【新帝国暦二十三年十二月 タナトス星系・聖都ラディークス中央宇宙港 第三聖団『フェザーン』総旗艦グーテ・ホフヌング カザリス】
新帝国暦二十三年十二月二十五日。
後世の史家はこの日を境に、銀河の暦が三つに割れたと記す。
だがその日、辺境の港で数えられていたのは歴史ではなく荷札だった。
建国放送の開始まで、あと六十分。
中央宇宙港の係留域には、救援船も貨物船も旧同盟軍型の艦もいた。塗装の追いつかない灰色の軍艦に、病院船が一隻、巡礼船が三隻。
規格も船齢もばらばらだったが、荷札にはどれも同じ印があった。金糸で刷られた、細い一本の樹である。
巡礼船の甲板では小帽をかぶった者たちが手すりに並び、聖都の方角を拝んでいた。
祈燈はまだどの艦にも点っていない。
管制塔の一室で、かつてフェザーン周辺宙域の武装商船団の頭目だったジェイク・カザリスは、式典の礼装を着崩していた。
いまや二万隻を率いる第三聖団の長である。
いつものように上着の袖をまくり、最後の輸送確認をしていた。壁の帽子掛けには黒地に金糸を巡らせたズッケットがひとつ、掛かったままだ。
「本日の帰り荷は医療器材が四割、機関部品が三割。残りは通信機と人です」
「ま、堅気な荷さ」
カザリスは目録に判を押した。
かつては副頭目、今は『聖団副司令』と呼ばれるダンカンが端末から顔を上げた。
「百三十五港、全便到着。遅れは三便、いずれも許容範囲内です」
かつて、カザリスは教団から辺境二十余の港を結ぶ仕事を最初に請けた。
麦を運び、薬を運び、屋根の資材と種と医者を運んだ。帰りの船腹はいつも空で、その空の船腹を教団は金を払って買い続けた。
商いは十年近く続き、契約港は年々増えた。倉庫が建ち、倉庫のあるところに施療所、工場、造船所が建った。
いつからか、荷の届く範囲と白い外套の歩く範囲が重なるようになった。
「今じゃ、どこまでが契約航路で、どこからが国だか、俺にも分からねえ」
ダンカンが端末を置いた。
「……いいんですかい、頭」
「何が」
「『聖将』なんざ、わけのわからねえもんになっちまって」
カザリスは顔を上げて、少し笑った。
「傑作じゃねえか。骨の髄までフェザーンの商売人のこの俺が、聖なる将軍サマだとよ。最高の笑い話だぜ」
「笑いごとですかね」
「お前も人ごとみてえな顔すんな。ダンカン従聖将サマよ」
ダンカンは黙った。
「冗談半分で坊主やらあの婆さんに言ってみたら、そのまま通っちまった。今じゃ鉄板の持ちネタだぜ」
「それだけじゃなかったでしょうが」
「ああ。さすがに次は無理だろうと思ってな。聖団の名前を『フェザーン』にしろって言ってみた」
ダンカンは何も言わなかった。
「通っちまった」
「通りましたね」
「普通、許さねえだろ」
「俺もそう思います」
カザリスは椅子の背にもたれた。
「第三聖団『フェザーン』。聖将カザリス。従聖将ダンカン」
ひとつずつ口にしてから首を振った。
「何度聞いてもひでえ冗談だ」
「笑ってるの、頭だけですぜ」
「だから持ちネタなんだよ。死ぬまで使える」
「死ぬまで、ですかい」
「ま、やばくなったらずらかりゃいいさ。船はある」
ダンカンは窓の外を見た。
百三十五の港から来た船が順番に灯を点していた。
「……そう簡単にいけばいいすがね」
「何だよ」
「いえ」
カザリスは少しだけダンカンを見た。それから目録へ視線を戻した。
「来年の契約港は」
「十二、追加です」
「増えたな」
「へえ」
「じゃあ仕事だ。コルダの野郎、ちゃんと来てるか? 金だけもらって寝てるんじゃねえだろうな」
「へえ。コルダ傭兵団――じゃなかった、艦隊。軌道上に展開済みです。それと、コルダ団長――じゃなかった、提督から入電です。『テーブルに着いた。早く札を配れ』だそうです」
カザリスが笑った。
「結構。商売熱心で何よりだ」
***
【同時刻 聖都ラディークス・第二聖団『
