銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第三十七話「マイン・クライナー」(新帝国暦二十一年秋)

【数日後 獅子の泉 ケスラー】

 

会議は二時間に及んだ。

出席者は摂政皇太后ヒルダ、軍務尚書ケスラー、士官学校と警護、医務、保安の責任者である。

 

救出後に行われたクラインの精密検査では急性の薬物反応も、発信器も、身体内の異物も見つからなかった。

 

一度はクラインを別施設へ移し今後の皇帝との接触を禁じる案も出た。

ケスラーが退けた。

「敵に狙われた者を一人ずつ陛下から遠ざければ、陛下の周囲の人間を選ぶのは敵になる」

さらに続ける。

「現時点で、ヴァルター候補生を脅威とみなす根拠はない。確認できているのは、彼が標的であるということだ。両者を混同してはならん。専用施設なら警護の人数は増やせる。だが生活圏も行動時刻も固定され、敵には予定を読みやすい標的になる。士官学校には教官、候補生、保安要員という異なる目がある。その多層性を捨てる理由はない」

 

最終的にヒルダが裁可した。

「ケスラー元帥の案を採ります」

 

短く言い、一言だけ加えた。

「息子の横に誰が立つかを、襲撃者に決めさせるつもりはありません」

 

懲戒は譴責と一定期間の外出停止。

理由は報告義務違反、実習区域からの無断離脱、敵性勢力との単独接触だった。

 

別に、保安上の措置として単独外出の禁止、接触時の即時通報、定期面談が課された。

再び無断で行動した場合は、保護区画へ直ちに移す。

 

狙われたこと自体は懲戒事由に含まれない。

保安措置は処罰ではなく、次の接触を防ぐためのものだった。

 

退学届は受理されなかった。

 

 

***

 

 

【同日 軍務尚書執務室 クライン】

 

会議のあと、クラインはケスラーの執務室へ呼ばれた。

処分の告知は三分で終わった。

 

「閣下。私を、陛下から遠ざけてください」

 

「却下する」

即答だった。

 

約九年前、辺境の戦災孤児保護施設。

行き倒れていたクラインを拾ったのは帝国の戦災孤児保護網だった。

ケスラーは言った。

「戦災孤児という申告自体は珍しくなかった。あの頃は親も名も失った子供がいくらでもいた」

クラインは答えなかった。

「だがお前が帝国に保護されるまでの期間には空白がある」

ケスラーはクラインを見た。

「幼い子供が誰にも養われず数年を生き延びられるはずはない。誰かがお前を食わせ、寝かせ、十歳まで育てていた。だがお前はその相手を言わなかった」

 

沈黙は続いた。

 

「身元経歴に不明な空白あり。外部組織による養育、あるいは潜入の可能性を排除できず――そう一行が付いた」

ケスラーは椅子の背へ体を預けた。

「それで私の卓に案件として上がった。私が、自分で行って確かめた」

 

クラインは黙っていた。

 

「部屋に入り椅子を勧めた。お前は座る前にその椅子を少し回した」

 

「……憶えておりません」

 

「私は憶えている」

ケスラーの指が卓の上で一度だけ止まった。

「扉が見える向きに変えた」

 

クラインの目が、わずかに動いた。

 

「潜入するために来た者なら、監察する人間の前でそんな癖は見せん。普通の子供ならそもそも椅子の向きなど気にしない」

ケスラーは淡々と続けた。

「お前は考えてやったのではない。出口が見えなければ座れなかったのだ」

 

沈黙が落ちた。

 

「三十秒で分かった。お前はこちらへ入り込むために送り込まれた子供ではない」

ケスラーはクラインを正面から見た。

「どこかから逃げてきた子供だ。お前の身の上話は下手だった。下手だということが答えだ。誰かの手先ならもっと上手に嘘をつく」

 

クラインの喉がわずかに動いた。

「調査官の所見は一行。逃亡の形跡あり。だが追う側にはあらず」

 

「……その後は」

 

「三か月、施設から経過報告だけを取った。会いには行かん」

 

「なぜですか」

 

「私が二度会えば施設の者はお前を特別な子供として扱う。特別な子供は目立つ。目立つ子供は、拾われる前より危うい」

ケスラーは一度言葉を切った。

「四か月目に幼年学校への特例入学を推挙した」

 

