グラウタール地方での救援活動から十二日後、クライン・ヴァルターは消えた。
正確にいえばその日の朝はまだ消えてはいなかった。
***
【新帝国暦二十一年秋 帝都北部環状貨物帯・第七埠頭実習所 クライン】
豪雨が去ったあと貨物帯には届かなかった物と戻ってきた物があふれていた。
災害復旧兵站実習。
アレク、クラインやフェリックスたち士官学校の最上級生たちは帝都北部の環状貨物帯に配置されていた。
帝都星レーヴェンシュテルンはかつてフェザーンと呼ばれた商業の星である。
物流とはこの星の血管である。豪雨は血管に大量の血栓を残した。
それを溶かすため、軍と自治体と民間業者、そして人手不足を補う士官候補生たちが同じ詰所で働いていた。
任務は多岐にわたる。
救援物資の再配置。被災地から戻った余剰資材の仕分け。民間の貨物網と軍用輸送網の接続。
無人搬送車の運行管理。避難所ごとの不足数と送り出された荷の洗い直し。
演習ではない。数字を一つ間違えれば、どこかの避難所で毛布が一箱、届かなくなる。
「つまり諸君は」初日、民間側の年配の配車係はそう言った。
「野戦服を着た荷役要員だ」
誰からも反論はなかった。
「帳簿が俺を呼んでいる」
トビアス・ブリュックナーは返送数の不一致を立て続けに直して上機嫌だった。
「呼んでるのは次の荷だ」フェリックスが即答する。
「第三仕分け台」
「その前にこれを持ってください」
リディア・ハルランダーが予備電池二本を台車の縁へ置いた。
眼鏡の奥からフェリックスの胸の通信機を見ている。
「なんで俺だけ二本なんだ」
「救援活動のとき、あなたは予備まで使い切りました」
「三日間ずっと使ったんだ。当たり前だろ」
「ですから二本です。今度は電池切れを応答のない言い訳にはさせません」
「言い訳した憶えはねえぞ」
フェリックスはそう言いながら二本とも胸嚢へ入れた。
「先生、台車を回します」
リー・ツァオの腕にはまだ包帯が残っている。
ハルトマンの手のひらには救命索の擦過痕。
アレクは仕分け場の端で避難所ごとの不足数と搬出済みの荷を突き合わせていた。
警備上、彼の持ち場だけは建物の中と決められている。
以前の彼ならその区別に小さく傷ついたかもしれない。
だが今は区別の意味を知っている。
自分が外に立てば、警護線が外に出る。
警護線が出れば、民間作業員の動線が割れる。
カーラ・ビッテンフェルトは荷崩れした資材の山を後輩三人を合わせたほどの速さで積み直していた。
手伝いを頼んだ民間作業員が三分後には彼女の指示で動いていた。
クライン・ヴァルターは戻ってきた資材を一つずつ確かめていた。
午前中だけで彼は民間側の仕分けを三件差し戻している。
数量の桁違い。行き先コードへの旧番号の混入。判別できない確認印。
三件目を戻された年配の作業員は憤慨する代わりに若いのに大したもんだと笑った。
被災地から戻った荷には行き先と返却理由を示す票がついている。
その一枚の隅にそれはあった。
三本の短い縦線。
ただし中央の一本だけが半画ほど下へずれている。
事務員が見れば、作業員の手癖と思うだろう。
数量訂正の消し残りにも印刷の汚れにも見える。
クラインはその一枚をもう一度確認した。
「それ、さっき見ただろ」
フェリックスが台車越しに言った。
「確認精度の問題です」
「お前の確認精度に問題があったことあるのか」
「ないと判断できるのは二回見た後です」
フェリックスは笑って次の仕分け台へ行った。
昼、詰所の食堂で五人はいつもの席についた。
決めたわけではない。
実習が始まって三日目にはその卓が「五人の席」になっていた。
フェリックスが騒ぎ、トビアスが笑って話を展開し、ハインリヒが黙って山盛りを平らげ、アレクが避難所の話をし、クラインが最小限の相槌を打つ。
更新済みの回線表を抱えたリディアが卓の脇で足を止めた。
フェリックスは隣の空席へ置いていた上着を床の荷物へ移した。
「午後の回線表を届けに来ただけです」
「座って食ってけよ」
「通信卓の交代がまだ来ていません」
フェリックスは自分の盆から、紙包みの黒パンのサンドイッチを一つ取り、回線表の上へ置いた。
