銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第四十四話「卒業式、あるいは帰る場所(前編)」(新帝国暦二十二年春)

【新帝国暦二十二年春 帝国軍士官学校・第七区隊教室】

 

卒業後の初任地を記した四十通の封筒が第七区隊教室の教壇の上に並んでいた。

一通を除いてどれも同じ厚さだった。

姓の順に並べられ、封蝋も宛名の書式も変わらない。

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム候補生のものだけが薄い。

開封は発令時刻の正午まで禁じられている。

 

壁の時計は午前九時を指していた。

あと三時間。

正午になればこの四十通は四十人をそれぞれ別の場所へ連れていく。

 

 

***

 

 

【同日朝 第七区隊寮棟】

 

廊下の点呼灯が点いた。

 

扉はどれも開け放たれていた。

室内から私物はほとんど消え、壁際には荷物が並んでいる。

正午の発令時刻になればそれぞれの行き先への荷札がつけられる。

 

四十人が二列に並んだ。

当直のハインリヒが最後の点呼を行った。

 

「ヴァルター」

 

「はい」

 

「ブリュックナー」

 

「はい」

 

「ミッターマイヤー」

 

「はい」

 

「ローエングラム」

 

「はい」

 

最後の朝にも欠けた返事はなかった。

 

「四十名、異状なし」

 

週番士官が頷いた。

「解散」

 

列は崩れなかった。

四年間、解散のあとには必ず次の課業があった。

朝なら講堂へ、夜なら消灯へ。

 

列の奥から冗談めかした声がした。

「明日の点呼、何時だ」

 

ハインリヒが真面目に答えた。

「ない」

相変わらずの反応に候補生たちは苦笑した。

 

「明日からは寝坊しても減点なしだ」

トビアスが混ぜ返した。

「降格はあるけどな」

 

四十人はようやく動き出した。

ハインリヒは当直室へ戻った。

四年間使った名簿を事務官へ渡す。

「確かに」

事務官は受け取り棚の奥へ収めた。

廊下では四十人の足音がそれぞれの部屋へ散っていった。

 

 

***

 

 

【同日午前 大講堂】

 

皇帝の参加する卒業式は例年どおりの式次第で始まった。

アレクは壇上ではなく候補生第七区隊の列に座っていた。

校長の式辞は短かった。

「諸君への教育は本日をもって完了する」

一度、講堂を見渡した。

「完了した教育を疑い続けることが、明日からの諸君の職務である」

それで終わった。

 

卒業生は三千人近い。

一人ずつ壇へ上げるような式ではなかった。

区隊番号が順に呼ばれた。

呼ばれるたびに四十人前後が一斉に立ち、区隊長が代表して壇上で証書の束を受け取る。

「第七区隊」

アレクも立った。

 

区隊長が戻ると証書が端から渡されていった。

アレクのものは正規課程修了証だった。

他の卒業生の証書には少尉任官予定の一行がある。

彼のものにだけそれがない。

皇帝は軍の階級体系の外にいる。

全区隊への授与が終わった。

号令がかかった。

 

二千数百人の手が一斉に襟元へ上がった。

四年間、毎朝そこにあった候補生記章が外される。

小さな金具の触れ合う音が、講堂のあちこちで重なった。

 

首席答辞のため、ハインリヒが演台へ立った。

原稿は持っていなかった。

提出した原稿は二度差し戻されている。

どちらも儀礼上必要な定型句が足りないという理由だった。

だがハインリヒは結局書き足さなかった。

 

正面を向く。

 

「本日まで、我々の判断は採点されてきました。誤れば減点されました。不可でも追試で取り返せました」

 

一呼吸置いた。

 

「本日からは、我々の判断が他者の帰還を左右します。追試はありません。以上」

 

一分にも満たなかった。

演台を降りる一瞬、ハインリヒの視線が来賓席の端へ動いた。

幼年学校の制服を着た弟が、まっすぐ彼を見ていた。

視線はすぐに戻った。

拍手の作法はない。

 

卒業生二千数百人が姿勢を正した。

 

壁の時計は十一時二十七分を指していた。

発令まで三十三分。

 

