銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第三十六話「クラインの失踪(後編)」(新帝国暦二十一年秋)

【同日・夜 物流管制所・中央管制室 フェリックス】

 

アレク達がどの経路も選ばず待つことがわかると、やがて敵の開けた経路は三本とも閉じた。

 

その後しばらく何も起きなかった。

隔壁の表示は赤のまま動かない。換気も戻らない。

設備担当が酸素残量を読み上げる声だけが、一定の間隔で続いていた。

 

そのとき管制図の一点が白く変わった。

 

「開きました。今度は経路Aのみです」

貨物用副通路の隔壁が上がっていく。

同時に先ほどは落ちていた監視映像が戻った。

 

副通路の内部が映る。

荷は退けられ、その先に外周からの照明の光もうっすら差し込んでいた。

 

「外へ出られるぞ!」

憲兵の一人が声を上げた。

 

『待ってください』

副管制室からクラインの声が届いた。

 

映像の奥で、影が一つ横切った。

十字路の手前で止まった。こちらを見て、また消えた。

『向こうも、こちらを見ています』

クラインが続けた。

『監視映像が戻ったのと隔壁が開いたのが同時です。同じ手で操作できる場所にあるということです』

 

技術士官が監視映像の倍率を上げた。

天井裏に小さな熱源が二つあった。

出口の十字路を左右から挟める位置である。

 

「……小型の遠隔銃座です」

技術士官は映像から目を離さず言った。

「映像が切られている間に据えられていたんでしょう」

 

やがて隔壁がまた下りた。

監視映像も同時に落ちた。

管制図から白が消え、赤だけが残った。

アレクは動かなかった。

 

 

***

 

 

【同日・夜 管制所外周・搬入口 ハインリヒ】

 

隔壁の外側に、搬入口へ続く保守通路があった。

 

最外周の隔壁では切断班が作業を続け、その手前には救出者を受け入れる憲兵班と医療要員が集められていた。

候補生たちの通信もここを中継点として外周の各区画へ伸びていた。

 

この場所の安全を失えば、管制所の中にいる者たちは隔壁を抜けても行き場を失う。

出てくるところを狙い撃たれる。

 

ハインリヒはその出口を守っていた。

 

「アイゼンベルク候補生」

憲兵分隊長が簡略図を広げ、東側の一点を指した。

「妨害波の発信源はあの給電塔らしい。通信が乱れているせいで外周の三班と連絡が取れん。候補生を半分回してほしい。塔を押さえれば全体の指揮が戻る」

 

妥当な提案だった。

通信を回復できれば孤立した班を動かせる。増援の誘導も切断作業の調整も早くなる。

 

だが給電塔はここから東へ八百メートルはある。

候補生を半分出せば、この入口を守る人数も半分になる。

 

そして敵は通信を妨害しながら、この通路をまだ塞いでいなかった。

発信源を見せていること自体が誘いではないのか。

給電塔に人数を割けば、手薄になったこの場所を狙い撃ちにされるのではないか。

 

「回せません」

ハインリヒは即答した。

「給電塔を取れば通信は戻ります。ですがその間にここの安全が失われれば、中の者は隔壁を抜けても外へ出られません」

 

分隊長が搬入口を見た。

「給電塔が囮だというのか」

 

「断定はできません。ですが、敵はこちらの退避経路を読んでいます。通信を取り戻すために、陛下たちの出口を失うわけにはいきません」

 

管制所の方角で鈍い音がした。

何の音かは分からなかった。中の様子は、ここからは何も見えない。

 

中にいるのは、アレク、フェリックス、クラインだけではない。救出班も、通信士官も、管制職員もいる。

自分一人が管制所に駆けつけても増える戦力は一人分である。

ここを保てば全員を帰せる。

 

憲兵分隊長は数秒考え、簡略図を畳んだ。

「了解した。給電塔には別経路から偵察を出す。ここの維持を優先する」

 

ハインリヒが頷いた瞬間、銃声が聞こえた。

ブラスターではなく実体弾の音だった。

報告が入った。

 

『資材通路で被弾。手動開放班、動けません』

候補生回線の声は途中で切れた。

資材灯の切れた区画である。

外気取入口の手動開放所へ向かう班が、そこを通っていた。

 

「距離は」

 

「二百四十」

観測の憲兵が測距儀を上げた。

「資材架の陰から三人以上。撃ってきています」

 

「ブラスターは出すな」

憲兵分隊長が言った。

「ここは貨物区画だ。何が積んであるか把握できていない」

 

