銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第三十話「十一秒(前編)」(新帝国暦二十一年秋)

【新帝国暦二十一年秋 帝国軍士官学校・本館前廊 トビアス】

 

あれから季節が一巡した。

トビアスたちは四年生になった。士官学校で彼らより上の学年はもういない。

昨秋、賭け方から教えた新入生たちは、いまではこの秋に入ってきた後輩へ、戦史再演で扱った会戦を自分が実際に戦場で見分したかのように語るようになった。

胴元であるトビアス・ブリュックナーの賭けの帳面も、候補生の対戦や演習が増えるごとに厚くなっていた。

 

そして四年生になった最初の秋。

今いちばん熱い賭けの対象がこの掲示だった。

昼を待たずに掲示の前は人で埋まった。

トビアスは人垣の後ろに伸び上がりもせず立っていた。

何が書いてあるかは前の連中の反応でだいたい分かる。

 

前のほうで誰かが低く言った。

「今年は誰が行くんだ」

その声には羨望よりも、もっと湿ったものが混じっていた。

乗艦実習そのものは珍しくなかった。

二年次から候補生は毎年、現役艦隊へ散らされる。航海、通信、砲術、機関、補給。正規乗員の背後につき、当直へ入り、命令を受け、復唱し、艦を動かすことを学ぶ。

第三学年の終わりには全員が実艦統合実習を受ける。

トビアスたちもこの夏までに、個艦勤務と小規模な戦術運動の評価を終えていた。

 

ただし、その先の通称『評価戦』へ進む年度代表班は一つしかない。

正式名称は『実艦統合指揮課程・対抗評価戦実施班』。

過去三年間の成績から選ばれた五人の班が司令部の主要五職に就く。通信、航法、情報などには正規幕僚の補佐がつくが、作戦判断とそれに基づく命令は五人に委ねられる。

 

本物の分艦隊を預かり、第一線級の現役士官が指揮する教導隊と一戦を交える。

そして、その評価戦に勝った候補生の班はまだいない。

だから「誰が行く」という声は半分が羨望で、もう半分は別のことを言っていた。

今年は誰が負けに行くのか。

 

 

***

 

 

誰かが掲示を読み上げた。

 

「指揮官、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム候補生」

 

ざわめきが一拍遅れて廊下の天井に当たった。

 

「作戦幕僚、クライン・ヴァルター候補生。実動指揮、フェリックス・ミッターマイヤー候補生」

 

下級生の人垣のどこかから小さく声がした。

「師匠、いや先生だ」

フェリックスが振り向くより早く、人垣全体が知らない顔をした。

 

フェリックスの学科成績は、取り立てて目立つものではない。

戦史、軍制、兵站、語学まで総合すれば、学年のちょうど中ほどを行き来している。答案用紙の上では、彼より上にいる候補生はいくらでもいた。

 

だが実技になると話が変わる。

 

操艦、艦隊運動、状況判断。

命令を受けてから艦が動き出すまでの時間が、ほかの候補生より短い。考えていないのではない。考え終わるのが早い。

進むか退くか、右へ振るか左へ抜けるか。ほかの者が選択肢を並べているあいだに、フェリックスの艦隊はもう動いている。

 

早く、そして速い。

 

演習で一度でもその背中を追わされた候補生からは、半ば敬意を込め、半ば諦めを込めて言われていた。

――さすが、疾風ウォルフの子だ。

 

ここまでは、賭けの胴元であるトビアスの帳面でも本命だった。

驚く者も少ない。

 

「砲術長、ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク候補生」

 

これも順当だ。砲術課程も含めた総合成績の首席である。

ただ、人垣の何人かがちらりと目を見交わした。

声には出さない。出さないが、目は言っていた。

――砲術長。指揮官では、なく。

 

「補給幕僚――」

読み上げた男がそこで一度つかえた。

「ブリュックナー?」

人垣がいっせいに振り返り、トビアスは自分の顔から表情が落ちるのを感じた。

 

