。

次に目を開けたときそこは寝台の上ではなかった。

 

艦橋だった。

広い。そして見慣れていた。

昼間演習棟のシミュレータで十時間座ったあの艦橋とつくりがそっくりだった。

半円に並ぶ操作卓。中央の司令官席。正面の巨大な主モニター。

 

帝国の艦橋は二十年近く前でも骨格をほとんど変えていない。

ただ演習の艦橋になかったものがここにはあった。

機関の脈。人の気配。空気の温度。

操作卓は緑の待機灯ではなく生きた計器の光で埋まり、その前に合成音声ではない本物の乗員たちが座っている。

 

天井を走る豪奢な意匠の梁だけがここが自分の生きる時代ではないと告げていた。

そして彼らは全員フェリックスの方を向いて指示を待っていた。

昼間の記録は最後までこちらを見なかった。ここでは艦橋じゅうの目がこちらを向いている。

「……は?」

 

声が出た。

見下ろすと士官学校の制服ではなく帝国軍の軍服を着ていた。

襟の階級章は『大将』。

士官候補生が逆立ちしても届かない星の数だ。

 

右に若き皇帝アレク。左にクライン。

 

二人とも同じ帝国の軍服で同じだけ間抜けな顔をして自分の身なりを見下ろしている。

 

アレクの襟もとには『少尉』の星がひとつ。

 

クラインの肩には――『元帥』の大仰な肩章。

金の飾りが幾重にも盛られ、背からは元帥だけがまとうマントが床すれすれまで垂れている。

 

「……なんで私が帝国元帥なんですか」

クラインがマントの裾を指の先でつまんで心底困った顔をした。

「まだ一日も勤めていません」

 

アレクは自分の少尉の星を見て小さく笑った。

「僕はこれで気楽でいい」

 

夢は星を配る相手をあきらかにまちがえていた。

そして誰ひとりそれを正そうとはしなかった。

 

「ここ、どこだ」

アレクが小声で言った。

 

「知るか。……いや」

 

知っていた。三人とも知っていた。

主モニターに映る星系の配置。

無地の恒星間空間。

そしてその中央に静止する一万四千五百の艦隊の球形陣。

 

「……アルテナです」クラインが呟いた。

 

そのとき艦橋の奥から帝国軍大将の階級章をつけた一人の男が歩み出てきた。

ナイフのように細身でシャープな印象をあたえる四〇代なかばの中年。

神経質そうに引き結んだ口もとと、それに似合わず得意げな――自分の理屈に満足しきった目。

 

フェリックスはその顔を知っていた。史実の記録映像で何度も見た顔だった。

 

「卿ら」

シュターデン提督だった。

彼は三人の前に立つと芝居がかった仕草で両手を広げた。

 

「理論的に検討した結果である」

 

「は」

 

「硬直した頭脳より新鮮な若年の頭脳に全指揮権を委ねるほうがこの局面の最適解であると証明された。ゆえに卿らに移譲する。武運を祈る」

言い終えて彼は満足そうに頷いた。

 

周囲の士官たちも当然のことのように頷いた。

誰もなぜ士官学校の候補生が貴族連合軍の全権を握るのかを問わなかった。

若すぎるとも、身分はとも、誰も言わない。

まるでそれが世界で最も自然なことであるかのように。

 

 

フェリックスは口を半分開けたまま隣を見た。

アレクも口を開けていた。

 

「……夢だな」フェリックスは言った。

 

「夢だろうな」アレクが言った。

 

「夢です。ですが」

クラインだけがモニターを見ていた。

 

中央の球形陣。動かない一万四千五百隻。

だがフェリックスも見ているうちに気づいた。

記録の中のそれと一つだけ違う。

うっすらと陣形が呼吸していた。

 

 

***

 

 

「状況を整理します」

クラインが計器盤に指を走らせながら言った。

三人は主モニターの前に額を寄せている。

周りの士官たちは命令があるまで石像のように待っていた。

 

「敵は生きています。記録の再生ではありません。私たちが動けば向こうも動く。……現実の演習とそこが根本的に違います」

 

「欺瞞は?」アレクが言った。

 

「向こうが生きてるなら騙せる。偽の潰走情報を撒いて誘い出して開けた宙域で数を活かす」

 

「やってみます」

クラインが左翼の一隊に指示を送った。

統制を保ったまま崩れたふりをして後退せよ、と。

 

