【新帝国暦二十二年初春 帝国軍士官学校・野外演習場 エルンスト】
「青軍第二小隊と第三小隊、なお高地を維持。撤収命令なし」
場内放送が告げると見学席のざわめきが一段高くなった。
丘の上には味方を示す青旗が二本。
その周囲へ敵役の赤旗が三方から登っていく。
エルンストは双眼鏡を握り直した。
兄の指揮する青軍。その四割はもう包囲されかけている。
それでも兄は六割を逃すため、殿軍を務めた四割を撤退させない。
そう見えた。
兄のハインリヒ・フォン・アイゼンベルクのいる指揮所は丘陵の中腹にあった。
作戦盤と通信員たちのあいだに黒い制服の背がひとつ立っている。
見学席から見えるのは最初から最後までその背中だけだった。
帝国軍士官学校には年に一度、部外の者へ門を開く日がある。
『公開統合演習』。
最終学年の士官候補生が陸戦部隊を指揮し、査定を受ける日である。
見学を許されるのは軍務省の視察官と教官団、それに候補生の家族だった。
胸に古い従軍記章を並べた退役軍人がいる。
よそゆきの服を着せられ早くも退屈している幼子がいる。
制帽を膝に伏せた官吏の隣では誰かの母親が祈るように両手を組んでいた。
エルンスト・フォン・アイゼンベルクはその観覧席にいた。
十六歳。
帝国軍幼年学校の最上級生である。
まもなく士官学校への推薦内示が出る。
進路の季節のただなかにいた。
兄の卒業前の最後の公開演習である。
これを逃せば次に兄の指揮を見るのはたぶん演習場ではない。
今年のテーマは、補給線を遮断された部隊の撤収。
青軍百名、対、赤軍二百名。
青軍が倍する赤軍の包囲圧力の下、撤収を試みる。
青軍の目標は、少しでも損害を抑えた撤収の成功。
赤軍の目標は、青軍の包囲殲滅。
制限時間は九十分。
撤収というのは、負けている軍隊がこれ以上負けないための技術である。
兄からの受け売りである。
青軍は兄ハインリヒが指揮官を務めるので味方。
敵は赤軍。
演習場の中央には低い高地がある。
その麓を青軍の撤収路へ続く二本の進路が通っていた。
高地は味方青軍が押さえているため、敵赤軍は撤収する青軍を追えば、高地に陣取っている青軍に側面から撃たれる。だから高地に残る青小隊を無視できない。
それくらいはエルンストにも分かった。
見学席へ兄の下した命令が流れた。
「青軍第二、第三小隊、高地を維持。第一、第四小隊、予定順に後退」
青旗が二本高地へ上がった。
四十名。
青軍百名のうち四割である。
高地に残した四十名で敵赤軍を引きつけておき、そのあいだに他の六十名を逃がす。
最後に自分たちも退く。見学席からはそういう作戦に思えた。
赤軍も高地だけを見ていたわけではなく撤収する青軍を追う。
敵赤軍のうち一個小隊だけが高地の正面に展開し、残る赤軍部隊は左右へ広がり青軍を追った。
撤収する青軍を追った赤旗が、高地に残った青軍から側面射撃を受け、射撃判定を受けて止まる。
別の赤旗が迂回を始める。
それでも青軍は少しずつ下がった。
四十分を過ぎた。
五十分を過ぎた。
青軍六十名の撤収はほぼ完了した。
だが高地の青旗は依然として二本とも動かない。
「青軍第二小隊と第三小隊、なお高地を維持。撤収命令なし」
場内放送が流れ、見学席はざわついた。
六十分を越えたところで赤旗が一気に三方向から高地へ寄った。
青軍六十名の撤収妨害はあきらめ、高地に殿軍として残る四十名を、五倍に近い兵力差をもって包囲してすり潰すつもりだ。
「赤軍、三方向から高地へ前進」
場内放送が流れ、見学席のどこかで老軍人が低く言った。
「遅い」
何が遅いのか、エルンストには訊けなかった。
高地を守る青軍第二、第三小隊の退路へ赤旗が回り込み始めている。
「青軍第二、第三小隊。依然、撤収命令なし」
放送が繰り返した。
隣の婦人が息を呑んだ。
「青軍。あの人たちを置いて逃げるの?」
四十名。
エルンストは双眼鏡を握り直した。
兄は百名のうち、四十名を捨てるつもりなのか。
指揮所を探す。
兄は動かなかった。
作戦盤に片手を置き、通信員の声を聞いている。
振り返らない。
高地を見上げもしない。
――何かある。
そう思いたかった。
