***
回廊のただ中で、帝国艦隊は、三方から食い破られようとしていた。
だが、総旗艦の艦橋に、悲鳴はなかった。
ミッターマイヤーは、ただ一点、盤面を見つめている。
味方の光点が、次々と消えていく。
その明滅の向こうに、この歴戦の将は、敵の呼吸を読もうとしていた。
包囲は、鮮やかだった。
三方を残骸の陰から突かれ、退路は詰まっている。
だが、と疾風ウォルフは思う。
この艦数差で、包囲を敷いた。
ならば、敵が反転した鉄壁に食らいつき、誘い込まれ、兵を吸われた瞬間、囲みには、必ず薄くなる点ができる。
どれだけ厚く囲もうと、一点に力を集めさせられれば、他のどこかが痩せる。
それが、道理だ。
「おそらく、ここと、ここと、ここか」
その指が、未だ敵艦のいない盤面のいくつかの点を、とん、とん、と叩いた。
敵が薄くなる場所。疾風は、敵がそこへ動く前から見ていた。
反撃の糸口を、疾風ウォルフは、もう探しあてはじめていた。
ふと、脳裏を、二つの幼い顔がよぎった。
皇帝陛下。そして、我が子。
無事で、いてくれ。
だが、それを、口にはしなかった。
いま、この自分にできる最善は、私情に溺れることではない。
一秒でも早く、この包囲を破ることだ。
それが、あの子らを救う道になる。
だがその采配が実を結ぶまでには、まだ、少しの時間が必要だった。
そしてその間にも、裂けた隊列の奥では、光を失った一隻の中で、子どもたちが、暗闇に取り残されていた。
***
【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】
暗闇は、深かった。
僕は、床に手をついたまま、しばらく動けなかった。
自分の息の音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、目が慣れてくると、この区画に、僕たち三人だけではないことが分かってきた。
被弾のとき、この一角にいた乗員が、幾人か、共に閉じ込められていた。
移乗した僕たちの、身の回りの世話と護衛を命じられた、若い兵たちである。
どの顔も、まだ、あどけなさを残していた。十六か、せいぜい十八。
皆、二等兵の襟章。
安全な戦だと、誰もが思っていた。
皇帝を、奥の安全な区画で守る。それが、彼らの役目のはずだった。
その役目の場所が、いまや、光を失った鉄の箱になっていた。
一人は、脚を挟まれたのか、低く呻いていた。
一人は、壁に背をつけたまま、荒い息を繰り返している。
暗闇に慣れた目が捉えたのは、恐怖に強張った、幾つもの顔だった。
初陣の皇帝の護衛という、栄えある任務のはずだった。
それが、蓋を開ければ、光も通信も失った鉄の棺の中である。
無理もない、と僕は思った。
「……くそ、通信が死んでる」
誰かが、震える声で言った。
「隔壁も、下りちまった。ここは、もう、閉じ込められたんだ」
「静かにしろ。じきに、救助が……」
「来るもんか!外は、あの有様だぞ!誰が、こんな区画一つに構うものか!」
声が、上ずっていく。
暗闇の中で、恐怖は、火のように移る。
一人が乱れれば、次の一人が乱れる。
呼吸が速くなり、それがまた、隣の呼吸を速くする。
このままでは、この区画そのものが、恐慌に呑まれる。
僕には、それが分かった。
そのとき、僕は、妙なことに気づいた。
すぐ傍らに、クラインがいる。
その息づかいが、少しも乱れていない。
暗闇に落ちても、狭い箱に閉じ込められても、まるで、いつもの部屋にいるかのように、静かだった。
なぜ、この子は、こんなに平気なのだろう。
だが、それを考えている暇はなかった。
僕は、立ち上がった。
膝が、震えていた。
怖い。
僕だって、怖い。
だが、ここで僕が黙っていたら、皆はもっと怖がる。
僕にできることは、一つしかなかった。
僕は、人の名を、憶えている。
移乗のとき、艦長が、この区画の者たちを一人ずつ紹介してくれた。
僕は、その名を、憶えていた。
いつもの、癖で。
「ノルデン」
僕は、荒い息を繰り返している兵の名を、呼んだ。
「そこにいるな、ノルデン」
「……へ、陛下?」
「そうだ。落ち着け。君は、無事だ。状況の記録を頼む」
暗闇の中で、その兵が、息を呑むのが分かった。
自分の名を、皇帝が呼んだ。
その驚きが、恐怖を、ほんの少しだけ、押しのけた。
荒かった息が、少しずつ、整っていく。
なぜ、皇帝が、一介の二等兵の名を知っているのか。
その戸惑いが、恐怖より、彼の心を占めたのだ。
人は、混乱の的が一つ増えると、かえって、目の前の恐怖から気が逸れる。
そのことを、僕は、頭で考えたわけではなかった。
ただ、そうせずには、いられなかっただけだ。
「マインホフ」
僕は、次の名を呼んだ。
脚を挟まれて呻いていた兵である。
「痛むな。すまない。すぐに、助ける。……いま、君を挟んでいるのが何か、教えてくれるか」
