【数日後・夜 士官学校寮・クラインの部屋 クライン】
数日後、クライン・ヴァルターは寮の自室で居室待機を続けていた。
扉の外には保安要員が一人立っている。
事件の後に加わった、新しい日常だった。
最初に来たのはトビアスだった。
食事の盆を机へ置く。
「お前の分だ」
「私は居室待機中ですが」
「だから運んできた」
「わざわざ?」
「五人分受け取る癖が抜けなかった。食え」
トビアスはそれだけ言って帰った。
しばらくしてアレクとフェリックスが部屋に入った。
その後、居室前の廊下にはハインリヒもいた。
用件はなかった。
食堂の決まった席になら座れる。任務があれば隣にも立てる。
だが用件もなく友人の部屋を訪ねる作法を彼は持っていなかった。
扉の向こうから、アレクとフェリックスの声が聞こえた。
ハインリヒはノックのために手を上げた。
その手は扉へ届く前に下りた。
誰も彼を拒んでいない。
それでも、すでに始まっている会話へ何と言って加わればよいのかは分からなかった。
明日の朝にはいつもの席で顔を合わせる。
そう自分に言い聞かせ足音を立てずに去った。
部屋の中ではアレクが古い航海記を机へ置いた。
失踪後に保安部が預かりこの夜になって戻された本だった。
擦り切れた表紙。
何度も開かれて柔らかくなった背。
「まだ返してもらっていない」
アレクが言った。
クラインの指が表紙へ触れた。
「部屋に置いていったのは陛下に返すためではありません」
「では何のためだ」
長い間があった。
フェリックスが息を吐いた。
何も言わずに消えたクラインへの怒りは消えていなかった。
それでも戻った者を置く場所がその中に一つできた。
「お前、あの男と何を――」
「全部、あなたにも話します。ブリュックナー候補生にも、アイゼンベルク候補生にも」
フェリックスの言葉が止まった。
クラインは机の上の航海記に指を置いたまま続けた。
フェリックスはアレクを見た。
アレクは何も言わなかった。
「ただ、順番に話させてください」
クラインは言った。
「私にも、まだうまく並べられません」
フェリックスはしばらく黙っていた。
「……全部だな」
「はい」
「都合の悪いところだけ抜くなよ」
「努力します」
「そこは断言しろ」
アレクが椅子を引いた。
フェリックスは壁際へあったもう一脚を持ってきた。
誰も、今夜のうちに話し終わるとは言わなかった。
***
【数日後 士官学校・講義室 クライン】
さらにその何日か後、クラインの救出に加わった候補生たちが講義室に集められていた。
集めたのは保安部だが室内に保安要員はいない。
記録装置も置かれていなかった。
候補生だけの場である。
そういう場を一度だけ設ける、というのが上の判断らしかった。
クラインは教卓の前に立った。
「私は、地球教の残党が運営していた施設で育てられました」
ざわめきは、なかった。
息を吸う音がいくつか重なっただけである。
それから全部、話をした。
皆を危険に合わせないために一人で行ったことも。
「その判断は誤りでした。救出していただいたことに感謝します。今後同様の接触があった場合は先に報告します。一人では判断しません」
顔を上げる。
誰もすぐには口を開かなかった。
子供の名を奪う施設。
人を殺す技術を修める教程。
同じ寝台へ同じ名を持つ別の子供が入る。
どれも、彼らの知っている世界から遠すぎた。
沈黙を破ったのはカーラ・ビッテンフェルトだった。
「そいつら、何も救ってない。壊して、使ってるだけ」
「いえ」
クラインは反射的に答えた。
「それほど単純ではありません。食事と寝床は与えられました。あの場所がなければ生きられなかった子供も――」
「悪い」
後列の候補生が片手を上げた。
「正直、話の半分も分からねえ」
隣の候補生が頷いた。
「俺もだ。施設とか教程とか言われてもな。ただ、分からねえなりに確かめたい。そいつらはお前を壊して、道具にしようとした。そこは合ってるか」
「……概ね、そうです」
