新帝国暦二十一年の秋、季節外れの豪雨が帝都レーヴェンシュテルン北部のグラウタール地方を襲った。
その災害について後世の帝国史はほとんど語ることがない。
死者二名、行方不明三名。合わせて五名の自然災害。
教国との戦争が死者や行方不明者を桁の大きく異なる単位で数えることになったからだ。
動員されたのは帝国軍の第七工兵連隊、地方自治体の消防団、近隣都市から駆けつけた民間の救援隊、そして――手が足りないというただそれだけの理由で――帝国軍士官学校の候補生たちだった。
記録が数行で済ませたその三日間。居合わせた者たちは生涯忘れなかった。
帝国軍の俊英たちをあと十一秒まで追い詰めた三日後。
彼らは四百メートルを進むのに一時間を要した。
***
【新帝国暦二十一年秋 士官学校・大講堂 フェリックス】
午前四時十二分。非常呼集の鐘は士官候補生たちの眠りを平等に破壊した。
フェリックス・ミッターマイヤーは起床から三分で軍装を整え、五分後には大講堂へ滑り込んだ。
周囲は寝癖と欠伸の博覧会である。
誰かが「実戦か」と囁き、誰かが「まさか」と返した。
壇上に人影が上がると囁きは消えた。
壇上に上がったのは当直士官だった。
彼は命令書を一枚、抑揚もなく読み上げた。
「北部グラウタール地方において閉山鉱山の残土
フェリックス達の隊を含むいくつかの区隊が現地派遣部隊として編成されるとのことであった。
士官学校付のリューデリッツ大尉が壇上に上がり派遣される候補生たちに訓示を行った。
「現地に着けば諸君らの区隊は第七工兵連隊フェルスター少佐の指揮下に入る。ゆめゆめ学生気分でおらぬようにな」
リューデリッツの声は幾分かの疲れは感じさせたが揺れなかった。
「第三小隊。ミッターマイヤー候補生以下、前線救出班。工兵連隊の直接指揮下に入れ。ブリュックナー候補生は物資と避難者数の統合。連隊本部付き。ヴァルター候補生、地形と泥流の予測。アイゼンベルク候補生、避難経路の維持と後続の統制。ビッテンフェルト候補生、避難所の運営支援」
リューデリッツはもう一枚の割り当てを読んだ。
「ハルランダー候補生、通信中継および民間救難回線の整理。現地指揮所付き。ローエングラム候補生の通信統合を補助せよ」
最後の一人の名を彼は少し声を落として読んだ。
「現地指揮所での通信および避難者照合、ローエングラム候補生。行動区域は警備上の理由により制限される」
割り当ての紙を配り終えるとリューデリッツは短く言った。
「今回は演習ではない。採点もない。手柄を立てようとするな。生きて、全員で帰れ。一人でも多くの臣民を救助せよ。以上」
装具倉庫の前では見知った顔が待っていた。
その一人はリディア・ハルランダーだった。
同学年で別区隊に属する通信科専攻の士官候補生。明るい栗色の髪を顎の下で切り揃え、細い銀縁の眼鏡を掛けている。その眼鏡の奥の灰緑色の目は完全に目覚めていた。
リディアは携行通信機を一台、フェリックスへ渡した。
動作確認を終えたフェリックスが接続ケーブルを丸くまとめる。
「丸く巻かないでください」
「ほどけりゃ同じだろ」
「いいえ。内部で捩れます」
リディアはケーブルを受け取り、中央で交差させながら巻き直した。
「八の字です」
「面倒だな」
「断線するよりはましです」
フェリックスは八の字に巻かれたケーブルを一度見てから通信機を装具へ収めた。
リディアは次の通信機を胸に抱え、自分の肩掛け帯を締め直した。
フェリックスがその右側を指した。
「髪、挟んでるぞ」
「え?」
「留め具のところ」
フェリックスは自分の耳の後ろを指で示した。