彼の帳面には同期全員の倍率が付いている。

付いていない名前は一つだけだった。

胴元は自分に賭けない。賭けないから考えたこともなかったのである。

「……おい、トビアス。自分の倍率はいくつだった」

誰かが笑い、トビアスも笑い返した。

半拍、遅れた。

 

 

***

 

 

クラインは、選考基準の頁を読んでいた。

作戦幕僚職の基準は二行だった。

 ・これまでの演習・実習で提出済み敵情判断の的中率。

 ・これまでの演習・実習で起案した作戦案の採用実績。

三年かけて自分の学科や実技の席次は調整してきた。

上位は取らない。下位にも落ちない。誰の記憶にも残らない位置に自分を置き続けた。

 

だが演習の敵情判断書と作戦案は別だった。

外れると分かっている判断や作戦を書いて提出することは一度もしなかった。

三年分の的中率が教務課の評価の中では正確に積み上がっていたのである。

 

 

***

 

 

【同・本館前廊 アレク】

 

自分の名の横には指揮官、とあった。

胸に浮かんだ最初のものは喜びではなかった。

 

――また皇帝だからか。

 

掲示の脇には教務の当直士官が立っていた。

質問を受けるための配置である。もっとも、例年は、質問をする者などあまりいない。

今年は背筋の伸びた候補生が一人、進み出た。

「質問があります」

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク候補生は直立のまま言った。

「指揮官職の選考基準を伺いたい。私はこれまでの演習・実習を通算した総合評価で、ローエングラム候補生を大きく上回っています」

 

事実だった。廊下の空気がすこし薄くなった。

当直士官は綴りを繰り、該当の頁を開いて読み上げた。

 

「総合評価はそのとおりだ。総合評価は席次を定める。だが、対抗評価戦実施班の役職は職ごとの選考基準によって決まる」

士官は頁を一枚めくった。

「指揮官職については、評価済みの幕僚運用時間を主たる選考基準とする。過去三年間の大小の演習・実習において、ローエングラム候補生は作戦、実動、砲術、補給の各担当へ任務を分配し、その成果を統合した時間が評価されている」

士官は頁へ目を落とした。

「貴官の自己完遂率は全候補生中もっとも高い。反面、幕僚へ判断を委ねた評価済み時間はローエングラム候補生の三分の一に満たない」

 

間があった。

複数名で臨んだ演習でもハインリヒは判断の核心を自分の手に残してきた。

誰の手も借りなかったのではない。

借りても、預けなかった。

個人として高い総合評価が、指揮官職の基準では短い幕僚運用時間として読み替えられていた。

 

当直士官の答えはハインリヒへ向けられたものだった。

だが、アレクも聞いていた。

少なくとも選考表が数えていたのは家名ではなかった。

幾度もの演習・実習で誰に何を任せ、その働きをどう統合したかだった。

疑いがきれいに消えたわけではない。

ただ、指揮官の欄から逃げる理由もなくなった。

 

ハインリヒの背筋は動かなかった。

踵が鳴り、敬礼の角度は教範のとおりだった。

「了解しました。……不服はありません」

回れ右も教範のとおりだった。

人垣が割れて道を空け、まっすぐな背中が廊下の奥へ遠ざかっていった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十一年 帝都近傍軍港・演習配属艦 フェリックス】

 

舷梯(タラップ)を渡りきったところで、フェリックスの足が一度だけ止まった。

 

初めてではない。

二年次の乗艦実習でも、三年次の巡航実習でも、何週間も同じ床を踏んだ。

艦内の空気も、機関の震えも、靴底から上がってくる細かな振動も知っている。

だが、これまで彼は正規乗員の後ろに立っていた。

命令を受け、復唱し、実行する側だった。

今回は違う。

彼らの言葉が命令となり乗員が動く。

 

