銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第三十二話「十一秒(後編)」(新帝国暦二十一年秋)

【学生分艦隊旗艦 トビアス】

 

トビアスの戦争は、戦闘艦橋の隅の補給管制卓で行われていた。

そこに座る彼の盤面には敵も味方も映らない。映るのは残燃料と残弾の一覧、それだけである。

 

その一覧が、いま彼の見たことのない速さで溶けていた。

「誘引迂回のミッターマイヤー隊、第三波接触!シェパード戦隊、追撃続行――食いつき、深いです!」

深いどころではなかった。

 

フェリックスの誘引迂回隊三百隻が主力の支援圏を出た瞬間から、敵の削り方が変わった。

それまでの軽く噛んでは離れる射撃が消え、離れずに獲物の急所を執拗に狙い続ける本物の狩りが始まっていた。

「誘引迂回隊、判定損害さらに六隻! 現在――累計、百十二隻!」

トビアスは自分の帳面の見積り欄を見た。

 

誘引迂回隊の想定損害、九十隻。

現実、百十二隻。まだまだ増える。

 

三割の損害で買えるはずだった扉がもう四割へ近づいていた。

 

「……おいおいおい、待てよ」

 

回避機動。緊急増速。隊列の詰め直し。

艦隊が崩れないというのは無料ではないのだ。

潰走しないための艦隊運用は、燃料庫までは守ってくれない。

 

「拾いの隊から入電!第七集積塊、中立補給標定物の回収完了――増槽十一基、判定弾薬二百発分!」

 

「よし!次、第九集積塊だ、急げ!」

トビアスの拾い部隊は開戦からずっと、資材帯の墓場を漁り続けていた。

 

付則三十七。

初期配当の外にある財布。

 

廃艦群の中に配置された中立補給標定物から演習用増槽を回収し、判定弾薬を受領する。

統裁部の管理物資ではあるが、どちらの初期配当表にも算入されていない。

廃材の吹き溜まりを文字どおり金に換えていく。

 

回収した増槽を旗艦へ運び、そこから各艦へ配るような手順は取らなかった。

 

それでは拾い部隊も、受け取る艦も足を止める。

停止、接舷、移送、再加速。

そのたびに、拾った燃料以上の時間と燃料を失う。

 

トビアスは開戦前に、学生分艦隊の後退航路と中立補給標定物の位置を重ねていた。

 

拾い部隊は増槽を回収すると、艦隊へ戻らない。

計算された時刻に、後退する艦隊の予定航路へ向けて増槽を射出する。増槽は低速で航路へ流れ込み、通過する艦が曳航索を伸ばして一基ずつ拾っていく。

 

艦隊は止まらない。

 

補給を受ける艦が物資のある場所へ寄るのではなく、補給物のほうを走っている艦へ流し込む。

 

判定弾薬も同じだった。

封印された弾薬容器を予定航路へ浮かべ、補給艦が減速せずに回収する。

墓場に散っていた物資が、後退する艦列へ横から合流していった。

 

拾えている。

予定よりうまく拾えている。

それでも足りなくなりつつあった。

蛇口から入る水より、穴から抜ける水のほうが速い。

 

「クライン!」

トビアスは怒鳴った。

「言いにくいこと言うぞ!このペースだと――届かねえ!敵の削り方は想定以上だ。潰走を防ぐため予想以上に燃料を食ってる。あと二十分で、フェリックス隊の最終増速へ回せる燃料も消える!」

 

 

***

 

 

クラインは盤面から顔を上げなかった。

学生分艦隊の主力は、いまもリヒターの壁から離れる方向へ整然と退がり続けている。

だが、右翼から分離した誘引迂回のフェリックス隊は主力の後退航路を外れ、リヒターの壁の右端へ向けて斜めに走っている。壁の外縁をかすめ、そのまま後背へ出る航路だった。

 

