【新帝国暦十九年冬 旧自由惑星同盟領・ロフォーテン星系 惑星キベロン】
高台には風があった。
ヨナス・ヴェルニケは外套の前を合わせ眼下を見た。
土埃の平原は丈の低い草に覆われている。
草の下の土がところどころ黒い。
ヴェルニケは旧自由惑星同盟領トリプラ星系の『総督』である。
帝国が任じた。
その前は『首相』だった。
同盟時代の星系政府の『首相』である。
そちらは選ばれてなった。
同盟が消えたとき彼は職を失わなかった。
星系の数は多く帝国が送れる人間は足りない。
書類の上で首相が総督になった。
机も、部屋も、同じである。
ただ名札だけが替わった。
天幕の代わりに屋根が並んでいた。
板と、波打った金属と、継ぎ接ぎの壁である。
それでも煙はどの家からも真っ直ぐに立った。
港のあった方角にだけ黒い衝突孔が残っている。
この高台に帝国の机が出ていたと聞いた。
机は一つで、官吏は二人だったという。
一人が天幕の数を数え、一人が用紙に写した。
机はいつからか出なくなった。
数え終えたのだろうと人々は言った。
今その場所に七つの星系の代表団が立っている。
いずれも旧同盟領の星系である。
帝国からは弔電が一通届いていた。
名代の署名と、しかるべき官署の印がある。
文面は短く、正確で、誤りは一つもなかった。
読み上げる声が風で二度途切れた。
誰も聞き返さなかった。
七つの旧同盟星系から七人の総督が揃った。
どの顔もヴェルニケは知っていた。
総督どうし帝国の会議の席で隣り合ってきた顔である。
トリプラ星系は戦火で焼かれていない。
帝国と同盟との戦争のときも宙域での艦隊戦は何度か行われたが地上戦は行われなかった。
ヴェルニケは義理で来た。
板の前に立ち握手をして明日の船で帰る。
そのつもりだった。
丘の斜面に板が並んでいる。
一枚ずつ字が新しい。
雨季の前に見て回り薄れたものはその場で書き直したのだという。
書き直す字は丘の下の帳と突き合わされる。
帳の名と丘の名は常にひとつに揃えられていた。
長机は今日も出ていた。
帳面は一年ぶん厚く書き手の脇にもう二冊が積まれている。
列は短い。
それでも途切れてはいなかった。
白い外套の者たちが丘と机のあいだを行き来している。
誰も急いでいない。
一年この者たちはここにいた。
誰に頼まれた仕事でもないとヴェルニケは聞いていた。
聞いたとき彼は嘘だと思った。
草の丈は低く板の字は新しい。
彼は今それを見ている。
案内の若い者に彼は訊いた。
今日で着弾から一年になるのか。
「船の来るひと月ばかり前のことです」
この土地では船から数えるのだとヴェルニケはそのとき知った。
式には祈りがなかった。
名が読み上げられ板の前で頭が垂れられそれだけだった。
言葉は何も唱えられない。
日が落ちても読み上げは続いていた。
明日も続けますと白い者が言った。
明日代表たちの船は出る。
長机の端にもうひとり帳面をつけている男がいた。
読み上げられる名を写しているように見えた。
男は顔を上げなかった。
読み上げの声を背に一人がヴェルニケの傍らに立った。
白でも黒でもない外套である。
「奥に話のできる部屋がございます」
弔いに来て話をするのか。
そう思ったとき六人はもう歩き出していた。
***
奥の部屋は学校だった。
壊れずに残った校舎のいちばん奥である。
白い者たちが持ち込んだ石板が壁ぎわに積まれている。
この町の電気はまだ安定していない。
昼はここで子供が字を習う。
電子端末ではなく石板と白墨で。
卓はその机を並べて作られていた。
七人が座り教団の側は二人だった。
それと末席に帳面の男が座る。
長机の端で名を写していたあの男である。
教団の側の一人は女だった。
緋の裾が白墨の粉で汚れている。
『スアーダ枢機卿』と名乗っていた。
温かい顔をしていた。
初めて会った日この人になら話せると思った自分にヴェルニケは気づいた。