「なぜ私を」

クラインの声が、わずかにかすれた。

「素性の分からぬ子供を陛下のおそばへ置く理由がわかりません」

 

「順序が逆だ」

ケスラーは言った。

「最初から陛下のおそばへ置いたのではない。学校へ入れた。軍の管理下ならお前を守りながら見極めることができる。もしお前を養っていた者からの接触があれば辿れる」

 

「……監視、ということですか」

 

「そうだ」

否定はなかった。

「どこかの辺境の施設より帝都にある幼年学校の方が人の目は多い。狙う側にとっても手を出しにくい」

ケスラーは淡々と続けた。

「一流の警備とは、二流の腕で足りる場所を作ることだ」

そこで一度言葉を切った。

「もっとも監視だけなら推挙までは要らん。帝都のどこかの軍施設に置き定期報告を取れば済む」

 

「……では、なぜ」

 

「才があった」

それだけだった。

「過去がどうであれ才は罪を犯しておらん。埋もれさせる方がこの国の理に悖る。何者かに狙われるおそれがあるから才ある者を登用しない、そのようなやわ(・・)な判断をこの王朝はしない。だが、学友に推したのはまた別の話だ」

ケスラーは続けた。

「長きにわたった自由惑星同盟との戦はお前のような親も名のない子供を数えきれぬほど残した。若い帝国の手は辺境ほど薄い。生まれたばかりの帝国の統治がいずれ躓くとすれば、そこだ」

 

クラインは黙っていた。

 

「皇帝陛下はいずれその課題と必ず向き合わねばならぬ。書類でしか知らぬ君主では、見えぬ」

 

「そのために私を?」

 

「傍らにその世界から来た者が一人いれば違う。そう考えた」

 

「……教材として、ですか」

 

「私はそう申し上げた。摂政皇太后陛下に、だ」

ケスラーは言った。

「身元の疑義も、監視の必要も、いま話した意図も、包み隠さず申し上げた。裁可はあの方のものだ」

 

クラインは動かなかった。

 

「裁可には一言だけ条件が付いた」

ケスラーはその言葉を、そのまま口にした。

「学友は『道具』にはしません、と」

 

「もう一つ、伺ってもよろしいですか」

 

「言え」

 

「私の姓のことです」

 

ケスラーの視線は、動かなかった。

「名の欄はお前が自分で書いたな」

 

「……憶えています」

 

名を書いて次の姓の欄で手が止まった。

書くべき語を持っていなかった。

 

「姓の欄も空欄では通らん」

ケスラーは言った。

「私が埋めた。それだけのことだ」

 

「なぜヴァルターという姓にしたのですか」

 

「憶えておらん」

 

クラインは待った。

待っても続きはなかった。

 

「……由来を伺っています」

 

「憶えておらん」

同じ調子だった。一語も違わなかった。

クラインはそれ以上を訊かなかった。

もう一度訊いても同じ言葉が同じ調子で返ってくるだろう。

 

ケスラーの指が綴りの上で一段だけ下がった。

姓の欄の下に保証人の欄がある。

 

「保証とは問題が起きないと請け合うことではない。問題が起きたときに責任を引き受けるという意味だ。これまでその欄は一度も仕事をしなかった。今回が初仕事だ」

 

「ですが私は――」

 

「ヴァルター候補生」

声は、硬いままだった。

「お前には自分を罰する権限はない」

 

クラインは何かを言おうとして言えず敬礼した。

その敬礼は規定より二秒長かった。

 

しばらく間を開けてからケスラーが言った。

「話してもらえるな」

 

クラインは答えた。

「……はい。話そうと思っておりました」

 

ケスラーは頷きも礼も言わなかった。

綴りを閉じて卓の隅へ寄せただけである。

「陛下を呼ぶ。それでよいか」

 

「お願いいたします」

 

 

***

 

 

【同日・夕刻 軍務尚書執務室 アレク】

 

 

呼び出しに用件は書かれていなかった。

 

執務室へ入ったとき、クラインが椅子に座っていた。

この男が軍務尚書の前で座ったのを見たのは初めてだった。

 

「陛下。お掛けください」

ケスラーは自分の席から言った。

「本日は私も話を聞く側です」

 

卓の上には録音装置が置かれ赤い点が灯っている。

綴りも画面も出ていなかった。

 

アレクは腰を下ろした。

「クライン。何の話だ」

 