十分後その一隊は本当に崩れかけた。

演技の後退がそのまま本物の潰乱になりかけている。

 

クラインは慌てて隊列を引き戻した。

艦橋がしんとした。

「……いま本当に崩れましたよね」

 

クラインが珍しく素の声を出した。

 

「崩れた」フェリックスが頷いた。

「……思いっきり、崩れた」

 

「私は崩れた『ふり』をしろと送ったつもりです」

 

「伝わってたよ。最初の十分はな」

 

「その十分しかもちませんでした」

 

「……まじかよ」

フェリックスは天井を仰いだ。

 

嘘の潰走が十分で本物の潰走に化ける艦隊がこの世にあるとは思っていなかった。

「アレク。お前の案だぞ、これ」

 

「いい案だったろ」アレクが遠い目をした。

 

「まともな軍ならな」

 

「崩れたふりは精鋭の芸です。統制を保ったまま崩れてみせるには崩れない腕がいる。この軍の練度でやると――ご覧のとおり、ふりがそのまま本物になります」

クラインがいつもの声に戻って言った。

 

命令には従う。だが従うだけだ。上手くはならない。

フェリックスは奥歯を噛んだ。

 

「……なら退くのはどうだ」

アレクが言った。

 

「ここでは戦わない。艦を温存してローエングラム軍の本隊が来る前に離脱する。そうすれば少なくとも一万六千隻は残る。兵も死なない」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

それは局地戦だけを見れば合理的な選択だった。

 

だが三人ともこの戦役の結末まで知っている。

 

いま貴族連合軍は一万六千隻。対するミッターマイヤー艦隊は一万四千五百隻。

 

アルテナはローエングラム陣営の一軍を数の優位を持って叩ける数少ない機会のひとつだった。

 

ここで退けば艦は残る。

 

だがローエングラム軍の本隊が合流したあとこの形はもう作れない。

 

以後貴族連合軍は分断され各個撃破で削られていく。

いくつかの会戦を経てガイエスブルクの落城へ向かう。

 

アレクは自分で言った言葉を引き取った。

 

「……退けば今日の兵は助かる」

 

三人は艦橋を見回した。

全指揮権を委ねられ従順に命令を待つ一万六千隻の軍。

この夢は勝たせてくれ、と言っている。

フェリックスは低く息を吐いた。

 

「……理性で全部考えたよ」

 

ほとんど独り言だった。

 

「後知恵で結末まで知ってる。それでも出るしかない。この一戦は捨てられない」

彼は主モニターの向こう、一万四千五百隻の球形陣を見た。

 

「結局あの我慢できずに飛び出した門閥貴族の坊ちゃんたちと同じ場所に着く」

 

誰も何も言わなかった。

ただし一つだけ違う。

出撃が間違いだったのではない。

間違いは出撃すれば勝てると思ったことだった。

 

「……一つ残ってます」

クラインが乾いた声で沈黙を破った。

「演習と違うのは応手する敵だけじゃありません。時間です。演習は三日目から始まりました。でもいまは」

彼は時計を指した。

 

「初日です。まだ三日、あります」

 

アレクが顔を上げた。フェリックスも。

「演習でできなかったことをやろう」

 

 

***

 

 

「掃海だ」

フェリックスは決めた。三日あれば机上では桁が届く。

六百万個の機雷原に艦隊一つ分の安全な回廊を通せる。

演習では不可能だった手が初日から始められるなら話は変わる。

 

「掃海隊、前進。両翼、圧力をかけて敵の注意を分ける」

 

命令は遅滞もなく実行された。従順な軍。掃海艇の列が機雷原へ向けて散開していく。

クラインが啓開の進捗を数字で読み上げていく。回廊の幅、掃海の速度、残りの時計。最初の一時間は数字が順調に伸びた。艦橋の空気がわずかに緩んだ。

 

だが二時間目に入ったところでその数字が鈍り始めた。

「掃海隊、損耗します」クラインの声が跳ねた。

「火力圏の外から——狙撃されています」

 

主モニターの中で掃海艇が一隻、また一隻と光になって消えていく。

撃っているのは球形陣ではない。

 

その外周にいつのまにか展開した敵遊撃の分隊だった。

掃海艇だけを正確に遠くから、一隻ずつ。

護衛の艦は狙わない。機雷を掃く艇だけを選んで潰していく。

 

