「先に、申し上げておきます」
クラインは、盤上の球を、指で一度だけ叩いた。
「二万対一万五〇〇〇。敵の練度も低くない。この数差では、敵の殲滅は、できません」
「じゃあ、何を取るんだ」
フェリックスが訊いた。
「損害です」
クラインは言った。
「同盟軍の目的は、戦域からの撤退です。……我々が選べるのは、出ていくときに、いくら払わせるか、です。二十区画で完全包囲しても、我々が撃てるのは四区画、四千隻です」
「じゃあ、囲んでも意味ねえじゃねえか」
「あります」
クラインは、球の一箇所を、指で消した。
「ここを、四区画ぶんの『口』を開けます。口の中へ撃つぶんには、射線の先は殻の外です。味方には当たりません」
彼は、端末に数字を出した。
「同盟軍がこの口を通る場合、通過にかかる時間から――向こうの損害は、三千から四千です。取れるなら、大きい数字です」
「取れるなら?」
アレクが訊いた。
クラインは、少し黙った。
「同盟軍が用意した口を通らず、壁を無理やり破って押し通ってくる場合の試算も、出しました」
彼は、別の数字を呼び出した。
「同盟軍が壁を突破しようとするあいだ、我々は包囲体制で撃ち続けます。与えられる損害の予想は――二千から二千五百です」
数字が、卓の上に二つ並んだ。
四千と、二千五百。
フェリックスが、鼻から息を抜いた。
「口を通るより、壁を破るほうが安いな。俺なら壁を破る」
クラインは、否定しなかった。
「ですから、口は通らせるために開けるのではありません。壁を破る突破もこの兵数差では防げません。……どこで壁を突破させるかをこちらで決めさせる計画です」
アレクは、その球を見ていた。
「……『口』を開ける分、予備兵力ができるな」
「はい。四区画ぶん開けると、そこにいるはずだった兵力が浮きます。殻の外に予備として置きます。一部は口の両縁に置き、その他は壁が破られかけた区画へ先回りさせる機動予備です」
彼は、三つ目の数字を出した。
「その場合、向こうの損害は三千から四千。……口を通らせた場合とほぼ同じ計算です」
アレクは、その三つの数字を数えた。
四千。二千五百。そして、予備が間に合えば、また四千。
どちらを選ばせても、同じ額を払わせる。
それが、この盤で取れる最大値だった。
アレクはその図をしばらく見ていた。
「――クラインの案、採用だ。やるぞ」
キルヒアイスは盤上の図を見ていた。
その目にこれまでとは違う色があった。
「囲みを一つ空けるというのは、古い兵書にございます」
キルヒアイスは言った。
「ですがあれは逃げ道を与えて死兵にさせぬための手です。……これは違いますね。こういう使い方はわたしは存じません」
そして――問わなかった。なぜこの手を思いついたのかとも、本当にうまくいくのかとも、訊かなかった。ただ静かに付け足した。
「……見せていただきます」
***
帝国軍二万隻が球殻を組み替えていく。
全周ではなく、一箇所を開けた、いびつな殻。
開けた口の両縁が厚く盛り上がっていく。
同盟軍はその組み替えを、見て――動かなかった。
パトロクロスの艦橋で、ヤン・ウェンリーはその殻を見ていた。
ベレー帽を脱いで、黒い髪をかき回したいところだった。
奇妙な陣形だった。一箇所が、開いている。
「……こんな陣形見たことがありません」
艦橋のラオ少佐が言った。
「私は、あるよ」
ヤンは言った。
「……本の中でだがね。
「では、あれは、その」
「いや」
ヤンは、殻の一点を見たまま、首を振った。
「本来の意味とは違うようだ」
彼は、擬似モデルの上で、口の両縁を指した。
「あれは逃げ道を残して死にものぐるいにさせないための手だ。……だが、あの口は逃げ道にしては値段が高すぎるようだね」
「では、なぜ開けたのでしょう」
「さあ」
若い指揮官は、ベレー帽の上から頭をかきたい顔をした。
「通ってほしいなら、もっと安く見せるはずだ。……ということは通らせたいわけではないんだろう」
彼は、擬似モデルの上で、殻の厚みを一区画ずつ目で追った。
口の両縁。厚い。二千はある。
そこから先は――千。千。千。
指を止めずに、殻を一周させた。縁の二区画だけが厚く、残る十四区画は、どこも千だった。
