銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二十一話「ビッテンフェルトの娘」(新帝国歴十八年秋~十九年夏)

【新帝国暦十八年秋 帝都レーヴェンシュテルン・ビッテンフェルト元帥邸】

 

夜明け前に、屋敷が鳴った。

玄関から食堂まで、足音がひと続きに轟いて、帝国軍元帥フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトが帰ってきた。橙色の髪。筋骨隆々とした胴体の上にやや不釣合いな細面の顔。

 

娘が士官学校に発つ朝に、ようやく間に合ったのである。

半年ぶりか、一年ぶりか、本人も数えていない。

 

早めの朝食の卓についていた赤橙色の髪の娘は、皿のものを、追い立てられるように早く食べていた。

折り返した袖の、真新しい制服。

父が入ってきても、匙は止まらなかった。

 

「親父。遅い」

 

それだけだった。

娘はそこで口を閉じた。

言うべきことは言ったのである。

迎えの車は、じきに来る。

——彼女にしては、多弁なほうだった。

 

ビッテンフェルトは、二歩ぶん余った勢いを持て余して、卓の前で止まった。

半年か一年ぶりに見る娘の顔を、まじまじと眺める。

 

髪の色だけは、少なくとも半分は誰に似たか知れている。

それ以外は、俺も知らん、と思った。

 

小柄。

細い。食う時間さえ惜しむように痩せた体に、真新しい制服が、少し余っていた。

束ねた髪は、もう半分ほどけかけている。

放っておけばすぐ崩れる髪だ。それも、俺に似たのか。

顔は、整っていた。眉が濃く、目が大きく、鼻筋の通った、はっきりした作りである。黙って座っていれば、人目くらいは引くだろう。

だが娘は、鏡というものを、見た例がない。

 

「おい。発つ朝まで、飯を突撃で食う奴があるか」

 

「親父も早い」

 

事実であったから、言い返せなかった。

ビッテンフェルトは、娘の真新しい制服を、あらためて見た。

今朝、発つのだ。危うく、明日だと思うところであった。

 

「——たいしたものだ!」

 

とりあえず、腹の底から声を出した。

褒めるときは大きな声に決まっている。

窓が小さく震えた。

何がたいしたものなのか、言ってから探した。

 

「うむ。あの学校に、この俺の娘が、な。——たいしたものだ」

 

「二回言った」

 

娘は皿へ戻り、空いた手で黒パンを割った。

 

大声の褒め言葉は、二度とも、行き場をなくして宙に浮いた。

ビッテンフェルトは口を半開きにしたまま、向かいの椅子を引いて、どすんと腰を下ろす。

座る音まで大きい。

士官学校への迎えが来るまでに、父親らしいことを、何か一つ。そう思ったのである。

 

「……学校ではな、たとえばこういうのを、やらされるのさ」

 

彼は塩入れを一つ、卓の中央へ、どんと据えた。

誰に教わったでもない、貧乏艦長だった頃からの癖である。

その左右へ、匙とフォークを一本ずつ置く。

 

「敵の陣だ。分厚いぞ。

——正面は鉄壁ミュラー。両翼は、ミッターマイヤーと、ロイエンタール。『帝国軍の双璧』と呼ばれた男たちだ」

 

銀河でいちばん抜けん陣を組んでやった、と胸を張った。

強い敵ほど、名を挙げるときは堂々と大きな声になる。それがこの男の礼儀であった。

 

「ロイエンタールは、死んだ」

娘が、黒パンを噛みながら、父親を見ることなく言った。

 

「——う」

ビッテンフェルトは詰まった。

「うむ。死んだ。死んだが、だな。腕は本物だったのだ。戦人の腕前に、生き死にが関係あるか!俺は敬意で言っておる!だいたいな、陰で故人をどうこう言うより、よほど——」

 

娘は、もう聞いていなかった。

黒パンを割っていた。

咎めたのではない。盤の上の駒を、数えただけである。

 

攻められてもいない場所で、父は、ひとりで防戦していた。

 

「……で、だ」彼は咳払いをして、盤へ戻った。

「この陣、お前なら、どこを突く」

 

娘は卓を見た。ひと目だった。

「そこ」

 

