銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第四十五話「卒業式、あるいは帰る場所(後編)」(新帝国暦二十二年初夏)

【新帝国暦二十二年初夏 帝国軍士官学校・正門 トビアス】

 

卒業式が終わった。

四年間くぐり続けた正門を六人は外へ向かって歩いていた。

胸の候補生記章は式の中で外されている。

着任までは数日の猶予があった。

 

トビアス・ブリュックナーだけが両腕で抱えるほどの大荷物を持っていた。

四年分の私物に賭けの精算記録まで入っている。

 

「それ、全部お前のか」

フェリックスが閉まっていない自分の鞄を片手で押さえながら訊いた。

 

「半分は俺のだ。残りは賭けの精算。卒業して逃げる奴が多すぎる」

 

「軍人が借金から逃げるな」

 

「お前が言うな。反省文の賭け、まだ払ってねえぞ」

 

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルクは自分の荷物より先に一枚の予定表を確かめていた。

近くこの門を弟がくぐる。

士官学校入学手続の案内である。

 

クライン・ヴァルターの荷は寸法まで測ったように角が揃っている。

カーラ・ビッテンフェルトは別の区隊の流れから現れ、小さな鞄一つで六人の先を歩いていた。

 

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの手には何もなかった。

荷物は離れた位置に控える侍従が持っている。

 

 

「なあ」

トビアスが荷物の陰から言った。

 

「次に全員揃うの、いつだ」

 

ハインリヒが予定表から顔を上げた。

答えかけて、やめた。

六人の行き先はすでに六つに分かれている。

 

「そのうち、嫌でも会うだろ」

フェリックスが言った。

明るい声だった。

 

誰もそれ以上は続けなかった。

カーラは足を止めずに片手を上げ、迎えの車へ向かった。

別れの言葉はなかった。

 

クラインは時刻を確認し、規定の乗車場へ向かった。

ハインリヒは予定表を折り直した。

フェリックスは閉まらない留め具を諦めて鞄を抱えた。

アレクの迎えだけが正門から少し離れて停まっていた。

皇帝の車列が卒業生たちの迎えを塞がないためである。

 

同じ門を出て、六人はそれぞれ違う場所へ帰った。

その夜、五人の端末へ同じ一文が届いた。

 

――無事に着きましたか。

 

 

***

 

 

【同日 ブリュックナー商館 トビアス】

 

ブリュックナー商会は中規模の輸送商である。

商館と住居が一つ屋根の下にあり、玄関には家族と使用人と倉庫番と、届け先を間違えた運送屋までが出入りしている。

トビアスが荷物ごと戸口をくぐると、その全員が振り返った。

帰ることは昨夜のうちに知らせてある。

それでも歓声は上がった。

 

「お帰り、少尉殿」

兄が伝票の束を持ったまま言った。

 

「着任はまだだ。ただいま。言っとくが、今日は働かないぞ」

 

「分かった。倉庫は昼からでいい」

 

「昼からって言ったか、いま」

 

母が奥から出てきて荷物を取り上げ、背中を二度叩いた。

この家の歓迎は昔から手が早い。

夕食には普段より皿が二枚多かった。

父が杯を上げ、四年間ご苦労と言った。

祝辞はそこで終わり、その先は質問になった。

 

「軍の支払いは相変わらず遅いのか」

 

「軍用船の荷役は雑だと聞くが、本当か」

 

「帝都の燃料相場、この先どう見る。内側の人間の目で言え」

 

「皇帝陛下と同期というのは本当なのかい?」

 

最後の質問は母である。

 

「帰省のたびに聞くなよ。本当だよ。点呼じゃ陛下も、ローエングラム候補生って呼ばれて返事してた」

母はしばらく黙り、真顔で言った。

「罰は当たらないのかね」

 

「今んとこ大丈夫みたいだよ」

 

トビアスは艦隊運動の講義と統合演習の話をするつもりだった。

商売の質問の隙間にその話を差し込む余地はなかった。

 

「四年間、俺が何を習ってきたと思ってるんだ」

 

「荷の動かし方だろう」

父は当然のように答えた。

 

艦隊とは要するに帝国でいちばん大きな荷主である。

反論の余地がなかったので、トビアスは笑って燃料相場の見通しを答えた。

食後、帳場にはまだ灯りが残っていた。

父と兄が取引先から届いた出荷票を綴じている。

トビアスは茶を持ったまま覗き込んだ。

 

