【新帝国暦十九年 皇宮・摂政執務室 ヒルダ】
アレクが士官学校を卒業した日から、三年を遡る。面会の申し出は摂政府を通してきたもので、形式は摂政への拝謁である。
末尾に、マリーンドルフ伯爵家の縁者として時間をいただきたい、と一行あった。ヒルダは身の振り方の相談だと思った。
ゴットフリート・フォン・メルゼブルク、二十七歳。マリーンドルフ伯爵家の縁戚にあたる家の当主。
帝国軍大佐で、辺境勤務が長い。
その年、上級司令部の命令に背いて艦を動かし、軍法会議では事実関係を争わないまま予備役編入となっている。
有能な男であり、二十七歳で軍歴を終える必要はなかった。
しばらく置けば復帰の道もある。
ヒルダは彼を子供の頃から知っていた。入ってきたメルゼブルクは軍服を着ていなかった。
暗い色の服に飾りはないが、仕立てはきちんとしている。
姿勢と歩き方は、軍にいた頃と変わらなかった。この男を軍服以外で見るのはいつ以来だろう。
「座ってください」
「失礼いたします」
机に置かれたものは少なかった。メルゼブルクの指の関節には古い傷があり、まだ現役を離れて何月も経っていないことも、手だけ見れば分からなかった。
ヒルダは先に話しはじめた。
判決は確定しているのだから、復帰を考えるにしても急ぐ必要はなく、しばらく予備役にいてもよい。
「その件ではありません」
言い終える前に止められた。
「爵位を返上いたします」
ヒルダはさほど驚かなかった。今回の処分を受けての自発的な謹慎の延長だろうと思った。
「そこまでする必要はありません」
「領地も帝国へ返還いたします」
ヒルダの手が止まった。
「メルゼブルク家は、私の代で閉じます」
「……何を言っているの」
「家を閉じます」
机に置かれたものを、もう一度見た。爵位返上だけの話ではなかった。
家産の整理はすでに始まっており、旧領の処置も、使用人や旧家臣の行き先も決めてあった。老いた者への給付から、家が支えてきた学校と診療所、墓所の維持まで、どれも途中まで済んでいた。
「正気なの、ゴットフリート」
「正気のつもりです」
「判決が不服なのですか」
「いいえ」
答えは早かった。
「命令に背いた士官を処分しないような軍では困ります」
「なら、なぜです」
「判決は妥当だったと思います」
ヒルダは彼を見たが、皮肉でも強がりでもないらしい。
「それなら予備役にいればいいでしょう。時間を置けば復帰もできます」
「同じ状況になれば、私はまた同じことをします」
ヒルダはしばらく何も言わなかった。
「……軍へ戻らないことと、家を閉じることは別でしょう」
「はい」
「帝都で暮らせばいい。領地でもいい。マリーンドルフ伯領へ来てもかまいません」
メルゼブルクは少し黙ってから答えた。
「いずれからも出るつもりです」
「どこへ」
「まだ決めておりません」
「行き先も決めずに?」
「はい」
腹が立ってきた。
「家臣や領地の人たちはどうするのです」
「再就職か転居の目処は立てました」
「学校は」
「続きます」
「診療所は」
「管区総督府へ移します」
「墓所は」
「管理を委ねる先が決まっています」
そこでヒルダは黙った。どれか一つくらい、手をつけていないものがあると思っていたのである。
「あなた、本当に全部やったの」
「まだ全部ではありません」
メルゼブルクの返事が遅れたのは、この日それが初めてだった。
「家がなくなり、私が離れたあとでなければ終わらないものがあります」
学校の教師の給与は年内までメルゼブルク家が持ち、翌年から管区総督府へ移る。
診療所も、残る者と移る者がすでに決まっていた。
「それを摂政府へ任せたいのですか」
「それだけではありません」
メルゼブルクが口を閉じた。
「何です」
「
その呼び方を聞いたのは久しぶりで、ヒルダはすぐには答えなかった。
「こういうときだけ、その呼び方をするのは卑怯ですよ」
「はい」
「嫌です」
メルゼブルクが顔を上げた。
「あなたが勝手に家を閉じて、勝手に出ていく。終わらなかった分だけ私に渡す。そんな話を引き受けると思っているの」
「……いいえ」
「なら、なぜ来たの」
返事がないので、ヒルダは待った。この男が言葉に詰まるところを、あまり見た覚えがなかった。
「お願いできる人が、ほかにいません」
ヒルダは息を吐いた。
「あなたにできることは、全部してから行きなさい」
「はい」
「一つでも自分でできることを残したら、受け取りません」
「承知しました」
「あなたがいなくなってからでなければできないことだけです」
「はい」