塩入れと、匙の、あいだの、何もない一点を指す。

鉄壁と、疾風の、継ぎ目であった。

それきり指を戻し、また食べはじめる。

 

ビッテンフェルトは、その一点を見た。

駒と駒の、わずかな隙間である。

 

「……そこには、誰も、おらんぞ」

 

「空いてる」

 

彼は続きを待った。

理由が来るはずだった。

啖呵(たんか)でも、勝算でも、なんでもいい、二行目が。

 

来なかった。娘は食べていた。

ビッテンフェルトは、三つの駒を、もう一度見た。

娘の指した継ぎ目へ抜ければ、鉄壁も、疾風も、もう一方の翼も、三人まとめて、戦わぬまま背中を晒す。

正面から挑めば全滅する陣が、たった一点、通せんぼを忘れている。

ただし、抜くことができれば、だ。

 

「勝利の女神は、正門で待っているものだ」と言うつもりだった。

言いかけて、やめた。

似たような隙間へ、全速で突っ込んだことが、ある。

若い頃だ。抜けた。

——抜けた先の正面に、待っていた男が、いた。

 

彼は口を閉じた。

教えるはずの朝に、教えられることが、一つ減った。

外で、車の停まる音がした。

娘は皿を空にして、立ち上がった。

立つ動作に、ためらいの継ぎ目がなかった。

行ってきます、も、なかった。

 

ビッテンフェルトは慌てて立ち上がった。

兵を送るのに、黙って見送る手はない。

まして、我が子を戦の道へ送る朝である。

そうだ、言い忘れていたことがある。父は声を張った。

 

「いいか。あの学校には、皇帝陛下がおわす。おそれ多くも、先帝ラインハルト陛下の御子だ。——くれぐれも、粗相のないようにな」

 

「皇帝も、同期」

娘は、袖を折り直しながら言った。

「学年名簿に、いた」

 

ビッテンフェルトの声が、止まった。

「……陛下を、つけんか」

 

「名簿には、そう書いてない」

父が勝手に、雲の上に置いていた人を、娘はただ、名簿の一行へ、置き直した。

 

ビッテンフェルトは、口を開き、閉じ、もう一度開けた。

臣下として恐懼(きょうく)すべきか、父として娘の不敬に肝を冷やすべきか、決めかねているうちに、外で、車の扉が鳴った。

 

娘は、もう戸口にいた。

ビッテンフェルトは慌てて胸をそらした。

送り出す言葉は、決まっているのだ。

 

「行ってこい!」

一行目は、間に合った。娘が戸口をくぐる。彼は二行目を継いだ。

「勝利の女神はな、お前に——」

 

戸は、もう閉じていた。外で、車の扉が、もう一度鳴る。

二行目は、途中で千切れて、無人の食堂に落ちた。

 

黒色槍騎兵の猛将は、一行で口を閉じた。

卓の上には、塩入れと、匙と、フォークが、継ぎ目を空けたまま、残されていた。

 

 

***

 

 

帝国士官学校の『戦術論応用』という科目では、『兵棋演習』という授業が行われる。

同学年の士官候補生五名が一個の隊を組み、艦隊戦シミュレータでそれぞれ一個分艦隊を指揮し、同じ編成の敵、つまり候補生どうしで戦う。

制度としては、それだけのものだ。

 

新帝国暦十八年度入学の第三期兵棋演習が例外的に知られているのは、内容の故ではない。

 

ローエングラムの姓とビッテンフェルトの姓が、盤を挟んで向かい合った記録は、帝国軍の演習記録に残るかぎり、この一件だけだからである。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十九年夏 士官学校・大講堂前掲示板 フェリックス】

 

掲示板の前に、人垣ができていた。

 

「兵棋演習。五名一隊、編成は自由、だとよ」

フェリックスは頭の後ろで手を組んだ。

「アルテナの戦史再演で絞られた後の、ご褒美ってわけだ」

 

「ご褒美ではない」

隣で、ハインリヒが掲示を読み終えて言った。

「相互研鑽の制度だ。士官学校学生教育課程教範第九条」

 

「読むの速えな、お前」

 

編成届の締切は三日後だった。

アレクの隊は、その日の夕方には五つの名が埋まった。

 