香もなく、聖歌もない部屋である。
壁の時計は一つだった。その下に、日付表示が二つ並んでいる。
新帝国暦二十三年。
聖暦二十二年。
正午を境に、前者は公文書から消える。
壁面には七つの星系と三十四の聖管区、軌道砲台、造船所、行政庁舎、通信局の移管状況が並んでいた。
第二聖団長コンラート・フェルディナント・ベーレントは聖将の軍装で立っている。飾りといえば、胸の一樹と袖の金糸の枝だけである。
卓上の書類は角と角まで揃っていた。
部下が読み上げる。
「核心圏七星系、行政移管完了。聖管区三十四、すべて受領確認済みです」
艦隊からの報告が続いた。
『ブレドウ提督より入電。第二聖団サトゥルヌス艦隊、所定宙域へ展開完了』
『メスナー提督より入電。第二聖団ウルカヌス艦隊、同じく展開完了』
「帝国管理の物品は一点まで台帳へ」
ベーレントは報告の途切れ目に指示を挟んだ。
「建国宣言と同時に、全砲門へ祈燈を」
移管図の全面が同じ色になった。
ベーレントはそれを眺めることなく、卓上の次の書類を取った。
退がりかけた部下を呼び止める。
「本日以後の報告書は聖暦で受け付けます。書式の改訂版を各部へ」
「はっ」
部下が退出した。
ベーレントは新しい日付の書類を一枚めくった。
正午まで、あと五十二分だった。
***
【同時刻 聖都ラディークス・大伽藍・控えの間 グレーフェンベルク侯】
エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯は教国の軍服を着ていない。
灰褐の生地に黄金樹を織り込んだ、世俗の貴族礼装である。
五百年のあいだ、退き際を誤らずに生き残ってきた家の当主は今朝も上機嫌に見えた。
机の上には旧門閥貴族諸家の忠誠宣誓書が積まれている。
「当家の大紋章をお付けいたしますか」
従者が印章の箱を捧げ持った。
「今日はわしの家の旗を立てる日ではない」
従者が感じ入ったような顔をした。
侯はその顔を見た。
「家の旗を立てるにはな、まず立てる地面が要る」
宣誓書の束を指の背で叩く。
「これは何の順だ」
「到着順に、ございます」
「国は新しくとも、家の古さまで新しくはならん。家格の順に並べ直せ。届いておらぬ家はあるか」
「三家に、ございます」
「急かすなよ。青い実をもいでも腹を下すだけよ」
侯は届いた一通を開き、二行目まで読んで閉じた。
「書き直させよ」
「どのように」
「『恭順』ではない。『帰参』と書かせるのだ。この家は順を下げよ」
従者が一礼した。
グレーフェンベルク家は、そういう言葉の違いを五百年見てきた。
「式のあと、聖王陛下へのお目通りはどうなさいますか」
「順序を誤るでない。わしが願うのではない。願われるのを待つが、当家の習いぞ」
従者たちが宣誓書の束を崩し、家格の順に積み直していく。
途中で一人の手が止まった。序列の判じかねる二つの家が並んでいた。
「閣下」
侯はそちらを見なかった。
片方の家名を先に言う。
「あの家の当主は退き際を二度誤っている。後ろでよい」
「承知いたしました」
グレーフェンベルク侯は戦のことは分からぬと公言している。艦隊の動かし方も、砲の撃ち方も知らない。
だが、人の顔色と家の来歴なら五百年分を覚えていた。
拾われなかった者たちが作った国にも、その日のうちに序列ができていた。
***
【同時刻 第一聖団『
第一聖団総旗艦の司令部は静かだった。
聖団長のオットフリート・シュタイガーは聖将の軍装の腰に、古い儀仗サーベルを吊っている。
倉庫の番小屋で幾年も研ぎ続けられた刃である。
正面の表示に映っているのは攻撃隊形ではない。救難艇の配置、負傷艦の収容線、指揮権限の委譲順位、そして退路だった。
「マルス艦隊、ベローナ艦隊、ウィルトゥス艦隊。全艦隊、配置完了」
「救難艇の位置は」
「作戦案のとおりです」