赤旗の先頭が斜面へ取りついた。
高地の青旗が一本、少し下がった。
それでも撤収命令は出ない。
六十五分経過。
そのときだった。
何もいなかったはずの稜線の裏から、青い標識灯が横一列に走った。
「青軍第五小隊、前進」
エルンストは初めてその名を聞いた気がした。
そういえば青軍第五小隊だけはいつの間にか盤面から姿を消していた。
青軍第五小隊は高地には向かわなかった。
斜面の裾を横切り登り始めた赤軍の側面へ突っ込んだ。
射撃判定が連続して表示される。
攻撃は短かった。
青軍第五小隊は止まらない。
一撃を加え終わると敵が向き直るより先に煙幕を張り、そのまま高地の後背へ駆け抜ける。
赤軍が青軍第五小隊を追えば、高地を囲む輪が薄くなる。
追わなければ、反転する青軍第五小隊に側面を撃たれる。
赤旗が対応に迷い乱れた。
ほんの数分だった。
「青軍第二、第三小隊。高地から撤収」
初めてハインリヒから撤収命令が出た。
高地の青旗が二本とも下がった。
青軍兵が一斉に斜面を駆け下りる。
第五小隊が開けた煙幕の切れ目へ入り一本の隊列になって後方へ抜けていく。
赤軍が追撃態勢を立て直したころには高地にはもう誰もいなかった。
今度はエルンストにも分かった。
兄は四十名を置いて逃げたのではなかった。
四十名を置いていくように見せていた。
見学席のざわめきが感嘆へ変わった。
先ほど「遅い」と言った老軍人は、今度は何も言わずに頷いていた。
場内放送が数字を読み上げる。
「八十分経過。青軍全隊、撤収完了。青軍の損害、百名中三名」
制限時間より十分も早い。
教官の講評が始まった。
教官側が想定していた青軍の標準損害は、四十から六十名とのことであった。
基準値の十分の一以下だった。
細かな算定法までは習っていない。
それでも、良い数字であることくらいは分かる。
「青軍指揮官。アイゼンベルク候補生」
「はい」
兄の声が拡声器から流れた。
「青軍第二、第三小隊を高地に残した時点で、青軍戦力の四割が敵主力との接触下にあった。第五小隊の介入が遅れれば二個小隊は退路を失い、殲滅されていた」
「はい」
教官はそこで少し間を置いた。
「結果は成功した。では訊こう。あの判断は正しかったのか」
見学席が静かになった。
エルンストは双眼鏡を下ろした。
短い雑音のあと兄が答えた。
「結果をもって正しかったとは申し上げません」
何人かが息を呑んだ。
「続けろ」
「高地を失えば敵は全兵力を追撃に投入できます。保持すれば、敵は高地攻略と追撃に兵力を割かなければなりません。その時間が必要でした」
「そのために四十名を危険に置いたということか。もし青軍第五小隊が止められていたらどうした」
「その場合は」
兄はすぐには答えなかった。
作戦盤の前で黒い制服の背中が見えている。
「全軍を戻します」
見学席がわずかにざわめいた。
教官の声は変わらない。
「撤収に成功した部隊を戻すのか。演習の目的は損害をなるべく抑えて撤収することだ。ならば高地の二個小隊四十名は残し、六十名の撤収を完成させる方が損害は限定できる」
「教官殿。それは撤収ではありません」
兄が言った。
教官は何も挟まなかった。
「四十名を敵中に残すことを前提にするなら、それは四十名を使って六十名を逃がすという別の作戦です。今回の課題は『百名』を撤収させることだと小官は理解しておりました」
見学席から音が消えた。
「全員を救える保証があったのか」
「ありません」
「では何を保証できた」
「帰る手段を残しておくことです」
兄はそれだけ答えた。
教官はしばらく黙っていた。
「よろしい」
見学席から拍手が起きた。
エルンストは誰よりも長く手を叩いた。
エルンストは双眼鏡を膝へ下ろしたまま、兄の背中を見ていた。
隣席の紳士が、小さく息を吐いた。
「四十人を残して六十人を逃がすこともできたはずだ」
連れの男が顔を寄せる。
「なるほど。あの指揮官はそれを最初から撤収成功とは数えていなかった」
紳士は高地の方を見た。
「あれが、ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクか」