後ろでクラインが立ち止まる気配はなかった。

アレクも止まらなかった。

止まったのは自分だけだと気づいて、フェリックスは半歩で列に戻った。

 

格納庫甲板に出迎えの列があった。

正規の乗員である。

この艦は演習のために建てられた実習船ではない。

就役して十一年、辺境の哨戒航路を回り続けてきた大型巡航艦だった。

今回の評価戦に合わせ、第三甲板には臨時の分艦隊司令部区画が増設されている。乗っている三九〇人にはそれぞれの持ち場と、それぞれの年数があった。

 

列の先頭に艦長が立っていた。

 

五十年配の大佐だった。

艦の照明で漂白されたような顔色をしていた。

艦長は五人の候補生に敬礼した。

正確な教範どおりの敬礼だった。

アレクを含め五人の誰に対しても同じ角度だった。

そして、それだけだった。

歓迎も値踏みの露骨さもそこにはなかった。

ただ温度がなかった。

 

「本艦は本日より諸君の旗艦となる。戦術運用について艦をお預けする」

艦長は五人を見渡した。

「航海、保安、機関、および乗員の生命に関する最終権限は私にある。だが、私が止めないかぎり諸君の命令は本艦の正規命令として実行される」

一拍置いて付け加えた。

「司令部要員の居住区は第三甲板」

それで終わりだった。

艦長は正確な、だが温度のない敬礼の後に回れ右をした。

乗員の列が崩れてそれぞれの持ち場へ散っていった。

三九〇人の艦は、五人が乗ってくる前とまったく同じ音で動き続けていた。

 

第三甲板への通路でクラインが前を向いたまま言った。

「値踏みをされましたね」

 

「どこがだよ」フェリックスは振り返った。

「何も見てなかったぞ、あの艦長」

 

「見ないという値踏みです。見る価値を認めていない」

 

「……で、どうなんだ」

 

「妥当です」

 

 

***

 

 

司令部区画で監督官が待っていた。

演習統裁部から派遣された中佐で、五人の名を綴りで確認すると前置きなしに訓示を始めた。

 

「本課程において諸君は学生司令部要員である。戦術運用に関して諸君の発する命令は有効である」

中佐はそこで一度、言葉を切った。

「間違いも有効だという意味だ」

 

誰も何も言わなかった。

 

「本艦の三九〇人は諸君の命令どおりに動く。その命令は正規の指揮系統を通じて、麾下の千五百隻へ伝わる。誤った針路も、命じられた艦は正確に走る。取り消しの命令が届くまで、誤りは艦隊の速度で進み続ける」

中佐は綴りを閉じた。

「以上だ。質問は」

 

「ありません」とアレクが答えた。

 

監督官が出ていき、扉が閉まった。

アレクはしばらく黙っていた。

 

三九〇人。

その先に千五百隻。

 

彼らは命令する権利を与えられた。

だが信頼はまだ与えられていない。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十一年 演習配属艦・司令部区画 クライン】

 

評価戦の作戦命令は出港の四十時間前に届いた。

クラインはそれを読んだ。

「我々の相手は常設教導隊。『敵役』の専門家です」

クラインは命令書の添付資料を卓の中央へ滑らせた。

「軍には、はじめから演習の敵であることを任務とする部隊が置かれています。もっとも、部隊そのものは常設ですが、指揮官と主要幕僚は常任ではありません」

 

「交代するのか」

 

「任官後およそ十年。艦隊勤務で上位の評価を得た一線級の士官が二年から三年、教導勤務に出向します。相手は士官候補生や訓練部隊。来る艦隊を来るたびに負かす。なぜ負けたかを記録して返す。そして任期が終われば、その記録を持って艦隊へ戻る」

クラインは三人の名が並んだ頁を開いた。

「現在の教導隊は、同じ卒業期から三人まとめて出向に来ています。新帝国暦十四年、ステュクス宙域ですでに三人で一つの指揮系統として働いた実績がある三人組です」

 

