【新帝国暦二十三年十二月 マーロヴィア星域 帝国軍総旗艦ブリュンヒルト アレク】
「……歓迎されてる、とは言いがたいな」
港湾区画の式典を終えて艦に戻る通路で、フェリックスが小声で言った。
「されると思ってたのか」
「思ってねえよ。思ってなかったが、ここまでともな」
北西辺境星域巡察・復旧確認任務。
広報は巡幸と呼び、一部の公文書は慰撫と書き、任務群の命令書には巡察・復旧確認とだけあった。
復旧状況の確認。救援物資の引渡し。無籍者台帳の監査。港湾と中継局の運用確認。住民代表との面会。
任務群には軍艦だけでなく、各省庁の官吏や技術者を乗せた官用船、医療船、救援物資を運ぶ民間輸送船も連なっている。
十二星系を回る、地味で長い実務の旅である。
本日の式典で、アレクが引き渡したのは修復された港湾施設の管理権だった。
目録が読まれ、星系総督と住民代表が署名し、儀礼の握手が交わされる。
拍手は儀礼の長さだけ続いて、儀礼の長さで止んだ。
列の後ろでは旗を持たされた子供が持たされたままあくびをしていた。
実際に辺境の民が向けてくるのは歓声ではなかった。
港に並ぶ顔、顔、顔。拍手はまばらで、目だけが多い。
皇帝座乗艦ブリュンヒルトの警護艦隊連絡席に、フェリックスがいる。
警護艦と皇帝府側の回線をつなぎ緊急艇の運用表を預かる席である。
輸送管制席にはトビアスがいる。
燃料、補給、輸送船団、通信中継、出港時刻。
船団の帳場である。
卓の横には一通の報告書の写しが、綴りに挟んだままになっていた。
行政・記録監査船からはクラインの報告が上がってくる。
先任監査官の指揮下で、救援物資と住民台帳、無籍者記録を照合する係である。
任務群旗艦
作戦幕僚補。航路別の危機対応計画と代替経路と民間避難の優先順位を整理する係である。
彼は着任からこちら、撤収作戦案を誰に求められもせず日々更新し続けていた。
そして救難艦にはカーラがいた。
格納庫で医療搬送者の名簿を繰っている。
任務群の後方、予備航路はシェパード准将、リヒター准将、アルブレヒト准将の『三脚架』が航路の監視をしている。
そして復路ではザントフォス中将の辺境分艦隊五千隻が迎えに出る。
皇帝の直衛には『鉄壁』のミュラー元帥。
任務群全体の指揮には『疾風ウォルフ』ことミッターマイヤー元帥。
少なくとも帝国軍の常識では、これ以上を求める理由はなかった。
『陛下』
回線が開いた。
ナイトハルト・ミュラー元帥である。
『次のご訪問地ですが、予定を繰り上げたく存じます』
「構わない。理由は」
『特には』
声に笑いが混じった。
『強いて申せば――この星域は少々、静かすぎます』
「何か問題があるのか」
『辺境には辺境の音があります。密輸屋の逃げる音、海賊の値踏みの音。私は若いころに辺境の警備も長くやりましたが、本当に何の音もしない辺境というものをあまり信用しておりません』
回線が閉じた。
***
船団総指揮のミッターマイヤー元帥は、総旗艦
宇宙艦隊司令長官が皇帝の物見遊山に付き合うのか、と発表当時は言われた。
しかし、戦後の軍縮が続く帝国軍にとって、旧同盟領十二星系を跨ぐ巡察は、辺境航路の現況を長官自身の目で確かめられる数少ない機会だった。
その航路計画には、目立たない備えがいくつか入っていた。
作戦卓の端には代替航路図が開かれ、その末尾にはトビアスの上げた報告書の写しがそのまま挟まっていた。三十年前に廃止された旧第七採掘航路の設備番号。利用可否未確認、と脚注がついている。
***
十二月二十五日正午の数分前から、ブリュンヒルトの警護艦隊連絡席は通信障害の処理に追われていた。
帝都から全回線遮断の優先命令が回ってきている。
理由は不明。
各地の中継局が、正規の認証を通った見覚えのない放送を流し始めていた。
ロフォーテンを除く周辺全星系で通信が遮断されていた。