同じ高純度燃料の注文が七件続いていた。

買い手の社名は違う。

行き先の港も違う。

ただ、指定された品質だけが妙に揃っていた。

 

「これ、最近よく出るな。買主の会社も港も違うのに、注文の中身は全部同じだぞ」

 

「上客だ」

 

父は出荷票から目を上げなかった。

 

「代金は早い。船腹も早めに押さえる。文句のつけようがない」

 

「ずっと艦隊戦を習って、帰ってきて見るのが伝票か」

 

「船を出す人間より、帰す人間の方が多く要る」

父はこともなげに言った。

 

「出した船は帰ってきて初めて商売になる。軍でも同じだろう」

 

トビアスは別に感動しなかった。

ただ、立ちかけていた帳場の椅子へ座り直した。

端末が鳴った。

 

――無事に着きましたか。

 

差出人を確かめる必要はなかった。

トビアスは片手で返信を打った。

 

――倉庫で働かされてる。

 

送信してから七枚の出荷票をもう一度見た。

気になった数字の一つへ、小さく印をつけた。

この帳場で覚えた癖だった。

 

 

***

 

 

【卒業式当日夜 ビッテンフェルト元帥邸 カーラ】

 

カーラが屋敷へ着いたとき、父はまだ戻っていなかった。

玄関の使用人が申し訳なさそうに、元帥閣下は宇宙艦隊司令部から直ちに戻られる予定です、と説明した。

カーラは頷き、荷物を自分で持って階段を上がった。

自室は四年前に出たときのままだった。

ただ、寝台が少し短く見えた。

 

端末が鳴った。

 

――無事に着きましたか。

 

カーラは上着を脱ぐ前に返した。

 

――着いた。

 

それだけ送って端末を伏せた。

 

父が帰宅したのはそれから一時間後だった。

廊下の向こうから使用人を驚かせる声が聞こえた。

「帰っているではないか!」

 

帰ると知らせてあるのだから、帰っていて当然である。

カーラは返事をしなかった。

その代わり、扉を開けた。

 

フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥は娘の顔を見るなり、腹の底から言った。

「たいしたものだ!」

 

「三回目」

 

「なにがだ」

 

「それ、聞くの」

 

娘が数えていたことに父は少しだけ驚き、一瞬黙った。

 

「四回目も言うぞ!」

 

「知ってる」

 

数日後、任地に発つ朝、カーラが食堂へ入ると、父はすでに席についていた。

たまたま目が覚めた、と本人は言い張った。

前夜遅く帰った男が夜明け前から正装に近い軍服で待っている。

 

カーラは真新しい少尉の軍服を着ていた。

袖は四年前と同じく、一度だけ折り返してある。

 

「軍はまだお前の寸法を作らんのか」

 

「折れば足りる」

 

食事が半ばまで進んだところで、父が塩入れと匙とフォークを卓上へ並べ始めた。

四年前と同じ陣形である。

 

「覚えているか」

 

「覚えてる」

 

「どこを突く」

カーラはひと目で同じ継ぎ目を指した。

塩入れと匙のあいだの、何もない一点。

 

父は待った。

啖呵でも勝算でもいい。

四年前には来なかった二行目を今度こそ待った。

 

カーラは小皿を一つ取り、継ぎ目の後方へ置いた。

「ここに一隊」

 

「何のためだ」

 

「後ろが帰れなくなるから」

 

ビッテンフェルトは卓上の陣を見下ろして笑った。

「突っ込む前から帰り道を考えるとは臆病になったか」

 

「ついてくる人がいる」

 

「部下か」

 

「部下も」

 

父の指が塩入れの上で止まった。

 

「も」と言ったことについては何も訊かなかった。

代わりに陣の側面に置かれていたカップを指した。

「ではこれは何だ」

 

カーラはカップを見た。

四年前の盤にはなかった駒である。

自分が無意識に動かしていたらしい。

 

「まだ来てない」

 

「来ておらん者を盤に置くな」

 

「来る」

 

「待つのか」

 

「待たない。先に行く」

 

「なら置いていけ」

カーラはカップを小皿の後ろではなく、自分が指した継ぎ目の横へ置いた。

「追いつく」

 

