銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第五話 数えられなかった名(新帝国暦十三年十一月)

【新帝国暦十三年 新帝国軍・総旗艦人狼(ベイオウルフ) アレク】

 

戦いが終わって二日が過ぎた。

 

僕たちは総旗艦に移され、帝国へ帰る航路についていた。

艦は静かだった。勝ったはずなのにどこにも勝ち戦の華やぎはなかった。

廊下ですれ違う兵たちは皆疲れた顔で声を潜めていた。

 

その日の午後、ミュラー元帥が一つの束を届けに来た。

分厚い紙の束だった。表紙に短くこう記されていた。

 

「戦没者名簿」

 

「陛下。此度失われた将兵の名にございます」

 

僕はそれを受け取った。ずしりと重かった。

紙の重さではない。名前の重さだった。

 

「何名、死んだのだ」

 

ミュラー元帥はごまかさなかった。

子供だからと丸めもしなかった。

 

「喪失艦、四十三隻。うち大半はわが艦隊にて盾となった艦にございます。艦と共に失われた将兵、およそ一万二千。負傷はさらにその数倍にのぼります」

 

一万二千。

 

僕はその数の前で言葉を失った。

一万二千という数は大きすぎて像を結ばなかった。ただ大きいとしか感じられない。

人が一万二千、と頭の中で唱えても顔は一つも浮かんでこない。

だがその一人ずつに名前があるのだという。

 

この、僕の手の中の束に。一万二千の名が記されているのだという。

 

「陛下」

ミュラー元帥が静かに言った。

「無理に御覧になることはございませぬ。数だけ頭の隅に留めておかれれば」

 

僕は首を横に振った。

「……いや。読む」

 

自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。

ただこの束を数のまま閉じておくことができなかった。

 

 

***

 

 

その名簿を僕は部屋で開いた。

 

一枚一枚に名前がびっしりと並んでいた。

知らない名前ばかりだった。当たり前だ。僕はこの人たちを一人も知らない。

 

だが僕は読みはじめた。

一つずつ声に出さず名をたどっていく。

せめて一度は。この人たちの名を一度は僕の目でなぞっておきたかった。

それが僕にできるたった一つのことだった。

 

僕は人の名を憶えるのが得意だ。

厨房の給仕の名も、庭師の子の名も、一度聞けば忘れない。

それだけが僕の取り柄だった。

剣も下手で、成績も中ほどで、父のような天才には程遠い僕のたった一つの取り柄。

 

だから憶えようと思った。

全部は無理でもせめて読んだ名は憶えていこうと思った。

それがせめてもの手向けになると思った。

 

百を過ぎたあたりで僕は気づいた。

もう最初のほうの名を思い出せない。

二百を過ぎるとさっき読んだ名すら混ざりはじめた。

三百を数えたところで僕の中の名前はただの文字の列に変わっていた。

 

そして僕は紙の束の厚みを見た。

まだ指でつまんだほんの数枚。

残りは手のひらに余るほど分厚く残っていた。

この、一枚めくるごとに数十の名が現れる束が一万二千に達するまで、あとどれほど。

 

憶えられない。

 

名を憶えることだけが取り柄の僕が。

その、いちばん憶えるべき名の前であっけなく敗れていた。

一万二千の名は僕の頭には多すぎた。桁が違った。

百人の名で敗れる者がどうして一万二千を背負えるだろう。

 

僕は名簿を閉じた。

そしてしばらく動けなかった。

 

 

***

 

 

夕刻、ミッターマイヤー元帥が訪れた。

 

その手には一枚の紙があった。

帝都へ送る戦勝の報告の草稿だという。

 

「陛下にも目を通していただきたく」

 

僕はそれを読んだ。

そして言葉を失った。

 

「賊徒討伐、成功裏ニ完了セリ。帝国軍ノ損害、軽微」

 

軽微。

一万二千の死がその二文字になっていた。

 