アレク、フェリックス、クライン、ハインリヒ、トビアス。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十九年夏 士官学校・大講堂】

 

 

組み合わせは抽選で決まった。

 

壇上の教官が籤を読み上げていく。読み上げられるたび、講堂のどこかで小さな歓声と、小さな溜息が上がった。

 

士官学校で、皇族の学生の隊と当たることは、この行事では栄誉と呼ばれていた。

ましてや今年は皇帝である。

籤が進むほど、講堂は静かになった。その一枚を、誰が引き当てるのか。

皆が、待っていた。

 

「第十二対戦。ローエングラム候補生の隊――」

教官が、手元の紙を置いた。籤の束ではない、別の一枚である。

「ローエングラム候補生の隊は、抽選の対象から除く」

 

講堂が、ざわめいた。

「皇帝陛下の隊に限り、対戦相手は籤引きとせぬ」

 

教官は、成績表を掲げた。

「幼年学校の課程を経た者は、対戦相手から除く。――一般選抜、すなわち一般入学試験で入校した者の中から、アルテナ演習の成績上位五名を、これに充てる」

講堂が、ざわめいた。

 

理由は、読み上げられなかった。

読み上げる必要もなかった。

 

「なんで試験組限定なんだ」

フェリックスは首を伸ばした。

 

「陛下と幼年学校からの付き合いの奴は、外されんだと」

前の列の候補生が、振り返らずに言った。

「昔からの付き合いで手の内を知ってる同士でやらせるよりも、陛下には、見たことのない相手をあてる。――そういう決まりなんだろ」

 

 

「対戦相手」

教官は、成績表の、上から順に指を滑らせた。

「――一般課程、第一席から第五席までの、五名。第一席、カーラ・ビッテンフェルト候補生を、選抜隊の司令に任ずる」

 

ビッテンフェルト、という姓が、講堂に落ちた。

 

一拍おいて、ざわめきが、後方から前へ広がった。降伏を知らぬ猛将と、同じ姓である。

視線が、後方の一角に集まった。幼年学校を経ず、試験だけで入ってきた者たちの席だった。

 

その姓に、ほとんどの者がざわめいた。

アレクは、後方の一角を、一度だけ見た。

名は、いま聞いた。

だがその名は、まだ、あの席のどの顔とも、結びついていない。

 

 

***

 

 

【士官学校・大食堂 フェリックス】

 

その日の昼、フェリックスは、食堂で山盛りの皿と向き合っていた。

三つ隣の卓で、声がした。

 

「おい、ビッテンフェルト。飯」

 

フォークが止まった。

 

呼ばれて顔を上げたのは、袖を折った制服の、赤橙色の髪の、小柄な候補生だった。

少女は無言で立ち、呼んだ長身の候補生の横を抜けて、卓に座った。それだけだった。

 

フェリックスは咀嚼を再開しなかった。

「……おい。今、なんつった」

 

「ビッテンフェルト、って呼んだな」

トビアスは自分の皿から顔も上げずに答えた。

「さっき講堂で聞いただろ。一般選抜組の首位はあの子だ」

 

フェリックスはアレクとクラインを見た。

二人は、顔を見合わせていた。驚いた顔ではなかった。

答え合わせが済んだ、という顔だった。

 

「なんでお前ら二人、驚いてねえんだ。いや、驚いてんのか。どっちだ」

答える代わりに、アレクは立ち上がった。

赤橙色の髪の候補生は、盆を持って壁際の席に一人で着いていた。

「君が、ビッテンフェルト元帥の――」

 

「娘」

続きを遮って、一語だった。

 

アレクは続きを待った。来なかった。

彼女はスープを飲んでいた。

 

「名前は」

 

「カーラ」

 

長身の候補生が、盆を置いて駆けつけてきた。

「これは陛下。失礼いたしました。私は同じ区隊のバスティアン・ドルナー候補生であります。

 彼女は説明というものを省く方針でありますので、僭越ながら私から補足いたします。

 カーラ・ビッテンフェルト候補生。

 黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)を率いるフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥の、ご息女であります。

 ご本人は元帥閣下の話を一切なさいませんが、隠しておられるわけでもなく、要するに、話す理由が特に――」

 