ヤンは、頭の中で足した。
千が十四で、一万四千。縁の二千が二つで、四千。合わせて一万八千。
もう一度、数えた。やはり、一万八千だった。
「……二千、足りないな」
「は?」
「敵は二万のはずだ。壁にいるのは一万八千。残りの二千がこの殻のどこにもいない」
殻の外だろう、とヤンは見当をつけた。壁のどこが破られても、そこへ急行できるように。どちらへも動ける、中間のあたりに。
「……なるほど。留守番まで置いている」
妙だな、とヤンは思った。
第四艦隊への殴りかかり方は、若い獣の手だった。速くて、まっすぐで、ためらいがない。
「……途中で作戦参謀でも代わったかな」
「は?」
「なんでもない。独り言だよ」
まさかね、と若い指揮官は胸の中で付け足した。
「教えてもらった出口は……使わないでおこう」
彼は、擬似モデルの上に、指で道を引いた。
「まず、口の側へ寄せるふりをする。……向こうの予備は口と反対点の中間あたりにいるだろう。こちらが口へ寄ればその予備は口の側へ動く」
指が、殻の反対側へ跳んだ。
「動いた瞬間に遠いほうの守りが薄くなる。そこを急反転していちばん遠い区画へ艦隊全部で当たる。予備が戻ってくるよりこちらが破るほうが速ければ、それでいい」
言ってから、彼は自分の膝を見た。
うまくいくだろうか。いかなかったら、どうする。
……頭をかいて、ごまかすさ。
彼は、胸のうちで、そう自分に返した。
***
「――敵艦隊、口の方向へ移動します」
クラインが言った。
「来ました。……予備を口の側へ寄せます」
殻の外で、二千の予備がゆっくりと口の側へ滑っていく。
その瞬間だった。
「――反転!敵艦隊、急反転!」
一万五〇〇〇の緑が口の方向を捨てて、殻の反対側へ、雪崩を打った。
予備が寄った、その逆。いちばん遠い、いちばん薄い区画へ。
「予備、戻せ! 急げ!」
フェリックスが叫んだ。
二千の予備が慣性を殺し、向きを変え、逆へ走りだす。
だが、殻は大きい。反対側までは遠い。
「……間に合いません」
一万五千の斉射が、千の壁に集中した。
主表示の一点が白く飽和した。飽和が引いたとき、そこに残っている光点は、まばらだった。
壁に、口が開いた。ヤン・ウェンリーが自分で開けた口だった。
「敵艦隊、突破。……自分で開けた穴から出ていきます」
回廊の縁では、ファーレンハイト隊が砲門を開いたまま待っていた。
通る者は、最後まで来なかった。
通信に、短い舌打ちだけが載った。
「敵損害、集計出ます」
クラインが言った。
「――二千四百」
見積りより、下だった。
囲んだ。口を用意した。予備を残した。
そのうえで、ヤン・ウェンリーはこちらの備えの一つ先を行った。
「追撃なさいますか」
クラインが訊いた。
「敵は突破後も統制を保っています。追えば、こちらも縁の厚みを崩すことになります。殲滅はできません。……こちらの損害だけが確実に増えます」
軍人としての答えは、そこにあった。追う理由が、ない。
だが、アレクにはもう一つ、理由があった。
あの艦隊は、これから人を拾いに行く。放置された第四艦隊と第六艦隊の生存者を。
拾われた者たちは、やがて、この帝国の前にもう一度立つ。
それを、知っていた。
知っていて――
「……追わない」
***
アレクは司令官席でその散らばりを見ていた。
そして、隣を見た。
キルヒアイスが、立っていた。
赤毛の副官はその散らばりを静かに見ていた。
敵が、敵の味方を、拾っている。その光景を、彼は、咎めなかった。
記録では、この少しあとに、父が副官に問う。
――あの男の名は、なんと言ったかな。
そして副官が、答える。
――ヤン准将でした。
この艦橋では、その問いが、来なかった。
アレクは名を知っていた。訊く必要が、なかった。
この艦橋の三人は全員、その名をよく知っていた。
だから、キルヒアイスが名を答える、その機会は、来なかった。
***
アレクは通信士を呼んだ。
「敵の指揮官に電文を送る。私の名で――いや」
彼は一度、言葉を切った。私の名。この艦橋でそれが誰の名を指すのか自分でも分からなかった。
