銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第三話 暗闇の名前(新帝国暦十三年十一月)

回廊のただ中で、帝国艦隊は三方から食い破られようとしていた。

だが、総旗艦の艦橋は落ち着いていた。

ミッターマイヤーはただ一点、盤面を見つめている。

味方の光点が次々と消えていく。

その明滅の向こうに、この歴戦の将は敵の呼吸を読んでいた。

 

包囲は鮮やかだった。

三方を残骸の陰から突かれ、退路は詰まっている。

 

だが、と疾風ウォルフは思う。

この艦数差で包囲を敷いた。

ならば敵が反転した鉄壁に食らいつき、誘い込まれ、兵を吸われた瞬間、囲みには必ず薄くなる点ができる。

 

どれだけ厚く囲もうと、一点に力を集めさせられれば他のどこかが痩せる。

それが道理だ。

「ここと、ここと、ここか」

その指が未だ敵艦のいない盤面のいくつかの点を、とん、とん、と叩いた。

敵が薄くなる場所。疾風は敵がそこへ動く前から見ていた。

 

反撃の糸口を、疾風ウォルフはもう探しあてはじめていた。

ふと脳裏を、二つの幼い顔がよぎった。

皇帝陛下。そして我が子。

 

無事でいてくれ。

だが、それを口にはしなかった。

いま、この自分にできる最善は私情に溺れることではない。

一秒でも早くこの包囲を破ることだ。

それがあの子らを救う道になる。

 

だがその采配が実を結ぶまでには、まだ少しの時間が必要だった。

 

そしてその間にも、裂けた隊列の奥では、光を失った一隻の中で、子どもたちが暗闇に取り残されていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】

 

暗闇は深かった。

僕は床に手をついたまま、しばらく動けなかった。

自分の息の音だけがやけに大きく聞こえる。

 

やがて目が慣れてくると、この区画に僕たち三人だけではないことが分かってきた。

被弾のとき、この一角にいた乗員が幾人か、共に閉じ込められていた。

移乗した僕たちの身の回りの世話と護衛を命じられた、若い兵たちである。

十六か、せいぜい十八。

皆、二等兵の襟章。

 

安全な戦だと誰もが思っていた。

皇帝を奥の安全な区画で守る。それが彼らの役目のはずだった。

その役目の場所が、いまや光を失った鉄の箱になっていた。

 

一人は脚を挟まれたのか、低く呻いていた。

一人は壁に背をつけたまま、荒い息を繰り返している。

暗闇に慣れた目が捉えたのは、恐怖に強張った幾つもの顔だった。

初陣の皇帝の護衛という、栄えある任務のはずだった。

それが蓋を開ければ、光も通信も失った鉄の棺の中である。

無理もない、と僕は思った。

 

「……くそ、通信が死んでる」

誰かが震える声で言った。

「隔壁も下りちまった。ここはもう、閉じ込められたんだ」

 

「静かにしろ。じきに救助が……」

 

「来るもんか!外はあの有様だぞ!誰がこんな区画一つに構うものか!」

 

声が上ずっていく。

暗闇の中で、恐怖は火のように移る。

一人が乱れれば、次の一人が乱れる。

呼吸が速くなり、それがまた隣の呼吸を速くする。

このままでは、この区画そのものが恐慌に呑まれる。

僕にはそれが分かった。

 

そのとき、僕は妙なことに気づいた。

すぐ傍らにクラインがいる。

その息づかいが少しも乱れていない。

暗闇に落ちても、狭い箱に閉じ込められても、まるでいつもの部屋にいるかのように静かだった。

なぜ、この子はこんなに平気なのだろう。

だが、それを考えている暇はなかった。

 

僕は立ち上がった。

膝が震えていた。

怖い。

僕だって怖い。

だが、ここで僕が黙っていたら、皆はもっと怖がる。

僕にできることは一つしかなかった。

僕は、人の名を憶えている。

移乗のとき、艦長がこの区画の者たちを一人ずつ紹介してくれた。

僕は、その名を憶えていた。

いつもの癖で。

 

「ノルデン」

僕は、荒い息を繰り返している兵の名を呼んだ。

「そこにいるな、ノルデン」

 

「……へ、陛下?」

 

「そうだ。落ち着け。君は無事だ。状況の記録を頼む」

 

暗闇の中で、その兵が息を呑むのが分かった。

自分の名を皇帝が呼んだ。

その驚きが恐怖を、ほんの少しだけ押しのけた。

荒かった息が少しずつ整っていく。

 

なぜ、皇帝が一介の二等兵の名を憶えているのか。

その戸惑いが、恐怖より彼の心を占めたのだ。

人は、混乱の的が一つ増えると、かえって目の前の恐怖から気が逸れる。

そのことを、僕は頭で考えたわけではなかった。

ただ、そうせずにはいられなかっただけだ。

 

