銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第五十話「建国宣言(後編)」(新帝国暦二十三年十二月)

聖録院の枢機卿が建国の文書を読み上げる。

 

「聖地受難紀元二十二年十二月二十五日。本日、母なる地球の御名と受難者の記録において、タナトス星系、聖都ラディークスに神聖黄金樹教国(サンクタ・アルボル・アウレア)を樹立する」

 

声は乾いていて抑揚が少ない。祭文というより行政文書を読む声だった。

 

教国(アルボル)は受難者の名簿を国家の基礎文書と定める。

 

本日以後、教国の公文書に新帝国暦を用いない。

 

我らは簒奪者の戴冠を、歴史の起点とは認めない」

 

枢機卿は頁を繰った。

 

「聖暦元年を宇宙暦八百年と定める。

 

同年、辺境において母の名のもとに子らを養っていた家々が焼かれた。焼かれた者の多くは、十を数えぬ子らであった。

 

教国はその火より年を数える。

 

聖暦は宇宙暦より七百九十九を減じて得る」

 

七つの議場で書記たちがその条文を書き取っていく。

焼けた家々も死んだ子供たちも、暦の上では一つの計算式になった。公文書に使う日付はこれからその式で求められる。

 

枢機卿は声の高さを変えずに続けた。

 

「聖暦元年の前年、聖なる地球の地下において古い教団が滅びた。教国はこれを受難の起源としない。

 

母の名を騙り人を殺めた者たちの滅亡ではなく、簒奪者によって罪なき子らが焼かれた年を聖暦元年と定める」

 

大伽藍で驚く者はいなかった。建国の日に初めて示された教えではない。

各地の聖堂でも聖育院でも長く繰り返されてきた教義だった。

 

聖王はまだ口を開いていない。

国号も暦も、何を受難の起点とするかも、少女が最初の言葉を発する前に読み上げられていった。

 

 

***

 

 

「共同建国七星系を告げる」

 

聖録院の枢機卿が最初の名を読んだ。

 

「タナトス」

 

議場の封印が外され、止まっていた議事時計に針が戻される。

 

「トリプラ」

 

採決盤を覆っていた布が取り払われた。

 

「ライガール」

 

議長席の正面に置かれていた帝国行政官の机が壁際へ運ばれていく。

 

「ロフォーテン」

 

被災者代表の席に人が座った。戻らなかった者の席は空いたまま残された。

 

「タッシリ」

 

箱に収められていた旧議事録が再び棚へ戻される。

 

「エリューセラ」

 

通信卓の表示灯が順に点いた。

 

「リオ・ヴェルデ」

 

七つの星系議会の議長席へ、それぞれ古い印章が戻されていった。

そこで聖王が建国放送の中で初めて口を開いた。

 

「我はタナトス、トリプラ、ライガール、ロフォーテン、タッシリ、エリューセラ、リオ・ヴェルデの民へ、銀河帝国を名乗る簒奪者により奪われた議場を返す。

 

七つの星系議会は本日、再び開かれる」

七つの議場で開会の槌が鳴った。

 

「タナトス星系議会、開会」

 

ほかの六つの議場でも、それぞれの議長が開会を告げていた。

七度の音が一つずつ聞こえたわけではない。通信のわずかな差を含みながら槌の音が重なり、長い一つの響きとなって大伽藍へ返ってきた。

 

帝国の統治によって議場が閉じられて以来、初めて鳴る槌だった。打つ手のいくつかは震えていた。

 

 

***

 

 

キベロンの広場で歓声が上がった。

 

「戻った」

 

「俺たちの議会だ」

 

ラルスは放送を見上げたまま短く答えた。

 

「ああ」

 

先ほど娘のことを聞かれたときと同じ言葉だった。

だが今度は、誰が聞いても喜んでいると分かった。

 

 

***

 

 

教理院の枢機卿が建国文書の続きを読み上げた。

 

「七星系議会は租税、産業、医療、社会扶助、地方行政および公共事業を議する。

 

復設議会の任期を百八十日とし、その期間内に各星系は普通選挙を実施して新たな議員を選出する」

 

各地で続いていた歓声が一段高くなった。

 

枢機卿は声量を変えなかった。

 

「ただし信仰、聖録、教育、命名、婚姻、聖育、国家防衛、および聖義に属する事項は、母なる地球の御教えと慈母司牧聖下ならびに枢機卿団の裁可に服する」

 

留保条項も、それまでの条文と同じ調子で読み上げられた。歓声はまだ収まっていない。

七つの議場では何人かの議員が隣の席と顔を見合わせた。それでも再び開いた議会を閉じようと言い出す者はいなかった。

 

ロフォーテンでは被災者代表がすでに最初の動議を書き始めている。題は給水塔の増設だった。

トリプラでは老議員が最初の質問に立った。尋ねたのは会期が何日あるのかということだった。

留保条項をもう一度確かめるため速記録を請求した議員もいた。七つの議場を合わせて四人だった。

 

 

***

 

 

世俗諸侯を代表してグレーフェンベルク侯が聖王の前に進み出た。

旧帝国の宮廷であれば、この男がこの年頃の少女の前に膝をつくことはなかっただろう。

 