「ロフォーテン星系、まだ救難回線が生きています」
通信士が言った。
フェリックスは表示を開いた。
救難回線一本。
進入中の緊急患者らを乗せた医療輸送船が一隻。
「繋げ」
「帝都中央管制から全回線遮断命令が出ています」
「知ってる。ロフォーテン管制に状況を確認する。こちら皇帝陛下巡察任務群警護艦隊連絡、ミッターマイヤー中尉。応答しろ」
回線が開いた。
『ロフォーテン管制、ハルランダー中尉です。受信しています』
フェリックスの手が一瞬止まった。
雑音に削られていても、聞き違える声ではない。
「救難回線の状況は」
『医療輸送船一隻を誘導中です。建国放送が同じ回線へ重畳しています。放送だけを遮断することはできません』
フェリックスは中央管制の命令表示を見た。
全回線遮断。
その横では医療輸送船の進入表示が、まだ動いている。
「船を先に降ろせ」
『上級管制からは全回線遮断の命令が出ています』
「こっちからも救難回線の維持は上申する」
言いながら、警護艦隊司令部へ優先照会を投げた。
この席に命令を覆す権限はない。
あるのは、回線を繋ぎ、上へ持っていくことだけだった。
雑音の向こうで、短い音が三つ鳴った。
短音。
短音。
短音。
士官学校時代、リディアが決めた受信確認だった。
フェリックスは少しだけ口元を緩めた。
「受信した」
回線を切った。
その三分後。
神聖黄金樹教国を名乗る国家の建国放送が、銀河中の回線に流れ始めた。
***
最初に気づいたのは通信士だった。
すべての、開かれた通信帯だった。
軍用も民間も緊急帯まで――受信できるあらゆる回線に、同じ信号が割り込んでくる。
通信を潰す妨害ではない。
開いている扉という扉から静かに入ってくる。
『――銀河のすべての、拾われなかった者たちへ』
少女の声だった。
激することのない、どこまでも静かな声が、宣言を読み上げていく。
声の背後で、大聖堂のような残響が、低く祈りを唱えていた。
通信士が要点だけを書き取っていく。
国号。
建国地。タナトス星系、聖都ラディークス。
聖王の名。七つの星系議会の復設。
四聖団と十一個艦隊。
そして開戦の日付。
本日である。
「……何かの、悪戯では」
旗艦の艦橋で誰かが言った。
言った者自身信じていない声だった。
「サンクタ・アルボル・アウレア?」
読み上げた者が、一度言い直した。
「――聞かん言葉だな」
「旧い地球の言葉だそうです。聖なる、黄金の、樹」
「黄金の樹?」
「はい。……国の名、のようです」
ゴールデンバウム。誰も次を言わなかった。
『我らはローエングラム朝銀河帝国に対し――聖戦を宣する』
ミッターマイヤーが艦橋に入ってきた。
放送を何十秒か聞きそれから短く言った。
「全艦、第一級戦闘配置」
「元帥、しかしまだ攻撃は――」
「敵は十一個艦隊、と言ったな」
ミッターマイヤーの声は静かだった。
「宣戦を布告してから艦隊を動かし始めると思うか」
誰も答えなかった。
「今日戦争を始めると決めていたなら艦隊はもう配置についている。では、どこに置く」
ミッターマイヤーは一拍置いた。
「最初にいちばん獲りたいものの隣だ」
艦橋の全員が、同じことを考えた。
いちばん獲りたいもの。
それはいま
***
最初の報告は船団の後方警戒に当たっていた、北西辺境警備隊から来た。
『こちら第三哨戒隊、後方宙域に発光現象。数……数百。増えています。千を超えました』
『第三哨戒隊より訂正。発光体、二千、いや三千以上。正体不明。遭難信号の可能性――』
旗艦の観測スクリーンに、その光が映し出された。
闇の中に、光の粒が、次々に灯っていく。
一つ一つは小さい。蝋燭のような、暖かい色の光である。
それが数千、整然と並んで、ゆっくりと明滅していた。
美しい、とすら言えた。
「観測班、分析を」
「光学分析……発光は艦体表面です。艦艇の外殻そのものが、発光しています。パターンは――文字です。文字列が、艦の腹に、光で流れています」