エルンストは即座に答えた。
「僕の兄です」
訊かれてもいないのに答えたので紳士は少し驚き、それから笑った。
「よい兄上をお持ちだ」
兄は採点席への申告を終え、部隊の解散点呼へ向かった。
装具の返納も負傷者の点呼も残っている。
そのすべてが終わるまで見学席を振り返らない。
演習が終わっても兄は振り返らなかった。
***
【同日 午後 来賓食堂 アレク】
演習後には短い面会時間が設けられている。
来賓食堂と呼ばれる古い建物に長い卓が並び、候補生は家族と同じ皿の料理を囲むことを許される。
この日だけは士官学校の食堂に子供の笑い声が混じった。
アレクたちの卓には家族が来る者がいなかった。
アレクの母は摂政である。
公開演習へ臨席すればそれは面会ではなく行幸になる。
フェリックスの父は宇宙艦隊の頂点にいる。
本人によれば来れば演習より人を集めるから辞退したらしい。
クラインの向かいにはリーゼが座っていた。
グリューネワルト伯爵夫人の離宮から一日の暇を与えられ、朝から公開演習を見学していた十三歳の侍女見習いである。
係官に続柄を問われたとき、リーゼとクラインの二人は同時に答えた。
「妹です」
「被保証人です」
係官は少し考え、来賓章の続柄を「家族同等者」とした。
リーゼは不服そうだった。クラインは無表情だった。
テーブルにはいつもの顔ぶれとクラインを兄と呼ぶ少女がいた。
少し離れた席では私服の警護官が二人、湯気の立つ皿に手をつけないまま座っている。
そこへトビアスが少年を一人連れてきた。
「拾ってきたぞ。ハインリヒの弟だ。入口で立ち往生してた」
「拾われました。エルンスト・フォン・アイゼンベルクです。兄が、いつもお世話に――」
少年はアレクの顔を見て固まった。
アレクが言った。
「座ってくれ。今日は僕は候補生だ」
「は、はい。……失礼します」
エルンストが席に着くとリーゼが軽く頭を下げた。
「リーゼです。ヴァルター候補生の妹です」
「リーゼ。言葉は正確に。被保証人です」
「おにいさま、訂正しなくて結構です」
エルンストはクラインとリーゼを交互に見た。
「リーゼさんも、演習を見たのですか」
「はい。ですがおにいさまは見学席を一度も見てくれませんでした」
「僕の兄もです」
二人はそこで少しだけ意気投合した。
クラインだけが会話の成立を認めなかった。
「候補生は演習中に見学席を見る必要がありません」
エルンストは座った。
座ってから五秒後にはもう喋っていた。
兄の成績。
兄が士官学校の四年間、首席であり続けていること。
今日の演習で第二小隊と第三小隊を高地に残したときの客席の声。
第五小隊が現れた瞬間、自分は最初から兄の意図を分かっていた――とまでは言わなかったが、かなりそれに近いところまでは語った。
訊かれる前に喋り、訊かれたことには倍の長さで答える。
フェリックスがフォークを持ったまままじまじと少年を見た。
「エルンスト。お前、本当にハインリヒの弟か。よく喋るな」
「兄のぶんまで喋っております」
低い声がして当のアイゼンベルクが卓の脇に立っていた。
「エルンスト。余計なことを言うな」
解散点呼を終えたばかりで演習場の泥が長靴に残っている。
座る気配のない男の前にトビアスが小さな包みを押し出した。
実家から届いたいつもの菓子である。
「ハインリヒ。ほら、座れ。配給だ。受け取らないと数が合わない」
アイゼンベルクは黙って包みを受け取り、それを理由に席へ座った。
トビアスが身を乗り出す。
「なあ、弟くん。こいつ家でどうなんだ。こいつ、食堂でも作戦会議みたいに喋るぞ」
「家でも同じです。休暇で帰ると朝食の席でその日の予定を三分で説明されます」
アイゼンベルクが訂正した。
「二分五十秒だ。三分を超えたことは一度もない」
「実に効率的です」
クラインが言った。
フェリックスが返す。
「クライン、お前は黙ってろ」
エルンストが声を立てて笑い、卓の空気が緩んだ。
「あの、兄は学校ではどうですか」
弟の質問に答えは早かった。
「怖え」
トビアス。
「正確です」
クライン。
「面倒くせえ」
フェリックス。