「じゃあ、持ってけ」
「あなたの分でしょう」
「俺は座って食える。お前は戻るんだろ。片手で食える方を持ってけ」
リディアはサンドイッチとまだ充分すぎる量の残った彼の盆を見比べた。
それから眼鏡の中央を押し上げた。
「……いただきます」
「おう」
彼女が去ったあともフェリックスの上着は床に置かれたままだった。
「椅子は戻さなくてよいのですか」
クラインが言った。
「今、戻すところだ」
トビアスは皿から顔を上げず口元だけを曲げた。
「なあクライン。午後の仕分け、第四貨物区側を代わってくれ」
「対価は」
「俺の尊敬」
「価値の算定が困難です」
「ひでえ」
いつもどおりの昼だった。
クラインはその席をいつもより半秒だけ長く見てから立った。
***
昔、彼がいた場所で返送票の隅のあの印は一つの意味しか持たなかった。
廃棄扱い。
ただし現物は回収せよ。
票には仮置先として第四貨物区とある。
だがその下に刷られた旧式の経路番号は現行の路線表に存在しない番号だった。
照合するまでもなくクラインには読めた。
廃止された北部支線の積替区画である。
***
その日の昼、クラインはその一枚を別便の束へ移した。
処理経路が変われば、午後の便は別の区画へ流れる。
偶然ならそれきりである。
***
午後、保安部によるクラインへの追加聴取があった。
例の十九秒の動画について形式的な確認が続いているのである。
「複製の追跡は」誰かが訊いた。
「継続中です。現時点で拡散の痕跡はありません」
「顔は」
「判別困難と結論されています」
候補生たちの間に目に見えて安堵が広がった。
その中で一人だけが手を挙げた。
「原動画に音声はありましたか」
保安士官は手元の端末を確かめた。
「……ない」
「原動画から切り出された静止画の有無は」
「確認できていない」
「……分からないということは分かりました」
クラインはそれきり何も訊かなかった。
***
聴取を終えて仕分け台へ戻ると返送票は元の束に戻っていた。
三本線の横に短い横線が一つ増えていた。
確認済みの意である。
移してから二時間と経っていない。
誰かが少なくとも二時間前までは彼の手元を見ていた。
そしてまだ見ていると考えるべきだった。
クラインはその一枚から顔を上げなかった。
確認印を押し、数字を入れ、次へ移った。
手は一度も止めなかった。
終業までに彼は貨物の出入りを業務を装って三つの系統から確かめた。
部外者が入った形跡はない。監視映像だけがその区画に限って二時間欠けていた。
映像を消せるほど内側に手を回している。
それで相手がどこまで入り込んでいるか測れた。
偶然は消えた。
これは教団からの接触だった。
***
【同日・夕刻 第七埠頭実習所・臨時講義室 アレク】
終業後、答案が返された。
教務回線を通じて実習所の臨時講義室の端末へ届いたのである。
課題は「ある会戦において司令官が専門幕僚の具申を退けた事例を挙げ、その決定の当否を論ぜよ」。
採点者は戦史講座のブーフナー教官である。
アレクはこれまでこの教官から及第点らしい及第点を貰ったことがない。
評は常に短く容赦がなかった。曰く、正しいが遅い。曰く、美しいが誰も救っていない。
画面の採点欄に今回は一語だけあった。
A。
基準が下がったのではないことをアレクは知っていた。
この教官は基準を動かさない。
動いたのは自分のほうだった。
彼は画面を閉じて誰にも見せなかった。
ただ閉じる前に一度だけ採点欄を見直した。
「なんだ今日、機嫌いいな」
並んで歩きながらフェリックスが言った。
「そう見えるか?」
「見える。飯でも奢れ」
「考えておく」
翌朝から始まることを二人はまだ知らない。
この日が三人にとって何も知らずに過ごす最後の一日になることも。
***
【同日・夜 士官学校・寮 クライン】
夕食のあとクラインはトビアスに借りたままだった小銭を返した。
「二か月前のやつだろ、それ。忘れてたわ」
「私は忘れません」
「相変わらず几帳面な奴だな」
「利子はつけていません」
「当たり前だ」
トビアスは笑って受け取りそれきり忘れた。
