【新帝国暦二十一年・冬 ハイネセン・自治政府庁舎への道 アレク】
ハイネセンの夜は帝都よりも明るかった。
車列は高台への道を登っていた。
窓の下に街の灯が広がっている。
帝都レーヴェンシュテルンの夜は皇宮を中心に整っている。
主要街路が放射状に光り、外へ向かうほど暗くなる。どこが中心かは空から見れば一目で分かる。
ハイネセンには、中心が一つではなかった。
官庁街は広く、整い、旧自由惑星同盟時代の歴史を刻んだ建物が並んでいた。
繁華街へ行けばそれよりはるかに多くの光が空を照らしていた。
政治が集まる場所と人間が集まる場所は一致していない。
それがこの都市の夜だった。
誰かが計画してそうなったのではない。
人が集まる場所が明るくなり集まらない場所が暗くなる。
その結果がそのまま夜景になっていた。
色も揃っていない。
帝都の街灯は規格が一つである。
ここでは店ごとに違う色が勝手に灯り、点滅し、隣と喧嘩していた。
いつまで点いているのかと、アレクは案内役に訊いた。
「朝までです」
「毎晩ですか」
「毎晩です」
ただ今夜はもう一つ明るい場所があった。
自治政府庁舎である。
建物の全ての窓に灯が入り街のどこからでも見えた。
中心のない街に一夜だけ中心ができていた。
車がのぼり坂にかかったところで儀典長のヴァイクスハイムが一つだけ確認を求めた。
「陛下。乾杯の辞は、お受けになるだけに。お返しはなさいませんように」
「分かった」
***
庁舎の正面階段に人が二列で並んでいた。
礼装だった。武器はない。
「当地の救難互助隊です」
案内役が言った。
「当地には儀仗を務める部隊がございませんので」
階段の上に旗が二本あった。
自治領の旗は帝国旗より一段低く掲げる。
それがこれまでの慣例である。
だが今日、二つの旗の高さは同じだった。
旗を見たヴァイクスハイムが一瞬だけ足を止め、また歩き出した。
階段のいちばん上でベルナール・コーツ評議会議長が待っていた。
出迎えの位置は庁舎の中ではない。外である。
***
大広間は、庁舎の他のどこよりも古かった。
末席にフェリックスとクラインがいた。
帝国側の随員名簿に候補生である二人の名はない。
自治政府側が招待客として席を用意していた。
楽団が帝国国歌を演奏した。
一音も落とさず、最後まで。
演奏が終わった。
次が、なかった。
指揮者は指揮棒を下ろし、譜面台の前に立ったままでいた。
自治政府側の卓は静かだった。
誰も顔を上げない。誰も、隣を見ない。
アレクはこの静けさを知っていた。
十歳の初陣のとき、一度だけ聞いたことがある。
全周波回線で流れてきた。
死んでいく男たちが歌っていた。
歌は最後の一節まで届かなかった。
その後の静寂。
譜面が閉じられた。
「自治政府の歌はないのか」
小声で訊いた。
「ございません」
ヴァイクスハイムが前を向いたまま答えた。
コーツ議長が立った。
中年のどこか冷めた目をした男である。
議長は評議員の互選だと昼に聞いていた。
言葉は短かった。歓迎と、協議への謝辞と、それだけだった。
議長が座った。
アレクはヴァイクスハイムを見た。
ヴァイクスハイムは、ごくわずかに首を横に振った。
アレクは立った。
「昼に慰霊碑を訪れました」
広間の音が消えた。
「碑の前に、十分ほど立っていました」
杯を掲げた。
「あそこで悼まれている人々に」
杯が上がった。
上がらなかった杯が、一つあった。
卓の中ほどで壮年の男が杯へ手を伸ばしそのまま指を離した。
抗議ではない。退席もしない。ただ、飲まなかった。
アレクはその顔を憶えた。名は知らなかった。
コーツ議長が、席に着いたまま言った。
「よい夜になりました」
***
【同夜 庁舎・歓談の広間 アレク】
晩餐会のあと、客は隣の広間へ移った。
ここには席次がない。
楽団は大広間で弾き終えて、もういない。
給仕は下がった。飲み物は長卓から各自が取る。
料理は晩餐で手のつかなかった皿である。
椅子が足りなかった。
この部屋にこれだけの人数が残ることを、誰も見込んでいなかったからである。
壁際から必要な数だけ運び込まれていた。
帝国側の随行たちは最初の十分、どこに立てばよいのか分からずにいた。
