【新帝国暦二十一年冬 帝国軍士官学校・会議室 アレク】
士官学校最終学年には、候補生が各星系に分かれて実地研修を行う。
クライン失踪事件の処理と捜査のために調べが必要と判断された候補生たちの実習は、予定より一か月遅れた。
前方のスクリーンに三枚の課程表が並んでいた。
・軍政実務。
・記録・兵站分析。
・近接警護。
異なる三つの課程に同じ目的地が記されていた。
バーラト自治政府、惑星ハイネセン。
軍務尚書のウルリッヒ・ケスラー元帥が入ってきた。
「確認しておく」
ケスラーは三人の前で言った。
「この派遣には名が二つある」
三人が顔を上げた。
「対外的には、皇帝陛下の自治領御巡幸である。先方もそう呼ぶ。こちらもそう呼ぶ」
指が課程表へ移った。
「実務的には、候補生三名の課程別実地研修だ」
「どっちが本当なんですか」
フェリックスが訊いた。
「両方だ」
ケスラーは短く答えた。
「今回、尚書は誰も同行しない。元帥もだ」
「軍務尚書もですか」
「行かん」
ケスラーはそこで一度だけ間を置いた。
「非武装を課した相手の家へ武の頭を並べて入る必要はない。先帝が認められた自治だ」
誰も何も言わなかった。
「儀典は宮内省が持つ。随行はヴァイクスハイム儀典長だ」
ケスラーは続けた。
「自治政府との折衝はまだ終わっていない」
「何が終わっていないのですか」
「形式で揉めている」
それ以上は言わなかった。
「ローエングラム候補生は軍政実務。自治政府との協議傍聴と自治制度の運用、帝国主権と自治権の境界を学ぶ」
ケスラーは次へ移った。
「ヴァルター候補生は記録・兵站分析。帝国編入協定附属書、輸送実績、戦災無籍者の登録実務を照合する」
クラインの机にだけ保安条件が別に置かれていた。
・単独行動の禁止。
・通信端末の機能制限。
・警護情報への接触禁止。
・異常接触時の即時報告。
クラインは上から下まで読んで机へ戻した。
「ケスラー閣下。私を派遣から外すべきです」
「却下する」
一秒もかからなかった。
「現地で再び敵から接触を受ければ、陛下と派遣団を――」
「ヴァルター候補生。狙われた者を陛下のそばから外していけば、陛下の周囲を決めるのは我々ではなく敵になる。以前にも言ったはずだ」
「しかし」
「お前は監督下に置く。放ってはおかん」
ケスラーの指がその一枚を軽く叩いた。
「だが外さん」
クラインはしばらくそれを見ていた。
単独行動の禁止。その一行だけが他の文字より濃く見えた。
「……了解しました」
「ミッターマイヤー候補生は近接警護訓練。現地での実務指揮権は皇帝警護隊の随行責任者にある。お前ではない」
「俺は陛下の護衛ではないんですか」
「違う」
答えたのは壁際に立っている随行警護責任者のザウアーブルッフ大尉。
「護衛は我々だ。君は護衛の仕事を学ぶ学生だ。勝手に前へ出るな。危険を見つけたら、まず報告しろ」
「わかりました」
「派遣は十四日後だ。延期はしたが中止はしない」
その言葉はクライン一人へ向けられているようにも、三人全員へ向けられているようにも聞こえた。
***
【出発から十六日後 惑星ハイネセン軌道・降下船内 アレク】
ハイネセンの空は記憶より広かった。
八年前のアレクにはこの空を見る余裕がなかった。
父が認めた、ただ一つの民主共和政の自治。
それを父の後継者が自分の目で見る。
昼は候補生として協議を傍聴し、夜は皇帝として晩餐に臨む。
昼の服装は候補生の礼装である。
その襟の留め具が少しきつかった。
フェリックスは警護大尉に指定された位置を守っていた。
アレクの斜め後ろ、半歩と少し。
クラインは窓の外を見ていなかった。
端末の日程表と現地から届いた人員表を照合していた。
「港湾職員が申告より二十三名多いです」
言うなりクラインは端末を警護大尉へ差し出した。