「で、今回、連れ戻しに来た」
「はい」
「俺たちと同じ釜の飯を食った奴を、だ」
低い声がいくつか重なった。
「しかも陛下まで狙いやがった」
「陛下は御自身で来られたのです。正確には狙われたのは私で――」
「もっと悪い」
即答だった。
「仲間だけでなく、俺たちの陛下まで害そうとした」
クラインは言葉を探した。
正確さで返せる話ではないことだけが分かった。
「俺は一年のときに陛下の警護担当官に名前を間違えられた」
中列の候補生が言った。
「似た姓のやつが二人いてな。所在確認で読み上げるとき取り違えられた」
「訂正しなかったんですか」
「できるかよ。こっちは十五のガキ。相手は陛下の警護についてる現役士官だぞ」
数人が笑った。笑ってすぐ止んだ。
「陛下はその場で言われた。違う、と」
候補生は続けた。
「それから警護官に、名前は正確に読んでくださいと言われた。人前でだ」
「……その方は」
「失礼しました、と謝った。俺にだ。陛下にじゃない」
「それから陛下がこっちを向いて、すまなかった、と」
候補生は肩をすくめた。
「間違えたのは警護官。あの人じゃねえんだよ」
「陛下は名を憶えます」
クラインが言った。
別の席から声が上がった。
「俺は去年、母が入院した」
その候補生は机の縁を見たまま言った。
「外出許可を出した。だが区隊演習と重なって、頭数が足りないと差し戻された」
「それで陛下が入られたんだったな」
隣の候補生が言った。
「俺は知らなかった。翌朝、差し戻されたはずの申請が通って、許可証が届いた。欠員補充済み、とだけ書いてあった。そのときは、運が良かったとしか思わなかった」
候補生は顔を上げた。
「演習から帰ってきた奴に聞いた。事情を知った陛下が俺の代わりに入って、四日間、下級生と一緒に泥を運んでいたってな」
少し間を置いた。
「俺が知ったのは、母親の病室から戻ったあとだ」
誰も何も言わなかった。
「クライン。去年の査問会を憶えてるか」
それまで黙っていたハースが言った。
「憶えています」
「あのとき俺は、全部書いてくれと言った。命令に違反したことも、救助したことも、怪我をさせたことも」
ハースは前を見たまま続けた。
「陛下は証言した。減点を受けた。教官評価にも一行残ったそうだな」
クラインは答えなかった。
「消そうと思えば、消せたはずだ。皇帝陛下なんだから。査問そのものだって、自分の思うとおりに押し通せたかもしれない」
ハースは言った。
「だが、消さなかった。押し通さなかった」
「陛下は、そういう方です」
「知ってるよ」
ハースは言った。
「ずっと、見てきた」
誰も笑わなかった。
頷きだけが、波のように後列まで渡った。
「理屈はもういい」
最初の候補生が言った。
「仲間を傷つけ、陛下を狙った。許さない理由はそれで十分だ」
大声を上げる者はいなかった。
誰かが机を拳で一度叩いた。
一度だけだった。
カーラが椅子から立ち上がった。
「なら終わり。次、消える前に言って」
「言えなかった場合は」
「殴る」
「……先に報告します」
「そうして」
後列で誰かが吹き出し、笑いが短く走った。
別の候補生が机へ頬杖をついたまま言った。
「次は場所を先に教えろ。全員で出向く」
「許可が下りません」
「下りなかったら陛下に直訴する」
笑いがもう一度、今度は長く続いた。
クラインはそれを止める理屈を持っていなかった。
***
【数日後・朝 士官学校・練兵場 クライン】
朝の点呼にクラインは立っていた。
列の端には警備要員がいる。
週番士官が名を呼んでいく。
「クライン・ヴァルター」
短い間があった。
「はい」
誰も振り返らなかった。
点呼はそのまま続いた。
***
ヴィクトール・フォン・ラスバッハと彼の雇い主が求めたのは二つだった。
クラインの身柄と皇帝警護網の反応である。
通信への侵入がどこで見つかるか。
候補生一人の不在に誰がどれだけの時間で気づくか。
軍と学校と憲兵隊の指揮系統がどこで噛み合わなくなるか。