「別に」

 

カーラが言った。

ドルナーの説明のどこに掛かる「別に」なのかは、誰にも分からなかった。

 

トビアスが、いつのまにか隣に来て、手帳を開いていた。

「なあ。好きな食いもんは」

 

「別に」

トビアスは手帳に、別に、と書いた。

 

フェリックスは改めて、目の前の、赤橙色の髪の小柄な候補生を眺めた。

黒色槍騎兵の司令官の巨躯を思い浮かべ、消し、もう一度思い浮かべて、諦めた。

「…………全っ然、似てねえな」

 

カーラは答えなかった。

答える理由が、思いつかなかったからである。

 

 

***

 

 

【士官学校・自習室 フェリックス】

 

その夜、フェリックスは自習室に一般選抜隊の話を持ち込んだ。

 

ハインリヒは訓練日誌から顔を上げなかった。

 

「カーラ・ビッテンフェルト候補生なら、名は知っている」

 

「は?」

 

「交付された候補生名簿に書いてある。席次上位の常連でもある。貴様は、名簿も席次表も読まんのか」

 

フェリックスは口を開け、閉じた。

 

 

***

 

 

【士官学校・資料閲覧室 クライン】

 

三日のあいだ、営内は同じ話題で持ち切りだった。

 

養女だろうと言う者がいた。遠縁の預かりだろうと言う者がいた。

本人が娘だと言ったらしいと聞いて、なら声はどうしたのだと言う者がいた。

 

候補生の賭けの胴元は、対戦の倍率を三度書き換えた。

アルテナの判定首位という数字が出回ったときには動かなかった倍率が、姓が一つ知れただけで動いた。

 

『ローエングラム対ビッテンフェルト』

 

クラインは、噂の輪の外で記録を読んでいた。

 

選抜隊の五名に、固定して組んだ記録はない。

席次で束ねられた、寄せ集めである。

 

ただ、隊長にあてられたビッテンフェルト候補生――その名の下で過去に行われた臨時演習記録は、いずれも奇妙な形をしていた。組む顔ぶれは毎回違う。にもかかわらず、記録の形だけが、同じなのだ。

 

彼女の分艦隊は、命令をほとんど発していない。

発信記録は、開始時の「行く」と、数えるほどの座標の断片しかない。

 

その時々に組む分艦隊は、彼女の機動の後から追随していき、補給と退路を置いていった。誰と組ませても、そうなった。

 

クラインは、再生図を別の臨時演習のものへ切り替えた。顔ぶれが、違う。

 

「これは、ひと月前の臨時演習です。組んでいる四人が、違います。それでも、形は同じでした」

 

盤が、また切り替わる。また違う四人。同じ形。

 

「誰が設計したのでもありません。仕組みが、ないんです。彼女の隣に置かれた者が、なぜか、そう動く」

 

「クライン。読めるか」アレクが訊いた。

 

長い沈黙のあと、クラインは言った。

「……分かりません」

一拍おいて、付け加えた。

「ただ、彼女がどこへ行くかは、盤を見れば、分かります」

 

 

***

 

 

【士官学校・資料閲覧室 アレク】

 

翌日の夜、アレクは同じ盤の前に一人でいた。

 

三年前の幼年学校の公開演習日での塀の上の声を、彼は覚えていた。

あの人たち、前しか見てない。左が空いてる。

――三十秒後に、左翼が全滅した。次、右。

――右翼が抜かれた。

 

盤を消そうとして、アレクは手を止めた。

そもそも読む必要が、あるのか。

彼女は、相手を読んで動いているのではない。

盤のいちばん薄い場所へ行く。

それだけだ。

三年前も、記録の中でも。

 

なら。

 

 

***

 

 

【士官学校・自習室 アレク】

 

翌朝の会議で、アレクは自分の案を出した。

 

壁は、ハインリヒ。中央の楔は、フェリックス。哨戒線は、クライン。後方の補給線は、トビアス。

そして壁の一点を、薄くする。その奥に、護衛を付けず、アレクの率いる旗艦艦隊を置く。

 

 

図面を見て、フェリックスが真っ先に口を開いた。

 