「映像上の配置と一致しません。確認を願います」
「受け取った。現地保安部署へ照会する」
数分後に回答が来た。
臨時の荷役班。冷蔵貨物の到着が重なったための増員。異常なし。
***
【同日・午前 ハイネセン宇宙港 アレク】
宇宙港には貨物の起重機が並び、その一角だけが今日のために空けられていた。
儀仗の列はない。楽隊もない。整列しているのは揃いの腕章をつけた港湾職員たちだった。
帝国の港なら皇帝の靴が地面に触れる前に音楽が鳴る。
ここでは起重機の作動音が鳴っていた。
一行が降船通路へ出たとき、前方を横切る貨物線に警告灯が点いた。
冷蔵貨物車の列がゆっくりと入ってくる。
皇帝一行のために空けられたはずの導線の上をである。
帝国の随行官が足を止めた。
「あの車両を止めよ。ここは陛下の通行経路だ」
「車両と運転系統は照合済みです。保安上の問題はありません」
ザウアーブルッフ大尉が一言告げたが、随行官は譲らなかった。
「保安ではない。礼式の問題である」
「線路です」
答えたのは職員の列の先頭にいた大柄な文官だった。
すでに髪には白いものが混じっていたが、肩幅のある体を文官用の上着へどうにか押し込んでいた。
「ここはもともと貨物列車の線路でしてな。陛下の通行経路になったのは今朝からです」
「なんだと」
「この列車の到着は三日前に決まりました」
「皇帝陛下より貨物を優先するということか」
自治政府の文官は冷蔵車の側面へ目をやった。
「辺境星系向けの血液製剤と抗生物質です。数十分止めれば積替えが数時間遅れる。……申し訳ありませんが、医薬品の品質保持のほうが優先度は高い」
フェリックスの右足が半歩出た。
彼は警護大尉を見た。大尉は動くなと目だけで返した。
フェリックスは元の位置へ戻った。
文官はその一連を見ていたが、何も言わなかった。
アレクが言った。
「分かった。待とう」
「恐縮です」
言葉とは裏腹に恐縮はどこにも見えなかった。
随行官が声を落とした。
「陛下。帝国の礼式が。帝権が貨物より軽いと侮られます」
アレクは線路を通り過ぎていく冷蔵車を見た。
「帝権で医薬品を遅らせたと知られるほうが、帝国が軽く見られる」
随行官は口を閉じた。
大柄な文官が、そこで初めてアレクを正面から見た。
しばらくして冷蔵車が十両、目の前を通り過ぎた。
文官は一歩前へ出て型どおりの礼をした。
「お待たせしました。バーラト自治政府事務総監、アレックス・キャゼルヌと申します。本日の協議はこちらの首席を務めます」
その名に、アレクの背後でフェリックスの気配が変わった。
士官学校の兵站教本にも載る名である。
同盟軍の補給と後方を支え、イゼルローン共和政府の内政を切り回した男。
キャゼルヌは三人を順に見た。
「士官学校の実習としてお越しと伺っている。こちらも、昼のあいだは陛下を候補生として扱う。ご了承いただきたい」
キャゼルヌは踵を返した。
「長旅のところ恐縮ですが、日程は詰まっております。こちらへ」
歩き出しながら、アレクはこの港に儀仗がなかった理由を訊かなかった。
夜になれば分かります、と昨日ヴァイクスハイムが言っていた。
その言い方にはどこか諦めの雰囲気があった。
***
【同日・午前 バーラト自治政府庁舎 アレク】
予定に入っていた評議会の傍聴は、庁舎に着いた直後に中止になった。
「申し訳ありません。議場へのご案内は取りやめとなりました。次の予定へご案内します」
「理由を伺いたい」
信じられないという表情で随行官が問い返した。
「今朝、評議員の一人から異議が提出されました。世襲君主たる帝国皇帝を来賓として議場へ迎えることは、民主共和政の議会として適切ではない、と」
「誰がそんなことを」
「ロイド・ハーグリーブス評議員です」
案内役は名を伏せなかった。訊かれたから答えた、というだけの言い方だった。