フェリックス隊の前方にはリヒター戦隊。

後方には、それを追うシェパード戦隊がいる。

アレク達から見れば迂回前進である。

 

読みどおりだった。

釣り師(シェパード)は、餌を無視できずに食いついた。

読みと違ったのは、その食いつきの獰猛さだけだ。

 

本来の予定では、シェパードはまだフェリックス隊を追う。

フェリックス隊がリヒターの壁へ接近し、これ以上追えば味方の射界を塞ぐ位置まで来たところで、シェパードは追撃を打ち切る。獲物を壁の正面火力へ引き渡し、自身は射界の外へ退避する。

 

シェパードの最後の射線が消えてから、リヒターの最初の射線が起きるまで。

その受け渡しに生じる十一秒の空白へ、追われていたフェリックス隊自身が飛び込む予定だった。

 

だが、予定された受け渡し地点まで、最終増速分の燃料は持たない。

 

「……手は一つです」

クラインはアレクを見た。

「シェパード隊から(リヒター隊)への受け渡しを敵に前倒しで行わせます」

 

「どうやって」

 

「いま、この瞬間から、誘引迂回隊からシェパード隊への反撃を行います」

 

トビアスが顔を上げた。

「フェリックス隊の進行方向を反転させるのか。そんなことをしたら、速度が死ぬぞ。ますます間に合わなくなる」

 

「進路は変えません」

クラインはフェリックス隊の航跡を拡大した。

「艦体だけを百八十度旋回させます」

 

「艦体だけ?」

 

「フェリックス隊は、現在の速度を保ったままリヒターの壁へ近づき続けます。その状態で艦首を後方へ向け、追ってくるシェパード隊へ全火力を集中する」

クラインは盤面上のフェリックス隊を回頭させた。

航跡の矢印はリヒターの壁へ向いたまま、艦首と射線だけがシェパード隊へ向く。

 

「進行方向はそのまま。速度を落とさず後ろ向きで全力に走りながら、追ってくるシェパード隊を撃つのか」

 

「はい。ミッターマイヤー候補生であれば可能です」

クラインは追撃側と退避側の軌道を重ねた。

「この距離で撃ち合ったまま壁へ接近すれば、シェパード隊はフェリックス隊の直後に張りついたまま、リヒター隊の正面射界へ入ります」

 

フェリックス隊を撃とうとすれば、そのすぐ後ろにシェパード隊がいる。

リヒターは味方ごと撃つことになる。

「リヒター大佐は射線を開けません。シェパード大佐は予定された受け渡し地点へ着く前に追撃を打ち切り、リヒター隊の射界から横へ退避するしかない」

 

「強制的に、シェパードからリヒターに引き渡させるのか」

 

「なら最初から、それでよかったんじゃねえか」

トビアスが言った。

「何が問題だ」

 

「受け渡しの質です」

クラインの声は平坦なままだった。

「十一秒という数字には、シェパード隊の射線停止、離脱確認、リヒター隊の射線起動まで、双方が確実に受け渡すための余裕が含まれています」

 

クラインは二つの戦隊の軌道を近づけた。

「前倒しでは、その余裕を削って最短手順へ入る。扉は開きます。ですが十一秒も開きません」

 

「何秒開く」

 

「もって九秒です」

 

艦橋が静まった。

九秒。

十一秒でぎりぎりだった。

開く前に走り出してようやく通れる、とフェリックスは言った。

そこからさらに二秒を削る。

 

「中止の選択肢もあります」

クラインは言った。

「フェリックス隊を外縁から離脱させ、防衛線へ戻す。合格には届きません。途中で燃料切れにより継戦不可となる可能性が高い。ですが残存艦の壊滅までは避けられるかもしれません。……ご判断を、陛下」

 

全員の目が指揮官席へ向いた。

 

アレクは自分の帳面を見ていた。

四十七回の計算。十二秒四。十一秒八。十一秒五。

自分の目で拾い、自分の手で並べた自分の数字たち。

その数字が、いま初めて彼に問い返していた。

 