クラインが添付資料の名を読み上げた。

「アルブレヒト・フォン・ミュッケンベルガー大佐。チェンイー・シェパード大佐。レオンハルト・リヒター大佐」

 

アレクの指が資料の一行で止まった。

「……ミュッケンベルガー」

 

あの(・・)ミュッケンベルガー元帥の孫だな。会ったことあるのか」

 

「九年前に一度だけ。ここの卒業生総代だった」

それ以上は言わなかった。

 

「三個の戦隊に指揮官が一人ずつ。三人の大佐が対等に並ぶ編制です。異例ですが、三人で一つ、として運用されているようです」

 

「渾名まで付いてるぞ」トビアスが資料の隅を指した。

「なになに……『番頭』アルブレヒト、『羊飼い』シェパードに、『鉄面』リヒター。三人まとめて三脚架(ドライフース)、一つの脚立か。誰がうまいこと言えと」

笑いはそこまでだった。

 

「戦域は」

フェリックスが訊いた。

 

「第七演習宙域。廃棄資材集積帯です」

クラインは添付の宙域図を開いた。

「解体待ちの退役艦、投棄された旧訓練用の標定物、資材の破片。位置の判っているものは、図に落ちています」

 

「……艦の墓場だな」

 

「航行障害物。図では、そう分類されています。兵力比も出ています」

クラインは数字の頁を開いた。

「教導隊三個戦隊三千に対し、こちらは千五百。数にしておよそ二倍の差。向こうが二倍です」

 

「おい」フェリックスが眉を上げた。

「評価戦だろ。何で最初からハンデ付きなんだよ」

 

「ハンデではありません。そういう設定なのです」

クラインの声は平坦だった。

「劣勢の側がどう戦うかを見るのが、この評価戦の目的でしょう。だから評価表の合格条件も勝利ではない。――読み上げます。『仮想増援の到達予定時刻まで、部隊の要撃能力を維持しつつ存続すること』」

 

「……つまり?」

 

「二倍の敵を相手に、決められた時間生き延びれば合格です」

 

「逃げ切れば合格か。ずいぶん消極的だな。それ以外の勝利条件はあるのか」

ハインリヒが訊いた。

 

「あります。要綱の第二項。『統裁部の指定する敵司令部艦の撃破』。司令部艦は教導隊の陣の中に置かれます。アルブレヒト大佐、シェパード大佐、リヒター大佐の座乗艦とは別です」

クラインは頁を繰らずに答えた。

「過去に司令部艦の撃破を達成した班は記録にありません。士官候補生ではない、現役部隊との対戦を含め、挑んだ班は三つ。いずれの班も演習時間終了前に艦隊が壊滅しています」

 

ハインリヒはもう判定弾薬の欄を見ていた。

「弾が少ない」眉が寄った。

「後退しながら撃つ分しか、ない」

 

「燃料はもっとひでえぞ」

トビアスが自分の欄を叩いた。

補給幕僚の初仕事、配当燃料の確認である。

 

「この量な、時間まで逃げ回ったらそこで空だ。反撃に転じる分が最初っから入ってない。……分かるか?俺たちは削られながら時間を稼いで、増援が来たという想定になって、はい終了だ」

 

「そういうことです」クラインは頷いた。

「上手に負ければ高い点を取り、下手に負けると低い点を取る」

クラインが命令書の末尾をめくった。

「今年の評価戦は宇宙艦隊の年次査閲に合わせて実施されます。統裁官の席に着くのは――宇宙艦隊司令長官、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥」

 

フェリックスの顔から表情が消えた。

「へえ」と、それだけ言った。

 

アレクは一人、評価表の頁に戻っていた。

「……なあ、クライン。合格の条件は書いてある。勝利の条件も書いてある。減点項目の一覧も書いてある」

 