侯が歩き出すと背後の旧門閥貴族の当主たちも順に席を立った。並びは今朝、控えの間で宣誓書を積み直したときに決められた家格順だった。

 

玉座まで三歩というところで侯の歩幅が半分になる。

誰かに教えられて動いているのではない。旧王朝の宮廷で長く使われてきた作法が身体に残っていた。

 

侯は玉座の前で膝を折った。

床へ膝が触れる寸前に一拍だけ間があった。傍目には、老いた膝を労わったようにしか見えない程度の間だった。

 

背後でも旧門閥貴族の当主たちが順に膝をついていく。

 

「旧き黄金樹(ゴールデンバウム)の諸家は、その罪とその名を新たなる御代へお預け申し上げる」

 

「受けましょう」

 

玉座の少女が静かに答えた。

 

「我らはかつて母を忘れ申した。ゆえに今度こそ、母の根を守る盾となりましょうぞ」

 

「罪は名を捨てて消えるものではありません。

 

名とともに、負いなさい」

 

少女の声は変わらなかった。教理院が用意した言葉を聖王の声が読み上げている。

 

「御意」

 

 

***

 

 

諸侯席へ戻る途中、グレーフェンベルク侯は第二聖団司令部と接続されている中継画面の前で足を止めた。画面の中では聖団長のベーレントと参謀団が何か書き付けを続けている。

 

「熱心なことだな、ベーレント卿。律法(レクス)の諸卿は相変わらず書類がお好きと見える」

 

『書類がなければ侯の所望される地面も確定いたしませんので』

 

「口の減らぬことよ」

 

『減らす必要がございません』

 

グレーフェンベルク侯は笑った。画面の中のベーレントは笑わない。

旧王朝時代にはブラウンシュヴァイク公の閥にいたグレーフェンベルク侯と、

リッテンハイム侯家の家令であったベーレント。

 

侯はそれ以上何も言わず諸侯席へ戻った。画面の中のベーレントも次の書類へ目を落とした。

 

 

***

 

 

宣信院の枢機卿が時計を確かめた。

 

「これより、教国軍(サンクタ・ミリティア)の編成を告げる」

 

公用波は開いたままである。

枢機卿は名簿を開いた。

 

「第一聖団『黄金樹(ゴールデンバウム)』。聖団長、オットフリート・シュタイガー聖将。所属艦隊、マルス艦隊、ベローナ艦隊、ウィルトゥス艦隊。

 

第二聖団『律法(レクス)』。聖団長、コンラート・フェルディナント・ベーレント聖将。所属艦隊、サトゥルヌス艦隊、ウルカヌス艦隊。

 

第三聖団『フェザーン』。聖団長、ジェイク・カザリス聖将。所属艦隊、メルクリウス艦隊、フォルトゥナ艦隊。

 

第四聖団『聖戦(クルセイド)』。聖団長、ニコラス・ブルーメンタール聖将。所属艦隊、ディス艦隊、フリアエ艦隊、レムレス艦隊」

 

枢機卿は次の行へ目を移した。

 

「聖王陛下親衛艦隊『守護天使(シュッツェンゲル)』。艦隊司令、聖王守護ヨーリク」

 

その名にだけ階級が付かなかった。だが枢機卿はそこで声を変えず、ほかの艦隊司令と同じ速さで読み終えた。

 

少し間を置いて総数へ移る。

 

「四聖団十個艦隊、および親衛一個艦隊。全十一艦隊。

 

 総兵力、十一万隻」

 

七つの議場で議員たちが次々に立ち上がった。

画面を見たまま拍手をする者はいない。十一万隻という数を祝うべきなのか警戒すべきなのか、すぐには判断できなかった。

 

大伽藍では司祭団が一斉に胸へ手を置いた。最後列の端にいる若い司祭も周囲と同じ動作をする。

灰色の甲冑をまとった聖騎士(ケルビム)だけは動かなかった。

 

 

***

 

 

「公用波は祭壇の映像を継続。以下、軍事回線」

 

銀河へ流れる映像はそのまま祭壇の全景に固定された。次のやり取りを聞くのは大伽藍と七つの議場だけである。

 

「四聖団、および親衛艦隊、応答を」

 

 

主画面に第一聖団長兼マルス艦隊司令オットフリート・シュタイガー聖将が映った。

その左右の小窓にはベローナ艦隊司令ラスバッハ従聖将と、ウィルトゥス艦隊司令メルゼブルク聖将が並ぶ。

 

「マルス艦隊、異常なし」

 

定時照会と同じ返答だった。シュタイガーは建国の日にも声を張らず、祝詞も檄も付け加えなかった。

 

『ベローナ艦隊も、いつでもいいぜぇ』

ラスバッハは片肘を指揮卓に預け、退屈そうに笑っている。

 

『ウィルトゥス艦隊、整列完了』

メルゼブルクは短く告げた。声にも姿勢にも式典だからという変化はなかった。

 

 

主画面が第二聖団へ切り替わる。

 

『第二聖団。サトゥルヌス艦隊、ウルカヌス艦隊、ともに所定線を保持しております。隊列に乱れはございません』

ベーレントは祝典の挨拶ではなく点検結果を報告するように答えた。手には確認中の報告書が握られていた。

 

