【新帝国暦二十一年秋 演習配属艦・司令部区画 アレク】
アレクは数えた。
二年分の演習記録に、シェパードからリヒターへの受け渡しは四十七回あった。
四十七回、扉は開いて、閉じた。
一回ずつ、時間を突き合わせて数字を並べる。
シェパードの最後の射線が畳まれた瞬間から、リヒターの最初の射線が起きる瞬間まで。
二年前、扉はまだ十四秒開いていた。
一年前、十三秒を切った。
そして直近の演習の、最後の三回。
十二秒四。
十一秒八。
十一秒五。
「……縮んでる」
アレクは手を止めた。
「二年間で受け渡しの時間が短くなってる。直近の三回はもう十一秒に近い」
「ただし、通常の手順を踏むかぎりです」
クラインが並んだ数字へ近似線を引いた。
「これは物理的な下限ではありません。両戦隊が確実に受け渡しを完了するために残している幅です。直近の記録と短縮の傾向から見て私たちと戦う日には――」
クラインの指が線の先で止まった。
「十一秒と想定すべきです」
十一秒。
フェリックスは卓を指先で叩きながら数えた。
十一度目まで行く前に、口を開いた。
「短けえよ。言ったろ、開く前に走り出してなきゃ通れねえって。つまり、扉がどこで開くか事前に分かってなきゃ話にならねえ。で?扉が開く場所なんて選べんのか」
「選べます。こちらで開けさせましょう」
「開けさせる?」
「シェパード大佐に、リヒター大佐の壁へ部隊を引き渡させます」
「どうやって」
「こちらの右翼から三百隻を切り離し、壁の外縁へ走らせます。放置すればリヒター戦隊の後背へ出る位置です」
フェリックスが眉を寄せた。
「それ、兵棋演習でカーラと戦ったときみたいに、本物を餌にして釣る戦術か」
「釣るという意味では同じです。ビッテンフェルト候補生は薄い場所を見て来た。シェパード大佐は、来なければ困る場所を突いて来させます」
クラインは戦域図の外縁へ三百隻の軌道を引いた。
「この三百隻は実際に主力の支援圏を離れる。シェパード大佐が追わなければ、リヒター大佐の壁の後背へ出ます」
「リヒターがシェパードに任せず、自分で迎撃しようとしたら?」
「リヒター大佐が壁を割いて対処すれば、その瞬間に別の扉が開きます。壁を保ったまま追えるのはシェパード大佐だけです」
クラインは三百隻の線を指でなぞった。
「追えば、孤立した三百隻を削れる。追わなければ、壁の後背を刺される。どちらにしても無視できません」
「餌ってことか」
「餌であり、刃でもあります」
クラインは言った。
「噛まれなければ、そのまま後背から刺す。噛まれれば、シェパード大佐に追わせたままリヒター大佐の壁まで運ばせます。シェパード隊が獲物をリヒター隊へ引き渡す瞬間、二つの戦隊のあいだに扉が開きます」
クラインが、迂回線の終端を内側へ曲げた。
「別の部隊をそこへ走らせるのではありません。追われていた三百隻自身が刃となり、そのまま扉へ入ります」
フェリックスは戦域図へ身を寄せた。
逃走の線と突入の線は、別々に引かれていなかった。
壁の外縁を目指す一本の線が、受け渡し地点でわずかに内側へ折れている。
「……逃げたあとで向きを変えるんじゃねえのか」
「変えてからでは間に合いません」
クラインは答えた。
「逃げてきた進路の先に、扉を開けさせます。受け渡しの瞬間、進路を内側へ折るだけでよい角度に、最初から追わせる」
「作戦に必要となる艦隊運用の速度、進路変更のタイミングと角度、度胸。どれをとっても難しい役回りだ。この三百を動かせるのは貴様しかおらんだろう」
ハインリヒがフェリックスを見た。
全員の目がフェリックスへ向いた。
「……食われる役じゃねえな。食いつかせたまま、シェパードを壁まで連れていく役か」
フェリックスはしばらく戦域図を見た。
「突入前に何隻残せばいい」