「案ではない。現在位置を出せ」
若い参謀が慌てて表示を切り替えた。
現在位置は案から二つずれていた。二隻の救難艇が、まだ収容線に達していない。
シュタイガーは短く座標を告げ、二隻が所定の位置へ入るまで次の報告を求めなかった。
通信士が、もう一件を読み上げる。
「ベローナ艦隊より入電。ラスバッハ提督です。『皇帝艦は引き続き捕捉中。建国放送に先立ち、攻撃を開始したい』と」
「却下。理由は要らん」
通信士が一瞬ためらった。
「……原文も読み上げますか」
「要らん」
司令部の一隅には艦隊司祭が三人、記録具を膝に置いて座っている。
彼らは何も言わない。見ることが務めなのだと、着任の日に一度だけ言った。
通信士が振り返る。
「グレーフェンベルク侯より、直通です」
『いよいよ旗揚げぞ。卿には華々しい初陣を期待しておるぞ』
「恐れながら。初陣に要るものは華ではございませぬ」
『ほう。では何を買う』
「兵の信を」
シュタイガーは表示から目を離さずに続けた。
「兵を連れて還ることで、ございます」
『相変わらず、銭のかからぬ望みよ』
「兵を失うよりは安く済みまする」
回線の向こうで侯が笑った。
シュタイガーは笑わなかった。
第一聖団統制局から定時照会が入る。
『聖団司令部、状況を』
「異常なし」
夜警だった男の、夜警の言葉である。
それがいま、三個艦隊三万隻の報告になった。
「祈燈は宣言の終わるまで点けるな」
老いた聖将は最後にそれだけを命じた。
「兵に光を見せるのは最後でよい」
聖廉院の司祭の一人が、その言葉を記録具に書き取った。
逸脱とも忠実とも、まだ書かれていない。
***
【同時刻 第四聖団『
第四聖団長ニコラス・ブルーメンタールは鏡の前で上衣を整えていた。
灰褐の軍服である。襟を正すとき、指が一度だけ左胸の内側に触れた。
第四聖団には旧自由惑星同盟軍人が多い。
この艦の古参兵にも、上衣の裏、ちょうど心臓の位置に旧同盟軍の徽章を縫いつけている者がいる。
誰も外そうとはしなかった。
ブルーメンタールも命じなかった。
副官が報告する。
「ラザレフ提督、ハーゲン提督、ホロウェイ提督より入電。第四聖団のディス艦隊、フリアエ艦隊、レムレス艦隊、いずれも指定宙域に展開完了。総員、発令を待ちます」
ブルーメンタールは正面の暗い宙域を見たまま言った。
「総員、配置のまま待機」
副官が復唱した。
「総員、配置のまま待機」
命令が三個艦隊へ流れていく。
旧同盟軍人たちが神に忠誠を誓ったのか。それとも、かつて救国軍事会議に身を置いたこの革命家に付いてきただけなのか。
艦内では誰も、そのことを口にしなかった。
***
【同時刻 旧自由惑星同盟領・七つの辺境星系】
タナトスでは、止まったままの議事時計の前で帝国政府の封印札が剥がされた。札の跡だけが扉に白く残った。
トリプラの議場では採決盤を覆っていた布が取られている。
老いた元議員が自分の席の埃を袖で拭い、途中で手を止めた。思っていたほど積もっていなかった。
誰かが、ときどき掃除をしていたらしい。
ライガールでは、議長席の正面に据えられていた帝国行政官の机が四人がかりで壁際へ運ばれた。引き出しの中は、すでに空になっていた。
ロフォーテンでは議場の一角にキベロン被災者代表の席が設けられている。用意された席の数に比べ、空席が多い。
真新しい名札のいくつかには本人ではなく、代理で出席する者の名が記されていた。
タッシリでは、箱詰めのまま眠っていた旧議事録が棚へ戻されていく。長く使われていなかった棚には、巻ごとに色の違う埃の跡が残った。
最外縁のエリューセラでは、通信士たちが建国放送の遅延を秒単位で調整していた。七つの議場で、できるだけ同じ時刻に開会の槌を鳴らすためである。
リオ・ヴェルデでは、二つの主要惑星から来た代表が上座を巡って小さく揉めていた。