アレクはフェリックスとの専用回線を開いた。

「フェリックス」

 

『聞いてる』

 

「十一秒が九秒になる。……いけるか」

問いの形をしていたが、艦橋の誰もが分かっていた。

回線の向こうで、フェリックスはすぐには答えなかった。

半拍。

『進路はもう見えてる』

声の後ろで、警報音と復唱が重なっていた。

『減速で二秒余らせるつもりだったのが、余らなくなるだけだ。行きは通れる。帰りの分は知らねえ』

 

アレクは立ち上がった。

「扉の向こうが終点だ」

指揮官は通信網を開いた。

「総員に達する。受け渡しの扉を前倒しで開けさせる。誘引迂回隊、進路を維持したまま艦首を反転。全火力をシェパードの追撃隊へ向けろ」

 

アレクは一度、息を吸った。

「――釣り師(シェパード)に、全力で釣られたことを教えてやれ」

 

 

***

 

 

【誘引迂回隊実動指揮艦 フェリックス】

 

扉はまだ開いていない。

だが、フェリックスの艦隊はもう走っていた。

三百隻で主力を離れた誘引迂回隊は、百六十隻まで減っていた。

隊列は伸び、何箇所も欠け、無傷の艦のほうが少ない。

それでも潰走にはなっていない。

 

逃げ続けた航路の先に、まだ開いていない扉がある。

「全艦、進路そのまま!」

フェリックスは命じた。

「姿勢制御、反転開始!速度を殺すな!」

 

百六十隻が、壁の外縁へ流れ続けながら艦首を返した。

進んでいる方向と、艦首の向きが逆になる。

慣性のまま退がりながら、主砲が追ってくるシェパード隊へ向いた。

 

観測員が叫んだ。

「全艦、姿勢反転完了!」

 

「撃て!」

百六十隻の火線が、一斉に追撃側へ伸びた。

追われていた獲物が牙を剥いた。

シェパード戦隊の前衛が回避し、後続が詰まり、初めて追撃の足並みが乱れた。

 

それでもフェリックス隊の進路は変わっていない。

後ろを向いたまま、壁へ向けて走り続けている。

 

『この野郎――』

開かれた戦術回線に、シェパードの声が一瞬だけ混じった。

笑っていた。

『俺に追わせた艦隊でそのまま壁を抜く気か!逃げてた奴らが、今度はこっちへ食いついてきやがった!』

 

「シェパード戦隊、後退開始!」

観測員が叫んだ。

「リヒター戦隊、受けの陣、起動します!」

 

来た。

シェパード隊の射線が畳まれていく。

リヒター隊の射線はまだ起きていない。

扉が口を開け始めた。

「全艦、艦首を戻せ!」

百六十隻が再び姿勢を返した。

進路は最初から扉の内側へ向いている。

あとは速度を足すだけだった。

「最終増速!残った艦を全部連れていく!最大戦速まで一気に持っていけ!」

 

「扉、開放!計測開始!」

 

九秒。

 

フェリックスは操艦桿を前へ倒した。

「――通るぞォ!」

 

 

***

 

 

視界の右で光の壁が咲いた。

リヒター戦隊の端の砲群が開きかけの扉に気づき、閉じるより速く火力で蓋をしにきたのである。突入路を弾幕で埋めて塞げば、数の減った誘引迂回隊はそれで終わりだ。

 

リヒター戦隊の火線の一部がフェリックス隊に届き、何隻かが沈んだ。

だが、すぐにその火線は掻き消えた。

後方、遥かな距離から降ってきた、教本のように正確な制圧射だった。

「……ッたく、綺麗な射線引きやがる!」

ハインリヒの砲術だった。

派手さはどこにもない。

敵の砲群が撃つべき瞬間の、撃つべき空域だけを先回りして塗り潰していく。

教範どおりの諸元、教範どおりの時機。

必要な射線を遅らせず、撃つべき空域を取り違えない。

「残り、七秒!」

 

