【同夜 惑星ハイネセン 自治政府庁舎・歓談の広間 アレク】
部屋の反対側へはなかなか辿り着けなかった。
穀物公社。医療局。港湾組合。企業関係者。
誰も悪くない。誰も妨害していない。
それでも八年前の顔は遠かった。
七人目の挨拶が終わったときアレクは礼を言い、そのまま向きを変え壁際へ歩いた。
余った椅子が三脚、壁際に重ねてあった。
アレクは上の二脚をまとめて持ち上げた。
広間の音が、半分になった。
ヴァイクスハイム儀典長が一歩出かけ、その場に止まった。
帝国の随行官も口を開き、何も言えずに閉じた。
警護大尉が半歩出た。周囲を確かめそこで止まった。
危険はなかった。
止める理由もなかった。
アレクは椅子を運んだ。
皇帝が、自分で。
自治政府側は誰も騒がなかった。
「そちらの一脚、右前ががたつきますぞ」
キャゼルヌが座ったまま言った。
「どちらですか」
「右の前です」
椅子をひっくり返すと、たしかに一本、短かった。
フレデリカが、アッテンボローから何か厚紙を受け取り、それを折って差し出した。
「たぶんそれでちょうどです」
アレクはそれを脚の下へ挟んだ。
招待状を折ったものだった。
卓の椅子が一脚増えた。
立ったままでいた年配の客が礼を言って腰を下ろした。
アレクは部屋の反対側にいた。
その隣でもう一脚の椅子が床へ置かれた。
少し先で立っていた別の客のためだった。
運んできた男は、誰にも紹介されず、誰にも止められず、ただ一人の招待客として歩いてきたらしい。
手には空の杯が一つあった。
「陛下。少し外の空気はいかがですか」
ユリアン・ミンツはそう言った。
フェリックスが一歩動いた。
今度はアレクが止めるより先に警護大尉を見た。
大尉は中庭への扉と周囲を確かめ短く指示した。
「扉の内側で待機。視認は維持」
「了解」
フェリックスはそこで下がった。
クラインもついては来なかった。
密談ではなかった。
警護の目が届く広間のすぐ外。
それでも二人で話すには十分な距離だった。
***
【同夜 庁舎・中庭 アレク】
中庭は、庭と呼ぶには狭かった。
壁に囲まれた採光区画に細長い植栽槽が二つ。固定椅子が一脚。古い壁面へ後付けされた気候調整設備の排熱格子が低い音を立てていた。
継続審議のあの空調だろうか――アレクは場違いなことを思った。
先に話したのはユリアンだった。
「前にお会いしてから八年になりますか」
「はい」
「あのときの名簿を、まだ」
「持っています」
「そうですか」
それきりその話は終わった。
ユリアンは名簿を持ち続けたことを褒めなかった。
アレクがユリアンに聞きたいことは朝から決まっていた。
「一つ、伺いたい。あなたはヤン・ウェンリー元帥の、何を継いだのですか」
ユリアン・ミンツはすぐには答えなかった。
長い沈黙だった。排熱格子が低い音だけが続いた。
「……分かりません」
やがて、彼は言った。
「継いだつもりのものが、本当にヤン提督のものだったのか。いまでも」
それだけだった。
アレクはその答えに救われてしまった。
英雄を継いだ男が二十年以上経って、まだ分からないでいる。
心細い言葉のはずだった。なのに息が少しだけしやすくなった。
「僕は」
アレクは言った。
「父の何を継いだのか、分かりません」
「そうでしょうね」
慰めではなかった。
当然のことを当然に受け止める声だった。
「分からないまま、皇帝をしています」
「分かってから始められるものでもないでしょう」
「あなたもそうだったのですか」
ユリアンはわずかに笑った。
「私は皇帝になったことはありません」
「そういう意味では」
「分かっています」
笑みはすぐに消えた。
アレクはもう一歩、踏み込んだ。
「キベロンが焼かれた日、僕は何も知らず、いや知ろうとする努力をせず、帝都で死者の名を読み上げていました。自己満足でした。結果、警報は、届きませんでした」
ユリアンは動かなかった。
「旧王朝の時代のヴェスターラントでの虐殺のことも調べました。父は前日に門閥貴族による攻撃を知らされていたそうです。知らされて、止めなかった」
中庭の外で誰かの歩く音がした。