大広間には作法があった。この部屋には、それがない。
爵位の高い者を前へ通す係もいない。
帝国の官僚たちは互いに譲り合った末、誰も動けなくなっていた。
「戦場なら全滅してるな」
フェリックスが小声で言った。
「敵がいません」
クラインが答えた。
「だから困ってんだろ」
アレクは二人の会話を聞きながら、広間の反対側を見ていた。
八年前にハイネセンを訪れたときと同じ顔があった。
穏やかな顔は変わっていない。
歳は取っていた。当たり前のことに、アレクは少しだけ驚いた。
一日じゅう公式の場に現れなかったその亜麻色の髪の男は、私的な広間の隅で歴史上の人物らしいことを何一つしていなかった。
足りない椅子を運んでいた。
片手に二脚ずつ、壁際から卓へ。置いた一脚の脚が合わず、少しがたつく。
近くにいた女性が自分の厚紙を折って椅子の脚の下へ挟んだ。
その横で昼に記録庫にいた男が招待状の裏に何かを書いていた。
「アッテンボロー。それは招待状だぞ」
キャゼルヌが見つけた。
「知ってますよ」
「知っていて書くな。自治政府の名で出している公的なものだぞ」
アッテンボローは招待状を裏返して見せた。
「効力があるのは表だけです。裏面は自由主義でして」
「その招待状をあとで回収するのは、おれの局だぞ」
「では裏面を見ない自由を行使してください」
椅子の脚に招待状を挟んだ女性が静かに言った。
「その議論、二十年以上前にも聞きました」
「結論は?」
椅子を運び終えた男が、空いた杯を卓へ置きながら答えた。
「継続審議だったと思います」
キャゼルヌが天井を仰いだ。
「空調と一緒にするな」
小さな笑いが卓を回った。
アレクは足を止めていた。
書物に記された名前たちが互いに勝手なことを言っている。
誰も歴史を背負った顔をしていない。
だからこそ彼らは歴史の中からではなく、いまも続いている時間の中にいるように見えた。
上座がなかった。序列がなかった。
王のいない卓が誰の許しも要らずに回っていた。
アレクはそちらへ歩き出した。
三歩で止められた。
「陛下。当地の穀物公社の理事がぜひご挨拶をと――」
挨拶を受けた。次の三歩でまた止められた。通商の担当官だった。昼の協議の礼である。礼だけで三分かかった。
その次は帝国の随行官だった。
「明日の出発時刻について念のため確認を」
「いま、なのか」
「いまのうちがよろしいかと」
いま要る確認では、なかった。
随行たちは晩餐のあとから急に用件が増えていた。
歩くたびに誰かが間へ入った。悪意のある者は一人もいない。
それでも部屋の反対側は遠かった。
なんの公的な役も持たない亜麻色の髪の男がその遠さの中で、ただ椅子を運び、杯を集めていた。
***
「陛下は、名を憶えられるそうですな」
いつの間にかキャゼルヌがアレクの隣に来ていた。
昼の顔は少し脱いでいる。上着の釦を一つ外している。昼じゅう小脇に抱えていたものは、もうない。手には杯が一つあるだけだった。
「八年前でしたな。エイジ・クルスの襲撃を撃退し、帝都への帰路にハイネセンに立ち寄られました」
キャゼルヌは訊いた。
「名を憶えるのは結構。だが――憶えた名の者の飯は、誰が運びますかな」
アレクはすぐに答えられなかった。
名を憶える。それが自分にできる、せめてものことだと思ってきた。
だが憶えた名の一人一人に食事を届ける算段を、自分はしたことがない。
「……分かりません」
正直にそう言った。
キャゼルヌは満足したようにも不満なようにも見えなかった。
「分からないなら、そこからですな」
「現行の輸送枠であれば、可能です」
答えたのは斜め後ろのクラインだった。
キャゼルヌがそちらを見た。
「何が、可能なのかね」
「戦災で籍を失った者の特に多い四星系への定期給養です。ハイネセンから往復十一日。現行輸送枠のうち二便を穀物へ振り替えれば、一便あたり――」
船腹量。保存日数。中継港。一人一日あたりの標準給養量。
数字が続いた。帳面を見ることなく並び立てた。聞く者に追いつく努力を要求する速さだった。
キャゼルヌは目を細めた。
「二便を穀物へ振れば、医療品と工作部品が遅れますぞ」