 

続いて第三聖団。

 

『第三聖団。メルクリウス艦隊、フォルトゥナ艦隊。荷も船も勘定は合ってる。信仰のほうは坊主どもに訊いてくれ』

カザリスは式典用の聖将礼装をすでに脱ぎ、いつものジャケットに戻っていた。回線のどこかで小さく笑う声がした。

 

 

第四聖団長ブルーメンタールが麾下の三個艦隊を代表して答えた。

 

『第四聖団。ディス艦隊、フリアエ艦隊、レムレス艦隊。ここにいる』

その背後で旧同盟軍式の敬礼が揃った。聖も神も聖王の名も口にしなかった。

 

 

最後に一隊だけ映像窓が開かなかった。

 

『親衛艦隊、守護天使。所定位置』

親衛艦隊司令ヨーリク。

声の向こうに艦橋も兵も映らない。画面にあるのは灰色の壁だけだった。

 

 

***

 

 

第四聖団の艦列の中ほどに一隻の旧同盟軍型戦艦がいる。

機関区には式典を映す画面も星の見える窓もない。あるのは計器と冷却系配管、それに床から伝わってくる機関の振動だけだった。

 

この型の機関区ならダグラス・ホートンは目を閉じても歩ける。約二十年前まで同じ位置にある配管の継手を毎日のように締めていた。

 

艦内放送が第四聖団の名を告げたとき、機関区の誰かが計器越しにわずかに背筋を伸ばした。ホートンは手を止めなかった。

 

固定索を指の背で弾く。加速で動くものはすべて縛ってある。二番と五番の策の張りがわずかに甘い。

締め直してから拳で二度ずつ叩いた。

 

若い聖列兵が遠慮がちに訊いた。

 

「ホートン聖曹長。式典、聞かなくていいんですか」

 

「聞いている」

 

ホートンは計器から目を離さなかった。

 

「手を止めるな」

 

聖列兵は二番と五番の固定索をもう一度確かめた。ホートンも計器へ目を戻す。

 

黒い手袋はもう手に馴染んでいた。十七年間、箪笥の底で眠っていたものだったが馴染み直すのに三日とかからなかった。

若い聖列兵の視線が一度だけその手袋に落ちた。何も訊かなかった。

 

ホートンも何も言わない。

艦内放送ではまだ各艦隊の点呼が続いている。機関の振動はそのあいだも変わらなかった。

 

ホートンは放送ではなく計器を見ていた。針が規定値から外れないことを確かめ、次の配管へ手を伸ばした。

 

 

***

 

 

軍事回線が閉じ公用波が戻った。

聖王が一歩前へ出る。

 

放送は少女を大写しにはしなかった。祭壇の全景を遠くから映し、大伽藍の中央に小さな白い姿がひとつ立っている。

 

聖王ヴィルヘルミーネが口を開いた。

声は静かだった。

 

 

「銀河のすべての、拾われなかった者たちへ。

 

国が先に消え、その国が負っていた約束まで失った者たちへ。

 

書類のどこにも誤りがないまま、救いの外へ置かれた者たちへ。

 

数え終えられたあとも、生きていた者たちへ。

 

戦は終わったと告げられた日に、何一つ戻らなかった者たちへ。

 

名を呼ばれる前に、番号へ戻された子らへ」

 

 

キベロンの広場でラルスは動かなかった。第四聖団の機関区ではホートンが手を動かし続けている。七つの議場から、いつの間にか私語が消えていた。

 

 

「我らは、施したのではない。

 

麦を届けた。薬を届けた。屋根を戻した。働く場所を作った。そして一人ずつ名を呼んだ。

 

呼ばれなかった名を、我らは帳に書き取った。証明は求めなかった。

 

それは慈悲ではない。

 

国家が、その民へ負う義務である。

 

その義務を果たせぬ者は、統べる資格を失う」

 

 

施療所では寝台の患者たちが横になったまま胸へ手を置いた。起き上がる必要はないと放送の前に告げられている。

議場でも隣席と囁き交わす者はいなかった。

 

少女の声は変わらない。

 

 

「我は、母なる地球を見捨てた旧き王朝の血を負う。

 

我は罪なき血として、ここに立つのではない。

 

悔悛を誓い、償うべき血を負う者として、ここに立つ」

 

 

そこで一拍、間が置かれた。教理院の原稿にも記された間だった。

 

 

「かつて黄金樹(ゴールデンバウム)は、母なる地球より目を背けた。

 

地球が荒れ、そこに生きる者が貧窮し、救いを求めても、王朝は顧みなかった。守らず、養わず、救いの手を差し伸べることもなかった。

 

母なる地球を語る者は白眼をもって遇され、その信仰も、そこに生きる者の苦しみも、帝国が顧みるに足らぬものとして捨て置かれた。

 

それが黄金樹の罪である。

 

されど、罪を負う者には悔いることができる。

 

黄金樹には、赦しを乞う道がある。

 

捨てた者を拾い、忘れた名を呼び、果たさなかった義務を果たす道である。

 