「護衛を厚くしろ」フェリックスが命じた。

「掃海艇の周りに盾を作れ」

 

盾は作られた。

従順な軍は命令どおり掃海艇の周囲を固めた。

だが盾を厚くすれば掃海の列は細くなる。

啓開の速度はさらに落ちた。

撃たれるか、遅くなるか。どちらを選んでも時計だけが減っていく。

 

「陛下」クラインの声が低くなった。

「啓開した区画に機雷が——戻っています」

 

「戻る?」

 

「敷設艇です。こちらが掃いた端から敵が敷き直しています。私たちが一区画を空けるのにかかる時間より向こうが埋め直す時間のほうが短い。……この機雷原は」

クラインの声が少しかすれた。

「完成品ではない。生き物です。掃いても掃いても元通りになる」

 

フェリックスは主モニターを睨んだ。

彼は演習で見た記録の初日を思い出した。

 

動かない球形陣。

 

あのときなぜ動かないのかが分からなかった。

いまその艦橋に立ってみて分かった。

動く必要が本当に何ひとつなかったのだ。

 

敵はただそこに在るだけでいい。

 

こちらが掃海に出れば掃海艇を狙い撃ちし埋め戻せばいい。

掃いても掃いても元に戻る機雷原の前でじりじりと減っていくのはこちらの艇の数だけだった。

 

 

***

 

 

その初日の夜だった。

「通信解析、入りました」クラインが計器を見た。

「敵の内部通信が入電……ローエングラム侯の本隊が接近中との情報。史実どおりです。ただ」

彼は顔を上げた。

「史実ではこの情報が流れるのは三日目でした。……二日、早い」

 

 

***

 

 

同じ頃、球形陣の中心。

敵旗艦の艦橋でひきしまって均整のとれた体つきにおさまりの悪い蜂蜜色の髪と活力に富んだグレーの瞳をした若い提督が、掃海隊の動きを眺めていた。

 

「ほう」

彼は幕僚に言った。面白がる声だった。

 

「貴族の馬鹿息子どもにも少しはやるやつがいるみたいだな。初日から機雷を掃きに来る度胸と頭はあるようだ」

 

「いかがなさいますか」

 

「決まってる」

彼は指を一本立てた。

 

「例の報せを流しておけ。馬鹿が相手なら三日目でいい。三日待たせて痺れを切らして飛び込んでくるのを待てばいい。……だが賢い相手なら」

 

その指を下ろした。

 

「早いほうがいい。初日だ。考える時間をたっぷりくれてやれ。賢いやつほど考えすぎて動けなくなる」

 

 

***

 

 

ミッターマイヤーがわざと流したその報せは貴族連合軍の艦橋にも届いていた。

 

「――欺瞞だ。欺瞞に決まっておる」

シュターデンが通信文を睨んで唸っていた。

 

「本隊接近などこちらを焦らせて誘い出す罠よ。乗ってはならん。……いや、待て。あえて真実を流しそれを我らが欺瞞と読むところまで計算に入れて――ならばこれは真実か。だとすれば急がねば。……いやそう読ませるのが罠やもしれぬ」

 

額に汗を浮かべ彼は同じ場所をぐるぐると回り続けた。真か偽か。偽と読ませる真か、真と読ませる偽か。出口のない円を律儀に何周もしていた。

 

三人は少し離れてそれを見ていた。

 

「……あれ」フェリックスが小声で言った。

「答え、俺たち知ってるよな」

 

「知ってます」クラインが頷いた。

「本隊接近は真実です。史実でそうでしたから」

 

「じゃあ、あの人だけがずっと迷ってるのか」

 

「そういうことになります」

 

フェリックスはぐるぐると回り続けるシュターデンをしばらく眺めた。

「……俺たちも答えを知らなきゃ、ああなってたんだろうな」

 

誰も笑わなかった。

真か偽かを自力で見極めねばならなかったら。

三日をあの円の中で溶かしていたのは自分たちのほうだったかもしれない。

 

敵はたった一通の通信でこちらの指揮系統を撃ち抜いてきた。

その罠に自分たちが嵌まらずに済んでいるのは頭がいいからではない。

ただ答えを盗み見ていたからだった。

 

 

***

 

 

 

「掃海は捨てます」

二日目の朝、クラインが言った。

 

目の下に、夢の中だというのに隈があった。

 

「掃いても戻る。時間だけが減る。これ以上は時間を敵に贈るだけです」

 