「医療品は本日到着していたような冷蔵便の空き容量を帰路の臨時便へ転用できます。工作部品は緊急性を三段階に分け、最下位を次期便へ」
「船員の勤務時間は」
「一便あたり交代要員を十名追加します」
「その十名はどこから連れてくるのかね」
クラインが一瞬止まった。
キャゼルヌの顔に少しだけ意地の悪いものが浮かんだ。
「船は数字で動きますがな。人は数字だけでは乗ってくれません」
「……そこまでは調べていません」
「よろしい」
「よろしいのですか」
「知らない数字を知っている顔で言わない。役所では大事な資質です」
キャゼルヌはクラインの肩越しにアレクを見た。
「いい随員をお持ちだ」
「士官候補生です」
アレクが訂正した。
キャゼルヌの目がわずかに笑った。
「それは失礼。いい友人をお持ちだ」
その言葉にはアレクは訂正を入れなかった。
***
「キャゼルヌ総監。陛下を独占なさらないでください」
女性が一人、近づいてきた。
「アッテンボロー氏が取材の順番を待っています」
「おれは待っていないぞ」
卓の向こうから声がした。
「取材というのは相手が油断したときに始めるものだ」
「油断される前にどこの誰か名乗れ」
キャゼルヌが言った。
「言論の自由の侵害、検閲だ。異議を申し立てる」
「名刺を出せと言っている」
「今日は持っていません」
「新聞記者が名刺も持たず、公的な招待状に書きなぐって、何を取材する」
「その三点をまとめれば記事になる」
女性は二人を無視してアレクへ向き直った。
「フレデリカ・グリーンヒル・ヤンです」
名乗りの最後の一語でアレクの背筋が伸びた。
二年前、彼は演習の艦橋でこの人の夫が残した戦いと向き合っている。
正直に言うことにした。
「士官学校で、ヤン・ウェンリー提督の戦いを再演しました」
「どの戦いを」
表情は変わらなかった。
「アスターテ会戦です。帝国側と同盟側、双方に勝利判定が出ました」
「便利な判定だ」
アッテンボローが露骨に顔をしかめた。
「演習ですので」
「現実にも、便利な判定を欲しがる者は多かったよ」
アレクは続けた。
「私は負けたと思っています」
フレデリカはしばらくアレクを見ていた。
「第二艦隊はどのくらい帰りましたか」
問いは勝敗ではなかった。
「史実の第二艦隊より多く帰りました」
「主人ならまずそこを訊いたでしょう」
彼女は少しだけ笑った。
「それから勝利判定の基準について三十分ほど文句を言ったと思います」
「……そんなにですか」
「短いほうです」
アッテンボローが口を挟んだ。
「ヤン先輩の文句は最初の十分が結論で、残りは紅茶が冷めるまでの時間だった」
「あなたはその間に居眠りをしていたでしょう」
「聞くべき部分は、起きていました」
「起きていた部分だけを、聞くべき部分と呼ばないでください」
アレクは思わず口元を引き締めた。そうしなければ笑ってしまっていた。
歴史書や教科書の中のヤン・ウェンリーは常に考えている。
この人たちの記憶の中では、文句を言い、紅茶を冷まし、部下を居眠りさせていた。
そのほうがずっと人間に見えた。
フレデリカの笑みが消えたのではない。
ただ、声が少し静かになった。
「主人は、あなたのお父上を憎んではいませんでした」
間があった。
「憎まないことと赦すことは違う――私は、そう思っています」
憎まれてはいない。だから赦されたわけではない。
父の敵だった人の妻からその区別を教えられた。
「……はい」
答えられたのはそれだけだった。
フレデリカは正確な一礼をした。
***
「では、おれの番かな」
「何の番だ」
キャゼルヌが杯を置いた。
「取材の順番ですよ」
「許可した覚えはない」
「許可を待っていたら、新聞は官報になる」
アッテンボローは招待状の裏に構えた筆記具ごと、アレクへ向き直った。
「陛下は
「……あの戦い、とは」
「どれでも」
男は肩をすくめた。
「勝った側の戦史はすぐ本になるんですよ。金を出す者がいる。資料を集める者も書く者もいる。負けた側ではその前に書き手が生活できなくなる」
「あなたは負けた側の戦史を書いているのですか」
「新聞社がおれを食わせてくれる限りは」
「新聞社に取られてな」
キャゼルヌが言った。
「うちは週に二日しか使えん」