我らは罪を消すために国を興すのではない。

 

罪を負ったまま、その償いを果たすために国を興す。

 

かつて黄金樹は母を忘れ、その根を失って枯れた。

 

いま我らは、母の土へ根を戻す」

 

 

七つの議場では速記者たちの手だけが動いていた。

聖王は続けた。

 

 

「されど、母の名を騙った者たちもまた道を誤った。

 

母の名において人を殺め、祈りを刃となし、信仰を憎しみの器とした。

 

我らは、あれを継がない。

 

母を忘れた黄金樹へ戻るのでもない。

 

母の名を血で汚した者たちへ戻るのでもない。

 

我らは悔い改めた者として、ここに立つ」

 

 

大伽藍の司祭たちは頭を垂れたまま動かなかった。

 

「我らの年は、王の戴冠から数えない。

 

聖暦元年。

 

辺境において、母の名のもとに子らを養っていた家々が焼かれた。

 

十を数えぬ子らが、火の中で死んだ。

 

その名を書いた帳も、ともに焼けた。

 

ゆえに我らは、その火より年を数える。

 

我らの聖暦は王の栄光を記すための暦ではない。

 

あの日に死んだ子らを、忘れぬための暦である。

 

年を数えるとは、ただ日を数えることではない。

 

誰の死を忘れぬかを、定めることである」

 

 

祭壇脇の小さな椅子で慈母司牧アガーテが一度だけ頷いた。

聖王の声はなお静かだった。

 

 

「あの火を放った者を、我らは忘れない。

 

母なる地球を見捨てた、旧き王朝ではない。

 

名もなき兵でもない。

 

のちに銀河の皇帝を称した、簒奪者その人である。

 

黄金樹(ゴールデンバウム)の罪は、救わなかったことにある。

 

簒奪者(ローエングラム)の罪は、救われるべき者を自ら焼いたことにある。

 

その二つを、我らは同じ罪とは呼ばない」

 

 

キベロンの広場で誰かが息を呑んだ。

 

「黄金樹には、赦しを乞う道がある。

 

捨てた者を拾い、忘れた名を呼び、果たさなかった義務を果たす道である。

 

されど、あの火を放った簒奪者には、その道はない。

 

簒奪者には赦しは与えられない。

 

赦される資格そのものを、認めない」

 

 

声量は上がらなかった。

 

 

「そして、簒奪者の冠を継いだ王朝は、いまなお銀河帝国を名乗っている。

 

 

王冠は継いだ。

 

国も継いだ。

 

されど、焼かれた名簿は戻さなかった。

 

名を失った者の空欄を残し、閉ざされた議場を開かず、拾われなかった者たちを、なお拾わなかった。

 

我らはその王朝に、旧き黄金樹と同じ赦しの道を語らない。

 

あの火の上に立つ王朝だからである」

 

 

広場では群衆の顔から少しずつ笑いが消えていた。怒声は上がらない。

誰もが黙って聞いていた。

 

 

「かつて我らは拾われた。

 

ゆえに我らは、拾いに行く。

 

名のない者には名を。

 

家のない者には家を。

 

議場を失った者には議場を。

 

国家に見捨てられた者には、国家を」

 

 

聖王は七つの星系の名を一つずつ読んだ。

 

 

「ゆえに本日、聖暦二十二年十二月二十五日。

 

タナトス。

 

トリプラ。

 

ライガール。

 

ロフォーテン。

 

タッシリ。

 

エリューセラ。

 

リオ・ヴェルデ。

 

この七つの根より、我らは神聖黄金樹教国の樹立を宣する」

 

 

七つの星系で、七百八十二の施療所で、無数の港と広場で金色の樹の旗が広がった。

刷られたばかりの紙の旗だった。配られたのはその日の朝である。

 

聖王の声はなお静かだった。

 

 

「簒奪者の放った火に斃れた子らの名において。

 

数えられぬまま死んだ者たちの名において。

 

閉ざされた議場へ帰った民の名において。

 

そして、なお銀河のどこかで拾われる日を待つ者たちの名において。

 

我らはローエングラム朝銀河帝国に対し――聖戦を宣する」

 

 

大伽藍の中は静まり返っていた。

歓声は外から来た。広場から港から七つの議場から、辺境の星々から、少し遅れて届く波のように大伽藍の壁を震わせた。

 

七つの議場の反応は揃わない。立ち上がって叫ぶ議場があり、拍手だけが長く続く議場もあった。

ロフォーテンでは歓声が上がるまでに長い一拍があった。それでもその場で宣戦への反対を表明した議場は一つもなかった。

 

祭壇の上で少女は動かなかった。

 

 

***

 

 

聖戦宣言のあと、放送の画面が切り替わった。

白い服を着た子供たちが映る。画面の隅に出ている表示は一行だけだった。

 

――ロフォーテン聖育院・受難を継ぐ子ら。

 

イーダは教えられたとおり顔を上げたまま立っていた。

その目だけが映像の枠の外を探すように動いた。

 

数秒後、画面は次の子供へ移った。

映っていない子供たちも広間では同じ姿勢のまま立っている。一人が映る時間はわずかだったが、その数秒を待つために全員が一時間近く整列していた。

 