気づいてそれきり口を閉じた。
もう一人は男である。
高台で彼を呼びに来た白でも黒でもない外套の男だった。
五十がらみ。
中背で痩せても太ってもいない。
髪は几帳面に分けられ分け目の位置が高台で見たときと寸分違わなかった。
教団の白でも、軍の黒でもない外套の色からはこの男がどちら側の人間なのか
ヴェルニケには分からなかった。
男は座らず壁ぎわに立った。
壁には寄りかからない。
拳一つ分だけ離れた場所に腕を垂らしたまま立っている。
何も持っていなかった。
持っていないのに右手の指が時折紙を繰る形に動いた。
男の視線は七人を見ていなかった。
スアーダ枢機卿も見ていない。
末席の名を写す帳面の手元だけを見ていた。
「我々の星系では先月から配給の列が消えた」
誰に言うともなく、ある星系代表は言った。
向かいの代表が頷き自分の星の話を始める。
冬に凍えた者が一人も出なかったと。
港の話になった。
船の便が週に二度になった星がある。
そこの代表は便数を言うとき指を二本立てた。
子供のような手つきだった。
笑う者はいなかった。
学校がまた開いたと言う者もあった。
ヴェルニケは壁ぎわの石板の山を見た。
昼のあいだそれは子供の手の中にある。
ヴェルニケは聞いていた。
六人のうち誰も彼を見ていなかった。
六人は彼を説得していない。
説得する必要のある相手だとは思われていなかった。
彼らはただ良くなったことを話しているのである。
会うたび彼は断ってきた。
断るたびに卓の反対側の顔は減っていった。
今日反対側には誰もいない。
彼は七人のうちの一人でそして六人に囲まれていた。
女は何も言わなかった。
卓の白い粉を指で払っただけである。
この人は待てるのだとヴェルニケは思った。
何年でも。
ならば待たせない。
彼は卓の真ん中へ向かって口を開いた。
「貴殿らは地球教徒ではないのか」
部屋の音がなくなった。
六つの顔のうち二つが目を伏せた。
残りはヴェルニケを見なかった。
彼らはこの問いを知っているとヴェルニケは思った。
一度は自分の口で訊いたのだろう。
そして答えを聞いたのだろう。
ヴェルニケは女を見た。
答えるのはこの女だと思っていたからである。
女は答えなかった。
卓に置いた指を動かさなかった。
壁ぎわの男が動いた。
「かつてはそうでした」
初めて聞く声だった。
低くも高くもなく感情がなかった。
役所の窓口で番号を呼ぶ声に似ていた。
「九百年の間地球教の信仰は銀河のあらゆる港にございました」
男は言った。
「フェザーンの背後に。皆様の星の施療院に。学校に。議会に。軍に。」
そこで少しだけ間が空いた。
「……子供の頃熱を出したとき来てくれた看護婦の胸にも」
誰も口を挟まなかった。
「そして宇宙歴七九九年あれは死にました。総本山は自ら爆ぜ総大主教も、その下も、全部。焼いたのは帝国です。帝国の記録にございます。ご確認いただけます。
男は書類の角を揃えた。
揃える必要のない角だった。
「翌年帝国は残党を掃討しました。孤児院も教団施設として処理されました。立ち入りに際し武装抵抗があったと記録されております。作戦上の誤りはございません。その結果、子供が焼かれた」
声は変わらなかった。
「罰された者はおりません。違法がなかったからでございます。帝国の綴りには付随的損害とございます。……あの子たちが何を信じていたかご存知ですか」
誰も答えない。
「何も信じておりません。字も読めぬ歳でした」
その話をヴェルニケは知っていた。
いつか報告の綴りの中で読んだのである。
読んで次の頁をめくった。
ヴェルニケの喉が鳴った。
壁ぎわの石板の山を彼は見ないようにした。
「我らの暦はその年から数えます」
男が初めてヴェルニケの目を見た。
「総本山の落ちた年ではありません。罪なき子供たちの死から」
ヴェルニケは呻いた。
「――信じろというのか」
「いいえ」