皇帝は何を選び何を捨てるか。
得られたものは少なくない。
だが彼らが失ったものもまた大きかった。
のちの戦争で、教国は帝国軍の士官たちに買収、脅迫、離間、信仰による懐柔を幾度となく試みることになる。
成果は期待されたほどではなかった。
とりわけ皇帝と机を並べた世代には通じなかった。
のちに戦隊を預かり、分艦隊を預かり、やがて艦隊を預かる者たちである。
彼らは皇帝を四年間同じ食堂で見ていた。
教国は理解できなかった。
次の時限を告げる鐘が鳴った。
クラインは教卓の前から自分の席へ戻った。
その席は報告を始める前と同じ場所にあった。
***
その後のこの事件の顛末は、次のとおりであった。
クラインの引いた線のとおりの位置に建物があった。
ヴァルテンベルク星系、惑星カールシュタットの辺境地。
外観は修道院を模し、廊下は長く、窓は高いところにしかない。
彼が言ったとおりの形だった。
空だった。
寝台はなく床に脚の跡だけが残っていた。
ケスラーは数えた。
百。
焼かれても壊されてもいない。
片づけて出ていったのである。
給水管の腐食と埃の厚みから、放棄は約九年前と見積もられた。
クラインが逃げた夜から間を置いていない。
子供一人に逃げられた建物を彼らは即日捨てていた。
捜査は皇帝に危害を加えた大逆事件として立った。
人も予算も、その名で動いた。
得られたものは多い。
ヴィクトール・フォン・ラスバッハが帝国内で敷いていた『網』は各所で潰された。
それとサイオキシン麻薬の製造所が十か所。中継が二十か所摘発された。
立件の件数は五百件を超えた。
だが本人だけがまた消えた。
三本線の符牒は辺境の各星系で見つかった。
孤児の失踪として個別に処理されていた事案が、符牒でひとつに繋がる。
件数は五百七十を超えた。
表の側も摘発された。
施療院と孤児院が七つ。
ただ、そのうち二つは本当に子供を食わせていた。
閉鎖の日に行き場を失った子供が四十一人出て、その四十一人をどこへ移すかで軍務省は三週間もめた。
得られなかったものは、一つだけである。
相手の顔だった。
摘発した者らからは、指示を下していた者の所在も規模も名も出なかった。そもそも知らされていなかった。
憲兵隊の捜査記録の上で相手はこう呼ばれた。
地球教残党、自称『テラ・マーテル教団』。
個々の捜査判断に誤りはなかった。
足で稼ぎ、符牒を突き合わせ、辺境の未解決を五百七十件つないだ。
仕事としてはこの二十年で最良の部類である。
対象事件は、略取、監禁、薬物事犯、皇帝警護網への威力偵察。
どれも憲兵隊が扱う仕事である。
報告は外交部門にも軍政部門にも回った。
だが誰も、それらを一つの国家規模の現象としては読まなかった。
二十年も前にかろうじて生き延びた狂信者集団の少数の残党が、旧門閥貴族系の犯罪組織と結んだ。構成員を戦災孤児から自前で育成しようとした。
そういう構図で個々の事実を説明できたからである。
帝国憲兵隊は、犯罪組織としての輪郭を正確に描いた。
だからこそ、単なる刑事事犯の範疇には収まらない国家の輪郭を見落とした。
旧同盟領の七つの星系政府と、「テラ・マーテル教団」を名乗る組織が、すでに同じ卓を囲んでいるとは考えられていなかった。
彼らが国を作っているとは、誰も考えなかった。
数万隻を優に超える艦隊を準備しつつあるとも考えなかった。
旧門閥貴族に資金の行き先を与え、旧王朝の軍人と旧同盟軍人に船と居場所を与え、フェザーン商人には失われた市場を与えている。
それらが一つの神権国家へ集結しつつあるという想定はされなかった。
教国の建国宣言と開戦まで、一年を切った。
***
【新帝国暦二十一年冬 惑星エコニア・大伽藍 アシェン】
大伽藍の東翼にいまはもう使われない祭具を納めておくための部屋がある。
窓は高いところに一つしかなくそこから落ちる光だけが床の一角を切り取っていた。
香の匂いが布に染みたまま古くなって部屋の空気を重くしている。