「読めるか」
「読めます。『根は母へ。枝は星々へ。名は聖録へ』。……同じ三句を、繰り返しています」
艦橋が、静まった。
数千の艦が、闇の中で、艦体に祈りの文字を灯して並んでいる。
攻撃の意図を隠すどころか、我らここにあり、と光で名乗っている。
帝国軍の教範のどこにも旧同盟軍の戦史のどこにもそんな軍隊は存在しなかった。
帝国の観測記録はその発光を名づけようもなく、ただ即物的に――〈光帯〉と記した。
「第三哨戒隊へ。警告を発しつつ距離を――」
言いかけた通信参謀の声に、観測員の絶叫が重なった。
「発光体、全艦、一斉に増光!」
光の粒が、いっせいに、燃え上がるように輝きを増した。
祈りの文字が、白熱して読めなくなる。
そしてきっかり七十秒後。
数千条の火線が、いっせいに闇を裂いた。
それらは別々の標的へ散らなかった。数千条の光は一点へ重なり、一本の巨大な光柱となって後方警戒隊を呑み込んだ。
『第三哨戒隊!第三哨戒隊、応答せよ!』
応答はなかった。
スクリーンの上にあった二百数十隻の輝点が、ほとんど同時に消えた。
第二射は七十秒後に来た。
増光から、また、きっかり七十秒。
今度は第二哨戒隊が光柱に呑まれた。
数秒後、そこにあった輝点はほとんど残っていなかった。
辺境警備隊を率いていたのは旧同盟軍との戦の時代からこの星域で戦ってきた、一人の老士官だった。
彼の最後の通信は悲鳴ではなかった。
沈みゆく艦から後続の隊へ送られた、律儀な警報である。
――次は第九。射角、右二三。増光から七十秒だ。散れ。
それが、最後の言葉だった。
「はかられたか……!」
ミッターマイヤーの副官が呻いた。
建国宣言の日。巡察の航路。警備の配置。
すべてが、この最初の一斉射のために、あらかじめ嵌め込まれていた。
そのとき旗艦の受信機が、ざり、と鳴った。
放送に、別の声が割り込んできたのである。
祈りの残響は止まらない。
その上に、粘りつく声が被さってきた。
『――よお、皇帝サマ』
たった一言で艦橋の温度が下がった。
『しばらくぶりだなぁ。……なあ?しばらくぶりだよなぁ?』
監査船の卓で、クラインの指が止まった。
旗艦の警護連絡席で、フェリックスが、ゆっくりと受信表示を振り返った。
知っている声だった。
二年前。名乗らない敵。
粘つく語尾に薄ら笑い。
録画の中で笑っていた、あの男。
『ああ、そういや名乗ってなかったっけかぁ。そうだそうだ、あんときは名乗れなくてよぉ。悪かったなぁ?』
『神聖黄金樹教国、第一聖団ベローナ艦隊司令。ヴィクトール・フォン・ラスバッハ。聖なる将軍サマだぜぇ』
声は心底楽しそうに笑った。
『二年前の夜からよぉ。……ずっと会いたかったぜぇ』
スクリーンの闇の中で数千の祈りの光が、また、いっせいに輝きを増し始めた。
***
【第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦ベルトルト シュタイガー】
戦場から遠く離れた後方宙域に、その艦はいた。
作戦司令室の正面には星図が広がり、マーロヴィア星域の盤面が、光の粒で刻々と描き変えられていく。
その盤を第一聖団の実戦指揮を執るオットフリート・シュタイガー聖将は腕を組んで見下ろしていた。
彼の背後には聖廉院の監察司祭が三人、記録具を膝に置いて座っている。
建国の初戦に、教団の目が同席していた。
開放回線から、ラスバッハの粘った声が流れてくる。
「ラスバッハ」
シュタイガーは盤から目を離さずに言った。
「回線は武器だ。玩具ではない。閉じろ」
『……へいへい』
声が消えた。
それだけだった。
「お見事な初撃にございます」
監察司祭の一人が言った。
「すべて、神託の予定のとおりに」
「は。恐悦にございます」
シュタイガーの返答は短く、温度がなかった。