アレクは頁を指の背で叩いた。

「こっちが敵司令部艦を討って勝った場合の点数が書いてない」

 

クラインは答えなかった。

答えの代わりにわずかに目を細めた。

「――どこにもない」アレクが自分で言った。

「書く必要がないんだ。この評価表は、僕たちが負けることを前提としている」

 

フェリックスが顔を上げた。

「書いていないなら、統裁部に書かせてやろうぜ。百点満点中、二百点とか三百点とかな」

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十一年 演習配属艦・司令部区画 フェリックス】

 

教導隊の勝った過去の演習記録は望むだけ観ることができた。

「気前がいいにも程があるだろ」

フェリックスは資料の目録を繰りながら呆れた声を出した。

「この二年の演習記録が全部入ってるぞ。自分の手の内を配ってやがる」

 

「それが仕事だからです」

クラインが言った。

「教導隊は勝つことで教える部隊です。士官候補生だけでなく、現役の実戦部隊も相手にして戦います。負かした艦隊に記録を渡し、なぜ負けたかを持ち帰らせる」

 

クラインは二年分の記録をまとめて卓上へ置いた。

「二年間の記録を並べて彼らの戦い方がどう変わっているかを分析する者はそういないでしょう」

 

クラインが最初に卓上へ呼び出したのは二年分の演習記録ではなく、七年前の実戦記録だった。

「現在の型を読むには、まずその型がまだなかった頃を見なければなりません」

新帝国暦十四年、辺境ステュクス宙域、宇宙海賊討伐戦。

軍務省の公式の整理簿では簡潔に済まされた地味な掃討である。

だが、その中身は、三人の若い士官が海賊をほぼ無血のまま詰みに追い込んだ戦場だった。

 

三脚架としての初陣である。

クラインは再生を始めた。

はじめの数か月は何も起きない。

帝国側の小さな補給拠点が置かれ、海賊の獲物が涸れていくだけの退屈な画面である。

「これがアルブレヒト大佐。枯らす男です」

 

飢えた海賊の主力が囮の船団に釣られて巣穴から這い出してくる。

シェパードの部隊が救援に来たように見せて退がり、絶妙な背中を見せながら敵を致命的な距離まで引き出す。

「シェパード大佐。釣る男」

 

引き出された横腹へ黒色の奔流が突き刺さった。

黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)

総指揮を執っていたビッテンフェルト元帥の、突撃だった。

海賊の陣形が紙のようにめくれ、算を乱して巣穴へ逃げ帰り――その出口はいつのまにか鉄の陣で塞がれていた。

「リヒター大佐。閉じる男。……以上、四手で詰みです」

 

再生が終わった。

フェリックスは腕を組んだまま唸った。

「嫌になるな。隙がねえ」

 

「はい。ありません」

クラインはあっさり認めた。

「ですが、これを見てください」

クラインは記録を巻き戻し、黒色の奔流が突き入る場面で止めた。

「この突撃。誰の艦隊ですか」

 

「……ビッテンフェルト元帥だろ」

 

「現在の教導隊に元帥はいますか」

 

フェリックスの腕がほどけた。

 

「釣った敵へとどめの一撃を打ち込んだのは、三脚架ではありません」

 

クラインは止まった盤面を指した。

「七年前の三人は、枯らして、釣って、閉じた。――攻撃の槌を打ったのはビッテンフェルト元帥です。今の教導隊には『槌』がありません」

 

クラインは演習記録の目録を開いた。

「ビッテンフェルト元帥はいない。攻勢を担う突撃艦隊もいない」

指先が並んだ演習記録をなぞった。

「それでも全戦全勝している。三脚架が代わりに何を使ったのか。その答えが過去の演習記録に映っているはずです」

 

 

***

 

 

答えは単純だった。

槌がなければ、敵を壁で跳ね返すか、すり潰す。

シェパードが釣り出した敵をそのままリヒターの陣へ引き渡す。

釣る男が退き、閉じる男が受ける。

突撃の代わりにリヒターの構築した壁に敵を衝突させて、動かずに勝つ。

 