男は言った。
「確かめてください。記録はある」
暦は確かめられる。
記録は帝国の側にある。
確かめれば確かめただけこの男の言う通りになるだろう。
「我らは悔い改めました」
男は卓に目を戻してそう言った。
唱えたのではなかった。
そう言っただけである。
それから書類に手を置いた。
「もっとも――我らが何であろうと皆様には関わりのないことでしょう。我らが何を信じているかで皆様の造船所が動くわけではない。動かすのは船の発注書です」
ヴェルニケはその言い方を憎んだ。
憎んでから気づいた。
この男は彼を説き伏せようとしていない。
本当にそう思っているのである。
『枢機卿』という女は何も言わなかった。
この問答のあいだひとことも。
「発注書」
ヴェルニケはその語を繰り返した。
「――貴殿は我々に金がないと思っているのか」
「いいえ」
「その通りだ。金はある」
自分の声が乾いているのが分かった。
「帝国は交付金を寄越す。毎年きちんと寄越す。遅れたこともない」
「一般財源だ。使い道はこちらで決めていい。法にそう書いてある。だが使い道がないのだ」
彼は指を折り始めた。
折り始めて止まらなくなった。
「工場を建てた。三つだ。物をいくら作っても買い手がおらん」
「帝国へ売ろうとした。規格が違う。百五十年別々に作ってきたのだからな。繋ぎ手も、動力の結合も、制御も、書式すら違う」
「繋ぐには工事が要る。工事には金が要る」
「その金を貸す銀行がうちの星にはもう一行もない」
「銀行は自由惑星同盟の国債で回しておった。国が消え国債は紙になった」
「誰も奪ってはおらん。帝国に奪われてもおらん。ただ保証する国家が消えた」
「港はできたのだ」
ヴェルニケは止まらなかった。
自分でもなぜ言っているのか分からなかった。
「立派な宇宙港だ。辺境には勿体ないくらいの」
「帝国の公共事業だ。帝国の資材を、帝国の船が運んで、帝国の技師と、帝国系列の会社が建てた」
「金は帝国から来た。そして帰った」
誰も遮らなかった。
「うちの辺境の経済は自由惑星同盟軍の兵站とくっついておった。百五十年そうやってきた」
「突然同盟軍が消えた。需要も一緒に蒸発した」
そこで彼は一度息を継いだ。
継がなければ続けられなかった。
「……うちの星系は貧しかったのではない」
声が落ちた。
「富んでおったのだ。戦争で」
「造船、修理、燃料、糧食、そして人。買い手は一つ、値は決まっており、注文は永遠に来た。その買い手が死んだ」
「辺境を殺したのは帝国ではない。平和だ」
誰も何も言わなかった。
言うことがなかったからではない。
六人とも同じ帳面を持っているからである。
言い終えてヴェルニケは自分が何をしたのかを知った。
反論をしたつもりだった。
していたのは報告である。
男は卓上の茶が冷めたか確かめるようにカップへ指を触れた。
「ところで御星系に造船所はお一ついかがですか。いいえ一つといわず、二つ、三つ」
「――誰が船を買う」
「我らが買い手でございます。御星系の船台はまだ動きますか」
訊かれたのはヴェルニケではなく卓の全部だった。
「動く」
「うちも動く」
「錆びてはおらん。あそこだけは錆びさせておらん」
「人は」
「おる」
答えたのはヴェルニケだった。
「掃いて捨てるほどおる」
「操縦士。機関士。技術兵。十六、七の頃からそれしかやっておらん男たちだ」
「恩給は消えた。資格は残った。資格を保証する国がない」
「そういう連中がうちの星だけで何百万といる」
「その者たちが船台へ戻れば」
と男は言った。
「働きます。税を納めます」
「政庁は救われます」
ヴェルニケはその順序を頭の中で置き直した。
金が来る。船台が動く。人が働く。税が入る。政庁が保つ。
どこにも思想がなかった。
「――これは経済だ」
彼はそう言った。
誰も頷かなかった。
頷く必要がなかったからである。
「帝国に何と報告する」