「正気か。自分の壁に、自分で穴を空ける気か」

 

ハインリヒが図面から顔を上げずに言った。

「教範の推奨する配置ではありません。理由をお聞かせいただきたい」

 

「一番薄い場所を、こちらで決める。彼女は必ず、そこへ来る」

 

「さすがに囮なら、来ねえだろ。あいつ、見てないようで意外と見てるぞ」

 

「だから囮にはしない」

アレクは、図面の、薄くした一点の奥に据えた旗艦の駒を、指で押さえた。

「本当に薄くする。届かれて、討ち取られたら、こちらの負けだ」

 

一拍おいて、さらに言った。

「そうでなければ、彼女は来ない」

アレクは、駒から指を離さなかった。

「彼女は、通していい」

一拍。

「四人も、続く」

 

沈黙が落ちた。

フェリックスは右手の拳を一度握って、開いた。

 

破ったのは兵站担当のトビアスだった。

彼は手元の計算を三度確かめてから言った。

 

「護衛のない旗艦を、敵の手の届く場所に置くんだ」

 

「壁や楔は、敵が来てから配置に就けばいい。来るまでは当直で回せる。……でも護衛のない旗艦は、いつ穴を突かれるか分からない。開始の瞬間から、ずっと総員配置だ」

 

「分かってる」

 

「他の隊なら、そういう張り詰め方は、交戦の間だけで済む」

 

トビアスは、『消耗度』の欄を指で押さえた。

「燃料も弾も切れない。待機だけなら、機械は保つ。……ただ、人間の方が、先に切れる。人員消耗による継戦不可の判定が出れば、それ以上艦隊は動かせない」

 

「半日以内に終わらせる」

 

「……消耗度が設定した閾値を越えたら、旗艦は下げてもらうよ」

 

 

***

 

 

【演習統裁棟・選抜隊指揮区画 ドルナー】

 

開始の三十分前、規定に従って敵の初期配置表が交付された。

 

ドルナーは一度読み、二度読み、それから静かに息を吐いた。

 

敵旗艦の、置き所がおかしい。

若き皇帝の座乗艦は、後方へ深く退げてはいない。

左翼の壁の一点だけが、浅く後ろへ窪み、その窪みの奥に、旗艦が据えられていた。護衛の割り当ては、ない。

補給艦は一隻も付いておらず、その全てが、右翼の壁となる分艦隊の後ろに並んでいた。

 

護衛がいなければ、周囲の警戒を、外の艦へ預けられない。

どの方角から突かれても即応できるよう、全戦闘部署を、着いたときから張りつかせておくしかない。当直の交代は、組めない。

長居のできる場所ではない。

 

書かれている、と彼は思った。

この盤は、誰かの手で書かれている。

空いているのではない。

わざと空けてあるのだ。

 

「隊長。ご覧ください」

ドルナーは配置表を差し出した。

「左翼の壁の、薄い一点。その奥に、敵旗艦であります。護衛なし、補給の随伴もなし。あの位置では、就いたときから総員配置となり、長くは保ちません。保たない場所に、わざわざ旗艦を――」

 

「左」

 

カーラは配置表を一目見て、言った。

 

「はい。左翼の間隙であります。確かに、開いております。ですが、開けたのは敵です。乗らなければ、盤のほうから先に崩れます。中央で受けて、待つべきです。待てば、敵旗艦は――」

 

「行く」

 

 

通信が、それで終わった。

 

ドルナーは目を閉じ、開いた。

入学したときからそうだった。彼女は説明を待たない。

説明が間違っているからではない。説明が終わる前に、正しい場所に着いてしまうからだ。

 

彼は三十秒で、カーラの突入を支援する計画を書き上げた。

穴は、放っておけば塞がる。

塞がった穴の向こうに残された艦は、帰れない。

第二分艦隊と第三分艦隊を、穴の両の縁――いわゆる『肩』に押し当てて、閉じさせない。

第五分艦隊が中央に偽の主攻を立てる。

彼自身の第一分艦隊は、カーラ隊長の帰路を確保するために、動かず待機する。

 

教範に照らして誤りのない、堅牢な計画だった。

 

開始から二時間、彼女は敵の哨戒線を二度食い破った。

 