「じゃあ、残ったのは」

フェリックスは分かっていた。分かっていて口に出した。

 

「分進だ。左翼で正面を拘束、右翼で外を回る。艦隊の規律を保って金床の口を最小にして届くところまで削る。ローエングラム侯の本隊が来る前に離脱線を引いてそこまで全力でやる」

 

「……それ、演習でやった手です」

 

「ああ」

 

フェリックスは低く笑った。笑うしかなかった。

 

「記録に負けたんじゃなかったんだな。俺たちは。……盤面に負けてたんだ」

 

結論は同じ場所にあった。

 

先回りは死んだ敵にしか効かない。欺瞞は崩れない腕がなければ成立しない。掃海は埋め戻される。退けば戦争全体の勝ち筋が消える。

 

生きた敵を相手に消去法で一つずつ潰していって、

最後に残ったのは――演習で負けたのと同じ両翼分進だった。

 

クラインが離脱線の管理を宣言した。

本隊到着の予測時刻から逆算した退き際の一線。

ただし離脱線を越えたら速やかに退く。

数的優位を活かしできるだけ多くの敵艦を削る。

 

「配置」フェリックスは立ち上がった。

 

「アレク、総指揮と左翼の拘束を頼む。右翼は俺が見る」

 

「少尉が総指揮って軍法会議ものだけどな」

アレクが自分の襟を指で弾いた。

 

「元帥に任せるよりましだろ」

フェリックスは参謀席で元帥のマントを持て余しているクラインを顎で示した。

「階級章を配る相手を夢が間違えた。文句は夢に言え」

 

「右翼は」

アレクが言った。

「史実でヒルデスハイム伯が死んだ場所だ」

 

「だから俺が受け持つ」

 

フェリックスはそれ以上説明しなかった。

一番危ない翼を他人に預ける気はなかった。

 

 

***

 

 

会戦が始まった。

両翼が分かれ機雷原を挟んで左右へ展開していく。

フェリックスの右翼は史実の貴族連合軍とは比べものにならないほど隊列を保っていた。

功を焦る者はいない。命令に全員が従う。

 

「右翼、規律を維持。……いい。史実で崩れた時刻を無傷で通過するぞ」

 

艦橋に小さな歓声。フェリックスも一瞬手応えを感じた。これなら、あるいは。

 

「フェリックス」

 

クラインの声だけが平らだった。

 

「向こうが旋回半径を変えました」

 

 

***

 

 

押していける、と思った局面は長く続かなかった。

 

敵は機雷原の縁のすぐ外を回っている。

こちらの右翼は機雷に触れないよう安全距離のさらに外を回るしかない。

 

同じ円を内と外で回る。

そして内側の弧はいつでも外側より短い。

 

同じ角度だけ回り込むにもこちらは敵より長い距離を走らなければならない。

 

フェリックスが進路を変える。

だがそこへ着いたときには敵はもう次の位置にいる。

 

 

フェリックスは正しく機動していた。

旗艦の位置も火力の集中も教本のどの一行にも反していない。

 

それなのに回り込もうとするたびに敵が「もう、そこにいない」。

 

最初は偶然だと思った。

 

二度目はこちらの動きが読まれたのだと思った。

 

三度目でフェリックスは理解した。

 

読まれているのではない。追いつけないのだ。物理的に。

 

こちらが一の弧を進むあいだに敵は内側の短い弧で一と半分を進んでいる。

 

角度を詰めようと速度を上げれば敵も同じだけ速く内側を滑っていく。差は決して縮まらない。

 

「回り込め! もっと外へ膨らんで大きく回り込め!」

命令は正しく実行された。右翼艦隊は大きく外周へ膨らんだ。

 

だが外へ膨らむほど弧は長くなる。長い弧を速い足で回っても敵の短い弧には追いつかない。

追いつくにはこちらも内側へ——機雷原の縁へ、敵の砲火の圏内へ、こちらから踏み込むしかない。

 

史実ではヒルデスハイム伯が撃たれた場所へ。

 

「……くそっ」

 

それでも一瞬窓が開きかけた。

フェリックスの右翼の突進とアレクの左翼の拘束のずらしが噛み合った。

 

幼い日からずっと一緒に育ってきた二人の呼吸が敵の読みの半歩上を行った。

主モニターの中で疾風ウォルフの艦隊が初めて――ほんの一瞬たわんだように見えた。

 