仲裁に入った書記官が、まだ開会前です、と二度言った。
七つの議場で正面扉の封印が外され、古い議会の印章が議長席へ戻されていく。
開会の槌は、まだ鳴らない。
どの議場も、聖都ラディークスからの建国放送を待っていた。
***
【建国放送開始三分前 ロフォーテン星系・航路管制中継所 リディア】
警告灯は公用、民間、救難の三列でほぼ同時に点いた。
リディアは中央卓へ身を乗り出した。
「発信源を」
「一つではありません。星系内の中継局すべてから、同じ信号が出ています」
当直通信士の声が上ずっていた。
妨害電波ではなかった。外から強い信号を被せられているのでもない。
各中継局が正規の回線としてその放送を受け取り、次の局へ渡していた。
「認証鍵は」
「有効です」
「帝国軍の鍵ですか」
通信士が照合画面を開くと、中継器の交換履歴に『第一聖団救援局』、『第三聖団輸送部』、『第四聖団監察局』といった名が並んでいた。
どれもリディアの知らない団体だった。
帝都の帝国軍中央管制局から優先電文が入った。
『未承認放送を遮断せよ。必要であれば、中継設備を物理的に分離』
リディアは現在使用中の回線を確認した。
「救難回線は残してください」
『全回線を遮断せよ』
「救難もですか」
返答まで十秒かかった。
『全回線だ』
当直通信士がリディアを見た。
「切りますか」
ロフォーテンへの進入軌道には二隻の医療輸送船がおり、ここで誘導を失えば、次に回線を繋ぎ直せるのは二十分後になる。
「公用と民間を落とします。ただ、救難回線は残してください」
「命令は全回線です。命令違反です」
「遭難船の誘導中です」
リディアは眼鏡の中央を押し上げた。
「回線を切るのは船を降ろしてからです」
公用回線と民間放送が順に消え、盤上には救難回線だけが残った。その一つに金色の樹が現れた。
通信士が息を呑んだ。
「救難回線にも入っています」
そこへ軍用優先信号が割り込んだ。
『ロフォーテン管制。こちら皇帝陛下巡察任務群警護艦隊連絡、ミッターマイヤー中尉。応答しろ』
雑音に削られていても、聞き違える声ではなかった。
「ロフォーテン管制、ハルランダー中尉です。受信しています」
『救難回線の状況は』
「医療輸送船一隻を誘導中です。建国放送が同じ回線へ重畳しています。放送だけを遮断することはできません」
短い沈黙があった。
『船を先に降ろせ』
「上級管制からは全回線遮断の命令が出ています」
『こっちからも救難回線の維持は上申する』
雑音が一段強くなった。
リディアは送信子を三度叩いた。
短音、短音、短音。
士官学校で使っていた受信確認だった。
『受信した』
フェリックスの声はそこで途切れた。
リディアはもう一度、進入中の医療輸送船を確認した。
「誘導を継続してください」
金色の樹は救難回線に残ったままだった。
この日、フェリックスとリディアが守ろうとしたものに違いはなかった。のちに二人は異なる旗の下に立ち、同じ戦場で相まみえることになるが、このときはまだ一本の救難回線を挟んで同じ船を降ろそうとしていた。
***
【同時刻 旧同盟領・ロフォーテン星系・惑星キベロン旧港地区 ラルス】
かつて、この広場には水を待つ列ができた。
いまは放送を待つ列ができている。
給水塔は修復され、白い外套の者たちが列の間を歩いて人を整えていた。この街の者は時を「船の前」と「船の後」で数える。
最初の救援船が着いた日が、暦の代わりになっていた。
広場の隅の掲示板には字の稽古の教材が、今も貼られたままである。多くの者が最初に教わった綴りは、死んだ家族の名の書き方だった。
白い外套のひとりが列に式次第の紙を配って歩いている。字の読めない者の隣では、読める者が声に出して読んでやっていた。
ラルスは列の中ほどに立ち、無意識に右の肩へ手をやった。かつて娘を背負っていた肩だが、今は何も載っていない。
