三人の、少しだけ変な夢の話です。
消灯の号令が消えて、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは目を閉じた。
次に目を開けたとき天井が白かった。
士官学校の宿舎の天井は白くない。灰色である。そして、こんなに高くない。
アレクは身を起こした。広い個室だった。
――司令官室だ。調度は簡素で、机が一つ。
机の上に戦域図の投影が点いたままになっている。
彼はその戦域図を知っていた。
三本の矢印が盤の中心へ向かっている。その中心に動かない赤が一つ。
それが、自分たちだった。
***
司令官室を出て、艦橋に向かった。
「――おい」
声のした方を見ると、フェリックスが立っていた。
帝国軍の、それも高級幕僚の軍装を着て、たいへん居心地の悪そうな顔をしている。
その隣でクラインが自分の袖口の階級章を見下ろしていた。
「また、ですか」
クラインが言った。
「今回は、艦がブリュンヒルトです」
「言うな」フェリックスが遮った。
「考えると頭が痛くなる」
三人とも正面の主表示を見た。
四万隻の緑が三方から寄ってくる。
中央に、二万の赤。
日付の表示をクラインが読み上げた。
「……帝国暦四八七年、二月」
誰も、続きを言わなかった。
言わなくてもこの戦場の名前は、三人とも知っている。
研究して、指揮して、勝った盤である。
ただし、あのときは終わったあとから始まった。
今回は始まる前に艦橋にいる。
***
「閣下」
背後から声がして、アレクは振り返った。
この人に会うのは二度目だった。
前に見た夢――あの、キフォイザー星域会戦。
艦は撃沈されず、この人の手が拾い上げてくれた。
名を訊かれ、答えようとした、その瞬間に目が覚めた。
だが、あの夢のキルヒアイスと、この夢のキルヒアイスは同じ顔をしているが、たがいを知らない。
こちらだけが二度、会っている。
襟の階級章は大佐のものだった。
まだ大佐なのだ、と三人は思った。
「ご休息中に申し訳ありません。五人の提督の方々が緊急の面会を求めておいでです」
ジークフリード・キルヒアイス大佐がごく当たり前の顔でそう言った。
夢の中の人々は誰も、何も問わない。
司令官席に座っているのが誰なのかを、考えない。
それが夢の規則であることを、三人はもう知っている。
だが、この人は――
キルヒアイスの目がほんの一瞬、三人の上を順に移った。
何かを測るような静かな一瞥だった。
それから彼は何も言わずに、扉の方へ手を差し伸べた。
「会議室の用意ができています」
問わないことを、選んだ目だった。
***
五人の提督が入室してきた。
先頭の、中背で骨太の、眠そうな目をした大将。メルカッツ。
その後ろにナイフのように細身の中将。シュターデン。
フォーゲル中将。エルラッハ少将。
そして最後に、色素の薄い水色の瞳の少将――ファーレンハイト。
「司令官閣下。意見具申の機会をいただき感謝いたします」
メルカッツが五人を代表して礼をした。
歴史の教材はこの会議を一行で済ませている。
作戦会議ののち、各艦隊は所定の配置に移行――それだけだ。
誰が何を言ったか、記録は残していない。
その一行の中身がいま、目の前に立っている。
***
口火を切ったのはシュターデンだった。
「単刀直入に申し上げます。わが軍は不利な態勢にあります」
彼は主表示を示した。細い指が三本の緑の矢印をなぞる。
「敵は二倍。三方向からの求心運動。これはかつて帝国軍が手痛い敗北を喫した会戦と、同じ構図であります。ダゴン星域会戦――百万の将兵が還らなかった、あの轍をいままさに踏もうとしている」
弁が立つ、と教材は評していた。実物は教材より数段、立つように見えた。
「ここは功を焦らず、態勢を立て直すべきです。名誉ある撤退という選択肢をご検討いただきたい」