「右舷、火線再開!回り込まれます!」

 

「舵このまま! ――側壁に入る!」

進路の右手に、除籍艦の墓場があった。

何十年分の廃艦が折り重なった灰色の巨大な吹き溜まりである。

フェリックスは残存艦を率い、その陰へ擦るように滑り込んだ。

リヒターの火線が廃艦の山に阻まれて途切れる。

「残り、五秒!」

 

 

***

 

 

旗艦の戦闘艦橋でアレクは数えていた。

 

三秒。

 

二秒。

 

一秒。

 

閉まりかけの扉を、フェリックスの艦隊が鉄屑の山の陰から矢のように抜けた。

最後尾の三隻に、撃沈判定が灯った。

残る百四十八隻が、扉の内側へ飛び込んだ。

「――抜けた!誘引迂回隊、敵陣内へ突入!」

 

閉じた扉の内側に、百四十八隻。

 

その突入路を買うあいだ、反転した主力は教導隊の射線を引き受け続けていた。

全軍の判定損害はすでに四割を越えている。

 

リヒターの防御陣を抜けた先に、敵司令部艦があった。

アルブレヒト隊は、そのさらに後方にいる。

だが、敵司令部艦を挟んだ位置からフェリックス隊へ撃てば、味方の司令部艦そのものを射線へ入れることになる。左右へ展開して射界を作り直すには、わずかだが時間が要る。

 

その時間を与えないため、学生主力は損害を承知でアルブレヒト隊へ圧力をかけ続けていた。ハインリヒの正確な制圧射が、展開しようとする艦を一隻ずつ押し戻している。

 

正面にはもう壁はない。

あとは指定司令部艦まで、遮るもののないまっすぐな一本道――

 

「敵司令部艦、視認!距離――」

 

観測員が距離を読み上げる。

現在速度で砲の有効射程に入るまで。

 

十一秒。

 

「主砲、射程まで十一秒!突入隊、最終増速――」

 

そのとき。

盤面のすべてが白く固まった。

『――演習終了。演習終了』

統裁部の無機質な音声だった。

『仮想増援、戦域到達時刻。両軍、全火器の判定を凍結。繰り返す、演習終了』

 

 

***

 

 

突入隊の艦橋でフェリックスは操艦桿を握ったまま、動かなかった。

正面のスクリーンに敵司令部艦がいる。

遮るもののないまっすぐな一本道の先に、いる。

撃てない。演習は終わった。

 

「……あと」

 

誰かが掠れた声で言った。

 

「あと、十一秒だった」

 

フェリックスはゆっくりと操艦桿を戻した。

 

十一秒。

最初に彼らが記録の中から見つけた通常の扉の幅と同じ数字だった。

 

「……はっ」

フェリックスは短く笑った。

「――誂えたみたいな数字、出しやがって」

 

 

***

 

 

旗艦の艦橋でアレクは画面を見ていた。

 

歓声はなかった。

落胆の声もなかった。

分艦隊を束ねる旗艦の司令部区画は奇妙なほど静かだった。

 

突入隊は指定司令部艦に一発も撃っていない。

学生分艦隊の判定損害は四割を超えている。

勝敗表の上では完敗である。

 

「……候補生」

 

声にアレクは振り返った。

艦長だった。

司令部区画の入口に立っていた。

艦長は候補生たちを一人ずつ見た。

初めて見た。

 

「敵陣の内側。三脚架相手の演習で初めて見た。良いものを見せてもらった」

 

それだけ言うと、艦長は敬礼した。

角度は前と同じ。

だが温度は違っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十一年 査閲艦隊旗艦・大会議室 アレク】

 

講評は査閲艦隊の旗艦で行われた。

 

大会議室である。

評価戦の講評は例年、統裁部の一室で事務的に済まされるという。

今年は部屋の格が三つ上がっていた。

 