 

***

 

 

【同日午前十一時四十分 大講堂脇・控え室 アレク】

 

軍務尚書ケスラーが書類挟みを手に待っていた。

「陛下。御卒業、祝着に存じます」

 

「ありがとう」

 

「同期候補生の任官および配属につき、発令前の最終確認でございます」

 

差し出された一覧には第七区隊の三十九名とその配属先が並んでいた。

配属先の右には着任地までの標準所要日数が記されていた。

アレクは四つの名を探した。

 

フェリックス・ミッターマイヤー。宇宙艦隊・第九二機動戦隊。

クライン・ヴァルター。軍務省軍政局・辺境記録監査部門。

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク。統帥本部作戦局。

トビアス・ブリュックナー。軍務省輸送管制局・北西辺境航路監査班。

 

最も遠い任地までは皇宮から二週間以上かかる。

最も近い者なら数十分で会える。

だが明日からは会おうと思わなければ会わない距離だった。

 

ケスラーは頁をめくった。

「皇帝府、または直衛部隊へ数名を留め置くことも制度上は可能でございます」

 

アレクは一覧を見た。

フェリックスが近くにいれば非常のときに迷わず動くだろう。

クラインがいれば誰も気づかない記録の裏まで読まれる。

ハインリヒがいれば考えられる失敗はすべて先に織り込まれる。

トビアスがいれば物資が滞らず人が黙り込みすぎない。

 

残す理由なら一瞬で四つ揃った。

四年間、彼らは皇帝の側近ではなかった。

同じ課業表で動き、同じ食堂で並んだ同期である。

皇帝大権をもって留め置くことは可能である。

アレクは答えた。

「残しません」

 

ケスラーは表情を変えなかった。

「理由を伺っても」

 

アレクは一覧から目を上げた。

「寂しいことは、人事上の理由ではありません」

 

軍務尚書は一礼した。

「なお、この配属案は陛下の御目に触れる前にすでに決裁を了しております」

 

「知っています」

 

ケスラーはその一語だけをわずかに重く言った。

「確認でございます」

 

決裁は済んでいる。

皇帝がそれを大権をもって覆さないこともいま確認された。

壁の時計が十一時五十八分を指した。

ケスラーは書類挟みを閉じた。

「では、発令いたします」

 

 

***

 

 

【同日正午 第七区隊教室】

 

時計の秒針が正午を越えた。

教官は教壇から一言だけ告げた。

「発令時刻」

 

説明も注意事項も祝いの言葉もない。

誰も合図を決めていないのに封を切る音がほぼ同時に鳴った。

 

フェリックスが一枚を抜いた。

宇宙艦隊・第九二機動戦隊。

部隊名の脇に「新編成」と小さく記されている。

父の麾下ではなかった。

 

「聞いたこともねえ」

 

ハインリヒは自分の封を切りながら答えた。

「人事資料を読まないからだ」

 

フェリックスは命令を二度読んだ。

一度目は父の艦隊でないことを確かめた。

二度目は父の艦隊でないことをもう一度確かめた。

二度目には口元が少しだけ上がっていた。

 

クラインの封筒からもう一枚が滑り出た。

軍務省軍政局・辺境記録監査部門。

別紙の最初には太い字で記されていた。

単独外勤を禁ずる。

 

その下にも条件が続いている。

先任監査官の同行。

外部通信記録の保存。

不審接触の即時報告。

 

クラインは行の数を数えた。

数えたことは誰にも言わなかった。

フェリックスが横から覗いた。

「外されなかったな」

 

「監督下です」

 

「席はあるんだろ」

 

クラインは二枚を揃えた。

「あります」

 

それ以上は誰も訊かなかった。

 

ハインリヒの紙には統帥本部作戦局付とあった。

周囲は驚かなかった。

首席が中央へ行って作戦幕僚になる。

それだけのことに見えた。

本人だけが配属先より先に着任期限を確認した。

トビアスが言った。

「喜べよ、首席」

 

「喜んでいる」

 

フェリックスが訊いた。

「わかりにくいんだよ、お前は」

 