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
第二撃は後方からではなく、右舷から来た。
「右舷警戒隊より入電!小型艦多数、岩塊帯より接近――駆逐艦級、数およそ四百!」
観測スクリーンに映し出された艦影を見て艦橋の空気が変わった。
古参の観測長が、掠れた声で言った。
「……叛乱軍、いやあれば同盟軍だ」
「なに」
「旧同盟軍の、標準型駆逐艦です。灰色に塗られていますが、間違いありません。艦首の観測槽、機関部の配置――私はこの艦影の識別を習いました。何度も撃ち合いました」
二十年余り前に消えた軍隊の艦が、闇の中から湧き出してきた。
「馬鹿な。同盟の艦隊は、冬バラ園の勅令の後の帝国編入協定で処分されたはずだ」
答えは艦橋からではなく、監査船から来た。
先任監査官の名で、作戦部へ短い照会文が届いたのである。
起案者の欄に、クライン・ヴァルター中尉の名があった。
――解体されたのは申告された船体のみ。未申告の係留地と部品単位の移管までは履行記録が追っていない。
ミッターマイヤー元帥はその一枚を読み、通信を開いた。
「ヴァルター中尉。記録側の見解を直接聞きたい」
『船体は旧同盟軍型です。ですが、機関の識別信号が新しい』
クラインの声は監査船から届いた。
『処分されたことになった艦の外装を使い、機関を組み直したものと推測されます』
「いつからだ」
『分かりません』
観測長が、続報を上げた。
「光帯本隊の艦種を再分析。駆逐艦だけではありません。大型艦が混じっています。……戦艦です」
一度、声が止まった。
「……旧同盟軍正規戦艦を多数確認。少なくとも百、いや数百。後方にも同型艦影――まだ増えています」
艦橋の誰も、すぐには言葉を返さなかった。
駆逐艦なら、隠せる。
輸送船なら、流用もできる。
だが戦艦は違う。
消滅した国の軍艦が、残骸ではなく、軍隊としてそこにいた。
帳簿の上で死んでいた軍隊が、いま帳簿の外から還ってきたのである。
還ってきた死者たちの戦い方は、旧同盟軍のものではなかった。
四百の駆逐艦は艦隊を組まなかった。
十隻、二十隻の小さな群れに割れ、岩塊帯に、廃材の吹き溜まりに、散った。
散ったまま仕掛けてこない。
警戒隊が追えば逃げ、追撃をやめれば、視界の縁にまた湧く。
そして――鐘が、鳴った。
通信帯にである。
祈りの流れ続ける開放回線に、突然、鐘の音が一つ、重く割り込んだ。
振り回すのではなく、舌だけを当てるような、単調な鳴りかただった。
答えは三十秒後に来た。
散っていた群れが、全部、いっせいに反転したのである。
十隻、二十隻の群れが、四方八方から、時刻を合わせて、船団外周の一点に殺到した。
『こちら第七哨戒隊、敵集中、敵集中! 全周から――多すぎる、射線が足りな――』
四百対三十の局所戦は数分で終わった。
群れは獲物を食い終えるとまた散った。
岩塊の陰へ廃材の海へ蜘蛛の子のように消えていく。
数分後、鐘がまた鳴り、今度は別の警戒隊が消えた。
だが、次に襲われたのは軍艦ではなかった。
「民間船団に敵影!救援物資輸送船、被弾!」
戦域図の後方で、別の輝点が次々に赤へ変わった。
「三番輸送船、主機停止!」
「行政監査船、推進器損傷。航行不能!」
「医療船一隻、姿勢制御不能!」
奇妙だった。
撃たれている。
だが沈められてはいない。
敵の小群は民間船の船腹を射抜かず、機関部や推進器へ短い射撃を加えては離れていく。船は死なない。ただ、その場から動けなくなる。
もちろん、すべてがそうではなかった。
「救援輸送船一隻、爆沈!」
「文官輸送船、反応消失!」
加減を誤ったのか。
最初から加減する気のない艦が混じっているのか。
それでも全体として見れば、民間船の狙われている場所は明らかだった。
機関。
推進器。
航法系。
船ではなく、船の脚を撃っている。