「マインホフ」

僕は次の名を呼んだ。

脚を挟まれて呻いていた兵である。

「痛むな。すまない。すぐに助ける。……いま、君を挟んでいるのが何か、教えてくれるか」

 

「て、鉄材、です……梁が落ちて……脚が、動きません……」

 

「分かった。動くな。必ずそれをどける。それまでしっかりしろ」

 

一人ずつ、名を呼ぶ。

 

「ケラー。君はいちばん扉の近くにいるな。物音がしたら教えてくれ。外の様子は、君だけが頼りだ」

 

「ヴェス。マインホフの傍にいてやってくれ。手を握っていてやれ。一人にするな」

 

不思議だった。

名を呼ばれた者から順に、息が鎮まっていく。

暗闇の中で、自分が「誰か」であること。

自分にするべきことがあること。

 

たったそれだけで人は恐怖に呑まれずにすむのだと、僕はその時に知った。

名を持たぬ「誰か」でいるうちは、人は恐怖の中にただ放り出されている。

だが、名を呼ばれ、役割を与えられた瞬間、その人は暗闇の中に自分の居場所を取り戻すのだ。

 

僕は、名を憶えることしかできない。

剣も下手で、勉強も中ほどで、父のような天才には程遠い。

修辞学の教師が説く、人を動かす百の言葉も、僕の頭からはするりと抜け落ちていく。

 

だが、そのたった一つのことだけが、名を憶えるという、それだけのことが、いまこの暗闇で役に立っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】

 

「おい」

暗闇の中からフェリックスの声がした。

「アレク。ここから出られるかもしれない」

 

「どういうことだ」

 

「移乗のとき、通路を歩いただろ。あのとき天井に、整備用の細い通路の入り口があった。緑の警告灯が点いてたんだ。……たしか、この区画のすぐ上だ」

 

僕は驚いた。

フェリックスはそんなものを見ていたのか。

 

「よく憶えているな」

 

「剣の稽古で叩き込まれてる」フェリックスはこともなげに言った。

 

「どこにいても、まず退き際を見ておけ。……父上の口癖だ。癖になっちまってる」

 

武門の子が身体に刻まれた習いのままに、逃げ道を見ていた。

それだけのことだった。

それがいま、僕たちの命綱になろうとしていた。

 

フェリックスが暗闇の中を手探りで進み、天井の一角を探り当てた。

固い、金属の蓋。

 

こじ開けると、細い、人一人がやっと通れるほどの通路が闇の奥へと続いていた。

 

「……だが」

そこでフェリックスの声が詰まった。

「この先、真っ暗だ。どっちへ行けば生きてる区画に出るのか、分からねえ」

 

整備通路は幾つにも枝分かれしていた。

被弾で、あちこちの配線が焼け落ちている。

一つ道を間違えれば、行き止まりの、死んだ区画へ迷い込む。

暗闇の中で、それを見分ける術はないように思えた。

 

そのとき、クラインが口を開いた。

「私は分かります」

 

静かな声だった。

暗闇の中で、その声だけが少しも揺れていなかった。

 

「壁の配線を辿ればいい。生きている系統と死んだ系統は、手で触れれば分かります。まだかすかに熱を持っているのが生きた線です。それを辿れば、電力の生きている区画に出られる」

 

「そんなこと、どうして分かる」フェリックスが訝しんだ。

 

「……以前、似たような場所にいたことがあります」

 

それきり、クラインは何も言わなかった。

以前、とはいつのことなのか。

似たような場所とはどこなのか。

問われることを拒むような、固い沈黙だった。

 

クラインは暗闇の中で壁に手を這わせた。

まるで目が見えているかのような、迷いのない手つきだった。

指先が、線の一本一本を確かめていく。

これは死んでいる、これは生きている、と。

その手つきにためらいは微塵もなかった。

 

僕はまたあの違和感を覚えた。

この、光一つない狭い通路。

普通なら大人でも怖気づく、この闇の中で。

クラインは少しも恐れていなかった。

 

 

なぜ、と僕は思った。

十歳の子供がなぜこんな場所に慣れているのか。

どんな暮らしをすれば、暗闇が怖くなくなるのか。

 

だが、その問いを口にはしなかった。

その乾いた横顔の奥に触れてはいけない何かがある気がしたからだ。

問えば、この子の隠している傷に指を触れてしまう気がした。

 

「フェリックス。クラインの言うとおりに進もう」

 

「ああ」

 

フェリックスが先頭に立とうとした。

だが、すぐにその足を止めた。

「いや。……おい、クライン。お前が先に行け。線が分かるのはお前だけだ」

 

「私が?」

 

「そうだ。次に、アレク。それから、動ける乗員たち。マインホフはみんなで支えろ」

フェリックスは皆を先に行かせた。

そして、自分はいちばん後ろに立った。

 

「殿を務めるのか」

僕が問うと、フェリックスは暗闇の中で少し笑ったようだった。

 