ヒルダは引き受けるとは言わず、メルゼブルクも礼を言わなかった。
「本当に、家まで閉じる必要がありますか」
彼は少し考えてから答えた。
「もう戻るつもりがありません」
「それは聞きました」
「戻るためだけのものを残しておくのは、よくないと思います」
ヒルダがそれ以上言わずにいると、メルゼブルクが立った。
「では、お願いいたします」
「まだ引き受けていません」
メルゼブルクが困った顔をした。この日初めて、年相応に見えた。
「全部終えてから、もう一度来なさい」
「はい」
その後、メルゼブルクが摂政府へ来たのは一度だけで、十分ほどで帰った。彼が帝国を出たあとにヒルダのところへ回ってきたものも多くなく、本当に本人がいなくなったあとでなければ片づけられないものだけだった。
***
【新帝国暦二十二年夏 皇宮・摂政執務室 ヒルダ】
それから三年が経った。皇帝アレクが士官学校を卒業した翌朝、ヒルダの机に新しい案件は増えなかった。
昨日までなら一件済ませれば次が来たが、今日は減っていくだけだった。新しい案件はもうこの机へは来ず、親政開始後に皇帝府へ回されることになっていた。
机の端に、一件だけ別に置いてあった。担当官はこの件を三年扱ってきた男だった。
「旧領三施設への給付は、本日付で管区総督府へ移りました」
「支給に中断は」
「ございません」
「旧家臣への給付は」
「すべて承継済みでございます」
ヒルダは順に確かめた。
「今後、旧当主本人の確認を必要とするものはありますか」
「ございません」
ヒルダは署名した。
「以上をもちまして、旧メルゼブルク家に関する残務は終了いたします」
担当官がそう読み上げた。三年前、ゴットフリートは自分でできるところまで済ませて帝国を出たが、残りを終えるには三年かかった。
そのあいだ、この件は月に一度か二度ヒルダのところへ戻り、そのたびに項目が一つずつ消えていった。今日で最後だった。
担当官が一礼したあと、思い出したように言った。
「旧当主の所在につきましては――」
「必要ありません」
担当官は続きを言わなかった。入れ違いに入ってきた秘書官が、手にしたものをいつもの位置へ置きかけた。
「それは、こちらではありません」
秘書官の手が止まった。
「失礼いたしました」
「陛下へ」
秘書官は持ち直して出ていった。二十年近く続けたことは、一日では手から抜けないらしい。
ヒルダは次を待ったが、しばらく誰も入ってこなかった。やがて扉が開き、アレクが入ってきた。
昨日、士官学校を卒業したばかりで、階級を持たない者の礼装を着ている。
襟元はまだ身体になじんでいなかった。アレクは机を見た。
「ずいぶん減りましたね」
「ええ」
やがて端に残っている一件に気づいた。
「メルゼブルク家の件ですか」
「今日で終わりました」
「僕が引き継いでもよかったのですが」
「いいえ」
ヒルダは署名した箇所を閉じた。
「これは私が引き受けたものです」
アレクはそれ以上訊かなかった。
「終わったのですね」
侍従長が扉のところへ来た。
「枢密院の準備が整いました」
二人は立ち、廊下へ出るところで並んだ。
「陛下」
ヒルダが先を譲ると、アレクが歩き出した。ヒルダは半歩遅れて、そのあとへ続いた。
***
【新帝国暦二十二年夏 帝国枢密院・北辰の間 アレク】
北辰の間。
この部屋には何度も入ったことがある。
十歳で初陣に出る前にも、十五歳で士官学校へ入る前にもここで説明を受け、そのたび最後に決めたのは摂政の母だった。
枢密院には各省の尚書と元帥位にある者が列するが、元帥が全員そろうことはまずない。
艦隊や方面軍を預かる者が、会議のたびに帝都へ戻ってくるわけにはいかなかった。
今日、帝都にいる元帥は、宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー、軍務尚書ケスラー、帝都直衛を預かるミュラーの三人だった。
内務尚書、財務尚書をはじめ各省の長も席についている。
ワーレン、ビッテンフェルト、アイゼナッハ、メックリンガーの各元帥席は空いていた。
卓の端には統帥本部総長ザルツマン大将がいた。枢密院の員ではなく、軍令にかかわる議題で求められれば答えるための席である。
下手には書記官も控えていた。中央の席は皇帝のもので、父が死んでからはアレクが座っている。
昨日までと違うのは、そこへ置かれているものだった。実務資料の大半がアレクの側にあり、ヒルダの前には今日必要な分しかない。
祝辞はなかった。即位の日ではなく、いつもの礼式が済むと全員が席へ戻った。