リディアは同じ場所へ触れ金具に噛んでいた髪を外した。
「……ありがとうございます」
「そのまま締めたら痛えからな」
「よく見てますね」
「目の前にあったからな」
リディアは眼鏡の中央を押し上げた。
何か言いかけたところへ横から声が入った。
「師匠――いや、先生。救命索はどちらに」
「後のほうの呼び方では呼ぶな、リー・ツァオ」
「師匠のほうならよろしいんですか」
「どっちもやめろ」
「それももうずっと聞いています」
「ならそろそろ聞き入れろ」
リーは聞き入れる顔をしなかった。
その隣で小柄な後輩がびくびくと装具の点検をしていた。
ハルトマンという名の一学年下の候補生である。
座学は上位だが実技になると手が震えた。今も震えている。
「ハルトマン」フェリックスはそいつの肩を叩いた。
「震えは止めなくていい。手がちゃんと動けばそれでいい」
「は、はい」
出立後の輸送車の中でクラインが端末の図面を回してよこした。
「残土堰堤というのは鉱山の捨て石を数十年ぶん積み上げた人工の堤です」
「堤なら水を止めるんじゃないのか」
「止めます。限界までは」
クラインは図の一点を指で叩いた。
「ただし限界を越えると堤そのものが水を含んで動き出します。つまり堤が崩れるのではありません。堤がまるごと泥流になるのです。その先にあるものはすべて押し流されます」
***
【同日・早朝 グラウタール地方・下車地点 フェリックス】
輸送車の下車地点から前線指揮所まで直線でおよそ四百メートル。
艦隊戦なら誤差にもならない距離を彼らは一時間かけて進んだ。
一歩ごとに泥が足を掴んだ。腿まで沈む。
評価戦で駆逐艦三百隻を指揮して三脚架を追い詰めた男は五歩目で転んだ。
後輩たちの視線が突き刺さる。
「笑ってろ。次はお前らが転ぶ番だ」
「五歩目でしたね」
通信器材を抱えたリディアが、雨粒のついた眼鏡の中央を押し上げた。
「数えるな、ハルランダー」
後輩たちは耐えきれずに笑った。
だがやがてフェリックスの予言は全員に成就した。
横殴りの雨が強くなってきた。
リディアは眼鏡を外し、胸元の防水ポケットから出した布でレンズを拭おうとした。
フェリックスは何も言わず彼女の風上へ半歩ずれた。
雨粒がフェリックスの肩を叩き、リディアの手元を外れた。
「早く拭け」
「あなたが濡れます」
「もうとっくに濡れてる」
リディアは一度だけ雨を受けるフェリックスの背を見上げた。それからその陰で眼鏡を拭いた。
対向から担架が来た。
泥だらけの毛布から白い足の裏だけが覗いていた。
それきり誰も軽口を叩かなくなった。
フェリックスは無意識に右手の拳を一度握って開いた。
前線指揮所の前で泥を鎧のように着た将校が待っていた。
第七工兵連隊のフェルスター少佐。四十がらみの叩き上げの工兵である。
「士官学校の候補生諸君か。よく来た」
少佐は候補生たちを一瞥して言った。
「諸君は若く、頑健で、命令に従う。うちの工兵に勝る点が三つもある」
笑っていいのかどうか誰にも分からない静けさが落ちた。
フェリックスは顔の泥を拭って手を挙げた。
「少佐。本作戦の任務終了条件は何でしょうか」
「いい質問だ」
少佐は鉛色の空を顎で指した。
「終了を決めるのは私でも、諸君でもない。雨だ」
***
【同日・午前 前線指揮所 トビアス】
指揮所の中は数字の洪水だった。
トビアス・ブリュックナーは数種類の帳簿を机に並べ、三十分黙り込み、それから顔を上げた。
「六十八人、足りません」
「……何の話だ」
自治体の担当官が振り返った。
トビアスは三冊の帳簿を順に叩いた。