さらに草稿はこう続いていた。

「皇帝陛下、御自ラ賊徒ヲ討伐アソバサレ、初陣ヲ、輝カシキ勝利ニテ飾ラセラル」

 

僕は御自ら何もしていない。

暗い区画に閉じ込められ、震えながらスクリーンを見ていただけだ。

戦ったのはあの元帥たちだ。死んだのはあの一万二千人だ。

なのに記録の中では僕が一人で賊を討ったことになっている。

 

「……これは、嘘だ」

僕が呟くとミッターマイヤー元帥は静かに言った。

 

「はい」

 

「なぜこんなものを」

 

「これが、政というものにございます」

元帥の声は苦かった。

 

「六千五百もの敵を我々は見逃していた。情報部の見積もりは二十倍以上も外れていた。旧王朝であれば」

元帥の声が低くなった。

「情報部の長は一族もろとも処刑されていたでしょう。ゴールデンバウム朝とはそういう国でした。失態は、血で贖わせる。先帝陛下が壊したのは、その仕組みにございます」

 

「では、いまはどうなるのだ」

 

「いまの帝国は結果ではなく過程を裁きます。誰かに責めを負わせる前に、まずその者に落ち度があったかを精査する。……ですが、此度に限って申せば」

 

「情報部の見積もりは独立した三つの筋を突き合わせたものでした。通商記録、巡察報告、投降者の供述。いずれも互いに関わりのない情報源にございます。独立情報源三つが揃えば、特段の事情なき限り信じてよし、というのは先帝の御代に定められた情報規範に定められております。作法どおりに読み、作法どおりに誤った。……おそらく事実を疑わせるような特段の事情もなかったとして、情報部の過失はなかったと判断されましょう」

 

「過失が、ないのに。一万二千が、死んだのか」

 

「さようにございます」

僕は言葉を失った。

 

誰も間違えてはいなかった。

皆、決められたとおりに正しく務めを果たした。

それでも一万二千人は死んだのだ。

 

「そして、もう一つ」

元帥は続けた。

 

「仮に規範を曲げ、責めを問おうとしてもそれはできぬでしょう。陛下の初陣に傷がつきます。一万二千の死も、諜報の一件も、輝かしい初陣の勝利の陰にうやむやに沈んでゆくのです」

 

僕はその紙を見つめた。

玉座の周りでは事実より先に記録が作られる。

その記録の中で一万二千人は「軽微」になり、僕は「英雄」になる。

 

「憶えておいてください、陛下」

 

元帥は言った。

 

「記録は嘘をつきます。数字は丸められます。……ですが、陛下。数字はいくらでも丸められますが、名前は、丸められませぬ。それを為政者が忘れた瞬間から国は腐ってゆくのです」

 

その言葉は名簿の重さと同じだけ重く、僕の中に沈んだ。

 

 

***

 

 

その夜、僕は眠れず廊下を歩いた。

 

曲がり角の先から話し声が聞こえた。

兵たちが休憩の合間に話しているらしかった。

盗み聞きはよくない。だがその話題が僕をその場に縫い止めた。

 

「あの、ミッターマイヤー元帥の御子息な」

 

しわがれた下士官の声だった。

 

「被弾した区画で皆をまとめてたっていうじゃねえか。十一の子供がだぜ。退路を見つけて、兵卒を先に行かせて、自分は殿を務めたと」

 

「末恐ろしいねえ。……さすがロイエンタール提督の血だ。血ってのは争えねえもんだな」

 

ロイエンタール。

僕は足を止めたままその名を聞いた。

 

フェリックスが、双璧の一人、ロイエンタール提督の遺児であること。

それは宮廷の誰もが知る公然の話だ。僕も昔から知っている。

秘密でもなんでもない。

 

だが僕はその言い方が嫌だった。

 

あの暗闇で退路を見つけたのは、フェリックスだ。

毎日剣の稽古で退き際を身体に叩き込んだのは、フェリックスだ。

年下を先に行かせ、自分は最後尾に立つと決めたのは、フェリックスだ。

それは全部フェリックス自身がしたことだ。

 