「当初見積りでは、三百隻のうち二百十隻です」
その九十隻を噛ませながら、残存艦を十一秒の扉へ通す。
戦域図には、主力から分かれた三百隻の線しかない。
「一つ、確認したい」
ハインリヒだった。
「三百隻を本隊から切り離すと、どうしても隊列が伸び切る。追撃を受ければ艦間は開き、欠けた位置を埋めるためにさらに隊形が伸びる」
ハインリヒは外縁へ向かう線の途中を指した。
「そこで一隻でも逃げ始めれば、崩壊は後方へ伝わる。三割では済まない。潰走だ。一度潰走に入った迂回部隊を、扉の前で突入隊形へ立て直すことはできない」
正しい指摘だった。
「それに三百隻を抜けば、本隊で抜いた位置が空く。空いた位置を埋めながら、本隊は退がり続けねばならん。伸びるのは迂回隊だけではない」
「伸び切っても、なお崩れない撤退戦術が要ります」
クラインが卓の端から一冊の綴りを引き寄せた。
戦史再演。
アルテナ会戦とキフォイザー会戦。
二つの敗軍の記録を漁った日々に彼らが記録の海から拾い上げた、あの部隊の戦術である。
コンラート・フェルディナント・ベーレント大佐。
ベーレントの軍歴がもう一度、卓の中央に置かれた。
新帝国軍に任官希望届を出すも、リッテンハイム侯家との繋がりを危惧され、任官を拒否された男。
「負け戦の中で、最後まで崩れなかった部隊の指揮官です」
クラインはベーレントの艦隊運用記録を開いた。
勝利へ進むためではなく、敗走へ転じないための手順が並んでいた。
「全軍が潰走する盤面で、伸ばされても、削られても、この部隊は潰走しなかった。負けながら、崩れないための型です」
クラインはさらに言った。
「本隊も、誘引迂回隊も、開戦からベーレント隊と同じ手順で退がります。抜けた位置の詰め方も、艦間距離を戻す時機も、記録の戦術を使います」
「具体的にはどういう戦術になる」
「今夜のうちに、各戦隊ごとに後退番号を振ります」
クラインの声は平坦だった。
「自分の番号がくれば艦は下がります。無傷でも下がります。射線も抜けます。番号が来ていない艦は、たとえ中破や大破していても下がりません。下がらせません」
「誘引迂回隊もか」
「はい」
クラインはフェリックスを見た。
「三百隻を一つの隊形として守ろうとすれば、損傷艦に引かれて全体が崩れます。守るのは個々の艦ではなく部隊の隊列です」
「撃たれて中破や大破でも下がれずに沈む艦が出る。それでもいいか、アレク」
司令部区画が静かになった。
アレクは戦域図を見ていた。
三百隻が主力を離れ、シェパードに追われる。
削られながら退がり、崩れず、開く前の扉へ向けて走り続ける。
その先に帰路は描かれていない。
「……これでいく」
***
その夜遅く、戦隊ごとの番号表が司令部へ戻ってきた。
散会した部屋に、アレクは一人で残っていた。
綴りを最初の頁から順にめくる。
番号と、艦名が並んでいる。
彼は番号のほうを読まなかった。
艦名のほうを一つずつ読んだ。
最後の頁まで読んで、綴りを閉じた。
***
その夜、トビアスは一人で演習規定を隅から隅まで一言一句読んでいた。
昔からの、彼の商売の流儀である。
配当燃料の項。判定弾薬の項。審判団の項。
分厚い規定を付則まで飛ばさずに読む。
そして付則の、そのまた末尾でトビアスの指が止まった。
読み返した。
三度、読み返した。
それから彼は通路を走った。
司令部区画の扉を開けると、アレクがまだ起きていた。
卓の上には四十七回分の計算が並んだままだった。
「おい――おい、アレク。燃料の話、覚えてるか。時間まで逃げ回ったら空になるって話」
「ああ」
「違った。配られた分だけなら、だ」
トビアスは規定の綴りを卓へ叩きつけるように開いた。