「……司令官名で、送ってくれ。文面は――今日の貴官の戦いに敬意を。次に会う日まで、息災で、と」
言ってから、気づいた。それは記録にある電文とほとんど同じ文面だった。父が送ったものと。考えて選んだのではなかった。この盤面の終わりに、あの男へ言うべきことを探すと、そこへ着いた。
電文は送られた。
***
パトロクロスの艦橋では、ヤン・ウェンリーが栄養剤入りの飲料を、紙コップで流しこんでいた。
負けた側の指揮官には、休む間がない。
ほんとうの仕事は勝敗が決まったあとに始まる。
「司令官代理どの。帝国軍から通信が入っております」
ラオ少佐は抑えきれない好奇の色を顔じゅうに浮かべていた。
「電文?いいよ、読んでくれ」
「はっ。読みます。……『貴官の勇戦に、敬意を表する。再戦の日まで、壮健であれ』。以上です」
「勇戦、ときたか。……恐縮するね」
今度会ったら叩き潰してやるぞ、ということかな、とヤンは理解した。
子供っぽい話だが、不思議と悪い気はしなかった。
「返電、なさいますか」
「先方もそんなものは期待していないさ。放っておいて」
彼は紙コップを置いた。
「それより、生き残りの収容を急いでほしい。助けられるだけは、助けたいんだ」
ラオ少佐が下がると、ヤンの目は操作卓のわきの床へ落ちた。
紙が一枚、落ちている。戦闘の前に、パエッタ中将へ提出した作戦提案書だった。
却下、の印字ごと床にあった。
彼の口の端に、苦いものがのぼった。
自分の読みが当たっていたことを、こんな結果で思い知らされるのは、望むところではなかった。
それから、ふと思い出したように、彼はつぶやいた。誰に、というのでもなかった。
「高い買い物になったな。……売り値を決めたのは向こうさんだ」
***
「オーディンへ帰還する。全艦隊、隊列を整えろ」
命令が、流れた。
戦いは、終わった。勝った。第四・第六艦隊は壊滅し、第二艦隊は離脱した。
会戦の結末は第二艦隊の損害が史実よりもかなり多い以外は、記録のとおりだった。
帰還の隊列が整うまで、艦橋はしばらく静かだった。
フェリックスは戦闘記録の照合に呼ばれ、クラインは損害集計の卓に着いていた。
司令官席のまわりに人がいなくなった。
キルヒアイスが、一人、残っていた。
窓の外を、後退していく星々が流れていた。
ワープに入るまでの短い実空間航行の時間だった。
「……キルヒアイス、大佐」
アレクは口を開いた。
「あなたはこの一年半のあいだに――」
そこで、声が出なくなった。
続きを言おうとした。
降伏した敵に気をつけてほしい。
謁見では、丸腰の相手でも、武器を
言葉は、頭の中にはっきりとある。
だが、口にしようとすると、喉から先へ、出てこない。
「……いや。なんでもない。忘れてください」
言えたのは、それだけだった。
キルヒアイスは何も訊かなかった。
長い沈黙が二人のあいだにあった。
やがて、キルヒアイスのほうが静かに口を開いた。
「……一つだけ、似ておいでのところが、あります」
アレクは顔を上げた。
似ている、という言葉を、この人は軽々しく使わないだろう。
「お顔のことでは、ありません。……そうでは、なく」
キルヒアイスは少し言葉を探した。
「勝ったあとに、勝った顔をなさらない。それだけです」
彼は窓の外へ目を移した。
「ラインハルトさまは成し遂げられたのですね」
独り言のようだった。誰に確かめるのでもない、遠くを見る声だった。
「あの方が見ておられたものの、その先まで。……よい世に、なったのでしょうか」
決壊したのは、その一言だった。
「成し遂げたのは、父だ。僕じゃない。僕は……今日、勝ったのか、負けたのか、それすら、分からない。父の作戦をなぞっただけで、その後の策を立てたのもクラインだ。僕じゃない!」
言葉が堰を切って出てきた。抑えていたものが、この人の前でだけ抑えられなかった。
「僕には父の才はない。敵は全体では二倍でも、一つずつならこちらが多い――あの各個撃破の発想と実行を、その場で思いついて、しかも歴戦の提督たちの反対を押し切って、やるなんてことは、僕なんかにはとてもできない。皇帝の器じゃないんだ。それは、僕が一番よく知っている」