ハインリヒは答えず着任までに必要な日数を書き始めた。

移動。

手続き。

準備。

 

弟の入寮日は書かなかった。

書かなくても憶えている。

 

トビアスは自分の紙を開いた。

軍務省輸送管制局。

北西辺境航路監査班。

艦隊名を探して最初から読み直した。

 

満更でもない顔で言った。

「四年間艦隊戦を勉強して、最後は荷物係かよ」

 

クラインが言った。

「あなたが部隊の勝率を上げるのに最も貢献したのは補給と輸送です」

 

「それ、褒めてるのか」

 

「事実を述べたまでです」

 

トビアスはしばらく紙を見ていた。

悪くないらしい。

北西辺境。

中継港の名が四つ並んでいる。

そのうち二つは父の商会の船が使う港だった。

「まあ、俺は荷物と一緒が性に合うか」

 

教室のあちこちで声が上がった。

辺境基地。

病院船。

港湾警備。

士官教育隊。

行政連絡部門。

被服廠。

弾薬倉庫。

 

艦隊勤務は思ったほど多くなかった。

誰かが天井へ言った。

「四年間やって、弾薬倉庫かよ」

 

トビアスが返す。

「倉庫が空なら艦隊は一発も撃てねえぞ」

 

笑い声が教室を走った。

一人だけ配属先を持たない者がいた。

アレクの紙に記されているのは公務復帰の日程だけだった。

着任地の欄そのものがない。

「僕だけ行き先が書いてない」

 

トビアスが覗き込んだ。

「荷造りしなくていいだろ。得だぞ」

 

フェリックスが横から取り上げ、裏まで検めた。

「階級もねえな。元帥とでも書いとけ」

 

「元帥は陛下の下です」

クラインだった。

「書けば降格になります。どの階級を書いても同じことです」

 

 

***

 

 

【同日正午 別棟・区隊教室 カーラ】

 

別棟でも同じ時刻に封が切られていた。

カーラ・ビッテンフェルトは一度だけ読んだ。

宇宙艦隊・水雷戦隊付。

駆逐艦乗組。

 

任務欄には四つ並んでいる。

哨戒。

護衛。

連絡。

救難。

 

艦隊決戦の語はどこにもなかった。

二年次の授業で水雷戦隊は敵へ最も近づく部隊だと教わった。

最も損耗率の高い艦種である。

 

カーラはそこを二度読まなかった。

隣のドルナーが言った。

「艦隊勤務か。いいな」

 

「小さい艦」

 

「不満か」

 

カーラは紙を封筒へ戻した。

「近い」

 

ドルナーは何が近いのか訊かなかった。

訊いてもそれ以上は返ってこないことを四年で知っている。

「希望どおりか」

 

「希望は出してない」

 

「なら、当たりだな」

 

カーラは答えなかった。

当たりでも外れでも行く場所は同じだった。

教室の後ろでは艦隊勤務になった者たちが互いの配属を見せ合っていた。

輪はすぐに大きくなった。

 

カーラは席を立った。

その脇を通り教室を出た。

 

 

***

 

 

【同日正午 別棟・区隊教室 リディア】

 

リディア・ハルランダーは命令書を二度読んだ。

宇宙艦隊・北西辺境航路管制隊。

惑星ルドミラ。ロフォーテン中継所付。

 

故郷の名が印刷されていた。

キベロンの隣の惑星である。

 

隣席の候補生が命令書を覗き込んだ。

「地元へ帰れるじゃない」

 

「赴任です」

 

「同じでしょう」

 

リディアは眼鏡の中央を押し上げた。

「帰るのに命令は要りません」

 

候補生は笑って自分の命令書に戻った。

リディアはもう一度、地名のところだけを読んだ。

 

 

***

 

 

【同日午後 第七区隊寮室】

 

荷造りに戻った部屋はほとんど空になっていた。

机と寝台と棚だけが残っている。

アレクの机には物を積み続けた四角い日焼け跡。

クラインの棚には分類札を剥がした糊の跡。

ハインリヒの机には傷ひとつなかった。

 