「頼りにしている」
アレク。
「質問を締め切れ」
アイゼンベルク。
エルンストはさらに笑った。
フェリックスが続けた。
「今日の指揮も、後退戦闘の教本どおりだったな」
「そうだ」
「褒めてねえよ」
「知っている」
「だが教本には六十五分まで待てとは書いてねえ」
「六十五分で敵が寄った」
フェリックスはしばらくハインリヒを見た。
「……そういうところだよ」
「何がだ」
「別に」
普通の人間は、条件が揃うまで百人のうち四十人が包囲されかけるのを黙って待てない。
フェリックスはそこまで言わず、舌打ちしただけだった。
トビアスが笑った。
エルンストは目を丸くしてから、この応酬が挨拶の一種であることを理解した。
会話の途中でアレクは妙なものを見た。
アイゼンベルクのフォークが談笑の切れ目に弟の皿の隅へ伸びた。
酢漬けの豆をひと掬いし自分の皿へ移す。
本人は話し相手から目を離していない。エルンストも礼を言わない。
何年も繰り返されてきた動作だけが持つ無造作さだった。
トビアスはそれを見ていた。
胸ポケットから小さな手帳を出し何ごとかを書きつける。
「何ですか、それ」
「手帳だ。……エルンスト、酢豆が駄目、と」
「どうして書くんですか」
「商家の子は、人の好き嫌いで飯を食ってんだ」
エルンストはそのあとも何度か兄を褒めた。
入学以来ずっと首席であること。
教練の点数。
今日の演習の数字。
アイゼンベルクは褒められるたびに話題を変えた。
課題が易しかった。
他の候補生がよく動いた。
採点が甘い。
三度目に話題を変えたところでエルンストが肩をすくめた。
「兄はいつもこうです。褒めると別の話になります」
トビアスが思い出したように言った。
「エルンスト。そういや、お前も幼年学校の最終学年だろ。来年からこっちか?」
「はい。そのつもりです」
エルンストは屈託なく答えた。
アイゼンベルクがカップを置いた。
音はしなかった。
もう一つアレクが気づいたことがある。
アイゼンベルクの喋り方がいつもと違う。
どこが違うのかしばらく分からなかった。
弟へ話すとき、あの男の言葉は最後まで文章として結ばれる。
それが何を意味するのかアレクはそれ以上考えなかった。
ただ悪くない午後だと思った。
食後の茶が配られた頃、エルンストが鞄を開けた。
「兄さん。これ、見てほしいんだ」
一通の書類が卓の上を滑り、兄の手元で止まった。
***
【同日 午後 来賓食堂 ハインリヒ】
士官学校進学志願書だった。
幼年学校の最終学年が推薦の内示を受けて出す。
推薦はおおよそ九割に出る。
推薦者の名は家名とともに公示される。
エルンストにも内示は出ていた。
「文章、直すところがあったら教えて。それと、署名が要るんだ」
ハインリヒは開いた。
志望理由の欄には整った字で一文があった。
「兄ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクのような軍人となり、帝国に仕えるため」
その下に保証人欄がある。
ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。
あらかじめ刷られた自分の名を見た。
閉じた。
「出すな」
食卓の音が止まった。
エルンストはまばたきをした。
冗談の続きを探すような間があり、それから手元と兄の顔を見比べる。
「……どこを直せばいいの?」
「文章の話ではない。士官学校への志願を取り下げろ」
仲間たちは誰も口を挟まなかった。
リーゼがカップを置いた。
フェリックスがフォークを置く音がやけに大きく聞こえた。
「どうして」
ハインリヒは立ち上がった。
志願書を持ったまま出口へ顎をしゃくる。
「ここでする話ではない。場所を変える。来い」
***
【同日 夕 来賓回廊 エルンスト】
来賓回廊は面会時間の終わりが近づき人影がまばらだった。
柱のあいだから暮れかけた演習場が見える。
昼間、百名を下げたばかりの丘がもう誰もいない顔で暗くなっていた。
兄はしばらく何も言わなかった。
エルンストの手には閉じられたままの志願書がある。