広間の隅では教官が放送予定表を確認し、映像の終わった子供の欄へ順に済の印を付けていく。

 

 

***

 

 

キベロンの広場がざわめいた。

 

「映ったぞ」

 

「ラルス、お前の娘だ」

 

「イーダだ」

 

ラルスが言った。画面はもう次の聖育院へ移っている。

 

「イーダ」

 

二度目は誰に聞かせるでもない声だった。

 

「聖家さまだ」

 

誰かが言ってラルスの背を叩いた。

ラルスは笑った。目だけは、もう何も映っていない画面の場所から動かなかった。

 

 

***

 

 

演説が終わっても放送は切れなかった。

聖録院の枢機卿が祭壇の前へ進み出る。

 

「これより、帰還した名を読む。

 

順は古い順とする。まず、元年」

 

最初の頁が開かれた。だが読み上げられたのは人の名ではなかった。

 

「名、未詳。

 

名、未詳。

 

名、未詳」

 

同じ二語が頁の終わりまで続いた。

家ごと焼かれ、帳を書いていた者まで死んだ場所では子供たちの名そのものが残っていない。

 

枢機卿は頁の縁を一度だけ指でなぞった。

 

「空欄は、空欄のまま読む。

 

埋まるまで、毎年読む」

 

大伽藍の中でわずかに衣擦れの音が重なった。身廊に並ぶ灰色の甲冑をまとった聖騎士(ケルビム)だけは動かない。

 

続いてキベロンの弔いの帳、各地の受難者名簿、旧同盟軍戦没者名簿が順に開かれていった。

 

「ヘルガ・ベッカー」

 

その名がキベロンの広場にも届いた。

隣にいた男が息を呑みラルスを見る。ラルスは何も言わず目を閉じた。

 

妻の名がいま銀河中の回線を通っている。

死亡証明を出しても再提出を求められ続けた名だった。いまは誰にも証明を求められず、そのまま読み上げられている。

 

ヘルガの名には短い一文が添えられていた。

 

「水汲みの列で、いつも子供を先にした人」

 

帳に残されたとおりの言葉だった。

 

ラルスの手の中で式次第の紙が折れた。一度。さらにもう一度。

折り目が深く残った。

 

朗読は止まらない。一つの名が読まれるたび、遺族のいる場所で誰かが胸へ手を置いた。

名にはそれぞれ短い言葉が添えられていく。

 

給水塔の設計士。

仕立て屋。

第十艦隊の機関兵。

八歳。

 

あの日、帳を書いた者たちが名を尋ねるときに聞き取って残した言葉だった。

 

やがて旧自由惑星同盟軍の戦没者名簿へ移る。

第四聖団の艦内で席を立つ音がいくつも重なった。着席したまま聞けとは誰も命じていなかった。

 

名簿は一日で読み終えられる厚さではない。

聖録院は読み終わるまですべて読むと告知していた。

 

 

***

 

 

受難者の名が読み上げられているあいだにも、各地から新しい通信が入り続けていた。

 

「マスジッド聖管区は帝国官吏の行政権を停止する。神聖黄金樹教国の庇護を求める」

 

「パルメレンド聖管区は建国文書を受諾する」

 

「マグ・トゥレド聖管区は教国の庇護を求める」

 

読み上げる声は一つとして同じではなかった。

涙声で読む者がいた。表情を変えず決められた文面だけを読み終える者もいた。

 

港の外に並ぶ灰色の艦影を見ながら判を押した者がいる一方で、帝国官吏が庁舎を去るのを見て本気で自治の回復を喜ぶ者もいた。

 

ある庁舎では宣言書へ判を押した長官がそのまま窓辺へ立ち、灰色の艦列を長く見ていた。

別の広場では宣言を読み上げる声が途中から嗚咽に変わった。放送局はどちらの映像も同じ長さだけ流した。

 

帰順と庇護要請は放送が続くあいだも途切れなかった。文面はどれもよく似ていた。

あらかじめ同じ雛形を渡されていたのか、それとも同じ状況で書けば似た文面になるのか。放送を見ているだけでは分からなかった。

 

そのころ第二聖団は宣言された境界線へ艦艇と管制要員を配置し始めていた。

帝国の航路標識は停止され、代わって教国側の航路管制符号が順に有効になる。

 

第三聖団では食糧船と医療船の出港が始まった。行き先は、いま建国文書を受諾したばかりの管区だった。

 

第四聖団はなお帝国の命令系統に残る守備隊の正面へ進出した。

教国艦は射程内まで入ったが照準は合わせない。その背後には民間港があり、さらにその奥では復設されたばかりの議会が開かれている。

 

帝国守備隊は宣戦布告が事実なのか確認を求め、同時に中央へ指示を仰いだ。

先に発砲すれば、復設された議会と民間港を背にした教国艦を帝国軍が撃ったことになる。

 

返答を待つ数分のあいだにも第二聖団の管制艦は航路を押さえ、境界標識を書き換えていった。

 

やがて親衛艦隊が聖都ラディークス周辺の所定宙域へ展開を終えた。

名簿の朗読はまだ続いていた。

 