「て、鉄材、です……梁が、落ちて……脚が、動きません……」
「分かった。動くな。誰かが必ずそれをどける。それまでしっかりしろ」
一人ずつ、名を呼ぶ。
「ケラー。君は、いちばん扉の近くにいるな。物音がしたら、教えてくれ。外の様子は、君だけが頼りだ」
「ヴェス。マインホフの傍にいてやってくれ。手を握っていてやれ。一人にするな」
不思議だった。
名を呼ばれた者から、順に、息が鎮まっていく。
暗闇の中で、自分が「誰か」であること。
自分に、するべきことがあること。
たったそれだけで、人は、恐怖に呑まれずにすむのだと、僕は、その時に知った。
名を持たぬ「誰か」でいるうちは、人は、恐怖の中にただ放り出されている。
だが、名を呼ばれ、役割を与えられた瞬間、その人は、暗闇の中に、自分の居場所を取り戻すのだ。
僕は、名を憶えることしか、できない。
剣も下手で、勉強も中ほどで、父のような天才には、程遠い。
修辞学の教師が説く、人を動かす百の言葉も、僕の頭からは、するりと抜け落ちていく。
だが、その、たった一つのことだけが、名を憶えるという、それだけのことが、いまこの暗闇で、役に立っていた。
***
【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】
「おい」
暗闇の中から、フェリックスの声がした。
「アレク。ここから、出られるかもしれない」
「どういうことだ」
「移乗のとき、通路を歩いただろ。あのとき、天井に、整備用の細い通路の入り口があった。緑の、警告灯が点いてたんだ。……たしか、この区画の、すぐ上だ」
僕は、驚いた。
フェリックスはそんなものを、見ていたのか。
「よく、憶えているな」
「剣の稽古で、叩き込まれてる」フェリックスは、こともなげに言った。
「どこにいても、まず、退き際を見ておけ。……父上の、口癖だ。癖になっちまってる」
勇気でも、機転でもなかった。
ただ、武門の子が、身体に刻まれた習いのままに、逃げ道を見ていた。
それだけのことだった。
だが、それが、いま、僕たちの命綱になろうとしていた。
フェリックスが、暗闇の中を手探りで進み、天井の一角を探り当てた。
固い、金属の蓋。
こじ開けると、細い、人一人がやっと通れるほどの通路が、闇の奥へと続いていた。
「……だが」
そこで、フェリックスの声が、詰まった。
「この先、真っ暗だ。どっちへ行けば、生きてる区画に出るのか、分からねえ」
整備通路は、幾つにも枝分かれしていた。
被弾で、あちこちの配線が焼け落ちている。
一つ道を間違えれば、行き止まりの、死んだ区画へ迷い込む。
暗闇の中で、それを見分ける術は、ないように思えた。
そのとき、クラインが、口を開いた。
「私は分かります」
静かな声だった。
暗闇の中で、その声だけが、少しも揺れていなかった。
「壁の配線を辿ればいい。生きている系統と、死んだ系統は、手で触れれば分かります。まだかすかに熱を持っているのが生きた線です。それを辿れば、電力の生きている区画に出られる」
「そんなこと、どうして分かる」フェリックスが、訝しんだ。
「……以前、似たような場所に、いたことがあります」
それきり、クラインは、何も言わなかった。
以前、とは、いつのことなのか。
似たような場所とは、どこなのか。
問われることを、拒むような、固い沈黙だった。
クラインは、暗闇の中で壁に手を這わせた。
まるで目が見えているかのような、迷いのない手つきだった。
指先が、線の一本一本を、確かめていく。
これは死んでいる、これは生きている、と。
その手つきに、ためらいは微塵もなかった。
僕は、またあの違和感を覚えた。
この、光一つない、狭い通路。
普通なら、大人でも怖気づく、この闇の中で。
クラインは少しも恐れていなかった。
むしろ、この暗さと、この狭さの中で、はじめて息がしやすくなったかのようだった。
まるで、こういう場所こそが、この子の慣れ親しんだ世界であるかのように。
なぜ、と僕は思った。
十歳の子供が、なぜこんな場所に慣れているのか。
どんな暮らしをすれば、暗闇が怖くなくなるのか。
だが、その問いを口にはしなかった。
その乾いた横顔の奥に、触れてはいけない何かがある気がしたからだ。
問えば、この子の隠している傷に指を触れてしまう気がした。
「フェリックス。クラインの言うとおりに、進もう」
「ああ」
フェリックスが、先頭に立とうとした。
だが、すぐに、その足を止めた。
「いや。……おい、クライン。お前が、先に行け。線が分かるのは、お前だけだ」
「私が?」
「そうだ。次に、アレク。それから、動ける乗員たち。マインホフは、みんなで支えろ」
フェリックスは、皆を先に行かせた。
そして、自分は、いちばん後ろに立った。
「殿を務めるのか」
