銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第四十八話「所見なし」(新帝国暦二十三年十一月)

後世の史家は破局の前にどんな警告があったかを探す。

誰かが気づいていた事実は前兆として記しやすい。

 

だがそれだけではあとから見ても半分しか分からない。

報告が誰に届き、どの部署を通り、どの書式で処理されたのかまで追わなければ、その警告がどう扱われたのかは見えてこない。

 

新帝国暦二十三年十一月、帝国軍務省の書庫に一通の報告書が綴じられた。

書式に不備はなく、数値にも誤りはなかった。

 

その報告書は確かに読まれていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十三年十一月 帝都レーヴェンシュテルン・軍務省輸送管制局 北西辺境航路監査班 トビアス】

 

 

士官学校の卒業式から一年余りが過ぎていた。

 

トビアス・ブリュックナー中尉の机に戦術盤はなく、あるのは燃料取引の月報と貨物船の運航記録、中継港の入出庫台帳だった。

朝いちばんに届く束は片手では持てず、両手で抱えると今度は机が見えなくなる。

 

軍務省輸送管制局は帝国の物流を監視する役所である。

艦隊が国家の拳なら、ここはその拳へ燃料と物資を送り続ける血管にあたる。

 

その一室にある北西辺境航路監査班がトビアスの初任地だった。

かつて自由惑星同盟と呼ばれ、いまは新銀河帝国の辺境となった星域から届く輸送記録を読む部署である。

 

配属されて最初に教えられたのはこの一点だった。

下級士官の仕事は、上官へ意見を述べることではない。

数字の書式を揃え、例外値を拾い、誰が見ても同じ結果を照合できる状態にして上へ送る。

 

班長は有能で多忙な、口数の少ない男だった。

士官学校を出て二十二年、そのうち十九年を帳簿の前で過ごしている。輸送管制局ではそれを経歴と呼び、艦隊勤務へ進んだ同期は不運と呼んだが、本人はどちらとも言わなかった。

 

「異常値だけ上げろ。感想はいらん」

 

「感想なら得意なんですが」

 

「だから言っている」

先任の職員たちは笑ったが、誰の手も止まらなかった。

 

北西辺境の記録には帝国式と旧同盟式の二種類が混ざっている。

同じ燃料でも港によって単位が違い、企業名の綴りや規格の呼び名まで違った。

 

戦争で国境が消えて二十年が過ぎても、帳簿の上にはまだ昔の境目が残っていた。

 

旧同盟式の容積単位を帝国式へ換算すると、必ず端数が出る。

その端数を切り上げるか切り捨てるかで、港と役所が二十年も揉め続けていると初日に聞かされた。

 

「端数はどうします」

 

「切るな。備考欄に書け」

班長の返答は早かった。

「数字を丸めるやつは、そのうち人間も丸める」

 

トビアスはこの上官の下に配属されたことを悪くないと思い始めていた。

 

前年の初夏、士官学校の同期三千人は卒業式の日に別々の命令書を受け取り、帝国中へ散った。

艦隊や病院船、弾薬倉庫へ向かった者もいるなかで、トビアスに割り当てられたのはこの机だった。

 

四年間艦隊戦を学んだ男の初任務が燃料の帳簿である。

拍子抜けしなかったと言えば嘘になる。それでもやってみると嫌いな仕事ではなかった。

 

提督の判断は歴史に残るが、貨物船が一隻遅れただけで、その提督の艦隊が動けなくなることもある。

艦隊が予定どおり出たことだけでなく、出られなかった理由まで数字の中に残っていた。

 

役所の側が雑に数字を扱えば、その向こうにいる人間まで同じように扱われる。

彼は帳簿に並ぶ数字を、その数字が指している人間や船の側から読むようになった。

 

最初の違和感を拾ったのも、その読み方を覚えたころだった。

 

 

***

 

 

第三十四中継港は北西辺境の主要航路に連なる中規模の補給港である。

その民間燃料備蓄が需要予測を一割ほど上回っていた。

 

異常と呼ぶにはあまりにも小さい。

燃料価格の下落を見越した先買い、災害備蓄、航路再開への投資、鉱業需要の回復期待。理由はいくらでも考えられた。

 

トビアスは数字の横に小さな印をつけた。

 

辺境の帳簿にはこの程度の揺らぎはいくらでもある。

ところが数日後、別の星系の港で同じような増加を見つけた。

 