観測の死角に伏せ、哨戒の脇腹を撃ち、応射が組み上がる前に離れている。

教範が伏撃に求める手順の半分を省いた、荒削りな型だった。

それでも判定表の与損害の欄だけが、着実に積み上がっていった。

彼女は止まらない。補給の予定表を、ドルナーは彼女の航跡に合わせて三度引き直した。

 

三時間経過。敵左翼の間隙が開いた。

 

開くところを、ドルナーは見ていた。

敵の防御線が呼吸のように収縮し、その一拍だけ、皇帝アレクの座乗する旗艦への回廊が通った。

彼女の分艦隊は、その一拍が来る三十秒前から加速を始めていた。

 

「全隊へ。隊長に続くな。計画どおり、肩の確保――」

 

言い終わる前に、他の味方分艦隊は、カーラに合わせて前に出ていた。

穴の先に、皇帝旗艦がいる。護衛もなしで。

その誘惑に、誰も勝てなかった。

 

いつもの臨時演習なら、四人は、彼女の進路を支える位置へ回っただろう。

今日は、違った。

四人とも、カーラではなく、その先に見えた旗を、見ていた。

 

回線の音量が、上がっていた。

 

『皇帝旗艦だ』

『嘘だろう。裸だぞ』

『届く。届くぞ』

 

「罠だ。戻れ。全隊、持ち場に――」

 

誰も、戻らなかった。

 

回廊の肩で、第二と第三が、壁に当たった。

その壁は、アイゼンベルク候補生の分艦隊だった。

崩れない。遅れない。

一歩も動かない。回廊そのものは空けたまま、肩だけを正確に削ってくる。

押しても、形が変わらなかった。

 

待機するはずだったドルナーの第一だけが、まだ持ち場に残っていた。

ここを動かなければ、計画は守られる。隊長の帰る道も、残る。だが、その道はもう、誰も使わない。四隊はとうに前へ出て、削られはじめていた。

動かずにいることは、計画を守り、そして隊の全員を、見捨てることだった。

ドルナーは、前に出た。

 

そして中央で、第五の偽の主攻が、待ち構えていた楔、フェリックス・ミッターマイヤーの隊に刺し貫かれた。

ミッターマイヤー候補生の分艦隊は、偽攻の集結点を最初から知っていたかのように、集結の完了する一分前に、そこにいた。

 

 

四つの分艦隊が回廊の入口で削り取られていくあいだ、カーラ隊を示す赤い光点だけが、奥へ奥へと、進んでいった。

 

 

***

 

 

【演習統裁棟・観覧区画】

 

赤の光点が回廊を抜けたとき、観覧区画は静かになった。

 

胴元は、倍率表を静かに伏せた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十九年夏 演習統裁棟・ローエングラム隊指揮区画 アレク】

 

司令画面の中で、四つの光点が順に薄くなっていくのを、アレクは見ていた。

 

最後の一つが来た。

 

「接触まで、九十秒」

クラインの声が、時間だけを読み上げていく。

 

哨戒も、護衛の残余も、もう間に合わない。回廊は通った。

統裁部の判定機構だけが、淡々と距離を減らしていく。

 

旗艦は、動かなかった。

 

「通信、開け」

 

アレクは、用意していた勧告文を読み上げた。

 

 貴隊の残存戦力は少数、当方は五個。

 戦闘続行の戦術的意味は失われている。

 降伏は判定上の不名誉に該当しない。応答されたい。

 

――正式の書式で、句読点まで整えた、長い勧告だった。

 

応答は、なかった。

 

「受信確認、あり。応答、ありません」

クラインの声に、抑揚はなかった。

 

拒否の信号も、なかった。

ただ加速の数値だけが上がっていった。

断られたのではない。届かなかったのでもない。

彼女の盤には、勧告という駒が存在していない。

 

赤い光点が、旗艦の至近に達した。

カーラの分艦隊が、護衛のない装甲を、直接こじ開けにかかった。

受け返すのは、アレクの旗艦艦隊が自前で持つ火力だけだった。

 

旗艦の残存戦力が、目に見えて削れていく。

アレクは、自分の駒が薄くなっていくのを、数字で見ていた。

盤の上に、止める手はなかった。

 