そのあと書記官がアレクを見た。
「始めよ」
書記官が立った。内容は三点だった。
皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが所定の年齢に達し、所定の教育課程を了えたこと。
摂政による皇帝権限の代行を終了すること。
以後、国務と統帥に関する最終の裁可を皇帝本人が行うこと。
読み上げは短かった。摂政のヒルダに確認が求められた。
「異議ありません」
ヒルダは署名した。それだけだった。
同じものが次にアレクへ回ってきた。これまでも皇帝の名は同じ場所にあったが、その前には母の署名があった。
アレクは自分の名を書いた。
「新帝国暦二十二年八月十二日、午前十一時三十七分。摂政による権限の代行を終了いたします」
書記官が時刻を記したが、誰も時計を見なかった。何かが鳴るわけでもなく、空調は同じ音を立てている。
十一時三十六分と、ほとんど何も変わらなかった。
ヒルダは席を立たなかった。今日からは枢密顧問としての陪席で、議決権も発議権もなく、求められたときだけ意見を述べる。
書記官が次の記録を開いた。
「陛下。第一件、北方直轄三管区の災害復旧について御報告申し上げます」
内務省の官僚が立ち、一瞬だけヒルダを見た。ヒルダが顔を上げなかったため、官僚はアレクへ向き直った。
「続けよ」
春の水害で三管区のうち二つが被害を受けていた。
雪解けに長雨が重なり、上流の堰が一つ持たなかったが、死者は出ていない。発電施設が一基止まり、住宅と道路が損なわれ、診療所二棟が使用できなくなったため、当初見積もった復旧費では足りず、追加の要請が上がっていた。
「財務省案により、要求額の六割を追加支出することを奏上いたします」
残りは次年度に再検討という。アレクは資料を見た。
「人口は何人だ」
「三管区あわせて四百十万でございます」
「住民登録人口か」
「御意」
「登録されていない者は」
官僚の返事が遅れた。
「推計には含まれておりません」
「どの程度いる」
「正確な数字はございません」
アレクは財務尚書を見た。
「全額を出せば、他の復旧事業に何が起きる」
担当官が示した数字では、二つの事業がそれぞれ半年遅れる。
「六割なら」
内務尚書が答えた。六割なら発電施設は直せるが、住宅再建の一部と道路は翌年度へ回り、診療所二棟は仮設のままになる。
「現地は、今年度中に最低どこまで必要としている」
「八割でございます」
アレクはヒルダを見たが、ヒルダは手元を見たままで、目は合わなかった。数秒して、アレクは資料へ視線を戻した。
「八割を先に出せ」
「残る二割は」
「再算定を待て」
財務担当が復唱した。
「人口の計算はやり直せ。住民登録だけを使うな。配給と診療の記録も合わせよ。その数字で必要額も出し直せ。足りなければ、もう一度上げよ」
「御意」
二件目は星系総督の任命で、候補は二人いた。アレクは双方の経歴を読み、内務尚書を見た。
「どちらを推す」
尚書が一人の名を挙げた。
「理由は」
その説明を聞いてから、アレクは頷いた。
「よい。その者を任ぜよ」
今度はヒルダを見なかった。三件目は行政規則の改定で、アレクは説明が終わるまで聞いた。
「この改定で、現場は何が変わる」
官僚は、地方ごとに異なる取扱いをそろえるためだと答えた。
「急ぐのか」
「いいえ」
「ならば差し戻せ。何を直すための改定か整理してから、もう一度出せ」
官僚が一礼して下がった。士官学校なら間違えれば赤字が返ってきたが、ここでは返ってこない。
「本日予定された議事は以上でございます」
書記官がそう告げると、ミッターマイヤーが発言を求めた。
「陛下。宇宙艦隊より一件、御裁可を願いたい事項がございます」
「述べよ」
一冊の要綱が卓へ出された。
表題は、帝国宇宙艦隊年度合同査閲演習、実施要綱案。アレクはそこを読み直した。
「合同?」
旧同盟軍との戦時、帝国宇宙艦隊は十二個艦隊、約十八万隻を擁していた。
戦後の平時編成では、その半数の六個艦隊、約九万隻となっている。
年度査閲は例年、艦隊ごとに行われる。六個艦隊を一箇所へ集めれば各方面の警備に穴があき、補給の負担も大きいからである。
今年は各艦隊から二千隻を上限に演習部隊を抽出する。そこへ中央予備、輸送、修理の各部隊を加え、一つの指揮下で動かす。残余はそれぞれの任地に置く。
「なぜ今年だけ全艦隊を集めて行う」
「陛下が士官学校を御卒業になられたためでございます」
「卒業祝賀なら不要だ」
ケスラーが言った。