さらに数日して三つ目が出た。

そこでトビアスは量ではなく中身を見ることにした。

 

増えている燃料の規格を一件ずつ調べ直すと、どの港でも高純度規格に揃っていた。

大型商船にも軍艦にも使える燃料である。

 

買い手は一社ではなかった。

設立から日の浅い新会社、宗教系救援団体の関連会社、旧同盟領の港湾組合、帝国系商社の子会社まで、むしろ不自然なほどばらばらだった。

 

取引はすべて帳簿に載っている。

税も港湾使用料も納められていた。

 

隠されているものは、何もなかった。

 

念のため投機の線を洗った。

 

燃料の市場価格はこの半年上がっておらず、むしろわずかに下がっている。

値上がりを見込んだ買い占めなら、価格が動かないまま買い増しを続けるのは商売として下手すぎた。

 

災害備蓄も考えた。

それなら燃料と一緒に食糧や医薬品が増えてよさそうなものだが、増えているのは燃料だけだった。

 

商家の子として、トビアスは在庫の扱いを知っていた。

 

まっとうな商人は理由もなく在庫を抱えない。

置いておくだけで保管費がかかり、古くなれば価値も落ちる。腹の減る家畜を飼うようなものだった。

 

それでも誰かがその在庫をいくつもの港で持ち続けている。

 

しかも主要航路に沿って。

 

 

***

 

 

【同日 北西辺境航路管制隊・ロフォーテン中継所 リディア】

 

 

軍務省からの照会が届いたのは現地時刻で勤務終了の十九分前だった。

 

発信者は北西辺境航路監査班。

担当者名はトビアス・ブリュックナー中尉。

 

リディア・ハルランダー中尉は照会文を読み、燃料備蓄台帳と入港予定表を並べた。

 

数値に誤りはなかった。

 

高純度燃料の備蓄量は三か月前より九・四パーセント増えている。

だが給油を予定する大型船はなく、定期便も増えていなかった。緊急輸送船の入港申請も、軍用優先枠の予約もない。

 

リディアは回線を開いた。

「ロフォーテン中継所、ハルランダー中尉です。照会番号、確認しました」

 

『ハルランダー。数字は合ってるか』

 

「合っています」

 

『使う予定は』

 

「確認できません。少なくとも入港予定表にはありません」

回線の向こうで紙をめくる音がした。

『つまり燃料は増えてる。使う船はいない』

 

「予定されている船は、です」

 

『異常として上げられるか』

 

「上げられません。備蓄量は警戒基準以下です。購入企業にも申告上の不備はありません」

 

『だよな』

トビアスの声から、わずかに力が抜けた。

 

リディアは備蓄台帳の備考欄を開いた。

「ただし、給油予定を伴わない備蓄増加として、こちらの記録にも残します」

 

『そこまでしなくてもいいぞ。こっちの照会記録は残る』

 

「残してはいけない理由がありますか」

 

『……ない』

 

「では、照会番号をこちらの台帳へ結びます」

 

『お前、相変わらずだな』

 

「何がですか」

 

『いや。助かる』

 

「業務の範囲です」

 

通信を終えると、リディアは照会番号を備考欄へ転記した。

その横に、給油予定なし、とだけ追記する。

 

理由の欄は空白のまま残した。

 

 

***

 

 

その夜、トビアスは監査室に残った。

 

通常の集計は行政区ごと、企業ごと、税目ごとに行われる。

トビアスはそれをいったん全部ばらし、航路の順に並べ直した。

最後の一覧を置いたところで、手が止まった。

備蓄の増えた港が主要航路に沿って一定の間隔で並んでいた。

 

一つひとつの量は警戒基準以下だった。

それでも複数の港を続けて使うなら話は変わる。

 

トビアスは端末で簡単なモデルを組んだ。

仮想の艦隊規模、標準燃費、速度、補給間隔、港湾の処理能力を順に入れていく。

 

士官学校の兵站課程で習ったごく初歩の計算式だった。

教官はこれを「提督の夢を電卓で覚まさせる式」と呼んでいた。

 

一つの数字だけでは決まらない。

艦隊規模と速度、補給間隔を変えながら何通りも試した。

 

小さすぎれば備蓄が余る。

大きすぎれば港の処理能力が追いつかない。

 