学生五人が入室したとき、居並ぶ人の列がいっせいにこちらを向いた。

値踏みの目ではなかった。

アレクはその視線の温度を測りかねた。

正面の統裁官席に、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥。

その席の脇に三脚架の三人が立っていた。

 

「判定を申し渡す」

統裁部の主任が綴りを開いた。

「学生分艦隊、判定損害四割二分。勝利条件も合格条件も、未達。勝敗判定――教導隊の勝利」

主任は頁を一枚めくった。

「課程合否について。合格条件である『仮想増援到達までの要撃能力維持』を、学生側は戦闘中盤で自発的に放棄した。よって課程合否は不合格」

 

会議室の空気がわずかに動いた。

「なお、本評価戦における候補生側の戦闘後半の行動は、採点表の適用範囲を外れている。点数評価は――不能。採点欄に記載すべき数字を持たない」

会議室がざわりと揺れた。

 

勝敗表では完敗。

課程は不合格。

そして採点不能。

この組み合わせは、評価戦ではこれまでなかった。

「統裁官の所見を求める」

 

ミッターマイヤー元帥はすぐには口を開かなかった。

疾風ウォルフと呼ばれる男は、統裁官席から五人の候補生を順に見た。

その視線がフェリックスの手前でほんの一瞬だけ遅くなり、彼を越えて次へ流れた。

「所見を述べる」

元帥は立ち上がった。

「まず、規定に忠実な諸君のために言っておく。統裁部の判定は正しい。不合格と採点不能は規定の正しい適用である。――その上で」

 

ミッターマイヤーは居並ぶ帝国軍人たちのほうへ向き直った。

「諸君に問う。本日、不合格や採点不能を惜しんだ者がこの部屋に一人でもいるか」

誰も答えなかった。

元帥は教導隊の三人へ目を移した。

「教導隊は預かった職務を完璧に果たした。彼らが常に最強の敵であり続けたからこそ、本日の挑戦に値打ちが生まれた。両軍に統裁官として敬意を表する」

 

そして最後に。

「実動指揮の操艦について、一点だけ所見に加える」

会議室がさらに静かになった。

元帥が初めてフェリックスをまっすぐに見た。

「閉じかけた扉に百四十八隻を通したあの操艦手腕。――私の軍歴に照らして、比肩する例を二つしか知らん」

二つ、が誰と誰であるかを元帥は言わず、視線を外して着席した。

 

フェリックスは直立のまま、まばたきを一つした。

それだけだった。

 

 

***

 

 

「――発言を許可願いたい」

三脚架の中央でリヒター大佐が一歩前へ出た。

「教導隊を代表し、我々の壁を初めて越えかけた者へ講評を述べたい」

 

許可が下り、リヒターは五人の前へ進んだ。

骨太で角張った顔に、太い眉と固く結ばれた口がある。

『鉄面』と呼ばれる顔が候補生を順に見る。

「私は壁を務めてきた。壁の仕事は挑む者に高さを教えることだと、そう思っていた」

リヒターは背筋を伸ばした。

「間違いだった。……壁の本当の仕事は、いつか壁を越える者のためにそこに立つことだ。それを教えられた。――見事であった」

 

敬礼だった。

教導隊の大佐が学生に先に敬礼したのである。

低いどよめきが起きた。

 

「ちょっとちょっと、リヒター、一人で締めるなよ」

シェパードが笑いながら横に並んだ。

軽い足取りのまま、フェリックスの前で止まる。

「迂回隊、いや突入隊の。……あんた、扉に頭から突っ込むとき怖くなかったか」

 

「怖かったですよ」

フェリックスは即答した。

「時間が足りねえってずっと思ってました」

 