顔見知りの男が声をかけてきた。
「娘さん、聖育院へ上がったんだってな」
「ああ」
「聖童に選ばれるなんて、大した名誉だ。お前の家は『聖家』になる」
「ああ」
別の住民が言った。
「ロフォーテンの議会も戻るそうだ」
「本当だろう」
ラルスは前を向いたまま答えた。
「今日で、俺たちも国持ちだな」
「国なら、前にもあった」
「今度のは届く国さ」
年寄りの誰かが言い、周りが少しだけ笑った。その笑いが静まったあとで、別の男が言った。
「あの人たちは言ったことはやる」
天気の話でもするような言いかただった。
そう思うだけの理由はあった。水も薬も実際に届き、娘の脚も治った。
この広場で白い外套の者たちが約束したことで、まだ果たされていないものをラルスは思いつかなかった。
列の先頭は、かつて水の出た蛇口が置かれていた場所と同じだった。そこまで気づいている者は少ないのだろうが、人は以前と同じ場所に並び、今度は水ではなく放送を待っている。
ラルスの隣には、子供一人分の隙間が空いていた。
列は詰まっているのに、そこだけは誰も埋めなかった。
***
【同時刻 ロフォーテン聖育院 イーダ】
床は温かく、部屋は清潔で、食事も足りていた。
子供たちは同じ仕立ての白い服を着て、同じ寸法の新しい靴を履いている。イーダも治った右脚で、ほかの子供たちと一緒に列へ立っていた。
古い靴はここへ来た日に引き取られたが、どこへ行ったのかは誰も教えてくれなかった。
教母が列の前に立ち、放送が始まってからの手順を確かめていく。
「聖王陛下がお言葉を始められたら、顔を上げます」
「はい」
「受難者のお名前が読まれたら、胸へ手を置きます」
「はい」
子供たちの声はよく揃っていた。教母は列の端から端まで見渡し、返事の揃いかたを確かめた。
「泣いてはいけません。今日は悲しみの日ではなく、帰還の日です」
窓の外では、旗を持った大人たちが施療所の前に集まり始めていた。
イーダがそちらを見た。
「どうしました」
「お父さんも聞いていますか」
「もちろんです。あなたを誇りに思っておられますよ」
教母は少しも迷わずに答えた。
それは嘘ではなかった。
隣にいた小さな子がイーダの袖を握ったので、イーダもその手を握り返した。
教母は個人名簿を閉じると、放送用の札をもう一度確かめた。そこには一行だけ書かれている。
――ロフォーテン聖育院・受難を継ぐ子ら。
個人の名はどこにもなかった。
***
【建国放送開始十五分前 聖都ラディークス・大伽藍】
大伽藍は、かつて『エコニア』と呼ばれていた惑星の旧捕虜収容所の跡地に建っている。
祭壇の装飾には収容所の梁と扉の一部が、そのまま転用されていた。かつて人を閉じ込めていた鉄がいまは燭台を支え、梁の一本には収容所時代の管理番号が打刻されたまま残っている。
金箔は、その番号の上を薄く覆っていた。
正門に使われているのも収容所時代の門扉である。扉が開くたび、古い鉄の軋む音が新しい聖堂の中へ響いた。
香の煙は天井の梁のあたりに薄い層を作っていた。その高さは、かつて収容所の監視廊があった高さとほぼ重なっている。
身廊を埋めるのは数百の司祭だった。灰褐の祭服をまとい、顔を伏せ、同じ速さで低い祈りを唱えている。
祈りの句が切れるたび、同じ三句が返された。
『根は母へ
枝は星々へ
名は聖録へ』
数百人が唱えているのに、一人ひとりの声を聞き分けることはできなかった。叫ぶ者は一人もいない。
それでも声が重なると、建物そのものが祈っているように聞こえた。
諸侯席の後ろには来賓席が設けられ、各地の聖管区から来た代表たちが座っている。
古くからこうした場に慣れている者もいれば、今朝初めて礼装を着た者もいた。座り方を見れば、その違いはすぐに分かった。
***
身廊の両翼と玉座へ上る階段の左右には、司祭たちとは別の列があった。
聖騎士『ケルビム』、五百体。