もっとも収まりがよかったのは、軍の分艦隊規模の艦隊が北西辺境の正規航路を前進し続ける場合だった。

 

トビアスは航路名を確認した。

 

来月、皇帝による旧同盟領辺境星系への巡察任務群が通る航路だった。

皇帝が帝都から辺境へ向かい、それを戦艦、巡航艦、駆逐艦を正規艦隊と同割合で含む数千隻規模の艦隊が追う。

トビアスは自分で出した答えを最初は信じなかった。

計算をやり直した。

それでも港の並びは崩れなかった。

 

燃料分布図の中には一本だけほとんど燃料備蓄がなく白いままの線がある。

 

旧第七採掘航路。

 

鉱脈が涸れて久しい細い廃航路だった。

需要のない航路に備蓄がないのは当然である。

 

トビアスの目は一度その白い線に止まり、また赤い点の列へ戻った。

「……艦隊がいないんじゃねえ」

誰もいない監査室で呟いた。

「艦隊が来る前だから、備蓄燃料だけ見えてるんだ」

 

 

***

 

 

翌朝、トビアスは班長の執務室に立った。

班長は最初こそ書類を見たまま聞いていたが、途中で顔を上げた。

そのまま最後まで口を挟まなかった。

 

「密輸は考えたか」

 

「考えました。ですが密輸なら、もっと隠します。これは隠してない。帳簿に載せて、税まで払ってます」

 

「艦影は」

 

「確認なし」

 

「武器の移動は」

 

「ありません」

班長は少し間を置いた。

「違法通信は」

 

「なし。燃料の購入自体にも違法性はありません。データベースに登録されている犯罪組織や個人との関係も、確認できていません」

 

班長は椅子の背にもたれた。

「つまり、合法な会社が合法に燃料を買って、合法に備蓄している」

 

「一件ずつ見れば」

 

「全部見ても違法ではない」

 

班長が黙って手を出した。

トビアスはモデルの出力を渡した。

班長は最初の頁から順に目を通し、途中で航路図へ戻って数字を確かめた。

それほど長い時間ではなかったのだろうが、立って待つトビアスには長く感じられた。

 

やがて班長が言った。

「数千隻規模の正規艦隊とはどこの艦隊だ?二十年以上前から旧同盟軍が時間転移してやってくるとでもいうのか?」

 

トビアスは口を閉じた。

 

反論はいくつも浮かんだ。

だがどれも自分の推測を補強する材料ではあっても、敵艦隊が存在する証拠にはならなかった。

 

班長は出力を返した。

「出せ。正規の報告書にしろ。握り潰しはしない。然るべき部署間で情報共有する」

 

 

***

 

 

報告書を書くのに三日かかった。

 

確認済み事実には、各港の備蓄増加、企業別購入量、航路上の間隔、燃料規格、港湾処理能力を並べた。

推定の項には、それらの備蓄を連続して利用すれば艦隊の補給線として機能し得ることを書いて提出した。

 

 

***

 

 

【同年十一月 帝都・軍務省庁舎】

 

 

トビアス・ブリュックナー中尉の報告書は正規の手順に従って四つの部署を回った。

 

最初の部署では数値が検算された。

 

各港の備蓄量、企業別購入量、燃料規格、航路上の間隔。

計算上の誤りは見つからず、物流上の相関も認められた。

 

ただし輸送管制局にはその相関を軍事的脅威と認定する権限がない。

 

決裁欄には

「物流上の異常として要監視。治安部門へ照会」

と記された。

 

次の部署では購入企業の犯罪歴、資金洗浄の有無、敵対組織との関係が調べられた。

何も出なかった。

 

設立から日の浅い会社も、宗教系救援団体の関連会社も、港湾組合も、帝国系商社の子会社も、少なくとも書類の上では違法な取引をしていない。

 

治安部門が扱うのは犯罪や違法行為である。

合法な燃料購入そのものを緊急案件にはできなかった。

 

「調査対象にはするが、治安案件としての緊急性を認めず。」

 

その日、別の星系では同じ規格の燃料が警戒基準量の九割七分まで積まれていた。

それでも基準以下だった。

 

軍事情報部門では、敵艦影、艦隊集結の兆候、通信傍受、武器輸送の記録が照合された。

こちらも何も確認されなかった。

 