図書室では本を三冊、期限より九日早く返した。
四冊目として抱えてきた本は、図書室の返却台へは載せなかった。
七年前、まだアレク、フェリックス、クラインの三人が幼年学校にいた頃。
クラインが杯の異変を見抜かなければ、アレクはそこで死んでいた。
褒美を希望しないクラインにアレクは自分が幼い頃から読んでいたという古い航海記を差し出した。
――褒美ではない。貸すだけだ。返さなくていいとは言っていない
クラインは両手で受け取って「お預かりします」と答えた。
それから七年、本は彼の部屋にあった。
返却期限はなかった。
返さなくてよいとも言われていなかった。
クラインは古い航海記を左腕に抱えたまま図書室を出た。
フェリックスの演習課題にあった日付の誤りは黙って直した。
本人は気づかないだろう。それでよかった。
最後にアレクへ渡す予定だった補給計画を最後まで仕上げた。
半端な仕事を残すのは性に合わなかった。
共有領域へ移して閲覧権限をアレクだけに設定した。
机の中を整理した。
予備の制服を一着畳んで残した。
食堂の翌週分の食数登録を取り消した。
消灯後、クラインは航海記を抱えて資料室へ向かった。
暗がりは彼の作業を妨げない。
狭い場所と暗い場所で平静でいられることについて彼は誰にも説明したことがなかった。
灰色の目の少年が暗がりの奥からこちらを見ていた――そういう記憶が一つあるが、それも誰にも話したことがない。
彼は報告文を書き始めた。
宛先、軍務尚書ケスラー元帥。
――救援貨物の返送票に私の知る符号がありました。
続けて旧式の経路番号と欠落した監視映像について記した。
そこまでなら過去を書かずに済んだ。
だが警告に意味を持たせるには符号が何を示すのかを書かなければならない。
なぜ知っているのか。
どこで憶えたのか。
憶えさせられた場所で何を見たのか。
さらに送信経路を確認した。
貨物の流れを変え、監視映像を消せる者がすでに貨物帯の内側にいる。
この通信を通常の教務回線へ流せば軍務省へ届くより先に相手へ知られる可能性があった。
符号の意味を伏せたまま異常だけを知らせることもできる。
だがその場合に始まるのは自分への事情聴取と保護である。
封鎖と捜索が動く頃には相手は消えている。
その後もおそらく教団からの接触は続く。
そこまでは計算だった。
その先に計算ではないものが混じった。
自分だけが行けばよい。
危険は他人と分け合うものではない。
大事な人であるほど。
クラインはしばらく画面を見ていた。
それから送信欄を閉じて入力した文字を消した。
資料室を出て消灯後の廊下を通り部屋へ戻った。
左腕には古い航海記があった。
アレクの部屋の扉の下からまだ細く灯りが漏れていた。
クラインはその前で足を止めた。
右手が扉の高さまで上がった。
そのまま下りた。
本は彼と一緒に部屋へ戻った。
誰にも別れは言わなかった。
深夜、彼は机の明かりの下で退学届を開いた。
理由の欄には「一身上の都合」と書いた。
謝罪は書かなかった。行き先も書かなかった。
「即日の効力を希望する」と書いた。
ペンは保証人の欄の上を素通りした。
そこに書くべき名を彼は知っている。
八年前、この姓を書いてくれた人の名である。
空欄のまま次へ進んだ。
最後に署名の欄が残った。
「クライン」と書いた。
ペンがそこで一度止まった。
自分のものと言い切れる名はその一語だけだった。
それから「ヴァルター」と続けた。
署名を終えた退学届を彼は机の中央に置いた。
部屋の隅にはあの古い航海記が一冊。
その隣に十数日前の泥の日に貰った菓子の包みが手つかずのまま並んでいた。
返せる借りはすべて返した。
小銭も図書室の本も預かった仕事も。
七年前にアレクから借りた一冊だけは持ち主へ返さなかった。
返さなかったのか、返せなかったのか。
その違いはクライン自身にもよくわからなかった。
***
【翌朝 第七埠頭実習所 フェリックス】
朝食の席にクラインは普段どおりに現れた。
普段どおりに最小限を食べ、普段どおりにフェリックスの軽口を三つ受け流し、普段どおりに食器を返した。