「おれは備品ですか」
「備品の方が管理しやすい」
アッテンボローは、キャゼルヌを無視して続けた。
「陛下。勝った側が書けば、勝った理由が残る。負けた側が書かなければ、負けた理由は勝ったほうが決める」
アレクは昼の慰霊碑を思い出していた。
備え付けられた端末で検索できる名の列は繰っても繰っても終わらなかった。
「書かない歴史は、書いた者のものになりますよ」
「それは――敗者が書けば、正しくなるという意味ですか」
「まさか」
即答だった。
「敗者は、敗者であることを理由に嘘をつく。勝者は、勝者であることを理由に嘘をつく。傍観者は、知らないことを理由に嘘を書く」
「では、何を信じれば」
「全部、残すことです」
筆記具が指の上でくるりと回った。
「矛盾した記録が三つあれば、後世の人間は少なくとも一つを疑える。一つしか残さなければ、それが真実になる」
「全部残すとして——残せなかったものの責任は、誰が負うのですか」
筆記具が、指の上で止まった。
即答の男が初めて黙った。
「……名簿に載らなかった人間のことを、少々、書いています」
「新聞に?」
「新聞は長い記事を嫌う。……本にする予定です」
「予定だけなら二十年前からある」
キャゼルヌが言った。
「取材が終わらないんですよ」
「締切を決めろ」
「歴史に締切はありません」
「原稿にはある」
フレデリカがアレクへ小声で言った。
「このやり取りも二十年前から変わりません」
少し離れた場所で杯を並べていた男が言った。
「キャゼルヌさんが締切を決めて、アッテンボローさんが破って、最終的に奥様が原稿を回収します」
「家庭内の機密を公開するな」
「公知の事実です」
また小さな笑いが起きた。
笑いの余韻の中で、アッテンボローだけが笑っていなかった。
「陛下。ところで今夜のあれは、追悼の辞ですか」
「そのつもりでした」
「
アレクは少し考えた。
「そうなるのですか」
「皇帝が杯を掲げればね」
アッテンボローは言った。
「あそこにいたのは、専制政治の帝国と戦って死んだ自由惑星同盟の軍人だった。今夜からは、帝国皇帝が悼んだ戦没者になりました」
「……」
「悪いと言ってるんじゃありません」
アッテンボローは杯を指で回した。
「ただ、死者は反対できませんからね」
アレクはすぐに答えられなかった。
「杯を、飲まなかった方がおられました」
ようやく、それだけを言った。
「ロイド・ハーグリーブス評議員ですな。ずいぶん前に奥方を地球教徒による爆破テロで亡くしておられる。あれは戦没者の碑です。戦場で死んだ者しか載らん。……地球教徒どもに殺された者は、載らんのですよ」
キャゼルヌは杯を置いたままだった。
「今朝は議場へ入れるなと言っておられた。今夜は陛下が碑へ行かれたことをどう読むかで揉めておいでだ」
「読むとは」
「手向けと読めば、帝国が折れたと言う者が出る。示威と読めば、我々が踏まれたと言う者が出ますな」
「どちらでもありません」
「そう仰る方がいちばん厄介です」
キャゼルヌはそこで初めてアレクを正面から見た。
「陛下が何をなさりたかったかは、明日には誰も問題にしません。何をなさったかだけが残る」
アレクは胸の中で繰り返していた。
全部、残す。矛盾したまま、残す。
父の戦史も。父に負けた者の記録も。自分が父をどう見たかも。
どれか一つではなく。
***
杯をせっせと並べていた男が、今度は空いた大皿を重ねていた。
アレクはその横に立った。
「さきほどの方ですね。空調の」
「継続審議です」
男は皿を重ねる手を止めない。
「ラオといいます。今日は、あちらの付き添いで」
顎で示した先で、アッテンボローがキャゼルヌから逃げていた。
「本を書くというので、憶えていることを話しております。三年ほど」
「進んでいますか」
「一行も見ておりません」
ラオ。
アレクは、その名を胸のうちで繰り返した。
教科書には載っていなかった。
「アスターテのことをヤン夫人から伺いました」
皿を持つ手が、止まった。
「再演なさったとか」
「はい」
「私は、ヤン提督と一緒にあのパトロクロスの艦橋におりました」
皿は、持ったままだった。