その声を聞きながら港では荷が積まれ、境界では識別符号が切り替わり、帝国守備隊の通信卓では中央からの返答を待つ表示が点滅していた。

 

 

***

 

 

宣信院の枢機卿が時刻を確かめ祭壇の脇を見た。

 

「名は届きましたか」

 

聖録院の枢機卿が答えた。

 

「届いております」

 

小さな椅子の上でアガーテが口を開いた。式典が始まってから、これが二度目の言葉だった。

 

「では鐘を」

 

大伽藍の大鐘が鳴った。

 

宇宙に鐘の音そのものは伝わらない。大鐘の音は放送信号として送られ、各地の艦内、議場、施療所、港へ同じ響きを届けた。

 

施療所では枕元の受信機から音量を落とした鐘が流れた。眠っている患者を起こさないためだった。

七つの議場では同じ鐘が流れた。

 

港では鐘に合わせ、荷役中の起重機が一斉に止まった。停止は一分間だけだった。

一分を過ぎると起重機はまた動き始める。

 

七つの議場でもそれぞれ鐘が鳴り、大伽藍では司祭団の応唱が始まった。

各艦隊でも艦内時計は同じ時刻を示していた。

 

鐘の受け方まで同じではない。

ある艦隊では祈りと作業の動作が鐘に合わせて寸分違わず揃った。

 

第一聖団では鐘の上にシュタイガー自身の号令が重なった。部下たちは鐘ではなく、その声で動いた。

第三聖団ではカザリスが鐘を聞きながら出港時刻を確認していた。次の船を出す時刻を一秒も動かさなかった。

 

第四聖団では旧同盟軍出身の古参兵たちが、かつての軍で身につけた様式のまま復唱した。

鐘は同じだった。それに合わせる方法は艦隊ごとに違っていた。

 

大伽藍では灰色の甲冑をまとった聖騎士の列だけが、鐘が鳴っても姿勢を変えなかった。

 

 

***

 

 

司祭団が短い応唱を唱えた。

 

「根は母へ。

 

 枝は星々へ。

 

 名は聖録へ」

 

最後列の端でも同じ三句が唱えられている。

若い司祭の唇は確かに動いていた。数百の声に交じれば、その声だけを隣の者と聞き分けることはできない。

 

応唱が終わると司祭団は再び頭を垂れた。最後列の若い司祭も周囲と同じ深さまで頭を垂れる。

 

前方の諸侯席でグレーフェンベルク侯は唱和しなかった。

鐘には一礼を返したが祈りの言葉を口にはしない。

 

放送画面が最後列の司祭たちを映したとき侯は映っていなかった。諸侯席へ画面が戻ったときには応唱はもう終わっていた。

 

 

***

 

 

【同時刻 辺境某星域 潜伏艦隊】

 

 

そこには何千という艦がいた。

 

星の光を返す艦体は一隻もない。反射を殺した灰色の船体は闇に溶け、灯火もすべて落とされている。

機関も最低出力だった。

 

兵たちは戦闘配置についたまま祈っていた。

濃灰の小帽をかぶった兵も深緋の小帽(ズッケット)をかぶった士官も姿勢は同じだった。

 

胸に小さな樹をつけた者もいれば識別番号しか持たない者もいる。それでも唱えている言葉は変わらない。

声は囁きよりも小さかった。何千隻もの艦内で同じ祈りが続いているが、艦の外へ漏れるものは何もない。

 

祈燈はまだ消えていた。

 

「根は母へ。

 

 枝は星々へ。

 

 名は聖録へ」

 

大伽藍で唱えられたものと同じ三句だった。何千隻もの艦内で同じ言葉が同じ速さで繰り返されている。

 

やがて通信が入った。

 

『建国宣言、完了』

 

『受難者名簿、朗読継続』

 

『第一鐘、確認』

 

指揮官が命じた。

 

「祈りを続けよ」

 

若い兵が訊いた。

 

「いつまででありますか」

 

「時刻までだ」

 

若い兵はそれ以上訊かなかった。唇が再び祈りの言葉を刻み始める。

 

指揮官の卓の隅では数字が一つずつ静かに減っていた。それが何を数えているのか訊く者はいない。

艦橋にいる者は皆、同じ数字を胸の内でも数えていた。

 

通信の間隔が少しずつ短くなる。祈る速さは変わらなかった。

全回線は開いたままである。

 

建国宣言のあとを受難者の名が継いでいた。そのあいだも指揮官の卓の数字は静かに減り続けていた。

 

兵たちは戦闘配置についたまま祈り続けた。

その祈りには終わる時刻が決められていた。

 

名簿は読まれ続けていた。鐘もまだ鳴っている。

辺境の闇のどこかで指揮官の卓の数字が零に触れた。

 

祈りが止んだ。

 

何千という艦がいた宙域に、もう艦影はない。

反射を殺した灰色の艦隊は灯火を消したまま所定の針路へ動き始めていた。

 

建国宣言を聞いてから出撃の準備を始めたのではない。

宣言が始まった時点で艦隊はすでにここにいた。

 

最初に失われた帝国艦隊は皇帝の船団ではなかった。

 