***
【第一聖団〈ベローナ〉艦隊旗艦 ラスバッハ】
「いいねぇ」
ラスバッハは戦域図に増えていく航行不能船の印を眺めていた。
「皇帝サマは民間人を置いて、自分だけお逃げになれるかねぇ」
副官のレーム聖一佐が報告を一枚見た。
「閣下。撃沈も出ています」
「あぁ?」
「民間輸送船三隻。文官船一隻。現在確認できているだけで四隻です」
ラスバッハは眉を上げた。
「そいつぁ気の毒だなぁ」
まるで他人事のように言った。
「ま、『付随的損害』ってやつだろ。これだから戦争ってのは嫌だよなぁ」
レームは何も言わなかった。
艦隊司祭が記録具から顔を上げた。
「ラスバッハ従聖将。民間船への攻撃は、神託からの逸脱として記録されます」
ラスバッハは戦域図から目を離さなかった。
「いやぁ、申し訳ねえ。しばらく戦争やってなかったもんで腕が鈍ってましてねぇ」
司祭は黙っている。
「軍艦だけ狙ってるんですがね。どうにも照準がそれちまう」
「意図的ではない、と」
「もちろん」
ラスバッハは笑った。
それから艦内回線を開いた。
「おーい、お前らぁ。絶対に民間船は撃つんじゃねぇぞぉー」
一拍置いた。
「絶対だぞぉ。神サマのバチが当たるってよぉ」
回線を閉じた。
艦隊司祭を振り返る。
「これでいいですかねぇ?」
艦隊司祭は何も言わず記録具に顔を落とした。
レームが横から小声で訊いた。
「このまま続けますか」
「続けろ。ただし落としすぎんなよ」
ラスバッハは航行不能になった船の印を指でなぞった。
口元が歪んだ。
「生きてるから拾いに来るんだろうが」
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
民間船からの救難信号が途切れず入っていた。
アレクは戦域図に増えていく航行不能船を見た。
「……何て連中だ」
ミッターマイヤーが頷いた。
「我々の脚を止めるためでしょう。救助を始めれば船団は遅くなる。見捨てれば、それまでです」
別の表示を開いた。
「ミュラーがすでに動いております。直衛の一部を民間船団の外側へ回し、航行不能船の収容を始めています」
アレクはその輝点を見た。
「任せよう。ミュラー元帥なら拾う」
「御意」
そのとき通信回線からクラインの声が入った。
『鐘です。あの鐘が、散った艦を一瞬で一つの艦隊に戻しています』
「通信を封じられんのか。あるいは偽の鐘を流すか」
『……効果は不明です。鐘そのものが命令ではない可能性があります』
「根拠は」
『集合までが速すぎます。鐘を聞いてから目標を選び、針路を計算した動きではありません』
クラインは一拍置いた。
『攻撃点も時刻も、あらかじめ決められている。鐘には命令の内容がない。行動計画の次の段階へ移ったことを、全艦が確かめるための合図――そう考えれば説明できます』
「仮説か」
『仮説です』
「よかろう」
ミッターマイヤーは戦域図へ向き直った。
「仕組みはあとでいい。周期を測れ」
『はい』
「次に鐘が鳴る時刻を出せ。原理はあとで考えればいい。……我々は分かる部分を使う」
ミッターマイヤーは戦域図から目を上げ、全艦通信を開かせた。
「――全軍に達する。宇宙艦隊司令長官、ウォルフガング・ミッターマイヤーである」
ミッターマイヤーの声が、船団の全艦を貫いた。
「現在ブリュンヒルトにある。当面、ここから私が任務群および護衛全隊の指揮を執る。各隊、現在の交戦を即時中止。個別の応戦を禁ずる」
艦橋の何人かが、耳を疑う顔をした。
応戦の禁止である。
外周ではいままさに味方が食われているさなかだった。
「敵の狩りはこちらの応戦を前提に組まれている」
ミッターマイヤーは戦域図の前に立った。
「見よ。敵は鐘で集まり、食い、散る。あの型が成立するのはこちらの各隊が持ち場に留まり、個別に応戦するからだ。一隊ずつ孤立してくれるなら、敵は何度でも多数対少数を作れる。ならば、こちらは一つの塊になる。外周を全部畳め。警戒隊、残存全艦、船団本隊へ収容。民間船団も全部中に入れろ」