人はあまり通らない。
ヨーリクはその窓の下に立っていた。
何も持たず何もしていない。
床に落ちた光の縁が靴の先まで来ている。
扉が開いた。
アシェンは後ろ手にそれを閉め、卓の前まで歩いて足を止めた。
脇に薄い綴りを一つ抱えている。
背は高いが、痩せているという以外に目立つところが一つもなく、人はこの男の顔を見た翌日には思い出せない。
「クリュプタを憶えているか」
「番号は」
アシェンはすぐには答えなかった。
「そちらではない」
「では、いつの」
「前の。お前が聖園から逃げたときだ」
ヨーリクは答えなかった。
「生きているそうだ」
アシェンは手にしたものを開いた。
「帝国にいる。簒奪者の子の、学友だそうだ」
光は動かない。
ヨーリクも動かなかった。
「当時、お前の書いた報告が残っている。読むぞ」
頁を繰る音がした。
止める声はなかったので、アシェンは読み上げた
「聖園を出るのに、クリュプタを利用した。途中で用済みになったので、地に還した。そのまま川へ流した」
顔を上げる。
「……ああ」
ヨーリクは言った。
「あいつか。生きていたのか」
一拍あった。
「……しぶとい奴だ」
アシェンはその一拍を見ていた。
「報告書を受け取った教官は、もういない」
彼は言った。
「確かめられるのは、ヨーリク。お前の口だけだ。聖廉院が写しを取っていった。枢機卿の査問がある」
「誰が持って行った」
「監察司祭だ。名は聞いていない」
「そうか」
ヨーリクの声にそれ以上のものはなく、アシェンも続きを待たなかった。
問われるのは三つである、とアシェンは言った。
虚偽の申告。
脱走者の生存を伏せたこと。
それから、あれが聖園について何をどこまで語れるかの見積り。
ヨーリクは窓のほうを見ていた。
高いところから落ちてくる光の中を、埃がゆっくり動いている。
アシェンは言った。
「査問は三日後だそうだ。誰の傍に誰を立たせるかは、そのあとで決め直されるだろう」
「お前の知ったことか」
「そうだ。私の知ったことではない」
短い間があった。
遠くの音が、その分だけよく聞こえた。
「聖廉院に言われて来たのか」
「いや」
ヨーリクはそれ以上訊かず、アシェンもわざわざ告げに来た理由を説明しなかった。
アシェンは手にしたものを卓へ置いた。
開いたままである。
卓とヨーリクのあいだは三歩ほどしか離れていない。
「所在も、いまの名も、そこにある」
ヨーリクは卓を見なかった。
窓の下から動かなかった。
アシェンは待った。
光が卓の脚まで動くだけの時間があった。
そのあいだ、この部屋には香の匂いと、遠くの支度の音のほかに何もなかった。
ヨーリクは何も訊かなかった。
どこにいるのか。
何と呼ばれているのか。
何をして生きてきたのか。
どの一つも訊かなかった。
やがてアシェンは卓の上の綴りを取り上げた。
閉じずに、開いたまま脇へ抱え直した。
「五年前」
彼は言った。
「私は、ヴィレンシュタイン星系の惑星グラーツで、クリュプタを見た」
床の光はもう靴の先になかった。
「聖園へ子らを送る便だ。私はその晩、荷の番をしていた。皇帝や他の候補生と一緒にいるところを見た」
アシェンはそこで一度、言葉を切った。
「そのときは、そうとは知らなかった。今回、映像で顔を見た。背は伸びていたが、あれだった」
ヨーリクは動かない。
アシェンの言葉が終わるのを待っているようにも、聞き終えたものから順に捨てているようにも見えた。
「……枢機卿に報告するのか」
「しない」
ヨーリクが、初めてアシェンを見た。
首を回しただけである。
この部屋へ入ってから彼が動いたのは、それが最初だった。
「……なぜ報告しない」
アシェンは少し考えた。
考えるのに要した時間は、さきほどヨーリクが「しぶとい奴だ」と言うまでの一拍と、ちょうど同じくらいだった。
「……分からない」
――「僕が来ても反対が消えない場所。それを見に来たんだと思う」
次回、『ハイネセン再訪(一)――継続審議』