違いがあったとすれば一つだけ。
立ち上がる前に卓を囲む四人の顔を一人ずつ順番に見たことである。
誰も気に留めなかった。
気に留めるにはあまりにも静かな視線だった。
午前八時三十分。
クラインは正式な外勤許可証を提示して実習本部を出た。
任務は第七埠頭から第四貨物区へ午前便の照合データを届けること。
門衛は端末上の許可を確認して彼を通した。
少なくともその画面に不審な点は一つもなかった。
外勤の指示は前夜、第四貨物区の物流系統から正式に発行されていた。
依頼経路も承認番号も本物だった。
ただしその依頼を端末へ入力したことになっている職員は前の月に退職していた。
「クライン」
フェリックスが門の内側から声をかけた。
「昼までに戻るか。飯の席、取っとくぞ」
クラインは半秒だけ間を置いた。
「……お願いします」
彼は敬礼して貨物区へ続く高架通路へ消えた。
フェリックスはその半秒を後になって何度も思い出すことになる。
後世の学校史はこの日をたった一行で記す。
候補生一名、外勤より未帰還。
その一行の内側はこうであった。
九時十分。到着予定時刻。
九時二十分。第四貨物区から未着の連絡。
九時二十五分。当直士官が本人端末へ照会。
九時二十八分。応答なし。
九時三十二分。現地保安部へ通報。
九時四十分。実習区域の全出口、封鎖。
未着連絡から二十分で網は閉じられた。
閉じられた網の中にクラインはもういなかった。
九時五十分。
寮の部屋から退学届が発見された。
***
部屋は荒らされていなかった。
私物は大半が残っていた。
壁際にあの古い航海記があった。
その隣に手つかずの菓子の包み。
机の中央に退学届がまっすぐに置かれていた。
「ふざけんな」
フェリックスはそれだけ言った。
この男はいつもこうだった。
黙って引き受け、黙って始末をつけ、こちらが気づいた時には全部終わっている。
今度もそうだ。また黙って。
怒りの底に何があるのかをフェリックスは考えないことにした。
考えれば、動けなくなる。
アレクは退学届を読み、それから部屋を見た。
文面を追う時間より残された物を見る時間のほうが長かった。
「フェリックス」
「なんだ」
「これは衝動で逃げた人間の部屋じゃない」
「……じゃあ、何だ」
「何もかも順番どおりに片づけてある」
アレクは机の隅の航海記を見た。
端末に残った補給計画の送信完了表示を見た。
戻らないつもりの人間なら仕事を仕上げ、借金を返し、図書室の本も返す。
クラインは実際にそうした。
それなのに七年にアレクから借りた一冊だけは返す形にはしていなかった。
補給計画と同じように自分の手を離れる場所へ送ることもできた。
だが航海記はクライン自身の物を置く壁際にあった。
返したのではない。
置いていっただけだった。
「自分のために逃げたんじゃない」
アレクは言った。
「クラインからのメッセージだ。僕たちを来させないために自分の意思で逃げた形を作ったんだと思う」
フェリックスが何かを言いかけてやめた。
来させまいとしている相手が誰なのかは訊くまでもなかったからである。
***
【同日・午前 士官学校寮・クラインの部屋前 ハインリヒ】
ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクは退学届を三十秒で二度読むと宣告した。
「これは退学届として完成していない」
「そう書いてあるだろ」フェリックスが言った。
「退学する意思は示している。だが効力は発生しない」
ハインリヒは欄を順に指で叩いた。
「一つ。退学には身元保証人の確認が必要と規定されている。保証人欄は――空白だ」
指が次の欄へ移る。
「二つ。即日退学は規定上できない。教務会議と医務確認を経る。最短でも六日かかる」
ハインリヒはそこで初めて退学届から顔を上げた。
「ヴァルターがこの程度の規則を知らないはずがない」
「じゃあ、何のためだ」
「ヴァルターは退学届としての効力がないことを知っていた。捜索の初動を誤らせるためだ。拉致や事故ではなく自分の意思で学校を去ったというメッセージだ。その分だけ追跡は遅れる」
廊下が静かになった。
