銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二十九話「次の点呼」(新帝国暦二〇年秋)

【新帝国暦二〇年秋 帝国軍士官学校・受領窓口 フェリックス】

 

二年前、新入生だったフェリックス・ミッターマイヤーはこの窓口の外側で踵の硬い官給の軍靴を受け取った。履き慣らすまでに数週間はかかる靴である。

 

新帝国暦二〇年秋。

今度は彼が窓口の内側に立っていた。

新入生の受け入れを補助するのが第三学年の仕事である。

帝国軍士官学校はこの秋も三千名を迎えていた。

差し出す軍靴を左右間違える者がいた。

紐の締め方が分からず隣の者の手元を盗み見る者がいた。

 

「あの、東の四番寮はどちらですか」

新入生の一人が訊いた。

フェリックスは廊下の先を指で示し、それから少し遅れて付け加えた。

「シミュレータ棟に近い側だ。夜中に地面が揺れる」

 

新入生は不安そうな顔をしてさらに訊いた。

「眠れますか」

 

「すぐに慣れる」

窓の外を第三学年の一個区隊が行進していく。

揃った足音が石畳を打つ。

新入生の一団がそれを見て小さく言った。

「俺たちも二年もすればああなるのかな」

 

フェリックスは振り返らなかった。

ただ、次の靴を取る手つきが少しだけ丁寧になった。

 

 

***

 

 

【同日朝 新入生寮棟前 アレク】

 

新入生区隊の最初の点呼である。

新帝国は入学資格を家名では決めない。だから列には数こそ多くないが、旧同盟領から入ってきた者も混じっている。

週番士官が名簿を読み上げていく。

姓名、同じ速度、同じ抑揚。

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム――新帝国の第二代皇帝にして士官学校第三学年候補生――は受け入れ補助として列の外に立ち、それを聞いていた。

 

二年前の入校の日を彼は憶えている。

同期全員が皇帝への忠誠を宣誓する式典で、ただ一人宣誓の宛先を持たなかった日のことを。

同じ速度の点呼が続いていく。

「――ツァウ・リイ」

返事がない。

週番士官が顔を上げ、もう一度読んだ。

「ツァウ・リイ」

沈黙。

名簿には「ツァウ・リイ」とあった。

だが列の中には自分の名を一度も呼ばれなかった少年が一人いた。

浅黒い、緊張で肩の上がった少年である。

本人もそれが自分のことだとは分かっていない。

「未着」

書記が名簿に印をつけた。

最後の名まで読み終えたところで週番士官が列を見渡した。並んだ頭数より返事の数が一つ足りない。

「名を呼ばれなかった者。前へ」

 

浅黒い少年がおそるおそる進み出た。

仮入校票には『リー・ツァオ』とある。名簿にはその名がない。

週番士官は票と名簿を見比べた。

「……旧同盟のE式姓名表記か」

旧同盟領の住民の中には姓、名の順で表記される者もある。

帝国の名簿は名、姓の順を前提としている。

移管の際、欄の順序を読み替えないままさらに発音だけ帝国式に転写されたらしい。

リー・ツァオは名簿の上では「ツァウ・リイ」になっていた。

「事務棟で照合を受けろ。それまでは身元確認中とする」

 

名簿の「ツァウ・リイ」の欄には未着の印が残ったままになった。

アレクはそれを列の外から見ていた。

 

 

***

 

 

【同日午前 基礎教練場 フェリックス】

 

「右から来たらこう避けて、こうだ」

 

「――『こう』では分かりません、師匠」

 

「師匠じゃねえ」

白兵教練の補助に回されたフェリックスは早くも行き詰まっていた。

本人は感覚で動く。動けるが説明ができない。

新入生が見よう見まねで足を出し、盛大に転んだ。

「違う。だからこうだって」

 

「先ほどと同じことしか言っておられません、師匠。腕を見るのでしょうか」

 

「だから師匠じゃ――」

 

「相手の腕を見ているのではない」

声は横から来た。

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクが腕を組んで教練場の端に立っていた。

「ミッターマイヤーは相手の肩が前へ出るより先に重心を移している。腕ではなく肩を見ている」

 

「見てねえよ、そんなの」

 

「見ている。自覚していないだけだ」

 

ハインリヒは新入生に向き直り、動作を一つずつ区切った。

「一、相手の肩を見る。二、軸足へ重心を移す。三、半歩だけ外へ出る。四、相手の力を前へ流す。以上だ」

新入生がそのとおりに動いた。

今度は転ばなかった。打ち込んだ側が勢いを流されて膝をついた。

「ありがとうございます、師匠方!」

 