僕が問うと、フェリックスは、暗闇の中で、少し笑ったようだった。
「お前より年上だからな」
「それに、後ろから何か来たとき。いちばん危ないのは、最後尾だ。だったら、俺がそこにいる」
少し間を置いて、フェリックスは、付け足した。
「……父上に言われてるんだ。何があってもお前を守れって。命に代えても、ってな。まあ、そういうことだ」
照れ隠しのように、ぶっきらぼうな声だった。
「それに先頭は、クラインがいる」
フェリックスは、闇の奥で迷いなく壁を辿っていく、あの静かな背中を顎で示した。
「あいつは、ただ者じゃねえ。何なのかは分かんねえけどな。道を拓くのは、あいつに任せときゃいい。俺は後ろを見てる」
先頭に、クライン。
真ん中に、僕。
そして、殿に、フェリックス。
まだ、何一つ分かち合っていなかった三人が、この暗闇の中で初めて一つになろうとしていた。
こうして、僕たちは、暗い通路を、進みはじめた。
クラインが、生きた線を辿り、皆を導く。
僕が、その後に続き、時折、後ろの乗員の名を呼んで、逸れていないかを確かめる。
そして、フェリックスが、最後尾で、闇を背負っていた。
***
【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】
どれほど、進んだだろう。
やがて、通路の先に、微かな光が見えた。
クラインの読みは、正しかった。
まだ、電力の生きている区画に、僕たちは、たどり着いたのだ。
蓋を押し開け、床に降り立つ。
そこは、小さな管制の一室だった。
被弾は免れたのか、非常電源で、幾つかの機器が、まだ動いている。
僕は、思わず、安堵の息をついた。
助かった。
そう、思った。
だが。
その部屋の壁には、大きなスクリーンが、一つ、生きていた。
そこには、外の戦場が映し出されていた。
僕は、それを見て、言葉を失った。
無数の、光の点。
それが、味方だった。
そして、その光点が、一つ、また一つと、音もなく消えていく。
敵の砲火が、味方の隊列を焼いていた。
だが、この管制室には、何の音も届かない。
爆発の轟きも、断末魔の叫びも、真空の宇宙は、何一つ運んではこない。
スクリーンの中で、光が、一つ、静かに消えた。
また一つ、音もなく、消えた。
まるで、星が瞬きをやめるように。
だが、その無音の一瞬ごとに、一隻の艦が虚空に砕けているのだ。
数百の命を、乗せたまま。
こんなにも静かに、こんなにも軽く、人が消えていく。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
僕は、知っていた。
用兵とは、味方を何人、生きて還したかだと、ミッターマイヤー元帥は言った。
守るとは、盾になることだと、ミュラー元帥は言った。
あの言葉を、僕は、艦橋でもっともらしく頷きながら聞いた。
立派な教えだと、思った。
だが、あのとき僕は何も分かっていなかった。
言葉の意味を、頭で、なぞっていただけだった。
その、守られる側に僕はいる。
いまあの光点の一つ一つで、人が死んでいる。
僕を守るために。
十歳の僕の初陣の箔をつけるために。
戦う必要など、なかったのかもしれない。
これは、大人たちが僕に武勲を持たせるために選んだ戦だった。
安全なはずの、手頃な相手。
そう言われて、僕はここへ来た。
その「安全なはず」の戦で、「手頃な相手」の手で、いま数えきれない人が死んでいる。
僕というたった一人の子供を玉座に飾るために。
スクリーンの中で、また一つ光が消えた。
あれは光点ではない。
僕は思った。
あれは人だ。
名前のある人だ。
さっき僕が名を呼んだ、ノルデンやマインホフのような。
一人ずつ名前があり、待っている家族があり、子供の熱を心配する。
そんな人たちなのだ。
朝、宮廷で僕に挨拶を返してくれたあの侍女のように。
それが、いま僕の見ている前で次々と消えていく。
そして、僕はその名を一つも知らない。
区画の中の、ノルデンやマインホフの名は憶えた。
だが、あのスクリーンの向こうで死んでいく、幾百、幾千の名を、僕は一つも知らない。
知らないまま、彼らは僕のために死んでいく。
名を憶えることしかできない僕。
その僕が、憶えるべき名を持っていない。
それがどうしようもなく、僕にはこたえた。
暗闇から抜け出た先に、待っていたのは安堵ではなかった。
もっと深い、もっと暗い、別の暗闇だった。
傍らでフェリックスも黙ってスクリーンを見上げていた。
いつもの軽口はなかった。
クラインだけがいつもの乾いた目でその光景を見ていた。
まるでそれが当たり前のことだとでも言うように。
僕たちは生き延びた。
だが、僕たちは何一つしていない。
ただ、逃げただけだ。
その僕たちが逃げている間にも、誰かが僕たちのために死に続けていた。
初陣で、僕が知ったのは、勝利でも、栄光でもなかった。