「実体弾なら熱がブラスターほど出ん。ブラスターは当たった先を高熱で焼く。外れた一発でも引火のリスクが大きい」

分隊長は資材架の列を見た。

「実体弾は当たったところしか壊れん。当てなければ何も起きん」

 

ハインリヒは走らなかった。

「狙撃銃を」

 

制式の狙撃銃である。候補生に渡すものではない。

「うちの射手は東です。ここに戻すのに十分」

別の憲兵が言った。

 

曹長が背から外して渡した。

実習用ではない。

「アイゼンベルク候補生、扱えるのか」

 

「そのために訓練しています」

 

「出動前に貴官の成績は見ている。去年の射撃実技、学年二位だな。一位のミッターマイヤー候補生は、いま中にいるわけだ」

一拍置いてから、弾倉を添えて渡した。

アイゼンベルクがずっと、この場所から動かなかったのを憲兵は見ていた。

「相手は動くぞ。外すなとは言わん。どこへ外すかを決めてから撃て」

 

ハインリヒは伏せて脚を立てる。

距離二百四十。夜間。横風は資材架に遮られてほとんどない。落下は計算できる。

撃つ相手が動いているかどうかだけが変数だった。

 

倍率を上げると、資材架の間に発砲炎が三つ。

その手前で候補生が二人倒れている。一人が動き、一人が動かない。

 

『ハルトマンが撃たれた。肩と腹だ』

 

ハインリヒは右端の発砲炎の上を見た。

鋼材の梁。その奥は空の棚である。

反対側は圧縮ガスの集積でそちらへ跳ねれば引火して貨物帯が一つ消える可能性がある。

引き金を引いた。

一発目は発砲炎の三十センチ上を狙った。

鋼材が鳴り火花が散った。跳弾は空の棚に吸い込まれた。

三つの発砲炎が一斉にそちらへ向いた。

その瞬間、憲兵班が横合いから撃った。

 

「二番、修正。同じ場所」

 

二発目は外さなかった。

右端の発砲炎が消えた。

残る二つが資材架の奥へ下がる。

下がりながら、まだ倒れている候補生の方へ向けて撃った。

 

「奴ら、殺す気か」

ハインリヒの声は変わらなかった。

だが引き金にかける指の速さは変わった。

 

三発目。四発目。

 

それきり撃ち返しはなかった。

憲兵と候補生が資材通路へ走り込む。

倒れていた二人が引きずり出された。

ハルトマンは意識があった。

もう一人は動かないが息はしていた。

 

医療要員が撃たれたハルトマン達を搬入口へ運ぶ。

その横を、無事だった三人が工具箱を抱えて手動開放に向かっていった。

ハインリヒは狙撃銃を曹長へ返して搬入口へ向き直った。

守ると決めた場所からまだ動いていなかった。

 

 

***

 

 

そのころ移動指揮車では、指揮官の男が東の給電塔と搬入口を同じ画面に映していた。

 

「罠には食いつかんか」

 

給電塔から妨害波を出した目的は通信を断つことだけではない。

ハインリヒが読んだとおり、管制所からの出口を守る兵力を引き剝がすことだった。

 

そこへ別の報告が入った。

「北西の資材通路で交戦。こちらの三名が応射不能です」

 

男の指が止まった。

 

「……今日は殺すなつったろぉ」

 

「現地採用の連中です」

 

「聞こえてねえのか」

 

「聞こえています。従っていないだけです」

 

男は数秒黙った。

画面の中では、担架が二つ搬入口へ運ばれていく。

 

「まぁ仕方ねえ。もともと期待してねえしなぁ」

部下は何も言わなかった。

男は倍率を上げ搬入口の一点を拡大した。

伏せた姿勢から立ち上がる候補生が一人、狙撃銃を憲兵へ返している。

 

「アイゼンベルクです。第七区隊の候補生」

 

「二百四十であれかぁ」

薄ら笑いが戻っていた。

「ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。憶えたぞ」

 

 

***

 

 

【同日・夜 現地本部・貨物管理室 トビアス】

 

同じ形式の指揮信号が四か所から発信されていた。

 

「本物のところに指揮官がいる。だが信号だけでは見分けられん」

電子戦要員が画面を切り替えた。

「四つとも同じ強さ、同じ符号、同じ間隔だ」

 

「では信号を出すために何を使っているかを見ます」

トビアスは四地点の電力消費を並べた。

 