なのにその手柄が会ったこともない実の父の血のものにされている。

フェリックスはいつも実の父のことを「他人だ」と言う。

気にしていない、と笑う。だがあれが平気なはずがない。

 

もしこの話をフェリックスが聞いたら。

どんな顔をするだろう。

 

僕は静かにその場を離れた。

この噂はフェリックスの耳には入れまいと思った。

 

 

***

 

 

廊下の先でそのフェリックスと行き合った。

 

「なんだ、眠れねえのか。皇帝陛下」

二人きりのときだけのからかう口ぶりだった。人前ではフェリックスもきちんと臣下の礼をとる……ことが多い。だがこうして誰もいないところでは遠慮なく、昔のままの幼馴染の口をきいた。

 

「お前もな」

 

「俺は腹が減って目が覚めた。……なあ、見たか。父上の、あの艦隊運用」

 

フェリックスの目が輝いていた。

それはたった今、兵たちが「ロイエンタールの血」と呼んだ、その同じ子供の目だった。

だがいまフェリックスが誇っているのは血縁上の父ではない。

育ての父、ミッターマイヤー元帥のことだ。

 

「ああ。見た」僕は言った。

「すごかった」

 

「だろ。俺の父上だぜ」

 

フェリックスは得意げに胸を張った。

 

僕は少し迷った。

それから言った。

 

「フェリックス。お前も、すごかった」

 

「は?」

 

「あの暗闇でだ。お前が退路を見つけた。お前が僕たちを先に行かせた。……あれは、お前がしたことだ。誰の血でもない。お前が、したことだ」

 

フェリックスはきょとんとした顔をした。

それから少し照れたように鼻をかいた。

 

「……なんだよ、急に。気味が悪いな」

 

そう言って笑った。

だがその耳が少し赤いのを僕は見た。

 

血ではない。

お前が、したことだ。

僕はそれだけはこの友に間違えてほしくなかった。

 

 

***

 

 

同じころ。戦場となった辺境宙域の、さらに奥。

 

朽ちた残骸の陰に一隻の小さな艦が潜んでいた。

帝国の紋章を掲げていない。

 

この銀河では宇宙海賊ですら身を偽るために帝国の紋章を掲げる。

だがこの艦はその偽装のための紋章すら持たなかった。

帝国の秩序の外側にいる正体の知れぬ艦だった。

 

その艦の中で一人の男が静かに記録を綴っていた。

 

「観察ヲ、継続ス」

 

男の指が淡々と文字を刻む。

 

「新帝ノ器量、確認セリ。人ノ名ヲ憶エル、稀有ナ質。臣ノ心ヲ、緩ヤカニ得ル型。先帝トハ、異ナル、危ウサ」

 

男は一度指を止めた。

それから最後の一行を書き加えた。

 

「介入ノ、要ナシ。時ハ、未ダ、熟サズ」

 

記録はどこへともなく送られた。

そして艦は闇の中へ音もなく消えていった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 バーラト自治政府・ハイネセン アレク】

 

帰路、艦隊は補給のため一つの星系へ立ち寄った。

 

バーラト星系。ハイネセン。

かつて自由惑星同盟と呼ばれていた今は無き国家の首都だった星である。

いまは新帝国の中の限られた自治領。

共和主義者たちがかろうじて自分たちの流儀を守ることを許された、小さな地だった。

補給の数時間、儀礼として僕はこの地の代表と短く会うことになった。

大げさな式典ではない。幼い皇帝が通りがかりに挨拶を交わす、それだけの接見だった。

案内された部屋で僕は一人の男性と向かい合った。

 

ユリアン・ミンツ。

 

評議会に列する一人だ、と紹介された。

ほかにも幾つか肩書きを言われた気がするが、憶えていない。

だがその目の奥には僕には測れない、深いものがあった。

 

「ようこそ、おいでくださいました。皇帝陛下」

 

その礼は非の打ちどころがなかった。

 