「食料の搬入量。水道の使用量。診療所の受診件数。三つともおよそ四百六十四人ぶんあります。名簿の上の住民は三百九十六人です」
「一時滞在者だろう」
「この雨の三か月前から毎月きっちり同じ人数の一時滞在者が来るんですか。この谷に」
担当官は黙った。
「旧版の地図を見せてください。今の版ではなく鉱山が生きていた頃のものを」
古い地図の谷の奥にその名はあった。
第九労務宿舎。
現行の地図では等高線だけの空白になっている場所である。
「廃止、と記録にはあります」
トビアスは書類をめくった。
「撤去、とは書いてありません」
そのとき入口で衛兵と揉める声がした。
泥を頭からかぶった少女が立っていた。
「第九宿舎にまだ人がいます」
「現在の地図にその宿舎は存在しない」
「地図に書いてないだけです」
少女は息を切らしたまま言った。
「今朝そこから来ました」
フェルスター少佐が少女を見た。
「何人いる」
「私を入れて六十八人です。昨日の夜、配給札を数えました」
トビアスは顔を上げた。
名簿からこぼれた人数と同じだった。
「道は」
「南の道路は崩れました。西側の排水路なら一人ずつ通れます。途中に古い沈殿槽があります」
少佐は古地図に目を落とした。
少女の指した場所にはたしかに旧鉱山の沈殿槽が記されていた。
それでも少佐は首を振った。
「証言は聞いた。数字も合っている。だが一人の申告と三十年前の地図だけで隊を崩落域へ入れるわけにはいかん」
理由は正当だった。
「六十八人が谷のどこかにいる可能性は認める。だがその六十八人が本当に第九宿舎にいるという客観的な裏づけがない」
それまで壁際で聞いていた候補生が静かに口を開いた。
泥まみれである。だがその声には命じることに慣れた者の重さがあった。
「第九宿舎と六十八人を結ぶ記録があれば先遣班を出していただけますか」
「その記録が本物ならな」
クラインが古い地図の上に配水系統図を重ねた。
「第九支管です。旧宿舎だけに水を送る枝管でした」
指先が谷の奥へ延びる一本の線をなぞった。
「宿舎の廃止後も閉栓された記録がありません。遠隔検針の記録では過去三か月、平均して一日十一・六トンの水が流れています」
「漏水ではないのか」
「朝と夕方に使用量が増え、夜間には減っています。漏水ではこの波形にはなりません」
クラインは記録の一点を示した。
「六十人から七十人が生活している量です」
最後にハインリヒが規則集を開いた。
開く頁を探しもしなかった。
「救難規則第十九条。所在未確認の救助対象であっても現認者の申告と客観資料が整合した場合、現場指揮官は先遣救難班を派遣できる」
規則集を閉じる。
フェルスター少佐は、少女、配水記録、古い地図を順に見た。
それからヘルメットを被り直した。
「わかった。偵察救出班十二名まで認める。ミッターマイヤー候補生、お前を含めて十二名だ」
少佐は指を一本立てた。
「ただし私の合図で退く。中に子供が残っていてもだ。復唱しろ」
「合図があれば退きます」
フェリックスは答え、一拍置いた。
「納得はしていませんが、命令には従います」
「それでいい」
少佐は谷の奥を指した。
「行け」
***
【同日・昼 旧第九労務宿舎 フェリックス】
宿舎は斜面と排水路に挟まれて取り残されていた。
古い簡易宿舎の一階は半ば泥に埋まり、住民は二階と屋根へ上がっていた。
ざっと見て約七十人。
動けない老人がいる。乳飲み子の泣き声もする。
フェリックスの身体は考えるより先に飛び込もうとした。
通信機のほうがそれより速かった。
『ミッターマイヤー。班長が消えれば班は止まる。以上だ』
「……分かってる、アイゼンベルク」