「軍は陛下の御卒業を祝うために動員されるものではございません」
「在学中も統帥権は陛下にございました。しかし陛下は同時に、教育課程の途中にある候補生でもあられた。それが昨日で終わりました」
ミッターマイヤーが続けた。
「陛下には、平時編成の軍が実際にどう動くか御覧いただきます」
「それだけか」
「いいえ」
アレクはミッターマイヤーを見た。
「軍も余を見るのか」
「御意」
ヒルダは何も言わず、ミッターマイヤーもケスラーもそちらを見なかった。
「目的を述べよ」
ミッターマイヤーが挙げた目的は三つだった。皇帝が平時編成の帝国軍を、教本やシミュレータではなく実艦で確認すること。
六個艦隊がそれぞれの編成と性格を保ちながら、一つの作戦目的に従えるか検証すること。そして、皇帝本人による統帥を演習課目に含めること。
「つまり余も査閲されるということか」
「陛下のみ、ではございません」
ケスラーが言った。
「皇帝陛下を含めた帝国軍全体でございます」
アレクは要綱をめくり、途中で手を止めた。
「演習開始後、余に中止権はないのか」
「ございません」
「余が止めよと命じても?」
「開始から終了まで、中止の判断は統制部の専管といたします」
さらに一枚めくった。
「皇帝旗艦への攻撃制限は」
「通常の安全基準以外には設けません」
「余が撃沈判定を受けた場合は」
「次級指揮官へ指揮権を移します。演習は続行されます」
アレクは要綱を閉じた。
「よい。その条件で行え」
ミッターマイヤーが一礼する。そのあとでアレクはもう一度表紙を見た。
「確認したい」
「何なりと」
「六個艦隊が参加する以上、艦隊同士を戦わせる課題があることくらいは予想がつく」
ミッターマイヤーは黙って聞いた。
「余がどの元帥と戦うかは、楽しみにしておくぞ。最終課題の詳細は余に知らせるな。手心も加えるな」
「その予定でございます」
アレクが卓の端を見ると、ザルツマンが答えた。
「統帥本部として異存はございません」
アレクが署名しても、ヒルダは何も言わなかった。
「本日は以上とする」
***
【新帝国暦二十二年 皇宮・皇太后執務室 アレク】
扉の前で侍従が言った。
「皇太后陛下は中におられます」
アレクが入ると、扉が閉まった。朝まで机に積まれていたものはなくなり、残っているのは私物と翌日の予定、それに栞を挟んだ読みかけの本だけだった。
「母上」
「お疲れさま」
「それは僕が言う方ではありませんか」
ヒルダが少し笑った。
「本当に、何もないんですね」
「何もないわけじゃないわ」
ヒルダは翌日の予定を指した。
「皇太后にも予定くらいあります」
「でも、国務は」
「あなたのところへ行きます」
アレクは空いた机を見ながら訊いた。
「明日は何をするのですか」
「午前は救護院の理事に会うわ。午後はマリーンドルフ家の用事が一つ」
「……それだけですか」
「明日はね」
アレクは少し黙ってから、もう一度呼んだ。
「母上」
「なに?」
「今まで――」
「まだ早いわよ」
「何がですか」
「お礼を言うには」
ヒルダは読みかけの本を少し端へ寄せた。
「十年くらい無事にやってからにしなさい」
「長いですね」
アレクは笑い、しばらくして朝のことを思い出した。
「メルゼブルク家の件ですが」
「ええ」
「母上のご親戚ですか」
「マリーンドルフ家の縁戚よ」
「爵位を返上したゴットフリート・フォン・メルゼブルクという方とも、お知り合いなんですか?」
ヒルダは少し考えた。
「あなたが生まれるずっと前から」
ヒルダがそれ以上言わなかったので、アレクも続きを訊かなかった。次の公務までの時刻を確かめ、立つ前にもう一つだけ訊いた。
「母上なら、あの復旧費の予算要求をどう判断しましたか」
ヒルダが顔を上げた。
「それを今、私に訊くのですか」
アレクは答えなかった。
「昨日までなら答えました」
「今日は?」
「今日は、あなたが決めたのでしょう」
「では、もう何も言ってくれないのですか」
「相談なら聞きます」
ヒルダは息子を見た。
「でも決めてほしいことは持ってこないでください」
アレクは「分かりました」と言って立ち、扉へ向かった。
「アレク」
呼び止められて振り返った。
「昼食は?」
「まだです」
「食べなさい」
「はい」
部屋を出て皇帝の執務室へ戻ると、机の上には朝より多くのものが載っていた。
一件を終える前に、次が来る。裁可した合同査閲演習は、二十日後に始まった。
――「命令を待つことまで、命じてはいない。行け」
次回、『帝国軍六個艦隊、皇帝を試す(後編)』
建国宣言まであと二話