フェリックスが口の中で小さく言った。
「……別人だな」
三人はこの男を一度だけ見たことがある。
前のアルテナ星域会戦のときの、あの馬鹿げた夢で。
あのときのシュターデンは、喜劇役者だった。
目の前の男は同じ顔だが、鋭かった。
前の夢が笑わせた男の、これが
会議室が静かになった。
五対の目が司令官席の少年に集まった。試すような目が四つ。面白がるような目が、一つ。
アレクは口を開いた。
「撤退はしない」
「……理由をうかがえますか」
「わが軍が有利だからだ」
シュターデンの片眉がぐいと持ち上がった。メルカッツは苦い顔をし、フォーゲルとエルラッハはたがいに視線を交わした。
ファーレンハイトだけが口の端を少し上げた。
***
「ヴァルター参謀。説明を」
「はい」
クラインが一歩前へ出た。
中将たちの視線が若すぎる参謀の階級章に集まり、それから、誰もそのことを問わずに、彼の指の先へ移った。
「敵は三個艦隊に分かれています。合計すれば我々の二倍。ですが――」
彼は緑の矢印を一本ずつ指した。
「一つずつ見れば、どれも我々より少ない。一万二〇〇〇、一万三〇〇〇、一万五〇〇〇。我々は二万です」
「兵力の逐次投入は愚策の初歩だ。合流される前に、という理屈だろうが、敵とてそれは当然承知しているはずだ」
「承知していても間に合いません」
クラインは盤上の三点間に指で線を引いた。
「敵艦隊相互の距離を見てください。彼らが互いを助けに行くには、この距離を回り込む必要があります。我々は中央にいます。どの敵へも、最短で行けます。敵が助け合うより速く、我々は移動できます。……距離と時間の両方がこちらの味方です」
「機動の利は認める。だが」
シュターデンの声が一段、硬くなった。
「各個撃破なるものは盤上の理屈にすぎん。この規模、この相互距離の現実の艦隊戦で、そのような芸当が成立した実績を、私は寡聞にして知らない。その実績をまず見せていただきたい。話は、それからです」
***
実績。
アレクは参謀の横顔を見た。クラインは実績を知っている。
フェリックスも、知っている。
史実では、この作戦は成功する。
第四艦隊は四時間で艦隊でなくなり、第六艦隊も壊滅し、歴史はこの会戦を、大規模艦隊戦における各個撃破の教科書事例として使うことになる。
自分たちは教科書で育った。
実績なら、ある。
だが、未来を証拠にはできない。
「……実績は」
クラインが言った。
「明日、示されます」
「明日?明日とは、また」
「前例のない作戦に前例はありません。実績はこれから作られるものです」
シュターデンが鼻を鳴らした。
「参謀どのはずいぶんと文学的な物言いをなさる」
***
会議室の空気がそこで一度、変わった。
「――一つ、うかがいたい」
初めて、メルカッツが口を開いた。
主表示に歩み寄り、第四艦隊の緑を太い指で示した。
「これを叩くのに何時間を見込んでおられるか。敵の残る二個艦隊はそのあいだ遊んではおらん。第四艦隊との戦闘が長引けば、横腹を二方向から食われるのは、こちらのほうだ。……理屈はうかがった。時間の計算をうかがいたい」
三十年、第一線で艦隊を動かしてきた軍人の問いだった。
「四時間――」
フェリックスが言いかけた。
言いかけて、止まった。四時間。講義で聞いた数字である。まだ、起きていない。
「……あれば、片が付きます」
「根拠は」
「敵はこちらの接近を知りません。通信は開戦と同時に殺します。奇襲の初撃で先頭集団を潰せば、残りは組織として戦えません。……回頭も応射も、組織あっての話です。頭を潰せば、残りは的です」
メルカッツは若い幕僚の顔をしばらく見ていた。
「……計算としては、聞ける」
それだけ言って、元の位置に戻った。