「お前より年上だからな。それに、後ろから何か来たとき。いちばん危ないのは最後尾だ。だったら、俺がそこにいる」

少し間を置いて、フェリックスは付け足した。

「……父上に言われてるんだ。何があってもお前を守れって。命に代えても、ってな。まあ、そういうことだ」

 

照れ隠しのように、ぶっきらぼうな声だった。

「それに先頭は、クラインがいる」

フェリックスは、闇の奥で迷いなく壁を辿っていくあの静かな背中を顎で示した。

「あいつはただ者じゃねえ。何なのかは分かんねえけどな。道を拓くのはあいつに任せときゃいい。俺は後ろを見てる」

 

先頭に、クライン。

真ん中に、僕。

そして殿に、フェリックス。

まだ何一つ分かち合っていなかった三人が、この暗闇の中で初めて一つになろうとしていた。

 

こうして僕たちは、暗い通路を進みはじめた。

クラインが生きた線を辿り、皆を導く。

僕がその後に続き、時折、後ろの乗員の名を呼んで、逸れていないかを確かめる。

そして、フェリックスが最後尾で闇を背負っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・護衛艦内 アレク】

 

どれほど進んだだろう。

やがて、通路の先に微かな光が見えた。

クラインの読みは正しかった。

まだ電力の生きている区画に、僕たちはたどり着いたのだ。

 

蓋を押し開け、床に降り立つ。

そこは小さな管制の一室だった。

被弾は免れたのか、非常電源で幾つかの機器がまだ動いている。

 

僕は思わず、安堵の息をついた。

助かった。

そう思った。

 

だが。

 

その部屋の壁には、大きなスクリーンが一つ、生きていた。

そこには外の戦場が映し出されていた。

 

僕はそれを見て、言葉を失った。

 

無数の、光の点。

それが味方だった。

そして、その光点が一つ、また一つと、音もなく消えていく。

 

敵の砲火が味方の隊列を焼いていた。

だが、この管制室には何の音も届かない。

爆発の轟きも、断末魔の叫びも、真空の宇宙は何一つ運んではこない。

 

スクリーンの中で、光が一つ、静かに消えた。

また一つ、音もなく消えた。

まるで、星が瞬きをやめるように。

 

だが、その無音の一瞬ごとに一隻の艦が虚空に砕けているのだ。

数百の命を乗せたまま。

こんなにも静かに、こんなにも軽く、人が消えていく。

その静けさが、かえって恐ろしかった。

 

 

僕は知っていた。

用兵とは味方を何人、生きて還したかだと、ミッターマイヤー元帥は言った。

守るとは盾になることだと、ミュラー元帥は言った。

 

あの言葉を、僕は艦橋でもっともらしく頷きながら聞いた。

立派な教えだと思った。

だが、あのとき僕は何も分かっていなかった。

言葉の意味を、頭でなぞっていただけだった。

 

その、守られる側に僕はいる。

 

いまあの光点の一つ一つで、人が死んでいる。

僕を守るために。

十歳の僕の初陣の箔をつけるために。

 

戦う必要などなかったのかもしれない。

これは、大人たちが僕に武勲を持たせるために選んだ戦だった。

安全なはずの、手頃な相手。

 

そう言われて、僕はここへ来た。

その「安全なはず」の戦で、「手頃な相手」の手で、いま数えきれない人が死んでいる。

 

僕というたった一人の子供を玉座に飾るために。

 

スクリーンの中で、また一つ光が消えた。

あれは光点ではない。

僕は思った。

あれは人だ。

名前のある人だ。

 

さっき僕が名を呼んだ、ノルデンやマインホフのような。

 

一人ずつ名前があり、待っている家族があり、子供の熱を心配する。

そんな人たちなのだ。

朝、宮廷で僕に挨拶を返してくれたあの侍女のように。

それがいま僕の見ている前で次々と消えていく。

 

そして、僕はその名を一つも知らない。

 

区画の中のノルデンやマインホフの名は憶えた。

だが、あのスクリーンの向こうで死んでいく幾百、幾千の名を、僕は一つも知らない。

知らないまま、彼らは僕のために死んでいく。

 

名を憶えることしかできない僕。

その僕が憶えるべき名を持っていない。

それがどうしようもなく、僕にはこたえた。

 

暗闇から抜け出た先に待っていたのは、安堵ではなかった。

もっと深い、もっと暗い、別の暗闇だった。

 

傍らでフェリックスも黙ってスクリーンを見上げていた。

いつもの軽口はなかった。

 

クラインだけがいつもの乾いた目でその光景を見ていた。

まるでそれが当たり前のことだとでも言うように。

 

僕たちは生き延びた。

だが、僕たちは何一つしていない。

ただ、逃げただけだ。

その僕たちが逃げている間にも、誰かが僕たちのために死に続けていた。

 

初陣で僕が知ったのは、勝利でも栄光でもなかった。

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