「軍事的脅威の確証なし」

 

その決裁の翌日、一隻の民間船が高純度燃料を積んで北西辺境へ向かった。

航行許可も積荷申告も正規のものだった。

 

最後に報告を受けたのは皇帝巡察任務の計画部門である。

 

巡察日程はすでに旧同盟領の複数星系へ公示されていた。

変更すれば各地の受け入れ準備を組み直す必要があり、輸送計画にも警備計画にも影響が出る。

 

確証のない推測だけを理由に取りやめれば、帝国が辺境訪問を恐れて予定を変えたという受け取られ方もあり得た。

 

決裁は

「既存警備計画を維持」

となった。

 

皇帝巡察の出発まで、二十一日。

 

 

***

 

 

【同年十一月 帝都・軍務省庁舎 最終審査】

 

 

トビアスの報告書と他部署からの所見を統合した最終審査を担当したのは、軍務省軍政局の四十代の中佐だった。

 

数値の論理は理解できた。

 

複数の港に分散された燃料を順に使えば、数千隻規模の艦隊を北西辺境の航路に沿って動かすことができる。たしかにそういう使い方があり得ないとは思わなかった。

 

だが軍務省として、統帥本部や皇帝府に緊急警告を発動する材料がなかった。

 

敵対主体の特定。

軍事行動を準備している証拠。

違法行為。

差し迫った危険。

 

 

中佐は緊急措置発動具申への回答欄には

「所見なし」

と記した。

書類は読んだがこの部署から出すべき判断は特にない、という意味である。

 

 

***

 

 

【帝都・軍務省輸送管制局 トビアス】

 

「ブリュックナー。却下ではない。重点監視は続く」

班長が言った。

 

「それでは遅すぎます」

 

「では、何を根拠に変える」

 

トビアスは黙った。

 

艦影はない。

武器の移動も、違法通信もない。

あるのは燃料だけだった。

燃料を買うことは罪ではない。

 

戻ってきた報告書の頁には隅ごとにペンで書いた細い縦線が残っていた。

担当官は最後の一枚まで精査したらしい。

 

報告書を机へ叩きつけかけて、やめる。

紙に腹を立てても仕方がない。

 

「写しは持っておけ」

班長はそれだけ言い、自分の仕事へ戻った。

 

席へ戻ったトビアスは端末を開いた。

送信宛先の欄に一つの名を表示する。

 

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。

 

指が止まった。

アレクなら読むだろう。

友人として。

そして読むだけでは済まさない。

トビアスにはそれが自分に許されたやり方なのか判断できなかった。

しばらく宛先を見たあと、結局送信せず、画面を閉じた。

 

 

***

 

 

その夜、トビアスはアレクを除く士官学校の同期たちへ、審査結果の要旨と数枚の図を送った。

 

返信は別々の時刻に届いた。

 

卒業から一年余りが過ぎている。

任地も勤務時間も権限も違い、士官学校にいたころのように同じような時間に全員から返事が来ることはもうなかった。

 

最初はクラインだった。

その日の深夜に返信が届いた。

 

「審査結果を確認しました。追加情報がなければ、制度上は妥当です」

トビアスはすぐに打ち返した。

「お前までそう言うのか」

返事は早かった。

「妥当であることと正しいことは同じではありません」

 

そのあとに、自分の所属でも関連しそうな無籍企業や記録の不整合を調べる、と続いていた。

 

トビアスは

「助かった」

とだけ返した。

一拍遅れて返信が来た。

「業務の範囲です」

 

ハインリヒから返事が来たのは明け方だった。

「提出経路を維持しろ。追加事実が出た時、最初の報告が残っていることに意味がある」

励ましも同情も書かれていない。

その代わり報告書を出したことが無駄だったとも書かれていなかった。

 

フェリックスからは二日遅れて届いた。

「燃料の話でそんなに揉めるのか」

 

「燃料がなきゃお前の艦は一メートルも動かねえぞ」

 

「そりゃそうだ」

そこで返信が途切れた。

十分ほどして一行だけ届いた。

「燃料が切れた艦は的だな」

 

トビアスは少し笑った。

トビアスは端末を消し、報告書を引き出しへ戻した。

翌朝からも北西辺境の燃料備蓄をこれまでどおり確認した。

 

 

***

 

 