フェリックスは舌打ちし自分では行かず、二人一組の班を三方向へ出した。
声だけをすべての方向へ届かせた。
『ミッターマイヤー候補生、定時応答をお願いします』
今度はリディアの声だった。
「聞こえてる」
『聞こえている、は報告ではありません。氏名、位置、状態を』
「フェリックス・ミッターマイヤー。旧第九宿舎東側。泥まみれ。機嫌は最悪」
『最後のひとつは不要ですが応答を確認しました』
回線が切れた。
フェリックスはほんの少しだけ口の端を上げ、それから屋根の上の被災民へ顔を戻した。
***
【同日・午後 泥流帯・観測点 クライン】
数字がおかしい、と最初に気づいたのはクラインだった。
地中センサーの値は机上の予測から静かに逸脱していた。
上流の残土堆積地が水を飲み、動き始めている。
第二波が来る。予測より、早く。
顔を上げると屋根の上の人々が見えた。
毛布をかぶった老婆。子供を抱えた男。
こちらを見ていた。
クラインは三十秒で計算を終え、通信機を取った。
「全避難の完了まで推定二十七分。第二波の到達予測は十六分後です」
声は平坦だった。
「十一分、足りません」
***
【同日・午後 第三避難所 アレク】
避難所では誰もが泥の色をしていた。
それでも人々は皇帝をすぐに見つけた。
泥の中で一人の周囲にだけ、人の立たない空白がある。
保安要員の作る不自然な円だった。
その中心で泥に汚れた金髪が淡く光っていた。
「あれは皇帝陛下だ」
声は火のように走った。
人々が押し寄せてくる。敵意も悪意もなかった。
家族を捜してほしい。役所に繋いでほしい。家が流された。薬が切れた。第九宿舎に人が残っている。
全員が皇帝ならば何とかしてくれると信じていた。
警護の保安部隊が動いた。
避難路の一部を閉鎖し、皇帝を後方へ退避させようとする。
「待ってください」
アレクは群衆の前へ出ようとして足を止めた。
彼が前へ出ればその周囲から人が退けられる。
負傷者を運ぶ車両の道がまた一つ消える。
「僕を、隠してください」
「……陛下?」
「僕が見えなくなれば道は開きます」
保安士官が一瞬言葉を失ったのは命令の中身にだったか、それとも十八歳の声にだったか。
一分後、アレクは仮設通信卓とともに、保安要員が囲む整備用コンテナへ移された。
保安部隊が、皇帝は救難指揮に移ったと告げる。
訴えは担当官が受け取る、と声を張る。
人垣が少しずつほどけた。
道が開き担架が通った。
コンテナの中でリディア・ハルランダーが携帯通信卓を床へ固定した。
工兵、民間救難隊、候補生隊。三つの回線を順に開き、互いの位置情報を表示盤に重ねていく。
表示盤に現れた「ローエングラム」の文字を見て彼女が訊いた。
「識別名はどうされますか」
「現地統合指揮に変えてください。僕の名前は要りません」
「了解しました」
工兵隊から北側斜面の再崩落が報告された。
民間救難隊からは第三避難所の鎮痛剤が一時間で尽きるとの連絡が入った。
候補生隊から第九宿舎へ向かった先遣班の帰路が塞がれかけていると届いた。
リディアが声を拾い、位置と時刻を揃えて表示する。
アレクは数秒だけ画面を見た。
「北側の工兵車両を一両、第九宿舎の退路確保へ回してください。第三避難所の薬品は第五避難所から半数を移送。ただし向こうの二時間分は残すこと。輸送路は担架を優先します」
命令が回線を通って流れていった。
コンテナの外では皇帝を捜す声がまだ聞こえていた。
だが暗がりの中でアレクは姿を見せないまま、人と道と時間を繋ぎ始めていた。
***
【同日・夕刻 排水路・対岸救出点 フェリックス】
仮設橋が流されたのは避難の最終段階だった。