「外周を捨てるのですか」
「捨てるのは宙域だ。艦と人は捨てん」
命令は速かった。
そこからの半時間、旗艦の艦橋は疾風の名の由来を目撃することになる。
散り散りの警戒隊残存、二十七隊。
悲鳴のような救援要請を上げるそれらに、ミッターマイヤーは一隊ずつ、退路と合流時刻を割り振っていった。
「第十二哨戒隊、現針路のまま四分待て。四分後に、貴隊を狙う斉射が回ってくる。その斉射の直後に転舵、岩塊帯の陰へ入れ。転舵は斉射の後だ、先にやるな」
「第九哨戒隊、貴隊の正面の群れは追ってこん。あれは貴隊を釘付けにする係だ。無視して抜けろ」
一隊、また一隊と外周の艦が本隊の壁の内側へ滑り込んでくる。
敵の型が一巡りする前に、味方全体の形が、変わり終えていた。
「……速い」
警護連絡席で、フェリックスが呟いた。
通信が輻輳するたび、彼は緊急艇の中継で警護艦との回線を継ぎながら父の采配から目を離せずにいた。
艦を速く走らせる話ではない。
判断と命令とその伝わり方が、速いのだ。
***
【ミュラー艦隊 旗艦パーツィバル】
外周を畳んだ船団は一個の球になった。
その球のいちばん外側の殻がミュラー艦隊である。
光帯の本隊が射程に入った。
七十秒刻みの斉射が、今度は警戒隊の残骸ではなくミュラー艦隊へ落ち始める。
艦隊は三層になっていた。
そして殻そのものがゆっくりと回っていた。
次に撃たれる区画へ戦艦を寄せ、重ねたバリアで斉射を受ける。
撃たれた区画はそのまま横へ流れていく。
同じ面を二度は続けて撃たせない。
深く傷ついた艦は内側へ下がる。
代わって敵の正面へ回ってくるのはまだ傷の浅い艦だった。
鉄壁、と人はこの提督を呼ぶ。
その名で誤解されがちだが彼の壁は厚いのではない。
沈まないのである。
ミュラー艦隊の壁はただ耐えるだけの壁でもなかった。
「収容艇隊、発進。座標リストの順に回収」
壁の内側から小艇の群れが吐き出されていく。
最初に向かったのは、ラスバッハの艦隊に脚を撃たれた民間船だった。
動ける船には進入針路だけを送り、そのまま壁の内側へ走らせる。
主機を失った船には曳航艇をつけた。
船体まで傷んだものは見切りが早かった。乗員だけを救難艇へ移し、船はその場に捨てる。
「医療船十二号、曳航開始」
「第五輸送船、乗員収容完了。船体放棄」
「行政船三隻、内周へ入りました」
一隻を救うのに一隻の軍艦を止めることはしない。
人を拾い、船を引き、動けるものから内側へ押し込んでいく。
その作業と並行して、小艇の一部はさきほどまで外周だった宙域へ向かった。
撃沈された警戒隊の漂流域である。
脱出ポッド。漂流する救命殻。機関の死んだ半壊の艦。
壁が七十秒ごとの斉射を受け止めている、まさにその背中で、小艇たちは漂流者を拾い上げていく。
「元帥。収容作業の分だけ、後退速度が落ちますが」
「知っている」
ミュラーは頷いた。
「速度は落とせ。……先帝陛下の御世から、私の仕事は変わらない。陛下をお守りすることと拾えるものを拾って退がること。この二つは私の中では同じ仕事だ」
拾って退く男は白髪の交じる歳になっても同じ仕事をしていた。
***
【第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦ベルトルト シュタイガー】
「シュタイガー司令。ベローナ艦隊が民間船を攻撃しています」
監察司祭の報告に、シュタイガーが顔を上げた。
「誰の命令だ」
「確認できません。ラスバッハ従聖将は誤射と説明しています」
シュタイガーは通信を開いた。
「ラスバッハ」
『おう、シュタイガー司令。盛り上がってきたところだぜぇ』
「民間船への射撃を直ちに中止しろ」
『いやぁ司令ぇ。だから誤射だって――』