納得した顔ではなかったが、問うべきことは問い終えた顔だった。
***
「作戦を説明する」
アレクが言った。
彼は立ち上がり、盤の前へ出た。
第四艦隊への急襲。撃破後の転進。第六艦隊の右後背。手順を一つずつ示していく。
言いながら、彼は奇妙な感覚の中にいた。
これは父の作戦である。父が二十歳で立てた作戦を、教材で覚えた息子が、説明している。
「功を焦る若さは時に美徳ですがな」
エルラッハ少将が吐き捨てるように言った。
「付き合わされる将兵はたまったものではない」
アレクはその男の顔を一拍だけ長く見た。
記録では、会戦の終了までには、いなくなっているはずの顔だった。
「……戦闘中、いかなる状況でも、独断で行動するな。……いいな」
エルラッハは鼻を鳴らしただけだった。若造の説教を聞く顔ではなかった。
「――続ける」
説明が終わるより早く、シュターデンが声を上げた。
「机上の空論だ!交戦中に敵第二艦隊に側面を突かれたらいかがなさる。艦隊運動というものは図面の上の矢印とは違うのですぞ。うまくいくはずが――」
「シュターデン中将」
「成功の確率は――」
「もういい!」
アレクは掌を卓に叩きつけた。
音が会議室の壁で一度跳ねて、消えた。
「議論は終わりだ。皇帝陛下は私にこの軍の指揮を命じられた。卿らの責務は私の指揮に従うことだ。それが果たせないというのであれば――」
彼は五人を順に見た。
「私にはその職をもって、卿らを更迭する権限がある。……逆らう覚悟が、あるか」
返答は、なかった。
メルカッツが最初に礼をした。納得の礼ではなかった。
四人がそれに続き、五人の提督は退出していった。
最後のファーレンハイトが扉のところで一度だけ振り返った。
「――面白い会戦になりそうだ」
それだけ言って、出ていった。
***
会議室に三人と、キルヒアイスが残った。
アレクは椅子に座り直した。それから、自分の右の手のひらを見た。
まだ、痺れていた。
卓を叩いたのは計算ではなかった。ああするしかなかったから、ああした。
最後に動かしたのは、正しさではなかった。
父は二十歳で、これをやった。
アレクは手のひらを閉じた。
「……フェリックス」
「なんだ」
「僕はいま、正しかったかな」
フェリックスはしばらく黙っていた。
「知らねえよ。けど、ほかにどうしようもなかったのは見てりゃ分かった」
***
「お茶をお淹れしましょうか」
キルヒアイスが言った。
三人が同時に振り向いた。赤毛の副官は、こちらの返事を待たずに、カップを三つ並べていた。
「提督がたのことでしたら、ご心配には及びません」
湯気の立つカップが三人の前に置かれていく。
「ですが、それだけに、内へ屈しておしまいになるかもしれません。念のため、各艦隊への命令の道筋はわたしのほうで二重にしておきます」
事務的で、静かで、行き届いていた。
「五人の提督の方々のことを少しだけ、申し上げてもよろしいですか」
キルヒアイスは自分のカップを置いた。
「ファーレンハイト少将は閣下の作戦を面白がっておられました。ああいう方は戦場に出れば誰より正確に動かれます。お心に留めておかれるとよいと思います。メルカッツ大将は納得しておられません。ですが、あの方は個人的感情と職務を分けられる方です。命令には、誰より忠実に従われるはずです。シュターデン中将は――」
そこで彼は少し困ったように言葉を探した。
「……理論を、大切になさる方です」
フェリックスが噴き出しかけて、茶で誤魔化した。
キルヒアイスは何も気づかなかったような顔で、カップを取り直した。
アレクはカップを受け取った。受け取りながら、目の前の若者を見た。
この人は、あと一年半で死ぬ。
三人とも、それを知っている。
ヴェスターラントの日付も、リップシュタット戦役の終わりも。