扉の向こうにフェリックスがいる。そのさらに向こうにクラインがいる。
「もし僕に届いていたら――僕には父と違う選択ができたでしょうか」
排熱格子の音が止まった。
中庭には風の音だけが残った。
ユリアンは長く黙った。
分かりません、とすら言わなかった。
その沈黙のまま、ユリアンは別のことを言った。
「八年前に見せていただいた名簿を、まだお持ちですか」
「はい」
アレクは答えた。
「あのときより少し厚くなりました」
「書き続けているのですね」
「書ける名前は。ただ、書けない名前も増えました」
ユリアンは何も言わなかった。
アレクは顔を上げた。
ユリアンはしばらく黙っていた。
「終わらないでしょうね」
昼のクラインの言葉が思い出された。
終了しない可能性を記録した制度もまた制度です。
「それでも続けた方がよいのか、最近は迷うようになりました」
ユリアンは微笑まなかった。
「続ける理由もやめる理由も陛下のものです。陛下にしか決められません」
アレクは礼を言おうとしたが、何を礼にすべきか分からなかった。
分からないまま黙って頭を下げた。
ユリアンも同じ深さだけ頭を下げた。
「戻りましょう」
「はい」
扉を開けると、フェリックスが立っていた。
指定された位置から一歩も動いていなかった。
視線だけがアレクの顔を確かめた。
***
【翌朝 ハイネセン中央港・発着場 フェリックス】
早朝の宇宙港に帝国の船が待っていた。
見送りの列に前日の顔が並んでいる。
キャゼルヌ。フレデリカ。アッテンボロー。自治政府の官僚たち。
ユリアン・ミンツは列の端にいた。
公職の位置ではない。
一人の招待客として空いた場所に立っているだけだった。
ダニエル・トリューニヒトの姿はなかった。
「中央交通広場で演説だそうです」
案内役が言った。
「こんな朝から?」
フェリックスが訊いた。
「毎朝です。『嫌われている者ほど、毎日誰よりも先に顔を見せなければ話も聞いてもらえない』と」
フェリックスは何も言わなかった。
整備区画の端では自治政府の救難互助隊で教官を務める女性が、救難艇の出動前点検を監督していた。
カーテローゼ・フォン・クロイツェル・ミンツ。
ユリアン・ミンツの配偶者。
声は短く迷いがない。
点検を受ける班の動きには隙がなかった。
艇と艇の間隔。工具の配置。人の立ち位置。
どこか揃いすぎていた。
班が艇へ乗り込みはじめた。
先頭の一人が扉の脇で半身になり後続を先に通す。
全員が入ってからその一人が最後に滑り込んだ。
フェリックスの足が一瞬止まった。
救助にこの順序は要らない。
最後まで外を警戒する者を残す乗り込み方だった。
民間の救難隊の動きではない。
少なくとも、『点検』には見えない。
もっと別の何かの動きだった。
帝国の一行が通路を歩いてくる。
カリンは手を止めず、止めないまま一度だけそちらを見た。
皇帝を見て、次にその半歩後ろの候補生を見た。
目がフェリックスの足の置き方に止まった。
「速い人の立ち方ね」
フェリックスは振り返った。
「悪いですか」
「悪いとは言ってない」
工具の確認を続けながら、彼女は言った。
「護衛の立ち方じゃないわ」
「何が違うんですか」
「守るより先に喧嘩を始めそう」
フェリックスは言い返そうとして、止まった。
昨日の自分ならたぶん言い返していた。
「始めません」
「始めたい顔はしてる」
「顔から読まないでください」
少し後ろでクラインが小さく息を吐いた。
フェリックスが振り返って睨むと、クラインは無表情だった。
カリンはもう一度フェリックスの足元を見た。
「誰に習ったの」
「……父に」
「でしょうね」
「知ってるんですか」
「疾風ウォルフの子。あなたも有名人よ。自分が思っている以上にね」
「……知りません」
「昔、教官から聞いたわ。速い人ほど止まる場所を先に決めているものよ。あなたのお父上もそうだったって」
フェリックスの眉が上がった。
「父なら、できるでしょう」
カリンが初めて顔を上げた。
「息子は?」
フェリックスは答えなかった。
カリンは返事を待たずに救難艇へ向き直った。
「その位置、悪くないと思うわ」