そこで男は書類を一枚めくった。
「申し遅れました。私はベーレントといいます」
男は訊かれてもいないのに名乗った。
「交付金の歳出には報告の様式がございます。二枚でございます」
「一枚目に事業の名。二枚目に費目と、時期と、雇用の見込み」
「事業の名の欄は政庁がお書きになります。使途の裁量は皆様のものでございますから」
説明は丁寧だった。
丁寧すぎた。
訊いていないことまでこの男は答えている。
「『廃艦解体事業』とお書きになるのがよろしいかと存じます」
「……なぜ」
「バーラトの和約は戦艦と宇宙母艦の放棄を課しました。放棄には解体が要ります」
「解体には費用がかかります」
「帝国はその費用を交付金でお払いになっております」
ベーレントはそこで一度だけ書類の角に指を置いた。
「その金で解体いたします」
そして続けた。
「……
ヴェルニケはその三文字を聞いた。
「――残りは」
「残った金は皆様のものでございます。使途の裁量は先ほど申し上げました」
「金だけではありません。解体されなかった船にも
部屋の誰も船の『使い道』を聞き返さなかった。
「現場はレサヴィク宙域をお勧めいたします。もともとそのために設けられた場所でございます」
「監査はまいります。書類は遅れます」
「遅れることは違法ではございません」
ベーレントは顔を上げなかった。
「整理いたします」
男は指を三本立てた。
「交付金の使途に裁量があるのは法の定めです。造船所しかないのは事実です。監査に間に合わないのは違法ではございません」
「違法なのは事業の名の欄だけでございます」
「一行です」
ヴェルニケはしばらく黙っていた。
「貴殿は何者だ」
男の手が書類の上で止まった。
「先ほどベーレントとだけ申し上げました。正確にはコンラート・フェルディナント・ベーレントと申します」
誰も二度目の名乗りを求めてはいなかった。
「市場の生まれでございます。帳場で字と数を覚えました。旧王朝の時分帳簿の腕を買われてリッテンハイム侯爵家に仕えました。侯は軍をお持ちでした。軍の後ろには紙がございます。糧食。燃料。補充。俸給。艦の籍。造れば造ったと書き、失えば失ったと書く。軍の階級もいただいておりました。大佐でございました」
「――大佐が帳簿をか」
誰かが言った。
「侯のご厚意でございます。侯の軍の紙には大佐の判でなければ通らぬものがございましたので」
「リッテンハイム」
別の声がその名を繰り返した。
古い名である。
古い負けた側の名である。
「侯はお討たれになりました」
男の声は変わらなかった。
「軍は負けて終わりではございません。終わらせる書類が要ります。解隊。除籍。恩給の打ち切り。戦死の認定と――認定のできぬ者の名簿。私が書きました。最後の一枚まで」
「……それから」
「それだけでございます。勝った側の官庁に勤めたことはございません」
事実だけを言う声だった。
拒んだのか、それとも拒まれたのかをその声は言わなかった。
「……なぜいまの様式にそこまで詳しい」
「二十年私は他にすることがございませんでしたので」
男は書類の角を揃えた。
「様式は王朝より長生きいたします。骨は旧いままでございます。骨から覚えた者には裏まで読めます」
ヴェルニケはしばらく男を見ていた。
負けた軍を最後の一枚まで紙で葬った手である。
その手が今夜逆のことをしている。
「――露見すればどうなる」
ヴェルニケは言った。
「帝国は軍を出すぞ。鎮圧に。それを知らんで言っているのではあるまい」
「何をでしょう」
「何をとは」
「鎮圧の対象です」
ベーレントは言った。
「この卓にあるのは施療の記録と、荷の受け渡しと、雇用の約定でございます。討伐令の書式には対象の欄がございます。そこへ何とお書きになるのか私には思いつきません」
「……」
「帝国は書類をご覧になります。書類は正しくできております。現物をご覧になるには令状が要り、令状には罪の名が要ります。法に書かれていなければなりません」
