演習終了後の夜。
三人の、少しだけ変な夢の話です。
消灯の号令が消えて、士官候補生アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは目を閉じた。
次に目を開けたとき、正面の壁に見知らぬ家紋があった。
艦橋だった。
また艦橋だった。
演習で見たものとほぼ同じ骨格である。
半円に並ぶ操作卓。中央の司令官席。正面の巨大な主モニター。
ただし昨夜の艦橋が豪奢な梁を一本だけ持っていたのに対し、この艦橋は主モニターの上に大きな家紋を掲げていた。
司令官席の肘掛けには獅子の頭が彫ってあった。
両側に一つずつ目を吊り上げて。
軍艦の椅子に要る彫刻ではなかった。
機関の脈があった。
人の気配があった。
空気の温度があった。
そして艦橋じゅうの目がこちらを向いて指示を待っていた。
「……またか」
声が出た。
***
見下ろすと帝国軍の軍服を着ていた。
階級は『元帥』。
アレクは大仰な肩章を二秒ほど眺めた。
昨夜この肩章をつけていたのはクラインだった。
夢はどうやら配り直したらしい。
「おい」
右から声がした。
フェリックスが自分の襟をつまんでひどく傷ついた顔をしていた。
「……准尉だ」
「前回お前は大将だったろ」
「十階級降格だ」フェリックスは言った。
左ではクラインが自分の袖を見ていた。
細い線が二本。
「主計中尉です」
「主計?」
「主計です」クラインは線を指の先でなぞった。
「糧食と、帳簿の担当ですね」
そして少し考えて付け加えた。
「……前回より向いている気がします」
「毎回やるのかこれ」フェリックスが言った。
「演習のたびにやられたらたまらんな」
アレクは自分の襟の星を見た。
昨夜は少尉だった。
気楽でよかったのにと思った。
***
「――ローエングラム閣下」
アレクの背が伸びた。
呼んだのは正面の操作卓の若い士官である。
振り返った顔に悪気はひとかけらもなかった。
純粋に指示を待っていた。
「……いまなんて」
「ローエングラム閣下と」
アレクはゆっくりと右を見た。
フェリックスが口を半分開けていた。
「おい」フェリックスが小声で言った。
「ここリッテンハイム侯の軍だろ。それ敵軍の大将の名前だぞ」
「知ってる」アレクも小声で答えた。
「僕の名前だ」
「両方です」クラインが言った。
誰もそれを問わなかった。
ローエングラム対ローエングラム。
リッテンハイム侯の旗艦オストマルクの艦橋で、ローエングラムと呼ばれる男が司令官として立っていることを誰ひとりおかしいと思わなかった。
まるでそれが世界で最も自然なことであるかのように。
***
艦橋の奥の扉が開いた。
入ってきたのは中年の男である。
軍服は同じだった。
違うのは胸だった。
勲章が隙間なく並んでいた。
そのどれ一つとして戦って得たものではなさそうだった。
太い眉が左右とも吊り上がっている。
口髭は横へ広く張っていた。
頬には深い縦の線が二本。
そして目が何を見ても気に入らないと言っていた。
アレクはその顔を知っていた。
史実の記録映像で何度も見た顔だった。
リッテンハイム侯ウィルヘルムその人だった。
侯は三人の前に立ちしばらく黙っていた。
それから深く息を吸った。
「私には」
艦橋が静まった。
「私には才がない」
顔は一ミリも動かなかった。
眉は吊り上がったまま。
口髭は張ったまま。
目は何を見ても気に入らないまま。
その顔でこの男は世界でいちばん謙虚なことを言っていた。
時間が止まった。
止まったのは三人だけでほかの全員は真剣な顔で頷いていた。
「私はこの数十年それを認めるのが怖かった。だが戦は面子でするものではない」
侯はまっすぐアレクを見た。
目はまっすぐアレクを気に入らなかった。
「認めよう。私には才がない。卿にはある。ゆえに卿に全権を委ねる」
「…………」
フェリックスが小声で言った。
「……顔がまったく納得してないぞ」
「うん」
「あの顔で言うことかそれ」
「言ってる」
「異論のある者は」
侯が艦橋を見回した。
誰もいなかった。
***
「ご自由に差配ください」
声は後方から来た。
振り返るといつのまにか男たちが並んでいた。
軍服は全員同じである。
帝国軍の制式で飾りも裁ちも変えようがない。
違うのは胸の勲章の量だけだった。