「パエッタ中将が倒れられて、ヤン提督が指揮を継がれたとき、無事だった者の一人が私です」
アレクはすぐには言葉が出なかった。
「どんな方でしたか」
訊いてから質問の平凡さに自分で耳を疑った。
この人は二十年以上、同じことを訊かれ続けてきたはずだった。
ラオは皿を卓へ置いた。
「不思議な人でした。作戦を戦闘が始まる前に組んであったんです。負けたあとどうするかを、先に。あの人は、最初から負けると思っていました。言ってもいました」
ラオは少しだけ笑った。
「私も最初は聞いて耳を疑いました」
アレクは返す言葉を探した。見つからなかった。
「最初から負けると言う人は、軍では嫌われます。あのときは、皆がそうでした」
責める調子ではなかった。自分の話をしているだけだった。
「一つ、いいですか」
フェリックスだった。半歩前へ出ている。
「演習で俺は帝国側でした。艦隊の隊形が次々に変わっていました。当時の人はあれについていけたんですか」
「ヤン提督から、とくに説明はありませんでした」
「それでよく従いましたね」
ラオは、少し黙った。
「従ったんじゃありません。次に取る隊形も、変針する時刻も、ぜんぶ端末に出てきたんです」
「戦闘中に組んだのですか」
「いいえ」
ラオは首を横に振った。
「負けたときのために先にプログラムが組まれていました。ヤン提督がすべて準備していました」
フェリックスは、それきり何も言わなかった。
「一点、確認させてください」
クラインだった。
「艦橋の要員は、定数を満たしていましたか」
「満たしません」
「不足分は」
「複数の部署から合わせて十人ほど、引き抜きました」
「引き抜かれた部署は」
「手薄になりました」
アレクが、訊いた。
「……そこで増えた損害は」
「誰も、調べませんでした」
即答だった。
アレクは、演習の勝利判定を思い出していた。
帰還率。生存艦数。史実との差。どれも、艦橋の中の数字だった。
「父、ラインハルト・フォン・ローエングラムのことも、伺えますか」
ラオは意外そうな顔をした。それから少し考えた。
「見事だった、とは思いませんでした」
「では」
「怖かったです」
即答だった。
「こちらが考え終わる前に、次の手が来ました。二つの艦隊が次々と撃破されて。次はこっちにむかってくる。何をされているかは分かるんです。分かっても、間に合わない」
「……称賛ですか」
「いいえ」
ラオは、また皿を重ねはじめた。
「私はあの日、砲術長も兼ねていました。主砲の号令をかけたのは私です」
アレクは動けなかった。
広間の笑い声が遠くで続いていた。
「最後に一つ、伺いたいことがあります」
アレクは言った。
「演習で、私はヤン提督の手筋を分析しました。手を追っていて辻褄が合わなかった」
「どこがです」
「勝ちに行く手として読むと、合いません」
ラオは、しばらくアレクを見た。
「ヤン提督は、勝つ気はなかったんだろうと思います」
「では何を」
「帰す気、だったのだと思います」
アレクはフレデリカのほうを見た。
どのくらい帰りましたか、とあの人は訊いた。
「そういうふうにはこの二十年以上、誰にも訊かれませんでした」
ラオは大皿を抱え上げた。
「では、失礼します。まだ、片づきませんので」
男は厨房のほうへ歩いていった。
途中で足を止め、通りかかった給仕見習いに空いた杯を渡し、また歩き出した。
***
人の流れが広間の一角だけを避けて曲がっていた。
若い男が一人で立っている。
二十代の初め。アレクより数歳上に見える。仕立ての良くない上着を、それでも隙なく着ている。
壁を背に、杯も持たず、ただ広間を見ていた。
自治政府の人間なのに、自治政府側の誰も近づかない。
案内役がそっと耳打ちした。
「陛下。あの者にはお近づきにならぬほうが」
「なぜだ」
「
「民に支持されているのか」
「選挙区の一部には。父親が残した金と地盤までは完全に消えたわけではございません」
案内役は声をさらに落とした。
「若造を表に立てて昔の利権を取り戻したい者もいるのでしょう。あれが本人の言葉で動いているのか、それともまた背後の何者かに動かされているのか――この場の者は皆そこを疑っています」
ヨブ・トリューニヒト。