一地点だけが違った。

通信端末を何台も動かし、人員が長時間詰めているような電力を使っている。

冷却装置の負荷も大きく、排熱も絶えず変動していた。

「偽の発信点にも電力は要ります。でも信号を中継するだけならこれほどは使いません」

 

電子戦要員が身を乗り出した。

「その地点が本物か」

 

「まだです」

トビアスは時刻を進めた。

 

大きな電力を使う地点が西から東へ一つずつ移っていく。

およそ二十分ごとに隣の給電区画へ渡っていた。

建物なら電力を使う場所そのものは動かない。

「設備ごと一定速度で移動しています」

 

「車両か」

 

「軌道上の保守列車です。現在位置は西環状線」

トビアスは同じ時刻の車軸センサーを重ねた。

電力の移動と同じ経路を、三両分の車軸反応が進んでいる。

「クラインが聞いた床の振動とも合います」

 

「電気を落として止められるか」

 

「列車はすぐには止まりません。車両に動力を積んでいます」

トビアスは排熱の記録を出した。

「ですが冷却は外から引いています。これだけの熱を、車載の電池では捨てきれません。長くは居続けられなくなります」

 

「どこで落とせる」

 

「変電区画です。一番近くにいるのはビッテンフェルトの班です」

トビアスは通信卓へ向いた。

「搬入口のアイゼンベルク候補生経由で回します」

 

 

***

 

 

【同日・夜 西環状・変電区画 カーラ】

 

駅員と接触した作業服の男を、憲兵隊はまだ泳がせていた。

 

男は旧貨物支線から戻り西環状の変電区画へ入った。

そして保守列車へ給電する回路のそばを離れなかった。

 

カーラたちが民間主任と遮断の可否を話し始めた。

作業服の男は、そこから三歩ほどの位置にいた。

 

緊急遮断、という言葉が出た瞬間、男は設備ではなく腰の通信端末へ手を伸ばした。

 

カーラが顎を引く。

憲兵伍長が背後から男の腕を取った。

 

男はそれでも端末へ届こうとした。

取られた腕ごと身体をひねり、もう一方の手を腰へ回す。

 

カーラのほうが速かった。

腰の端末を蹴り上げた。

返す動きで男の手首を押さえ、伍長の側へ体重ごと倒した。

 

三秒だった。

男は床に伏せられ、伍長が膝で背を押さえた。

 

カーラは自分の手を一度だけ握って開いた。

それから通信機を取った。

「第九班、ビッテンフェルト。西環状の変電区画で敵一名確保」

 

応答は搬入口から返ってきた。

『アイゼンベルクだ。ビッテンフェルト、まだそこにいるか』

 

「いる」

 

『敵の指揮車両へそこから電気が行ってる。落とせるか』

 

「訊いてみる」

カーラは民間主任へ向き直った。

「ここから落とせる?」

 

「はい。ですが安全確認まで十五分かかります」

 

「遅い。最短は」

 

主任は設備を見た。

「診断を並行すれば十二分。ただし人手が要ります。電源遮断には、検電器と接地短絡器、あと絶縁マットが必要です」

 

カーラは振り返り候補生たちへ短く告げた。

「運んで」

 

 

***

 

 

移動指揮車に報告が入った。

「変電区画で給電遮断。ビッテンフェルトの娘です。車両の排熱ができなくなります」

 

男は事前評価を思い出した。

近接戦を好み、突破力に富む。

そこから勝手に描いていたのは、真っ先に敵へ飛びかかる姿だった。

 

画面の中の女は突撃せず、技術者の指示で絶縁具を運んでいる。

 

「情報よりも頭が冷えてるじゃねえか」

男は事前評価をその場で書き換えた。

 

 

***

 

 

【同日・夜 物流管制所・中央管制室 フェリックス】

 

情報が続けて中央管制室へ届いた。

 

カーラの班が軌道設備への給電を遮断した。

経路の途中にある遠隔銃座も同じ系統から電気を取っていた。

 

「止まったか」

 

「止まったはずですが」

技術士官が答えた。

「映像も一緒に切られています。確認はできません」

 

ハインリヒの班が最外周の保守端子を押さえた。

そこから施設の制御権を一定時間だけ敵から奪い返し、隔壁を開いた状態で保持できると技術班が報告した。

 

「どれくらいだ」

 

「百四十秒間だけです」

 

その時間だけなら、外周に出る途中の隔壁を開いたまま保持できる。

 

随行の警護官が前へ出た。

「開くのであれば陛下だけでも外へ」

 