対岸には第九宿舎の一棟が倒壊しかけたまま残っていた。
いくつかの窓に人影があり、その一つから子供の手が見えた。
救命索はかろうじて両岸に残っている。
だがこちら側の巻上機は泥を噛み、動かなくなっていた。
主索は岩盤に打ち込まれた環を通してあるだけだった。フェリックスは末端を腰に回し、両足を泥に踏み込んで張力を制御していた。
手を緩めれば索につかまって渡っている避難者と候補生がまとめて濁流へ落ちる。
行けない。
正確には――自分が行かないことを、選ばなければならなかった。
「自分が行きます」
リー・ツァオが予備索を肩に掛けていた。
「主索から離れるな。流れを正面から受けるなよ」
「はい」
「右の壁を使え。肩まで沈む前に半歩外へ逃がせ」
「教わったとおりに」
通信機からクラインの声がした。
『第二波まで残り六分』
対岸にはまだ救出を待つ窓がある。
リーは主索に安全環を掛け、予備索を身体に巻いた。
濁流へ足を入れる直前、振り返った。
「先生」
フェリックスは今度は訂正しなかった。
「行け、リー・ツァオ」
リーが泥の中を進み始めた頃、集積場ではトビアスが無人牽引車の荷台を叩いていた。
「毛布と固定索を積め。一両は負傷者輸送、もう一両には工兵用の巻上機を載せる」
「待て。人員輸送も工兵機材の牽引も規格外だ」
担当者が遮った。
「事故が起きたら誰が責任を取る」
「運ばなければ責任を取る相手ごと流されます」
通信にハインリヒの声が割り込んだ。
『候補生に転用の許可権限がないのはそのとおりです。緊急転用申請を送ります。起案者はアイゼンベルク候補生。フェルスター少佐の承認を求めます』
数秒後、別の声が応じた。
『フェルスターだ。転用を許可する。承認者は私、起案者はアイゼンベルク候補生。記録しろ』
さらにリディアがコンテナからの指示を中継した。
『二両目を救出点へ。負傷者輸送は一両で継続します』
トビアスは荷台を叩いた。
「聞いたな。動かせ!」
リーが子供を窓から引き出したとき、第二波が来た。
濁流が一気に嵩を増した。
リーの腰を越え、抱えた子供ごと身体が浮く。
索が軋んだ。
フェリックスの腰に回した末端が滑る。
「索を持っている者、ばらばらに引くな!」
彼は背後の候補生たちへ怒鳴った。
「合図で三歩ずつ下がれ!」
クラインの声が通信機から飛んだ。
『まだです。波頭が通過します。三、二、一――今です』
「引け!」
候補生たちが一斉に三歩下がった。
到着した牽引車が低速で逆進し、工兵用巻上機が主索の張力を引き受ける。
リーと子供の身体が濁流を横切って少しずつ近づいてきた。
最後の数歩で索をつかんだのはハルトマンだった。
手は震えていた。
それでも索を手繰った。
震えたまま誰よりも長く引き続けた。
フェリックスの言ったとおりだった。
震えても、手は動いた。
リーと子供が泥の上へ引き上げられた。
歓声が上がった。
その歓声の上へ二つの声が重なった。
一つはクラインの平坦な声だった。
『次がすぐ来ます』
もう一つは指揮所から届いたフェルスター少佐の合図だった。
『第三小隊、退け。全員だ。繰り返す、退け』
***
【同日・夜 前線指揮所 フェリックス】
最後の班が戻った頃には、指揮所の床まで泥に覆われていた。
通信卓の前で、リディアが帰還者名簿を読み上げていた。
明るい栗色の髪は片側だけ耳から外れ頬に貼りついている。
銀縁の眼鏡には乾きかけた泥が残っていた。
「第三小隊、十一名帰還。班長のみ未確認」
「ここにいる」
リディアが顔を上げた。
眼鏡の奥の目がフェリックスの頭から長靴までを一度だけ確かめた。