ようやく兄が言った。
「軍務は危険だ」
「知ってる」
「お前はわかっていない」
「兄さんが決めるの?」
「何をだ」
「僕が、どこまで分かってるか」
「それにお前は少し前まで病気で寝ていた体だ。幼年学校も一年休学している」
「治ったよ」
「治ったと、誰が言った」
「兄さんが呼んでくれた医者が言った」
兄の眉がわずかに動いた。
「士官学校は、見学席から見るほど華やかな場所ではない。訓練で死者が出る年もある。卒業すれば次は訓練では済まない」
「幼年学校をもうすぐ卒業する。戦死公報だって読んでる」
「読むことと引き受けることは違う」
「兄さんはいつ引き受けたの」
兄は答えなかった。
代わりに言った。
「家のこともある。アイゼンベルク家の家を守る者が要る。兄弟が二人とも軍務へ進む必要はない」
エルンストはしばらく兄を見た。
「それ、いつ決めたの?」
「何がだ」
「家を守るのは僕だって」
「現実的な判断だ」
「僕は今、初めて聞いた」
「言う必要がなかった」
口にした瞬間、兄自身がわずかに息を止めた。
エルンストは笑わなかった。怒鳴りもしなかった。
「そう」
その一語のほうが怒声より遠かった。
兄は続けようとした。
「それに、この志望理由は――」
「兄さんに見せた僕が馬鹿だった」
「エルンスト」
「署名しないんだね」
「しない」
迷わなかった。
エルンストは兄の手から志願書を取り返した。
腹が立つほど丁寧に鞄へ仕舞い一礼する。
「失礼します、アイゼンベルク候補生」
兄は追ってこなかった。
***
【同日 夕 士官学校正門 クライン】
十八時前、グリューネワルト伯爵夫人の離宮の迎えが正門に着いた。
クラインはリーゼを車まで送り、来賓章が受付へ戻るところまで見届けた。
「次の休暇には遅れないでください」
「前回の遅延は復旧点検によるものです」
「理由ではなく希望を申し上げています」
「……努力します」
「はい、大変結構です。おにいさま」
扉が閉まり車が門外へ消えた。
受付の板には来賓章が番号順に並んでいる。
車を見送った足でクラインは板の前へ寄った。
ひとつだけ来賓章が未返却だった。
その番号の来賓章を付けていた少年の顔をクラインは憶えていた。
エルンスト・フォン・アイゼンベルク。
***
【同日 夜 統合演習棟・演習検討室 ハインリヒ】
灯りは一つだけ点いていた。
ハインリヒは昼間の演習の経過を端末で追い直していた。
評定はすでに出ている。数字は締まっている。
追い直す必要はどこにもない。
それでも同じ画面へ戻り続けた。
第二小隊と第三小隊を残した時刻。
第五小隊を動かした時刻。
予備経路へ切り替えた時刻。
必要な判断はすべて期限の前に終えている。
小隊を残すなら戻す経路を二本用意する。
一方が塞がれたときのためにもう一方を隠しておく。
何度も計算し直す。
声に振り返ると戸口にクラインが立っていた。
「アイゼンベルク候補生。読んでいませんね」
「読んでいる」
「同じ箇所を七回開いています」
ハインリヒは端末へ向き直った。
クラインはエルンストとのことについて何も訊かなかった。
ただ事実を一つ告げた。
「あなたの弟の来賓章が、まだ戻っていません」
指が止まった。
返っていないなら正門を通っていない。
「輸送車は」
「十八時の便には乗っていません。最終便は二十時です」
ハインリヒは立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れた。
端末を閉じることも忘れ、上着をつかんで戸口へ向かう。
その進路にフェリックスが立っていた。
「待て、ハインリヒ。どこ行く」
「弟を探す」
「一人でか」
「家族の問題だ」
フェリックスは退かなかった。
「だから何だ」
その後ろでトビアスが携帯端末を掲げた。
「正門は通ってない。構内便にも乗ってない。食堂にも戻ってない。まだ校内だ」
廊下の向こうからアレクが来た。
私服の警護官を一人伴っている。
「警備隊へ届けた。北側の通用門も閉めてもらっている」
「陛下、お手を煩わせる件では――」
アレクが遮った。