「ゾンネンフェルト男爵家、艦二千一百。ご自由に差配ください」
「ヘルヴィヒ伯家、三千。……艦種はそのばらばらですが。ご自由に差配ください」
「ローテンフェルス子爵家、千八百。乗員は先月雇いました。ご自由に差配ください」
アレクは口を挟もうとした。
挟めなかった。
列がまだ続いていたからである。
「フォークトラント男爵家、九百。ご自由に差配ください」
「デュルクハイム準男爵家、四百。うち三百は貨物船を改装したものです。ご自由に差配ください」
「ドルンブルク家、二千二百。うち何隻が動くかは正直わかりません。ご自由に差配ください」
「……ブラウンシュヴァイク公には内密に願います。ご自由に差配ください」
声は途切れなかった。
家名と、数と、同じ一言。
家名と、数と、同じ一言。
アレクは途中で数えるのをやめた。
「……いま何家目だ」
「三十一だ」フェリックスが言った。
「まだあるのか」
「ある」
家名と、数と、同じ一言。
家名と、数と、同じ一言。
「「「「――以上リッテンハイム侯家を寄親といたします、四十七家。ご自由に差配ください」」」」
四十七の門閥貴族の当主の頭が同時に下がった。
***
誰も序列を主張しなかった。
席次で殴り合った家がある。
陣の右か左かで五十年口をきかなくなった家がある。
舞踏会の入場の順で決闘した家がその両方の隣に立っていた。
誰も自分の艦をどこに置くかを要求しなかった。
誰も隣の家より前へ出たいとは言わなかった。
彼らはそれのために生きてきた人々のはずである。
その全員がいまどこに置かれても構わないと言っていた。
ただ胸の勲章だけは誰も外さなかった。
そして誰の顔も一ミリも動いていなかった。
フェリックスがアレクの耳もとで言った。
「……気持ち悪い」
クラインが静かに言った。
「演習ではこの人たちは従わないという前提で作戦を立てましたが、夢では従ってくれるらしいです」
***
アレクは下がったままの四十七の頭を見た。
「全部で何隻だ」
答えはなかった。
四十七家のうち誰ひとり答えなかった。
自分の家の数は全員が言えたのである。
合計を誰も知らなかった。
「五万一千二百です」
クラインだった。
「……数えたのか」
「聞いていましたので」
アレクはしばらく黙っていた。
「記録では五万だ」
「史実よりも千二百、多いですね」
クラインは少し考えた。
「水増しか数え違いか。どちらにせよ」
そして言った。
「この軍は自分たちが何隻か正確には把握してません」
***
アレクは司令官席に座った。
座らざるを得なかった。
ほかの誰も座ろうとしなかったからである。
主モニターを見た。
約五万隻。
数字としては昼間三週間見続けたものとほぼ同じだった。
配置も概ね記録のとおりだった。
高速巡航艦の隣に砲艦。大型戦艦の隣に宙雷艇。
家ごとに雑然と。
だが記録の中のそれと一つだけ違った。
命じたとおりに動かせるのである。
「……アレク」
フェリックスが言った。
声から笑いが抜けていた。
「勝てるぞこれ」
***
「艦種別に組み直す」
アレクは言った。
自分の声が艦橋に落ちるのを聞いた。
昼間三週間一度も言えなかった台詞である。
言えなかったのではない。
言っても無駄だったのだ。
「――は」
若い士官が復唱した。
それだけだった。
***
夢は時間までくれた。
進駐の予定が延びた。
理由を誰も言わなかった。
要塞の管制も四十七家も延びた予定を当然のものとして受け取った。
ガルミッシュ要塞の泊地で五万一千二百隻がほどかれていった。
ゾンネンフェルト男爵家の高速巡航艦が家の隊列を離れた。
ヘルヴィヒ伯家の砲艦が別の層へ移った。
デュルクハイム準男爵家の貨物船が後方の輸送梯団へ編入された。
どの家の光も文句ひとつ言わずに指定された場所へ流れていった。
抵抗はなかった。
「……気持ち悪さに慣れてきたな」フェリックスが言った。
***
クラインの見積もりは二日だった。
五日かかった。
命令はすべて即座に実行された。
だが実行が遅かったのである。
高速巡航艦が指定の座標へ移る。
それだけのことに見積もりの倍かかる家があった。
早い家と遅い家の差を誰も埋めなかった。
埋めろと命じられていなかったからである。
クラインは五日のあいだ帳面をつけ続けた。
どこから出したのかは誰も訊かなかった。