その名は、アレクも知っていた。
かつて同盟の頂点にありながら、裏で地球教と通じていた衆愚政治の扇動家。ヤン・ウェンリーを殺した教団と結びついた男の名である。
案内役の声には嫌悪と警戒が混じっていた。
アレクは若い男を見た。男もこちらを見ていた。
アレクは歩き出した。
警護大尉がフェリックスへ目をやり、フェリックスは半歩後ろに入ってそこで止まった。
前へは出なかった。
クラインも少し距離を置いて続いた。
口を開く一拍前にアレクは気づいた。
自分は自分の名を毒だと思ったことは、一度もない。
「アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムです」
若い男は驚いたように顔を上げ、それから深く、非の打ちどころのない礼をした。
「……ダニエル・トリューニヒトと申します、陛下。私にはお近づきにならぬほうがよろしいかと。私の名はこの場では毒のようなものですので」
乾いた声だった。
卑屈ではない。
同じことを言われ慣れた者の、諦めに近い平静だった。
「お父上の姓ですね」
「はい」
「変えることもできたはずです」
「できました」
「なぜ変えなかったのですか」
ダニエル・トリューニヒトは少しだけアレクを見つめた。
捨てられるものを捨てなかった理由をこの皇帝は本当に訊いているのか――確かめる目だった。
「父の罪は、父のものです。私の罪ではない」
静かな声だった。
「ですが、名を変えれば、私は父と無関係だったという顔ができます。私はそれをしたくない」
「父の罪を背負うためですか」
「いいえ」
答えは速かった。
「父の罪を私の徳にするつもりもありません。記録を切らさないだけです」
アレクは広間を見た。
名を知り名で避けている人々を。
「この人たちはあなたを名で退けています。それでも政治家を続けるのですか」
ダニエルの目に初めて静かな熱が灯った。
「続けます」
答えは短かった。
「昨日扉を閉められた家にも、次の選挙ではもう一度伺います。石を投げられても、政策を訴えます。罵声で聞こえなくても演壇には立ちます。それができる国を、私は他に知りません」
広間の隅で壮年の評議員がこちらを見ていた。
晩餐で杯を上げなかった、あの男である。
目が合った。逸らしたのはアレクのほうだった。
「次の選挙にも、出るのですか」
「出ます」
「勝てると思いますか」
「思いません。前回も最後の一議席でした」
初めて口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「ですが、出なければ勝てません。政策も実現できません」
半歩後ろでフェリックスがほんの少し顔を上げた。
ダニエルは、それから少しだけ声を低くした。
「今夜のことは、記録に残ります」
「……そうでしょうね」
「独立を言う人たちは明日から、あの乾杯を説明しなければならなくなります」
「帝国はわれわれの死者を悼まない。そう言い続けてきた人たちですから」
「そのつもりで言ったのでは、ありません」
「存じています。ですからなおさらです」
「……トリューニヒトさん。名を変えれば、楽になります」
アレクはもう一度言った。
勧めるためではなかった。
問い返されることをどこかで分かっていた。
「陛下は、ご自分の名を変えられますか」
アレクは答えられなかった。
ローエングラム。
父が得た名。父が銀河に刻んだ名。自分が選ばず、継いだ名。
短い会話はそれで終わった。
ダニエルは礼をして、壁際の孤独へ戻っていった。
***
少し離れてからフェリックスが言った。
「……あいつ、嫌いじゃないぜ」
「理由は」
クラインが訊いた。
「言わせんな」
「私は質問しただけです」
「聞くな」
「命令ですか」
「頼んでる」
クラインは少し考えた。
「了解しました」
アレクは二人の会話を聞きながら歩いた。
名で見るのか。行いで見るのか。
答えはまだ自分の中にない。
ただ、一つだけ分かっていた。
この広間で父の名を自分では選べなかった者として、自分と同じ場所に立っていたのは、あの男だけだった。
――「分からないまま、皇帝をしています」
次回、『ハイネセン再訪(四)――部屋の反対側』