「候補生の家族が日没後の校内で所在を失った。規則上、届け出が必要だ」
規則と言われハインリヒは口を閉じた。
トビアスが四人の端末を順に指し、それから自分の胸を叩いた。
「回線は開けたままにしておく。見つけた奴が先に言え。見学者の順路は俺が当たる」
フェリックスはもう歩き出していた。
「俺は外を回る」
クラインは端末へ戻り正門と通用門の当直へ順に回線を繋いだ。
アレクは警備隊との連絡へ向かった。
誰も慰める言葉を言わなかった。
誰もこれは家族の問題だとも言わなかった。
数歩先でフェリックスが振り返った。
「で、お前は、どこだと思う」
怒った十六歳が暗くなった校内で一人になる場所。
人の多い待合ではない。食堂でもない。
エルンストは腹を立てているときほど静かな場所へ行く。
幼い頃もそうだった。
両親の弔問客で屋敷が埋まった日、いなくなった弟は家系図の前に座っていた。
読めない名を指で一つずつなぞっていた。
見学者順路の最後に旧講堂がある。
真鍮の壁。
「旧講堂だ」
開いたままの回線へ告げ、ハインリヒは走り出した。
***
【同日 夜 旧講堂・戦没者の壁 エルンスト】
旧講堂の脇廊下に灯りの半分落ちた壁がある。
近年この学校を出て戦場で死んだ者の名が真鍮の板に彫られて並んでいる。
古い名はやがて記録堂へ移され新しい名がその場所を埋める。
それでも壁は長かった。
古い板は幾度も磨かれて角が丸く新しい板にはまだ艶が残っている。
昼間の演習場から歩いて十分。
拍手の届かない壁である。
名の横には卒業年次だけが刻んである。
死んだ年はない。
戦場で死んだ者だけを選んで並べているのに「戦死」の二文字はどこにもなかった。
磨かれた真鍮が廊下の薄明かりとエルンストの顔を薄く映している。
目が勝手に兄の名を探していた。
その名はない。
当然である。
分かっていて探すのをやめられなかった。
泣いてはいなかった。
怒っていた。
傷ついていた。
そして怖かった。
廊下の奥から足音が一つ近づいてきた。
振り返らなくても誰の足音かは分かる。
ずっと後ろで聞いてきた足音だった。
足音は少し離れて止まった。
入口の方にほかの気配もある。
兄の仲間たちが距離を取って待っている。
兄の第一声はそれだった。
「最終輸送車が出る」
エルンストは壁を見たまま答えた。
「兄さんの名前を探してた」
背後で呼吸が止まった。
「ここにあるわけがない」
「知ってる」
「なら帰るぞ」
エルンストは振り返った。
「僕は絶対に嫌だよ!兄さんがここに載るの」
兄の顔からいつもの答えが消えた。
「だから同じ道へ来るなと言った」
「嫌だからって、僕は兄さんに軍を辞めろとは言わない」
「俺とお前は違う」
「どこが」
「俺は――」
兄の言葉がそこで切れた。
エルンストは待った。
昼間、兄の命令は短く迷いがなかった。
だが今は弟への答えを見つけられずにいる。
兄が言った。
「……父上と母上が死んだとき、俺は決めた」
兄がその話をするのをエルンストは初めて聞いた。
「お前だけは、何があっても守ると」
「僕には何も決めさせないことで?」
「俺が前に立てば、お前は危険な場所へ来なくて済むと思った。俺たちは
兄は少し間を置いた。
「家が残れば、お前まで同じことをする必要はない。お前は何になるかを、自分で決められると思った」
「兄さんはずっと僕の前を歩こうとする」
「それが兄としての役目だ」
「だから僕には兄さんの背中しか見えない」
真鍮の板の前で兄の目が初めて逸れた。
エルンストは一歩近づいた。
「僕は兄さんの後ろに隠れたいんじゃない」
もう一歩。
「兄さんと同じ人間になりたいだけでもない」
兄が顔を戻した。
「今日、第二小隊と第三小隊が高地に残されたのを見たとき、怖かった」
エルンストは言った。
「兄さんが見捨てるわけがないって思った。でもどう帰すのかは分からなかった。第五小隊が出てきたとき、初めて見えた」
言葉が少し速くなる。
「僕も、ああいうものを自分で見えるようになりたい。誰かが残されたときに帰る道を考えられる人間になりたい。兄さんが先に決めた道を歩くだけじゃなくて、自分で」