教国軍の陸戦部隊。旧地球時代の中世騎士を模した灰色の白兵戦用
武器は両手剣だったが、式典のあいだは誰も抜いていない。甲冑の表面には経文が刻まれ、戦闘時には発光する仕組みになっているが、いまは消灯したままだった。
数百の司祭が祈りを唱える大伽藍の中で、ケルビムだけは応唱に加わらなかった。
声を出す者も、隊列を崩す者もいない。燭台の光が面頬を順に照らしても、細い覗き穴の奥までは届かなかった。
司祭たちは甲冑の列の前を通るとき、決まったように目を伏せる。
礼をしているのか、畏れているのかは分からない。
五百の甲冑は、式典が始まるのを待つあいだ、一度も動かなかった。
***
祭壇の前には七人の枢機卿が半円を描いて立っていた。
玉座は、その内側にある。
教理院の枢機卿は演説の原稿に朱を入れていた。
「第三節の『赦し』は『悔悛』へ。まず悔いることをお述べください。赦しはその後のことでございます。」
朱の入った一枚が典礼官へ渡され、そのまま控えの間へ運ばれていく。
その隣では、聖録院の枢機卿の前へ死者の名を納めた櫃が四つ運び込まれていた。同じ日に届いた議会の櫃より、ずっと重い。
彼女自身が抱えているのは、まだ何も書かれていない一巻だけだった。
「名は、読まれた順に記します。読まれなかった名は、記されません」
聖廉院の枢機卿だけは何も持っていなかった。
司祭団を見て、帝国から渡ってきた家々の席を見て、最後に聖管区の代表席へ目を移す。
「全席、異状なし」
その報告のあいだにも、施療院では各地との点呼が続いていた。現場の司牧が回線越しに報告を受けている。
「施療所七百八十二、繋がりました。臥せっている方は、そのままで結構です」
灯りの落ちた施療所が二つある、と回線の向こうから返ってきた。
「発電機を回しなさい。消えた灯りの下では行いません」
財務院の枢機卿は、七人の中でもっとも古い緋衣を着ていた。
「帝国の徴収は、本日で終わります。聖庫は、当分のあいだ、何も求めません」
言い終えると頁をめくった。
建国の日の報告も、ほかの書き物と変わらない速さで処理していく。
宣信院の枢機卿は時刻と鐘を預かっていた。
「公用、民間、救難。全回線、繋がっております。遮断の要請は、二件」
典礼官が頷く。
「切れるようにしておきなさい」
辺境司牧局の枢機卿の卓には、七つの印章が並んでいた。
「議会が任命した首相へお返ししなさい。議会も、徴税も、法廷も、本日お返しします」
最後に軍務の報告が入った。
軍務を預かる枢機卿は、自らの院を持たない。
『聖序寮』と呼ばれる軍政組織を預かり、聖団を跨ぐ運用を枢機卿団の裁可へ上げる。
「第一聖団、配置につきました。簒奪者の座乗艦を捕捉中。宣言終了をもって、始められます」
七人の報告が一巡すると、教理院の枢機卿がもう一度半円の前へ出た。典礼も彼の兼務である。
「聖童は、全院整列。個人の名は掲げなくてよろしい。本日は一人ひとりではなく、受難の子らとして立たせます」
典礼官が一礼し、控えの間へ向かった。
***
玉座は祭壇の中央にある。
七つの星系から集められた石と金で飾られた、この国でいちばん華麗な椅子である。その脇にはもう一つ、飾りのない暗い色の小さな椅子が置かれていた。
ただ、その椅子のある場所だけは床が玉座より一段高い。
小さな椅子には
相手を見上げることも、見下ろすこともない高さだった。
身につけている衣には染色も装飾もなく、辺境の施療所で配られているものと同じ布、同じ織りで仕立てられていた。留め具にも、彼女の地位を示すものは一つもない。
膝の上で組まれた手だけが、顔よりも古く見えた。指の節は太く、爪は短く切られている。
長く何かを握ってきたような手だったが、いまは何も握っていなかった。
アガーテは報告する者の顔を初めから終わりまで見ていた。