「だろうな。俺も殿軍でずっと怖い。――怖いのにちゃんと走れる奴は貴重だよ」

それから釣り師は声を落とした。

「今日な、俺はあんたの迂回隊の三百隻が本気でリヒターの背中へ出て刺しにくると思った。だから追った。追えば学生の三百くらいすり潰せると思ってた」

シェパードはフェリックスの顔を見た。

「あんたの三百隻は餌で、本命の刃は別にいると思ってた。そのうち本体から別動隊が出てきて壁に突入してくると思ってた。違った。俺が追って削ったあんたの艦隊が、そのまま刃になって俺たちの喉元へ入ってきた」

シェパードはにっと笑った。

「見られてたねえ。手の内、全部。――釣り師が言う台詞じゃないが、いい釣りだったよ」

 

 

***

 

 

最後にアルブレヒト大佐が気だるい足取りで前に出た。

その目は、指揮官席のアレクではなく、まず隅の補給幕僚に向いた。

「ブリュックナー候補生。付則三十七」

トビアスの背筋が伸びた。

「あの条文が最後に使われたのがいつだったか。ボクも教導隊へ来た年に規定を末尾まで読み、中立補給標定物の総量と配置を全部勘定へ入れました」

 

「……知ってたんですか」

 

「ええ。規定は末尾まで読んで初めて一冊ですから」

アルブレヒトは眠たげな目をわずかに細めた。

「ですが、止まって拾い、各艦へ移送すればその時間だけで赤字になる。だから使われない。そう計算していました」

その視線がトビアスの手元の帳面へ落ちた。

「あなたの仕事は、ボクが分単位で持っていた余裕を秒単位へ縮めました。――誇ってください。それから」

 

アルブレヒトは、そこで初めてアレクを見た。

「九年前、陛下は店番をしてみたいと仰いましたね」

アレクは一拍、返事を失った。

足の届かない大人の椅子。

大講堂を埋めていた真新しい軍服。

そして獅子の泉で、自分をちらりと見た眠たげな目。

「……憶えていたのですか」

 

「妙な注文は忘れにくいものです」

アルブレヒトはわずかに首を傾けた。

「店番にはなれませんでしたね」

 

「……はい」

 

アルブレヒトの目がトビアスへ移った。

「今日、店番をしたのはブリュックナー候補生です。陛下はその勘定を信じた」

眠たげな目がわずかに細くなった。

「陛下にはそちらのほうが店番より向いておられます」

 

 

***

 

 

散会の間際、統裁部の主任が三人の大佐を呼び止めた。

 

今日が三脚架にとって最後の評価戦であることを、三人は初めから知っていた。

二年間の教導勤務を終え、原隊へ戻る日が来ていたのである。

 

「常設教導隊の三名に、任期満了に伴う原隊復帰辞令を正式に交付する。……二年間、ご苦労だった」

 

リヒターが姿勢を正して受け取った。

シェパードは辞令の紙を軽く振って、名残惜しそうに天井を仰いだ。

アルブレヒトはあくびをかみ殺した。

 

壁は今日で、三人の壁ではなくなる。

明日から彼らはそれぞれの艦隊へ帰り、それぞれの持ち場へ戻る。

 

次にどの戦場で、どの立場で再会するのか。

それを知る者はこの場にはいなかった。

 

 

***

 

 

散会の後、アレクは統裁部の書記官を呼び止めた。

「指揮官報告書を提出する前に、一行、追記します」

 

「内容を」

 

「突入成功の戦技的要因の欄。第一に、砲術長ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクによる制圧射撃の適時性および精度――と、氏名を明記してください」

 

書記官は綴りを確認した。

「報告書の様式では、戦技要因は職名のみの記載が慣例ですが」

 

「慣例は義務でしょうか」

 

「……いえ。慣例です」

 

「なら、職名でなく、名前で書いてください」

書記官が去り、アレクは一人、廊下に残った。

窓の外に査閲艦隊の灯が並んでいる。

 

ハインリヒの背が羨ましく見えた。




――四百メートル。艦隊戦なら、誤差にもならない。

次回、『泥』
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