 

***

 

 

【同刻 タナトス星系宙域 帝国軍辺境分艦隊 ザントフォス】

 

帝国軍のザントフォス中将が率いる辺境分艦隊が最後の通信を発したのは、建国宣言の放送開始から六時間後のことである。

五千隻の分艦隊は公示された日程どおり皇帝の帰路を迎えるため、ランテマリオ方面の幹線を進んでいた。

そこへタナトスからの建国放送が届いた。

ザントフォス中将は放送を最後まで聞かなかった。

 

帝国軍が辺境の武装蜂起に対処するとき、最初に叩くべきものは指揮中枢である。

兵を散らすより先に頭を潰す。

反乱鎮圧では何度も通用してきたやり方だった。

 

参謀が、巡察中の皇帝船団への合流を進言した。

 

ザントフォスは首を振った。

「皇帝陛下の御身は『鉄壁』と『疾風』の正規艦隊が固めている。我ら辺境警備の五千隻が今から駆けつけたところで、盾が一枚増えるだけだ」

星図上でタナトスを指した。

「我々にしかできんことをする。発信源――タナトス星系惑星エコニア。新興の叛徒どもの頭を潰す」

 

ザントフォス分艦隊は針路を変えた。

判断そのものは帝国軍の教範から外れていない。

相手が、これまでの叛乱と同じであれば。

 

 

タナトス星系外縁で、灰色の艦影を拾った。

敵性表示。

二百。その内側に四百。右方遠距離に三百。

星系の広い範囲に、同じ反応が散っていた。

 

「艦隊か」

 

「そのようには見えません」

 

広範囲に散らばった敵艦は、針路も速度も揃っていない。合流しようとする動きもなかった。

建国したばかりの勢力が各地の警備艦を寄せ集めているのなら、そういうこともある。

最も大きな七百隻が、こちらの接近に合わせて内側へ退いた。

 

ザントフォスは即答した。

「追う」

 

距離は縮まらなかった。

こちらが速度を上げれば向こうも上げ、緩めればまた落とす。

 

そのとき鐘が鳴った。

一度。間を置いて、もう一度。

無論、宇宙に音はない。

通信士は、どの回線にも指を触れていなかった。

それでも艦橋のスピーカーが鳴った。鳴らされた。

鐘だった。一度。間を置いて、もう一度。

帝国軍の周波数である。誰も、そこへ入れた覚えはない。

 

 

「敵の電子妨害のようです。こちらの受信系に流されています。ただし通信を潰す強度ではありません」

 

「嫌がらせか。無視して進め」

 

鐘は通信を潰さなかった。照準も乱れない。航法にも異常は出ない。

ただ鳴っている。

通信主任が波形を止めたのは、八打目のあとだった。

 

「一箇所だけ、鳴り返しがありません」

 

「敵艦は見えているぞ」

 

「はい。艦影はあります。熱源も、推進機も見えています」

 

打鐘のたび、無数の小さな(こだま)が遅れて返ってくる。

その重なりの中に、一箇所だけ何も返さない場所があった。

しかも次の鐘では、その遅れが短くなっていた。

 

観測長が画面へ顔を寄せた。

「……鐘に、穴があります」

 

ザントフォスは表示を見た。

「近いのか」

 

「近づいています。打つたびに、遅れが短くなっています」

 

穴は、近づいていた。

 

最初に撃たれたのは第二区の通信群だった。

散っていた三つの灰色艦群が、初めて同時に加速した。

戦列は組まない。上から、後方から、進路の先へ。

護衛の駆逐艦との撃ち合いには付き合わず、火力は中継艦へ集まった。

 

「第二区、通信容量低下!」

 

「後退させろ」

 

中継艦十二隻のうち四隻が沈み、三隻が損傷した。

 

ザントフォスは命じた。

「第一予備へ切り替えろ」

 

数分後、右方で停止していた五百隻が針路を変えた。

向かう先は、第一予備中継だった。

第一予備が主系統になってから、まだ三分と経っていない。

 

「……なぜそこだ」

 

誰も答えなかった。

 

通信主任が数字を出した。

「主系統への切替後、送受信量が約六倍になっています!」

 

「敵に読めるのか」

 

「通信内容は暗号化しています!」

 

「内容の話ではない!」

 

通信主任は黙った。

暗号化しても、電波を出した事実までは消せない。

誰が喋っているか。どこから発信が増えたか。

それだけなら、外からでも拾える。

 

第一予備が半減した。

戦隊旗艦へ命令を逃がせば、今度は戦隊旗艦へ来た。

通信量を落とせば、警戒艦の増えた記録艦の周りへ寄ってきた。

傷を塞ぐたびに、次に殴る場所を選び直されている。

 

ザントフォスは三つの時刻を並べさせた。

こちらの通信が増える。少しして、近くの灰色艦群のどれかが動く。

完全には重ならない。それでも順番は変わらなかった。

 

彼は記録から顔を上げた。

「奴ら、内容を読んでいるんじゃない」

通信主任が振り返る。

「誰が喋っているのかを見ている。

 いったん退くぞ。針路反転。星系外縁へ戻る」

 