「高速巡航艦、四千二百。うち可動、三千九百」
「戦艦、五千一百。うち可動、四千八百」
「宙雷艇、一万二千。……可動は、九千です」
「可動?逆に言うと三千は、動かないのか」
「戦闘で動かせる要員が十分にいません」クラインは帳面から目を上げなかった。
アレクはそれについて何か言おうとした。
「乗員は先月雇ったと言った家がありましたね」
言うことはなくなった。
クラインは頁をめくった。
「それとこの旗艦オストマルクですが」
「なんだ」
「砲よりも広間の数のほうが多いです」
フェリックスは正面の家紋を見上げた。
***
五日目の終わりにそれは完成した。
家の色が消えた。
艦種の層になった。
前に盾。
中に槍。
後ろに荷。
盾は大型戦艦と砲艦。撃たれて沈まない役である。
槍は高速巡航艦と宙雷艇。刺して抜ける役である。
荷は補給艦と輸送艦。それを続けさせる役である。
教本の一頁目である。
士官学校で最初に習いあまりに当たり前なので誰も試験に出さない問題だった。
五万一千二百隻が生まれて初めてその形になった。
フェリックスは長いこと黙っていた。
それから言った。
「……三週間これができれば勝てるって言い続けたよな。できたぞ」
アレクはモニターを見ていた。
きれいだと思った。
三週間頭の中にしかなかったものがそこにあった。
クラインが帳面の最後の頁を閉じた。
「ひとつだけ報告があります」
「言ってくれ」
「隣り合う艦はどの二隻も一緒に飛んだことがありません」
「そんなわけあるか。同じ寄親の貴族だ。演習ぐらいやってるだろ」
「やっています。四十七家全部」
「じゃあ――」
「家ごとにです」
クラインは頁を戻した。
「寄親のリッテンハイム侯の御前で一家ずつ。順番に。……採点表が残っていました」
「……採点表」
「三十年分あります。順位も」
フェリックスが口を開けた。
「ただ四十七家がすべて同時に飛んだ記録はありません」
***
五万一千二百はキフォイザー星域へ進駐した。
層をなした敵艦列が見えた。キルヒアイス艦隊だ。
ただ記録のどの頁とも違う形をしていているように見えた。
モニターの端が光った。
「敵艦隊、発見」
アレクは肘掛けを握った。
獅子の頭が手のひらに食い込んだ。
主モニターにそれが出た。
左が前へ出て右が下がった斜めに傾いだ長い線。
「斜線陣だ」フェリックスが言った。
「うん」
三週間この形を見た。
止まった記録の中で何十回も。
次に何が起きるかを三人とも言えた。
左翼のルッツ艦隊が突出する。
六百万キロで砲門を開く。
右翼のワーレン艦隊が遅れて時差ができる。
隙をついてキルヒアイス直率の八百が入ってくる。
アレクは待った。
左は来なかった。
斜めの線は距離を保ったままゆっくりと角度を変えていった。
教科書にない機動だった。
「……来ないぞ」フェリックスが言った。
「なんで来ない」
クラインが静かに言った。
「私たちが直したからです」
「史実のキルヒアイス提督は烏合の衆と戦いました。この艦隊はもう烏合の衆ではありません」
これから戦う相手は記録ではなかった。
生きて考えるジークフリード・キルヒアイスだった。
「――ローエングラム閣下」
若い士官が振り返った。
「ご指示を」
***
キルヒアイスの旗艦バルバロッサの艦橋に二つの顔が並んでいた。
通信の画面である。
「……隊列が整っています」
ルッツの画面が言った。
「報告と違いますな」ワーレンの画面が言った。
「烏合の衆と伺っていましたが」
「いえ」
キルヒアイスはモニターから目を離さなかった。
「報告どおりです。あれはつい最近まで烏合の衆でした」
「では」
「艦種別に組み直してあります。五万隻を」
ルッツが口をつぐんだ。
「……できるのですか。あの連中に」
「できないでしょう」
キルヒアイスは少し笑った。
「誰かがやったようですが」
ワーレンが唸った。
「厄介ですな」
「ええ。思っていたよりは」
キルヒアイスはそこで一度言葉を切りモニターの一点を指した。
艦列の縁がわずかに毛羽立っていた。
「端が揃っていません。組み上がったばかりの列です」
「……昨日今日ということですか」
赤毛の提督は言った。
「あの人たちはたぶんまだ一度もあの形で飛んでいない」
「……推測ですな」
「はい」