「見りゃ分かるだろ」
リディアは卓の端に置かれていた珈琲の入った杯を差し出した。
「飲んでください」
「俺より先に現場の連中へ」
「ほかの全員は受け取りました。あなたの帰還確認が最後だったので」
「……返事はしただろ」
「呼ばれてからずいぶん後にです」
フェリックスは杯を受け取りかけて止めた。
彼女の手元には空の杯しかなかった。
「お前の分は」
「通信担当として持ち場を離れられませんでした。また後で――」
フェリックスは卓上の保温ポットを取り彼女の杯へ珈琲を注いだ。
「なら今、飲め」
「命令ですか」
「提案だ」
リディアは一拍だけ彼を見た。それから杯を両手で包んだ。
「……いただきます」
フェリックスも自分の杯へ口をつけた。
ぬるかった。それでも泥と雨以外のものが身体の内へ入るだけでよかった。
フェリックスは杯を見たまま言った。
「悪かった。次は呼ばれたらなるべく返事をする」
リディアは眼鏡の奥からフェリックスを見た。
彼が冗談を言っているのではないと分かるまで少し間があった。
***
【翌朝 第三避難所・物資集積場 トビアス】
雨は夜明けの前に弱まった。
夜明けとともに各隊の報告が指揮所へ集まってきた。
第七工兵連隊は堰堤の仮締切を終え、消防団は主要地区の泥をかき出し、民間の救援隊は炊き出しを回していた。
トビアスは集計板を前に最後の数字を書き込んだ。
公式に登録されていた居住者、三百九十六名。
第九宿舎からの未登録住民の避難、六十三名。死亡二名。行方不明三名。
***
外部から救援物資が届き始めたのはそれからだった。
荷札にはグリューネワルト伯爵夫人、とあった。
毛布の山の間から袖をまくった少女が降りてきた。
荷を検分しながら来る身ごなしはもう一人前の侍女見習いのそれである。
もう子供と呼べば怒る年頃だった。
泥で誰の見分けもつかない候補生の列を少女は一瞥した。
一瞥で、済んだ。
「おにいさま!」
「……人違いです」
「泥の下でも分かります。休暇のたびにお顔を見ていますから」
クライン・ヴァルターは逃げ場を探す顔をした。
この男が作戦行動以外で逃げ場を探すのをトビアスは初めて見た。
「おにいさま、どろどろです」
「観察として正確です」
少女――リーゼは歪んだ包みを一つ、クラインの胸へ押し付けた。
クラインはそれを食べも捨てもせず、胸嚢へ入れた。
配食の列では大鍋のスープが湯気を上げていた。
リーゼは勝手に杓子を取った。
「名前を照合してから渡せと言われてるんだが」
配食担当者がぼやく。
「冷める」
赤橙毛の候補生――カーラ・ビッテンフェルトは手を止めずに言った。
「冷めますよね」
リーゼが隣へ並ぶ。
「あんた、速いね」
「おにいさまが離宮へ帰ってくるたびわたしがよそう係なので」
「ふうん」
二人の配食は見ていて気持ちがいいほど速く、そして適切だった。
カーラは量らずに正確に注ぎ、リーゼは相手を見て杓子を入れる場所を変えた。
歯の弱い老人にはよく煮えた芋の沈む鍋の底を。
育ち盛りには黙って、縁までなみなみと。
列はそれまでの倍の速さで流れ始めた。
泣いて名を言えない子供がいた。
カーラは牽引車の屋根から群衆を見渡し、同じ泣き方をしている女を見つけた。母親だった。
***
登録の机の前で一人の老婆が口を閉ざしていた。
第九宿舎から救われた六十三人のうちの一人である。
名前の欄が埋まらず、係のペンが宙で止まっている。
「お名前だけでも」
老婆は空白の欄を見た。
「前にも書きました」
「前に?」
「夫が死んだときに一度。配給が止まったときにもう一度」
老婆の指が机の縁をなぞった。