昼前、教務から短い通知が来た。
軍務尚書ケスラー元帥は退学届を受理せず保留とした。
***
【同日・午前 実習本部・貨物管理室 トビアス】
「乗ってない」
トビアスは搬送車の履歴を三度たどって断言した。
「クラインが使うはずだった九時の便に乗った乗車記録がない」
「じゃあ、歩いたのか」
「この貨物帯を?徒歩で?」
トビアスは首を振って貨物管理室の民間職員を振り返った。
「すみません。車体側に重さは残ります?」
「車軸荷重ならね。配車とは別系統だよ」
職員は端末を叩きながら説明した。
無人搬送車は配車、料金計算、整備監視の三系統でそれぞれ積載の変化を拾う。
一つを書き換えても別会社の料金計算と整備局の車軸センサーまでは同時に消せない。
「ここだ」
トビアスの指が一行で止まった。
「八時五十二分発、旧貨物支線行き」
旧貨物支線。
鉱山時代の遺物で環状貨物帯の北の外れから廃止された積替区画へ続く線である。
災害復旧用の予備線という名目だけがかろうじて残っている。
配車画面には規格コンテナ一基とだけ表示されていた。
だが荷役台で量られたコンテナの重量と発車時の車軸荷重が合わない。
差は六十五キロだった。
「六十五キロ」
「鞄を持った人間一人ならそのくらいだ」
トビアスは端末を押し戻した。
「消したつもりでも車軸は重さを憶えてる」
***
【同日・午前 第七埠頭・貨物駅 カーラ】
現地保安部の聞き取りに、カーラ・ビッテンフェルトは候補生側の確認役として同席していた。
駅員は協力的だった。
「その候補生なら見ましたよ。九時前です。黒髪で痩せていて、襟章は最上級生。黒い業務鞄を提げて、第四貨物区側の通路へ」
顔立ちを訊けば詳しく答えた。
制服の細部も髪形もよどみなく答えた。
カーラが口を挟んだ。
「靴は」
「は?」
「泥染み」
駅員は初めて言葉に詰まった。
「……普通の軍靴だったかと」
「鞄は。どっちの手」
「…………」
「歩き方」
駅員は答えられなかった。
顔と制服と髪形。
あらかじめ教えられる特徴には答えられた。
実際に見なければ分からないことには答えられなかった。
カーラは駅員に礼を言い聞き取りを担当していた憲兵曹長の脇へ寄った。
「見ていません」
「身柄を押さえるか」
「まだです」
カーラは第四貨物区へ続く通路を見た。
「教えた者を逃がします」
憲兵曹長は駅員を一度見た。
「泳がせろということか」
「はい。報告に行くと思います」
尾行は憲兵隊が引き受けた。
三十分後、現地保安部の回線へ短い報告が入った。
駅員と接触した作業服の男一人が旧貨物支線の方向へ消えたという。
***
【同日・正午 実習本部】
正午前、軍務尚書ケスラー元帥の名で命令が届いた。
士官候補生の単独捜索を禁ずる。
ただし災害実習のため現地周辺に展開中の候補生に限り、憲兵隊指揮下の分析・照合班へ編入する。
現地確認を要する場合は必ず憲兵が同行する。
憲兵将校が集められた候補生の前で命令の趣旨を読み上げた。
「敵を追うのは我々の仕事だ」
将校は数十人の候補生の顔を見渡した。
「諸君の仕事は違う。諸君はヴァルター候補生が何を選ぶかを考えろ。彼がどこへ入り、どこを避け、何を守ろうとするか。それを知っているのは憲兵隊ではない。諸君だ」
列の中から遠慮のない声が飛んだ。
「つまり迷子の捜索ですね」
「迷子の捜索も任務のうちだ」
将校は真顔で返した。
「異論があるか」
「ありません!」
「質問はあります」
「言え」
「見つけたら、殴っていいですか」
「順番待ちだ」
笑いが起きた。
「あいつが迷子になるとは思えませんが」
別の声だった。
将校は少しだけ間を置いた。
「では迷子ではないのだろう。……余計に急げ」
笑いが引いた。
ハインリヒが貨物帯の地図を机の中央へ広げた。
トビアスが運行端末を抱えて隣に座った。
第七区隊三十九人がそれぞれの道具へ手を伸ばした。
隣の区画で同じ実習に出ていた別区隊のカーラも上着を取った。
下級生のリー・ツァオが腕に包帯をつけたまま立ち上がった。
同じく下級生のハルトマンは震える手で通信機を配り始めた。