「なぜ分かる」

少しだけ考えてから答えた。

「決めるまでが遅いだけ。決めたあとは速い」

 

ビッテンフェルトは名を訊かなかった。

卓上のカップは、先頭の駒と同じ線にあった。

 

外で迎えの車が停まった。

カーラは最後のパンを口へ入れ、立ち上がった。

 

父も立った。

送り出す言葉を腹の底から出しかけた。

「勝利の女神はな――」

 

そこで止めた。

四年前、閉じた戸の向こうへ落ちた二行目である。

「……任務を果たせ」

 

「うん」

 

「それから、帰ってこい」

 

「帰る」

 

娘は戸口をくぐった。

無人になった食堂でビッテンフェルトは卓上の陣を見た。

継ぎ目の後ろには小皿がある。

その横には娘が置いたカップがある。

 

父はどちらも動かさなかった。

 

 

***

 

 

【卒業式当日 ミッターマイヤー元帥邸 フェリックス】

 

玄関の前で、フェリックスは一度だけ右の拳を握り、開いた。

姿勢を正して扉を開ける。

 

「ただいま帰還しました」

 

新任士官の復命は直立不動と決まっている。四年の教育の成果を、まず玄関で示すつもりだった。

 

「お帰りなさい」

 

エヴァンゼリンは息子の顔を見て、一言だけ加えた。

 

「手を洗ってきなさい」

 

階級章も丸めて持った卒業証書も視界に入った様子がない。母が見たのは顔色と、痩せたかどうかと、腹が減っていそうかどうかだけだった。

フェリックスは直立不動のまま数秒立ち尽くしたあと、復命の続きを諦めて手を洗いに行った。戻ったときには、玄関にはもう誰もいなかった。

 

食卓には彼の好物が並んでいた。

苦手なものは最初から小さな別皿に分けてある。本人は礼を言わず、母も何も言わない。

廊下の奥から、速く、拍の揃った足音が近づいた。フェリックスは顔を上げる前に養父だと分かった。

ウォルフガング・ミッターマイヤーは席につき、息子の顔を見た。

宇宙艦隊司令長官としての一日を終えてきたはずだが、疲れよりも機嫌のよさが表に出ている。

 

「帰ったか」

 

「はい。卒業席次ですが――」

 

「エヴァから聞いた。上出来だ」

 

「操艦実技の評点も」

 

「それも聞いた。食え」

 

それで終わった。

フェリックスは少し苛立った。四年をかけて何かを積み上げてきたはずなのに、この食卓へ戻れば、家を出た日とほとんど同じ扱いをされる。

肉を切ると、皿が少し強く鳴った。

そのとき端末が鳴った。

 

――無事に着きましたか。

 

フェリックスはエヴァンゼリンに皿を追加されながら、片手で返信した。

 

――飯を食わされてる。

 

送った直後、さらに一皿が目の前へ置かれた。

誇張ではなくなった。

食事が半ばを過ぎたころ、フェリックスはわざと軽い調子で言った。

 

「俺が誰の息子かって話は、配属先でもされるでしょうね」

 

ミッターマイヤーは否定しなかった。

「俺の名が邪魔になることもある」

 

「ロイエンタールの名もです」

一拍だけ間が空いた。

 

ミッターマイヤーはしばらく食事を続け、それから何でもない事務上の確認をするように言った。

「それなら、今のうちに一つ訊いておく。姓だ」

 

「……姓?」

 

「任官したばかりなら、まだ記録は少ない。変えるつもりがあるなら今の方が手続は簡単だ」

そこでようやく意味が分かった。

「ロイエンタールに、ですか」

 

「そうだ」

フェリックスはナイフを止めた。考えたことがなかったわけではない。

ただそれは自分の頭の中だけにある話で、養父の口から選択肢として差し出されるとは思っていなかった。

 

「父上は、それでいいんですか」

 

「俺が決めることじゃない」

 

「俺が父上に遠慮してミッターマイヤーを名乗ってると思ってたんですか」

 

少し語気が強くなったがミッターマイヤーは気にした様子もなかった。

「思ってはいない。だが、選ばなかったことと、選べなかったことは違う。後になって、お前が自分には選択肢がなかったと思うのはよくない。だから今、訊いた」

 

エヴァンゼリンは何も言わずに空いた皿を一枚持っていった。フェリックスはその背中を見送り、それからもう一度養父を見た。

「変えません」

 