それでいて、何一つ、言えない。
彼は三人の妙な沈黙に気づいていた。気づいた上で、何も訊かなかった。
若すぎる幕僚たちが自分を見るときの、あの奇妙な目つきについても。
カップを持つ手が少し震えていることについても。
***
夜、アレクは艦橋を出て、司令官室への通路を歩いた。
キルヒアイスが時程表を持って付き従った。
艦橋を横切るあいだに、キルヒアイスは三度、足を止めた。
当直の下士官に一度、通信席の兵に一度、配線盤を開けていた技師に一度。
そのたびに彼は相手の名を呼び、短く何かを言い、相手は少しだけ背筋を伸ばした。
名を、全部覚えているようだった。
アレクはそれを黙って見ていた。
***
司令官室の前でキルヒアイスが時程表を差し出した。
「明日の行動予定です。……まだ、お休みになりませんか。閣下」
「うん。……ああ、その」
アレクは言った。考えるより先に、口が動いていた。
「二人のときは閣下は、いいよ」
キルヒアイスは一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
年少の友人に向けるような静かな笑いかただった。
「……では、そうさせていただきます。人のいないときだけ」
彼は時程表を渡し、一歩下がってから、付け足した。
「差し出がましいことを、一つだけ」
「うん」
「今日のようなやり方は、何度も使えるものではありません。次は、別の何かが要ります。……ですが、今日は、あれしかなかったのだとも、思います」
アレクは時程表を持ったまましばらく黙っていた。
「……ありがとう」
「おやすみなさい」
赤毛の副官は一礼して、通路の向こうへ歩いていった。
***
〇四〇〇時、二万隻が動き始めた。
重い順に、遅い。駆逐艦が先に滑り出し、巡航艦が続き、戦艦が最後にゆっくりと隊列の芯に乗る。
ブリュンヒルトの艦橋では、その全部が静かな光点の流れとして映っていた。
「敵第四艦隊、予定宙域。速度変わらず」
「こちらの接近には」
「気づいていません。妨害電波発生器、全数作動中です」
数万個の小さな機械がいま、暗黒の中を漂いながら四万隻の耳と口を塞いでいる。
接触予測まであと三十分。
***
同盟軍第四艦隊旗艦レオニダスの艦橋は、その頃、静かな混乱の中にあった。
「帝国軍艦隊、急速接近!」
表示装置の全面が無数の光点で埋まっていく。
一つずつ数を増し、こちらへ膨れ上がってくる。
見ているだけで口の中が渇いた。
「――どういうことだ」
パストーレ中将は指揮官席で腰を浮かせた。
「敵は、なにを考えている」
包囲されつつある側が、包囲される前に全力で殴りかかってくる。
「第二、第六艦隊へ緊急連絡。当宙域にて敵と接触、至急の来援を請う――」
通信長が絶望の顔で首を振った。回線という回線が砂を噛むような雑音で埋まっている。
「では、連絡艇を出せ。両艦隊へ、二隻ずつだ」
小さな艇が二隻ずつ、二つの方角へ射出されていく。妨害電波の海を、肉声の手紙が泳いでいくようなものだった。届くかどうかは、届いてみなければ分からない。
怒鳴る中将の顔を表示装置の閃光が白く染めた。
敵の第一射が始まったのだった。
***
レオニダスの艦橋はそれから一時間で、指揮所の体をなさなくなった。
被弾の報告が報告の速度を追い越していく。
第七戦隊、応答なし。第十一戦隊、指揮官戦死、次席が掌握。左翼、後退――後退ではない、崩れているだけだ。
パストーレ中将はそのすべてに命令を返そうとして返しきれなかった。
命令が艦隊の端に届く頃には、届いた先がもう別の状況になっている。彼が叱咤していたのは、一手前の戦場だった。
「なにをやっているのだ、第四艦隊は……」
中将は自分の艦隊の名を他人の名のように呼んだ。