その隣でリディアが一台ずつ呼出符号を登録して貨物帯の民間回線と候補生用の回線を接続していった。
ハインリヒが班編成案を読み上げると、憲兵将校が頷いた。
「通信担当。ハルランダー。各班は、十五分ごとにハルランダーへ定時応答」
フェリックスが通信機を受け取るより先に、リディアが言った。
「呼び出しには――」
「必ず応答だろ。憶えてるよ」
フェリックスは通信機を肩へ掛けた。
リディアの指が留め具の上で一度だけ止まった。
候補生三、四人につき憲兵が一人ついた。
分析項目には監視映像と搬送車の動きの照合だけでなく、必要な現地確認も含まれていた。
投影図の上に生じた疑問を彼らは憲兵とともに現場へ確かめに走った。
第七区隊では支度をしながら候補生たちの間で勝手な声が交わされていた。
「にしてもヴァルターの奴、水臭えよなあ」
「借りだけ返して消える奴があるかよ」
「これから全員でまた貸しを作るんだろうが。今度は簡単に返せないほどのな」
誰も悲壮な顔をしていなかった。
悲壮になるにはまだ早い。
探しに行けば、クラインはいる。そういう顔だった。
民間の詰所からも人が出た。
初日に「野戦服を着た荷役要員」と言った年配の配車係が壁面投影へ民間用の旧配線図を重ねた。
「荷役仲間だろう、あの兄ちゃんも」
それだけ言って持ち場へ戻った。
アレクは浮かび上がった経路の前に立ち、道を消していった。
「人目のある大通路は選ばない。でも袋小路も選ばない。あいつは逃げ道のない場所には入らない――自分の意思でなら」
最後の一言だけ声が低くなった。
消されずに残った経路は三本。
三本とも旧貨物支線に絡んでいた。
トビアスが見つけた重量差。カーラが見抜いた偽証言。その背後の男が消えた方角。三つがそこに重なった。
***
【同日・正午 旧貨物支線・積替区画 クライン】
旧貨物支線の終端は静かだった。
現役を退いた積替区画。
廃止されて久しく、人の気配はないことになっていた。
クラインはその中央に一人で立っていた。
読みはこうだった。
符牒を追って自分が来れば、敵は自分だけを見る。
正規に見える外勤命令を利用した。
効力がないと知りながら退学届も置いた。
少なくとも彼自身はそれでアレクやフェリックスや他の候補生を自分から切り離したつもりだった。
狙われるべき理由はいまこの身一つに集まっている。
あとは相手の網の形を確かめる。
証拠を確保して貨物帯を出てから軍用回線でケスラーへ直接報告する。
その後は。
危険は分け合うものではない。
自分で引き受け遠くへ運ぶ。
そう決めて生きてきた。
周到に痕跡を読んだ。
送電を止めたはずの区画に生きた電力が来ている。
換気装置の埃の積もり方が三か所だけ浅い。
床の防塵塗装に最近ついた車輪の跡。
十数人。多くて二十人。
それだけの人数がこの「無人」の中で寝起きしている。
一人で来た判断に誤りはないとクラインは考えていた。
これだけの網を学校の近くに張った相手へ丸腰の同級生を近づけるわけにはいかない。
自分一人で終わらせるべきものだと彼は信じていた。
区画の隅で死んでいたはずの通信端末が点灯した。
『……よぉ』
粘りつくような男の声だった。
『ちゃんと一人で来たんだなぁ。感心、感心』
聞いたことのない声だった。
だが相手がこちらの返事を待っていないことは分かった。
会話ではない。反応を試している。
口調から教団の人間ではない、とクラインは判定した。
クラインは動かなかった。
声の方向、反響、電源系統。読み取れるものをすべて読み取っていた。
『そう硬くなるなよぉ。
答えなかった。
声は少し間を置いた。
そのとき通信端末のスピーカーが沈黙した。
代わりに耳へ着けた通信機が低く鳴った。
クライン個人の通信機へ強制的に誰かが割り込んできた。
声は一語だけ告げた。
『クリュプタ』
八年間、一度も呼ばれなかった名だった。
クライン・ヴァルターの表情は動かなかった。
ただ右手の指が掌へ食い込むほど強く閉じた。
声はそれきり黙った。
沈黙が彼の返事を愉しそうに待っていた。
――「四人までは読めたんだがなぁ」
次回、『クラインの失踪(中編)』