「そうか」

 

「理由は訊かないんですか」

 

「お前が決めたなら、それでいい」

 

肉を一切れ口へ運んだあと、フェリックスは訊いた。

「父上は、俺があの人に似るのは嫌じゃないんですか」

 

「似ているところはある」

 

「どこがです」

 

「負けず嫌いなところだ」

 

「父上だってそうでしょう」

 

「そうだな」

 

フェリックスは少し笑ったが、すぐに真顔へ戻った。

「俺はあの人みたいにはなりません」

 

ミッターマイヤーはその言葉を褒めなかった。

「同じ目に遭わないことを願っている」

 

「同じ目に遭ってもです」

 

「そのときは、そのときのお前が決めろ」

 

「父上は、ロイエンタールがどうしてああしたか分かりますか」

 

ミッターマイヤーはしばらく答えなかった。

「分かるところはある」

 

「それでも戦った」

 

「ああ」

 

「……変ですね」

 

「何がだ」

 

「分かるのに」

 

フェリックスは皿を見た。

「いつか、お前にもロイエンタールの考えていたことが分かる日がくるかもしれん」

 

「そんな日は来なくていいです」

 

「来ても困ることはない」

 

「なぜです」

 

「分かったからといって、同じ答えを出す必要はない」

 

そこでエヴァンゼリンが鍋を持って戻ってきた。

「まだ食べるでしょう」

 

返事を待たずフェリックスの皿へ盛る。

二十年以上前の反乱と、その反乱を起こした男と、その男を討った親友の話は湯気の向こうへ押しやられた。

フェリックスもそれ以上は訊かなかった。

 

 

***

 

 

【卒業式当日夜/翌日 アイゼンベルク家から士官学校 ハインリヒ】

 

アイゼンベルク家の食卓には二人分の皿しかない。

両親はいない。

 

ハインリヒは卒業式のその足で実家へ戻り、上着を掛けて台所に立った。

 

翌日はエルンストの士官学校の入学許可発令招集日である。

 

秋の候補生入校日には特に式典は行われない。

招集日では保護者の観覧も許されているため、事実上の入学式典となる。

式典後、その足でハインリヒは配属先である統帥本部の官舎へ入る。

この家で弟と夜を過ごすのは今夜が最後だった。

 

以前のハインリヒなら、食事の前に翌日の行動予定を読み上げていた。

起床時刻、出発時刻、経路、予備経路、持参書類。

弟は、はいはいと聞いていればよかった。

 

今夜は弟が自分で書類と荷物を整えていた。

ハインリヒは向かいへ座り、確認だけをした。

 

「許可証は」

 

「入れた」

 

「集合時刻は」

 

「自分で確認した」

 

次の質問が喉まで出た。

 

入校後の非常時の連絡手順。

医務区画の位置。

週番士官への申告の作法。

 

確認したいことは山ほどあったが、全部こらえて一言だけ言った。

 

「そうか」

 

エルンストは顔を上げ、少し笑って、また荷物へ戻った。

 

 

翌朝の受付で士官学校の係官が用紙を差し出した。

 

「本人との続柄をお願いします」

 

続柄の欄にハインリヒは『兄』と書いた。

 

「エルンスト・フォン・アイゼンベルク」

 

「はい」

 

弟が自分の声で返事をした。

周囲の保護者が拍手をした。

ハインリヒの拍手は一拍遅れた。

 

軍務への反対を彼は撤回していない。

それでも手は叩いた。

 

式が終わると、入校者は事務手続きへ、家族は正門へ分けられた。

別れの時間は短い。

 

ハインリヒは注意事項を言い始めた。

 

「入校後のことだ。初週は課業表より十五分早く動け。装具は前夜に点検しろ。教官の指示に疑義がある場合は――」

 

「兄さん」

 

エルンストが止めた。

 

「全部、自分で覚えるよ」

 

ハインリヒは続きを飲み込んだ。

四年前、彼自身もそうした。

 

「……そうしろ」

 

「では行ってくる」

 

エルンストが列へ戻ろうとする。

 

ハインリヒは弟の襟を見た。

曲がっていない。

荷の掛け方は教範どおりだった。

靴も磨いてある。

 

直す箇所がどこにもなかった。

 