クラインの荷造りは朝のうちに終わっていた。

箱の角まで揃っていた。荷札の字は印字と見分けがつかない。

四年前の入寮の日にも彼の荷だけは誰より先に片づいていた。

フェリックスはそれをいまになって思い出した。

 

 

トビアスの引き出しから賭けの倍率を書いた紙が三枚出てきた。

「まだ三件あった」

 

「もう時効だろ、それ。今日卒業だぞ」

 

「なら今日中に回収するか」

 

フェリックスは聞こえないふりをした。

自分の反省文を賭けた分が一件混じっている。

 

下級生が部屋の引き継ぎに来た。

「何か注意することはありますか」

 

フェリックスは窓の外を見た。

演習棟が見える。

夜間演習のある日は遅くまで灯りが消えなかった。

「夜中までうるさい」

 

下級生は書き留めた。

「慣れますか」

 

フェリックスは閉まらない鞄の留め具を押した。

古い靴の包みが中から押し返してくる。

「慣れなくても、朝は来る」

 

下級生はその一行も書いた。

フェリックスはそこまで書かなくてもいいのにと思った。

訂正はしなかった。

 

四年前、自分も同じことをすれ違った上級生に訊いた。

あのときの上級生の顔はもう思い出せない。

何と答えられたかは憶えていた。

 

 

***

 

 

【同日午後 士官学校・正門への道】

 

卒業生は一斉には学校を出なかった。

軌道港行きの連絡車。

帝都中央駅行きの乗合車。

各家からの迎え。

行き先ごとに出発時刻が違っていた。

 

門の内側には荷物を下ろして待つ者と、そのまま出ていく者がいる。

放送が告げるのは行き先と時刻だけだった。

 

正門へ続く並木道で別棟から来た卒業生の流れと交差した。

通信機材の小箱を抱えたリディアがその中にいた。

フェリックスを見ると足を止める。

「配属、第九二機動戦隊ですね」

 

「もう知ってるのか」

 

「新設部隊の通信識別表に載っていました」

 

「お前は」

 

「北西辺境航路管制隊です。ロフォーテン星系へ行きます」

 

「希望したのか」

 

「はい」

 

フェリックスは少し間を置いて頷いた。

「着いたら、連絡しろ」

 

リディアは眼鏡の中央を押し上げた。

「そちらも、お願いします」

 

別棟の卒業生を呼ぶ放送が流れた。

リディアは一礼し別の車列へ歩いていった。

 

その任地がやがて建国される神聖黄金樹教国の中枢圏内であり、緒戦の激戦地となることをリディアもフェリックスもまだ知らない。

後世に『ロフォーテン星域の会戦』あるいは『ロフォーテン事変』と呼ばれる戦いである。

 

 

リディアの後ろ姿が人の流れへ消えてから、小さな鞄を一つ持ったカーラが現れた。

フェリックスが訊いた。

「任地、どこだ」

 

「水雷戦隊」

 

「駆逐艦かよ。装甲も薄いだろ」

 

「その分、速い」

 

教室で別れた顔が一人ずつ門へ集まってきた。

 

トビアスは両腕で荷物を抱えている。

まだ債権を回収していない賭けの記録だけはすぐ取り出せる場所に入れてあった。

ハインリヒは着任日程を見ながら歩いていた。

もう何度目か分からない。

 

クラインの荷は角まで揃っている。

アレクの手には何もない。

フェリックスの鞄からは靴を入れた包みの角が覗いていた。

 

門の外にはそれぞれ別の車が待っていた。

先に出た者たちが一人また一人と門を越えていく。

新しい軍靴の音が石畳へ落ちた。

同じ歩調で通った門を今日は別々の速さで通り抜けていく。

 

四年前、この場所で候補生たちは歩調を揃えることから覚えた。

最初の数週間、何度も「揃えろ」と怒鳴られた。

いつの間にか自然と揃うようになった。

 

門の外に教官はいない。

二千数百人の新しい軍靴はもう同じ音を立てていなかった。

それぞれの靴がそれぞれの歩き方を始めていた。




――「それでも帰ってくる場所はここにある」

次回、『卒業式、あるいは帰る場所(後編)』

建国宣言まであと四話
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