クラインが言った。

「リヒター大佐は廃棄資材の吹き溜まりなどがあれば、そこに背を預けて陣を敷きます。後ろへ回られない場所を先に取る」

 

クラインは直近の演習記録の一場面で手を止めた。

「ここです。シェパード大佐の部隊が敵を引きつけて、退く。リヒター大佐の陣が受ける。この受け渡しは七年前の戦闘には存在しなかった手です。速度を落とします」

 

再生速度が十分の一になった。

シェパードの部隊が退いていく。

その向こうでリヒターの陣が受けるべく射線を起こしていく。

退く部隊と、受ける陣。

退避するシェパード隊がリヒター隊の射線から外れるまでの時間、二つの部隊のあいだに――空間が生まれていた。

 

シェパードの艦はもう射線を畳んでいる。

リヒターの艦はまだ射線を開いていない。

通行できる黒い空間の帯。

 

フェリックスは身を乗り出した。

「……扉だ」

呟きが先に出た。

「確かに開いた」

 

「連携とは受け渡しです」

クラインが記録を止めた。開いた瞬間で、止めた。

「完璧な連携でも、受け渡しのあいだだけは射線の途切れる空白の時間が生まれる」

 

「待て。この二年、負けた艦隊は何やってたんだ。記録は全部配られてんだろ。何で誰も突かねえ」

 

「読んだとしても、扉が開くのは短時間です。そもそも劣勢のなか、開いた扉を押し通るための刃も要ります」

 

「もう一人いる」

アレクだった。

画面の隅を指している。

 

三個戦隊のうち、二つは絶えず動いている。

残る一つは、どの記録でもほとんど同じ場所にいた。

陣の最奥。司令部艦の後背。

 

「アルブレヒト大佐の戦隊です」

クラインが言った。

「二年分、全部確認しました。開戦後に位置がほとんど動きません」

 

「動かねえって何だそりゃ」

フェリックスが眉を寄せた。

「予備か。それにしたって一度くらい出すだろ」

 

「初期位置から出た記録はありません」

クラインは頁を送った。

 

「……何もしてねえ奴込みで、来た艦隊が全部負けてんのか」

 

クラインは答えず、別の綴りを開いた。

負けた側の記録である。

「敗因の記載を並べました。艦隊が壊滅して終わった部隊は、そう多くありません」

指が項目をなぞった。

「敗因で多いのは、弾薬欠乏。燃料欠乏。継戦能力喪失」

 

アレクが言った。

「息が続かなくなって、終わってるのか」

 

「はい。あとは、最初から挑まず逃走の一手を選択した班もありますが、逃走途中で弾薬と燃料不足に陥って逃げきれず、追撃のシェパード隊に潰走させられています」

 

 

***

 

 

その夜、フェリックスは一人で止めた画面の前に残っていた。

扉の幅を測る。

突撃隊形。増速。射線の空白を斜めに抜けて、リヒター隊の壁の中に配置された敵司令部艦へ。

操艦する者の目で、何度も何度も、その帯を通ってみる。

通れる。

ぎりぎりで通れる。

ただし、開いた瞬間にもう走り始めていれば。

「……開く前に、走り出せってか」

閉まりかけの扉に向かって走るのは、いい。

まだ開いてもいない扉に向かって全速で突っ込むのは、話が別だ。

一秒読みが狂えば、艦隊ごと壁にすり潰されて全滅する。

 

翌朝、フェリックスは司令部区画に入るなり言った。

「おい、クライン。あの扉、何秒開く」

 

答えたのはクラインではなかった。

卓の上に二年分の演習記録が全部開いていた。

その前でアレクが顔を上げた。

「いま、数えてる」




――上手な負け方をすれば、点はつく。

次回、『十一秒(中編)』


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