***
ブリュンヒルトの艦橋に弾着の報告が流れる。
中性子ビーム砲の斉射。
防御磁場が敵の光条を受け止めるたび、艦隊のあちこちで虹めいた明滅が起きた。
敵の応答が遅れていた。
初撃を受けてから組織的な応射が返るまでの、その数十秒。
訓練の差でも艦の差でもない、想定の差が生む遅れだった。
記録では、この瞬間に父がひとこと言っている。
アレクは何も言わなかった。
主表示の光だけが艦橋を染めていた。
「ファーレンハイト隊、
クラインが報告を読み上げ、それから少しだけ付け足した。
「……速い、です」
巨大な母艦の腹から銀色の四枚翼が零れるように湧き出ていく。
単座式戦闘艇ワルキューレ。
母艦の速度ごと切り離されるから、滑走路も射出機も要らない。
会議室で面白そうな顔をしていた男が全軍の誰より先に、動いていた。
エックス字に翼を張った銀色の艇が群れをなして敵の陣へ突き入る。
撃ち落とされた一機が炉ごと爆ぜるたび、白い光が膨れ、行き場を失った力の波が両軍の艦を揺らした。
その波を、ワルキューレは翼で切って進む。
同盟軍の単座式――スパルタニアンも応じて発進する。
艇の性能に大きな差はない。格闘に入れば、五分に近い。
だが、機先を取られていた。
母艦を離れ、翼を開ききる、その一瞬の無防備を狙い撃たれて、乗員ごと光の粒になっていく。
主表示の上では、その一つ一つが、緑の光点が消えるというそれだけの事象だった。
「敵先頭集団、崩れます」
戦闘開始から一時間で、敵第四艦隊の二六〇〇隻の先頭集団のうち、まだ戦えている艦は二割を切った。
***
同盟軍第二艦隊旗艦パトロクロスの艦橋では、パエッタ中将が他人から見えないところで貧乏ゆすりをしていた。
焦燥が艦橋全体に帯電していた。
そのなかで一人だけ、落ち着き払った顔の幕僚がいることに中将は気づいた。
「ヤン准将。この事態をどう見る」
若い准将は立ち上がり、ベレー帽を脱いで黒い髪を片手でかき回した。
「敵が各個撃破に出た、ということでしょう。最少の第四艦隊から手をつけたのは、当然の選択です」
「第四艦隊は持ちこたえられるか」
「数で劣り、機先を取られています。……難しいでしょう」
「ならば急行して救援する。あわよくば敵の側背を突ける」
「おそらく、無益です」
淡々とした声だったので、中将は危うく聞き流すところだった。
「――どういう意味だ」
「我々が着く頃には、終わっています。敵は離脱して、合流前の第六艦隊の側背に回るでしょう。手順を変えるべきです。戦場ではなく、第六艦隊とまず合流し、その宙域を新しい戦場にする。合わせて二万八〇〇〇。それなら五分以上に戦えます」
「……貴官は第四艦隊を見殺しにしろと言うのか」
「いまから行っても、間に合いません」
「友軍の危機を放置しておけるか!」
ヤン准将は軽く肩をすくめた。
「では、三個艦隊とも、順番に各個撃破の好餌になります」
「そうと決まったわけではない。第四艦隊とて、そう易々とは敗れまい。敵将は若く、経験も浅いのだ。パストーレ中将は歴戦の――」
「閣下。経験は浅くとも、ローエングラム伯の戦略構想は」
「もういい、准将」
中将は苦々しげに遮り、座れと身振りで示した。
若い幕僚は、座った。
それきり、意見を求められることはなかった。
***
開戦後、四時間。
同盟軍第四艦隊は艦隊と呼べる存在ではなくなった。
旗艦レオニダスはもう艦の用をなしていない。
ただ大きいだけの鉄の残骸が虚空を漂っていた。
艦橋が集中砲火で裂けたとき、内と外の気圧差が司令官パストーレ中将の身体を、外へ吸い出していた。
ブリュンヒルトの通信スクリーンにメルカッツ大将の顔が浮かんだ。
「敵の組織立った抵抗はやみました。このあとは掃討に移りますが」
「無用だ」
アレクは言った。