ハインリヒの壁は、回廊の肩から手を離せない。

離せば、細めた口がふたたび開き、彼女を一点に閉じ込めておく形が、崩れる。

 

クラインの哨戒線は、開幕の二時間で食い破られていた。

 

トビアスは、後方の補給線ごと動けない。

 

そのとき、統裁画面の隅で、中央の駒が、持ち場を離れているのが見えた。

フェリックスだった。

敵第五分艦隊を刺した、その足で、もう線の前へ向かっていた。

盤の向こうでは、開始からただ一つ動かずにいた敵の分艦隊も、いま、持ち場を離れていた。

どちらの側も、もう、フェリックス隊を押しとどめられなかった。

 

いつ動き始めたのか、アレクは気づいてもいなかった。命令は、どこにもなかった。

 

削られる旗艦と、駆けるフェリックスと、統裁部の距離表示だけが、別々の速さで動いた。

 

フェリックスは、彼女の射線に、艦隊ごと割り込んだ。

旗艦に向かっていた火力が、正面から、彼の艦列に叩き込まれた。

 

統裁部が、フェリックスの座乗艦の撃沈判定を告げた。

 

それでも艦列は退かず、赤い光点に絡みついたまま、離れなかった。

赤い光点の速度が、この演習で初めて、零に落ちた。

カーラは、絡みつく残骸を押しのけにかかった。

人が盾になったとは、読んでいない。

盤の上に、邪魔な駒が湧いた――彼女が読んだのは、それだけだった。

 

止まった彼女を、初めて、アレクの照準線が捉えた。

 

「全艦、敵旗艦の一点を狙え」

 

旗艦の残る主砲と、フェリックスの後続の全艦が、動かない赤へ、同時に指向した。

 

彼女は、応射しなかった。最後の火力を、目の前の旗艦へ注ぎ続けていた。

 

彼我の火線が、ほとんど同時に判定線を越えた。

 

統裁部の音声が、アレク旗艦の小破判定を告げた。

 

――そこまで読み上げたところで、赤い光点、カーラ旗艦の撃沈判定が成立した。

盤上から、最後の赤が消えた。

 

演習終了の号音が鳴った。

アレクは椅子の背にもたれて、天井を見た。

勝った、という感触は、探してもあまり見つからなかった。

 

 

***

 

 

【士官学校・講評室 ドルナー】

 

講評官の読み上げる数字は、簡潔だった。

 

判定勝者、ローエングラム候補生の隊。

 

ビッテンフェルト候補生の選抜隊の損耗、八割七分。うち四個分艦隊が、回廊入口において全損。

 

ローエングラム候補生の隊の損耗、四割一分。うち一個分艦隊が、皇帝旗艦の直衛にあたって全損。

その損害の八割が、単一の敵分艦隊による戦果である。

 

与損害の個人首位、ビッテンフェルト候補生。

 

講評室が、ざわめきかけて、やめた。

勝者の側の誰も、その名の欄より上にいなかった。

判定は勝敗を告げ、順位は別のことを告げていた。

 

講評は、ローエングラム隊の艦隊旗艦の配置には触れなかった。

 

「選抜隊。ドルナー候補生。敗因の分析を」

 

指名されて、ドルナーは立った。

 

彼は、最初から説明した。

配置表の交付の時点で、誘引を看破していたこと。中央での持久を具申したこと。

隊長の判断は盤面上正しく、回廊は実際に開いていたこと。

第二第三の拘束と中央の迎撃が、こちらの支援計画の完成より早かったこと。

そして自分が、計画で定めた持ち場を、自分の判断で放棄したこと。

 

「――敗因は複数ありますが、最大のものは最後の一点であります。計画を書いた本人が、計画を破りました。敗因の説明は、これで全部であります」

 

彼は最後まで、全部、説明した。

 

個別講評へ移る前の休止に、彼女は席を立った。そのまま、壁際の席へは戻らなかった。

 

散会のあと、クラインが歩み寄ってきた。

「ビッテンフェルト候補生の機動は、読んでおられたのですか」

 

「読んでおりません」

ドルナーは、少し考えてから続けた。

「……約一年、隣にいただけであります」

 