艦橋が息を呑んだ。

いける。今なら。

 

 

***

 

 

「ここで回り込む気か」

 

敵旗艦で若い提督が呟いた。

感心したような声だった。

 

「やはり頭は悪くない。連携も悪くない。……だが遅すぎる」

疾風ウォルフはすでに次の位置への指示を終えていた。

 

ひとつの命令が彼の艦隊の艦列を伝わり終わるより早く彼自身はもう次の座標への命令を考えていた。

 

彼は敵の右翼が思いのほか粘っているのを見て金床を閉じる手をわざと遅らせていた。

誘われて深く踏み込んできた貴族連合軍の右翼艦隊をまとめて呑み込む。

いける、と思い踏み込んできた敵を機雷原と砲撃で挟みすり潰す。

 

演習の記録は決められたとおりに動くだけだった。

だがこの敵は違う。

 

 

***

 

 

開きかけた窓に手が届いたと思ったその一拍で金床の口が閉じた。

深く伸びきった右翼の先鋒が退路を断たれて機雷原の縁と敵の火線のあいだに畳み込まれていく。

 

開きかけた窓に手が届いたと思ったその一拍で金床の口が奥から閉じた。

深く伸びきった右翼の先鋒が退路を断たれて機雷原の縁と敵砲撃の火線のあいだに畳み込まれていく。

 

「先鋒、後退!戻れ!」

フェリックスの命令は正しく届いた。

 

だが右翼艦隊は誘われた懐に深く入りすぎていた。

後退の号令が艦列の端まで伝わり終える前に敵の火線はもう退路の上で待っていた。

 

主モニターの中で右翼の先端が光の粒になって消えていく。

フェリックスが押し込んだぶんだけ、深く。

上手く戦ったぶんだけ、多く。

 

さっき「これなら」と思った距離がそのまま屍の量になった。

 

「速すぎるし、早すぎる」

フェリックスは右手を握った。開こうとして開けなかった。

 

 

***

 

 

「離脱線です」

クラインの声は感情を消していた。

 

窓は閉じた。戦果はある。

史実のミッターマイヤー艦隊が受けた損害よりも大きな出血を敵に強いている。

 

だが撃破には遠い。遥かに遠い。

 

そして時計は離脱の一線を越えた。

 

「……全軍」

アレクが命じた。

過剰なほど人を思いやる男がここでは一秒も迷わなかった。

迷えば逃げる者が死ぬ。

 

「計画的に離脱する」

だが——速度でも練度でも劣る貴族連合軍の艦隊は疾風に背を向けて離れることはできない。

 

殿軍(しんがり)が、要る。

 

そのときシュターデンが感極まった顔で三人に歩み寄ってきた。

彼はアレクとフェリックスとクラインの手を順に握った。

目にはうっすらと涙さえ浮かべて。

 

「おお。卿らが殿軍をつとめてくれるか」

 

「「「え?」」」

 

「武人の鑑よ。感服のほかない。かならずやヴァルハラでは優遇されようぞ……!」

 

三人は顔を見合わせた。

誰も殿軍を志願した覚えはなかった。

だが夢の理屈でそれはもう決まってしまっていた。

 

「……なあ」フェリックスが言った。

「これ、断れると思うか?」

 

「無理だろう」アレクが言った。

 

「では行きましょうか」クラインが言った。

「ヴァルハラで優遇されるそうですから」

 

「うむ。頼んだぞ」

シュターデンは三人の手をもう一度ぎゅっと握ると実に晴れやかな顔でくるりと背を向けた。

「実に残念だ。卿らと最期まで(くつわ)を並べたいのはやまやまなのだが……」

言いながらその足はもう艦橋の奥へ向いていた。

待機していた連絡艇のほうへ迷いのない足取りで歩いていく。

 

「……あの」クラインが呼び止めた。

「提督はどちらへ」

 

「後方の指揮艦だ」シュターデンは振り返りもしなかった。

「私は大局を見届けねばならぬ」

 

「さっき全指揮権を僕たちに移譲しましたよね」

「したとも。ゆえに卿らが殿軍だ。理屈は通っておろう」

 

連絡艇のハッチが小気味よく閉まった。

フェリックスは遠ざかっていくその艇をしばらく見送った。

「……なあ。あの人、たぶん史実でも生き延びてるよな」

 

「生き延びてます」クラインが即答した。

「負傷したようですが捕虜になって恩赦されて天寿を全うします」

 

