【同日・夕刻前 惑星ハイネセン・バーラト自治政府庁舎・旧記録庫 アレク】
次の会場へ向かう途中、案内役が古い庁舎の脇廊下を通った。
扉の開いた一室から紙の匂いがした。
避難船の乗船名簿。児童保護施設の移送記録。軍人家族の居住者名簿。宛先を失った照会状の山。
端の焦げた帳面が一冊だけ、透明な保護箱に収められていた。
電子記録も残っている。
だが、作成した星系や組織が違い、番号の体系も違った。
同じ名が同じ人間を指していると証明する仕組みが、自由惑星同盟という国家の消滅とその後の混乱とともに失われていた。
紙の名簿には電子化されなかった仮の呼び名や移送先を手書きした跡が残っている。
だから二十年前の紙をいまも捨てることができない。
若い職員が数人、頁を繰っていた。
「しばらく前までは倉庫に積まれていたものです」
案内役が声を落とした。
「引き受ける部署がありませんでしたので。いまも正式な局ではありません。この一室と兼任の職員が数人だけです」
壁際の棚には年号を記した帳面が五冊並んでいた。
後のものほど少しずつ厚い。
いちばん奥に上着の肘を薄く光らせた男が座っていた。
職員と同じ机を使っているが腕章はつけていない。
「こちらの方も職員ですか」
アレクは訊いた。
「違います」
アレクから問われた若い女性の職員は手を止めずに答えた。
「週に二度、勝手に来て、勝手に席を使っています」
男が顔を半分だけ上げた。
「席が空いているものでね」
案内役が補足した。
「五年前、戦役後に無籍となった人々について、連載記事を始められたのが、この作業のきっかけです。記事を読んだ方々から、所在照会や記録の訂正が届くようになりまして」
「連載は終わりましたが」
若い職員が言った。
「本人は、取材が終わっていないと」
男は照会状を一通開き、名簿の頁を繰った。
「終わった記事より、終わっていない人間のほうが多かったということです」
アレクは机の上を見た。
「何の作業ですか」
「名前の落とし物係です」
若い職員が訂正した。
「違います。戦災・移住・戸籍未照合記録臨時整理班です」
「ほら、長い」
「あなたが三日前につけた名称でしょう」
「三日も憶えていれば上等だ」
照会状と名簿は一致しなかった。
男は照会状を未決の箱へ入れた。
「後のものほど厚いのですね」
「照合できなかった理由も残すようになりました」
若い職員が答えた。
「理由のない空白は、次に見る者がまた初めから調べますので」
アレクは棚の五冊を見た。
「あなたのお名前を伺っても」
「クレア・ウィンフィールドです」
彼女は一度だけ顔を上げ、すぐに手元へ戻った。
案内役が奥の男へ声をかけた。
「アッテンボロー氏。今夜の歓談にもご出席いただきます」
「初耳だ」
「三度、招待状でお知らせしました」
「読んでいない」
「お受け取りの署名がございます」
「受け取ったことと、読んだことは別だろう」
フェリックスが男を見直した。
「もしかして、あのダスティ・アッテンボロー……?」
「長いことそう名乗っている」
「元軍人には見えないな」
「『元』だからな」
クラインが言った。
「たしか現在はジャーナリストとか。軍人に見える必要はありません」
「お、君は話が分かるね」
「賛同したわけではありません」
「話が分かるだけで十分さ。賛同まで求めたら、新聞屋じゃなくて宣教師だ」
クレアが無言で招待状をアッテンボローの机の正面へ立てた。
彼はそれを避けるように名簿を少し左へずらした。
***
【同日・夕刻前 庁舎・脇廊下 アレク】
記録庫を出て廊下を数歩歩いたところでアレクは足を止めた。
「戦没者慰霊の施設はハイネセンにあるだろうか」
案内役が振り返った。
「ございます。庁舎から車で三十分ほど、市の南に」
「寄れるか」
儀典長のヴァイクスハイムが前へ出た。
「陛下。日程にございません」
「知っている」
「日程にない場所へお立ちになれば、日程にある場所より重い意味を持ちます」
正しかった。
正しいということがアレクにも分かった。
分かった上でうまく言い返す言葉が出てこなかった。
「……見ておきたい」
「理由を伺えますか」