言っておくべきことなら、いくらでもあった。

訓練中の事故の危険。

命令の重さ。

友人の選び方。

旧講堂の壁に並ぶ、戦没卒業生の名。

 

どれも一言では渡せない。

 

「エルンスト」

 

弟が振り返った。

 

「……行ってこい」

 

「うん。行ってきます」

 

弟は入校者の列へ戻っていった。

 

ハインリヒは弟の背を見送った。

追わなかった。

 

同じ色の制服の中で、やがて弟の背が見分けられなくなった。

 

正門を出たところで端末を開いた。

昨日届いていた一文がまだ未返信のまま残っている。

 

――無事に着きましたか。

 

ハインリヒは短く打った。

 

――エルンスト入学許可。異状なし。

 

打ってから少し考えた。

訂正はしなかった。

 

端末を閉じた。

 

家へは戻らずその足で統帥本部の官舎へ向かった。

割り当てられた部屋に荷物を置いた。

机と寝台と棚が一つずつあった。

 

ハインリヒは端末を開いた。

先ほどの一文がまだ残っている。

 

――エルンスト入学許可。異状なし。

 

そのまま送信した。

 

 

***

 

 

【卒業式翌日午後 グリューネワルト伯爵夫人離宮 クライン】

 

帝都近郊の離宮をクラインは午後に訪れた。

休暇届にはここを帰省先として書いていた。

クラインはそれ以上の意味を認めていなかった。

今日の用件も明確だった。

卒業の報告。

被保証人リーゼとの定期面会。

 

門の内側でリーゼが待っていた。

侍女見習いの装いで背筋を伸ばして立っている。

前歯の抜けた口で艦じゅうを騒がせていた娘は離宮の作法を一通り身につけていた。

ただ、呼び方だけは変わらない。

 

「お帰りなさい、おにいさま」

 

帰宅ではありません。訪問です。

クラインはそう訂正しかけた。

口を開き、閉じた。

 

「……はい」

 

リーゼは目を丸くした。

それから何も言わず、先に立って歩き出した。

指摘すれば訂正が戻ってくることをよく知っていた。

小さな居間には茶と焼き菓子が用意されていた。

厨房の許可は取りました、とリーゼが先回りした。

 

「費用の出所を確認することは――」

 

「今日は帳簿のお話はしません」

 

「経理上の整理は――」

 

「卒業祝いです」

 

「……承知しました」

クラインは着席した。

クラインはそれ以上を訊かず、一つ食べた。

甘かった。

茶が済むとリーゼは小さな包みを出した。

革の細い栞である。

侍女見習いの給金で買える範囲の、実直な品だった。

「任地でも使ってください」

 

「私物の持込み規定を確認してから――」

 

「使ってください」

 

「……使用します」

リーゼは満足そうに頷いた。

「任地に着いたら、住所を知らせてください」

 

「任務の性質上、公開できない場合があります」

 

「届く宛先が一つあれば、結構です」

 

クラインは少し考えた。

彼の任地にはおそらく別紙の条件が付く。

それでも軍の郵便制度には経由という仕組みがある。

 

「連絡可能な宛先を必ずお伝えします」

 

「約束ですよ」

 

「記録します」

 

「……約束って言ってください」

 

「約束します」

 

リーゼは頷き、残った焼き菓子を紙へ包み始めた。

当然のようにクラインの鞄へ入れる。

 

「携行糧食は支給され――」

 

「甘いものは出ません」

反論の理屈は組めた。

事実には反していなかったので、黙った。

 

玄関までリーゼが送りに出た。

門の手前で彼女は訊いた。

「次はいつ帰りますか」

 

「帰宅では――」

言いかけて、止まった。

休暇届にはここを帰省先として書いてある。

それを書いたのは彼自身だった。

「次の休暇に参ります」

 

リーゼは笑った。

「行ってらっしゃい、おにいさま」

 

「行ってまいります」

 

門を出たところで端末を開いた。

 

――無事に着きましたか。

 

クラインは返信欄へ規定どおり簡潔に打った。

 

――訪問を終えました。

 

送信してから鞄を開けた。

栞の包みを一番上へ移す。

持込み規定の確認はまだ済んでいなかった。

 

 

***

 

 

【卒業式当日夜/翌日 皇宮 アレク】

 