皇帝による辺境巡察任務群への一時出向命令は帝都の初雪より少し早く届いた。

 

班長が回答済みの報告書の上へ新しい封筒を置いた。

 

正式名称は『北西辺境星域巡察・復旧確認任務』。

広報では『皇帝辺境巡幸』と呼ばれている。

 

皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが、自ら旧同盟領辺境の星々を訪れる。

 

辺境の住民代表と会い、戦災復旧の現状を確かめ、医薬品や燃料、補修材を引き渡す。復興の追加投資を決定する。各地の陳情も受ける。

華やかな式典ではなく行政と輸送に手間のかかる任務だった。

 

トビアスへの命令は任務群輸送管制班付。

 

燃料、補給、輸送船団、通信中継、出港時刻の調整に当たれとある。

 

トビアスは封筒とその下にある報告書を見比べた。

「……航路変更はされなかったんですね」

 

「予定どおりの航路だ」

 

「じゃあ俺は何をしにいくんですか」

 

班長は書類から顔を上げた。

「輸送管制局の中でお前が一番あの航路に詳しい。行って自分の目で確かめてこい」

 

 

***

 

 

【同時期 帝国各地】

 

 

同じ形式の出向命令書の封筒が別々の任地でひらかれた。

宇宙艦隊のある機動戦隊では、訓練航海から戻ったばかりの中尉が先任士官から封筒を受け取った。

任務は皇帝巡察任務群の警護艦隊連絡士官。

緊急艇の運用、警護艦と皇帝府側の連絡、通信途絶時の伝令を補助する。

主席護衛でも警護責任者でもない。

経験を積んだ警護将校の指揮下で働く一人の連絡士官としての出向だった。

フェリックス・ミッターマイヤー中尉は命令書を二度読んでから顔を上げた。

「これは、その」

 

「お前が皇帝陛下の友人だからではない」

先任士官が先回りした。

「記録上、崩れた艦列の間を通す判断が最も速い。推薦理由はそれだけだ」

 

「友人だからと言われた方が、まだ気が楽なんですがね」

 

「なら断るか」

 

「行きます」

 

 

***

 

 

軍務省軍政局の辺境記録監査部門では、命令書の後ろに別紙が一枚ついていた。

任務は行政記録と救援物資の監査要員として、無籍者台帳、避難民記録、配分記録を照合することだった。

別紙には単独外勤の禁止、先任監査官の同行、外部通信記録の保存、不審接触の即時報告、皇帝警備情報への接触禁止が並んでいる。

クライン・ヴァルター中尉は任務内容より先にその別紙を読んだ。

「不服か」

 

「いいえ」

 

 

***

 

 

統帥本部作戦局では上級幕僚が封筒を差し出しながら言った。

「士官学校首席だから選んだのではない」

 

「承知しております」

 

「幕僚演習で貴官が最も多く合理的な撤退案を書いたからだ」

 

ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク中尉は命令書を最後まで読み、最初に日付を確認した。

「着任期限が短すぎます」

 

「喜ぶところではないのか」

 

「作戦起案の下準備の時間が不足しています」

 

上級幕僚は苦笑した。

返事を求めるまでもなかった。

 

 

***

 

 

ヴェストファーレン艦隊麾下の水雷戦隊では、寸法の合わない軍服の袖を一度折り返した中尉が出向命令書を受け取った。

巡察任務群・警護艦隊付。

近距離哨戒、港湾進入路の警戒、連絡艇運用の補助、緊急時の退避航路確保。

カーラ・ビッテンフェルト中尉は最後の一行で顔を上げた。

「逃げ道の確保ですか」

 

「皇帝陛下の船だけを守ればよい巡察ではない」

上官が説明した。

皇帝が訪れる港には行政船、輸送船、医療船、民間の連絡船まで集中する。

非常事態になれば、大型艦は混雑した港内ですぐには動けない。

その前に進入路を警戒し、必要なら出口を空ける小艦艇が要る。

「駆逐艦は、敵へ向かって走るだけの艦ではないぞ」

 

カーラはもう一度命令書を見た。

「了解」

 

 

***

 

 

準備の締めくくりに、皇帝府の担当官が任務群司令官の署名済み出向者名簿を持ってきた。

 

アレクは頁をめくった。

 

名簿には三百一名が載っている。

中に同期の名があった。

 