「まず杯の話をします。七年前の、献盃の儀です。毒杯を使って陛下の暗殺が企図されました」

 

アレクの背が伸びた。

「私は決して杯には口をつけられぬよう申しました。あれは推理ではありません。習った手口です」

部屋の空気が変わった。

ケスラーは動かなかった。

 

「酒は検めて杯は検めない。宮廷の作法を教わりました」

 

クラインの声はいつもどおりだった。

作戦計画書を読み上げるときと同じ速さだった。

「給仕になり盃に毒の細工をする場合、手袋は二重にします。陛下に盃を渡した男も二重でした。親指と人差し指だけ動きが鈍く、その二本で盃を支えた後は、ほかの物に触れていません。毒を扱ったのは、その二本だと判断しました」

 

アレクは自分の手を見た。

七年前に杯の縁へ触れた指である。

「……どこで習った」

 

「『刃』の教程です」

 

「それはなんだ」

 

「人を害する技術を修める教程です」

 

クラインは教程の名を順に挙げた。

 

所作の予測。

器物への塗布。

薬物。

相手に語らせる技術。

顔の記憶。

潜入。

 

アレクは数えていた。

名を憶えるときと同じ癖である。

六つまで数えて、そこで数えるのをやめた。

「最後に、耐える訓練があります」

 

「どういう意味だ」

 

「捕まったときのためです」

 

ケスラーが口を開いた。

「相手は」

 

「同じ部屋の子供です」

 

教え込まれた昏い技術を使って甚振り、情報を引き出す。

一人が試す側になり一人が試される側になる。

壊れなければ翌週に立場を入れ替えて行う。

 

アレクが訊いた。

「目的は誰だ。狙いは僕か?」

 

「気になれば訊いてもよいと言われました。ただ訊いた子は、次の週にはいなくなりました」

 

 

アレクの声が少し(かす)れた。

「子供は何人いた」

 

「百人ほどです」

 

窓は高いところにしかない。

廊下は長く外は見えない。

石鹸と消毒液の匂いがいつもしている。

 

「収容人員は増えていたか。減っていたか」

ケスラーが訊いた。

 

「いつも同じくらいでした」

 

寝台の数は変わらない。

隣の子が朝にいないことがある。

誰も説明しないし訊いてはいけないとも言われない。

数日すると同じ寝台に別の子がいる。

 

「いなくなった子はどこへ行った」

 

「分かりません。いなくなれば、別の子に同じ名がつけられました」

 

ケスラーが待遇を訊いた。

「暴力はあったか」

 

「教程では、ありました。ですがそれ以外では殴られません」

クラインは正面を見たまま答えた。

 

「ただ何かを好きになると取り上げられます。理由は言われません。次に好きになったものも、突然消えました」

 

ケスラーはしばらく卓を見ていた。

 

「飢えたか」

 

「いいえ。食事は毎日十分に出ます」

 

「寒かったか」

 

「いいえ。部屋は暖かかったです」

 

そして成績のよかった日にはと彼は続けた。

 

名を呼ばれる。

役に立ったと優しく褒められる。

お前が必要だと言われる。

痛みを与えたのと同じ手が、その日は頭を撫でる。

どちらも同じ大人の手だった。

 

「よくしてもらっている、とその時は思っていました」

クラインは言った。

 

アレクは七年前に貸した本のことを考えた。

返ってこないのをずっと律儀さの裏返しだと思っていた。

「クライン」

 

「はい」

 

「好きな食べ物、あったのか」

 

「……もうわかりません」

トビアスの手帳でこの男の好きな食べ物の欄が埋まらない理由をいま知った。

 

 

***

 

 

七歳の年に教程がもう一つ増えた。

刃の教程は続いたまま、別の教程が並んだ。

 

「機械の保守手順を憶えることです」

 

大人が作業する横で、数値と手順を読み上げる。

低温部と真空断熱層。冷媒の圧と流量。微振動。交換できない箇所を迂回して、壊れたまま動かし続けるための順序。

「お前が修理したのか」

 

「いいえ。私は、指示された順序と数値を読み上げるだけです。意味は教わりません」

 

「何のための機械なんだ」

 

「教わっていません」

 

「訊かなかったのか」

ケスラーが訊いた。

 

「変えてはならないとだけ言われました」

クラインはそこで一度切った。

ケスラーは長く黙っていた。

 