「付則第三十七。『廃棄資材集積帯に設置された中立補給標定物は、両軍の別なく回収した側が演習上の燃料および判定弾薬として使用できる。回収分は初期配当量に算入しない』」
トビアスは条文の末尾を指で叩いた。
「分かるか?あの艦の墓場には、拾った側のものになる燃料と弾が浮いてる。どっちの初期配分にも入ってない」
アレクは綴りを引き寄せた。
トビアスの指の先を、一度読み、もう一度読んだ。
「……なぜ、こんな付則がある」
「昔、あの宙域を資材回収訓練にも使ってた頃の名残だろ」
トビアスはにやりと笑った。
***
【新帝国暦二十一年 常設教導隊旗艦・作戦室 リヒター】
評価戦の学生班名簿は開戦の三十時間前に届いた。
レオンハルト・リヒター大佐はそれを直立不動で読んだ。
座って読み始めたのだが、二行目で立ち上がってしまったのである。
「――どうした、リヒター。書類が爆発でもしたか」
チェンイー・シェパード大佐が損傷艦の整備表から顔も上げずに言った。
「……皇帝陛下だ」
「ん?」
「今年の学生指揮官は皇帝陛下だ。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム候補生。……我々は三十時間後に、皇帝陛下の艦隊を沈めることになる」
作戦室の奥でアルブレヒトの頁を繰る指が一度だけ止まった。
止まって、また動いた。
「へえ」
シェパードはようやく顔を上げ、にっと笑った。
「そりゃ、うちの歴代のお客で一番の大物だな」
「笑いごとか!」
リヒターの青筋は七年前と同じ場所に、同じ角度で浮いた。
「判定とはいえ、陛下の御座艦を撃沈するのだぞ。私は、私は詫び状の下書きを――」
「もう書いたのか」
「これからだ。二通書く。沈めた場合と、万一沈め損ねた場合だ」
「沈め損ねたら詫びるのかよ」
「教導隊が手を抜いたと思われては、陛下の教育に障る」
シェパードは腹を抱えた。
「相変わらずだなあ、お前は。……大丈夫、大丈夫。陛下は艦隊を預かって来る一人の候補生で、うちは来る奴を全員詰ますのが仕事。それだけの話だろ。なあ、アルブレヒト」
作戦室のいちばん奥で、三人目の男が盛大なあくびをかみ殺した。
アルブレヒト大佐は名簿ではなく、その付属書類の束を繰っていた。
兵站と申請書の類である。誰も読まない頁ばかりを好んで読むのが昔からのこの男の癖だった。
「勘定の上では、皇帝も候補生も同じですよ。『不敬税』というのはありませんから」
「貴官はまた、そういうことを……」
「それより、リヒター。面白いものを見つけました」
アルブレヒトは一枚の請求書類を摘まみ上げた。
「学生組の資料請求の写しです。現任教導班――つまり、我々三人が着任してからの二年分。これは規定どおりに配布されます」
アルブレヒトは次の一枚を持ち上げた。
「ですが、今年の組は追加請求を出している」
「追加?」
「新帝国暦十四年。ステュクス宙域、海賊討伐戦の全記録」
シェパードの眉がちょっと動いた。
「……俺たち三人の初陣か。懐かしいねえ。伝説を観たいお年頃なんだろ」
指先が二枚の請求書類を揃えた。
「二年分の演習記録と、七年前の実戦記録を並べるということはですねぇ――比べる気だ、ということです」
「比べて、何が出る」
リヒターが問うた。
アルブレヒトはすぐには答えなかった。
指先で算盤を弾くように卓を三度叩き、それからうっすらと笑った。
「……ふぅん」
「おい。『ふぅん』とは何だ、『ふぅん』とは」
「いえ。今年面白い相手が来るかもしれないという話です」
「候補生名簿に戻るぞ」
リヒターは咳払いをした。
「実動指揮、フェリックス・ミッターマイヤー」
「疾風ウォルフの子か」
シェパードが口笛を吹いた。
「操艦の課程記録、取り寄せて観たよ。ありゃ速いぞ。早いし、速い。……俺が逃げて、あの子が追う。疾風の子に追いたくなる背中を見せる。悪くない仕事だ」