クラインは一礼して、去った。

返す言葉は、一拍遅れて、間に合わなかった。

 

 

***

 

 

【士官学校・大講堂掲示板前】

 

夕刻、第十二対戦の成績が掲示された。

 

掲示の前で、ハインリヒは個人首位の欄を長く見ていた。

何も言わなかった。

 

 

***

 

 

【士官学校・講評室前廊下 アレク】

 

盤面再生の端末が、資料閲覧用に一台、廊下に開放されていた。

 

赤橙色の髪の候補生が、その前に立っていた。

再生図は三時間目の、左翼の間隙が開く三十秒を、繰り返し映していた。

 

アレクが近づいても、彼女は画面から目を離さなかった。

 

「左が、空いてた」

 

独り言のようだった。

アレクは答えなかった。彼女の眉が、わずかに寄った。

 

「空いてないのに」

 

それだけ言うと、彼女は端末を消した。

 

消えた画面に、指先が一度、触れた。

左の空いていた一点に、ほんの一瞬。

 

そして、歩き去った。

礼はなかった。会釈もなかった。

感心された気配は、どこにもなかった。

廊下の角を曲がる歩調に、継ぎ目がなかった。

 

アレクは、消えた画面の前に、しばらく立っていた。

 

判定は、勝ちだった。

敵の四人は、護衛のない皇帝の旗艦を見て、来た。

皇帝でなければ、あれは餌にならない。

四人は動かず、勝ちもない。

 

稽古場では、誰もが寸前で力を緩めるから、勝つ。

今日は、誰もが我先に来たから、勝った。

緩められても、急がれても、勝つ。

 

ただ、一人だけ、皇帝旗艦だから来たのではない者がいた。

薄かったから、来た。

勧告に返事をしなかったのも、拒んだのではない。

そもそも聞いていなかった。

 

最後まで、こちらを見なかった。

見ないからこそ、彼女の数字は狂わない。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十九年夏 士官学校・戦術科教官室 アレク】

 

退室しかけた背に、教官のブーフナーの声がかかった。

 

「ローエングラム候補生。艦隊旗艦の、あの配置だが」

 

アレクは振り返った。

 

「必ずしも誤りとまでは言えん。だから講評では触れなかった」

 

「はい」

 

「触れなかったから、ここで言う。あの位置に、二度と自分の艦を置くな」

 

「囮では、あの候補生は来ません。本当に薄い場所が、要りました」

 

「分かっている」

ブーフナーは、評価表を閉じた。

「だから、言っているんだ。君は勝つために、自分を盤で一番危ない場所へ出した。今日に始まったことじゃない。いつもだ。組み手でも、図上演習でも」

 

アレクは、答えなかった。

 

「今日、君の前に割り込んで沈んだ候補生がいたな」

 

「……ミッターマイヤー候補生であります」

 

「壁を張る者がいる。盾になる者もいる。君のまわりには、もう揃っている。それでも君は、自分を餌にしなければ気が済まん」

教官は、そこで少し声を落とした。

 

「気負いすぎだ」

 

「……」

 

「強くあろうとするのは、悪くない。だが、勝ちの一つ一つに自分の身を賭けていては、もたんぞ。君はまだ、そんなに背負わなくていい歳だ」

 

アレクは、何か言おうとして、やめた。

 

ブーフナーは、評価表を机に戻した。

「下がってよろしい。……今日は、よくやった。それは、本当だ」

 

 

***

 

 

翌日から、校内の一部は若い皇帝を「父の再来」と呼び始めた。

 

降伏勧告を一顧だにせず突っ込んでくる(ビッテンフェルト)を、動かぬ金床で受け止め、若き皇帝が一騎討ちで討ち取った。

 

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが、その呼び名について何か言った記録は、残っていない。

 

第三期兵棋演習について、公式の記録が保存しているのは、判定と、損耗と、二つの姓だけである。

その二つの姓は、あの盤の上で起きたことについて、いずれも、何一つ説明していない。

 

 

 




次回、7月21日(火)20時更新予定。

――次の相手は、父がただ一人〈友〉と呼んだ、赤い髪の面影だった。
  次回、『戦史再演・キフォイザー星域の会戦(前編)』
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