キルヒアイスは少し笑った。
「ですから試します。端を突いてみましょう」
***
「――当たりました」
ルッツの画面が言った。
「端が波打っています」
キルヒアイスは突いた場所を見ていた。
「塞ぎに来ていますおそらく」
波は塞がった。
塞いだところの隣が波打った。
隣を塞ぐとそのまた隣が波打った。
二つの画面が困惑ししばらく黙っていた。
「……閣下」ワーレンが言った。
「あれは塞いでいるのでしょうか。それとも」
「動くたびに開けています」
キルヒアイスは椅子に浅く座った。
「どこを突かれますか」
「いまいちばん長く開いているところを」
赤毛の提督はモニターから目を離さなかった。
「押してくるはずです。多いですから。押せば勝手に開くでしょう」
***
押す。
止まれば削られる。
「前進。速度は盾に合わせろ」
五万一千二百が前へ出た。
――だが盾と槍のあいだが開いた。
***
「行くぞ。高速巡洋艦部隊はバルバロッサに続け」
***
開いた隙間へ開いた分だけ。
三週間見た楔と同じものだった。
入ってくる穴の場所だけが違った。
そして楔はリッテンハイム候軍の陣内に入り込み層のあいだで螺旋状に回りはじめた。
盾の層は後ろの敵を撃てば槍に当たる。
槍の層は前の敵を撃てば盾に当たる。
正しく組んだ層が正しく組んだ順にたがいの射線を塞いだ。
「――撃つな!」
アレクの声が遅れて届いた。
届いたころには味方の光が二つ消えていた。
味方の光だった。
撃ったのも味方だった。
***
フェリックスは消えた二つの光を見ていた。
「……誰が撃った」
「わかりません」クラインが言った。
長い沈黙があった。
それからフェリックスが言った。
「層を捨てる。層が長いから隙間が長い。短くする」
彼はモニターの縁を掴んでいた。
「盾と槍と荷を一組ずつ。小さいのをたくさん。一つ一つが自分だけで戦えるようにする」
***
「――跳ね返されました」
ルッツの画面が少し黙ってから言った。
「八百がですか」
「はい」
キルヒアイスはその一点を見ていた。
「塊です」
「塊と申されますと」
「砲艦と宙雷艇と輸送艦が一つずつ。……小さな艦隊がひとつ」
ワーレンの画面が唸った。
「戦のさなかに組み直しておりますな」
「ええ」
「正気とは思えません」
「悪くはありません」
赤毛の提督が静かに言った。
「――閣下はいま褒めておられますか」
「褒めています」
キルヒアイスはモニターから目を離さなかった。
「あれを一緒に飛ばし続けたらどうなりますか」
ルッツが少し考えた。
「……強くなりますな」
「どのくらい」
「五年もあれば面倒な相手に」
赤毛の提督は少しだけ笑った。
「でも、今日はまだ半日です」
***
塊はできた。
千二百ほどできてそこで止まった。
残りは層のままだった。
命令が届いた家から順に塊になったからである。
塊は強かった。
宙雷艇が前を掃き砲艦が撃ち貨物船が弾を届けた。
八百の楔が一つの塊を突いて跳ね返された。
「止めたぞ」フェリックスが拳を握った。
「止めたぞあれを!」
「――クライン」
アレクの声は低かった。
「はい」
「キルヒアイス提督の部隊どこから抜ける」
「薄いところです――ヘルヴィヒ伯ローテンフェルス子爵。そこです」
***
「……閣下」
ルッツの声が硬くなった。
「出口に蓋をされています」
ワーレンの画面が身を乗り出す気配がした。
「読まれましたな」
「ええ読まれました」
キルヒアイスの声は変わらなかった。
ただ少しだけ楽しそうだった。
「お下がりください。ルッツ艦隊を前へ――」
「いえその必要はありません。」
赤毛の提督はモニターの別の場所を見ていた。
「あそこがまだ工事中です」
「……工事中とは」
「塊になっているところとなっていないところの境目です」
***
キルヒアイスの高速巡航艦八百は、塞がれた帰り道を捨てた。
新しい塊と古い層の継ぎ目へ――組み直しの済んだ区画と済んでいない区画の境へするりと抜けた。
「そこか……!」
フェリックスが卓を叩いた。
「閉めたのに!閉めたのにだぞ!」
「閉めたからです」クラインが言った。
「新しい戸と古い壁のあいだにはどうしても隙間ができます」
***
「クライン」
「はい」
「止まったらどうなる」
クラインは帳面を開いた。
しばらく指を走らせた。