「開けられることとその先が安全であることは別だ」

グレーベ大尉が言った。

「銃座が止まったかは確認できていません。副通路の先に別の仕掛けがないかも、確認できていません。まだ敵の実行員が近くに残っています」

 

「では、どうしろと」

 

「確認できていない射線に二十六人を一列で通すわけにはいきません」

大尉は管制図を指した。

 

アレクは口を挟まなかった。

ここで保たせると決めたのは自分である。

 

トビアスが敵の指揮車両とみられる列車の現在位置を共有した。

数分後、経路Aの隔壁を抜けた先の分岐点をその列車が通過する。

 

「目で確かめる必要がある」

グレーベ大尉は、列車と管制所の間にある通路を見た。

「車両番号、外形、アンテナ、排熱部。通常の保守列車ではないと判定できる映像が要る。乗員が映れば、なおいい」

 

「全員では通せないと言ったばかりでは」

 

「単独なら、走っていけます」

 

問題は時間だった。

列車を撮影できるのは西環状線の分岐を通過する数秒間である。

分岐を抜ければトンネルへ入りその後は外から見えなくなる。

 

経路Aの隔壁を抜けて分岐点まで走り、数秒の映像を撮る。

それから同じ経路を引き返し、敵に隔壁の制御権が戻る前に中央管制室へ戻らなければならない。敵の実行員の待ち伏せや他の仕掛けも予想されるなか、一人でそのまま外周に出ようとするのは自殺行為である。

 

技術士官が通路の距離と装具重量から、所要時間を算出した。

 

防弾装具を着けた突入要員では、観測地点まで最短でも八十二秒。

往復に撮影を加えれば、百七十秒を超える。

制限時間は百四十秒。間に合わない。

 

候補生たちの身体記録が照合された。

一人だけ、列車が見えているうちに観測地点へ着き、撮影を終えて百四十秒以内に戻れる者がいた。

 

フェリックスだった。

「映像を撮り、制限時間内に戻る。両方の時間に間に合うのは俺だけです」

 

グレーベ大尉は数秒アレクを見た。

それからフェリックスへ向き直った。

「ミッターマイヤー候補生。偵察を許可する。列車への接触は禁止。追跡もするな。撮影は十秒以内。制御奪回から百四十秒以内に戻ってこい」

 

「了解」

 

候補生回線からリディアの声が入った。

 

『往路の基準時間は五十八秒。撮影十秒。帰路六十一秒。余裕は十一秒です』

 

「充分だ」

 

『充分かどうかは、戻ってから判断します』

 

「了解。百四十秒以内に戻る」

 

施設技師が保守端末を叩いた。

経路Aの隔壁の表示が赤から白へ変わる。

重い隔壁が上がった。

 

『制御奪回。計時開始』

 

フェリックスは走り出した。

 

副通路を抜け、保守梯子を下りる。

観測地点は橋脚の裏だった。

軌道まで十メートル。

 

暗がりへ身を伏せたとき、保守車両が分岐へ入ってきた。

 

 

***

 

 

敵の移動指揮車の中で、報告が重なった。

「軌道給電、遮断。排熱できません」

 

「外周の候補生網は維持されています」

 

「指揮車の位置を絞られた可能性」

 

「憲兵隊増援、第二環状を通過」

 

男は一つずつ確かめた。

「回収中止。必要な情報だけ抜け。三分で撤収」

 

「第十区に三名。間に合いません。そのエリアの隔壁の制御は奪われてません」

 

「現地採用か」

 

「二名は。一名は違います」

 

「繋げ」

通信が開いた。

 

『間に合うか』

 

「……わかりません」

 

『分かった』

 

「待ってください閣下、帝国軍の頃から二十年です。二十年ですよ。憲兵隊や候補生のガキなんざ撒いてみせます、いままでだってそうしてきたでしょう」

 

『二十年か』

指揮官の男の声には、失望も怒りも迷いもなかった。

『世話になったなぁ。二十年ぶん、喋られちゃ困る』

 

「閣下、待って――」

 

『第十区、予備電源を回せ。隔壁閉鎖。遠隔銃座、単射』

 

隔壁が下り始めた。

その向こうで一発だけ銃声がした。

声が途切れた。

隔壁は最後まで下りた。

 

三両は最初から独立駆動だった。磁気連結が外れ、分岐の手前で三つに散る。

 

一両は軌道港側へ。一両は水路沿いの側線へ。

指揮車だけが西のトンネルへ滑り込んだ。

 