見透かそうとしているようには見えない。ただ、相手が話し終えるまで目を逸らさない。
枢機卿たちは報告を終えるたび、玉座ではなく、その小さな椅子を見た。
***
【同時刻 大伽藍・控えの間 聖王ヴィルヘルミーネ】
控えの間では白だけが許されていた。汚れを隠さないための白だというが、そう定めた者の名は伝わっていない。
聖王ヴィルヘルミーネ――かつてミナと呼ばれていた少女は、すでに白い沓を履いて立っていた。
長衣も肩衣も白である。頭から足元までをこの色で覆うことを許されているのは、聖王ただ一人だった。
少女は小柄で、支度をする者たちの肩ほどしかない。年のころは十代前半に見えた。
切らずに伸ばした金の髪が背に垂れている。式服は肩と袖が余るほど大きく、そのぶん首の細さが目立った。
冠の重みのせいか、顔を向ける角度まで決められているように見える。
旧ゴールデンバウム王朝の血を継ぐとされる少女である。かつての皇太子から分かれた傍系をたどり、その末に彼女を置く系譜が、すでに教団によって整えられていた。
右手には真新しい指輪が嵌まっている。聖王のために新しく鋳られ、聖王が死ねば砕かれる定めの指輪だった。
壁の画面には各地の聖育院の子供たちが映っていた。どの子も同じ白い服を着て、同じ白い靴を履いている。
ヨーリクは聖王親衛艦隊『守護天使《シュッツェンゲル》』の軍装で、扉の脇に立っていた。
外套の内側には、決まった位置に小さな古い靴が一足しまわれている。彼は一度だけ、その場所を手の甲で確かめた。
誰の靴なのかを典礼官たちは知らない。これまで訊いた者もいなかった。
ヨーリクは壁の画面を一度も見なかった。
支度を終えた者たちが後ろ歩きで退がっていく。この少女に背を向けることは、もう誰にも許されていない。
画面に映る子供たちの前で、ミナの足が止まった。白い沓の爪先が半歩だけ、画面のほうを向く。
典礼官が言った。
「陛下に続く、祝福された子らにございます」
ミナは答えず、まだ画面を見ていた。
「ミナ、見るな」
ヨーリクが言った。
ミナの視線は動かなかった。
「見るなら、顔を覚えろ。列として見るな」
ミナの唇がわずかに動いた。
声にはならなかった。読み取れるかどうかというほどの、口の形だけが残った。
扉が開く。
「聖王陛下。慈母司牧聖下が、お待ちです」
「我は参ります」
白い沓が開かれた扉へ向かった。
廊下の両側では支度の者たちが額ずいている。ほとんど音を立てずに聖王が先を歩き、ヨーリクは半歩後ろをついていった。
護衛として定められた位置だった。
同時に、彼女を囲う檻の一辺でもあった。
その先で、彼女をミナと呼ぶ者はいなかった。
***
【建国放送開始時刻 大伽藍】
祭壇の遥か上には、大伽藍で唯一の窓がある。
その形は、かつてエコニア捕虜収容所にあった監視塔の窓と同じだった。違うのは、そこから差し込む光だけである。
聖王が玉座の前に立った。
司祭団の祈りはまだ続いている。七つの星系の議場も、各地の軍用回線も、七百八十二の施療所も、聖都ラディークスから同じ時刻が告げられるのを待っていた。
慈母司牧アガーテが指を一本上げると、数百人の祈りが同時に止まった。
その指が下りる。
「門を開けなさい」
宣信院の枢機卿が復唱した。
「全福音回線、開放」
帝国の公用回線、民間放送、港湾案内、救難周波、辺境に残る古い放送塔まで、接続された回線に次々と金色の樹の紋章が現れた。
ある港では入出港を案内していた管制音声が言葉の途中で途切れ、ある家では天気予報が消えて同じ樹に変わった。
公用か民間か、軍用か救難かという区別はなかった。
繋がる回線には、すべて同じ放送が流された。
「銀河標準時、同期。聖地受難紀元二十二年十二月二十五日正午、建国式典を開始します」
――「我らはローエングラム朝銀河帝国に対し――聖戦を宣する」
次回、『建国宣言(後編)』