「……こちらの損害が、一時間に千二百。向こうは、九十」
「動いたら」
「一時間に、三千。向こうは、二百」
「止まったほうがいいのか」
「止まったほうが長くもちます。向こうが息切れするまで、おそらく約九時間」
「もつのか」
クラインは答えなかった。
帳面をもう一度最初から見直した。
「……四時間、足りません」
***
通信がいっせいに開いた。
指示を求める声だった。
撃ってよいか。
下がってよいか。
どちらへ撃てば。
全員が訊いた。
全員が待った。
従う軍は待つのである。
アレクは答えた。
「ゾンネンフェルト男爵。左が空いています。三度右へ」
「ヘルヴィヒ伯。後ろは僕が見ます。前だけ見てください」
「デュルクハイム準男爵。荷を後ろへ。……ええ。あなたの荷がいちばん要ります」
一つずつ名で呼んだ。
四十七家の当主の名を彼は全部覚えていた。
通信の一つが返事の代わりに少し黙った。
「……当家の名をご存知でしたか」
「存じています」
「――ご命令を」
***
「敵の旗艦オストマルク通信量が異常です」ルッツの画面が言った。
「混乱かと」
「いえ」
キルヒアイスは通信の帯を見ていた。
中身は読めない。
量と向きだけが見える。
「……おそらく全部の家に行っています」
「全部?」
「全部です。一つずつ送って返って」
「……旗艦が全部返事をしてるのですか」
「全部に」
赤毛の提督はしばらく黙っていた。
「――一つも切っていません」
ワーレンの画面が低く言った。
「立派なことですな」
「ええ」
キルヒアイスは椅子の背にゆっくりともたれた。
「――だから遅い」
二つの画面は何も言わなかった。
三人はその半日で数度しか通信していなかった。
通信する必要がなかった。
***
塊と塊のあいだが割れた。
「アレク」フェリックスが言った。
「全部に答えるな」
「答えなければ動かない」
「答えれば間に合わない」
クラインが端末を開いた。
指が一箇所で止まった。
「……四時間をかせぐ手が一つだけあります」
「言え」
「四時間ぶんの盾です。撃たれ続ける役が要ります」
「どこから持ってくる」
「荷の層です。補給艦と輸送艦四千八百」
アレクはモニターを見た。
「……乗ってるのは五十七万人だ」
誰も何も言わなかった。
三週間彼は名簿を読んだ。
隻数を人数に直す係数を覚えてしまっていた。
覚えたくて覚えたわけではなかった。
「……人員を降ろす時間は」
「ありません」
フェリックスが何か言いかけてやめた。
「却下だ」
「アレク――」
「代わりの盾ならある」
彼は立ち上がった。
「旗艦オストマルク前へ出る」
***
「……は!?」
フェリックスの声が裏返った。
「正気か?」
「四十七家から預かった艦隊だ」
アレクはモニターを見たまま言った。
「僕が勝手に沈めていいのは僕の乗っている一隻だけだ」
「待たれよ!」
艦橋の後ろから声がした。
忘れていたとアレクは思った。
全権を委ねた男リッテンハイム候がまだそこに立っていた。
「この艦は旗艦オストマルクは当家の艦である」
「……侯。脱出艇を用意します」
「誰が降りると言った」
眉は吊り上がったまま。
口髭は張ったまま。
目は何を見ても気に入らないまま。
「余の父が建てた。祖父が内装を替えた。余は広間を二つ増やした。……砲は一門も増やしておらぬ」
侯は正面の家紋を見上げた。
「三代かけて舞踏会にしか使わなんだ艦だ。初めての実戦が盾とは――悪くない使い途である」
「危険です」
「格好はつく」
それだけ言って侯は艦橋の後ろに下がった。
命令は一つも出さなかった。
フェリックスが何か言いかけてやめた。
史実でこの男が最後に何を撃ったかを三人とも知っていた。
目の前の男はまだ何も撃っていなかった。
旗艦オストマルクが前へ出た。
***
「敵旗艦が前へ出ています」
ルッツの声に初めて感情が乗った。
「血迷ったか」ワーレンが言った。
「いえ」
キルヒアイスは立っていた。
「あそこに穴が開くはずでした」
旗艦オストマルクが割れ目へ滑り込んでいく。
「敵旗艦が入って穴を埋めました」
「……なぜそんなことを」
赤毛の提督は言った。
「ルッツ提督。あれを止めてください」
「沈めます」
「――いえ」
一拍間があった。
「動けなくするだけで結構です」
ルッツの画面が彼を見た。