男に執着はなかった。

盤面が終わったので閉じる。それだけのことだった。

 

 

***

 

 

橋脚の陰でフェリックスは撮影機を構えた。

減速した一両の保守車両が、十メートル先を通る。

車体側面には通常の保守車にはない通信アンテナと冷却部が増設されていた。

そのとき前部操車室の遮光板が上がった。

 

分離させた三両を分岐へ振り分けるため、乗員が目視確認に切り替えたのだろう。

操車窓の内側に指揮官の男の横顔が現れた。

 

痩せた頬。

細い鼻梁と整った顔を持ちながら、口元に貼りついた薄笑い。

指揮卓を二本の指で叩く左手。

 

音声は拾えなかった。

車両番号。増設された通信部。男の横顔。左手の癖。

六秒。

 

フェリックスは撮影機を下ろした。

「撮影完了。帰路に入る」

 

『了解。帰還限界まで七十二秒』

車両が加速する直前、男の視線が橋脚の闇を掠めた。

見つかった。

だが男は薄く笑ったように見えただけで、車両はトンネルへ消えた。

 

フェリックスは追わなかった。来た経路を、中央管制室へ向かって走る。

 

突然、軌道脇の遠隔銃座に赤い点が戻った。

 

沈んでいた照準器が点灯し、砲身がゆっくりと起き上がる。

予備電源が立ち上がったのだ。

 

『銃座の補助電源復旧を確認。ミッターマイヤー候補生、予定経路を離れてください』

 

フェリックスは正面の通路を捨て、資材架の列へ斜めに切り込んだ。

砲身がフェリックスを探して旋回を始める。

 

『ミッターマイヤー候補生、応答してください』

 

返事はしなかった。今は一息でも走る方へ使うべきだった。

射線から外れるため、資材架の間を低く走る。

予定経路より遠回りになる。

 

『帰還限界まで十五秒。応答を』

 

砲身が追ってきた。

撃ってきた。

一発。間を置いて、二発。

フェリックスは最後の数歩を踏み切り、資材架の陰へ身を投げた。

背後で床材が弾けた。肩から床へ転がり遮蔽物の奥へ入る。

 

『……フェリックス』

 

雑音が重なった。

 

『お願い、返事をして』

 

フェリックスは送信子を三度叩いた。

 

短音。短音。短音。

 

声を出せないときの受信確認として、リディアが候補生網に決めた簡易符号だった。

 

『受信しました。あと十秒。急いで』

 

フェリックスは立ち上がり、再び走った。

 

一発が右の壁へ入った。破片が首筋に当たる。

熱いのか痛いのかは、走りながらでは分からなかった。

 

隔壁の向こうに中央管制室の照明が見える。

隔壁の表示が白から明滅へ変わった。

敵に制御が戻る。

 

『五秒』

 

砲身がまた鳴った。

今度は追い越された。前の床が弾け、破片が顔へ飛んでくる。

 

目を閉じずに走った。閉じれば開口部を見失う。

 

フェリックスは開口部へ飛び込んだ。

床を滑り、肩から隔壁の内側へ転がり込む。

 

「閉めろ!」

 

隔壁が下り始めた。

 

その面に、二度、鈍い音が当たった。

三度目は途中で切れた。隔壁が閉じきったのである。

 

二秒後、表示が赤へ戻った。

敵が隔壁の制御権を奪い返したのだった。

 

通信機からリディアの声がした。

 

『帰還確認。百三十八秒』

 

フェリックスは床に仰向けになったまま息を吐いた。

 

「二秒余った。文句はないだろ」

 

『あります。二度、呼びました』

 

「撃たれそうだったんだよ」

 

『短音なら返せます』

 

「返しただろ」

 

『二度目にです』

 

「戻った直後の第一声が、それかよ」

 

短い間があった。

『戻ったので、叱れるんです』

 

声はすぐ通信担当のものへ戻った。

『記録を中央へ送ってください』

 

フェリックスは六秒の映像を転送した。

横になったままの手が、わずかに震えていた。

 

 

***

 

 

敵の撤収から十分ののち隔壁の制御が返ってきた。

奪い返したのではない。向こうが手を離したのである。

 

赤の表示が順に白へ変わり外周から一枚ずつ隔壁が上がった。

最外周では切断班が三枚目の途中で作業を止めた。

 

中央区画の二十六人は搬入口から外へ出た。

ハインリヒが守り抜いた出口である。

 

 

***

 

 

【同日・深夜 第七埠頭実習所・作戦室 フェリックス】

 