「陛下は議事に加わられるのではない。正式な招待に基づく傍聴だ」
「規則上、来賓の受入れに異議が出た場合、審議が終わるまで入場は保留されます」
案内役は続けた。
「招待を出したこと自体に異議が出て、審議の対象になりました。結論が出るまでお入りいただくことはできません」
案内役は頭を下げた。
だが決定を覆す気配はなかった。
自治領以外であれば、皇帝の到着までに異議そのものが消えていただろう。
ここでは反対した者の名も反対した事実も皇帝の前から取り除かれなかった。
フェリックスの右手が握られた。
一拍おいて開いた。
***
控えの小部屋で、フェリックスは扉が閉まるのを待って言った。
「皇帝陛下を門前払いかよ。あいつら立場をわかってるのか」
「見学を断られただけです。門の中には入りました」
クラインが訂正した。
「そういう話じゃねえよ」
フェリックスがげんなりした。
「では言葉の定義を――」
「クライン」
アレクが止めた。二人が見る。
アレクは窓の外の評議会棟を見ていた。
「腹は立つよ」
フェリックスが意外そうな顔をした。
「立つのか」
「立つ」
「なら言えばいいだろ」
「僕が来ても反対が消えない場所。それを見に来たんだと思う」
「だからって嬉しそうに言うことかよ」
「嬉しくはない」
アレクは少し考えて続けた。
「ただ面白い」
フェリックスは納得しない顔のままだった。
クラインが言った。
「観察対象として価値があります」
「お前までそっちか」
「私は賛否を述べていません」
「顔が賛成してるぞ。俺にはわかる」
アレクは今度こそ笑った。
扉が細く開き、随行官がひどく不安そうな顔をのぞかせた。
***
【同日・午前 実務協議室 アレク】
協議室は飾りのない部屋だった。
長机が一つ。バーラト側が四人、帝国側が五人。
帝国側の交渉責任者はラウテンベルク参事官という男だった。
五十代。禿げ上がった額と細い指。
キャゼルヌを歴史上の人物としてではなく、目の前の交渉相手として扱えるだけの場数があった。
「キャゼルヌ事務総監。来期の港湾使用料を三割引き上げる根拠を伺いたい」
「入港実績、係留区画の維持費、誘導管制設備の更新費。お手元の第三別紙に全部あります」
「別紙が九つもあるが」
「十です」
「十?」
「十枚目はこちらの計算違いの訂正でしてな。先週、うちの若いのが見つけました。三桁目が違っておりました」
ラウテンベルクが十枚目をめくった。
「わざわざ一枚増やしたのか」
「隠しておいてあとで十一枚になるより安く済みます」
帝国側の書記官が咳をした。
ラウテンベルクは笑わなかった。
「訂正後の数字でも三割は過大だ。管制設備の更新費は二割一分しか増えていない」
「補修費が入っております」
「全額を利用者へ転嫁するのは不当だろう」
「帝国船が貨物区画を使わず、軌道上で荷を積み替えてくださるなら、その分はお引きします」
「その方が費用が高くつく」
「ですからこちらをお使いになるのでしょう」
ラウテンベルクは二枚を並べた。
「……二割四分だ」
「二割八分です」
「二割五分」
「二割七分。その代わり積替え遅延時の違約金負担は免除してください」
「二割六分。免除は認めるが、気象理由での遅延に限る」
キャゼルヌが初めて少し笑った。
「結構です」
アレクは静かに驚いていた。
この二人は艦隊でなく数字で殴り合っていた。
このあと、査察区域、記録の保存期間、緊急入港の取扱いを順に片づけ、休憩に入った。
ラウテンベルクは椅子に深く腰を下ろした。
「キャゼルヌ事務総監。あなたと交渉するといつも負けた気になる」
「気のせいですな。そちらも欲しいものは取っている」
「だが、こちらが譲ったものばかり思い出してしまう」
キャゼルヌは卓上の書類を揃えた。