「どちらも返されました。第九宿舎には居住者はいない、と」
係のペン先がわずかに下がった。
「……ですから私の名など意味がありません」
係は返す言葉を持たなかった。
リーゼが深皿を二つ持ってきて老婆の隣に座った。
一つを渡し、一つを自分の膝に置いてよく食べた。
何も訊かなかった。
スープが薄いだの、芋が煮えすぎだのと、どうでもいい話だけをした。
皿が空になる頃、老婆のほうから少女に訊いた。
「……嬢ちゃん、お名前は」
「リーゼです!おばあちゃんは?」
「……クラウディア」
「クラウディアさん」
リーゼは立ち上がり、机へ向かって叫んだ。
「おかわり、クラウディアさんのぶん!」
係のペンが、動いた。
リーゼはいつのまにか深皿を一つ、クラインの前に置いていた。
「任務中です」
「よそいました」
「……いただきます」
議論の余地は最初から存在しなかった。
***
【同日・朝 前線指揮所前 アレク】
少女が――第九宿舎のことを最初に告げたあの少女が、行方不明者の名を告げに来た。三つの名前の二つ目が彼女の祖父だった。
捜索隊が入れるのは地盤が固まってからになる。
それが何を意味するかアレクは知っていた。
必ず見つけます、という言葉が喉まで来た。
彼はそれを飲み込んだ。
「もう一度名前を教えてください」
少女が一文字ずつ、答えた。
アレクはそれを書き留めた。
綴りを二度確かめた。
それだけだった。それだけのことにずいぶん長くかかった。
***
【三日後 士官学校・保安部別室 クライン】
帰校した五人を待っていたのは労いではなく、事情聴取だった。
誰が撮影したのか、救援現場を写した短い動画が通信網に投稿されていた。
投稿は十九秒後に、削除された。
どれだけ複製され拡散されたのかは分からない。
ただ一人の周囲にだけ、人の立たない空白があった。
そして画面の端に四人の候補生が映っていた。
同じ制服。同じ現場。同じ空白のそば。
「原投稿は削除されています」保安士官が言った。
「何人が、動画を見ましたか」クラインは訊いた。
「……分かりません」
クラインは静止した画面を見続けた。
自分の顔が空白のすぐ縁にあった。
***
【同刻頃 某辺境惑星】
窓のない部屋で十九秒の動画が繰り返し再生されていた。
司祭服の男たちが身じろぎもせず、画面を見つめている。
泥の群衆。人の立たない、不自然な空白。
その空白の中心にいる金髪に蒼氷の瞳の者が誰かは、問うまでもなかった。
彼らが知りたかったのは、その縁に立つ四人だった。
何度目かの再生で映像が止められた。
画面の下の卓には古い綴りが一冊、開かれたまま置かれている。
皇帝とその幼年学校の同級生たちの弱点を記した調査記録である。
「この者たちが誰か分かるか」
誰かが静かに問うた。
列の末端から若い司祭が一歩前に出た。
ローデリヒ・フォン・グリュックスブルク。
その場にいる誰よりも、綴りの中の者たちをよく知る男だった。
彼は泥の下の顔を一つずつ読み上げた。
「ミッターマイヤー。アイゼンベルク。ブリュックナー。それから、ヴァルター。クライン・ヴァルターです」
その名に反応した者はいなかった。
代わりに一人の老司祭が、最後に名を呼ばれた痩せた候補生の横顔に身を乗り出した。
「これは、クリュプタ……」
囁きは祈りにも、呪いにも聞こえた。
「記録では喪失したはずだ」
ローデリヒにはその語の意味が分からなかった。
司祭たちにはローデリヒの読み上げた名の意味が分からなかった。
――泥は洗えば落ちる。だが人の記憶に残ったものはそうではなかった。
次回、『クラインの失踪(前編)』