「複数にするな」

フェリックスは吐き捨てた。

だがしばらくして別の新入生に足運びを教えるとき、彼は言った。

「いいか。一、相手の肩を見る。二、軸足へ――」

教練場の反対側でハインリヒが一瞬こちらを見た気がした。

フェリックスは見なかったことにした。

 

 

***

 

 

【同日午前 基礎教練場 アレク】

 

教練場のもう一方の隅ではアレクが基礎組み手の手本を受け持っていた。

新入生が一人、彼の前に立たされる。

名札の順で機械的に組まされた、それだけの相手である。

型どおりに構え、型どおりに踏み込み――寸前で拳が止まった。

相手の顔に遅れて理解が上ってくる。

自分がいま誰と組まされているのかに、たったいま気づいたのだ。

 

これをアレクは二年前に知った。

フェリックス以外の同期の誰もが彼にだけは寸前で力を抜く。

あのころそれがたまらなかった。

候補生の列にいて、候補生になれない気がした

 

今日アレクは止まった拳を咎めなかった。

相手が三度、寸前で止めるのを三度ともそのまま受けた。

そして組み手が終わってから静かに言った。

「君は打ち込む前に一度、左の踵が浮く。癖だ。実戦ではそこを取られる」

 

新入生が目を見開いた。

自分でも知らなかった癖である。

「……どうしてお分かりになるのですか」

 

「僕の前ではみんな、ずいぶん行儀よく打ってくれるからね」

冗談の顔をした事実であった。

新入生は笑っていいものかどうか分からない顔をした。

アレクが小さく頷いてやると、ようやく恐るおそる笑った。

 

打ち込まれない二年のあいだにアレクの目だけが妙に肥えた。

拳の届かない距離の分だけ見えるものが増えた。

同期のほぼ全員について彼は癖を一つずつ言える。

――一度でいいから綺麗に投げ飛ばされてみたい。

そう思ってから彼はその思いをいつものように畳んだ。

願えば誰かが叶えてくれる齢ではもうなかった。

それに許可のほうなら――とっくに一人だけ持っている者がいる。

教練場の反対側でその男が新入生をまた一人、盛大に転ばせていた。

アレクは少しだけ笑った。

 

 

***

 

 

【同日昼 士官学校食堂 クライン】

 

新入生三千名分の配膳は初日から混乱していた。

クライン・ヴァルターが配膳補助の持ち場から入口へ目をやると、そこではトビアス・ブリュックナーが手帳を片手に区隊ごとの人数を突き合わせていた。

 

「……おかしいぞ、これ」

 

「何がですか」

 

「新入生の第四十二区隊な。実際に食堂へ入ったのは三十九人だ」

トビアスは点呼記録の写しを指で叩いた。

「正式名簿は四十人。返事をしたのが三十九人で『ツァウ・リイ』が未着。ところが別紙には『リー・ツァオ、身元確認中』が一人いる」

 

「同一人物でしょう」

 

「たぶんな」

トビアスは手帳を一枚めくった。

「寮の寝具申請は四十。実際の頭数どおりだ。ところが食券の発行台帳は四十一。『ツァウ・リイ』と『リー・ツァオ』の両方に一枚ずつ出てる。一人の人間が書類の上で二人になってる」

 

食堂の入口の外にその一人はいた。

 

仮入校票には「リー・ツァオ」。手渡された食券には「ツァウ・リイ」。氏名が一致しないため係が通せずにいる。

 

係の側にも悪意はない。氏名の一致を確認するのが係の仕事である。

そこへ盆を持った候補生が一人、列の脇から歩いてきた。

赤みがかった橙色の髪。

カーラ・ビッテンフェルトは事情を訊かなかった。

自分の盆を少年の手に押しつけた。

「冷める」

それだけ言って歩き出した。

 

少年が慌てて声を上げる。

「あの、自分は――」

カーラは足を止めなかった。

彼女はこの日も食堂の列には並ばず、それでいてしばらくすると、どこからかもう一枚の盆を持ってきて窓際の席で普通に食べていた。

どういう理屈でそうなるのかはクラインにも分からなかった。

 

 

***

 

 

【同日午後 事務棟 クライン】

 

クラインは午後、書類整理の補助に入った。

そこで二通の名簿が、彼の手の中で突き合わさった。

 

寮名簿の氏名は「ツァウ・リイ」。帝国式の記載である。

食堂台帳の氏名は「リー・ツァオ」。出身地の原簿から写された、旧同盟式の順序である。

生年月日、受験番号、出身惑星。すべて同一。

一人の人間が、書類の上では二人に分かれていた。

 