そこで男はわずかに間を置いた。
「軍を動かせるほどの罪の名は、書かれておりません」
長いこと誰も喋らなかった。
「――ではそちらは何を取る」
ヴェルニケは『枢機卿』なる女に訊いた。
訊いてから自分が訊いたことに気づいた。
女が顔を上げた。
「世俗のことは皆様のものでございます」
それだけだった。
ヴェルニケは『世俗』という語を胸の内で二度繰り返した。
それから考えないことにした。
書記が条項を読み上げた。
声は平らで句読点の位置が正確だった。
この夜その男の声を聞いたのはこれが初めてである。
互助のこと。
荷のこと。
施療のこと。
「一、星系議会ノ復設」
ヴェルニケは顔を上げた。
古い書き方だった。
条を立て項を刻み末尾に「〜スルモノトス」と置く。
彼が若い時分に諳んじるほど読んだ型である。
「議会が戻る」
「民主共和政が戻るのか」
と誰かが言った。
安堵とも、諦めともつかない声だった。
ヴェルニケはその条に反対する言葉を探した。
探して無いことを知った。
彼が生涯かけて求めるものがそこに書いてある。
書いたのは壁ぎわの男である。
「――これは私一人で決めることではない」
言ってから彼は自分の言葉を聞いた。
「ではどなたに諮られます」
訊いたのはベーレントではなかった。
隣の代表である。
悪意はなかった。
ヴェルニケは諮る先の名を口にしようとした。
星系議会。
その名は彼の星にもう無い。
帝国が併合したとき無くなったのである。
議事堂は残っている。
今は記録庁舎になっている。
かつて彼はその名簿を空で言えた。
何人いたかも憶えている。
彼らを選んだ者たちに彼は諮ることができない。
諮る仕組みがもう無いからである。
「……これは反逆だ」
絞り出すように彼はそう言った。
隣の代表が言った。
「ヴェルニケ代表。うちは四度だ」
「監査が来て書類が遅れた。四度とも遅れることは違法ではない」
「――相手は地球教徒崩れだぞ」
壁ぎわの男は何も言わなかった。
この夜この男は一度も否定していない。
否定されないことにヴェルニケはもう慣れていた。
「――うちの星は焼かれておらん」
彼はそう言った。
言葉はもう選べなくなっていた。
「トリプラ星系は何もされておらん。私は焼かれた者の代わりに怒る資格を持たん。その私がなぜ署名する」
卓の端の男が顔を上げた。
この星の代表である。
この夜彼が口を開いたのはそれが初めてだった。
「うちもそうでした」
ヴェルニケはその男を見た。
「去年の今頃までは」
部屋は静かだった。
外ではまだ名が読まれている。
「ヴェルニケ代表」
とその男は言った。
「では――
ヴェルニケは口を開いた。
法があると言おうとしたのである。言えなかった。
保証する国が消えた――そう言ったのは彼である。
賛否が問われた。
数える者はいなかった。
反対がなかったからである。
ヴェルニケは最後に署名した。
手は震えなかった。
震えるほどの何かはこの夜一度も起きなかったのである。
代表の一人が立ち上がりながら訊いた。
何気ない口調だった。
「――ときに。貴殿らの国は何と申されるのか」
女が顔を上げた。
「まだございません」
誰も笑わなかった。
誰も訊き返さなかった。
書記の筆が動いていた。
議事録はその夜のうちに閉じられた。
互助のこと。
荷のこと。
施療のこと。
そして『星系議会の復設』のこと。
旧同盟領・七星系代表の署名。
反対、なし。
後世これを『キベロンの密約』と呼ぶ。
だが実際は密約ではなかった。
議事録も、署名も、残っている。
ただそれを批准する議会が残っていなかった。
夜が明けて代表たちの船が出た。
高台の下では名の読み上げがまた始まっていた。
――その男の卒業席次は、四八四〇名中、一九〇九番だった。
次回、『戦史再演・アスターテ星域の会戦(前編)』