「中止しろ」
声は変わらなかった。
『……へいへい』
「今すぐだ。全艦に伝えろ。聖団長命令だ。民間船を撃つな。軍艦だけを狙え」
『分かったよぉ』
「今すぐだ」
通信を切った。
***
救難艦の格納庫ではカーラが、漂流者の収容を回していた。
ミュラーの壁が拾い上げてくる救命ポッドを開けて、名を確かめ、担架へ移す。
名を言えない重傷者は認識票の番号で、仮に呼ばれた。
担架の列は傷の重さの順に、格納庫の奥から並べ直されていく。
並べ替えの指示は短く、二度は繰り返されなかった。
「番号はあとで名前に戻します」
記録係に、それだけ言った。
***
観測班は開戦からのすべての発射時刻を記録していた。
その記録簿の照合を監査船のクラインが申し出た。
数字の照合は監査の仕事である。
答えは日付の変わる前に出た。
斉射の間隔、七十・〇秒。
開戦から百三十一回。例外、なし。
コンマ一秒の揺れもなかった。
***
「観測記録は七十秒を示している。ヴァルター中尉の照合でも例外はない」
ミッターマイヤーはその数字を全艦へ配った。
回避と転舵の基準時刻としてである。
アレクは配られた数字の列を長く見ていた。
「敵は七十秒ごとに、同じことをする。だがこちらは七十秒ごとに違う答えを出さなければならない、ということか」
ミュラーがアレクを見た。
「御意にございます」
「なら、長く戦うほどこちらが不利になる」
「はい」
ミュラーは頷いた。
「ゆえに、勝とうとなさらぬことです。崩れる前に退きます」
作戦部の隅ではハインリヒが、危機対応案の頁を差し替え続けていた。
訪問星系ごとに用意していた撤収案の束から使える頁だけを抜き、現在位置に合わせて組み直す。
民間避難と軍事撤収の優先順位が、初めて演習ではなく埋まっていく。
「ミッターマイヤー元帥」
アレクは戦域図の前の男に言った。
「指揮は卿に委ねる。余からは二つだけだ」
「承ります」
「民間船を先に出せ。それから――艦隊を、余を守るためだけには使うな」
ミッターマイヤーは一瞬だけアレクを見た。
「御意」
異変は前方から来た。
「……おい。おい、嘘だろ」
トビアスは輸送管制の卓で、自分のスクリーンを二度見直した。
航路標識が消えている。
船団の退路――主航路の標識応答が、進行方向の先から順に一つずつ途絶していた。
併せて無人の通信中継局が三つ続けて沈黙している。
故障ではない。
偶然なら、こんな順番では消えない。
誰かが退路の灯を、船団の進む先から順に吹き消していっている。
この星域の航路標識は、ただの道案内ではない。
移動する岩塊群と重力場の変化を追い、安全な通過線を更新し続ける管制網である。
灯が消えれば、船団は動く岩の迷路の中で目を潰される。
そして――彼の頭の中で、報告書の数字が音を立てて意味に変わった。
航路の要所にだけ積み上がっていた、誰も引き取らない燃料。
あれは追う側が、追う道に先に置いた飯だった。
敵はこの航路を塞ぎに来たのではない。
この航路で、長く追うために来たのだ。
卓の横の綴りから、一枚の写しが覗いている。
回答欄の判が視界に入った。
所見なし。
「……はかりやがった」
トビアスは呻いた。
「この星域、まるごとはかりやがったんだ。こいつら」
***
十九分で、進行方向の標識応答がすべて途絶えた。
残ったのは、船団自身の航跡だけである。
「前方、艦影」
観測員の声が平坦だった。
「……展開しています。数、五千。訂正、一万。……訂正します」
そこで一度、止まった。
「数えるのをやめます。前方宙域の全周に、展開しています」
灯の消えた闇の奥に、新しい光が無数に灯り始めた。
蝋燭の色だった。
――「『卑怯者がローエングラム王朝において至尊の座を占めることは、けっしてない』。二十年前の戦場で、父はそのように帝国軍将兵に約束したそうだな」
次回、『開戦(中編)』