だがミンツ氏の後ろに控える人々の目に、僕は気づいてしまった。

一人の女性がいた。背筋の伸びた、凛とした人だった。

僕に深く頭を垂れる。その礼は完璧だった。

だがその目だけは笑っていなかった。

 

その隣の、少し崩れた雰囲気の男性も同じだった。

口元にはうっすらと笑みがある。

だが目は氷のように静かだった。

 

僕は悟った。

この人たちは僕の父の軍と戦ったのだ。

そして多くの大切な人を失ったのだ。

その相手の息子がいま目の前にいる。

 

今度の僕の初陣の相手が旧自由惑星同盟の正規軍の残党だったこと。

この人たちは知っているはずだ。僕も知っている。

かつて自分たちが属した国の、最後の亡霊。それを僕の軍が討った。

だがそのことは僕も言わなかった。

触れれば血の出る場所には互いに触れなかった。

 

「陛下」

ミンツ氏が静かに言った。

「初陣は、いかがでしたか」

 

僕は少し考えて答えた。

「……人がたくさん死にました。僕を守るために。一万二千人です。僕には、その名前のほんの少しすら憶えきれませんでした」

 

部屋の空気が変わった。

ミンツ氏の目がわずかに動いた。

 

控えていたあの笑わない目の女性が、はっと僕を見た。

その目が初めて揺れた。

おそらく彼女はこう思ったのだ。

帝国の皇帝がそんなことを言うとは、と。

 

ミンツ氏はしばらく僕を見つめた。

それから静かに言った。

 

「……私もあなたと同じ年の頃、戦場の近くにおりました」

 

思いがけない言葉だった。

 

「守られる側の痛みも、失う側の痛みも、幼いうちにいやというほど見ました。……陛下。その痛みをどうか忘れずにいてください。……忘れなかった人を、私は一人だけ知っています。その人の下で、私は生きのびました」

 

その言葉は不思議と、あの敵将の言葉とどこかで響き合っていた。

善き皇帝の、次に来るものは何か。

意味はまだ分からない。

だがその二つの言葉は僕の胸の底で静かに寄り添った。

 

短い接見は、それで終わった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 新帝国軍・総旗艦人狼(ベイオウルフ) アレク】

 

帝都へ戻る、最後の航路。

 

僕は部屋でもう一度あの名簿を開いた。

一万二千の名。

何度読んでも僕にはそのひとつまみすら憶えることはできなかった。

 

僕は名簿を閉じ、そっと胸に抱いた。

 

全部は憶えられない。

それでも僕は、これを捨てない。

 

 

窓の外に帝都の光が見えはじめていた。

あの光の下で母上が待っている。

通信で聞いた母上の声は僕の無事に心から安堵していた。

だがその声の底に、僕は静かな怒りを聞いた。

摂政として、母として、この戦を許した自分自身への怒りと、二十倍以上も敵の数を見誤った者たちへの怒りを。

帰れば宮廷は荒れているだろう。

命がけで僕を守り、そして一万二千人を死なせたこの初陣の後始末は、まだ何も終わっていなかった。

 

 

僕はまだ、何も分かっていない。

あの敵将の問いも、記録の嘘の意味も。

何一つ解けてはいない。

 

だがこの初陣で僕は一つのことだけを持ち帰った。

 

玉座は数えきれない名もなき死の上に建っている。

その名をひとつまみも憶えられない。

それでも、憶えようとすることだけはやめてはならない。

 

それが十歳の僕の初陣の、答えにならない、たった一つの答えだった。




【次回予告】

数えられなかった、一万二千の名。

数字は、勝利を語る。だが、名は、語られない。

幼き皇帝は、問う。

人の名を、(おぼ)えるとは。人の上に立つとは、どういうことなのか。

英雄たちの大きな背中が、まだ、すぐそこにあった頃の物語。

次回、『銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~』幕間

「幼き日の獅子たち」。

――銀河の歴史が、また1ページ。
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