ミッターマイヤー中尉。

ヴァルター中尉。

アイゼンベルク中尉。

ブリュックナー中尉。

ビッテンフェルト中尉。

 

指が一瞬だけ止まり、表情がわずかに緩んだ。

 

「余が閲覧する前に決定されたのか」

 

「はい。各所属からの推薦を受け、任務群司令官が承認しております」

 

「ならば変更はない」

 

担当官は一礼したが、役目として言い添えた。

「陛下のご希望があれば――」

 

「彼らの選任を余の意向によるものとしてはならぬ」

 

担当官は今度こそ引き下がった。

 

アレクは五人の名前だけをもう一度見ることはしなかった。

残る二百九十六名も最初から最後まで読んでから名簿を閉じた。

 

担当官は下がったまま待った。

 

 

***

 

 

【同年十二月 帝都軌道港・旗艦ブリュンヒルト内 トビアス】

 

 

五人が卒業後初めて顔を揃えたのは旗艦ブリュンヒルト内の会議室前の廊下だった。

 

同じ帝国軍の軍服でも、所属章は五人とも違っている。

 

フェリックスは艦隊。

クラインは軍政監査。

ハインリヒは統帥本部。

トビアスは輸送管制局。

カーラは水雷戦隊。

 

フェリックスの襟の留め具がわずかに曲がっていた。

ハインリヒが無言で指さす。

フェリックスは直した。

まだ少し曲がっていた。

 

「また、この面子かよ」

 

「ミッターマイヤー。三つある」

ハインリヒは指を立てた。

「一、留め具。二、袖。三、髪の跳ね。以上だ」

 

「髪は規則には書いてねえだろ」

 

「四つ目は靴です」

クラインが言った。

「磨いたのが片方だけですね」

 

フェリックスは足元を見て、すぐ顔を上げて肩をすくめた。

 

「ビッテンフェルトもだ。袖」

 

「折った」

 

「済むのかよ」

 

「済む」

 

トビアスが吹き出した。

「俺は往路だけだ。途中で帝都に帰る」

 

「早退」

カーラが言った。

 

「おい、言い方があるだろ」

 

フェリックスが声を出して笑った。

そのとき、端末が鳴った。

笑いが止まるより先に、トビアスは画面を開く。

 

第四十一中継港。

高純度燃料備蓄、前回集計比〇・八パーセント増。

警戒基準の九割八分。

 

画面を見せると、フェリックスが眉を寄せた。

「まだ増えてんのか」

 

「誰かが裏で買ってる」

カーラが言った。

 

「だが証拠がねえ」

トビアスが返した。

 

そこで会話が止まった。

廊下の先の気配が変わる。

先任士官と行政官たちに囲まれて、皇帝が現れた。

五人はすぐに姿勢を正し、敬礼した。

アレクも答礼する。

 

表情は崩さなかった。

ただ、五人を見る目が少しやわらいだ。

 

 

***

 

 

任務群の初回全体会議では、宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥が正面に立った。

その右には直衛艦隊を率いるミュラー元帥がいる。

 

「本任務の正式名称は、西部辺境星域巡察・復旧確認任務。広報上は皇帝辺境巡幸だ」

 

正面の表示に任務項目が並んだ。

 

皇帝による住民代表との面会。

戦災復旧状況の確認。

医薬品、燃料、補修材の引き渡し。

無籍者と避難民台帳の監査。

港湾と中継局の運用確認。

現地守備隊の警備状況確認。

各地からの陳情受付。

 

軍艦だけで完結する任務ではなかった。

 

「陛下は本任務の政治的中心であらせられる。ただし、艦隊の戦術指揮は執られない。任務群全体の指揮は私が執る」

 

ミッターマイヤーはそこで一度、若い士官たちの側へ目を向けた。

「それから一つ。陛下の士官学校同期だった者が何人かいる」

 

会議室の空気がわずかに変わった。

 

「各所属が推薦し、私が任務に必要だと判断して入れた。陛下が名簿をご覧になったのは、その後だ」

誰も口を挟まなかった。

「顔を知っていることは使える。話が早いこともあるだろう」

そこで言葉を切る。

「だが、昔の付き合いで指揮系統を飛び越えるな。そんなものは利点じゃない。事故の種だ」

 

五人は同じ班には配されていない。

 