そこで初めて、灰色艦群の動きが変わった。

 

「右方敵群、加速!」

 

「左後方も!」

 

「星系内側、四群針路変更!」

 

一斉にこちらへ向いたわけではない。

帝国分艦隊の現在位置を目指してもいなかった。

予測線が次々と伸びていく。

その先が、重なった。

 

三十分後、四十分後の予測位置が、撤退線上の一点へ集まっている。

観測班の戦術系が、初めて複数の艦群へ同じ識別枠を付けた。

三千。五千。

七千を越えたところで数字が一度止まり、さらに増えた。

 

「九千八百……まだ集結中」

 

艦橋が静まった。

最初から見えていた艦ばかりだった。

新しく現れた艦は、ほとんどない。

 

参謀が呟いた。

「一個艦隊だったのか」

 

「例の大型艦も動きます」

 

鐘の中に穴を開けていた艦だった。

 

ザントフォスは、その闇を見た。

「……あれは何だ」

 

誰も答えなかった。

 

答えは、光だった。

音の返らなかった一角に、巨大な紋章の旗が浮かび上がった。

宇宙空間に光で描かれた、見たことのない紋章だった。

風もないのに光で織られた旗面(ビームフラッグ)がゆっくりとうねっている。

 

その根元に、一隻の艦がいた。

漆黒の細長い艦体。艦首には翼を閉じた天使の像が据えられている。

ほかには目立つ装飾もなく、黒い棺のような艦だった。

 

その瞬間、周囲の闇にも金色の光が灯った。

一隻。また一隻。さらにその外側にも。

正面だけではない。右方にも、左後方にも、分艦隊の下方にも。

 

退いていったはずの灰色の艦艇が、次々と金色の文字を浮かび上がらせていく。

祈りのようにも、罪状のようにも見える文字が、艦隊を走った。

 

同じ語句の繰り返しだった。

 

鐘が鳴った。

金が膨れた。

一万隻が一つの標的へ撃ったのではない。

離れた攻撃群が、それぞれ別の場所へ火力を集中していた。

 

それでも、射撃の時刻は揃っていた。

斉鐘斉射。

第一戦隊旗艦と周辺の数十艦が光の束の中に消えた。続いて第四戦隊旗艦。

通信中継艦も数隻まとめて爆沈し、作戦情報艦も消滅した。

 

ザントフォスは叫んだ。

「各戦隊、旗艦を待つな!星系外縁へ退け!」

 

第一戦隊では、指揮を継いだ巡航艦へ通信が集まりはじめていた。

そこへ、別の敵群が向きを変えた。

 

撃たれる。繋ぎ直す。そこへ通信が集まる。

敵が来る。また切れる。

 

ザントフォスが言った。

「新しい命令を出すな。各戦隊、最後に受けた撤退命令をそのまま実行させろ」

通信主任が手を止める。

「照会には答えるな。退けとだけ送れ」

 

命令は流れた。

遅かった。

五千隻はすでに、同じ命令を同じ意味で受け取れる艦隊ではなくなっていた。

 

光の束が落ちるのは、帝国艦が集まろうとした場所だった。

命令が集まった場所。

次に誰かが指揮を執ろうとした場所。

「敵射線、こちらへ集中します!」

 

分艦隊旗艦の周囲へ、巡航艦が寄ってくる。

それを見て、別方向の敵群が向きを変えた。

 

ザントフォスは言った。

「庇うな!散れ!旗艦を庇うな!」

 

何隻かは離れた。残った艦もいた。

複数方向から、ザントフォスの分艦隊旗艦に光が収束した。

最初の直撃で通信区画が死に、二撃目が艦体中央へ入り、爆沈した。

 

ザントフォス中将の最後の命令が、どこまで届いたのかは分からない。

 

頭を失った五千隻に起きたことは、もう艦隊戦とは呼べなかった。

退路が塞がれていたわけではない。逃げる方向も分かっている。

敵艦も見えている。

それでも、誰と一緒に退くのか、誰の命令を有効とするのか、どの艦を中心に隊形を組み直すのかを決めるたび、そこへ敵が来た。

 

やがて帝国艦は、戦隊ではなく数十隻の群になった。

それから一隻ずつの狩りになった。

灰色の艦群は、その間も集まり切らなかった。

必要なところへ必要な数だけ寄り、撃ち終えると離れていく。

 

黒い艦の周囲だけは、最後まで鐘の中に穴が開いていた。

 

数刻ののち、タナトス星系宙域に帝国の艦隊はなかった。

五千隻のうち生きて辺境の基地へ辿り着いた艦は、両手で数えられるほどだった。

 

生存者の報告は、一致しなかった。

敵は最初から見えていた、という者がいた。

途中まで守備隊の小部隊だと思っていた、という者もいた。

一万隻がいつ現れたのか分からない、という証言もあった。

 

ただ一つ、ほとんどの記録に同じものが残っていた。

 

鐘だった。

 

 

***

 

 

その頃、マーロヴィア星域では皇帝の船団の退路が、刻一刻と狭まりつつあった。




――「二年前の夜からよぉ。……ずっと会いたかったぜぇ」

次回、『開戦(前編)』
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