「……この距離で加減しろと」
「はい」
「理由を伺っても」
「敵の司令官と話してみたいのです」
ルッツはしばらく黙っていた。
「……やってみます」
***
旗艦オストマルクは撃たれ続けていた。
盾とはそういう役である。
何発目かは誰も数えていなかった。
バルバロッサが艦首を向けた。
三週間何十回も見た角度だった。
記録の中ではそれは艦列を裂くための角度だった。
今度はこちらを向いていた。
記録の中の侯は味方の輸送艦を撃ってこの星域から帰った。
いまその男の艦が輸送艦の代わりに割れ目に立っていた。
「――閣下」
若い士官が振り返らずに言った。
「ご指示を」
アレクは答えなかった。
光が来た。
***
「……旗艦オストマルクに命中確認」
「加減は」
「しました」
「救助艇を。早く」
赤毛の提督の声は静かなままだった。
静かなまま二つの画面が聞いたことのない速さだった。
「全部出してください」
返事はなかった。
二つの画面はもうそこにいなかった。
***
痛みはなかった。
音もなかった。
アレクは目を開けた。
寝台の天井ではなかった。
星が見えた。
回っていた。
自分が回っているのだと少ししてから分かった。
宇宙服の中で自分の息だけが聞こえた。
近くを艦だったものが流れていった。
遠くを光の点がいくつもゆっくり動いていた。
夢はまだ覚めなかった。
***
光の点の一つが近づいてきた。
灰色の飾りのない艇だった。
作業灯がこちらを照らし機械の腕が丁寧に彼を掴んだ。
艇の中は暖かかった。
毛布と、湯気の立つ器と、人がいた。
敵の軍服も、味方の軍服も、同じ毛布をかぶって並んでいた。
誰も階級を訊かれなかった。
誰も所属を訊かれなかった。
二つ隣にフェリックスがいた。
その隣にクラインがいた。
三人とも毛布をかぶっていた。
三人とも何も言わなかった。
器の中身が湯気を立てていた。
***
列の端から長身の男が歩いてきた。
赤い髪だった。
若かった。
記録映像よりずっと若く見えた。
映像は戦いの顔しか残していなかったのだとそのとき分かった。
男は毛布の列に沿って歩いた。
一人ずつの前で屈み何かを短く訊き短く聞いて隣へ移った。
アレクの前で男は屈んだ。
目の高さが合った。
「……あなたでしたか」
男は少し笑った。
「オストマルクの艦橋におられましたね」
アレクは頷いた。
頷くしかできなかった。
男の目が一度だけ彼の顔の上で止まった。
ほんの一拍だった。
それから何事もなかったように男は次を言った。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「……はい」
「なぜ輸送艦と補給艦を下げたのです」
アレクは答えられなかった。
答えはあった。
言えばこの人は分かってくれる気がした。
分かってもらいたいと思った自分が恥ずかしかった。
「……乗っていたので」
「はい」
男はしばらく黙っていた。
それから頷いた。
「――そうですか」
毛布の列の向こうで外扉の開く音がした。
また誰かが拾われてきたのである。
男が立ち上がりかけた。
立ち上がりかけて思い出したように屈み直した。
「失礼。お名前を伺っても」
アレクは口を開いた。
自分の名を言おうとした。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。
そのうちのどの一語もこの人の前で言える気がしなかった。
男は待っていた。
急かさなかった。
待ちながらまた一度彼の顔を見た。
見て少しだけ眉を寄せた。
何かを思い出そうとする顔だった。
思い出すものがこの人にはまだない。
二つ隣でフェリックスが顔を上げた。
その隣でクラインが器を置いた。
三人とも名を訊かれていた。
三人とも名を持っていた。
三人ともこの人の前でそれを言えなかった。
目が覚めた。
***
寝台の天井があった。
消灯後の静かな宿舎だった。
どこかで誰かが寝返りを打った。
アレクは天井を見ていた。
毛布の重さがまだあった。
朝になれば二人に会う。
会ってたぶん何も言わない。
アレクは目を閉じた。
閉じると赤い髪の男がまだ待っていた。
――勝者の歴史にも、敗者の歴史にも、載らなかった男の話。
次回、「コンラート・フェルディナント・ベーレント」。