「もう一つ、仕事が与えられました。『控え』の整理です」

子供の一人ひとりに欄がある。

入った日、階梯、投与、選別の結果。

その欄を一日の終わりに揃える。

「いなくなった子の欄を閉じるのが私の仕事でした」

部屋の空気は動かなかった。

 

「閉じる、とはどういう意味だ」

 

「行が終わったところに印を入れて、次の子の欄を開きます」

 

「その子がどこへ行ったかは」

 

「欄には書きません」

クラインは正面を見たままだった。

「書く場所がありません」

 

アレクはこの男が人を数えるのを何度も見ていた。

演習で、災害の現場で、名簿の端で。

合うまで数え直す。

その癖を几帳面な性分だとアレクは思っていた。

 

「施設から逃げたのはお前一人か」

ケスラーが訊いた。

 

「二人で逃げました」

 

初めてクラインの声が遅れた。

 

「なぜ逃げることにした」

 

「耐える訓練の相手を同じ部屋の子供にさせられると申し上げました」

クラインは言った。

「ヨーリクにやれ、と言われました。同部屋の子です。できませんでした」

 

「そのヨーリクという者とはどういう関係だ」

 

クラインはすぐには答えなかった。

 

「……分かりません。ヨーリクは教団から与えられた名です。本名も知りません」

やがて言った。

「あの場所には関係を呼ぶ言葉がありませんでした」

 

追手がかかった。

片方が残れば、片方は行ける。

分岐でヨーリクは追手の方へわざと音を立てて走った。

「お前は行け、俺は大丈夫だから、とヨーリクに言われました」

クラインはそこで一度、目を伏せた。

「私は走りました。振り返りませんでした。いや、振り返れませんでした」

 

 

施設から逃げてすぐ、クラインの身体が壊れた。

 

熱と寒さが交互に来た。

音が近すぎて匂いが強すぎた。

眠っているのか起きているのか分からない時間が続いた。

夜になると点呼の靴音が聞こえた。

聞こえるはずのない場所に彼はいた。

「何を飲まされていたのかは、今も知りません」

 

「薬物投与の痕跡が出ていた」

 

クラインが顔を上げた。

 

「お前を保護した時の所見だ。依存性の薬物の常用痕あり。量は子供の身体に対して過剰」

ケスラーは端末を見ていた。

「離脱の症状を見た時点でこの子供は死ぬだろう、と医官は書いていた」

 

アレクは二人を交互に見た。

 

「だがお前は生きた。十一日目に目を覚ましたそうだ。医官がその後所見を直している」

ケスラーは続けた。

「薬物の投与期間が比較的短かったためと推測される。それでも死ななかった理由は不明、と」

 

「憶えていません。気が付いたら帝国の保護施設のベッドでした」

クラインは言った。

「昨日、報告しなかったことがあります」

 

ケスラーの目が動いた。

 

「積替区画で、私の通信機へ割り込みがありました。班の回線ではなく私個人のものです。名を呼ばれました」

 

「何と呼ばれた」

 

「クリュプタ、と」

 

「それは何だ」

 

「施設で私に付けられていた名です。番号のようなものだとお考えください」

 

「その施設の場所はどこだ」

 

「『聖園』と呼ばれていました」

 

「場所を訊いている」

 

「ヴァルテンベルク星系。惑星カールシュタットにありました」

 

ケスラーの手が止まった。

「お前を拾った施設は、カールシュタットの辺境にあった」

 

地名も暦もあの建物では教わらない。

星系の名を知ったのは保護されたあとだった。

「では、建物の位置は分かるか」

 

「道は憶えています」

クラインは施設から逃げた夜のことを順に述べた。

搬出口の位置。斜面の向き。歩いた方角と日数。渡った川の幅。

最後に倒れた場所から逆にたどれば戻れる。

「図の上に線が引けます。時間をいただければ」

 

「荷は」

 

「月に二度入ります。運ぶ者は建物の中へは入りません。積み替えは外の棟でやります。中の人間と外の人間は顔を合わせません」

 

「大人は」

 

「顔を憶えているのは二十三人です。それ以上いたかは分かりません」

 

ケスラーは内線へ手を伸ばし、その手を一度止めた。

「何者だ。施設を運営していた者たちは」

 

「地球教の、残党です」

 