メルカッツの眠そうな両眼が、わずかに開いた。
「……は?」
「戦いはまだ三分の一だ。残敵は放置する。次に備えて戦力を温存してほしい。追って指示を出す。それまでに、隊形を整えておいてもらいたい」
一拍の間があった。
「――了解しました、司令官閣下」
重々しく頷いて、大将の姿は消えた。
フェリックスが小さく言った。
「……声の雰囲気が、変わってたな」
会議室でのそれと、同じ声ではなかった。
納得の声かどうかは、分からない。
ただ、値踏みの終わった声ではあった。
アレクは主表示の隅を見た。
漂流する光点の群れがそこに残っている。
放置された、残敵である。
彼はしばらくそれを見て、それから目を戻した。
***
「次の目標はお決めですか」
キルヒアイスが訊いた。
「第六艦隊。右の方が少ない」
「敵がそこまで読んでいるようですと、少し厄介ですが」
「していないでしょう」
答えたのはクラインだった。
「予測していれば、いまごろ合流を急いでいます。二個艦隊を合わせれば、まだ我々より多いのですから。……両艦隊とも、速度を変えていません。こちらの意図をまだ了解していない証拠です」
キルヒアイスは若い参謀の顔を見て、それから少しだけ笑った。
「……なるほど」
「移動にはどのくらいかかる」
「時計回りに針路を変えつつ進んで、四時間弱です」
即答だった。
アレクは赤毛の副官を見た。
「……もう計算してたんだね」
「性分です」
***
「それから、差し出がましいことを、もう一つ」
キルヒアイスが言った。
「四時間の余裕があります。兵に休息を取らせてはいかがでしょう」
アレクは一拍、黙った。
気づかなかったからである。
次の一手、二万隻を動かす順番は考えていた。
その二万隻の中身のことまでは、考えていなかった。
「……そうしよう。気づかなかった」
一時間半ずつの、二交替。あいだにめいめいが食事をとり、タンク・ベッドで体を休める。
指示はキルヒアイスの手ですぐに全艦へ流れた。
クラインが端末から顔を上げた。
「……記録に、あります。この休息」
***
交替で食事に立った通路で、兵たちの声がした。
「うちの若い司令官、思ったよりやるじゃないか」
「飾り人形かと思っていたがな。どうして、たいした戦さ上手だ」
「大昔のウッド提督以来かもしれんぞ」
「知らんのか、お前。ウッド提督ってのは……」
「知らん。だが、うちの司令が大したもんだってことは分かる」
三人は顔を見合わせなかった。
見合わせたら、何かを言わなければならなくなる。
褒められているのは誰なのだろう、とアレクは思った。
作戦は父のものである。
自分たちがしたのは、それを、壊さなかったことだけだ。
それでも兵たちの声は明るかった。
死なずにすんだこと、そして勝っていること。
その二つを彼らは素直に喜んでいた。
***
同盟軍第六艦隊の司令官、ムーア中将は幕僚たちと食卓を囲んでいる最中だった。
「四時半の方角に艦影。識別不能」
連絡士官の報告に、中将はナイフを置いてその士官を睨みつけた。
「四時半だと? ――どちらの四時半だ。午前か、それとも午後か」
嫌味を言いながらも、席は立った。廊下を歩きながら、わざと大きく肩をそびやかしてみせる。
「うろたえるな。敵は我々の行く手にいる。後ろにいるはずがなかろう」
「ですが、閣下」
幕僚の一人、ラップ少佐だった。
「敵は戦場を移したのでは。……第四艦隊はもう敗れていると、小官はみますが」
「大胆で、不愉快な予測だな、少佐」
中将は太い眉をしかめた。
「昼食の脂で口が滑らかになったとみえる」
少佐が赤面して引き下がったとき、一同の足元が不意に揺れた。重力制御の修正が一瞬だけ遅れたのである。艦が急激な回避運動を強いられた証拠だった。
「右後背より、敵襲――!」