作戦室へ戻ると、リディアが携行通信機の損傷を一台ずつ確かめていた。

フェリックスは最後に自分の通信機を差し出した。

「返す」

接続ケーブルは、きれいな八の字に巻かれていた。

「憶えていたんですか」

 

「忘れたら怒るだろ」

 

「怒ります」

リディアは八の字の中央へ指を添えた。

それ以上は何も言わず、通信機を返却済みの列へ置いた。

 

「ねえ」

隣の卓で装具を返していたカーラが、こちらを見た。

「さっき、『フェリックス』って呼んだ」

 

リディアの指が眼鏡の中央で止まった。

「……緊急時は音数の短いほうを使います」

 

「ふうん」

カーラは信じていない顔だった。

 

「計算は合ってるな」

トビアスの口元が緩んでいた。

 

フェリックスは通信卓へ片手をついた。

「茶化すな。こいつは自分の仕事をしただけだ」

 

カーラはフェリックスとリディアを順に見たがそれ以上は何も言わなかった。

トビアスの背を押し装具倉庫の方へ歩いていった。

 

返却の列が途切れると、リディアが小さく言った。

「助かりました」

 

「何が」

 

「仕事をしただけだと言ってくれたことです」

 

「実際そうだろ。咄嗟に名前で呼んだくらい、誰も気にしねえだろ」

 

「私は気にします」

 

「意味がわからねえ。みんな普通に『フェリックス』って呼んでるぞ」

 

「そういうことではありません」

リディアは眼鏡の中央を押し上げた。

「……自分でもそう呼ぶとは思っていませんでした」

 

 

***

 

 

【数日後 軍務省・取調室 ケスラー】

 

候補生に死者はなかった。

資材通路で撃たれた二名のうち、ハルトマン候補生は肩と腹部で全治十週。

もう一名は右大腿部貫通で全治八週。

隔壁降下で脚を傷めた技術士官が全治六週。

ほかは軽傷と打撲で、いずれも復帰の見込みが立っている。

 

確保された者は十一名、遺体は四つ、重体が一名あった。

遺体の一つは敵の操作する遠隔銃座によるものだった。

身元は割れなかった。指紋も歯型も医療データも、旧帝国軍の記録ごと消されていた。

 

残る者たちは、生死の区別なく即日で身元が出た。

港湾の日雇い、運送業の元従業員、失職して二年になる元整備工など。貨物駅、変電区画、旧支線、外周の各所。撤収の際に置いていかれた者が大半である。

消された身元は一つだけだった。

「拾えたのは、拾わせるつもりのあった連中だけです」

分析官が言った。

 

十一名はよく喋った。

 

雇ったのは旧門閥貴族系の犯罪組織。

目的は皇帝警護網の調査。

指揮官の名は知らない。国外へ逃げた密輸業者だと聞いていた。

 

互いに供述を突き合わせても食い違わなかった。

 

「一貫しすぎている」

軍務尚書のケスラーは供述の表示を消した。

「別々の場所で捕まった十一人が揃って同じ話をしている。この者たちは嘘をついていない。狭い事実だけを与えられその事実から誤った全体像を作らされている」

 

班ごとに知らされたのは区画番号と時刻だけだった。

供述をたどれば実在する犯罪網へ行き着く。

そこから先はない。

 

ケスラーは遺体の記録を呼び出した。

「この一人だけは生きていれば違う話をした。だから撃たれた」

表示を閉じる。

 

暫定結論は旧門閥貴族系犯罪組織による皇帝警護網への威力偵察と、士官候補生の略取・監禁だった。

 

旧支線への潜伏は三か月前から始まっていた。

クラインを狙うために作った網ではない。

帝都内にもともと張っていた網を、何らかの理由によりクライン確保へ向け直したのである。

 

ケスラーは次に六秒の映像を再生した。

 

横顔。薄ら笑い。左手の癖。

三度目の再生で映像が止まる。

 

「ヴィクトール・フォン・ラスバッハ」

 

室内が静まった。

「旧王朝時代の帝国軍の元大佐。軍内外で蔓延していたサイオキシン麻薬の密売組織の元締めだ。ブラウンシュヴァイク公を寄親としていた門閥貴族の出身だが、当人の所業のせいで家名が取り潰されている。二十年ほど前に摘発される直前に消えた」




――「名を奪えば争いがなくなるのではありません。誰が奪われたのか分からなくなるだけです」

次回、『マイン・クライナー』
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