「遊ぶな。減点対象だ」
「砲術長、ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。砲術首席」
リヒターは読み進めた。
「補給幕僚、トビアス・ブリュックナー。……作戦幕僚、クライン・ヴァルター」
頁を繰る手が一度止まった。
「このクラインという候補生は目立った記録がないな」
「ありませんねぇ」
アルブレヒトが答えた。
「単独で艦隊を動かした記録もほとんどない。ですが、この候補生が幕僚に入った演習は、途中から相手の予定どおりに進まなくなるようだ」
シェパードがわずかに目を細めた。
「嫌な奴だな」
リヒターは名簿を閉じ、正面の戦域図を見た。
灰色の吹き溜まり。廃棄資材集積帯。
「……英雄の、子か」
誰にともなくリヒターは言った。
英雄なき時代を支えるのは我々のような凡人だと、この男は初陣の日から言い続けている。その凡人の盤の上に、英雄の遺した子が艦隊を率いて来る。
「手は抜かんぞ」
リヒターは言った。青筋はもう引いていた。
「凡人の積み上げをなめてもらっては困る。壁というものがどれほど高いか、骨の髄まで教えてやる。それが教導隊の礼儀というものだ」
「ほら、お前も楽しみにしてんじゃないか」
シェパードが笑い、リヒターは否定しなかった。
アルブレヒトはもう書類の束に戻っていた。
その口元がまだ少しだけ笑ったままだった。
***
【新帝国暦二十一年 廃棄資材集積帯・学生分艦隊旗艦 アレク】
演習が始まった。
開戦から二時間で、学生分艦隊の判定損害は八十隻に達していた。
最初の見積りでは六十隻のはずだった。
八十隻。二十隻の超過である。
「第四駆逐隊、判定全損」
戦闘艦橋に統裁部の無機質な音声が降る。
判定である。
誰も死なない。判定で沈んだ艦は火器と機関を止め、演習戦域を漂う標的外の漂流物になるだけだ。沈められた乗員は艦内で茶でも飲んでいるかもしれない。
分かっている。
分かっていてアレクは数えていた。
第四駆逐隊、十二隻。
一隻あたり乗員はおよそ百人。
千二百人余り。
判定だ。誰も死んでいない。
数えてしまう。
戦術回線の向こうからフェリックスの声が来た。
『顔に出てんぞ、指揮官』
彼は主力右翼の実動指揮艦にいる。
開戦から二時間、アレクの命令を各戦隊の運動へ変換し続けていた。第三段階に入れば、その指揮艦ごと三百隻を率いて主力を離れる。
***
敵は記録のとおりに強かった。
正面にはリヒター隊の壁。
三個戦隊のうち一個を鉄の定規で引いたような防御陣に組み、集積帯の主航路をぴたりと塞いでいる。
一隻の突出もなく、一隻の遅れもない。見事な統制を保ち動かない。
側面にはシェパード隊。
こちらは水のように動く。
学生分艦隊の隊列の継ぎ目、薄い外周を正確に選んで噛んでくる。
深追いはしない。噛み、離れる。
そして学生分艦隊からは見えない場所に、アルブレヒト隊もいるはずだ。
見えないだけで、働いていないわけではなかった。
学生側がシェパード隊を避けて進路を変えると、その先へリヒター隊の火線が届く。隊列の薄い箇所を補おうとすれば、その艦だけが長距離射撃にさらされる。
二つの戦隊が、互いの目で見ているにしては反応が早すぎた。
アルブレヒト隊は陣の最奥から観測情報を集め、そこからシェパード隊へ噛む場所を、リヒター隊へ閉じる場所を送り続けていた。
自身の戦隊も学生艦が回避せざるを得ない空域へ必要な数だけ砲火を置く。避ければ燃料を使う。隊形を戻せば、また燃料を使う。
三脚架の二本が敵を削るあいだ、残る一本は敵が削られる速度を管理していた。
「敵の射撃精度、また上がりました」
クラインが判定表を読む。
「開戦時から命中判定率が三段階上がっています。……こちらの回避の癖をもう読まれています」