フェリックスは警護艦隊連絡、クラインは監査、ハインリヒは作戦、トビアスは輸送管制、カーラは警護艦隊の小艦艇運用に入る。

互いに命令する権限はなかった。

 

ミュラーの直衛艦隊もまた、任務群の中では別の指揮系統で動く。

ミッターマイヤーは次の議題へ進んだ。

 

「出向者は三百一名。原隊はすべて異なる」

 

表示が下へ流れた。

画面に収まらず、一度切れて続いた。

将官の名も混じっている。

ハインリヒが書き写したのは、名簿の中ほどにあった三行だった。

 

 アルブレヒト准将。辺境警備管区参謀長。

 シェパード准将。黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)・分艦隊副司令官。

 リヒター准将。メルカッツ艦隊副参謀長。

 

「後方二航路の監視だ。三名とも駐留先から合流する。この会議には出ていない」

 

 

***

 

 

【出発準備期間 巡察任務群各部署】

 

 

トビアスの報告書は採用されなかった。

 

任務群司令部は各部門から上がる予備案まで退けたわけではない。

根拠が足りないからといって、通常の準備まで減らす理由はなかった。

 

ハインリヒは公示航路に依存しない撤収の作戦案を一本追加した。

正式計画ではない。

参考案として計画書の末尾に置かれる。

「アイゼンベルク中尉、採用される可能性は低いぞ」

上級幕僚が言った。

「零ではありません」

ハインリヒは答えた。

 

クラインは燃料購入企業、救援団体、無籍者台帳の照合項目を追加するよう先任監査官へ申請した。

許可されたのは主要三港だけだった。

 

フェリックスは警護艦と緊急艇の通信が途絶した場合の伝令経路を訓練名目で確認した。

一度目の模擬伝令は規定時間ぎりぎりだった

「もう一度」

先任士官が言うより早く、フェリックスは艇へ戻って訓練を再会した。

 

カーラは最初の寄港予定地の避難路を図面で確認し、群衆が逆流した場合の第二集合地点を提案した。

 

トビアスは予備燃料と可搬中継器の増載を申請した。

予備燃料は認められた。

中継器は積載重量を理由に申請数の半分だけ認められた。

 

下級士官の手の届き得る範囲内で、撤収案が一枚増え、照合する港が三つ増え、伝令訓練が一回増え、第二集合地点が一つ決まり、予備燃料と中継器が少しだけ多く積まれた。

 

巡察任務群はその程度の違いを抱えたまま出発日を待った。

 

 

***

 

 

【出発前日 帝都・軍務省輸送管制局 トビアス】

 

 

出発前日、トビアスは航路表と燃料備蓄一覧、旧採掘航路まで描き込んだ分布図と、「所見なし」の判が押された報告書を綴りごと鞄へ入れた。

 

「ちゃんとここに返せよ」

班長が通りがかりに言った。

 

「何をでしょうか」

 

「報告書とお前、両方だ」

 

トビアスは鞄を閉めた。

「ちゃんと伝票つけて返しますよ」

 

 

***

 

 

【出発日 帝都軌道港】

 

巡察任務群は皇帝の乗る総旗艦ブリュンヒルトだけで構成されているわけではない。

 

警護艦。

監査・行政要員を乗せた連絡船。

作戦指揮を担う任務群旗艦。

輸送管制艦と輸送船団。

地上班や救難班の船。

 

それぞれが別の役目を持ち、別の係留区から出る。

 

発進時刻も船ごとに違った。

 

先に輸送船団が動き、そのあとを警護艦と連絡船が追う。

任務群旗艦と皇帝の中枢船が港を離れたのは最後だった。

 

一隻ずつ管制から呼び出され、航路へ入っていく。

 

帝都軌道港から見れば、特別なことではない。

大きな船団が決められた手順どおりに出港しているだけだった。

 

 

***

 

 

航行中もトビアスは北西辺境の主要港の燃料備蓄を確認し続けた。

 

数字は減らなかった。

どこも少しずつ増えている。

だが追加報告を出せるような新事実はなかった。

巡察任務群は予定された航路を進んだ。

 

二週間後、皇帝が辺境の奥へ辿り着いた頃、銀河のすべての回線が開いた。




――「全福音回線、開放。銀河標準時、同期。聖地受難紀元二十二年十二月二十五日正午、建国式典を開始します」

次回、『建国宣言(前編)』
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