通信回路が悲鳴で満ち、その悲鳴がたちまち雑音に変わった。
***
メルカッツ大将の部隊は整然たる攻撃隊形のまま、第六艦隊の右後背に食い込んだ。
ブリュンヒルトの主表示でフェリックスがその弧を見ていた。
「……綺麗なもんだ。教範に載せられる」
会議室では納得していなかった表情のメルカッツが全軍の誰より正確に命令どおりの弧を描いていた。
個人的感情と職務を分けられる方です――昨夜の茶の湯気ごと、その言葉を三人は思い出していた。
「敵艦隊、反転を始めました」
「――戦いながら、回るのか」
「……回れて、いません」
崩れていく光点の群れをクラインは数字で読み上げ、途中で、読み上げるのをやめた。
フェリックスが低く言った。
「……講義のとおりだ」
誰も、返さなかった。
***
第六艦隊司令ムーア中将は降伏勧告を拒絶し、旗艦とともに消えた。
その報告が届いたとき、ブリュンヒルトの艦橋では誰も声を上げなかった。
歓声も、なかった。
***
その夜――と言っていいのかどうか、宇宙には夜も朝もないのだが、艦内時計が夜を示す時刻に、クラインは戦況要報を起案していた。
書式は決まっている。日時、宙域、彼我兵力、経過、結果。
彼は状況欄に打ち込んだ。
同盟軍第四艦隊、第六艦隊――撃滅済み。
打ち終えて、手を離した。
一行だった。
***
主表示には、緑の光点が一つの塊だけ残っている。
一万五〇〇〇。
「……あとは、第二艦隊だけだ」
アレクが言った。
その艦隊の旗艦の艦橋の、司令官席から三番目の椅子に誰が座っているのか。
三人とも、知っていた。
同盟軍第二艦隊は速度を変えずに近づいてきた。
一万五〇〇〇。旗艦パトロクロス。艦影の解析は艦橋の階級表示までは拾わない。
だが三人は、その艦橋の司令官席から近い椅子に、誰が座っているかを知っていた。
「……来ます」
クラインが言った。
「記録より、少し速い。パエッタ中将は第四艦隊を救援に行く気です」
「行かせるか」
「行っても、間に合いません。……間に合わないことを、あの艦橋の一人だけが知っています」
三人はその一人のことを考えた。
***
戦端はあっけなく開いた。
両軍の前衛が接触し、削り合う。
こちらが数で押し、あちらが正確に応じる。
最初の一時間、盤面はこちらの優勢を静かに示していた。
そして、パトロクロスが被弾した。
「――旗艦、艦橋部に直撃。指揮系統、混乱の兆候」
主表示の中で、一万五〇〇〇の動きが一瞬、乱れた。
「傍受」
通信士の合成音声が言った。
「敵艦隊、全周波、平文。暗号化、なし」
アレクは司令官席で動かなかった。
「――流せ」
父と同じ一語をアレクは言った。
特に気負うでもない乾いた声が艦橋に流れた。
『全艦に告げる。私はパエッタ総司令官の次席幕僚、ヤン・ウェンリー准将だ』
『総司令官は負傷された。その命により、私が指揮を引き継ぐ』
一拍、間があった。
『心配するな。私の命令に従えば、助かる』
『わが艦隊はいまのところ負けている。……だが、要は、最後の瞬間に勝っていればいい』
音声が、切れた。
「戦列を組み直す」
アレクが言った。
三人はこの盤の続きを知っている。
記録では、この先、先帝である父ラインハルトは中央突破を選ぶ。紡錘陣形で真ん中を貫く。
そしてヤンは、それを逆手に取る。貫かれた左右へ分かれ、逆進して、父の後背へ回り込む。
輪になる。消耗戦になる。父は「ぶざまな陣形だ」と吐き捨てる。
そこまでが、記録である。
だが三人は、その記録の教材で、敵艦隊の全周包囲を選んで突破されている。
全周を壁にして、主砲を撃てなかった。
「クライン」
「はい」
「別の手を、出すぞ」
――用意した出口を、あの男は使わなかった。
次回、【番外編】対決!不敗の魔術師(vs ヤン・ウェンリー)(後編)。