「交渉というのはたいていそういうものです。相手が譲った分は、初めから当然だったように見えます」
***
【同日・昼 自治政府庁舎・職員食堂 フェリックス】
昼食は庁舎の職員食堂で取ることになった。
長い列が一つあった。
午前中、卓の向こう側にいた官僚も書記官も、同じ盆を持って並んでいる。
キャゼルヌも盆を取り、列の最後尾についた。
「今日は豆の煮込みです。お口に合うかは保証しかねますが」
フェリックスは配膳鍋を覗いた。
「何の豆です」
「安い豆です」
配膳係が答えた。
キャゼルヌが頷いた。
「この食堂ではそれがいちばん重要な分類ですな」
アレクがわずかに笑った。
定食は豆と根菜と硬いパンだった。
味は薄かったがアレクは残さず食べた。
食べ終えたフェリックスが声を落とした。
「皇帝陛下まで職員と同じ豆か」
「昼は候補生として扱うと言われています。それに同じ食堂に来たのですから」
クラインが答えた。
「そういう話じゃねえ」
「では、どういう話です」
「もういい」
***
【同日・午後 実務協議室 クライン】
午後の議題に戦災無籍者の帰属登録があった。
二十年ほど前の戦役で親を失い当時の混乱でどの籍にも載らなかった子供が、辺境にはいまも一定数いる。
帝国国籍を上位に置き、その内側に『帝国直轄臣民籍』と『バーラト自治籍』がある。
冬バラ園の勅令後に締結された帝国編入協定の附属法は、旧同盟由来の無籍者にどちらを選ぶかの権利を認めていた。
ただし誰が意思を確認するのか。回答のない者をどう扱うのか。
そこまでは書かれていない。
「一定期間内に自治籍への届出がない者は、帝国臣民として帝国直轄籍へ暫定登録する」
ラウテンベルクが提案した。
「無籍状態の解消が先決です。医療、就労、就学、相続。籍がなければどれも進まない」
合理的な提案だった。籍のない者が籍のある者になる。悪い話ではない。
「届出がないことを、帝国直轄籍を選んだことにはしないでいただきたい」
キャゼルヌが言った。
「帝国の民になることに反対しているのではありません。黙っていた、というだけの理由で内側の所属まで決められることに反対しています」
「では、どうしろと。無籍者に一人ずつ訊いて回れと」
「そうです」
「対象は暫定集計でも八万を超えるが」
「承知しています」
「窓口と人員は」
「自治政府で持ちます」
「予算は」
「それもこちらで持ちます」
「何年かかる」
「分かりません」
ラウテンベルクはしばらく黙った。
「意思を示せない者はどうする」
「帝国国籍だけを暫定で登録します。直轄か自治かだけを留保する。医療も就労も、すべて自治政府が提供します。選べない欄を、国が勝手に埋めない。そういうことです。手間はかかりますが」
「手間ばかりだな」
「役所仕事とはそういうものです」
部屋が静かになった。
クラインは議案書に目を落とし、考えていた。
約九年前に帝国に拾われたとき、彼の書類にも空欄があった。
姓の欄は必要だからとケスラーが埋めた。
士官学校の退学届を出したとき、彼自身が保証人の欄を書かなかったこともある。
名を書けば巻き込むと思った。
空欄には埋めなければならないものがある。
埋めずに残しておかなければならないものも、またある。
「ヴァルター候補生」
ラウテンベルクの声で、クラインは顔を上げた。
「記録・兵站分析の実習だったな。事務処理上、実行可能だと思うかね」
突然の諮問だった。
クラインはキャゼルヌを見た。
キャゼルヌは助け舟を出さなかった。
アレクも口を挟まなかった。
クラインは資料を見直した。
「現行の人員では不可能です」
自治政府側の若い書記官が息を呑んだ。
キャゼルヌの表情は動かなかった。
「ただし」
クラインは続けた。