ケスラーの手が卓の上で止まった。

アレクにとって地球教は歴史の中の名だった。

もう終わったこととして教わってきた。

 

「確かか」

 

「教義も暦の数え方も、聞かされたとおりに憶えています。間違いありません。今は知りませんが、当時は旧い地球の言葉で『テラ・マーテル』、と自称していました。『母なる地球』という意味です」

 

ケスラーはその語を口の中で一度繰り返した。

「教義は何を教わった」

「はじめに死のことを教わりました。地球は人が出てきたところです。死ぬのはそこへ還ることです」

クラインの声は変わらなかった。

「失われるのではありません。還るのだと教わります。次に帝国に焼かれた子らのことを教わりました」

「どういうことだ」

「私が生まれるより前の話です。辺境の孤児院が焼かれました。帝国軍がやったのだと教わりました」

 

「それは事実じゃない」

アレクは言いかけて、ケスラーを見た。

ケスラーは何も言わなかった。

アレクは何も言えなかった。

「三つ目は、名前です。旧い名は母の胎に置いてくるものだと教わります」

クラインは正面を見たまま続けた。

「持っていると還るときに邪魔になる、だから教団が名を授ける、と言われました」

「他には」

「望むことは悪だと教わります。人が欲しがるから奪い合いが起きます。奪い合うから戦になります。戦になるから子供が焼かれます。望みを持たない者こそが、世界を癒します」

アレクはこの男の部屋に物がほとんどないことを知っていた。

物を持たない性分なのだと思っていた。

「信じたのか」

ケスラーが訊いた。

沈黙があった。

 

「そんなのは間違っている!」

耐えきれずにアレクが言った。

 

クラインはアレクを見た。

「はい、間違っています」

声は静かだった。

「名を奪えば争いがなくなるのではありません。誰が奪われたのか分からなくなるだけです」

クラインは一度、言葉を切った。

「望みを奪えば苦しみがなくなるのでもありません。苦しいと言えなくなるだけです」

 

灰色の目はもう伏せられていなかった。

「私はもう、それを癒しとは呼びません」

クラインはアレクを見た。

「陛下がそう教えてくださいました」

そこで一度、言葉を止めた。

「……いえ。陛下一人ではありません」

 

アレクは黙って待った。

 

「ミッターマイヤー候補生、ブリュックナー候補生、アイゼンベルク候補生、リーゼ。ほかの皆もです」

クラインは、確かめるように一人ずつ名を口にした。

「私が何を望むのか分からなくても誰も私の答えを決めませんでした。答えられないときは待ってくれました。名を呼び、席を残し、戻る場所があると教えてくれました」

声は静かなままだった。

「だから私は、名を持つことも、何かを望むことも、人を傷つけるためだけにあるのではないと知りました」

それから、もう一度アレクを見た。

「陛下たちから、教わりました」

 

 

***

 

 

ケスラーが装置へ手を伸ばした。

「一つ、まだ聞いてない」

アレクが言った。

「いつからそこにいたんだ」

 

「分かりません。物心がついたときにはいました。それより前のことを私は知りません」

 

「何も憶えていないのか」

 

「……一つだけ、あります」

 

クラインはそこで初めて言葉を探した。

言葉を探すという動作をこの男がするのを、アレクは見たことがなかった。

 

「遠い記憶で何か温かいものに包まれていました。大きくて柔らかいものです。それが何であったかは分かりません。自分の名を知る前のことだったのだと思います」

 

思います、という曖昧な物言いをクラインが使うのは珍しい。

 

「その中で誰かが私を呼んでいました。『マイン・クライナー』、と」

 

「クライナー?」

 

「mein Kleiner――後で『私のおちびさん』という呼びかけだと知りました。帝国に保護されたときに名を訊かれました。ほかに書けるものがなかったので。クライナーから語尾を落として『クライン』と書きました」

 

録音装置の赤い点が灯っている。

 

「それが私の本当の名だったかどうかはわかりません。ですがあの声が私へ向けられたものだったことだけは分かります」

 

ケスラーが装置を止めた。

赤い点が消えた。

「ヴァルター候補生」

 

「はい」

 

「クライン。その名は、お前のものだ」

 

クラインは頭を下げた。

そのまま、しばらく上げなかった。




――「なら終わり。次、消える前に言って」

次回、『五人分』
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