「その道で、お前が死ぬかもしれない。俺は耐えられん」
「僕が死ぬこともあるかもしれない」
エルンストは答えた。
声は震えた。
震えたまま続けた。
「兄さんが死ぬこともある。ずっと前から、僕も知ってる」
兄は何も言わなかった。
失いたくないのは兄だけではない。
それでも弟は兄の人生を縛ろうとはしなかった。
そのことがようやく兄の前に置かれた。
エルンストは息を整えた。
「兄さんは僕を守るために、僕が何を選ぶかまで先に決めてしまう」
兄は否定しなかった。
謝りもしなかった。
ただ長く黙っていた。
やがていつもの声で、いつもより遅く言った。
「志望理由を書き直せ」
「書き直しても署名しないんだろ」
兄は弟の目を見た。
「今の理由はお前のものではない。まず、自分の理由を書け」
署名するとは言わなかった。
それでもエルンストは頷いた。
***
【同日 夜 旧講堂から来賓控室へ ハインリヒ】
入口では四人が待っていた。
アレクは警備隊の端末へ短く告げた。
「発見しました。無事です」
クラインは端末を閉じた。
トビアスが食堂に置き忘れられていた幼年学校の制帽を差し出す。
フェリックスはそれをひったくり、エルンストの頭へ乱暴にかぶせた。
誰も兄弟の話を訊かなかった。
トビアスが時計を見て言った。
「最終輸送車まで十五分。走れば間に合う。志望理由まで書くなら、字は諦めろ」
エルンストが答えた。
「字は普段から兄より上手です」
ハインリヒは即座に訂正した。
「事実ではない」
フェリックスが吹き出した。
廊下の空気がようやく夜の温度へ戻った。
「……手間を取らせた」
フェリックスは振り返らずに答えた。
「ああ、取ったよ」
それきり誰も何も言わなかった。
誰も慰めを言わないことがありがたかった。
来賓控室の机でエルンストは志願書を広げた。
備え付けのペンを取り、志望理由の欄の上で止まる。
ハインリヒが横から覗こうとすると弟は腕で隠した。
「僕の志望理由だから」
ハインリヒは一歩、机から離れた。
ペンの音が動き、止まり、また動いた。
二箇所書き損じたらしい。
線を引く音がする。
書き終えるとエルンストは自分で読み返した。
それから兄へ差し出した。
「危険な場所に残された者にも、帰る道を用意できる軍人になるため」
急いだ字だった。
二箇所、書き損じを線で消してある。
完成された文章ではない。
ハインリヒは一度読んだ。
もう一度読んだ。
今度の文には兄の名はなかった。
「俺はまだ反対だ」
「分かってる」
「軍務を勧めもしない」
「うん」
「危険が減ったとも思わない」
「思ってない」
ハインリヒは保証人欄にペンを置いた。
一度、離した。
弟は何も言わなかった。
急かしもしなかった。
ハインリヒはもう一度ペンを置いた。
「反対はする」
署名の最初の一画が入った。
「だが、志望するなと命じる権利はない」
保証人 ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。
一行が完成した。
署名を終えた手がそのまま余白を指した。
「出す前に写しを取るのを忘れるな。幼年学校の事務窓口は平日の午前だけだ。期限には気を付けろ。遅くとも――」
言いかけて止まった。
エルンストが黙って兄を見ている。
「……自分で調べる」
「……そうしろ」
志願書を弟へ返す。
エルンストは両手で受け取った。
***
【同日 夜 士官学校正門への道 エルンスト】
正門の外で最終輸送車の灯が待っていた。
トビアスが言った。
「エルンスト、また来いよ。次は酢豆、抜いとくからな」
エルンストは笑って礼をした。
そこから正門までは兄と二人だった。
いつものように兄の後ろを歩く。
兄の歩幅は速い。
昔から速い。
追いかけて、追いかけて、それが弟というものだと思ってきた。
「兄さん、速い」
「お前が遅い」
数歩進んだ。
兄の歩幅が一つ狭くなった。
何も言わない。
弟は少しだけ足を速めた。
兄の半歩横へ並んだ。
それから正門まで、兄の背は見えなかった。
――「寂しいことは、人事上の理由ではありません」
次回、『卒業式、あるいは帰る場所(前編)』