「まだ開始から二時間だぞ」
「この二年、来る艦隊を片端から相手にしてきた部隊です。人が艦を操るときの癖を読むことにかけて向こうは玄人で、こちらは今日が初めての実艦による分艦隊戦です」
削られるというのがどういうことか、アレクは初めて体で知りつつある。
「第二巡航隊、隊列後端、判定中破二」
「後退番号」
「十七番。現在、十四番です」
「番号のとおりだ。九時方向の空隙、詰めろ。だが詰め急ぐな」
復唱が返る。
中破を出した艦も、下がらなかった。
その手前で無傷の巡航艦が三隻、番号を呼ばれて隊列を割り、後方へ抜けていく。
前夜、各艦へ配った順番である。
隊列はまだ生きていた。
削られながら、伸ばされながら、千四百二十隻は潰走せず退がり続けている。
全周が薄くなっても背骨は曲がらない。
番号を待つ艦は待ったまま沈んでいく。
***
「第九駆逐隊司令座乗艦〈シュヴァルベ〉より直通。判定中破。後退番号、三十一番」
「現在は」
「十九番です」
回線が開いた。
艦長の声だった。
「――本艦は三十一番までは持ちません。前倒しで下がる許可を」
一拍、間があった。
アレクは答えた。
「要請を却下する。番号のとおりだ」
回線が切れた。
〈シュヴァルベ〉に撃沈判定が下ったのはそれから数分後のことだった。
***
「陛下」
クラインの声が半音だけ低くなった。
盤面に時刻が表示されている。
「評価表の合格ラインです。仮想増援到達まであと四時間。このままの損耗率で退がり続ければ――合格します」
「損害は当初の見積りを超えているぞ」
「それでも合格ラインの内側です。歴代最高点になるかもしれません」
艦橋が一瞬だけ静かになった。
歴代のどの組よりも上手な負け方をしている。
負けても拍手される。
「……クライン」
「はい」
「歴代最高点は何点だ」
「百点満点の九十一点です」
「上手な負け方の中の九十一点か」
誰も何も言わなかった。
開戦前、学生司令部が正規幕僚と各戦隊長へ配った作戦命令には、この先の手順まで記されている。
「――次の手順を発動する。第三段階に移れ。誘引迂回隊、右翼から分離。外縁進路へ進め。実動指揮、フェリックス・ミッターマイヤー候補生」
『了解。誘引迂回隊、主力より分離する』
学生分艦隊の右翼から、三百隻が割れた。
クラインが統裁部と全参加艦に開かれた共通回線を開いた。
「総員に達します。これより本艦隊は合格ラインを放棄します」
***
【シェパード戦隊旗艦・戦闘艦橋 シェパード】
最初に気づいたのはシェパードだった。
「――ん?」
釣りの専門家は獲物の背中で機嫌を読む。
整然と退がっていた学生分艦隊の背中が、いまほんの半拍、変な間で止まった。
「おいおい、どうした坊やたち。足が止まるとまた噛むぞ……」
言いかけてシェパードは口をつぐんだ。
学生分艦隊の右翼から三百隻ばかりが割れた。
こちらへ向かってきたのではない。
リヒターの壁の外縁をかすめ、その後背へ出る軌道だった。
放っておけば壁の背中から刺される。
シェパードが追えば主力の支援圏から切り離された迂回隊三百隻は食える。
学生たちは選ばせに来たのだ。
「……は?」
シェパードは椅子から身を起こした。
『リヒターだ。シェパード、いま学生が何をしたか貴官の目でも見えたか』
「見えたよ。見えたが信じてない」
「なあリヒター、俺の計算が正しけりゃ、あの子たち、あのままあと何時間か退がっていれば合格だよな」
『おそらく歴代最高点だ。統裁部の採点表を私も写しで持っている。それを――』
「捨てて壁の背中へ迂回隊を走らせた」
『正気ではない』
「だなあ」
シェパードはにやにや笑いを浮かべたまま、しかし目だけは三百隻の軌道から離さなかった。
うまい負け方に飽きた学生のやけっぱちの突撃なら、これまでも見たことがある。