「なんで俺たちが」

誰も答えなかった。

 

答えは夢が握っていて夢は何も言わなかった。

 

 

***

 

 

殿の戦いが始まった。

三人を乗せた旗艦が最後尾に残った。

 

前方では逃がすべき本隊が離脱線の向こうへ少しずつ抜けていく。

その背中を守るために殿は追ってくる疾風の前に立ち塞がり続けなければならない。

退いては撃ち、撃っては退く。

味方を一隻でも多く生かすために自分たちは一秒でも長くここに残る。

 

史実の貴族連合軍はこの戦場で統制を失って潰走した。

逃げ惑い、同士討ちし、機雷原に自ら突っ込んで消えていった。

 

だが三人の殿は崩れなかった。

フェリックスが退き際の火線を差配し、アレクが逃がす順序を組み立て、クラインが敵の追撃の呼吸を読んで退くべき瞬間を告げる。

 

三人の連携が潰走を整然とした撤退に変えていた。

史実よりも遥かに多くの艦が生きて戦場を離れていく。

有能にやり直した敗北。勝ちには一度も近づかないまま。

 

その乱戦のなかでフェリックスはふと気づいた。

指示を出していないのに完璧な位置で味方である貴族連合軍の側面を支え続けている一隊がある。

 

隊列が最後まで解けない。

退却する僚艦の楯になりながら一歩も引かず、しかし無駄には死なない。

撃たれるべき場所に撃たれるべきでない味方を決して置かない。

演習の記録の中で見たあの「崩れない部隊」。

 

敗軍の記録の中でたった一つだけ最後まで形を保っていた部隊。

夢はその一隊まで正確に覚えていた。

 

フェリックスは一瞬その部隊符号を目に留めた。

名を調べようとして——できなかった。それどころではなくなったからだ。

 

追撃の火線がこちらへ集まってきていた。

 

演習の敵は——記録は——こちらを見ていなかった。

ただ機雷原だけを見て自分の作った円だけを見て動いていた。

だからあの完敗はどこか空虚だった。全力を尽くして戦った相手がこちらを一度も見ていない。

壁を殴っているような手応えのなさ。

 

いまは違った。

火線が明らかに三人の旗艦を追ってきている。

逃げる方向を先回りしている。こちらが次にどう退くかを読んでそこへ撃ってくる。

 

見られている。

生きた疾風に、敵として見られている。

 

フェリックスはその火線の集まり方でそれを悟った。

見られることは狩られることだ。

 

手が届かない雲の上の英雄だと思っていたあの人に。

 

嬉しい、と思ってしまった。

 

狩られているのに。あの人に見てもらえている、と。

 

 

***

 

 

敵旗艦で若い提督は逃げる敵の背中を追っていた。

その背中が崩れなかった。殿の指揮の無駄のない退き際。

彼は武人としての素直な敬意を覚えた。

 

「見事な殿軍だ」

 

彼は静かに言った。

 

「顔を見てみたかったな」

 

言い終える前に砲撃の指示はもう出ていた。

彼にとって賞賛は撃たない理由にはならなかった。

 

 

***

 

 

殿の旗艦が被弾した。

艦橋が白く満ちていく。その光のなかでフェリックスは一拍だけ撃ってきた艦の名を想った。

人狼(ベイオウルフ)。幼い日に憧れた艦。

 

爆散した。

 

 

***

 

 

目を開けた。

寝台の天井。

士官学校の自分の部屋。消灯後の青い闇。

 

三人はそれぞれのベッドの上、同時に目を開けていた。互いにそれを知らないまま。

 

 

フェリックスは天井を見上げた。

父上に撃沈される夢を見た、と誰かに言えるか。

演習で負けて夢のなかでまで負けた、と。言えるか。

……言えるわけがない。

彼は寝返りを打って目を閉じた。

 

 

 

別のベッドでアレクはシュターデンの涙目を思い出していた。

全指揮権を譲られたなどと口にした時点で次の戦史の講義で笑いものだ。

彼は薄く笑ってそれきり考えるのをやめた。

 

 

 

また別のベッドでクラインは天井を見ていた。

あの人は記録より三割、怖かった。

記録しておくべきか、と一瞬考えた。

それからやめておくことにした。誰に対しての記録なのか自分でもよく分からなかったから。

 

 

三つのベッドで三人はやがてまた眠りに落ちた。







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