「さっき護衛の立ち方じゃないって言ってました」
「昨日よりは」
「昨日は見てないでしょう」
「想像できる」
褒めても、けなしてもいなかった。
褒め言葉にはやはり聞こえなかった。
「点検、続けて」
カリンの声で班がまた動き出した。
先頭の一人が、また扉の脇で半身になった。
フェリックスは自分の足元を見た。
半歩後ろ。近すぎず、遠すぎない。
気に入らなかったその位置が昨日より少しだけ自分の場所になっていた。
搭乗口の前で、ヴァイクスハイム儀典長が皇帝に一礼した。
「帝国国旗と自治政府旗。旗の高さが同じでした」
「知っている」
「以上です」
儀典長はそれきり何も言わなかった。
フェリックスには、二人が何の話をしたのか分からなかった。
***
【同日 帝国船・帰還航路 アレク】
船がハイネセンを離れた。
窓の下で街が小さくなり、雲を抜けるまで三人は同じ展望区画にいた。
先に口を開いたのはフェリックスだった。
「クライン。お前、宮内省には何て報告するんだ」
「陛下が椅子を運んだ、と」
「そのままか」
「そのままです」
クラインが言った。
「省くとあとで事が大きくなります」
「自治政府の連中、空調一つ決めるのに三年だぞ」
「三年かけても誰も勝手に決めなかった、とも言えます」
クラインが答えた。
「お前、あいつらの味方か」
「空調の味方です」
「意味が分からねえ」
「夏は暑く、冬は寒い。設備の更新には賛成です」
「なら三年も議論すんな」
アレクが笑った。
フェリックスが睨む。
「何がおかしい」
「二人とも、案外ハイネセン向きじゃないか」
「冗談じゃねえ」
「評価の根拠を求めます」
「お前は否定しろよ」
クラインは考えた。
「私は役所向きだと、キャゼルヌ総監に評価されました」
少しだけ誇らしそうに聞こえた。
「やっぱり嬉しかったんじゃねえか」
「誤認です」
「今のは顔を見なくてもわかったぞ」
アレクはもう一度笑った。
今度は二人とも止めなかった。
しばらくしてフェリックスが窓の外を見たまま訊いた。
「お前は、ハイネセンから何を持って帰る」
誰に訊いたのかは曖昧だった。
クラインが先に答えた。
「空欄です」
「何だそれ」
「埋めないほうが正確な欄が、あるということです」
フェリックスは理解できない顔をした。
だが、笑わなかった。
「アレクはどうだ」
アレクはハイネセンの雲を見た。
しばらく考えた。
「……まだ、名前をつけられない」
「答えになってねえな」
「ああ。でも持って帰る」
フェリックスはしばらく黙った。
「俺は、半歩だ」
クラインがわずかに顔を向けた。
「距離ですか」
「嫌いだけどな」
「何との距離でしょうか」
「知らねえよ」
それ以上は言わなかった。
船は雲を抜けた。
ハイネセンの灯が見えなくなった。
***
見送りの列が解けたあともフレデリカとユリアンはその場に残っていた。
フレデリカは船の消えた空を見ていた。
隣にはユリアンがいた。
「あの子は、何を持ち帰ったのでしょうね」
「分かりません」
フレデリカが隣を見た。
「あなたにも?」
「ええ」
ユリアンは空を見たままだった。
「持ち帰ったものが何だったかは、ずっと後になって分かることもありますから」
背後から声が飛んだ。
「二人とも感傷に浸るのは後にしてくれ。冷蔵便の積替え先で、受領担当者の名が一つ分からん」
キャゼルヌだった。
フレデリカが振り返った。
「それをなぜ私たちに?」
「アッテンボローを捕まえたい。昨夜、積替え先から受領担当者の名の連絡が入った。俺は別の連絡を処理していたから、アッテンボローに担当者の名前を書き留めろと言ったんだ」
少し離れた場所で、アッテンボローが背を向けた。
「手近な紙がそれしかなかったのでね」
キャゼルヌが一拍黙った。
「……まさか、昨夜、椅子の脚に挟んだ、あれか」
「それだ」
「止まれ、この自由主義者!」
キャゼルヌが追った。
フレデリカはため息をついた。
ユリアンは少し笑った。
船の光はもう見えなかった。
ハイネセンの朝は何事もなかったように続いていた。
――「兄さんが死ぬこともある。ずっと前から、僕も知ってる」
次回、『保証人』