アレクは少し黙った。
「うまく、言えない」
ヴァイクスハイム儀典長はしばらくアレクを見ていた。
それから警護責任者のザウアーブルッフ大尉を見た。
「経路の変更は可能ですか」
「三十分いただければ」
大尉は答えた。
「ただし市内です。沿道の統制まではできません」
「沿道の統制は不要だ」
アレクが言った。
大尉がアレクを正面から見た。
***
【同日・夕刻前 ハイネセン市街 アレク】
車列は庁舎の坂を下りた。
昼の街は灯を必要としていなかった。
それでも明るいうちから看板の点いている一角があった。色が揃っていない。隣と喧嘩している。
歩道の人々は車列に気づき、気づいた者から立ち止まった。
手を振る者はいなかった。
罵る者もいなかった。
ただ見ていた。
「……見られてるな」
フェリックスが小声で言った。
「ああ」
「遮光するか」
「いや、いい」
アレクは窓の外を見たままだった。
「隠れて来る場所じゃない」
戦没者慰霊施設はハイネセンポリスの南に広い敷地を占めていた。
車列は長い並木道を抜け、巨大な前庭へ入った。
正面には白い石造りの慰霊堂が立っている。
幅の広い階段が何十段も続き、その先で、柱のない黒い壁面が空を切り取っていた。
正面の壁に刻まれているのは短い一文だけだった。
名は建物の内側に保存されていた。
回廊に沿って端末が並んでいる。
姓名、所属艦、出身地、戦没した年月。
分かっている限りの記録を、誰でも引き出すことができる。
クラインが一度だけ端末の列を見た。
何も言わなかった。
アレクは長い階段を上り慰霊堂の前に立った。
随行官が近づいてきた。
「陛下。花を用意させましょうか」
「いらない」
「では、一礼だけでも。何か形を残しませんと」
「残さなくていい」
広い前庭を風が渡った。
回廊の奥で吊り下げられた金属板が低く鳴った。
遠くには市街の音があった。
だが階段の上まで届くものはほとんどなかった。
アレクは立っていた。
十分が過ぎた。
フェリックスは半歩後ろで同じだけ立っていた。
足の位置を一度も直さなかった。
クラインは何も言わなかった。
広い階段の上で、アレクは何もしなかった。
車へ戻る途中案内役が口を開いた。
「陛下。あそこに記録されているのは、帝国軍との戦で亡くなった者たちです」
「ああ」
「……いえ。失礼しました」
案内役はそれきり黙った。
ヴァイクスハイムは何も言わなかった。
この件については、それが最も正しい礼式だった。
***
【同日・夕刻 庁舎・控えの間 アレク】
控えの間に戻るとアレクは襟の留め具を一つだけ緩めた。
朝からずっとそうしたかった。
夜の日程は二段になっていた。
先に大広間で晩餐。そのあと、隣の広間で歓談。
「歓談のほうは堅苦しくない席だと伺っております」
案内役はそう言った。
その「堅苦しくない」という言葉を帝国側の随行官は誰一人として信用していないようだった。
扉が開きヴァイクスハイム儀典長が入ってきた。
「先方との折衝が、ようやく終わりました」
「今度は何が問題だったのか」
「乾杯です」
儀典長は姿勢を崩さなかった。
「自治政府は相互の形式を求めてきました。議長が陛下へ杯を掲げ、陛下も議長へ返される。要するに対等な国家元首間の礼式です。こちらは陛下は乾杯をお受けになるのみ、と押し返しております」
「押し返せたのか」
「押し返しました」
それだけを言って、ヴァイクスハイムは下がった。
勝った、という顔ではなかった。
アレクは襟の留め具を留め直した。
夜のほうが締める数が多い。
机の上に夜の招待者名簿が置かれていた。
アレクは頁をめくった。
帝国側の随員の頁にフェリックスとクラインの名はなかった。
候補生は、帝国側の随員ではない。
その次の頁に自治政府側が用意した招待客の一覧があった。
二人の名は、そちらにあった。
アレクは頁を戻した。
自治政府要職者の名が並ぶなかで、一人だけ役職欄が空白の客がいた。
ユリアン・ミンツ
――「書かない歴史は、書いた者のものになりますよ」
次回、『ハイネセン再訪(三)――王のいない卓』
★あらすじを更新しました。よろしければ、そちらもご覧ください★