「仮番号で処理して、後日統合すればよい。今日は無理だ」

担当の事務官が言った。

疲れてはいるが、悪意はない。三千名分の書類が、彼の机には積まれている。

「いま、訂正はできないのですか」

 

「寮務、教務、給養の三課にまたがっている。ここで一つを直しても、別の二つが残る」

 

「後日とは、いつですか」

 

「……手が空いたときだ」

クラインは反論しなかった。

代わりに、廊下で待たせていた本人を呼んだ。

浅黒い少年が、直立して入ってくる。

「あなたの名を、あなたの書く順序で、ここに書いてください」

 

少年は一瞬、事務官とクラインを見比べた。

それから紙に、ペンを走らせた。

リー・ツァオ。

姓が先、名が後。少し右上がりの、硬い字だった。

クラインはその紙を受け取り、二通の名簿の上へ、静かに置いた。

 

「本人の自署です。これで、どちらが誤りであるかは決まりました」

事務官は紙を見た。

しばらくしてから、小さく首を振った。

「わかった。手続は進めるがどうしても時間はかかる」

 

 

***

 

 

【同日夕刻 空き教室 ハインリヒ】

 

日が落ちる頃になってもハインリヒは教室を離れなかった。

 

帝国軍の略語を一つ書いては説明し、また一つ書く。

前に座るのは数名の新入生――いずれも旧同盟領の出身者で、母国語が異なる。

教練要綱の理解に不安があるのだという。

廊下からフェリックスが顔だけ突き込んできた。

「お前、補習係だったのか」

 

「違う」

 

「じゃあなんでやってんだ」

 

「誤って覚えた者を隊列へ入れれば全員が困る」

フェリックスは肩をすくめて行ってしまった。

ハインリヒは端末に戻った。誰にも頼まれていない。

全員が頷くまで彼は次の頁へ進まなかった。

 

机の端に封筒が一通置かれていた。

差出人は弟のエルンスト・フォン・アイゼンベルク。

帝国軍幼年学校の生徒である。

補習が終わり、新入生たちが礼を言って出ていき、教室が空になってから彼は封を切った。

 

――兄上。今学期の席次が少し下がりました。心配はいりません。

 

短い手紙だった。

彼は、心配はいりません、の一行を二度読んだ。

それから机に向かい、新しい紙を広げて書き始めた。

弟のための学習予定表である。

 

書き込んだのは勉強時間ではなかった。

睡眠の欄を増やし、これまでより一時間長くとらせるよう修正した。

 

 

***

 

 

【同日夜 事務棟前 アレク】

 

名簿の訂正はその日の各所には間に合わなかった。

「陛下のご指示であればただちに全台帳を訂正いたします」

事務官はそう言った。

アレクが皇帝として一言命じればすぐに終わる話である。

「僕の名では直さないでください」

 

事務官が顔を上げた。

「正規の手続で直してください。……ただし明朝の点呼までに」

 

「恐れながら、通常の処理では三日を頂いております」

 

「では、どこで三日かかるのかを教えてください」

訊いてみれば単純なことだった。

訂正届は教務、寮務、給養の三課を回る。そして課と課の間を承認済みの書類を持った人間が歩いて運ぶ。その者の手が今夜は三千名分の書類で塞がっていた。

「同じ不一致はほかにありませんか」

 

事務官は机の端の書類の山へ目をやった。

「照合待ちがあと四件ございます」

 

「それも一緒に。……受入期間のあいだだけでも担当者が封緘した訂正票を、受入補助の候補生が各課へ持参して持ち回り、一日で手続をする手順にはできませんか」

事務官はしばらく考え、上席へ連絡を取った。

受入期間中の臨時手順として許可が下りた。

照合待ちの五件が同じ手順で動き始めた。

 

「アレク。お前が命令すれば一分で解決するだろ」

同行していたフェリックスが言った。

 

「それでは、僕がいなくても動く制度にはならない」

 

 

***

 

 

【翌朝 新入生寮棟前 アレク】

 

眼下で週番士官が名簿を読み上げていく。

昨日と同じ速度、同じ抑揚。

その指が差し替えられた一枚に届いた。

週番士官は一度だけ列へ目を上げ、浅黒い少年の顔を確かめてから読んだ。

 

「――リー・ツァオ」

 

「はい!」

 

返事は離れた回廊のアレクのところまで届いた。

ただ名簿の横に出席の印がつき、点呼は次の名へ進んだ。

朝の光の中で、点呼は同じ速度で続いていた。




――帝国軍の三脚架 対 候補生五人。うち一人は皇帝。

次回、『十一秒(前編)』
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