皇宮の車寄せで扉が開くと、衛兵が捧げ銃の敬礼をした。

侍従長が進み出て、留守中の報告と、翌日の公務日程を読み上げ始める。

午前に謁見が二件。

午後に決裁と御署名。

夕刻に評議会への陪席。

 

荷物は侍従が運び、アレクの手には何も残らなかった。

玄関で迎える家族はこの家にはいない。

公式の記録にはこう残る。

 

皇帝、皇宮へ還御。

摂政皇太后ヒルデガルドとの対面も最初は摂政と皇帝として行われた。

卒業の報告。

教官評価の要旨。

今後の軍務教育と公務復帰の日程。

 

報告が終わると、ヒルダは側近を下がらせた。

執務室の隣の小食堂に二人分の遅い夕食が用意されていた。

 

席につき、母は初めて言った。

「お帰りなさい、アレク」

 

「……ただいま戻りました、母上」

 

返事は一拍遅れた。

その言葉を今日まだ誰にも言っていなかったことに、言いながら気づいた。

食事の途中でアレクは訊いた。

「母上は卒業式へ来たかったですか」

 

「摂政が出席すれば、あなたの卒業式ではなくなるでしょう」

 

摂政皇太后が式場へ座れば、警備が変わり、席次が変わる。

アレクにも分かっていた。

分かったうえでもう一度訊いた。

「来たかったですか」

 

ヒルダは少し黙った。

「ええ」

 

「僕も来てほしかったです」

 

母は論評しなかった。

ただ、皿を一つ、息子の方へ寄せた。

卓の脇には翌日からの公務資料が積まれている。

一番上には辺境星域の復旧率と人口と租税と無籍者の数が並んでいた。

 

「学校では数字の後ろにいる人間を見ろと教わりました」

アレクはその数字を見ながら言った。

 

「皇帝府には数字しか届かないことがあります。近いうちに自分の目で旧同盟領の辺境を見たいのです」

 

「皇帝が行くということは、あなた一人が見るということではありません」

 

ヒルダは続けた。

「何隻動き、何人の予定を変え、その土地に何をさせることになるか。そこまで考えなさい」

 

アレクは頷いた。

その先は言わなかった。

 

夜、自室へ戻った。

寮の部屋より広く、そして演習棟のシミュレータの振動もない静かな部屋だった。

静けさに慣れ直すにはしばらくかかりそうだった。

 

アレクは端末を開いた。

 

――無事に着きましたか。

 

五人へ同じ文を送ったのは皇宮へ戻ってすぐだった。

短すぎるかと思った。

皇帝からの連絡として読まれないかとも思った。

送ったあとで消すことはできなかった。

 

返信は時間差で届いた。

 

――倉庫で働かされてる。

最初はトビアスだった。

 

――着いた。

カーラは一言だけだった。

 

――飯を食わされてる。

フェリックスからは食卓らしい時刻に来た。

 

――訪問を終えました。

クラインの文面はいつもどおりだった。

ただ、帰省先からの返信としては少しだけおかしかった。

 

最後の一通は翌日に届いた。

――エルンスト入学許可。異状なし。

 

アレクは五つの返信を読み終えた。

自分の問いに正面から答えた者はカーラ一人だった。

 

 

***

 

 

【数日後】

 

着任期限は五人それぞれに違っていた。

 

カーラが屋敷を出たあと食卓には小皿やらカップやらが残った。

 

トビアスは玄関で兄から伝票の束を持たされそうになった。

軍務省へ行くんだぞ、と言いながら、一番上の一枚だけを抜いて鞄へ入れた。

印をつけた燃料の出荷票である。

 

フェリックスはエヴァンゼリンに食料の包みを持たされた。

多すぎると言ったが包みは減らなかった。

ミッターマイヤーは訓示をせず、行ってこい、とだけ言った。

 

ハインリヒは統帥本部の訓令集をすべて暗記したのを確認してから官舎を出た。

 

クラインは書類の束へ革の栞を挟んだ。

持込み規定の照会結果はまだ返ってきていなかった。

 

アレクはどの門も出なかった。

執務室の扉を開いた。

 

十九年にわたった摂政政治が終わる。

ローエングラム朝銀河帝国第二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの親政が、始まる。




――「同じ状況になれば、私はまた同じことをします」

次回、『帝国軍六個艦隊、皇帝を試す(前編)』

建国宣言まであと三話
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