声が、揺れていた。
「なのに、みんな僕を父の続きだと期待している。ローエングラム王朝の、二代目。父が遺したものを僕が継いで守って大きくすると、そう勝手に思い込んでる。……僕の顔を見ても父を見てる。僕の名前を呼んでも父を呼んでるんだ!」
彼は自分の手のひらを見た。会議で卓を叩いた、あの手だった。
「今日だってそうだ。この椅子は父の椅子だ。僕の椅子じゃない。僕はどこにも――」
そこで、言葉が切れた。
キルヒアイスはしばらく黙っていた。
すぐには言葉が出ないようだった。
「……わたしは、あの方がまだ何者でもなかった頃を知っています」
やがて、ぽつりと言った。
「貧しい
彼は遠くを見た。
「その方が、今日あなたの座っておられるその席にいました。二十歳で。……いまのあなたと同じ年ごろで」
アレクは顔を上げた。
「才のことはわたしには何とも言えません。ですが」
キルヒアイスは言葉を選ぶように、間を置いた。
「今日あの提督たちが黙ったのは、ヴァルター参謀が数字を並べたからではありません。あの策をとったのも追撃をしなかったのも。あなたがそう決めたからです」
キルヒアイスは少し困ったような顔をした。
「……差し出がましいことを、申しました」
言いすぎた、と思ったときの顔だった。
「わたしはあの方の副官です。参謀でも軍師でもありません。ですからうまくは申せません」
彼は窓の外を見た。
「才のある方ならあの方のほかにもおいででした。あの方はその方たちにも勝ちました。……なぜかとはわたしにもうまく言えません」
一拍、間があった。
「ただ、あの方は最後までご自分で決めておられました。うまくいかなかったときも、決めたのはご自分だと。それだけは譲られませんでした」
アレクは何も言えなかった。
目の奥が、熱かった。
泣くわけにはいかない、と思った。皇帝は泣かない。そう教えられてきた。
それから、ここには二人しかいないことを、思い出した。
「……ありがとう」
やっと、それだけ言った。
キルヒアイスは頷いた。
「わたしのほうこそ余計なことを申しました。……お忘れください」
「いや」
「オーディンに着きましたら温かいものを召し上がってください。今日はよくお働きになりました」
母親のような、兄のような、そのどちらでもない、ただ優しいだけの声だった。
この声が、あと一年半で消える。
そのことを、アレクは、やはり言えなかった。
***
司令官室で、アレクは一人になった。
勝利の報告書が端末に表示されている。書式は決まっている。日時、宙域、彼我兵力、経過、結果、そして――発令者。
彼は経過を書いた。結果を書いた。
最後に、発令者の欄に来た。
署名を、しようとした。
そして、手が、止まった。
署名する名前が、なかった。
自分は、この夢の中で、誰でもなかった。
父の椅子に座り、父の作戦を打ち、父の勝利をなぞり、そして――歴史にない一手を、一つだけ引き出した。
その一手を、誰の名で記録すればいいのか。
発令者の欄は、空白だった。
彼はその空白をしばらく見ていた。
***
目を開けた。
寝台の天井。士官学校の、消灯後の、青い闇。
三人はそれぞれの部屋で同時に目を開けていた。互いに、それを知らないまま。
アレクは天井を見上げた。
自分が父の椅子に座った夢を見た、と、誰かに言えるか。父の作戦で勝ち、勝った気が、一度もしなかった、と。……言えるわけがない。
***
フェリックスは天井を見ていた。
タンク・ベッドで休む兵を思い出していた。
数時間後にまた撃ち合うために、休ませていた。回復とは、そういう意味だった。
彼は寝返りを打って、目を閉じた。
***
クラインも、天井を見ていた。
読みは、当たっていた。
口は通らない。反対側へ来る。そこまでは、書いたとおりだった。
外れていないのに、二千四百だった。
自分は、盤を読んだ。
あの人は、盤を読んでいる者を、読んだ。
同じ「読む」でいいのだろうか、と彼は思った。
答えは、出なかった。
***
三つの寝台で、三人はやがて、また眠りに落ちた。
朝が、近かった。
――その答案には、『父』という語は一度も現れなかった。
次回、『模範答案』