「無籍者の居住分布と、現在の医療・配給拠点数を前提にすれば、全員をゼロから探す必要はありません。対象地域を五つに分け、既存の医療登録と配給記録を照合の起点にする。巡回窓口は固定施設ではなく輸送船に置き、帝国側の戸籍照合官を同乗させます」
必要な船の数。
照合官の数。
通信遅延。
一件あたりの平均処理時間。
数字が続いた。
「初年度に確認できるのは、推定で二万二千から二万六千。全件の終了まで最短で三年半です。回答を保留する者を含めれば、期限は設定できません」
ラウテンベルク参事官が訊いた。
「期限を設定できない制度を制度と呼べるかね」
クラインは一度だけ考えた。
「終了しない可能性を記録した制度もまた制度です」
キャゼルヌが目を細めた。
「……若いのに嫌な答えをしますな」
「不適切でしたか」
「いいえ。きわめて役所向きです」
フェリックスが後ろで笑いを噛み殺した。
クラインにはそれが褒め言葉なのか判断できなかった。
***
【同日・午後 庁舎・評議会棟脇廊下 アレク】
休憩のため控えの間へ移ることになった。
廊下でフェリックスが小さく伸びをした。
「……なあクライン。俺は今日、何をしに来たんだ」
「近接警護実習です」
「分かってる。俺は何から護衛すればいいんだって話だ」
「現状、最大の脅威は退屈です」
クラインは真顔だった。
「お前、さっきから楽しんでるだろ」
「根拠を求めます」
「役所向きって言われたとき、ちょっと嬉しそうだった」
「誤認です」
「顔に出てた。長い付き合いだ。俺にはわかる」
「私の顔から――」
「読むな、だろ」
クラインが黙り、フェリックスが少し勝ち誇った。
廊下は評議会議場の脇を通っていた。
「……評議会議長どののご臨席はいただけないのだろうか。せめて、ご挨拶なりと」
随行官が歩きながら案内役に訊いた。
「コーツ議長は本会議に出ております」
「議題は何ですか」
「議場の空調設備更新の件です」
随行官の足が半歩乱れた。
「……空調?訊き違えたか」
廊下の壁面に議事公開中を示す表示灯が点いていた。
公開中継の音声が低く流れている。
夏は蒸し、冬は凍える。更新には予算が要り、予算には財源が要る。
財源の議論は前年度もやった。前々年度もやった。
『災害修繕積立金の流用は前例になります』
『では議員は、今年の夏も携帯送風機で乗り切れと言われるか』
『送風機は私費で願います』
議場から笑いが起きた。
別の声が続いた。
『皇帝陛下が来訪中ですぞ。この空調を見られれば、バーラトの自治能力を疑われる』
『大丈夫。議場の見学は中止になりました』
もう一度、笑いが起きた。
「……こいつら」
フェリックスが右手を握り小声で言った。
アレクは笑いを噛み殺していた。
「何がおかしい」
フェリックスが訊いた。
「僕が来ているときでも空調の議題をやめないんだな」
長い応酬の末、結論が告げられた。
継続審議。
議場のあちこちから、息を吐く音がまとまって聞こえた。
廊下の隅では、庁舎職員が一人、私物らしい携帯暖房器具を足元に置きながら書き物をしていた。
「三年待っています」
案内役が言った。
「この空調は、三年前から継続審議です」
それでも災害修繕積立金には誰も手をつけていない。
クラインが足を止めずに言った。
「……この政府は、空調一つにこれほど時間をかけるのですね」
「馬鹿にしてるのか」
フェリックスが訊いた。
「評価を保留しています」
アレクは午前から胸に残っていたものが少しほどけていくのを感じていた。
父ならこの空調は一日で直させただろう。
直せと命じればいい。
ここでは空調一つ直らない。
なぜ直らないのかだけは、隠されていなかった。
――「理由のない空白は、次に見る者がまた初めから調べますので」
次回、『ハイネセン再訪(二)――空白の役職欄』
★あらすじを更新しました。よろしければ、そちらもご覧ください★