これは違う。
外縁へ走る三百隻の艦列は伸びながら、崩れていない。
しかも速かった。
単に機関出力が高いのではない。欠けた艦の位置を埋め、射線を通し、後退番号に従って艦を抜きながら、部隊全体の速度を落とさない。
「実動指揮は、疾風の子だったな」
シェパードは呟いた。
三つの旗艦すべてに共通回線の通達が届いた。
『これより本艦隊は合格ラインを放棄します』
それだけだった。
理由も訓示もない。
『二人とも、聞こえていますか』
三つ目の声が回線に乗った。
いつもの気だるさがそこにはなかった。
『統裁部から、学生側が合格条件を自発的に放棄したとの連絡も届きました』
「聞いたよ、番頭。だがそれだけだ」
『ええ。その通達で三百隻が分離した。命令が開戦前に行き渡っていたということです』
シェパードのにやにや笑いがゆっくりと消えた。
別のものがその顔に浮かんでくる。
「おい。おいおいおい。……番頭、それってつまりあれか」
『あれ、でしょうね』
「やけっぱちじゃねえ。あの子たち、最初から合格点を取りに来てるんじゃない。最初の数時間の退却を合格のためじゃなく仕込みのために使ってた」
『待て』
リヒターの声が回線を割った。
『待て、二人とも。話が見えん。合格を捨てて三百隻を切り離し、それで彼らに何が残る。残るのは我々だ。我々を――』
リヒターはそこで止まった。
回線が数秒沈黙した。
『――もしかして我々を、倒す気か』
誰も笑わなかった。
学生は教導隊から上手な負け方を学ぶ。教導隊は学生に壁の高さを教える。それがこの評価戦のすべてである。勝利条件は要綱に載っている。載っているだけで、誰の計算にも入っていない。
教導隊も利口な負け方には満点に近い点をつける。
だが今年の組は利口ではなかった。
「……へえ」
シェパードが低く言った。
「へええ。そうか。そうかい。俺たちを、倒す気か。この俺たちを」
『不敬だぞ』とリヒターが言った。
『相手は皇帝陛下だ』
「関係あるかよ、そんなもん」
シェパードは立ち上がっていた。
軽い笑みはもう顔に戻っている。だがその底が据わっていた。
七年前、囮の船団に海賊が食いついた瞬間と同じ目だった。
「なあリヒター。お前、初陣の日に言ってたよな。英雄なき時代は俺たち凡人が支えるんだって。……その凡人が積み上げた壁の背中へ、英雄の忘れ形見が刃を回してきたんだぞ。皇帝だから何だってんだ。ただの学生のお客さんが」
『……訂正しろ』
「あん?」
『客ではない。――敵だ』
リヒターの声はもう硬くなかった。
青筋の代わりにそこには別の熱があった。
『我が陣はこれより評価戦用標準陣から戦時縦深へ組み直す。シェパード、壁の後背へ一隻も通すな』
「わかってるよ」
シェパードは指をひとつ鳴らした。
「殺しに来た敵には殺しに行くのが礼儀だ。――シェパード隊全艦、誘引迂回隊を追う。ここからは授業じゃない。すり潰しにいく」
『私は動きませんよ』
アルブレヒトは言った。
『リヒターは壁を保つ。シェパードは三百隻を追う。私は敵の主力をここへ縫い止めます』
気だるい声のまま、別の回線が開かれた。
『アルブレヒト隊、射撃配分を変更。学生主力艦隊の撃破を急ぐ必要はありません。後退する艦と、隊形を詰め直す艦を狙ってください。回避させるだけでよいです。加速させ、戻させ、また加速させる。彼らの燃料はこちらの弾薬より先に尽きます』
番頭はあくびをひとつ、かみ殺した。
『どんなに見事な手でもね。財布の中身が尽きればご破算です。宙域の中立物資を全部回収しても、とうてい艦隊全部を賄う量にはならない。……さて、若き皇帝陛下。どうなさいますか』
――合格を捨てた五人が挑むのは、壁に十一秒だけ開く勝利への扉だった。
次回、『十一秒(後編)』